ひもろぎ逍遥

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パソコンの初期化



パソコンの調子が少し悪いのですが、関連各社に問い合わせたところ、
結局、初期化しなくてはならなくなりました。

初期化そのものは購入直後に二度経験しているのですが、
さすがに数年使ったので、データやソフトなど、事後処理が大変そう (^_^;)

今からデータの複数保存に取り掛かって、年明け早々にはやることにしました。
データはハードディスクに保存しますが、それでも不安なので、どうしたもんか。
古い予備のパソコンにも保存しようかな。

アドバイスや失敗談、成功談などありましたら教えてくださいね。

多分、これが年末の御挨拶になりそうです。
皆さま、よいお年を!

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by lunabura | 2014-12-30 00:55 | にっき | Trackback | Comments(2)

安曇族と天皇の食事・膳部(かしわでべ)


安曇族と天皇の食事

膳部(かしわでべ)
 
安曇族が天皇の食事に係わっていたという話は、
例の寝言「オイ、タカハシ~」という件があって、
覚えている方もあるかもしれません (^_^;)

安曇族と高橋族
http://lunabura.exblog.jp/20395727/


寝言を言ったのは、わたし。

私はその夢を全く覚えていないのですが、その翌日、トシさんから電話があって、
思いがけない展開が。
阿曇氏と高橋氏が半年交代で天皇の食事の調理を担当していたということを
知ったのです。

ホント驚きましたね、あのタイミングは。

その役職名が膳部(かしわでべ)です。
今回、「膳部」をもう一度ネットで調べると、詳しい話が載っていました。


日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
膳部かしわでべ
古代において朝廷の食膳(しょくぜん)を調えることを職とした専門集団の称。膳夫(かしわで)とも。

膳部の統領(伴造(とものみやつこ))を膳臣(かしわでのおみ)といい、孝元(こうげん)天皇の皇子大彦命(おおひこのみこと)(阿倍臣(あべのおみ)の祖)の孫磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)が景行(けいこう)天皇に堅魚(かつお)と蛤(はまぐり)を調進して嘉賞され、膳部の統領に任命されたのが起源であると伝える。

膳部は中央にあって天皇・百官の食事の調製にあたり、また各地に分散居住して食料品の貢納を担当した。

 律令制(りつりょうせい)下では宮内省(くないしょう)大膳職(だいぜんしき)に膳部160人、同省内膳司(ないぜんし)に膳部40人が所属し、それぞれ百官・天皇の食膳の製造に従った。

このうち、内膳司の長官(正(しょう))には膳臣(のち高橋朝臣(あそん))を任命することが多く、その場合とくに内膳奉膳(ないぜんのぶぜん)と称せしめ、一般官人を任じた内膳正(しょう)(かみ)と区別した。[黛 弘道]

上記の
「内膳司の長官には膳臣(のち高橋朝臣)を任命することが多く」なった背景には
高橋氏の讒言があっての阿倍氏の失脚があるようです。

ところが先日、その話が出た時、思いがけず、Yさんが、
高橋氏と安曇族は同族だったと教えてくれました。
へえ。そうなんだ。

高橋氏も阿倍氏も同じ安曇族として、半年おきに奉仕していたのが、
官僚社会になって、地位や利権争奪の渦巻く中、
一方が独り占めしようとしたのでしょう。

ところで、上の文の中に「大彦命」が出てきましたね。
阿倍臣の祖とあります。

この名前は黒殿神社(糟屋郡久山町)に出てきましたよ!
ちょいと寄り道しましょう。

黒男神社由縁の概略
第八代孝元天皇―太彦命―武渟川別命―阿部家祖先
           L 第九代開化天皇―第十代崇神天皇
           L 彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―武内宿禰

当社では阿倍家のルーツは「太彦命」と書かれています。
「大彦」も「太彦」も同一人物でしょう。

阿倍家の祖先に太彦命の名が出て来た理由は次のように書かれています。

神功皇后に随っておられた太彦命の御子武渟川別命もカタ山に陣を張り、しばし足を止められている内に一子を挙げられ、その子孫が年月と共に繁栄し、数十戸に及んでいる。これが阿部家の先祖である。

武渟川別命は地元の娘との間に子供が出来ているのです。
(他でも現地の女性との間にも子が出来ています)

黒殿神社は神功皇后のための斎宮を守る陣営の跡地に出来た宮で、
香椎宮との連絡も容易な場所です。

香椎宮や斎宮の地理を知って、宮地として提供できたのは
地元の安曇族だろうとどこかで書きましたが、
ここまで伝承同士が合致するなら、
武渟川命が子を生ませた女性とは安曇の娘と見て問題ないでしょう。

その子の名が「磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)」かどうかは
分からないんですけどね。

しかし、上記の「磐鹿六雁命が景行天皇に堅魚(かつお)と蛤(はまぐり)を調進して
嘉賞され、膳部の統領に任命されたのが起源」という事は、
安曇族と天皇家に篤い信頼関係が在ったことを示しています。

時代的にはどうなんでしょうか。
十二代景行天皇の皇太子・日本武尊は武内宿禰と共に佐賀で戦っています。
十四代目が甥っ子の仲哀天皇ですから、系図を見ても、時代的には矛盾がありません。

