ひもろぎ逍遥

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水城現地説明会


水城現地説明会


今日は久し振りの天気に恵まれて、水城の現地説明会に行ってきました。

JR水城駅のすぐそばに、切断面があって、100年ぶりの発掘調査です。


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駅から行くとこのように見えます。
手前が博多湾側です。

高さは14~5m。
その断面が露出しています。


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灰色が問題の砂の層で、人と比較すると、2m近くあるのが分かります。
御笠川の砂です。

これが饅頭の餡をくるんだような形状になっているそうです。
(金太郎アメのような感じ?)
粘土と混じり合っていて洪水の跡ではないという話でした。

構造上不可解な場所です。
アンコのように中央だけ砂にするなら、どうやって構築したかという
問題も解決しなくてはならないでしょう。


洪水で決壊したとなると、一部だったでしょうから、
この位置が決壊していなければ、また別の所に求める必要があるでしょう。
これ以上は無理ですね。

一年で出来るのかという質問、やはり出ていました。
「文献上では」という答えでした。

たとえば、竣工してから完成するまで十年かかったとしても、
記録には完成した年を書くもんです。

天智天皇3年(664)に「筑紫に大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という」とあるそうです。

『日本書紀』のアバウトな書き方の癖からして、(ダイジェスト版の宿命)
この文を一年で作ったと解釈する必要はあるのかな…。

1・2キロの堤防。まっすぐ作ってますね。
畑で畝をつくると、ヒョゴヒョゴと曲がります。
測量だけでも、どのくらいの期間がかかったんだろう。
まっすぐですよ、まっすぐ。

とも思いながら。気持ちいのいい水城跡を一部ですが、一周しました。

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太宰府側の傾斜を写しました。
すぐ下に家が建っていますが、水が出ていました。
家の辺りは貯水池として水が蓄えられていたことになります。

これをまっすぐ切れる所まで歩いていって、反対側に出ました。



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今、博多湾側に立って、水城駅方面を向いて撮っています。
左の森が水城跡。
手前の土手もその延長ではありますが、削っているようです。

内倉氏の本に木樋が430年と出ていると書かれているそうです。
が、決して公では公表されないだろうと皆さんの噂です。

鴻臚館でも古いものが出ていますが、関連者の方が
「そんなの出ても公表しない」とはっきり言われた、とある人が憤慨。

水城の築造に当たって、一番下には木の枝や葉を敷き詰めています。
その状態から晩春から初夏にかけて伐採されて敷き詰められた事が分かっています。

その葉を炭素法で検査されるそうですが、公表されるかどうか分からない、
と聞いた人もいます。

真実が伝えられないなら残念な世界ですね。
複雑な思いで帰路につきました。

ちょっと辛口でした。

学芸員さんたちの笑顔の挨拶に癒されました。
ありがとうございました。



水城駅そば






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by lunabura | 2014-08-30 21:59 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

製鉄で倒れた人たち


製鉄で倒れた人たち


今日は「玄海灘の海上気象」(真鍋大覚)のp131を読みます。

古代人は粒子の砂鉄を高温状態にしさえすれば、これが冷たく光る鋼(はがね)に融合固化するものと信じていた。

しかしもっとも酸化度の強い磁鉄鉱から強力に結合している酸素を剥奪するには猛毒の一酸化炭素によって還元せねばならない事実を発見するまで、数十万の犠牲者が中毒のため、或は不具不随になり生命を失ったはずである。

一つの窯に燃やす炭は優に三~四百俵を越している。一酸化炭素を猛烈に吐き出す窯ほど多量に鋳鉄が生産されるという奇妙な矛盾は、決死的作業であり、仕事に熱心な優秀な技術士など生命を落とす危険に曝(さら)されているのであった。

砂鉄からハガネを作りだすには、一酸化炭素が必要で、それは人間には猛毒だったということから、製鉄は命懸けの作業でした。

だから、羽白熊鷲など山の中で鉄や銅に関わる民は作業員確保のために里に下りて人さらいをして、鬼と恐れられていたという事がよく分かります。

一回で炭が三~四百俵もいるのですから、炭焼き人もまた大勢必要でした。
海で採れる砂鉄を急な山の上に持って行って、風の吹くのを利用するため、
犬鳴(いぬなき)など山の上に製鉄跡があるのもこれで理解できます。

神功皇后のガイドブックで旅をされた方は、稲荷社が必ず急な小山のピークにあり、
意外にも狭い境内だということを肌で体験されたと思います。

そんな所には古代の有力者がいて、有名な古墳なども近くにあり、
仲哀天皇や神功皇后を安全に招いた古代豪族がどんな暮らしをしていたのか
想像がつきそうな気がしてきます。

つづき。
同じ爐(ろ)の温度でありながら一酸化炭素の包有濃度と高熱状態で、なめらかな黒い肌で幡居する鋳鉄と、何の変化もなく閃(ひらめ)く砂鉄が接する。

古代人の合点のゆかぬ不思議な顔、不審と不満と無念を混合した表情が想像でき、型ばかりの真似事では絶対に理解できぬ技法が門外不出として厳秘にされていたはずである。

優秀な技術者は、工夫の途中でつぎつぎに斃死して後人に伝わらなかった。千慮の一失で落命した練達者もあった。これが今、累々として残る鉱滓の山である。爐の跡に接して建てられた無数の古墳群は供養塔でもあった。
鉄を作るには砂鉄と炭を交互に入れて燃やすだけでは駄目なんですね。
真似事では出来ないし、命を落とす者も多く、いったん熟練者が死んでしまうと、
その技術は失われてしまう。

そのために戦って手に入れようとする状況が生まれたのかも知れません。

先日、糸島の巨石探査に誘われて、行けなかったのですが、
あとで聞くと、山の中は古墳だらけで凄かったといいます。

小さな古墳だらけ。
人の命の数だけ古墳はあるわけですが、
このように製鉄で倒れた人の古墳もまた多かったのですね。


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(福岡市埋蔵文化財センターにて)


