ひもろぎ逍遥

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新しい年表



目次を立てて、何度も手を加える。

ずっと浸っていた磐井の後の世界。

新しい年表を作った。
倭国の本当の歴史。
筑紫から見た歴史。

ほんのちょっぴり、時代を切り取っただけ。

だけど、魂で分かる。
真実を蘇らせてこそ、次に進める。


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(宮地岳)





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by lunabura | 2014-03-29 17:31 | にっき | Trackback | Comments(2)

はじまりの魂たち



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「ちくし」
何と心魅かれる言葉だろう。
「筑紫」

今、はじまりの魂たちが蘇り、はてしない思いに魅かれて、集いつつある。

懐かしい魂たち。

再び造るのだ。

その日まで、心に愛の灯を忘れずにいようぞ。






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by lunabura | 2014-03-27 14:11 | にっき | Trackback | Comments(4)

高良御子神社(6)ここも安曇族が祀っていた


高良御子神社(6)

ここも安曇族が祀っていた

まさか、ここでも安曇族に出会うとは。

それは『ふるさとの民話と伝説』(校区郷土研究会 会長豊福廣見編著)に
書かれていました。

1 高良御子神社祭神名のナゾ 井上 農夫
(前略)
 原始時代の海ジプシイ(漂泊民族)「わだつみ族」の族長安曇氏(あづみし)の氏人が、戦国時代の末期まで、この神社を守っていた。徳川時代になって、所在地の阿志岐村が高良山の神領から分離すると、高良神社の末社の地位から独立して、阿志岐村の鎮守社となった。
 この社の古い由緒は判らなくなってしまった。(後略)


たぶん数年前なら見逃していたでしょう。
安曇族。
戦国時代の末期までここを守っていたといいます。

高良玉垂命を竹内宿禰と決定したのは江戸時代でしたが、
その前まで安曇族が祀っていたということは、
この頃までは玉垂命が安曇の祖として祀られていた可能性が高いと思われます。

この安曇族を「海ジプシイ」と表現したのは、言い得て妙。
「くぐつ」とも呼ばれていたのがこの漂泊の民です。

「くぐ」とは「かやつり草」のことで、
これで編んだ籠を「くぐつ籠(こ)」と言ったそうです。
それに釣った魚やワカメを入れていました。
のちに「くぐつ籠」に、人形を入れて漂泊したことから、
漂泊する民は「くぐつ」と呼ばれるようになったそうです。

その人形(にんぎょう)とは神の人形で、それで呪術をしたり祓ったり、劇をしたり、
また、人形(ひとがた)として穢れを移したりしたといいます。


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傀儡子(くぐつ)  国指定 重要文化財 小犬丸 八幡古表神社

画像出典 吉富町 HP
http://www.town.yoshitomi.lg.jp/p/1/9/2/27/3/1/
物部膽咋とか、大伴武以が出ていますよ。
ガイドブックでもおなじみの人たちです。


「くぐつ舞」
それが、かの「筑紫舞」でもありました。

調べれば調べるほど、安曇族は倭(九州王朝)と繋がっていきます。
そして、竹内宿禰もまた九州王朝の礎(いしずえ)に繋がっていく予感がするのです。
そこには道真公も被さってくる。
竹と梅。そして松。
これは九州の古代王朝のシンボルでしょうか。

るなの心の古代の海では、
この高良山麓と宮地嶽神社(福津市)が竿さす小舟で繋がり始めています。
どちらも、安曇族、そして、磐井一族。
そして謎の竹内宿禰。

当社を安曇族がかつて祀っていながら、
いつ頃から竹のシンボルが掲げられるようになったのか、
その分岐点が分かれば、大きな飛躍が待っているようにも思えます。


地名の可能性はないか
さて、九躰皇子の話に戻りましょう。
初めてこの九人の名に出会った時、
  2 朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
  3 暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ・別名ユウヒトヨサカ) 
の二人の名に注目しました。
それは小郡市で聞いた「朝日山と夕日山」という言葉を思い出させたからです。

