ひもろぎ逍遥

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竹内宿禰と高良山


竹内宿禰と高良山


『高良山雑記』には竹内宿禰のことも書かれていました。
るなと同じ説を発見!

① 下宮と上宮 
玉垂宮は下宮が先に祭られ、上宮は後に祭られたもので、中古より玉垂宮を武内宿禰とするのは誤りである。

民部省図帳残編に「天平年中、武内宿禰・荒木田襲津彦を祭って相殿とす」とあり、山城八幡にも「上の高良、下の高良」の二社がある。上高良は玉垂、下の高良は武内宿禰といえば別神であること疑いなし(矢野一貞説)。


おっ、また矢野一貞さん。気が合いますね。
「高良玉垂命と高良の神は別神なり」という、るな説と同じです。

るな的手法は、志式神社(福岡市)の神楽と高良大社の縁起を比較したもので、
その結果、「高良玉垂命」とは「海神とそれを奉斎する安曇磯良神」で、
「高良の神」とは「竹内宿禰」となりました。

そして、下宮社のかつての祭神が「高良玉垂命・武内宿禰・物部胆咋命」
となって、「高良玉垂命」と「武内宿禰」は別存在となっていることが、
その証しだとガイドブックでも述べています。

本当の気持ちを言えば、玉垂命には「海神・豊玉彦」の名も入れたかったのですが、
今回は見送りました。

安曇族の祀る神には「綿津見の神、豊玉彦、磯良神」が含まれています。
実は「豊玉彦」とは隠された神ではないかという思いがずっとしています。

糸島辺りを逍遥した時、それに触れた思いがしたのですが、その時に取り上げなかったので、
そのサインは「うたかた」のように消えてしまいました。

豊玉彦と豊玉姫の親子神。
いったいどうして隠されているのだろう。

ここに、陸に上がった安曇族が放浪する謎が隠されているように思われるのです。
神武天皇よりさらに遡った時代なので、見えにくいです。
でも、神功皇后の時代があれほどクリアに捉えられるとは思っていなかったので、
豊玉彦の時代も、もしかしたら、少しは描き出せる日が来るかもしれませんね。

さて、竹内宿禰に話題を戻しましょう。

竹内宿禰の墓所
『高良山雑記』にはその墓のことが書かれていました。
武内宿禰の墓 
武内宿禰の墓は大和葛城郡室という所に在り、武内の墓の傍に一つ倍塚があり「猫塚」と言う。これは武内宿禰が弟の讒言(ざんげん)に遭った時、身代りに死んだ壱岐の真猫の墓であろうと思う。云々(増田于信氏説)。 真猫の墓は早良郡生松原にも在り、猫塚と称す、そこに祀ったのが猫天神である。

高良山毘沙門に在る古墓は宿禰の墓と伝ふ(久留米志)。


二つの墓が書かれています。
一つは大和葛城軍室。ネットで調べると出てきました。

室大墓古墳(むろのおおばかこふん)は、奈良県御所市大字室に所在する古墳時代
中期前半の前方後円墳である。「宮山(みややま)古墳」、「室宮山古墳」ともいう。1921
年(大正10年)3月3日国の史跡に指定される。(wikipedia)


被葬者の候補に葛城襲津彦や竹内宿禰の名が出ています。
②の増田于信氏の説はこれを指しているのでしょう。
倍塚はあるのでしょうか。「真猫」って真根子のこととはビックリ。 (@_@;)

竹内宿禰の墓の二つ目の説は高良山の毘沙門にある墓だそうです。
毘沙門堂は奥の院にあるそうですから、そこに竹内宿禰の墓があるということでしょうか。

御霊(みたま)を祀る所

本体所 
「大祝家の宅地内に武内宿禰の霊を斉き祭る所を本体所と言う」と、高良玉垂神社々伝に在ると言う。
大祝家の邸宅内にその御霊が祀られていました。
当家は竹内宿禰の末裔だと言っていましたね。
今は高速道路の下。
その後、どうなったでしょうか。

④御廟と御本体 
御廟は高良神の尾靴を埋め、御本体には装束を埋めたとの説あり。又、大臣は美濃山を通行して大和に上られたとの説あり。


「高良神」も「大臣」も竹内宿禰のことですね。
これによると、墓には靴を、本体所には装束を埋めて、「しるし」としたのかも知れません。
美濃山とは耳納山のことでしょう。豊前方面に出て近畿に行ったということでしょうか。

宗像の織幡神社に和魂(にぎみたま)と荒魂が祀られていることも追記しておきましょう。

もちろん、高良大社の祭神は江戸時代より武内宿禰となっています。


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by lunabura | 2014-04-29 21:37 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良内(こうらうち)


高良内


高良内。こうらうち。
これは高良山と明星山の間の川が作りだす扇状地付近の地名です。

ずっと前に「ウチ考」シリーズを書いて、
古田武彦氏の「内野=飯塚市」を探しに行ったことがありました。
(タグ<ウチ考>を開くとシリーズで読めます)