廃棄されたおびただしい鉱滓の群落を見て、徒労に帰した失敗の厳しい現実を背の負籠(ふご)にになって片付ける百姓の悲痛さを想う。

「御破算になる」ことを「反古(ほご)にする」と言う。これは稾カマスに入れてきれいさっぱり棄却することである。モッコ「ふご」の形は真っ四角なムシロを二枚重ねて三方を縄で綴り併せてつくる。

四足を切り取って空剥(うつはぎ)にした鹿の皮の袋がフイゴに利用された。「ふご」は「負籠」と同音であり、また、竹を編んだ長方形の籠をも言う。
百姓は冬になると各自で鉄を作った時代があったそうです。
そのために山に入って木を切って炭を作る。
それから窯で砂鉄を燃やしても、失敗すれば一年は無駄になる。

真鍋は鉄滓を見ると、その苦労がよく分かるようです。

「ホゴにする」が製鉄用語だったとは知りませんでした。
鹿の皮の袋については、「アマテラスVSスサノオ」に書きましたね。


下の図は筑紫の鉄滓が出た古墳(白丸)の分布です。
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画像出典「福岡市元岡・桑原遺跡群の概要」より
http://www.kuba.co.jp/syoseki/PDF/3274.pdf

山際ばかりですね。
失敗作が副葬されるのはどういう意味を持っているのか、
上の文を読んでからだと、いろんなメッセージが受取れそうです。







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by lunabura | 2014-08-29 21:53 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)

糸島の地名に残された製鉄の記憶


糸島の地名に残された製鉄の記憶


糸島水道の話の続きには地名の由来が書いてありました。
そこで、今日はそれを写して行きたいと思います。

「玄海灘の海上気象」真鍋大覚 p130

渡良瀬 度会(わたらい)

秋落ちの早い、砂利の多い水田がつづく怡土(いと)の谷には、初秋の風が志摩の方から吹き渡って来る。水はきわめて清冽澄明で絶え間ない渓流の音を爽やかに立てている。

渡良瀬川、五十鈴川の名が自然に雰囲気となって環境をこめてくるのが感ぜられる。渡良瀬、あるいは度会(わたらい)は、大垂(おおたらし)の転訛で、いかにも伊勢神が大和から渡御遷座まします印象を与えるが、古代人には銅や鉄の鋳造製錬の際に粘稠(ねんちょう)な熔融物が大きく垂れるほど苦心惨憺の成果であり、技術の的確さを示す神技の象徴でもあったからである。

五十鈴とは拝殿の鈴ではなくて「ずく」の転訛で、固化したばかりの玉(生)刃金(はがね)の意である。

語源は、爐(ろ)の内に重く沈んでいるまだ熱い鋳鉄を突き出す操作にも繋がる。やがては鋳造された直刀の刺、衝(つく)の行ないにもなる。

生(壱岐)の松原は、鞴(ふいご)の呼吸(息)であり、周船寺の古い港名が示すように、これが舟で積み出されて行く意味でもある。

初秋の怡土に吹き渡る風か…。
ちょうど今頃の季節でしょうか、真鍋の自然の描写を読むと、
忘れ去った季節を感じる感性が呼び戻されます。

糸島には有名な櫻井神社や二見が浦があり、伊勢との繋がりを思い起こさせますが、
五十鈴とはもともと銅や鉄の関連の言葉だということです。

そういえば、伊野天照皇大神宮の前も五十鈴川が流れていますが、
伊野の山では製銅をしていたとかで、川の汚染があった時代がありました。

褐鉄鉱の作りだす器状の形もまた自然な鈴を作りだすことがあり、
スズ鉄という言葉の由来と聞きます。

大垂(おおたらし)とは銅や鉄が真っ赤に流れ出るようすを表し、
それがワタラシ、ワタライと変化したといいます。

生の松原という言葉も考えれば不思議な言葉ですが、
「息」や「行き」という言葉から来たものだということです。


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(壱岐神社から今津湾に出て、糸島半島を見る。五十迹手の船団はここから出航した。)




可也(かや)芥屋(けや)
建物の新築祝の行事を「こけらおとし」と言う。これは鋳物の本体の表面に固着した鉱滓を削り落す作業から出たもので、「ずくおし」「けらおし」という職人の用語がこれである。

可也、芥屋などは、「けら」が転じたものである。

今山、今宿、今津などは鋳間(いま)すなわち江戸の銀座のごとく、鉄製品の販売生産地である。開拓した鋳鉄は「す、じゅ」で、「ずく、じゅく(宿)」にも転ずる。
可也山の地名はよく伽耶国由来などと言われますが、そうではなく、
「かや」も「けや」も「けら」から来ていたとは!

「こけらおとし」が鋳物職人の用語だったとも知りませんでした。
元岡などで生産された鉄が流通していくさまが目に浮かぶようです。


ついでにp129から。


桜井 小桜

馬肉の事を俗に「さくら」というが、色が桜色という事に起因しているよう伝えられるが、これは「早鞍」「さくら」のことか。

早馬「はやうま」すなわち駿馬を鞍に託して言ったのであろう。駅のころを昔は「はゆま」と訓じていた。

志摩郡桜井村桜井、那珂郡三宅村小桜など山犬、狼から保護した放牧場の跡か。
なるほどですね。
馬肉を「さくら」っていうのは、早馬、早鞍から来ていたとは。
古代では駅ごとに馬を置いて、どんどん乗り換えていた。
大きな鈴を着けて駈けて行ったんですよね。

桜井神社あたりも、馬の放牧などを考えて地形を見直すと、また別の世界が見えるのかもしれません。

地名はやっぱり歴史の化石です♪




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西から糸島半島を見る。





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by lunabura | 2014-08-28 21:20 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)

