ひもろぎ逍遥

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<   2014年 10月 ( 17 )   > この月の画像一覧

どうしても好きだから



今日は予定通り、志賀公民館の歴史講座「安曇磯良と神功皇后」
の配布資料をメールで送りました。

今回は分かりやすく「あらすじ」形式を選びました。
武内宿禰と並べれば古代筑紫の両雄の揃い踏みって感じになります。


そして、今日の残りは御褒美の時間。

真鍋の本の分類ノート作りをしました。

『儺の国の星』というタイトルなのに、
多岐にわたる古代社会が散りばめられている上に、
一度見つけたら二度と見つからない~♪~

そんなストレスを無くすため。
そして、古代社会を理解するため。

何度もチャレンジしては挫折していた真鍋のノート。
ようやく、これなら続けられそうというフォーマットが決まりました。


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一昨日の夢の目覚めで「B5版、縦書き」のひらめきを貰って、さらに簡易に。

星の話だけでも3センチ幅のファイル2冊分。
ブログにUPしたものばかりで、この厚さ。

内容はあまり理解していない ( ´艸`)

でも、好きなんですね。
だから、数年計画でやっていこうと思ってます。






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by lunabura | 2014-10-31 20:57 | にっき | Trackback | Comments(0)

三六九神示 彦火明命


三六九神示
みろくしんじ
 彦火明命
ひこほあかりのみこと


『三六九神示』 平成二十年六月二十四日

京都上賀茂の別雷神(わけいかづちのかみ)の母、玉依日女は力の強い神であるが、その母は丹波伊可古夜比女売(たにわのいかこやひめ)であるぞ。父は建角身命(たかつぬみのみこと)と申し、八咫烏の事であるぞよ。その玉依日女の神霊(みたま)は龍宮の玉依毘売命であるぞよ。

神代の神々の神霊(みたま)は血脈(ちすじ)の因縁の身魂(みたま)に宿りて働くのであるぞ。

別雷神は天橋立(あまのはしだて)真名井原(まないはら)に坐(ま)す彦火明命(ひこほあかりのみこと)と、異名同神と申してあるぞよ。

彦火明命は海人族(あまぞく)の祖であるぞ。

海人族は日の本の国開きに陰となり、日なたとなりて活躍し、日本の礎(きそ)を築いたのであるぞ。

ぐるりと海でかこみて守りてある日本の国、龍宮の守護を忘れてはならぬのであるぞ。天(あめ)の恵み海(あま)の恵みあっての日本であるぞ。
                     天橋道士龍華斎 修聖拝写
  
                 
三六九神示は籠神社に現在も降り続けている神示です。
籠神社といえば、元伊勢で有名ですが、祭神は彦火明命。

天照国照彦火明命の一部ですので、饒速日命(にぎはやひ)のことです。

この神を祀り続けているのは海部(かいふ)氏で、
その氏神は海神(わたつみのかみ)です。

海神が祖なら安曇族となるのですが、そう考えていいのでしょうか。

三六九神示には「彦火明命は海人族の祖」とあります。



「天火明命」と「彦火明命」は同神とされることもあります。
志式神社の荒ぶる神々の中に「天火明命」も含まれています。

龍の都は志賀海神社。
その祭神、玉依姫の神霊が血脈の玉依日女に懸って働いてあります。

海人族が日本を開いて、基礎を作り上げました。

「ぐるりと海でかこみて守りてある日本の国、龍宮の守護を忘れてはならぬのであるぞ。天(あめ)の恵み、海(あま)の恵みあっての日本であるぞ。」

志賀島と籠神社は深い縁で結ばれています。



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二つの極楽鳥花。
朝はしっかりと重なり合っているんですよ。





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by lunabura | 2014-10-30 20:41 | 志式神社・ししき・福岡市 | Trackback | Comments(6)