その近くには黒田藩の狩場があって魅力的な説でしたが、
残念ながら「内野」という地名は江戸時代からのものという事が分かりました。

その「内野宿」の代官様はこの方。モコミチ。もとい、母里太兵衛でした。

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母里太兵衛は名前が変わりますが、福岡にやって来て内野宿の建設に関わりました。

急に身近になりましたなあ。
お墓も嘉麻市鱗翁寺と書かれています。



さて、実は内野を探しながら、るなの心にあった「内の大野」は「高良内」でした。
ついに、この課題に取り組む時が来ました。



ところで、何が課題だったのか、かなり忘れたので、自分で読み直しました。(+_+)
(磯良の海さん、このシリーズは土師や野見の宿禰話題が沢山出てますよ)

次が話題となった万葉集の長歌です。自分のブログから引用してきました。


        ※※

2か所ほど古田氏と違っていますが、私なりに万葉歌を楽しんで訳してみました。
左が古田氏の書き下しで、右が私の口語訳です。
天皇 宇智の野に 遊猟(みかり)したまふ時、  天皇が内の野で狩をされるとき、
中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして 中皇命が間人連老に、献上するように
献(たてまつ)らしめたまふ歌          命じられて作った歌

やすみしし わが大王(おおきみ)の      八方を治める私の大王(天皇)がお仕えする
朝(みかど)には とり撫(な)でたまひ     朝廷―中皇命が 朝には撫でるように手入れされ、
夕(きさき)には い倚(よ)り立たしし      夕方には 寄りかかって立たれる
御執(みと)らしの 梓の弓の          手にされた 弩弓の
中弭(なかはず)の 音すなり          引き金の音がする
朝猟(あさかり)に 今立たすらし        朝狩に 今、立たれるらしい
暮猟(ゆふかり)に 今立たすらし       夕狩に 今、立たれるらしい
御執らしの 梓の弓の              手に取られた 弩弓の
中弭の 音すなり                 引き金の音が聞こえて来る

反歌                     反歌
たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて    内の大野に 馬を並べて
朝踏ますらむ その草深野            朝 踏み分けて走る 草深い野よ

(第一巻 第3・第4番)

      
       ※※
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この現場が飯塚市内野だという古田説を確認しに行ったのが、「ウチ考」です。

ところが、「たまきはる 内」という上の句を見て、るなにはある人物が思い浮かんでいました。

そう、竹内宿禰です。
古歌で「たまきはる内の大臣」と言えば竹内宿禰の事だからです。

「内野」という地名は日本各地にあるのですが、
竹内宿禰に関わる「内」なら「高良内」ではないかと推理していました。

それは「高良の神=竹内宿禰」だからです。

いつか現地調査をしたいと思っていましたが、なんと、『高良山雑記』に
るなと同じ説が書かれていました!
一部、考えが違うのですが、それはのちほど。
訳します。


地名の由来 
(略)矢野一貞はその著『筑後将士軍談』に、「高良内」は元来、高良山の一部で、「内」は武内宿禰の采邑であった大和国「宇智」鄕より起り、一ノ岳二ノ岳の内という意義であろうと説いている。(①)

其の所説は、
 昔、高良山と言ったのは今の社地より広く、高良内の諸山をかけた惣名であっただろう。その証明として、『肥前風土記』に「高羅山を梶山とす」と書かれた梶山は当山東北の方に当る山に其の名が遺っている。

この山は箕尾より山脈を発して高良内村に属している。今、鍛冶山と書くのは訓読が通じるので、そのまま訛って来たのだ。正しく梶山の遺名であることは論ずる間もない。(②)

『鈔』に「鍛治は鍛冶の誤りである」というが、カヂの仮字ではないか。カナウチを切りつめてカヌチと言ったのを又、略してカチとも言ったのだろう。

当時の名称は神領が他領となって別れた頃よりのことだろう。しかし、なお旧名を村名に呼んで高良内と言ったのだろう。

「内」とは如何なる意味だろうか。思いつかない。しいて言えば、これも武内宿禰の「内」に由緒があったと思われる。

それは大臣を武ノ内と言い、弟を味内(うましうち)と言うことから考えられる。「内」は大和国宇智鄕より起こった。この鄕は大臣の采邑であったことは、先哲も論じていた。(③)

又、一ノ岳二ノ岳の内という意味で言われたのであろう。(略)
一ノ岳と言うのが即ちこの岳(明星山)で、二ノ岳と云うのが今の高良山に違いない。云々。(④)
これが矢野一貞の高良内村名の考証論である。(高良内管見)



①「内」は武内宿禰の采邑であった大和国「宇智」鄕より起り

とありますが、竹内宿禰の根拠地は筑紫から肥前に掛けてですから、
大和国「宇智」鄕は移動した後の邑と考えられます。

しかし、江戸時代にはすでに発祥は近畿と考えられていたのでしょうね。
これがるな説が矢野一貞とは違っている所です。



②この山は箕尾より山脈を発して高良内村に属している

「箕尾」は「みのお」と読めるので、耳納山(みのうさん)のことだと思われます。
耳納山脈の西の果てに高良山があり、高良内に続きます。



③それは大臣を武ノ内と言い、弟を味内(うましうち)と言うことから考えられる。

これはるなの発想と全く同じですね。

二人は異母兄弟で、のちに争う事になりますが、「ウチ家」という有力豪族があって、
天皇家を支えていたと考えています。

玉垂宮を調べていて、この兄弟を祀っている神社が八女にありました。
争った二人一緒なので、ちょっと不思議な感じがしました。
でも、父母も一緒なのです。

もし、ウチ家の根拠地がここらへんにあるのなら、不思議ではなくなります。
「玉垂神社」。鎮座地は「八女郡水田村井田字宮ノ??」という所です。
地名が変化して分かりませんでした。
地元の方、是非教えてください。
そこには玉垂命の神社がいくつもありました。