糸島水道は濁流に埋もれた


糸島水道は濁流に埋もれた


真鍋大覚は屋久杉の「縄文杉」の名付け親だと聞いています。
伐採された杉の年輪から縄文杉の年代を推定したそうですが、
年輪に現れる台風斑点も測定して年代を特定し、
それと日本の歴史と繋ぎ合せるという興味深い研究をしています。

真鍋は、雄略天皇の時代に瞬間最大風速107・9m毎秒の風が吹いたと書いています(@_@;)
100m超えというのは観測記録にあるのでしょうか。

調べると、「第2宮古島台風」(昭和41年台風第18号)
が瞬間最大風速85.3m毎秒を記録していました。

世界記録ではアンダーセン空軍基地(グアム) :1997年12月16日に105.5m/s。

そうすると、真鍋の推定は荒唐無稽な数字ではないようです。

そしてこの時、糸島水道は泥流に見舞われ、怡土と志摩が繋がったというのです。
その記述を読んでみましょう。

「玄海灘の海上気象」p130から
雄略帝17年8月、日本は空前絶後の台風が来た。屋久島安房、下屋久営林署に保存されている標本は幅17.2m、33年の年月にわたって台風斑点が残っている。

風速に換算すれば最大値は10分間平均にして76.3m毎秒、瞬間最高値にして107.9毎秒という値が推定される。

熊野年代記、紀伊南牟婁郡誌などの文献には、
八月 熊野台風 諸木ことごとく倒れる
と簡潔に記録してあるだけで、古事記にはいささかの片鱗も見出せない。

ただし日本書紀第14には雄略帝18(474)年に、「秋、8月、(略)物部菟代(うしろ)宿禰、物部目連(つぶらのむらじ)を遣わして、伊勢の朝日郎(あさひのいらつこ)を討たせた。」とあるのは、天災の後に必ず起る暴動の鎮圧に他ならない。
営林署に保存されていた標本に残る台風斑点から計算しているんですね。
真鍋の専門は「航空機運動安定論、極長周期波動解析」というものなので、
風の計算とか独自の手法を持っていたのでしょう。

熊野の山の木がすべてなぎ倒された話はテレビで見た記憶があります。
このあと「伊勢の朝日郎を討たせた」のは天災後の暴動が起ったからだと
真鍋は結論づけています。

この続きに糸島半島の話題が出てきます。
怡土と志摩の百姓に巨万の富と力を与え、ついには金に幻惑魅了されて緑の山河を荒廃させた砂鉄と爐の悪循環は、神の怒りが長い間の隠忍の限度を超えて一瞬に爆発したかの如く、山なす泥流濁土となって糸島水道にあふれ、これを永遠に埋没陸化したのである。

怡土(いと)と志摩は良質の砂鉄が採れ、
6世紀には26基の製鉄の炉が作られています。(元岡)

日本列島へは多くの渡来人が海を渡って来た歴史がありますが、
戦乱による亡命以外にも、鉄や金やヒスイなど、富を得るための渡来もあり、
物欲は現代人と変わらないのではないかと思うようになりました。

真鍋もまた、人間の欲が糸島の自然破壊を起こしたのだと、泥流の根源を見抜いています。


さて、糸島に「水道」があったのかどうか、
近年、ボーリング調査があって、陸続きだったという論文が書かれているそうです。

論文を読んではいませんが、海峡というのは幅3mの川でも繋がってしまうので、
はたしてボーリング調査は全体を網羅することが出来たのだろうかという疑問を持っています。

その論文を読んでいない者があれこれ言うのは何ですが…。

陸峡があったにしろ、怡土と志摩の間にはかつては船を泊める良港がありました。

真鍋は「糸島水道」がこの5世紀の台風の時に埋まってしまったと推定しています。
これもまた論証を読む必要がありますが、この部分で伝えたいのは、
鉄の民が砂鉄を掘り起こし、炉を作るために土を掘り起こし、
燃料になる山の木を伐採し尽くしたために、糸島の山は丸裸になり、
崩落がひどく、ついに台風の時に大崩壊が起こって水道が埋まってしまったということです。

今回、広島の災害で花崗岩が風化しやすい話が紹介されていますが、
糸島は玄武岩で、風化剥離脱落して糸島水道に堆積していった、ということだそうです。

糸島平野の水稲栽培はきわめて早く、すでに班田収授の制度が確立された頃の鄕村帳が最古の文献として残っている。

暗黒の芥屋大門(けやのおおと)を浮かべる玄海灘の海流は藍青の色をたたえて滔々と北流する。これだけの勢力を以てしても、今に至るまで、ふたたびかつて神功皇后の船団が隊伍を揃えて堂々と通過した昔の姿に復元することは不可能になった。

陸化が汀(みぎわ)線降下、地盤上昇に起因するものでないことは、海面に巨大な口を開く洞窟の中心位置が今も昔も変化していないことで明瞭である。
五十迹手(いとて)は独自に船団を組んで今津湾で
皇后の船団と合流して外海に出たと推測しています。

伊都国の大船団を係留するのに適した水道が埋まったあと、
強い潮流が水道を洗い続けても、二度と水道を復活させることは出来なかったと言います。

ある研究会で北部九州が地盤上昇した可能性を述べた方もありましたが、
芥屋大門の観測から、地盤上昇はしていないと真鍋は言います。

(つづく)


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筑前における古代の製鉄遺跡の分布
画像出典「福岡市元岡・桑原遺跡群の概要」より
http://www.kuba.co.jp/syoseki/PDF/3274.pdf





糸島





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by lunabura | 2014-08-27 20:40 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(0)

