ひもろぎ逍遥

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志賀海神社・御神体と金印 


志賀海神社 
御神体と金印 

新月の志賀島の宮々で過ごした翌日は、一日中、沖津島のエネルギーに浸かっていて、
現実に戻るのが難しく、掃除や用事など、ゆっくりとしながら
グラウンディングして過ごしました。



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寝るのも早かったです。^^

パラさんのコメント「新月の日 古代イスラエルでは平和に暮らす事を祝って神苑で角笛を吹き鳴らし
パレードしたそうです。」を読んだ時、はっとしました。

志賀海神社の御神体は誰も見ることができないそうですが、
「青銅の角」だと言われているそうです。
(新聞に載っていたので、書いてもいいですよね)

同じ安曇族の神社、長野県安曇野市にある穂高神社には「犀角」と呼ばれる副祭神が
伝わっていて、それは木で出来ています。

中東から日本まで自由に海を渡った安曇族の勇姿を思い浮かばせてくれる御神体です。

志賀海神社の安曇の末裔たちは今でもしきたりが多く、
特に、身内が亡くなると神事に参加できず、潔斎しているそうです。

ご神幸に到っては、神事を催行するかどうかは、みくじで決まるので、
長らく神幸が催行されなかった時もあったそうです。

そして、金印が発見された時にも神意が伺われたという話を伺いました。

金印が発見された時、まずは志賀海神社に奉納されたそうです。
そして神宝とするかどうか、神意を伺うと、必要ないと出たとか。
三度尋ねて三度とも必要ないと出たということでした。

もし、この時、違うみくじが出ていたら、今頃は金印は神宝庫の中に眠り、
存在すら知られなかったのかも知れません。

みくじの結果、金印の存在が世に知られ、論争されることになりました。
神々の話は奥が深いですね。

さて、磯良の海さん、船の帆を張れとの宣言。
いよいよ、ですね。






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by lunabura | 2014-05-31 19:06 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志賀島でのお話し会を終えて



今日は新月。
海神商店さんのお誘いで志賀島で志賀島の神々の話をしてきました。

まずは志賀海神社に参拝。
禰宜さんから志賀海神社や安曇族のお話が聞けました(^o^)/
また、歌姫が君が代の発祥の地で「君が代」を歌ってくれました。
海に向かって朗々と。
いいなあ。

お昼は漁師さん宅でお食事。
さわらの炊き込みご飯や、いろんな海藻の料理など、
御主人の採って来た魚とともに舌鼓をうちました。

それから、私のレクチャー。
イザナギ神、玉依姫と豊玉姫、安曇磯良など、
志賀島と志式神社に祀られている神々について、『古事記』を読んでみたり、
江戸時代の記録を読んでみたりしました。

持衰(じさい)や傀儡子(くぐつ)、形代(かたしろ)など、
禊の思想はこの島が発祥で、暮らしに深く根付いているんですね。

主催してくださった海神商店さんのオーナー、安藤佐知子さん。
志賀島の海藻で石けんを造られました。

新月と満月の前後しか採れない神秘の海藻「ふのり」。
三種類の石鹸は志賀島で採れた「ふのり」から生まれたんですね。


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その三種類の石けんの名前が「いやし」「みそぎ」「めざめ」。
その「みそぎ」という名前こそ志賀島からしか生まれない名前だなあと思いました^^

『「癒」されて「禊」いだら、あとは「目覚め」しかないでしょ』
と笑いながら話される安藤さん。

―そうですね。
私たち、一人ひとりが自分の正体に気付き、内なる神に忠実に生きて、
地球の平和に貢献すること。
私は、そう解釈しました。

それは、無理をして何処かに出掛けて行くことではなく、
自分の目の前に現れる課題に取り組むことで、自然と道ができていく。

今回集まってくださった、20名の方々の自己紹介を聞いていてそんな思いを強くしました。

私の本。「神功皇后伝承を歩く」と「ガイアの森」
それは、私の目の前の課題に取り組んだあとの結晶。

はやく続きが読みたいというオーダーに応えられるように、努力をしたいと思います。
本が足らなくて渡せなかった方々ごめんなさいね。
お近くの書店で手に入らなかったら御一報ください。