遠い記憶なので、間違っているのかもしれませんが、
小郡の平野で誰かが「朝日山と夕日山がある」と言ったのです。

朝日山は鳥栖に地名が現存しています。
夕日山は城山(じょんやま=花立山)だったかと記憶しているのですが、
心当たりの人に尋ねても、分かりませんでした。
思い込みだったのかも、知れないのですが、誰か知っていたら教えてください。

人の名前には地名が付くケースがあるのですが、
もし、「朝日」と「夕日」がその地名を指しているとすると、
もう一人、「安志奇」もまた地名の可能性があります。
この地そのものが阿志岐村です。

そして、阿志岐山城と名前が変えられてしまった大野城市の宮地岳の神籠石の記事で、
大宰府のアシキ氏が「中つ海」を巡行する船を司っていて、
その湊に阿志岐という地名が付いているのではという話になったのを思い出します。

荒船神社(3)蘆木氏は太宰府に直属していた
http://lunabura.exblog.jp/18419337/



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有明海の大きな干満の差を利用して船を漕ぐために、
船出の時間は月の満ち欠けに合わせて変化します。
多分毎日50分ほどずれていく。
船の通る時間を見ていると、空を見なくても川面を見ながら、
月の満ち欠けが分かったと真鍋大覚が伝えた話のエリアがここでもあるわけです。



宮地岳(大野城市)の麓から高良山~耳納連山がよく見えます。
そして、この阿志岐の高良御子神社からも宮地岳が見えると、くじらさんが教えてくれました。

九躰皇子の父は自分の子供たちに勢力範囲を治めさせた可能性はないかと考えています。
朝日山、夕日山、阿志岐、そして安楽寺(大宰府)
  8 安志奇ノ命神(アシキ)  
  9 安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


その支配する地域がこの高良御子神社から、また元宮の阿志岐山の頂上から
一望できたのではないでしょうか。


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この景色を思い出すたびに、そんな思いがするのです。
うっすらと宝満山が見えています。

(つづく)





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by lunabura | 2014-03-23 21:31 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(2)

高良御子神社(5) 「九躰皇子」と「竹内宿禰の九人の子」はどうなのだ?


高良御子神社(5)

「九躰皇子」と「竹内宿禰の九人の子」はどうなのだ?


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(高良御子神社から高良下宮社へ向かう神輿)

前回は当社にある「竹」のシンボルから、当社では九躰皇子の父・高良玉垂命は
竹内宿禰と暗示しているのではないかと推測しました。

「皇子」という表現からは父は「天皇」クラスの人と考えられていたことが伝わってきます。

竹内宿禰の時代は弥生末期から古墳時代にかけてと推測していますが
その当時、倭には数十以上の国が有り、その内の三十国が中国と直接外交取引をしていたと中国正史には書かれています。

それぞれのクニに王がいるのですから、竹内宿禰も当然「王」だったと考えられます。
竹内宿禰を祀る神社の分布の広がりから考えると、
北部九州で広範囲に影響力のあるクニの王だったと思われます。

後に天皇という名称が生まれるわけですが、仲哀天皇・神功皇后もまだ天皇でなくて
クニの王だった時代、この二人の筑紫行をサポートした人物が竹内宿禰でした。

高良玉垂宮に残る伝承からは、新羅戦の凱旋後、竹内宿禰はこの高良山に住んだことになっています。
神功皇后の妹・豊姫を妻としたのなら、二人の間に九人の子をなしたというのが、
自然の解釈となります。
これが真実かどうかは分かりません。

記紀からは竹内宿禰は近畿と九州を往復したという状況が伺え、
また神功皇后が皇太后になってからの摂政時代をもサポートしています。

そのようすは高天原で高木の神がアマテラスをサポートするようすとそっくりです。
この時点で、忌宮神社を奪還したのちの記紀は、捏造があるだろうと考えています。
神功皇后が百歳になるまで現役で政治をするのは無理だと思われるからです。

竹内宿禰も、さらに百年、二百年後にまで活躍した話となると、
るな探偵もさすがにお手上げです。

一方、『高良玉垂宮神秘書』では、神功皇后が九人を生んで、
父は仲哀天皇と物部保連なのですから、これはもう付いていけません。


神功皇后は高良山にやって来たという話もあるようですが、
まだそれを書いたものには直接出会っていません。

以上が、九躰皇子を考えるときの状況というか課題です。



そして、一度はやってみたかったこと。
それは九躰皇子と『古事記』の建内宿禰の九人の子との対照です。

九躰皇子って、ざっと見ると、全員男子です。
(高良大社の宝物殿での読み方は、九人目は姫とも読ませていたような)