鉄とウラジロ


鉄とウラジロ


今日は、太宰府地名研究会のトレッキングで
福岡と熊本の県境の宮々を参拝してきました。
テーマは「古代官道と高良山の影響の及ぼす古代世界」という感じでしょうか。

船着き場があれば駅があり、早馬がスタンバイ。
そこには旅人の祈りを受け止める神々の宮がありました。

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(竹飯八幡宮)

古代駅の宮はあらゆるものを受け入れ、浄化する気に満ちています。




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(椛神社)

そして製鉄の民の宮は鳥居も奥まり、急な石段の上にひっそりと鎮座しています。
氏族に祀られる宮々は氏人の祈りに応えるべく静謐な気に満ちていました。





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その境内にはウラジロが。


「ウラジロがあれば鉄がある」とYさん。
「どうして?」と誰かが尋ねる。

「ウラジロはマサ土に生えるのです。
九州は阿蘇から北部の方に花崗岩が分布してマサ土が多いのです」
こちらでは真砂土は「マサツチ」と発音します。

出雲の鉄穴流しはまさにこれを利用したものですね。
その、雨に対して脆弱なようすを私たちは今目の当たりにしています。

広島が大災害で、一日も早い救出と復興を祈るばかりですが、
これはどこでも起こりうることでもあります。




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(岩本橋)

古代から自然の摂理を理解し、護岸工事などをしてきた歴史があるので、
今の安全な日本があるんですね。

古代の駅の宮には目の前に滔々と流れる川がありました。
九州もまた長雨で川は濁り、水かさを増していました。

今、日本は古代の人々の祈りと知恵に耳を傾ける時がきているようです。






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by lunabura | 2014-08-24 23:46 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(0)

水城に思う


「水城」って


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今日は、水城(みずき)に関するシンポジウムに行ってきました。
中国や朝鮮半島など東アジアの全体像から、水城を捕えようとする試みです。

白村江の戦いの時代を中心に講演があり、その時代の状況が描かれました。
中には、百済で禰軍(ねいぐん)という人の(兄弟の)墓碑が
発見されたというホットな情報も。
この人は百済が滅んだのち、中国の高官になり、太宰府にも二回派遣されたという人で、
墓碑にはかなりの文字数で当時のことが書かれています。

「水城」に関しては、
るなは真鍋の言う「ダムとしての水城」を検証したいなと思っています。

「磐井が蘇我稲目と共に灌漑のために作った」
「573年の台風で水城が決壊して箱崎まで濁流にのまれた」
「天智天皇は水城を疎水式に切り替える工事をした」
この疏水式の工事を『日本書紀』では「水城を作った」ということにしている訳です。

心ある人は、たった一年で1200mの大工事は出来ないと分かっています。
何人もの人が最後にささやくんですね。
「たった一年では」と。

しかし、公の講座を聞くと、水城を天智天皇が作った防衛施設とする観点しか存在していないようです。
このままでは、話はどんどん逸れて行くんだろうなと危惧しています。

太宰府で直接、暦法に携わった物部の末裔の話が世に出る事はあるのでしょうか。

さて、水城の再発掘は100年ぶりだそうです。

今回、土塁の頃に砂の層が発見され、上下の製造法が違う事が指摘されています。
友人が現地説明会で質問したけど、答えは無かったそうです。
また、一年で出来るのかという質問にも答えはなかったとか。
多分、だれも答えることはないでしょう。分かっているんですね。

また、途中に砂の層があります。
砂の層があれば、土塁は脆弱になります。
しかし、これは考えられた工法だとされています。

るなは、この「砂の層」こそ、573年の決壊跡ではないかと考えています。

また、新しいイラストを見ると、
土手の下に流れる木樋(水を流すもの)が複数描かれていました。
灌漑するためにコントロールしながら水を通した設備だなと思われます。

あるイラストには唐の大型船が水城に迫り、
水城を切って船を沈めるような戦術が書かれているものもあります。

が、海底の浅い博多湾を大型船は入港できず、
ましてや三笠川を遡上することはあり得ません。
川は小舟ですよね。
もし、水城を切れば洪水となり、肥沃な田畑が住民と共に失われてしまいます。
そんな亡国の戦術を為政者が取るでしょうか。

「防衛施設」説があっても構わないのですが、
戦術も一緒に提案してほしいな。

と、考えながら帰路に着きました。

サイドバーの「針摺の瀬戸と水城」は一部ですが講演の資料を載せています。

今日は、とりあえず感想だけ書いておきますね。



水城






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by lunabura | 2014-08-23 20:53 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

奴国と不弥国 


奴国と不弥国 


「奴国と不弥国は仲が良くなかったとです」
と聖洲さんは言った。
――千年以上経っても確執が語り継がれている?

これを聞いて思い出すことがありました。

魏志倭人伝に「奴国の二万余戸」「不弥国の千余家」とあるように、
奴国と不弥国では家の単位が「戸」「家」と違っているのです。
別の部族ということでしょうか。

「奴国と不弥国は○○川を挟んで仲違いをしていたとです」
聖洲さんが言われた川の名前を覚えていなくて、改めて尋ねました。

「境目は何川ですか?」
「宇美川です」

聖洲さんによると、神功皇后の出産地は王子八幡宮で、奴国の領地にあったのですが、
不弥国が自分の所の宮を皇后の出産地にしてしまったらしい。

本宮が伝承を失い、それを勧請した宮が繁栄することはよく見られることですが、
この奴国と不弥国に同様の問題があり、奴国の方が伝承を失った可能性はあります。

そこで、実際に連れて行っていただいたのが王子八幡宮です。

王子八幡宮・竈門神社
福岡県粕屋郡志免町南里宝満山
地名から推測された那国本宮の地
応神天皇出生地であり、玉依姫の陵墓なのか? 
http://lunabura.exblog.jp/16413004/