今日は新月。
そう、私の願いの一つ、沖津宮参拝が実現しました。

新月と満月の干潮時にしか渡れない島。
いつか叶うだろうと思っていましたが、今日こうして素敵な仲間たちと
一緒に渡れました。

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一瞬、スコットランドのスカイ島にいるのかと幻覚を覚えました。
海人族つながりで、ケルトと志賀島が私の中で次元を重ねたようです。

沖津島からの戻り道、磯を渡りながら、Tさんが言いました。
「今の場所に来たことがあると思いましたよ」
「デジャヴですね。ついに思い出したのですね」

それぞれが魂の深層に触れて行けば、それは宇宙に繋がっていくし、
きっと人類の覚醒に繋がると信じています。

帰りには東京からリピートしてくださったKさんたちと再び志賀海神社へ。
静謐な時もまた真なり。

帰りしな、禰宜さんと再会。
「志賀島には八乙女や八軒、八人の射手など、どうして八が多いのですか」
という質問が朝、あったのですが、それに関して、

「八丁櫓」(はっちょうろ)という言葉があって、八人の漕ぎ手が揃って初めて事が上手く行く、
という言葉を後で思い出したんですよ」と教えてくださいました。

神功皇后の船を漕いだのも八人の海士でした。
安曇族にとっては「八」は聖なる数字なのですね。


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by lunabura | 2014-05-29 22:59 | お知らせ | Trackback | Comments(4)

もうすぐ



志賀島の神々についてのお話。
資料の印刷も済みました。

綿津見の神はもちろん、イザナギや豊玉姫など、
改めて志賀島との関連で読み直していくと、
この島こそ神話の始まりの地であり、歴史の始まりの地でもあるのだと
感慨深くしています。

長い歴史の中に埋もれてしまったものを一つ一つ手に取ってその息吹を感じるー
そのきっかけとなれたらと思っています。
それを現地で行えるのですから、ありがたい機会を海神商店さんにいただきました。

私は道先案内しか出来ないのですが、
一人ひとりが魂の故郷に遊べるような、新月の一日になったらいいなと思っています。

参加人員が予定の二倍になったとのことで、時間を調整しています。
御参加の方はもう一度確認してくださいね。



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(勝馬)



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by lunabura | 2014-05-27 21:56 | にっき | Trackback | Comments(2)

「水城」は磐井がひらいた


「水城」は磐井がひらいた


水城(みずき)。
天智天皇が作って水を貯えさせたという。

今でもグーグルアースにくっきりと写る土塁。
本当に防衛の為に作られたのでしょうか。

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川を堰きとめた土塁で軍事的にどんな作戦が可能なのか、いまだに理解が出来ません。
次は大野城市のホームページから。

水城の名前の由来
 日本書紀に「天智(てんち)三年(664) 対馬嶋(つしまのしま)、壱岐嶋(いきのしま)、筑紫国(つくしのくに)などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫(つくし)に、大堤(おおつつみ)を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。』とあります。その意味は対馬、壱岐、筑紫の国などに防衛のために兵士を派遣し、通信手段のためにのろし台を設置した。また、筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。となります。

 水城の堤防は、大城山麓(おおきさんろく)から下大利(しもおおり)に至り、全長約1.2キロメートル、幅80メートル、高さ13メートルの人工の盛土(もりつち)による土塁(どるい)で、博多側には幅60メートルの濠(ほり)がありました。現在では「水」という文字を使うのか疑問に感じる人も多いでしょうが、当時は満々と水を貯えた濠と見上げるような大きさの土塁があったのです。

(筑紫は「ちくし」と思われますが、そのままにしています) この水城に関しては、過去記事で真鍋大覚の記述をまとめて、その一部を
「針摺の瀬戸と水城 古代、玄界灘と有明海はつながっていた」
http://lunabura.exblog.jp/16018354
というタイトルで既に紹介しています。

今回はその記事の観点を変えて、水城を造ったのは磐井であって、天智天皇ではないこと。
天智天皇は水城の改修工事を行ったことを確認したいと思います。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路見山(しおじみやま)、或いは四明山(しみょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂田(さくたの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させた大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。