④一ノ岳と言うのが即ちこの岳(明星山)で、二ノ岳と云うのが今の高良山に違いない。

これは重要情報ですね。
明星山を一ノ岳と呼ぶのは、八女の方からの発想です。
つまり、中心は八女にあったということになります。

筑後川の氾濫と潟の広がりを考えると、久留米市あたりは古代は住みづらく、
八女の丘陵地帯の方が安定して生活できたのでしょう。

その八女から見て北部に開けた扇状地で、
ウチ家の軍勢が軍事訓練をしていたのではないでしょうか。

もちろん磐井の時代にも。

そして、現在、高良内には陸上自衛隊があるのです。
軍事的に重要な所はいつの時代も同じですね。

多分、その地下には多くの遺跡が眠っているのではないかと想像しています。
神社があれば、少しは状況が分かるかも知れないなあ。


地図 久留米市高良内





お、「地図」を見たら「内野」もありますね。








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by lunabura | 2014-04-28 21:16 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(6)

古代の神々と私たち



昨日は「オーガニック ひふみ」さんで、神功皇后の伝承をお話ししました。
皆さん、とても集中して聞いてくださってありがとうございました。

東京からも来ていただいた方があって、感動。

お話し会のあと、交流会がありました。
自己紹介があったのですが、皆さん、それぞれが
出会いと行動力で人生を切り開いてありました。

植物の話が分かる方。
宇宙語が話せる方。
神の拠り代となって歌を奏でる方。
志賀島の海藻でせっけんを作っている方。
ヘンプでアクセサリーを作る方。
カバラを習得している方。
巨石が好きな方。
自宅から古代遺跡が出た方。
太宰府の風水を研究している方。
磯良にはまった方。
神さまに遣われてあちこち飛び回っている方。
龍のことで動いている方。
宗像神社の高宮でスイッチが入ってしまった方。
香椎宮の綾杉が好きな方。
などなど。

どの方もそれぞれ、自分の思いを大切にして人生を歩んでいらっしゃいました。
一人ひとりとお会いして、もっとお話が聞きたかったです。

実は、こんなスタイルのお話会がしたかったのです。
古代の神々の話をして、後半は、皆さんに起っている事をフリートークするという会です。

思いがけず、それが実現しました。

今回、交流会のお蔭で分かった、皆さんに起っている話の一部を書き出すとこんな感じです。

古代の人々の暮らしの側には食べられる草が集中して生えていること。
行き先々で神功皇后伝承に巡り合って、このブログに到達した方。

天の忍穂耳命、高木の神、三女神などの縁で動かされている方々。
ユダヤと日本―東西を繋ぐ方。
陰と陽のバランスを取る方。

イエローストーンとペレと富士山の鎮めの為に動いている方。
神々の所望に応じて日本中で歌を奉納して、チベット、バリなどに拡大しつつある方。

みなさん、それぞれ自分の前に提示されたミッションを感じ取り、実行してありました。

これらを俯瞰すると、今、日本がどのような状況にあるのかが見えてきます。
私たちはそれぞれが、目の前の事に取りかかればいいのだという事も確認できました。

自分の好奇心を満たすことを、ワクワクしながら行動すること。
それが自然と地球や神々と繋がる仕組みになっているんだと思いました。

神々の世界は広範囲で多次元なので、それぞれ取り組む課題が違っていて、
当然なのですね。

今、神や女神の事、あるいは神社に関心がある方は、
心魅かれる神社に参拝し、祭神を知り、心を澄ましてその神気に触れること。
その行動が次のステップへと導いてくれるだろうと思いました。

それぞれが古代の神と繋がらねばならないと言う方もいました。

検索するうちにこのブログに出会ったという方も多かったのですが、
多分、こうして読んでいて下さる方も、きっと古代の神々との御縁を感じてあるのでしょう。

今、古代の神々が浮上しつつある。
そして、安曇族も。

書き換えられてしまった歴史・神々の真実の姿を取り戻すことは、
今を生きる私たちの課題でもあるんですね。

このブログも、マニアックな古代史に踏み込まねばならないのでしょうが、
それが皆さんの手助けになっていることを知って勇気が出ました。

少しずつ紐解きながら古代を逍遥し続けようと思います。

このお話し会を企画して下さったひふみさん、スタッフさんありがとうございました。
スクリーンとプロジェクタを準備して下さったミクロウェーブさん、ありがとうございました。

そしてシェアしてくださった皆さまにも、ありがとうございました。




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by lunabura | 2014-04-27 20:07 | にっき | Trackback | Comments(4)