ガイドブック『神功皇后伝承を歩く』を編集するに当って困ったのは、
神功皇后の出産地を名乗る宮が複数ある点でした。

そこで、後世の研究に委ねるために、出会った宮については全部紹介することにしました。

そして、多くの方がガイドブックを手に参拝されることを考えると、
宇美町の宇美八幡宮が人々を迎え入れる環境が一番揃っているので、
これをメインとして紹介することにしました。


さて、奴国は博多湾を囲むように栄えていましたが、
川や湾が洪水で陸地化していったと共に住民が変化していったようです。

どこが奴国か、不弥国かという論争に関しては、まだ意見を持っていませんが、
真鍋大覚の描く古代がいきいきとしているので、
今日は真鍋の伝える古代の多々良川などを逍遥しましょう。

p129 「玄海灘の海上気象」

博多近郊で風化蛇紋岩である滑石の主要産地は糟屋郡香椎城ノ越山(じょうのこし)、同須惠山城岳、筑後久留米高良山である。

この付近に草場、湯浦、温石等の各鉱泉が湧出している。仲哀帝が神功皇后となぜこの地を訪れなければならなかったか。

伊覩(いと)の溶鉱炉に多量の温石が必要であったからである。この地の傍らに多々羅川があり古代冶金の中心があった。
仲哀天皇と神功皇后が高良山の麓、高良下宮社朝妻辺りに滞在して
神籠石や高良三泉に祈ったりしていますが、
本来の目的は伊都国の溶鉱炉に必要な温石の確保だったと真鍋は言います。

溶鉱炉から出てくる高熱の湯(鉄)をどうやって受け止めるか。

割れる心配がなく、加工が簡単な温石(おんじゃく)を器にしていたということです。
土器でも作れるそうですが、万一割れることを考えると、温石は理想的な石です。

子供の頃、チョーク代わりに温石で道路に落書きをしたのを思い出します。
爪でも筋が付くほど柔らかい石です。

これを温めて腹に巻いて暖を取る風習もあったので「温石」と言いました。
神功皇后が腹に巻いたのはこの温石だろうとも考えています。

伊都国では冷たい洗鉱の作業をするのは女性で、
温石を温めて腹に巻いていたのではないかと真鍋は推測しています。



多々良川は「タタラ」。
これについては、下記のページで書いています。

若八幡宮 多々良川―古代の製鉄―イラスト
http://lunabura.exblog.jp/i117/



真鍋の続きです。
倭人伝の不弥国は勢戸を中心として宇美湾と多々良湾二つの入江であるという意味のほかに「踏み」という鞴(ふみこ・ふいご)または蹈鞴(たたら)を踏む部族が居住し、これが奴国の二万余と不弥国の千余と、家屋構造の格式を示す、戸と家という別扱いにされていたのであろうか。
今は平野となっている多々良川流域ですが、古代は宇美湾・多々良湾と、
深く海が入り込んでいたのでしょう、その二つの入江という意味で「ふみ」と言い、
また冶金の一族がタタラを踏んでいた印象から「踏み」と言ったのではないかと真鍋は言います。

奴国と不弥国の「家屋構造の違い」が「戸」と「家」の違いではないかとも言っています。

これは竪穴住居と、高床式住居の違いなのでしょうか。
よく分かりません。



さらに続き。
竈門山(かまどやま)、有智山(うちやま)、砥石山(といしやま)など、太宰府裏手には博多力士の祖、正応の墓石がある。
筑前国続風土記土産考には、
「いにしへ太宰字有智山に正応という鍛冶がいた。(略)
沖浜はむかし博多の袖の湊東西に通って、今の湊橋より本岳寺の??まで入海あり。唐船かかれり。その入海から北の陸地を沖浜と言ったとか。

地理を調べないと詳細は分からないのですが、太宰府の裏の方に鍛冶の村があったようです。
竈門とか砥石とか、山の名前も関連のものですね。



日隈(ひのくま)月隈(つきくま)も、火口(ほぐち)を築き、粘土を搗(つ)き、
さらには交易船が着く入江の奥の地名である。

日隈、月隈は空港の丘陵地帯にある地名です。
気になる地名でしたが、こんな歴史があったとは。



(略)
三韓征伐の帆柱石が地下から掘り出されるほど、山野の草木も土砂も消耗しつくされ、糟屋の干潟が埋められたのではないか。

筑紫に干潟ができるほど、鋳物の民族は新天地を求めてあたかもスサノオ尊が簸川(ひのかわ)を分け入ったように東方へと移動し、後に残された平野に稲の文化が葦の芽の如く萌えだしたのであろう。

天の沼鉾の後に大八洲国が生じ、斎庭の稲穂を捧げて天孫降臨に至る神話があらためて読み返されねばならぬと思われる。
「三韓征伐の帆柱(ほばしら)石」とは珪化木のことで、木の化石ですが、
名島神社の海にはもちろん、筥崎宮宇美八幡宮にも、
庭の堺石やクスノキを囲む垣根として大量に利用されているのを見ることができます。



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(宇美八幡宮の湯蓋の森の根元に珪化木がずらり)




どうやって化石が出たのだろうかと思っていたのですが、
鋳物の民が土砂を消耗し、また山の木を伐採して燃料にして剥げ山になったので、
洪水が発生して、地下に埋もれれていた珪化木が露出したということでしょう。

その干潟が陸地となると、稲の民が稲を植え始めました。

そうすると、神話の天のヌボコの話、すなわち、イザナギとイザナミが
固まっていない大地を鉾で掻きまわして大地を作ったという話は、

「鉾(ほこ)を作る民」が川を泥水の干潟にして、ホコを作ったあとに
陸地が出来たという現実を象徴している、と考えてみなければならないということです。

そして、スサノオに象徴される鋳物の民、鉄の民は燃料と資源を求めて東へ移動していった。

多々良川流域の平地はある意味で人災だったことになります。

氾濫川が稲の実る大地に変わっていく壮大な物語を真鍋は描いています。



こうして奴国も不弥国も緑なす大地へと変わり、住む人々も変化していきました。
「奴国と不弥国は仲が悪かった」
というのも、「アマテラスVSスサノオ」に書いたように、「鉄の民」の流す土砂が
下流の「稲の民」の田を埋めてしまうという鉱害の話ともつながりますね。