奈多



今日は思いっきりドタバタの日でした。

原稿の手直し第二段が始まり、いいスピード感で進めていましたが、
今日は一日の流れがいつもと違う。

占星術的にも、今日から空気が変わるようで、
どなたにもそれぞれ何らかの変化があっているのではないかと思います。

志式神社の重要性に着目した編集者から追加書き込みの要請がありました。

ししき神社。
荒ぶる神々を鎮める宮。


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そのこよなく美しい渚で繰り広げられた神々の舞。
磯良が綿津見神から干珠満珠を貰い受け、豊姫を通して武内宿禰に渡す。

もう誰一人としてこの神々の物語を語る事はありません。
年に一回の神楽がようやくその物語を繋ぎとめてくれました。

今日はそんな煌めきの古代と現実をいったりきたり。

蔵司の現地説明会を忘れないうちに書き留めておきたいのですが、
優先順位の絞り込みからは
志賀島での歴史講座の準備が最優先です。

打ち寄せる波に重なって見える金や赤や白や青の衣裳のきらめき。
神となった人々の輝きを語る日まであと一週間になりました。



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by lunabura | 2014-10-27 22:05 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

蔵司から水城への逍遥


蔵司から水城への逍遥
くらつかさ  みずき

今日は大宰府政庁跡の左手にある蔵司の現地説明会に行ってきました。

それから念願の御笠軍団印の出土地や水城東門などを見学。

古代の町は歩いていくのに調度いい寸法なので、
車を置いて坂道を登ったり降ったりしました。

本日のコース。


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蔵司現地説明会



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坂本八幡宮



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御笠軍団印出土地



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文化ふれあい館



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筑前国分寺跡と天満宮



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水城東門 

木簡が出土した松本遺跡は見つけることができず。
後で聞くと説明板も立っていないので、分からないだろうということでした。


12000歩のウォーキング。
探査後はやっぱりラーメン ( ´艸`)
(いえ、私でなく、ガイドさんの御希望で)

今から資料整理です。(^_^)



蔵司



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by lunabura | 2014-10-25 19:33 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

入り陽の贈り物 光の道


入り陽の贈り物

光の道


先日、第8回金印シンポジウムを聞きに行ったのですが、
講演者の一人、宮地嶽神社の浄見宮司が、当日10月18日は
夕陽が宮地嶽神社の元宮の正面の相島(あいのしま)に沈む日だと言われました。

10月18日。
思いがけない日付でした。
元宮は西を向いていて、相島にまっすぐ向かう参道が、いかにも日没ラインを思わせ、
くるま座さんが先年、野宿して確認しようとしたラインだったのです。

その時は春分・秋分ラインを想定したのですが、
あいにく曇ってしまって、収穫がなかったという経緯がありました。

だから、神社の方でその日付を眼目に置いてあったのを知って驚きました。
この日没の日から遷座祭へと流れていく大事な日だったのです。


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19日、太陽は左手から相島に向かって斜めに降りて行き、
島の向こうのもやに隠れて行きました。

秋分より一カ月後、そして春分より一カ月前。
年に二回太陽が相島に沈んでいきます。

参道が赤く照らされて、人々の影が長くなる頃、
相島からはこちらの本殿の金色の屋根が輝いて見えたことでしょう。

この正面に積石塚があるのです。
宮地嶽古墳の巨石も相島から運ばれました。

そこには玉依姫と豊玉姫が姉妹一緒に祀られています。
これは珍しいことです。
豊玉姫はそこで山幸彦と出会った。
安曇の人々に取って格別な島が相島です。

さて、神社の石段から100m先では、地面を1m掘れば砂地だということで、
古代は海がすぐそこまで迫り、
光の道が直接、島と元宮を繋ぐ光景が見られたことでしょう。

この日、隣に座り合わせた男性に、
正面の参道は昭和14年に造られたものだと教えていただきました。

かつては神輿は石段を降りるとすぐ左の路地を通り、川沿いに下っていったそうです。
ですから、参道を貫く入り陽は昭和以降の光景です。

男性との話題は宮地嶽古墳になりました。
「宮地嶽神社は徳善でしょう」
「いいえ。徳善は100年ほど時代が違います。
この古墳では磐井の孫の勝村・勝頼兄弟が1000年以上も祀られてきているのです」
と答えました。