(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

かつて、博多湾と有明海がそれぞれ深く湾入して、互いに繋がっていたころ、
その川を「ありなれ川」と呼ぶ人たちがいました。

「ありなれ川」とは「広い川」という意味でもあり、
天にあっては「天の川」を指していました。

南北の海がが繋がっていた場所は「針摺」(はりずり)ですが、現在はもちろん埋まっています。

早岐(はいき)・針尾・針摺は同じような地形に付けられ地名で、
原型を残す「早岐瀬戸」をユーチューブで見ると、往時の「針摺の瀬戸」の様子も想像できます。
http://www.youtube.com/watch?v=d6qEGnI9--o

針摺では、時には博多湾の水が狭い水路を超えて、
蘆木川~千年川(筑後川)へ流れ込むこともあったといいます。

安曇族たちが九州王朝へ物資を運ぶのはこの水路を通っていたわけです。

しかし、473年の大水害で針摺瀬戸が埋まってしまい、船で運航することが出来なくなりました。


そこで筑紫君磐井は蘇我稲目と共に治水工事をしました。
ダムを造って、灌漑用水も確保したというのです。

土手の中に木樋による導管がある謎も
水の管理をしていたことを考慮すれば理解できると思います。

しかし、川を堰き止めたのですから、洪水で決壊すれば被害は甚大です。
実際、573年に大水害が起こっています。

そして、天智天皇の時代に疏水の工事をしたと伝えています。
天智天皇が「筑紫に大きな堤防を築いて、水を貯えさせた。水城という名をつけた。」(大野城HP)
というのは、磐井がひらいた水城が壊れたため、天智天皇が疏水式にしたということになります。

観世音寺の鐘はもともと水城の側で「玄界灘と有明海の潮時をみはからって、
水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせ」るために利用されたものだと言います。

深く湾入していた当時の川は潮の満ち引きがあったので、
それを利用して川を遡ったりしていたそうですが、
月を見れば満ち引きの時刻まで船人たちは把握していました。
が、太陽暦はまた別物だったので、船人の利便を図って鐘を設置したのでしょう。

この疏水では通行税がちゃんと取られて、観世音寺の運営費に充てられたそうです。

水城が唐に対する軍事目的で造られたのでなく、
博多湾と筑後川を船で運航するための内政的なものだと観点を変えれば、
その不思議な形状への研究が進むのではないでしょうか。


 水城






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by lunabura | 2014-05-26 20:59 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

マテラとアテラ


マテラとアテラ

麻氐良と阿氐良は星の名

「麻氐良」以外にも「阿氐良」という名前が真鍋大覚によって記録されていました。
どちらも星の名です。

Zvanos(ツワノス)を右方(まてら 麻氐良)星、あるいは一葉(ひとつば)星と言う。Polaris(ポラリス)を左方(あてら 阿氐良)星、あるいは大葉星と言う。なお北斗七星を駒場星という。(p84)
龍座のツバーンはかつての北極星で、ポラリスは現代の北極星でした。
このツバーンを右の星という意味で「麻氐良星」と呼び、
ポラリスを左の星を「阿氐良星」と呼んだそうです。

そうしたら、麻氐良山に対応する阿氐良山ってあるのかな?

麻氐良山(294.9m)は、斉明帝(655~661)の行宮、朝倉橘広庭宮の南東・巽(たつみ)の方向に聳える。縄文の昔は有明の網引がここまで寄せていた。

その時代は4234~4689年前のことであって、Zvanos(ツワノス)がエジブト民族と同じく北極の座を人民に示す存在として信仰を集めていた西暦紀元前2087・3年前の時代である。

筑前上座の佐田川をへだてて西北の方に宮地嶽(338・9米)が立つ、昔は左手等(あてら)山と言った。

天智帝(662~671)の頃はすでにZvanos(ツワノス)は北極の座から退いてPolaris(ポラリス)が居座った。これが麻氐良の神域の古木老樹を伐採して、その祟(たたり)が現れたと土地の古老は語る。(p84)


●麻氐良山は、斉明帝の行宮、朝倉橘広庭宮の南東・巽の方向に聳える。
言い換えれば広庭宮の場所は麻氐良の北西にあるということになります。
やはり前々回推測した辺り(石碑の近く)が該当します。
また、縄文時代には有明海がここまで湾入していて、波が打ち寄せていたようです。

●筑前上座の佐田川をへだてて西北の方に宮地嶽(338・9米)が立つ、昔は左手等(あてら)山と言った。
麻氐良がツバーンならポラリスは宮地嶽。宮地嶽は広庭宮の北にもありますが、
「佐田川をへだてて北西」とあります。
佐田川は寺内ダムから流れ出る川です。
神功皇后が羽白熊鷲と戦ったあと下って来た川です。

この川を挟んで左にあるのですから、阿志岐山(宮地岳)が該当します。
直線でも20キロ以上離れていますよ!