多々良川






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by lunabura | 2014-08-20 23:29 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)

筑紫西朝と大和東朝(3)倭の五王


筑紫西朝と大和東朝(3)

倭の五王


さて、真鍋は日本の歴史に二大勢力が対立する構造がある事について述べたあと、
次のように書いています。

このように二大勢力の対立は、かつての4,5世紀にも在ったはずで、これが大和東朝筑紫西朝とも名付けるべき世相であった。

古事記、日本書紀には前者の事は詳細に記しても、後者の行動は関与せざる所なるが故に抹殺し、一方、唐土の史書には、後者の友好親善は詳録しても、前者は東夷以下に黙殺していた。

この二重構造が、とかく万世一系の思想を鼓吹した大日本史の主流に育成された国史観には、正統と異編以上に容喙(ようかい=口出し)されなかったのである。
4,5世紀、古墳時代、日本は西と東に朝廷があり、東は大和に、西は筑紫に
その都があって、二大勢力となっていたと真鍋は言います。

いわゆる「倭」と「日本」のことでしょう。

記紀を書いた人は大和にいたので、筑紫の事情が分からず、触れなかった。
神功皇后の移動ルートからみても、
出産後から北九州に戻って行った一年は完全に省略されていたので、
日本書紀を書いた人は、筑紫から豊前に至る地理を全く知らなかったんだろうなと
思いました。

一方、中国の方は筑紫と交流していたので、大和の状況には関心なかった。

それを大和中心の万世一系としたために、
九州からみると違和感のある歴史になりました。

しかし、ほんの数十年までは、これに関して述べることが出来ない時代がありました。

私たちは、その曲げられた知識をそのまま学んでしまったので、
真実を取り戻すのに苦労することになりました。

こんな風に自由に一般人が研究できる時代になったのはほんの最近のことなんですね。

「筑紫の西朝」と「大和の東朝」
これを受け入れると、急に歴史がシンプルに見えてきました。

このブログは筑紫の歴史を明らかにすれば充分なんですね。

さて、続きを読みましょう。

卑弥呼・壱世(いよ)、讃、玲、斎、興、武を、神功皇后、応神、仁徳、履中反正、允恭安康、雄略の各帝に対比するから、日本書紀の年号の信憑性の論議が沸騰し、さらには移葬改葬の可能性を無視して陵墓の型式と内容の不一致の正否を顧慮せぬ事がさらに波紋を投げかけている。

ここは、一字も変えずに写しました。
真鍋の考えがよく出ているからです。

「卑弥呼+壱世」を「神功皇后」にした『日本書紀』に従うと、
倭の五王(讃、玲、斎、興、武)もまた、
神功皇后の末裔の天皇たちに当てはめないと困るわけですが、
この五王の兄弟関係と天皇家の兄弟関係が一致しないので、
かなり無理をした論が生まれています。

その結果、中国の歴史書が正しくて、『日本書紀』の年号は出鱈目だという説が生まれました。
(もちろん、出鱈目の部分もあるのですが…)


そうではなく、「中国の歴史書に書かれた倭」と「日本書紀に書かれた日本」の
それぞれの歴史を確立すればOKなんです。

また、古墳の年代の問題に関して。
近畿地方の巨大な古墳も『日本書紀』の年号と合わないので、
天皇陵の見直しが課題になっています。

しかし、墓は移したり、改葬したり出来るので、
古墳の型式だけで年代を決めることはできないという訳です。

これはよくあることですね。
私の実家も江戸時代からの墓を全部掘り上げて累代の墓にしたので、
平成の墓に江戸時代のものが入っています。

「墓が平成の型式だから、江戸時代の人のものではない。」
と言われたら、困っちゃいます。^^ 

そうすると、前回問題にしたNHKの説を検討すると、
平原遺跡の土壙墓の葬制を持つ卑弥呼たちが奈良に移動して土壙墓を作ったが、
後にその末裔が巨大な前方後円墳に作りなおした、
という考えも出来ますね。
でも、それだと数世代必要です。
やはり、一世代で土壙墓から前方後円墳に葬制を変えるのは無理じゃいと思うけどな。

さて、「倭の五王」が当ブログに初めて出てきました。
今年、宮地嶽神社で講演をしたとき、倭の五王について質問がありました。
その時は、「倭の五王という名前は存じていますが、それ以上の事は分かりません」
と答えました。

ホント、全く知らない世界です。
でも、倭の五王と天皇家は別物だという認識は持っています。

他に知っているのは、この五王の名を家系に持つ松野氏が存在することくらいです。

その系図がこれ。
c0222861_222187.png

そのルーツは呉王・夫差で、「孝昭天皇三年来朝住火国山門」という注があります。

火国山門は菊池。
菊池には薄野神社(一ツ目神社)とか、アイラトビカズラとかがありましたね。
(う~ん。ここで繋がったか)
一度行ったところなので、ぐっとイメージしやすくなりました。

呉王・夫差か…。
また調べないといけませんね。
安曇族が呉から来たと言ってましたし、
磐井の系譜とどうつながるのか、興味津々の世界になってきました。






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by lunabura | 2014-08-18 22:03 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(2)

筑紫西朝と大和東朝(2) 西征将軍府は日向神に


筑紫西朝と大和東朝(2)