神社に生まれた人は人生を祭祀に捧げます。
1500年も祀り続けている所に、ある日学者が来て、その墓は隣町の人の物だ、
と言われたらどんな気分がするでしょうか。

この頃はそんな話も伝えるようにしています。

私は決心していました。
来年からは磐井の末裔たちの話をする、と。
特に、八女の人たちには伝えたい。
磐井の末裔たちは戦いました。

筑紫君葛子は決して命乞いのために屯倉を差し出してはいない。
父の筑紫君磐井亡きあと、武装蜂起して戦ったのです。

『日本書紀』が捏造した歴史―ではない真実を伝えよう。

そんな思いで参拝しました。
そして願わくは、まずは宮司にお伝えしたい、と。

何と、その願いがかなって、願ったその日に宮司に会えました。
この日、竹のロウソクを自ら点火してあった所に通りかかったのです。

私は沢山話をしました。
磐井の子供たちのこと、そして葛子の子供たちのこと。
古墳で舞われた筑紫舞にはもう一人の目撃者がいたこと。
出土したガラス板は決して素材ではないこと。
そこにガラス板がある理由は百済王子を守った鞍橋君の活躍があったから。

そんなお話をしました。
会えたタイミング。
これこそが今日のタイトルの「入り陽の贈り物」だったのです。


安曇磯良の名は正史から消えてしまっています。
一方で、同時代に生きた竹内宿禰はあらゆる氏族のルーツに持ち上げられ、
系図が不自然な場所に書かれています。

これらを比較すると見えてくるものがありました。
ここに「倭」と「日本」の原点があったのです。

竹内宿禰。
安曇磯良。
そして神功皇后。

これらを理解すると、磐井から末裔たちの時代も見えてきました。

九州の真実の歴史の構築。
その基本的なテーマを押さえることが出来た5年間は不思議な日々でした。

もうすぐ、ブログ5周年になります。
まだまだ小学5年生。
あと二日で6年生です。

こんなキャリアの浅い私が歴史の本を何冊も出せるのも、不思議な事件です。

皆さんもいつも一緒に古代を逍遥してくださってありがとうございます。


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by lunabura | 2014-10-23 19:59 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(6)

天の川(2) 帯方(たいほう)


天の川(2)

 帯方 (たいほう)

天の川を帯方と言います。もちろん和名でなく、中国語ですね。

「帯方郡」と言えば魏志倭人伝に出てくる中国の郡名で、
倭人の国へ行くときのスタート地点です。
場所は朝鮮半島の中西部あたり。

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この「帯方」とは「天の川」のことだと真鍋はいいます。
そういえば、「帯」ですから、夜空にある銀河を帯と見たてた言い方ですね。

それでは本文を。
大陸民族は裸身一つ木舟一つで海を渡ってくる胡人を帯方と呼びました。魏志に出る帯方なる郡名は、安羅人の系統の氏族が住んでいた韓、及び倭の総称でありました。
(儺の国の星)p45
中国大陸では、裸一貫で船で渡って来た中東の民を「帯方」と呼んだそうです。
彼らは帯方郡まで辿りついたんですね。そして倭にも。


銀河を「ありなれ」と呼びましたが、その由来は、黙々として動く星の姿を廣野を歩む羊(anis)の群にたとえていたのであります。これが訛って「ありなれ」に書き写されたと宣教師が説いて聞かせたと語られておりました。
大陸では銀河を見て、羊の群れが移動する光景を連想したようですね。
中東の民も舟だけでなく、大地を集団で移動したのでしょう。

そして、大陸から東の朝鮮半島に中東の民が住みました。
中東の民とはここでは安羅人を指しています。

安羅人はアンラヒト→アラヒトと変化します。
これが現人神社の「あらひと」
那珂川町の現人神社は住吉の神です。

仲哀天皇に軍事協力の代価として龍船や水田を要求しました。
そこで、那珂川町に裂田溝(さくたのうなで)を神功皇后たちは造ったんでしたね。

そういえば、現人神社のある那珂川町の貝徳寺古墳の埴輪は
ヘアースタイルが倭人とは違っていました。

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これが安羅人かどうかは不明ですが、倭にはいろんな民族がいた証しです。