訂正とお詫び



2014年2月に出版した『神功皇后伝承を歩く 上』(初版) 綾杉るな 不知火書房出版
の写真説明に誤りがありました。


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p63 「21 笠松神社」上段の写真の説明に
「境内から靡山を見る」としていますが、山の名前は正しくは「城崎山」でした。

次は靡山を撮った写真です。

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右手前が城崎山。その奥、丸い山が靡山です。

御迷惑をお掛けしました。
謹んでお詫びを申し上げます。


追記

コピーして貼り付けるという方がありましたので、ほぼ同サイズをUPしました。
逆光で石碑の文字が見づらいとのことで、石碑なしの方をUPします。
晴れた日を待って撮影し直しに行ったのですが、時間帯が悪くて申し訳ありません。

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by lunabura | 2014-04-25 22:44 | 神功皇后伝承を歩く ガイド | Trackback | Comments(4)

武内姓を名乗る物部氏の不思議(2)


武内姓を名乗る物部氏の不思議(2)

乳母は幸大明神か?

ようやく、高良山の麓に戻って来ました。
るな探偵、何を追っかけていたんでしたっけ? (+_+)

そうそう、物部氏がどうして武内姓を名乗れたのか?
という話でした。

前回まで、『高良山雑記』に書かれていた物部氏に関する記述を集めた結果、
鏡山大祝家が祀っていたのは
「物部胆咋」と「その夫人・幸大明神」と「武内宿禰」ということが分かりました。

鏡山大祝家は物部氏なのに、邸宅内で武内宿禰を祀り、武内姓を名乗った理由は
物部氏から武内宿禰の乳母を出して、乳母が宿禰の子を懐妊したからだと推測しました。
そうすれば、生まれた子は武内姓を名乗っても矛盾がないからです。

それでは、その乳母に関して、何か分からないか?
そう考えるうちに、幸大明神として祀られている胆咋の夫人こそ乳母ではないか?
という推理が生まれました。

胆咋は娘を景行天皇に嫁がせているので、第一夫人は年配になっているはずですが、
若い夫人を何人も持っていたでしょうから、
乳母になったのは数番目の夫人と考えられます。

時代的にどうなのだろう、と系図を書いてみることにしました。

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緑色の丸が鏡山家が祀っている神々です。
幸大明神が乳母だとすると、鏡山家は三人の祖神を祀っていることになります。

(孝成?)と二か所に書いているのは、
武内家の系図の一番目の人物が「孝成」と書かれているからなのですが、
どっちに書いたらいいのか不明だからです。
孝成が竹内宿禰だとすると大発見なんですがね。(るなにとって)

竹内宿禰は成務天皇と同じ日に生まれていて、日本武尊より年少です。
仲哀天皇は日本武尊の子ですが、武尊がジュニアの時の子なので、
竹内宿禰とは十歳も離れていないかもしれませんね。
筑紫を駆け巡っていた頃はまだまだ若かったのです。


だから、こんな顔にしないでね。
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(香椎宮不老水にてー仲哀天皇と神功皇后に頭を垂れているのが竹内宿禰)






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(乳山八幡宮にて)
これもダメ。あんまりじゃわい。







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これっくらいがちょうどいい。 ( ´艸`)

ドラマになってほしいと思ってるんですけどね (´・ω・`)





この人と。


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by lunabura | 2014-04-25 18:57 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)

グランドクロスいかがでしたか?



急ぎの用事が入って、そちらに集中していました。
それが予定より早く終わって、一安心。

26日のお話し会の準備もあらかた終えていて、時間配分の調整にかかります。
出席して下さる皆さん、何だか、それぞれに積もる話がありそうで、
思いを交換する時間を作らねば、というイメージが湧いています。
今回は「魂の同窓会」っぽいですよね。

ところで、先日の満月からグランドクロスに掛けて、皆さん如何でしたか?
オーラは私たちに色々と呼びかけるのですが、
その要素の一つに星の配置があると思っています。

自分の感情のつもりが、実はオーラからの呼びかけだったり、
星座の配置による影響だったりするんですね。

満月とかグランドクロスの影響は分かりやすいので、
自分の感情を見つめるのに、良いきっかけとなりました。

その微細な語りかけを感じるために、考えない時間がもっと必要だなと最近、感じています。




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by lunabura | 2014-04-23 22:57 | にっき | Trackback | Comments(0)

武内を名乗る物部氏の不思議


武内を名乗る物部氏の不思議


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(高良下宮社 幸神社)

今回はあまりにもマニアックな話なので、高良山好き以外はスルーしてくださいな。

さて、るなの前に立ちはだかった難問。
と、おおげさに書きましたが、頭を悩ませた一文とはこれです。

高良社仕人 
高良社草創以来の仕人は丹波氏(俗体大宮司法体坐主兼宮師職、武内宿禰嫡流)、物部氏(祝司、大祝、小祝職、武内宿禰乳母の子孫)、(略)


武内宿禰の乳母の子孫
高良山の始まりは宝物館の縁起では仲哀天皇の時代と書かれていました。
つまり、神功皇后の時代ですね。
高良社が祀られるようになってから、奉斎する氏族は丹波氏、物部氏などがいました。
(他にも大勢書かれているのですが、テーマがずれるので今回はパス)

前回出て来た鏡山大祝家は物部氏でしたが、①を見ると、
物部氏は「武内宿禰の乳母の子孫」と書いてあります。

武内宿禰に乳母がいた!?