1 斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
2 朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
3 暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  
4 渕志ノ命神(フチシ)
5 谿上ノ命神(タニガミ)、
6 那男美ノ命神(ナオミ)
7 坂本ノ命神(サカモト)  
8 安志奇ノ命神(アシキ)  
9 安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


これに対して『古事記』では建内宿禰の子は「七人が男子。二人が女子」と明記されています。

1 波多の八代の宿禰(波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖)
2 許勢の小柄(おから)の宿禰(許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖)
3 蘇賀の石河の宿禰(蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖)
4 平群の都久の宿禰(平群臣、佐和良臣、馬御機連らの祖)
5 木の角(つぬ)の宿禰(木臣、都奴臣、坂本臣の祖)
6 久米のマイト姫
7 ノノイロ姫
8 葛城の長江のソツビコ(玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣らの祖)
9 若子(わくご)の宿禰(江野財臣の祖)

対比すると一目瞭然。名前に共通がありません。
ただし、名前は実名が伝わっている訳ではないので、違っていても問題ありません。

一つ、どうしようもないのが、性の違いです。
これが乗り越えられるかどうかは、一つの山です。

そのために、両者を結び合わせる事を肯定する説と否定する説の両方が見られました。

るな的には、そもそも、『古事記』に書かれている九人の子が、
古代社会の豪族を殆どを網羅し、竹内宿禰がそれらの祖となっている点に対して、
捏造があるのではないかと疑っています。

でも、否定する資料もないので、そのまま話を進めています。
しかし、正直ずっとモヤモヤしたままなのです。
ただ、捏造だとしても、豪族たちが竹内宿禰の末裔であることにステイタスを求めている
という点は明らかで、竹内宿禰の存在の大きさを証明していているのは疑えません。

「『古事記』に書かれた九人」と「九躰皇子」は同一兄弟なのでしょうか。
違うのでしょうか。
今の段階では答えは出ません。


しかも、驚いたことに、この神社は安曇氏が守っていたというのです。

(つづく)







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by lunabura | 2014-03-21 23:39 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(6)

高良御子神社(4)九躰皇子の父は?


高良御子神社(4)

九躰皇子の父は?



斯礼賀志ノ命神(シレガシ)
朝日豊盛ノ命神(アサヒトヨサカリ)
暮日豊盛ノ命神(クレヒトヨサカリ)  
渕志ノ命神(フチシ)
谿上ノ命神(タニガミ)、
那男美ノ命神(ナオミ)
坂本ノ命神(サカモト)  
安志奇ノ命神(アシキ)  
安楽応宝秘ノ命神(アラオホビ)


この皇子たちの名が書かれていた境内の由緒書をもう一度読んでみましょう。

「起建」
高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇二十代允恭天皇の御宇(412~453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司孝成造立す。(古宝殿)
 四八代称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。
(後略) 平成八年春弥生 山川区郷土研究会


九躰皇子は「高良玉垂命の御子」と書かれています。
「阿志岐山上に社を」、と託宣を下されたのは「高良の神」です。

「高良玉垂命」と「高良の神」が別神である件については久留米地名研究会で話しました。
このブログでも、また拙著『神功皇后伝承を歩く上』でも書いています。

不思議に立て続けに出会った志式神社神楽と高良大社絵巻縁起。
これを突き合わせると、「玉をつかさどって与える神」(玉垂命)とは海神のことでした。

「玉垂命」とは「安曇磯良神と、その奉斎する海神」。
「玉垂」の「玉」とは干珠満珠。
それを求めたのが「高良の神」=「竹内宿禰」となる事を紹介しました。

その後、「高良玉垂命」と「高良の神」は混同されていきます。
そして時代が変遷し、『高良玉垂宮神秘書』になると、高良大菩薩という仏名で
物部保連(やすつら)、住吉の底筒男神の名が出てきます。