麻氐良山と阿志岐山を見て北の二つの星のイメージが持てる場所って何処になるんでしょうか。
地図を見ると、一目瞭然。

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高良山から耳納連山にかけてから見た景色と思われます。
何度もこのエリアは出てきますね。

肥前松浦名護屋の沖に馬渡島(まだら)(237・9米)と加唐島(かから)(123・4米)が相並ぶ。Zvanos(ツワノス)の別名を右陀星(まだら)、Polaris(ポラリス)の別名を嘉賀星(かがら)という。縄文の胡人は両星が大地の歳差によって所をかえる宿命を心得ていたのである。(p85)
唐津にある二つの島「マダラ」と「カカラ」もまたツバーンとポラリスの名だそうです。

やっぱり星の話は楽しいですね。





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by lunabura | 2014-05-24 22:19 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

麻氐良布神社


麻氐良布神社

麻氐良(まてら)という不思議な名前の山が朝倉市にあります。
その神社は麻氐良布神社と書いて、「まてら」「まてらふ」の二つの読み方が見られます。

この山が重要なのは、斉明天皇の死の病の原因が、この神域の木を伐採したためと言われているからです。

当時からそれが分かったのでしょう、中大兄皇子は麻氐良布神社から
イザナミ尊を別けて、「皇居の辺」に別所神社を建てたとなっています。

麻氐良布神社の祭神を『福岡県神社誌』で調べてみました。

月読尊、天照大神、伊弉諾尊、素盞嗚尊、蛭子尊
です。

夫婦神(イザナギ・イザナミ)とその子(蛭子)と三貴子(月読、天照、素盞嗚)
というのが自然な形だとすると、イザナミだけが祀られていません。

やはり、もともと一緒に祀られていたのが、
わざわざイザナミだけ別所神社に祀られ直されたということでしょうか。
勧請でなく、分祀だとすると、よくよくのことですよね。

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ただし『神名帳考證』では
伊弉册尊 伊弉諾尊 斎明天皇 天智天皇 明日香皇子 天照國照彦火明命
となっていて、イザナミ尊が祀られています。

祭神の変遷があったようですね。

そして、境内神社を見てびっくり。

十九座神社
宗像神社
織幡神社
筥崎神社
志賀海神社
志登神社
筑紫神社
竈門神社
美奈宜神社
於保奈牟智神社

まるで、ガイドブック『神功皇后伝承を歩く』の目次を見ているよう。
(ちょっとオーバーかな)
筑紫の神々の勢揃いなのです。懐かしい名前ばかりです。
ちなみに、主祭神を書き加えてみましょう。

宗像神社(宗像三女神)
織幡神社(武内宿禰)
筥崎神社(応神天皇)
志賀海神社(綿津見三神)
志登神社 (豊玉姫)
筑紫神社(白日別)
竈門神社(玉依姫)
美奈宜神社(天照皇大神-寺内)(素盞嗚―林田)
於保奈牟智神社(大己貴)

ほら、知っている神さまばかりでしょ。

ここで祈れば筑紫の神々に全部通じるという神社でした。

三か月前でしょうか、「倭国大連合」というタイトルで、
対新羅戦の為に神功皇后(本当は仲哀天皇)を旗頭として筑紫の氏族たちが大連合したことが、
倭国という国の母胎となったのではという仮説をお話ししました。


これらの氏族の神々が勢揃いなのですから、よくよくの神社のようです。

登る機会はあるかなあ。





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by lunabura | 2014-05-23 21:32 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