回り道しましたが、今日のポイントは
阿倍氏である磐鹿六雁命が景行天皇にカツオとハマグリを調理して出して、
膳部の統領に任命されたという話です。

カツオとハマグリなら、春の食材かな ♪

これでようやく『儺の国の星拾遺』に取り掛かれます (^_^;)


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志賀島 二見岩と立花山と鵜


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by lunabura | 2014-12-27 21:11 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志賀海神社・二本の銀杏と日面見


志賀海神社
二本の銀杏と日面見

朔旦冬至はあいにくの曇空。
志賀海神社から見える冬至の日の出観測を計画していたのですが、
予定を変更して午後に行った話は前回書きました。

三人衆は遥拝所であれやこれやと。
「あれは銀杏ですよね。まだ一度もこの木の黄葉を見たことがない」と私。

「銀杏ですね。雷に遭っている。そして周囲から新しい幹が出ていますね」
「ということは、昔は遠くからもよく見えたんですね」

銀杏は神社の灯台代わりをしているなと、よく思います。
銀杏を見て神社を探し当てることはよくあるのです。

「おや、もう一本ありますね」
見ると、右手、すごく近い所に銀杏がありました。
普通はこんなに近くには植えない。

「これは角度が!」
二本の銀杏は狭い間隔で、ちょうど遥拝所を挟むように並んでいるのですが、
遥拝所の鳥居とは角度がずれているのです。

「おお、これは太陽が冬至から夏至までを観測する額縁になっている」
「どこ、どこ?どこから見たら額縁になるんです?」
「この辺りからがちょうど見えますね」
それは鳥居の手前で参拝する時の位置に近かったです。
つまり、冬至と夏至のポイントを両脇の銀杏で決めれば観測の基準になるってこと。

「遥拝所は境内の形状の為に少し斜めに作られたのでは?」
言い換えれば、ここはかつて太陽観測所だったけど、
崖のラインに沿って遥拝所の敷地を作ったために、
二本の銀杏のラインとは平行しなくなったということです。
(むむ、分かりたかな。現地に立つとよく分かるのじゃが)

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 これが正面。

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次に左右の銀杏を入れた正面。

Tatsuさんからメールが届きました。
「志賀海神社の遥拝所はとても面白いところでした。

二神山の遥拝所というより、太陽信仰の跡の印象でした。
東の山々の「日面見山」(かづらみやま)という命名は秀逸です。

日出の範囲に枠を嵌めたような両脇の二本の銀杏は、日々
位置を変えてゆく太陽に呼応するように装いを変え、季節の
移ろいを演出します。銀杏の色付きや落葉で気象予報なども
行ったかもしれません。」

上手いこと表現しますなあ。

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「銀杏の額縁から見ると、大嶽神社の山がよい中継点になっていますね」
「だから大嶽神社も遥拝するんですね」
なるほどです。

脇の立札の最後の部分にこう書いてあります。
「遥拝所は右斜め対岸の大嶽神社・小嶽神社と正面真東の伊勢の神宮、宮中三殿を拝します。」

大嶽神社の祭神は志那都比古・志那都比売・大濱宿禰・保食神の4柱です。
ここには大濱宿禰の砦があったと聞きます。

本来、志那都比古と志那都比売の二柱が主祭神だったのでしょう。
風の神ですが、星の名前から考えると、スピカを指します。

かつてはスピカは紀元前666年の頃、春分の日を教えてくれる星でした。
だから、ここは星や磐座祭祀を視野に入れたい地点なのでした。

ここから宮中三殿を拝するのも謂われあってのこと。
神武天皇が安曇の子だったこともありますが、安曇が膳部(かしわで)だったことが
この地点と関係ないわけではないことを『儺の国の星拾遺』から知ったのです。
(つづく)


コメント下さった方々、今日はお返事できません。
少々お待ち下さいね。
いつもありがとうございます^^


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by lunabura | 2014-12-25 20:19 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(2)

朔旦冬至 ごほうびは沖ノ島♪


朔旦冬至

ごほうびは沖ノ島♪


19年に一度の冬至の新月。
今日は玄界灘の太陽祭祀線の確認のために、遠方からのお二人を御案内。

積雪の予報だったので志賀海神社からの日の出はあきらめ、渡半島へ。

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今朝の太陽光線は強かったですね!
強烈な寒風の中、楯崎神社へ。

カシミール3Dの冬至の日の入りの画像と実景の比較などをしました。

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楯崎神社の岬からは相島がこんな風に見えます。
今日、この方面に夕陽が沈むんですね。


そして、今朝は、なんと! 沖ノ島が見えました!