『高良玉垂宮神秘書』では九躰皇子の母は神功皇后。
父は仲哀天皇と高良大菩薩となっています。
この場合の高良大菩薩は底筒男神、すなわち住吉神、そして物部保連です。

以上が、このブログで調べた状況です。


さて、当社の縁起に戻りましょう。
九躰皇子を祀るようにという神託があったのが412~453年頃のことです。

この時代、つまり五世紀の人は高良玉垂命を誰だと考えていたのか、
これをまず理解しなくてはなりません。

1 海神(綿津見の三神)と安曇磯良
2 竹内宿禰
3 物部保連あるいは住吉神

この三人の誰か。
これを知る方法はあるのでしょうか。



まず、社殿に遺されたシンボル。それは「竹」でした。

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これは本殿の裏にある彫り物。中央に竹が緑で彩色されています。


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こちらは本殿正面、両の柱に笹竹が掲げられています。
写真を見直していた時、初めはいったい何だろうと思いました。
竹の葉は一日でチリチリに枯れるので、祭日の夕方にはこうなったのでしょう。
竹が祀られている社殿を見るのは初めてです。

結果、「高良御子神社」のシンボルは「竹」。
そうすると、「竹内宿禰」の一族だということを暗示していると思われます。


一般に武内宿禰と書かれる名を、私は「竹内宿禰」と書いています。
ガイドブックの時も、書き分けが大変でした。

『日本書紀』なら武内宿禰。『古事記』なら建内宿禰。
そして、各神社の書き方。
そのうえ綾杉説の竹内宿禰なんですから。

でも、原型に遡ることは、シンボルを理解しやすくさせてくれます。
「竹」の笛。音楽。
これが竹内一族の側面なんですね。


当社に「竹」が残されているということは、九躰皇子の父は「竹内宿禰」だと暗示していると思われます。
また、皇子という表記は帝の子という主張も見られます。

「たけしうちすくね」という実名の伝わらない人物は王朝の帝だったのでしょうか。
もしかしたら、その名は「シキハム」だったのかも知れない。
それは織幡宮(祭神武内宿禰)を「シキハムさま」と呼んでいることから推測しています。

(つづく)








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by lunabura | 2014-03-19 23:41 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(8)

高良御子神社(3)坂本神社


高良御子神社(3)

坂本神社



もう少し、境内の神々を確認することにしました。

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一の鳥居には「王子宮」と書かれていますが、二の鳥居には「坂本神社」と書かれています。

これについて境内には由緒書がありました。

東坂本社 櫛岩窓命
西坂本社 豊岩窓命
注=両祭神は、太玉命の御子で「殿(みかど)」を守衛(まも)る神、即ち高良参道入口の守護神である。


これって、何だかすごい事、書いてませんか?
「殿(みかど)」と書いていますよ。
東西の坂本神社は高良参道入口の守護神とあります。

これを素直に読めば、高良山には「みかど」が住んでいたという事になります。

「高良参道の入口」と書いてあるので、最初は現在の参道をイメージしたのですが、
そうではないのが「高良御子神社由来記」で分かりました。

「阿志岐村は古代高良の三口(登口)の一つで(耳納・阿志岐・高良内)、其の内でも高良大社の北側に位置し、尤も(もっとも)重要な所であった。
大宰府を立って筑後川を渡り、野口を過ぎ、神米畷(くまめなわち)を通り、栗林をすぎて、阿志岐坂を登り、高良社へ至る古道である。


この栗林の所に両坂本神社があったと書かれています。
栗林はJR御井駅付近に当たります。

また、神代(くましろ)の渡しには神代家がいてそこを固めていたそうです。
今は神代橋がある所でしょうか。

地図



こうして、航空写真を見ると、阿志岐が北の門だったのがよく分かります。
(写真と普通地図とクリックで変化します)


境内の説明板、さらに書き写します。(中略)
神社調帳 (明治八年)(1875)高良大社臓
祭神 櫛岩窓命 
末社 素盞嗚社 祭神 素盞嗚命
同  佐田社  祭神 猿田彦命
同  八柱社  祭神 高良玉垂命・外七柱
注=八柱社は元治二年(1865)建立