想像もしていなかったので、びっくりしたのですが、落ち着いて考えると乳母がいて当然ですね。
竹内宿禰の母は山下影媛ですが、父は武雄心命(日本書紀説)か、
あるいは祖父の彦太忍信(古事記説)です。

山下影媛は佐賀から小郡にかけてその足跡が濃厚に伝えられている人ですが、
身分が高いので乳母をつけたのでしょう。

その乳母が物部氏だということは、つまり、物部夫人の中に、山下影媛と同時期に
出産した人がいたので、竹内宿禰を預かってお乳を含ませたということになります。

高良山に奉仕する鏡山家はその乳母の子孫だということです。


武内宿禰の嫡流
また、①には、丹波氏は「武内宿禰の嫡流」とも書かれています。
嫡流って、長男の子ってことですよね。 (@_@

竹内宿禰の長男といえば「波多八代宿禰」(日本書紀)か、
はたまた「斯礼賀志」(九躰皇子)か、さんざん悩んだばかりです。


ここに、また丹波氏が名乗りを挙げた…。
いったいどうなっているのか、大きな謎にぶち当たって、ずっと考えていたんです。


『高良山雑記』には、こんな文も書かれています。

②大祝・大宮司・坐主其他諸家 
高良山大祝家は武内宿禰三十二代孫・美濃理麿保続の第一子・武良麿保義を祖とする。文徳天皇斉衡三年、大祝物部大継をして始めて笏を執らしむ。

大宮司家は美濃理麿保続の第四子・武賀麿保通を祖とする。
坐主家は武良麿の弟・武見麿が出家して隆慶と号して坐主と称する。
妻帯し、子孫相続き麟圭に至り数年断絶、麟圭の子・尊能が坐主となり、清僧にして坐主の血統が絶えた。


大祝家は武内宿禰の三十二代目の美濃理麿保続の第一子から始まったというのです。


その続きには分かりやすいように、次のように図示されていました。

③武内宿禰三十二代孫
美濃理麿保続―― 武良麿保義・・・・・・大祝家の祖
       - 武勢麿保続・・・・・・神代家の祖
       - 武見麿保依(隆慶)・・坐主家の祖
       - 武賀麿保通・・・・・大宮司家の祖


これは武内宿禰の三十二代目に四兄弟が生まれて、
それぞれが神道や仏教などの祖となったという事です。

時代がいつか、知りたくて思い出したのは隆慶の存在。
どこかで、書いていたぞ…。

そう、隆慶(りょうきょう)とは高良山で仏教を始めた人なのですね。
(ネットで検索すると当ブログが出てきた(+_+)。やっぱり書いていた…)

で、ですよ。
な、なんと『高良山雑記』には武内宿禰の系図がずらりと書かれていたのです。
(ホント驚いたけど、ここは隆慶だけに注目)

そこに、隆慶が出家した時代が書かれていました。

④武内家系 
孝成、孝知、孝基、孝鎮、孝豊、信件、成信、仲基、孝景、元隆、良基、孝英、行成、行政、良孝、信基、景良、成隆、孝義(天武天皇朱雀年中に大宮司孝義二男基隆蓬髪し坐主隆慶となる、社僧之より初まる)信英、(略)※32代は孝貞

(もっと書かれていますが、途中で息切れ。)

ここには隆慶が出家した年は天武天皇朱雀年中とあります。

ネットで調べると、朱雀年間は684~685年のわずか二年間です。
で、天武天皇の時代に武内家の子供たちがそれぞれ役割分担して、
各職の祖となったということが分かりました。

で、ですね。
話が逸れるけど、「朱雀年間」って、通説の年号にないんですね (@_@。
「二中歴」(にちゅうれき)という九州年号のお世話になって特定できたんです。

他にもこの本には、白鳳とか、朱鳥とか年号が出てきて、やっぱり二中歴でないと解けない。

これまで、二中歴をスルーしてきたけど、いよいよ目の前にぶら下がりました。
幸い、古田学の諸兄が、いろいろと研究してくれているので、年代が分かったんです。

古代九州には教科書に書かれていない暦がある (+_+)
それはどうしようもない事実。

暦を持つということは一つの国として成立するのに肝要な事なのです。
古代中国ではそれがシビアだった。

高良山は独自の暦を持っていただろうというのが、るなの考えですが、
この「二中歴」が該当するのかなあ。
(この辺り、愛読者さんに解説頼もう…)



で、話を元に戻しましょう。上掲の②③④には謎やら発見やらがいろいろとあります。

1 隆慶の父の名が④では孝義となり、②③には保続となっている。
2 隆慶は③では三男、④では二男となっている。
3 ④に書かれた「武内家図」について。普通、家系とは初代から書くものなので、「孝成」とは竹内宿禰のことになるのだろうか?
4 美濃理麿保続、武良麿保義、などのように和風と中国風の二種の名をつけている。
5 保続の四兄弟にはみな「武」の字が付けられている。これは「武内」一族を繁栄させたものだろう。