朝倉橘広庭宮を探せ


朝倉橘広庭宮を探せ

朝倉橘広庭宮の所在地はまだ発見されていません。
最近、太宰府説も提出されましたが、朝倉においては次の3つの候補地が挙げられます。
1 須川
2 山田
3 杷木町志波(はき町しわ)

るな的手法は個々の神社の伝承を並べて全体像を浮き彫りにするというやり方です。
まだ、ブログでは紹介していない神社も含めて、これまでの伝承を並べてみます。

斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
      (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴)
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ)
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊)
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)


この中で、カギとなるのは「宮野~別所~朝闇」神社の東西の祭祀ライン。
とりわけ別所神社は「皇居の辺」にある。
また、福成神社の近くに宮殿橋がある。
天子の森は施政の地伝承あり。

次は太宰管内志から。
「○橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふ」

訳すと、「橘広庭宮は宮野村という説がある。その北の方に朝闇寺が須川の枝村にある」となりますので、
宮は宮野村にあると言われていたことが分かります。

これらをすべて含むとなると、条里が2キロほどの都を設定しないといけません。
この遷宮は天皇・皇太子・臣下・女官などの記載があるので、
百官百寮・軍隊も一緒で、相当規模の条里計画があったと想定できます。

もちろん、条里なんか未完成のものばかりでしょうが。

そこで、同時代の都のサイズを探してみました。

太宰府政庁 和銅年間(708-715)に造営が開始され霊亀年間(715-717)には完成していたのではないかと推定されている。またその広さは東西約111.6m、南北約211mであろう。(参考)藤原宮の広さ:東西約925m,南北約907m
鏡山猛氏の復元図によれば、太宰府は右の図のように、南北22条(2.4Km)、東西各12坊(2.6Km)のほぼ正方形の街区を持つ都市であった。
(参照 http://www9.plala.or.jp/kinomuku/dazaifu/dazaifu.html)

藤原宮 925×907m
太宰府 2400m×2600m

で、広庭宮の都を900×900に仮設定してみました。


さて、風水師ならどこを選ぶ?

東:青龍 … 豊かな川の流れがある
西:白虎 … 大きな道があり交通の便がよい
南:朱雀 … 広大な平野や海があり視界が開けている
北:玄武 … 山や丘陵がある



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宮地嶽神社を軸とすると、一番左。

宮野神社を軸とすると中央。

天子の森(○印がずれているような)を軸とすると右。


こんな感じになりました。
実は、前から朝倉東小学校を狙っていたんですが、天子の森ラインなら乗って来そうですね。

まだまだ、フィールドワークが足りませんが、とりあえず仮説を立ててみました。

以上、るな風水師でした。

(つづく)

地図 朝倉市









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by lunabura | 2014-05-22 21:12 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

長安寺廃寺(2) 二つの「ちょうあんじ」


長安寺廃寺(2)

二つの「ちょうあんじ」

 
今回の朝倉の旅の目的は橘広庭宮の伝承調べだったのですが、
橘広庭宮石碑の麓に長安寺廃寺石碑があり、それにも足を突っ込み始めました。

朗報は寝て待て?
愛読者さんから、有力情報が。

どうやら「ちょうあんじ」が二種類ありそうで、こんがらがって来たので、
今回は整理することにしました。

『大宰管内志』朝倉(上座郡)にこんな記事があるそうです。
(番号は、るながつけました)

筑前国二十上座郡
朝鞍寺 安楽寺御領目録に上座郡朝鞍寺領(略)とあり、昔々この朝倉神社の社僧の坊に朝倉山長安寺とて天台宗の寺院此郡の山田村にありしと云、いつの比に亡びたるにやすべえさだかなる事はしりがたし。(1)

橘廣庭宮(略)宮野村と云もあり。又これより北方近処に朝闇寺とて須川の枝村あり昔は朝闇寺と云寺ありしといふその寺跡いまもいちしろし。(2)
これは明確に書いてありますね。

(1)朝鞍寺は朝倉山長安寺として山田村にあり、亡びた時期は分からない。

朝倉山は麻氐良山(まてら)のことだと言われていましたね。
山田村は麻氐良山の麓にあり、木の丸殿もあります。
木の丸殿とは斉明天皇の服喪のために中大兄皇子が殯(もがり)をした所。