これ以外に弓月の君の話を思い出します。
秦氏が朝鮮半島まで万単位で移動して倭に渡ろうと加羅まで来ているのを
新羅が邪魔しました。

福津市の縫殿神社では神功皇后のお蔭で加羅と通えるようになったと喜んでいます。
秦氏が玄界灘~響灘に居住して機織文化を栄えさせ、
今なお秦姓の分布が集中している話を、
先日の「謎の竹内宿禰」でお話ししました。

色んな民族が倭へ倭へと移動した痕跡が『日本書紀』にも見られます。

さて、真鍋は「帯方」について別の角度で紹介しています。

帯方とは銀河の傾きを見量りて、自らの空間的時間的位置をおさえる特技ある民族の総称でもありました。

「銀河」の傾きを見て、現在地が分かる民族の総称もまた「帯方」と呼ばれるようになりました。

今日も夏の大三角形のかなたには天の川が流れて、西に沈んでいきます。
そして夜が明ける頃、天の川は冬のオリオンと共に東に姿を現します。

漢人は黄道12宮に沿う星座を、主に視察するのでもありますが、帯方の民族は黄道以外の宇宙中間の星座に主眼をおくことが先天的信仰的相違でありました。

星空を眺めていると、よく解るのでありますが、七夕をすぎ秋の気配を夜毎に感ずる頃、北斗の空から南西の彼方に乳の流れを見上げる時、南東の空はまことに寥々(りょうりょう)たる静寂さでありまして、星影のまばらなことが、よけいに来る秋のさびしさを迫ってきます。

銀河をのぞいた黄道以外のところに散らばる星を遠い祖先は高階(たかしな)(品)星とよびました。

黄道から北極星に至るほど星空は高くなると観ておりましたから、すでに渾天儀の見方が身についていたと思われますが、更にその中の間を「しな」と上品な大和言葉で描写していた古人のみやびやかな心は今はどの本にも出ておりません。



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これは三日前、10月18日18:23の星空です。
天の川が斜めに流れ、沢山の星が集まっています。
ところが左の方は星が少なくなっています。
そこに散らばる星々を高階星と呼んだそうです。
「しな」とは中間という意味です。

賑やかな夏の星空と比べて秋の星は少ないですね。
そうすると秋のさびしさが迫って来る。

ちょうど、今の季節のお話でした。





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by lunabura | 2014-10-20 21:35 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

天の川の和名(1)ありなれ川


「天の川」の和名(1)

 ありなれ川

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                                     雷音丸のトロ箱日記より

天の川は英語ではミルキーウェイ。
漢語では銀河。

そして、日本では天の川。当然ですね^^
古代の筑紫では「ありなれ川」とも呼んでいました。

今日は真鍋大覚の星の話です。

ありなれ川
銀河を「ありなれ」と呼びましたが、その由来は、黙々として動く星の姿を廣野を歩む羊(anis)の群にたとえていたのであります。これが訛って「ありなれ」に書き写されたと宣教師が説いて聞かせたと語られておりました。
『儺の国の星』p45


大陸の民は羊の大群が移動していくようすを見て、銀河を連想したんですね。
羊(アニス)が「ありなれ」と訛ったと宣教師が説いたそうです。
語源は「羊の群れ」から来ていました。

しかし、真鍋はもう一つ書いています。
銀河、即ち天の川を極東では「ありなれ」とよび、これが神功紀の頃まで用をなしていた。

言語の意義は洽藍(こうらん)即ち緑水滔々として天蓋に連なる光景を表現していた。

烏冠(うかん)の黒竜江(こくりゅうこう)、高麗の鴨緑江(おうりょくこう)がそれで、「ありなれ」はその倭訓、「あり」は大にして闊広にして闔なる状(さま)であり、「なれ」とは藍にして青、緑にして翠なる色を言った。



烏冠の黒竜江

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黒竜江はアムール川です。大河ですね。黒という表記は藍色だったのでしょうか。
玄界灘の「藍色」に「玄」の字を当てているのと同じようですね。