祭神 豊岩窓命
末社 隼鷹天神社 祭神 高皇産霊神
同  石川宿弥社 祭神 不詳
注=境内に佐屋神大明神の石碑あり。

明治四十三年九月二十六日 郡役所の勧誘により、王子山596-1 高良御子神社境内に、全末社とも移転遷座す。
現在、王子宮境内に祭祀してある坂本神社の社殿は一つだが、正面祭壇上に素木の厨子が二つ並んでいる。それが東西坂本本社のご神体である。 中央に不明のご神体一柱あり。(後略)


両坂本神社は明治43年に当宮に遷宮したのが分かりました。
これを見ていると、末社の方に大変興味をそそられます。

櫛岩窓命の東坂本神社の方の佐田社は当社ではサルタヒコですが、
安心院の佐田神社は武内宿禰だったことを思い出します。
そして、当末社には高良玉垂命も祀られています。

一方、豊岩窓命の西坂本神社の方にはあの隼鷹天神社があります。
祭神 高皇産霊神(たかみむずび)。
そう、高良の神によって、高良山の麓に追いやられた高木の神です。
のちに仲哀天皇に祟りました。(御勢大霊石神社・隼鷹神社・高樹神社参照)

それと並ぶ神社が石川宿弥社。祭神は不詳となっていますが、
竹内宿禰の第三子・蘇我の石河宿禰を連想してしまいます。

これらは末社ということなので、栗林地区の人々に密着した神々ということでしょう。
古代の様子を探るのに何か手掛かりを示してくれそうな祭神の組み合わせでした。



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これは王子宮の本殿の右手の社殿です。

これが両坂本神社の社殿と思われるのですが、未確認です。
参拝された方、確認して教えてください。

さあ、これで周囲の状況が少し分かりました。
いよいよ本題に取り掛かる時が来たようです。

(つづく)






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by lunabura | 2014-03-18 22:41 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(0)

八所宮と高良御子神社 こんな共時性も


八所宮と高良御子神社

こんな共時性も


昨日は八所宮を参拝して、思いがけず鐘の話を聞くことになりました。

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(八所宮)

縁起は少しずつ活字化しているのですが、
墨書きされた「豊斟渟尊」の漢字を確認するために『日本書紀』を見ると、
冒頭の第一巻・神代上にその神名が出てきました。

コメントで指摘がありましたが、八所宮の縁起は『日本書紀』と対応しているようです。

『日本書紀』を書いた人は何冊もの書物を並べて、比較しながらどれを採用するか
考えたらしく、採用しなかった書物も「一書にいわく」と書いて、並べて紹介してくれています。

ですから、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)一つとっても、いろんな表記が書かれています。
これが『日本書紀』のスタイルです。

そして、八所宮の縁起はその一柱(ひとはしら)ずつが詳しく説明されています。
『日本書紀』が神名を並べただけなのと比べると、その点が大きな違いです。


で、ですね。

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(高良御子神社)

その後、くじらさんが送ってくれた「高良御子神社由来記」を読んでいたら、八所宮の神名が出て来たんです。

たとえば、次の神です。
    元気水徳の神
    一徳元水の神
    元気火徳の神
しかも、八所宮縁起には読み仮名がついていないのですが、
高良御子神社由来記の方には読み仮名がついているので、大助かりです。

こんなタイミング有る?
神さまが教えてくれた ^^としか考えられない。

その名は『日本書紀』には、書かれていないようなので、
八所宮の縁起を知らないと書けない可能性があります。
あるいは、上記の神は昔の人にとっては常識だったのでしょうか。

八所宮縁起を書き写したすぐ後に読んだ高良御子神社由来記。
オドロキのタイミングです。
この共時性はまた、新たな古代世界を展開してくれるのでしょうか。

今、記事を書くのに、あちこち飛んでいるのも、意味があったのだなあと思いました。

八所宮の縁起には御勢大霊石神社(みせたいれいせき)の名も出てきます。
当ブログではおなじみの神社ですが、どうしてその名が出てくるのか、
この謎も、この先、明らかになればと思っています。


さあて、今日の記事のカテゴリ、「八所宮」か「高良御子神社」か、どっちにしよう。
そうだ、空さん、二つ出してたなあ。
私も真似しよう。
同じ記事をカテゴリを変えて二度UPします。^^