一つ一つ検討すべきでしょうが、論文ではないので、次の感想に留めます。

鏡山大祝家は物部氏でありながら、竹内宿禰の子孫でもあることは間違いないでしょう。
それは次の文からも伺えます。

⑤本体所 
大祝家の宅地内に武内宿禰の霊を斉き祭る所を本体所と云う、と高良玉垂神社々伝にあったという。

大祝家の屋敷では竹内宿禰の霊をも祀っていたのです。
つまり祖霊として祀っていたということになります。

さらに、時代が下がって、子孫の話が登場します。
鏡山保名が高良山を出奔するのですが、名を武内典膳と改めたというのです。
その資料を出しておきます。(スルーしてOKです)

⑥鏡山安芸守処罰 寛延二己巳十月六日、高良山鏡山安芸守神職御取上、此人高良山御血脉百廿五代断絶と申(同上=石原日記)。
延享寛延の頃は、神仏両派の軋轢極度の時で、御井寺の坐主と京都神道総裁吉田家に宗事した鏡山家とは、互に権勢を争ひたる結果、鏡山保名は延享六年(鏡山処罰の一年前)十月六日、高良山を出奔して京都に赴き、名を武内典膳と改め、右大臣二条宗基に仕へた、其子保高、後、母と共に、江洲星野勝右ヱ門に養われ、寛政七年本多家に仕へた(阿蘇宮司談)。


鏡山とは物部のことでした。その保名が改姓するのに、武内姓を選んだというのです。
好き勝手に姓を選べない時代、武内姓が名乗れたのは、
祖先が武内宿禰の乳母だったからということになります。

でも、変。
「乳母」なんだから、武内姓を名乗ることが出来るのは変。
「嫡流」とか、ますます変。

久々のるな探偵の推理コーナー
で、るな探偵は次のように推理したのでした。

「武内宿禰の乳母」という物部夫人の話に戻りますが、乳母のもう一つの役割を思い出したのです。
乳母とはその子が大きくなったら、夫婦のことも教える立場にあるんですね。

ということは、物部夫人は竹内宿禰の子を宿した。
そう考えれば、生まれた子は物部氏であり、かつ武内家の血族でもある訳で、
隆慶たちが、その末裔と自称するのは理屈に合ってきます。

竹内宿禰が妻を娶る前の話ですから、歴史の表に出てこない「長男」が存在したということになります。
これなら鏡山保名が改名する時、武内姓を名乗ることは許されるでしょう。


武内家と物部氏が血縁関係を持って協調関係を持った。
それを知った時、竹内宿禰が、あれほど縦横無尽に古代日本を動けた点にも
合点がいったのです。


鏡山家=物部氏=武内家
そんな構図が高良山の麓にあったということになります。


(つづく)


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by lunabura | 2014-04-19 22:33 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(2)

高良下宮社 物部胆咋の夫人


高良下宮社

 物部胆咋の夫人


ここは高良下宮社。
心配していた屋根が修理されていましたよ(^o^)/

中央の社を見て「三階松が無くなっている!」と大騒ぎしたのですが、勘違い。

「あった!あった!」
三階松が掲げられているのは右手のお社、「幸神社」でした。

c0222861_19532863.jpg



現在、幸神社の祭神は「孝元天皇」となっていますが、古くは「物部胆咋」だったらしい。
その辺り変遷の状況は、まだ未確認なんですが、
物部胆咋は当ブログにも何度も出てくる神功皇后の時代の人物です。

胆咋(いくひ)は仲哀天皇の崩御ののち、香椎宮で会議があった時の主要メンバー。

ガイドブックにもチラリと書いたけど、北九州では材木調達に神功皇后を案内した人。
現地には物部氏の稲荷があったので、胆咋は皇后に武器庫を見せて
軍備の状況を説明したのだろうと推測しています。



その胆咋が高良下宮社に祀られていたことから、新羅の役ののち、
久留米での支配権を掌握したのかな…と考えていたのですが、
『高良山雑記』には、何と、その夫人も出てきました!

①「幸大明神
 物部胆咋の夫人を祀る(馬淵庸五郎談)。」(高良山雑記)

物部胆咋のみならず、その夫人が高良山麓に祀られていた!
古代の人は夫人を連れて移動するので、もしかしたら夫人は当地で亡くなったのかも。

年配だと思われる胆咋と夫人の終焉の地・高良山麓に
末裔の物部氏によって祀られたという可能性も出てきました。

さて、「高良山雑記」には「幸大明神=胆咋の夫人」が何処で祀られているのか、
書かれていないんですが、「幸神社」の「幸」に連想されて、
もしかしたら下宮社に祀られているのかなと考えたりしています。


それというのも、「物部胆咋の木像」が高良下宮社に移されているという
記録も複数あったからです。

②「物部胆咋連の木像 
高良山鏡山神社御本体所に在った物部胆咋連の木像は、其後御井町下ノ丁高良下社の神殿に移る。」(高良山雑記)


なんと、物部胆咋に到っては木像が存在するのです!