「烏冠」(うかん)の場所が分からないけど、このエリアにあったということになります。


高麗の鴨緑江
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高麗は烏冠の南に当たるようです。
鴨緑は鴨の頭の緑色からついたそうです。


ありなれ
「あり」は「大」、「なれ」は「深い藍色や緑色」。

この藍や緑の大河が空に連なる光景が「ありなれ」となります。


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                                          撮影 蔵前仁一
この写真はペルーで撮影された天の川。

大河の水平線に天の川が垂直に立った時、
天の川を源として地上の川が流れているように見えます。

そんな漢詩がありましたね。
(誰か覚えてませんか)


神功皇后の龍船が新羅に達した時、新羅王は自ら縄を首につけて朝貢を約束します。
そして、こう言いました。
「東から出る日が西から出た時、
また阿利那礼河が逆さまに流れて、川の石が昇って星となった時を除いて」
朝貢を怠ったら天罰を受けます、と。
このように『日本書紀』の神功紀に「阿利那礼河」が出てきます。



「かつて玄界灘と有明海は針摺瀬戸で連なっていた。神功紀以後に御笠なる郡名が置かれたが、以前は大野(おおぬ)であった。これは「ありなれ」の倭約に外ならなかった。
『儺の国の星拾遺p87』



福岡の筑紫もまた中央を「ありなれ川」が貫いていました。
針摺瀬戸は川幅が狭かったのですが、貫流していたのですね。

かつてあった大野(おおぬ)という地名は
「大きい藍緑(?)」の川という意味だったということです。

久留米市の大善寺玉垂宮の前の「広川」は
今でも「ありなれ川」と呼ばれているそうです。
古い言葉がよくぞ残されました。^^






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by lunabura | 2014-10-18 20:15 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(5)

プラネタリウム



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          画像出典 http://free-images.gatag.net/tag/milky-way

古代の筑紫で「ありなれ川」と呼ばれた天の川。
時計代わりに時刻を知らせるという。

超ド近眼のるなが天の川を見たのは人生で数回。
夜はコンタクトを入れていても一等星ぐらいしか見えません。

そこで思いついて、「宗像ユリックスプラネタリウム」へ。
天の川の見え方を教えてもらうついでに、プラネタリウムで星を眺めよっと。

大人のリラクセーションというプログラムがあったので、それを鑑賞。
その前に天の川について質問しておいたら、
プログラムの中でも強調して教えて貰いました。

今夜なら、南の空を見ると
天の川が緩いカーブを描いて少し斜めになって立っているんですね。

そして、満天の星がしだいに西へと傾いて、射手座が沈むころ、
天の川は地平線でぐるりと自分を囲んだ。

これはかなりショック。
こんな光景が地球では毎晩繰り広げられていたのか…。
感激の極み。

そして、明け方オリオンが昇って来る頃、天の川が再び姿を現した。
これに音楽がついているので、どうにもこうにも感動が収まらない。

夏の星座を一つ一つ覚えていくと、星空は秋の星座に変わっていく。

しばらくすると、オーロラを見にいく。
ドームの映像はすごい。
雲をかき分け、急旋回して透明な海をすれすれに飛んでいくと、
オーロラが輝きだす。
おお。これが「朱」とか「辰」とか、真鍋が言う色だ。

再び星空に戻ると、今度は宇宙へ飛び出し、ガイアを見る。
ガイアが回転しだすと、座っている自分が回転している錯覚。
そして、磁気シールドの中に突入。

太陽風を受けてシールドが靡く中を飛ぶと意識もシフト。
戻って来ると、夜が白々と明け染めて、三日月と木星が相並ぶ。

想像以上に心が揺さぶられました。

プラネタリウムのプログラムは惑星とか神話とかテーマがいろいろあるけど、
こんなふうに目の前の星を教えてくれるものがずっと欲しかった。

真鍋大覚はこの星をそらんじていた。
なのに、失明。

彼の失われた視力と共に、日本の星の名が消えないように
書き留められた『儺の国の星』と『儺の国の星拾遺』。

るなはやっぱり真鍋にチャレンジし続けよう。


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                   画像出典
                   http://prcm.jp/album/skyha/pic/35425163