 西征将軍府は日向神に



前回の、卑弥呼と神功皇后の時代の摺り合わせで、
伊都国の問題を考えていないのに気付きました。

伊都国の存在は中国の本にも日本の記紀にも載っています。
五十迹手(いとて)が伊覩県主の祖でした。

平原遺跡が王墓というように言われていますが、
伊都国の王は五十迹手でしょう。

NHKでは、平原遺跡の被葬者は卑弥呼の先代で、
卑弥呼は東進したとする構成でした。

平原遺跡は土壙墓…地面を掘って直接、木棺を入れています。
その次の世代がいきなり巨大な箸墓古墳になるというのですから、
考古学の積み上げた編年の歴史なんか吹っ飛ばしたようです。

土壙墓から前方後円墳にどうやって変化できるのか、
という点までも説明してくれたら面白いのにな、と思いました。

はは。
また話が逸れてしまった。



五十迹手の話でした。

中国の歴史書には、伊都国には代々王がいたと書いていますが、
五十迹手の系譜が王の地位にあったと考えるのがシンプルです。

(魏志倭人伝…東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る。千余戸有り。
世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。)

あの高祖山を代々、守っていたのは五十迹手たちなんですね。

五十迹手は神功皇后に軍船を出して共に闘いました。

もしかしたら五十迹手の次の世代辺りから卑弥呼の国の属国になった?
あるいは、卑弥呼の国の支配下にありながら、神功皇后の国を援助した?

あるいは、神功皇后が去って倭国は結束が乱れ、卑弥呼が登場した?
どうなんだろう。
まだまだ、暗中模索です。

このあたり、皆さんのイメージが聞けたらと思います。



では、ようやく真鍋の本です。(p113)

さて、南北朝から戦国に至る政治の中心は京都と吉野の対立に始まり、京都御所と江戸幕府に終わっている。

九州には西征将軍府が筑後八女日向神(やめ・ひゅうがみ)に存続し、明の使者が刺を通じている(面会を求める)。後世、筑前博多に置かれた九州探題はその名残である。

真鍋は中世時代に「京都対吉野」のち「京都御所と江戸幕府」のように
「二大勢力が対立する構造」が日本にはあったという話から書き起こしています。

八女の日向神といえば「ダム」しか知りません。( 一一)
そこに西征将軍府があったのですか?
明の使者が挨拶に来ていたのなら、れっきとした都府ではないですか?

日向神について調べると、矢部村に良成親王の陵墓がありました。
矢部村の御側(おそば)という集落にある大杣公園の中に良成親王陵墓(よしなりしんのうりょうぼ)があります。この良成親王は南北朝時代の後村上天皇の第6皇子で征西将軍の職を叔父であった懐良親王(かねながしんのう・かねよししんのう、とも言う) から譲り受けて南朝方の九州の将軍として九州の拠点である大宰府を中心に九州を守っていたのです。

しかし、中央における吉野南朝の衰退によって大勢は一変し、1372年には大宰府は陥落し征西府12年にわたる九州支配は終わりました。良成親王も南朝の再興はかなわず、失意のうちに元中九年(1392年)、ここ大杣の御所にて御齢35歳の年頃にて死亡されたのです。

今でも、親王の墓前で毎年、命日である10月8日に親王を偲ぶ「大杣公園祭」が催され浦安の舞が奉納されます。
なお、この周辺の御側(おそば)という地名は良成親王の「お側」に仕えた人々が良成親王 亡き後に住み着いたと言われています。
(よかとこby福岡地域別探検より)
http://www.yado.co.jp/tiiki/tikugo/hyugamikyou/
懐良親王の名前は時々耳にしますが、その甥が跡を継いで、
この日向神の御所で亡くなっているんですね。
「征西府12年にわたる九州支配」の期間に明の使者が訪れたのでしょうか。

この近くには八女津媛の神社もあるので、
古代から栄えたクニがあり、それが基盤となったのでしょうね。

せいせいしょうぐん【征西将軍】 を調べました。

古代~中世,西国とくに九州を平定するため臨時に任命された将軍。その役所を征西将軍府と呼ぶ。
《続日本紀》養老4年(720)7月の条に征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人のことを征西将軍と称したのが初見史料であるが,その後,941年(天慶4)藤原純友の乱を平定するため藤原忠文を征西大将軍に任じ,その下に副将軍,軍監などを配した。 

以来久しく征西将軍府は設置されなかったが,後醍醐天皇は九州地方における南朝勢力の拡大を意図し,1338年(延元3∥暦応1)皇子懐良(かねよし)親王を征西将軍に任じ下向させた。
(世界大百科事典より)
西征将軍のはじまりは旅人だそうです!

太宰府にやって来た旅人の妻の死と新たな恋の物語、磯良さんが投稿していましたが、
この時、旅人は60代だったのですね。
「万葉歌人」と、「宇佐の隼人討伐の将軍」のイメージが自分の中ではまだ繋がりません。


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唐津市 垂綸石公園にて
万葉歌碑


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旅人がここで詠んだ。


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歌に詠まれた玉島神社の川上を見る。





明との交流も調べておきましょう。
明は1368~1644。
またこの時期は前期倭寇の最盛期でもあり、その被害は大きなものであった。この時代の倭寇は正真正銘の海賊で米穀・奴隷の略奪を行っていた。これに対して洪武帝は日本へ鎮圧を要請する。

最初は南朝の懐良親王に要請したが国書が無礼だと言うので使者が斬られると言う事になった。その後、日本の政権が分裂している実情を知った洪武帝は改めて北朝側である室町幕府の足利義満に対して使者を送り、義満と勘合貿易を行う事を条件に、義満を日本国王に冊封して倭寇の取締りを要請した。

その後、永楽帝が帝位を奪取した1403年にも義満は使者を送り、勘合貿易を継続し莫大な利益を上げ、義満による倭寇の取り締まりに倭寇勢力も衰退し、明の海上は平穏を取り戻した。尚、勘合貿易も基本は朝貢貿易だった。(ウィキペディアより)
とあります。
明は倭寇の取り締まりを、最初、懐良親王に要請したとあります。
これは真鍋大覚の
「九州には西征将軍府が筑後八女日向神(やめ・ひゅうがみ)に存続し、明の使者が刺を通じている」
という一文の背景であり、この明の使者の殺害事件が暗に込められていたことになります。

その現場が日向神?