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by lunabura | 2014-03-17 21:30 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(0)

八所宮と高良御子神社 こんな共時性も


八所宮と高良御子神社

こんな共時性も


昨日は八所宮を参拝して、思いがけず鐘の話を聞くことになりました。

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(八所宮)

縁起は少しずつ活字化しているのですが、
墨書きされた「豊斟渟尊」の漢字を確認するために『日本書紀』を見ると、
冒頭の第一巻・神代上にその神名が出てきました。

コメントで指摘がありましたが、八所宮の縁起は『日本書紀』と対応しているようです。

『日本書紀』を書いた人は何冊もの書物を並べて、比較しながらどれを採用するか
考えたらしく、採用しなかった書物も「一書にいわく」と書いて、並べて紹介してくれています。

ですから、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)一つとっても、いろんな表記が書かれています。
これが『日本書紀』のスタイルです。

そして、八所宮の縁起はその一柱(ひとはしら)ずつが詳しく説明されています。
『日本書紀』が神名を並べただけなのと比べると、その点が大きな違いです。


で、ですね。

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(高良御子神社)

その後、くじらさんが送ってくれた「高良御子神社由来記」を読んでいたら、八所宮の神名が出て来たんです。

たとえば、次の神です。
    元気水徳の神
    一徳元水の神
    元気火徳の神
しかも、八所宮縁起には読み仮名がついていないのですが、
高良御子神社由来記の方には読み仮名がついているので、大助かりです。

こんなタイミング有る?
神さまが教えてくれた ^^としか考えられない。

その名は『日本書紀』には、書かれていないようなので、
八所宮の縁起を知らないと書けない可能性があります。
あるいは、上記の神は昔の人にとっては常識だったのでしょうか。

八所宮縁起を書き写したすぐ後に読んだ高良御子神社由来記。
オドロキのタイミングです。
この共時性はまた、新たな古代世界を展開してくれるのでしょうか。

今、記事を書くのに、あちこち飛んでいるのも、意味があったのだなあと思いました。

八所宮の縁起には御勢大霊石神社(みせたいれいせき)の名も出てきます。
当ブログではおなじみの神社ですが、どうしてその名が出てくるのか、
この謎も、この先、明らかになればと思っています。


さあて、今日の記事のカテゴリ、「八所宮」か「高良御子神社」か、どっちにしよう。
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by lunabura | 2014-03-17 21:27 | 八所宮・はっしょ・宗像市 | Trackback | Comments(0)

八所宮・秀吉に持ち去られた鐘


八所宮

秀吉に持ち去られた鐘


今日は八所宮(はっしょぐう)に参拝しました。

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これは今から600年ほど前に、当宮の氏子たちが費用を出し合って、
遠賀郡の芦屋で鋳造してもらった鐘だそうです。



しかし、天正五年(1587)に豊臣秀吉が持ち去って、広島の厳島神社に奉納したそうです。

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氏子さんたちはその鐘の返還を切望して、昭和59年に400年ぶりにようやく里帰りしました。
しかし、あいにく数年前、手続き上の問題から厳島神社に再び去ってしまいました。

冒頭の写真は2009年に当宮で撮影したものです。
「八所大明神」と彫られたのがくっきりと見えます。

現在、からっぽになった堂には氏子さんによって写真が奉納されています。


今日、境内で氏子さんにお会い出来て、
ちょうど、この複製が芦屋で造られているのを今から見に行くところなので、
一緒にどうですか、と誘っていただいたので、便乗させていただきました。




遠賀郡芦屋町山鹿1558-3に「芦屋釜の里」という施設があります。


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江戸時代に絶えた芦屋釜を復興させて、工房と展示場が公開されています。


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ここで平成20年に八所宮と同じものが古代の技法で再現されていました。

レプリカにならないために、サイズが一回り小さくなり、彫られた文字も変えてあります。

実際に鐘を鳴らすことも出来ました。
深い音色で、心地よい響きです。

この時の再現の状況をすぐ隣のビデオで見ることができます。



600年前、氏子さんたちが子供を奉公に出してまで工面して奉納した祈りの鐘。
秀吉が持ち去ってしまいましたが、鐘は何処にあるのが一番ふさわしいのか、
考えさせられる一日でした。