宗像ユリックスプラネタリウム 
http://www.hosizora.com/




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by lunabura | 2014-10-17 20:18 | にっき | Trackback | Comments(0)

八艘帆が崎(2)百済王子 阿佐太子


百済王子 阿佐太子と王子阿佐

同一人物か別人か

杵島郡の八艘帆が崎の掲示板に書かれていた阿佐太子の渡来。

三、稲佐山累縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。

一を北の御所と言い、一を太子庵という。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後八艘帆が崎と言う。
 
この記事を読んだ時、私は勘違いしました。
「阿佐太子」って「恵」のことかと。
今日はその前後の話をしましょう。

聖明王の子には余昌がいます。
熱田神社で書いたように、余昌は倭国から来ていた鞍橋君に助けられているんですね。

鞍橋君は「くらじのきみ」と読み、
鞍手の人で、当地に行くと、「くらじ」の字があちこちで見かけます。

鞍橋君は葛子の子。
言い換えれば磐井の君の孫にあたります。

その鞍橋君が余昌と共に新羅内に侵入して砦に籠城していたのです。
それを援けるために援軍の指揮を執った聖明王自身が戦死してしまう。

こののち、余昌が百済王に即位するのですが、
その前に倭国に使いを出しているんですね。
「聖明王は賊に討たれて殺された。」と。

その使者の名前が「恵」。
余昌の弟です。

この時の天皇は欽明天皇。欽明16年2月のことです。
天皇は「王子恵が着いた津」に許勢臣(こせのおみ)を送って、王子に
「ここに留まるか、本国に帰りたいか」と尋ねさせます。

すると、恵王子は「天皇の徳で、父王の敵討ちをしたい。
兵卒を賜って雪辱したいのが臣である私の願いです。
私の居留は勅命に従います」と答えます。

蘇我卿が恵王子を見舞って、聖明王の死を悼みます。
その間、百済では余昌が出家しようとして止められます。

翌年、欽明17年(556)1月、百済の王子恵は帰国しますが、
その時、兵や馬を授かります。
天皇は阿倍臣、佐伯連、播磨直を派遣して筑紫国の舟師に送らせます。

これとは別に筑紫火君(筑紫君の児、火中君の弟)を派遣して
ミテという地を守らせ、かつ湊々を守らせます。


結局、恵王子の日本滞在は11カ月だけだったのですが、
私はこの恵王子と八艘帆が崎の掲示板に出て来た阿佐太子とが
同一人物かと勘違いしたのです。
どちらも聖明王の子になるし、時期的に近かったからです。

「恵」と「阿佐」では名前が違うのですが、
武寧王が斯摩という名を持っていることから、
「恵=阿佐」かも、と考えてしまったのです。

「恵」と「阿佐」が別人なら、
聖明王の王子が二人、それぞれ日本に来たことになります。
このあたりのこと、稲佐神社の縁起に何か書いてあるかも知れませんね。



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もう一人の王子阿佐

調べると、推古天皇の所にも阿佐が出てきます。
「推古5年(597)百済王が王子阿佐を派遣して朝貢した。」

この時の百済王はぎりぎり威徳王(余昌)です。
倭国には阿毎多利思北孤や聖徳太子がいた時代です。
王子阿佐は聖徳太子と会ったと言う話もあります。

以上、整理すると、
威徳王の即位前に恵王子が来日。
その前後に阿佐太子が杵島郡八艘帆が崎に上陸。
42年後、威徳王の在位中に王子阿佐が来日。

となります。
同一人物かどうか、決定打がありませんね。

ただ、興味深いのは、阿佐太子が上陸した場所が杵島郡だという点です。
つまり、百済から長崎回りでやって来たのでしょうが、
火ノ君が世話をしているんですね。

時代的には筑紫君葛子の次の世代なんです。
跡取りは宮地嶽祭神の勝村・勝頼か、あるいは別の子供がなったのか。

また、筑紫君と火の君は別人がなったのか。

そのあたり、「筑紫火君(筑紫君の児、火中君の弟)」なんて名前まで出て来たから、
あとちょっとで系図が書けそうなのになあ、と残念です。







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by lunabura | 2014-10-16 20:49 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(0)