長安寺廃寺跡にはこんな説明板がありました。

「筑前国続風土記の恵蘇八幡宮の条に「社僧の寺を朝倉山長安寺という」と記されていることから、長安寺は恵蘇八幡宮と深い関係があったことが推測される。」

長安寺は恵蘇八幡宮の「社僧の寺」ですって。神宮寺みたいな感じでしょうか。
地図を見ると、山田村と恵蘇八幡宮は隣接していました。



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ネットの地図では分かりづらいので道路地図をコピーしました。
右の円が山田で、長安寺(朝鞍寺)が麻氐良山の麓にあるのが確認できますね。
「長安寺」とは「朝鞍寺」ということになります。



では、「朝闇寺」はどうでしょうか。

(2)朝闇寺は須川の枝村にあって、寺跡がはっきりしている。
その南、宮野村に橘広庭宮がある。

上と同じ地図ですが、左の円が須川で、朝闇神社がある所です。
瓦など鳥居の北辺りから出土したようですが、まだ特定には至っていません。

以上、『大宰管内志』に書かれている二つの「ちょうあんじ」の在り処を確認しました。
(著者は伊藤常足さんですよ~。鞍手の古物神社の神主さん。物部)


太宰管内志だけで結論を出せる訳ではありませんが、これって、すっきりしますよね。

前回、説明板を読んで理解できなかった点も、二つの「ちょうあんじ」を想定すれば、
整合性が取れそうです。

橘広庭宮の場所も宮野村とありますよ。いよいよかな~。るな探偵登場は…。

いや、るな風水師じゃ。
(つづく)





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by lunabura | 2014-05-20 21:48 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

橘の広庭宮公園の上の金刀比羅神社


橘の広庭宮公園の上の金刀比羅神社

 

思いがけない所で高木の神と出会い、仲哀天皇の崩御と重ね合わせて考え込みながら、
帰ろうとすると、
「向こうに何かあるよ」と、るなパパ。

見ると、階段がありました。
杜の中の自然歩道を歩いていくと
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あっ。これは!


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写真でよく見かける橘広庭宮の石碑だ。
ここにあったんだ。

周囲を見回すと丘のピークという感じでしょうか。
横には農道がついていました。

広庭宮なら当然、平地にあるはずなので、不思議な場所に建てたんだなと
きつねにつままれたような印象でした。



「鳥居がある」
再びるなパパ。
鳥居があるなら行かずはなるまいて。


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場所は石碑の後ろの方です。
柿の果樹園の中を通るとすぐに祠がありました。


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そこもまた小山のピーク。
見晴らしのいい、イヤシロチでした。


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向こうの山を遥拝する場所かなとも思ったのですが、
地図を見ても山に名前は付いていませんでした。

朝闇神社の上宮的な位置にあるピーク上の金刀比羅社。
この時思い出したのは宮野神社の右手の古墳の上の金刀比羅社。

同じような位置関係から、斉明天皇時代の祭祀だろうかと思いはしましたが、
何も分かりませんでした。

家に帰って朝闇神社を記事にするとき、ふと「朝闇神社」で検索すると、
古田武彦氏の「第四章 幻の筑紫舞 1」にヒットしました。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku15/tikumai1.html

これによると、朝闇神社には絵馬があったのですね (@_@
宮野神社にも絵馬があった!
知らなくて残念。

この記事は筑紫舞の探求ものなので、筑紫舞に焦点が当てられていますが、
掲載された白黒の絵馬をじっと見ると、
宮廷の女官など宮人たちが描かれていませんか?

思えば、別所神社や宮野神社は藤原鎌足や中大兄皇子の祭祀が始まりなのです。
その絵馬には斉明天皇や中大兄皇子の時代が描かれた可能性はないでしょうか。

これら、東西に並ぶ神社は都の周辺に位置しているのではないか。
絵馬は当時の雅びな宮廷人の暮らしを描いたものではないか。
そんな思いが生まれて消えませんでした。

宮地嶽神社の本(発刊はずっと先~)には筑紫舞の事も書いたので、
この古田氏の筑紫舞の記事を見るとまた安曇の世界に引き込まれそうです。

斉明天皇の殯の宮の横の恵蘇八幡宮でもついに筑紫舞が再現されました。
どこに行こうと、安曇の痕跡に出会ってしまう。

「るなさん、安曇を選んで回ってるんですか」
「いえ、私はブラブラです。でも、どこに行っても安曇がいるのです。
安曇は船に乗って全国の港へ、そして、くぐつ舞を持って山という山へ分け入ったから。
今では安曇が歴史の始まりとまでも言える」
これは昨日の友人との会話でした。