八所宮 芦屋釜の里









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by lunabura | 2014-03-16 20:45 | 八所宮・はっしょ・宗像市 | Trackback | Comments(0)

高良御子神社(2)花火動乱蜂


高良御子神社(2)

花火動乱蜂


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ここは王子池。
高良御子神社の裏手から登った所にあります。

話によると、ここで動乱蜂(どうらんばち)という花火があげられるそうです。
動乱蜂。
名前だけは知っていたのですが、思いがけない場所で行われていました。
残念ながら、訪れた年は土砂崩れのために祭が出来なかったそうです。


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湖の左端の白い砂地が土砂崩れの跡です。
その右手に階段が見えます。(ススキの穂の先の直線が石段です)
な、長い。長すぎる。
その上が古宝殿だそうです。
なるほど、麓に遷宮するのもうなずけます。

ネットで調べると、花火動乱蜂の動画がありました。
花火というより大砲!古い形が伝わっているんですね。

この動乱蜂を催行する神社名は「王子若宮八幡宮」となっていました。
何処にある神社だろうと動画を見ていると、この「高良御子神社」が写っていました。

「王子若宮八幡宮」という社号からは応神天皇や仁徳天皇を連想してしまいます。
とても、「高良御子神社」と同じ神社とは思えません。




そこで、再び高良御子神社の境内へ降りてみましょう。

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境内の左手に「花火動乱蜂」の石碑があり、その横に一つの石と二つの石祠がありました。


王子若宮八幡宮
赤い垂幕の祠が「王子若宮八幡宮」でした!
祭神は仁徳天皇です。

小祠建立 天保十有五歳申辰春三月吉祥日
由来=三百数十年前本村区では、毎年九月十五日若宮八幡宮の例祭に素朴な花火行事を奉納していたが、天保の頃、有馬藩砲術指南役古川辰之進氏が花火動乱蜂の製法を創案完成し、代々住民にその秘伝製法をおしえ現在にいたっている。

「本村区」で奉納されていたとあるので、を地図で確認すると、当地の集落のことでした。

この社伝によると、天保の時、ここに小詞を建立して祭祀が始まったようですね。
それまでは、素朴な花火行事を奉納していたとありますが、
祭日が9月15日なので、旧の盆だったのでしょうか。

そこに古川辰之進が赴任(?)して来て、動乱蜂を造ったということです。
砲術指南役だったということなので、あの動乱蜂はやっぱり大砲だったんですね。


太神宮
上の写真の右手の石祠は太神宮と書かれています。
祭神 天照大神
小祠建立 天保十有五歳 申辰春三月吉祥日


これによって、左右の祠は同時に建立されたのが分かりました。



恵比須神

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動乱蜂の石碑のすぐ後ろの神体石は「恵比須神」と書かれています。

祭神 少名彦神(古川家守護神)
注=もと古川屋敷神として祭祀あるのを道路拡張のため高良御子神社境内に移転
遷座 以上本村区にて運営・管理 
平成十四年十月吉日 山川校区郷土研究会建之


古川家の守護神と書かれていますが、出雲系の神でした。



天満神社

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これは天満神社。

天満神社
天満宮(長園より引移)以後 神社調帳による
祭神菅原神(本村区氏神)
小祠建立 明治二十九年十一月上旬建之
注=何時の頃 当地に遷座ありしか不明


道真公です。こちらが当区の氏神さまですね。
そして、冶金の神様でもある。

道真公を祀る集落に少彦名神を守護神とする古川家がやって来て大砲を開発して技法を伝えた。
その時、天照大神と仁徳天皇を祀るようになったようです。

新しい技法を受け入れる技術がここには、もともとあった事を意味します。
ここは古くから武器製造を受け持った集落だったのではないでしょうか。

その上、ここには高良玉垂神の九躰皇子が祀られている。
そこに、高良山の神輿はやって来るというストーリーになります。

境内には、もう少し手掛かりがありました。

(つづく)








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by lunabura | 2014-03-15 22:51 | 高良御子神社 | Trackback | Comments(0)
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