八艘帆が崎・五十猛、百済王子・阿佐太子、空海が上陸した


八艘帆が崎
はっすぼがさき
五十猛、百済王子・阿佐太子、空海が上陸した


「八艘帆が崎」。
船と岬が連想される地名ですが、平野にあります。


c0222861_20511221.jpg

ここは佐賀県杵島郡。


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ここにはかつては海が広がり、小山は島でした。
緑なす田を海原に変えるとイメージが湧きますね。

左手が八艘帆が崎で、正面に見える森が島でした。
その向こうに、武内宿禰の居館跡山惣があり、その近くの石崎に湊がありました。

山と山の間の低くなった峠を越えて唐津へ抜けることが出来るような場所です。


そして八艘帆が崎の説明板。
そこには百済王子の渡来が書かれていました。
その名は阿佐太子。

八艘帆が崎(はっすぼがさき)
 古代海中に浮ぶ杵島山の山麓東南に二大良港があり、
一は竜王崎、二は八艘帆が崎である。

一、口承によれば稲佐大明神着岸のところを焼天神と伝えている。

二、神代の時、素盞嗚尊の子、五十猛命は孤津、大屋津命と共に韓地より樹種を持ち帰り、この岬に着岸され全山に植林せられたと言われている。

三、稲佐山累縁記によれば、百済聖明王の王子阿佐太子は、欽明天皇の勅命により、火ノ君を頼り稲佐に妻子従房数十人、八艘の船にて来航、座所二カ所を設けらる。

一を北の御所と言い、一を太子庵という。この岬に八艘の帆を埋没したので、その後八艘帆が崎と言う。

四、平城天皇大同二年、空海上人(弘法大師)帰朝し、ここ八艘帆が崎に上陸、太子庵にて稲佐山開創の事務を執らる。
補、焼天神の 白は、八艘帆が崎と同じである。

平成四年四月吉日   御即位大嘗祭記念
稲佐文化財委員会

うむ。如何ですか。
どれもこれも重要な話です。


有明海沿岸という、干満の差が数メートルに及ぶような土地には、
外洋船が泊まれるような湊はいくつもは無いのですね。

その点、当地は水深があったため、外洋船が停泊し、
五十猛、阿佐太子、空海という人たちが次々に足跡を残しました。

「二」の五十猛は久し振りに出てきました。
樹の種を持って来た神ということで、古代史でもよく名の出てくる人ですが、
ここがスタート地点だとすると、また面白い展開が望めそうです。

巨石と絡まっているので、調査のターゲットに再び入ってきました。
全容が分かるといいですね。

「三」の阿佐太子。
聖明王の王子で、欽明朝に火ノ君を頼って妻子も連れての着岸です。
火ノ君は王子の為に二カ所の座所を設けています。

あいにく、この日は稲佐山全体を探査しておらず、郷土史も調べなかったので、
これ以上の事は分かりません。

説明板では「欽明朝」ですが、阿佐太子をネットで調べると、
「推古朝」に出てくるらしい。
聖徳太子の画像を描いたという伝承があって、韓流ドラマに出てくるらしい。

でも、「欽明朝」と「推古朝」。
これは違う人?同一人物?

欽明紀なら、磐井の孫、すなわち宮地嶽神社の勝村・勝頼や
熱田神社の鞍橋君の時代に当たるのです。


熱田神社(3)百済の王子を助けたクラジの君は葛子の子だった
http://lunabura.exblog.jp/22277202/
鞍橋君の系図のお蔭で、磐井は新羅ではなく、
百済と関係が深かったことも分かったのです。

この辺りが、『宮地嶽神社と磐井の末裔たち』の論題の一つでもあります。

自分でも、もう一度読みなおそう。
資料がないけど、ちょいと調べてみます。





八艘帆が崎





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by lunabura | 2014-10-15 20:59 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(0)
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