(つづく)

地図 橘広庭宮公園






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by lunabura | 2014-05-19 20:58 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

朝闇神社 高木の神…再びの悪夢か


朝闇神社

高木の神…再びの悪夢か

 
思いがけず長安寺の石碑で道草しましたが、道の最奥にある鳥居に向かうと、
注連縄がとても低くてくぐるのが遠慮されました。
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神額は朝闇神社。

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「闇」の字が選ばれているのは天皇の死を暗示しているのでしょうか。


説明板がありましたよ。
朝闇神社(ちょうあんじんじゃ)
福岡県朝倉町大字須川鐘突1269

祭神 高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)
別名を大行事社(だいぎょうじしゃ)ともいい、祭礼は毎年9月14日に行われる。
近くには「朝倉橘広庭宮」「天子の森」「長安寺廃寺跡」があり、これらと関係があるのではないかといわれており、「朝倉」の地名は、この神社からきたものではないかと考えられている。
また、この神社の境内に祀られた「毘沙門堂」は現在も残っている。





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祭神はあの高皇産霊尊すなわち高木の神でした。



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山里ではよく見られる氏神様的な神社の様子ですが、
ここに高皇産霊尊が祀られているというのはよくよくの事ではないでしょうか。

そう。
思い出すのは仲哀天皇の突然の崩御の事件です。

斉明天皇と全く同じように新羅と戦うために筑紫にやって来た仲哀天皇。
戦いの準備中に突然、崩御。
誰もが、このケースを思い出したに違いありません。

仲哀天皇の崩御に関しては複数の伝承が日本書紀にも書かれ、
ガイドブックでも整理しましたが、
伝承が一番厚かったのは御勢大霊石神社(小郡市)でした。

羽白熊鷲と戦うために川原(御勢大霊石神社)に布陣した仲哀帝は
前線を見まわって帰陣する途中に敵の矢に射られてしまいます。
それが原因で崩御するのですが、
神功皇后はそののち北の隼鷹神社で鷹を祀ります。

それは御勢大霊石神社に布陣するために天皇が天神地祇を祀ったとき、
鷹が飛来し、その後、北を目指して隼鷹神社の松の木に止まったからです。

皇后は鷹が不吉をもたらしたと考え、後に鷹を祀ったと考えています。

鷹はどこから飛んできたのか。
北を目指したなら、南から飛んできたのではないか。
そう考えて地図を見ると、真南には高樹神社があったのです。そこは高良山の麓。

高良山の地主神だった高皇産霊尊は高良の神に欺かれて結界を張られて
戻れなくなり、麓に鎮座するようになりました。
高良の神とは竹内宿禰ですから、仲哀帝が筑紫に来た時あるいはその直前の事件です。

高木の神が仲哀天皇に祟った。
そして、再び斉明天皇に祟った。

そう思わずにはいられませんでした。

地図を見ると、宮野神社~別所神社~朝闇神社が、ほぼ一直線上に乗って来ました。
東西のラインです。
当社に立つと真西が観測されるということになります。

どうやら祈りのラインがありそうな気配です。
都から見て朝闇神社は真東に鎮座しているのでしょうか。
まだ都の場所は特定できていません。

『福岡県神社誌』を調べたのですが、朝闇神社は載っていませんでした。
「朝倉」の語源かとも言われる重要な宮なのに、載っていないのは不思議です。

「アサクラ」とは「朝の石位」(あしたのいわくら)
すなわち、星座を表すと書いていたのは真鍋大覚。
いよいよ真鍋大覚を読み直す必要があるようですね。

でも、もう少し地形の観察をしておこうと思います。
(つづく)

地図 朝闇神社









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by lunabura | 2014-05-18 19:00 | 神社(ア) | Trackback | Comments(2)
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