もとの鎮座地は「鏡山神社」ですが、
哀しいことに高速道路の真下に当たってしまい、その存在は完全消滅しています。



あの日、高良下宮社から祇園山古墳に向かう途中、ガードの下で
「ここに鏡山神社があったんですよ」
と氏子さんが言われたことがどれ程重要な話だったのか…。

今、思い返すと、その石碑ぐらい遺されていてもよさそうだが…。
とも思われるのです。


失われた鏡山神社こそ物部氏の神社なんですね。
物部ファンなら、ここは絶対押さえるべき神社だと分かって来ました。


③「鏡山・宗崎両家の系統 
鏡山大祝の家は物部氏、宗崎大宮司の家は神部氏。」(高良山雑記)


高速道路下に物部胆咋とその夫人を祀る聖地があったということは、
その周辺は物部氏の営みがあったということになります。

次は同じ内容で、別の所から抜き出したところ。
④「下宮 
下宮の神体は物部胆咋連の木像であるが、もともと鏡山神社の御本大所に在ったと云う。

往年下社の境内整理中の出土品は六花弁の鏡一個、短刀一振、瓶一個、同社は白鳳二年の建立である。安政二年八月改築、大正年間村社に昇格。下社を祇園と云うのは、七月十四、十五日の夜渡に帰因する(馬渕庸五郎談)。」(高良山雑記)





c0222861_19565927.jpg


これは高良大社縁起です。
麓に赤い鳥居があり、右に大祝(おおほうり)屋敷、そして下宮社となっています。

高良山縁起の巻物を見ると、仲哀天皇から始まっていました。
つまり、文献に書かれた高良山の歴史は物部胆咋とその夫人の時代から
始まるという意味でもあります。
神として祀られるのも、うなずけますね。



c0222861_19574234.jpg


(下宮社説明板より)



そして、難問が、るなの前に立ちはだかりました。



高良下宮社









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by lunabura | 2014-04-17 20:03 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(3)

磐井の拠点


磐井の拠点


先日から『高良山雑記』をピックアップして整理していました。
今回は磐井に関する三文を考察します。例のごとく口語訳します。

① 磐井城址 磐井川の東川端に在る。
② 磐井城址 大祝(おおほうり)屋敷の前。

①と②は数回前に書いた磐井城のことです。

磐井城 二つ城だった
http://lunabura.exblog.jp/21985183/


①の「磐井川」とは高良山の登り口にある放生池の元の姿です。
その東川端ですから、水明荘の跡を指しています。

c0222861_1864414.jpg

(高樹神社より、磐井城全景)


②の「大祝屋敷」の位置はもう一つの磐井城の麓に当たります。
磐井城はツイン城だったのが分かったので、どちらも地形と一致しました。

①と②の関係については地形から①が本城ではないかと考えています。
②の地形はフラットな部分が多いので、軍団などが控えていたのではないかと考えました。
(あくまで想像です)

地図





さて、次の③は上掲書の附録「高良内管見」という部分から抜き出したもので、
「高良内」(こうらうち)について書かれたものです。
「高良内」は高良山から流れ出す丘陵と、明星山から流れ出す丘陵の間の扇状地です。

ですから「高良内」から見ると、左に高良山、右に明星山が見えます。
そこから見る明星山は円錐形をした美しい姿をしています。


地図 高良内 明星岳 八女



(写真をクリックすると、古代の地形のイメージがつかめますね)



③ 明星岳 
明星岳、一名般若方谷山(大祝家記)は高良内の主人公とも見るべき山である、頗(すこぶ)る有名であり、天嶮であり、又歴史に富む。

山は大般若、寺尾、マイラズ谷、ツクモジ等に到る。城趾もあり、寺跡もある。(略)

頂上より望めば(略)左右に回顧すれば筑前・豊前・豊後の諸峯が見える。大概四方が望めて隈なしとも言える。当山の形勢は自然の城塁をなして嶮岨だ。云々。

矢野一貞は更に当山の史跡につき、次のように述べている。

上古、天津赤星が此の要害に拠る。
武内大臣久しく此山中にて西海を監護す。

筑紫君も代々当山に処る。

磐井に至り、ますます要害を堅くしようとして、当山の東北カマ石谷と云う所より磐石を切り取って、今の社地の所に岩構えをなして住んだことから、岩井の名称は起ったようだ。

このカマ石は構石(かまえいし)に取れることより此名を残したのだろう。今も数百の磐が山中にあって、石鑿(のみ)のあとが所々に残っている。

こうして、この肥・豊の四つの国を横領し、六国の主となり、終に叛逆を謀(はか)る討手が下るに及び、天嶮を捨て広野に進戦し一戦にして亡びた。これは磐井の失策ではなく、天誅から逃れられなかったのである。

正中年中に菊地氏西征表軍宮を奉し、小弐大伴を征した時も、文中年中の時も、高良山を本陣として当山にも拠点を構えたらしい。

菊地の族高瀬氏二代居城。
原田親種籠城。

文中年間の事を記したものに、高良山は峯平らかで麓嶮しく、後は深山なので道もなく、前には筑後川を界にして東南水縄(みのう)山、柳坂、高良が岳といって三所の塁を構え、と云っているが、「高良が岳」即「当山」であること疑いなし(略)

天正十四年に薩摩勢が高良山を攻め取ったのは高良内の方より攻め上ったと聞く。(高良内管見)



明星岳は傾斜の厳しい山で山頂からは四方の眺望が効き、
筑後平野のみならず、筑前、豊前、豊後の峰々が見えるといいます。

物部の天津赤星がこの天然の要害に拠点を持ち、
竹内宿禰もまたここから西海を観護したといいます。

そして、なんと代々の筑紫君も!!
(そうすると、筑紫君の拠点は筑後にある?)