ホント。何にも知りませんでした。(´・ω・`)

解釈の勘違いなどがあったら指摘してくださいね。
(つづく)






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by lunabura | 2014-08-17 21:32 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(0)

筑紫西朝と大和東朝(1)卑弥呼と神功皇后の時代


筑紫西朝と大和東朝(1)

卑弥呼と神功皇后の時代


「玄海灘の海上気象」には真鍋大覚独自の古代鉄の話が満載で、
神話の暗号や地名の起こりなど、想像もつかない内容が次々に出てきます。

約五年間、ブログや本を書いていて、基礎知識が出来始めたのですが、
そうすると、また新たな謎が出てきます。

「アマテラスVSスサノオ」というタイトルで前回と前々回に紹介した
スサノオの乱暴が、実は「鉄の民」の生業を暗示していて、
「稲の民」から見て迷惑に写ったのを神話化したものだと理解しました。

今日はp113を読んでみたいと思います。
「筑紫西朝と大和東朝」という概念が出てきます。

日本の古代史を調べる時、『日本書紀』や『古事記』即ち日本の歴史書を見ながら、
時々、中国大陸の本を参考にしますが、内容が合致しない部分が多いですよね。

神功皇后の時代に関しては卑弥呼の時代と微妙に重なっていて、
日本書紀は同一人物として書いていますが、事実は違うだろう、と思っています。

まずは家族構成が違うし、かたや既婚者、かたや独身。
人前への露出度が正反対。
神功皇后は武人たちと動き回っていますが、卑弥呼は宮殿の奥に籠っています。
キャラクターが正反対です。

ネットに出ている年表で、
卑弥呼は書かれていても神功皇后は全く抹殺されているものもあります。

戦前は神功皇后が教科書に載っていたらしく、
年配の方で「神功皇后伝承を歩く」を読んで得心される方も多いようです。

中には上巻を読んで、「すぐに下巻を買ってきてくれ」と頼まれて
お金を預かって来たんですが、という方もあります。

福岡県の人は特に、皇后の伝承の多さに、
いったいどうなっているのだろうかと思う人は多く、
知的な好奇心を満足させてくれる本が、平成になってようやく複数出て来ました。

神功皇后の本を書いているのは私だけではなく、私は多分、三人目です。

さて、問題になるのが神功皇后が活躍する時代です。
これに関しては、まずは200年説のままで考えてみようというスタンスです。
卑弥呼は248年に死ぬので活躍したのは240年頃でしょうか。

『日本書紀』は神功皇后の年齢を百歳にして同一人物だと暗示しています。

この年代特定の手段として鏡が考えられますが、
卑弥呼の鏡でさえ特定できていないので、手掛かりになりません。

が、銅剣ははっきりしています。
銅剣は現実的な20センチぐらいだったのが、
祭祀のために巨大化しているので、編年が分かりやすいのです。

卑弥呼の時代の銅剣は100センチ近くになっていて、重くなり、
るなのように「か弱い」手では両手で持ち抱えるのがやっとです。( ´艸`)

神功皇后がよく奉納している銅剣の現物があればサイズが分かり、年代特定につながります。
もちろん、そんなの存在しないのですが、一つだけ参考資料があります。

飯塚市の綱分(つなわき)神社で、神功皇后は剣を作らせて、埋納しています。
そこから奈良時代に掘り出された銅戈は40センチほどでした。
これなら、私でも片手で持てます(*^^)v

c0222861_20291977.jpg

画像出典 東京国立博物館 http://www.tnm.jp/
中広形銅戈
(この銅戈は山の反対側に同じように埋納されたもの。綱分神社の参考)

綱分神社 http://lunabura.exblog.jp/19868269/


この三本の銅戈が神功皇后が作らせたものと証明することはできませんが、
とりあえず、200年説に矛盾のないサイズです。


また、神功皇后を支えた人たちは、いろんな国の人たちだったのが分かりましたが、
卑弥呼や神功皇后の時代は数十の国があったことになります。

ですから、中国には「卑弥呼の国」の話が載っていて、
日本の記紀には「神功皇后の国」の話が載っているのかも、
と考えたりもしていました。

つまり、「卑弥呼の国」は中国とお付き合いしていたけど、
「神功皇后の国」は朝鮮半島の三韓と関わっていたので、中国史には登場しないわけです。

すなわち、「倭国」の話と、のちの「日本」の話が別々に書かれているのではないか、
というイメージが生まれてきました。

多分、この二国以外でも、歴史書を持つ国は沢山あったはず。
だって、『日本書紀』が参考にした「一書」が十以上あるのですから、
それなりの国がその数以上、あったということになります。
文字を持つ国ってかなりの文化度ですよね。

文字や数学がないと銅鐸とか銅鏡とか作れないと思いますねん。

話が逸れてきました。
もともと「倭国」があって、のちに「日本」が出来て、
二国の併存時代が存在したのですが、『日本書紀』などは初めから一国のように書いています。

二国の歴史をあたかも一つの国の歴史に書き換える。
これは大変な計算をしないと上手く結合できません。

そして、この辺りがよく分からん( 一一)のです。
これからの課題かな~と思っています。

で、真鍋の本を読んでいると、「筑紫西朝と大和東朝」という二大勢力について書いてあり、
るなの考えの理解の助けになりそうなので、書き写すことにしました。

(つづく)







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by lunabura | 2014-08-17 00:01 | 古代の筑紫あれこれ | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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