そして、筑紫君・磐井もまたここに住んだといいます。
ただ、「今の社地の所に岩構えをなして住んだ」の「今の社地」が唐突に出てきました。

文脈からは頂上部の要害と思われますが、ネットで登山記録を調べると、
「明星山城」が存在しているようで、厳密には頂上部ではなさそうに思われます。

やはり現地調査しないと居城は決定できないのですが、
この明星山に磐井の城があったと考えてよいようです。



しかし、ここが本城だとすると、籠城には向くのでしょうが、戦いには不向きです。
敵が襲って来るのを待つより、麓で迎え撃つ方を良しとしたのでしょう。
磐井の君は山城から出て、高良山麓の磐井城に構え、さらに麓で対峙したと思われます。



地図を見て分かったのですが、
明星山は八女から見ると、北にある重要な山なんですね。

古代の人々の精神的な支えとなった山なのではないかと思われました。
その南の丘陵地帯に都を構え、多くの文物が船で運ばれて繁栄したのでしょう。

そして、有力者たちの古墳が次々に作られ、明星山には山城を築城。

古代の朝鮮半島では「山城と都邑」がセットで作られたケースが多く、
新羅や百済からの情報も入って来る八女では
同じように「都邑と山城」という単位で国造りがなされた可能性も考えられます。

その仮定を元に、明星山の麓に代々の筑紫君の居城「筑紫城」を
探してみたくなりました。

磐井の君はさらに北の守りとして、高良山麓にもツイン城を築城。

城と城をつなげば何処を守っているかが見えてくるはずです。
古代のありなれ川は陸地化しても、戦略的に重要な所とは決まってくるものです。



物部麁鹿火軍が押し寄せて来くるのを明星山で早くから目視し、
都を踏みにじらせないために、磐井軍は平地で迎え撃つ戦略をとった。
当方が有利で、敵が不利な地点を決戦の地として選び、両軍が対峙した。

そんな想像が生まれました。


八女(やめ)をこんな観点で見たことがなかったので、
現地調査すると、また感想が違うかも知れませんね。

今回は地図と文献から磐井の君の城と都を妄想してみました。


※『高良山雑記』とは
久留米藩士・稲次成令翁(1849~1932)の聞書から、浅野陽吉翁(是々、1868~1944)が
抄録編集したもの。それを古賀寿が出版。





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by lunabura | 2014-04-15 19:04 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)

発動



最近は心にしみいるコメントやメールをいくつもいただいています。

「発動」
拙著「ガイアの森」に何度も出てくるキーワードです。

私たちの人生は多次元を生きながら、かつ魂の多層の歴史にも影響を受けていて、
ある時期、何かのきっかけで、ある過去世が現世に影響をもたらすようになる
という考えを私は持っていて、それを「発動する」と表現しました。

過去世で学びそこなったテーマが再び現れる現象です。
あるいはトラウマを抱えた過去世が癒しを求めて現れることもあります。

今、いただいたコメントなどを読んでいると、
古代の筑紫に集った魂たちが再び集おうとしているという思いがしてなりません。

とても、心が動かされます。

私たちは古代の筑紫で学び取らなかったことを学び直そうとしているのでしょう。

私自身は「ガイアの森」を書くことにより、ある程度、自分の過去世の昇華を
したつもりでいましたが、まだまだ奥深くで時を待つ過去世があるようです。

それが、筑紫の古代の魂なのでしょう。




古代の筑紫といえば、私は物部氏に関心があったのですが、
各地で安曇族の歴史に行き当たるようになってからは、
安曇の血も奥底で目覚めを待っていたのだろうかと思ったりしています。

また、竹内宿禰が筑紫全体で多数の氏族間で縦横無尽に動いているのを見て、
倭国の調和の精神に大きな影響を与えた人物ではないかと思うようになり、
もう少し、明らかにできないか、と望みを持っています。

そして「高良山雑記」
高良山から帰って来た時、友人から届けられていたコピーですが、
そこに、多くの情報が書かれていました。

竹内宿禰、物部氏、安曇磯良、磐井。
それだけに絞っても結構な量の情報があります。

バラバラに書かれている情報をピックアップしながら、書き写すことにしました。

少し時間がかかりそうですが、それを理解するには遠回りするのが一番かなと思いました。

ということで、盛り上がった所で、しばし時間をいただきますね。






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高良山麓 放生池 





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by lunabura | 2014-04-13 00:00 | にっき | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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