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向こうは晴れていて輝いています。
望遠でないのでやっとこさ、こんな画像。
実際には、かなり大きく見えます。

ここから60キロほどの所にあるのに、すごく近くに見えました。

いやあ、普段から見えていて気がつかなかったのかも。
一生見ることは出来ないだろうと思っていたので、御褒美を頂いた気分です♪



それから志式神社に参拝して、
高良玉垂宮の縁起絵巻に描かれた現地を確認。

続いて志賀島へ。
志賀海神社参拝のあと、島を一周。

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ずっと曇っていたのですが、一瞬、雲が切れて、二見岩の鵜と波がうまく撮れました。

元宮、金印公園のあと、火焔塚へ。
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チェリーさん、車の中から撮りましたよ。
ここは山の中で、現在、視界不良の場所でした。

モンゴル軍が攻めて来たとき、高野山の僧侶が護摩祈祷したのち、
不動明王の火焔部分を残して立ち去ったあとだそうです。


そして、山頂の潮見公園へ。

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最後に一瞬、光が差してくれました。



今日は新月と太陽が並びながら玄界灘を渡って行きました。
荒波と寒風を満喫。

二人に教わった事、少しずつ消化していきたいなと思います。




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by lunabura | 2014-12-22 21:31 | にっき | Trackback | Comments(8)

(4)道真と時平が争ったもの


(4)道真と時平が争ったもの


右大臣だった菅原道真は、左大臣の藤原時平の讒言にあって
太宰権帥として筑紫に左遷された。
時に、道真57歳。時平30歳か。

そもそも、二人の争点はなんだったのか。
ウィキペディアには次のように書かれている。
時平と道真との確執については、個人的な嫉妬のみならず、律令制の再建を志向する道真と社会の実情に合わせた政策を採ろうとした時平との政治改革を巡る対立に求める意見がある。

真鍋が二人について書いているので、今日はそれを読んでみたい。

宮内の賢所(かしこどころ)とは、元来は日月星の神を祀っていた。「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を平安時代の女官が改めた名である。(略)

賢所には暦の基(もとゐ)となる日月星を祭ることになっていた。今も神社の軒(のき)や廂(ひさし)に三光の流紋を飾るのがこの式例である。

時には三つ丸、時には三つ巴になるが、いずれも主旨は同じであって、延喜式の頃からいろいろ模様更えが藤原時平(871~909)の顔色を気にしながら、あれこれと創案されたと聞く。

藤原氏が太陽神一つに信仰の対象を絞る正朔をえらんだことは藤原道長(966~1027)がその日記に今の七曜を傍注していたことからも推し量ることができる。

藤原氏は太陰神と石位(いわくら)神を遠くした。記紀に出る星晨の神々をことごとく諾冊二神(イザナギ・イザナミ神)の系統に合祀した。もって多くの神々の容色が百姓の心から去っていった。

高木の神もその一柱で、これを高産神(タカミムツミ)に併せた造化三神の一柱なる神産神(かみむつみのかみ)には、高木神なる神名は如何なる創意を考えたか不詳である。

人間が神の存在をあれこれと配置転換した延喜式の挙に対して、真向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

天神地祇を左右する延喜式は、やがて本地垂迹、神仏混淆の弊を招き、ついには人持って自ら神となる。人能く神を作る事を上に倣い、下に常となすことが近世から現代に流行する発端となったのである。

『儺の国の星拾遺』p19

出目・袴着天満宮(久留米市)の所でも、上記の一部を口語訳で紹介したが、
ここでは少し長く引用した。
少しずつ詳読してみよう。

宮内の賢所(かしこどころ)とは、元来は日月星の神を祀っていた。「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を平安時代の女官が改めた名である。(略)

賢所には暦の基(もとゐ)となる日月星を祭ることになっていた。今も神社のノキや廂(ひさし)に三光の流紋を飾るのがこの式例である。時には三つ丸、時には三つ巴になるが、いずれも主旨は同じであって、延喜式の頃からいろいろ模様更えが藤原時平(871~909)の顔色を気にしながら、あれこれと創案されたと聞く。

沖縄の「ぐすく」は御城とも書かれているが、その多くは軍事拠点の性格はなく、
聖域説などがあるようだ。

真鍋はそれを「観星台」と伝えている。星とは当然「太陽・月・星」を指す。
そのシンボルが神社に見られる三光紋である。

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(高良大社の神宝)

観星台は ぐすく → ごしょ → かしこ と変化した。

だから、宮内の賢所(かしこ)も当然ながら日月星の神を祭っていたという。

暦を決めるための観測は「日月星」の三つが揃って初めて成り立つ。
だから、「太陽神と月神と星神」を本来は祀っていたのが、
時平の時に変化したという。

それが形になったのが「延喜式」だ。


藤原氏は太陰神と石位(いわくら)神を遠くした。記紀に出る星晨の神々をことごとく諾冊二神(イザナギ・イザナミ神)の系統に合祀した。もって多くの神々の容色が百姓の心から去っていった。
石位とは星のことだ。

延喜式はあらゆる神々をイザナギ・イザナギの系統にまとめ上げてしまった。
そのために月の神と星の神々の存在が忘れられる原因となった。

すでに当時、記紀からは月神と星の神は光を消していた。

筑紫の水城で、太陰暦ではなく、新しく太陽暦の鐘を高らかに鳴らしたのは
天智天皇だった。

日本神話に星の神がいないことが私にはずっと謎だった。

真鍋の話から伺えるのは、やはり倭王朝から日本王朝への変化と
月や星の神々が消えていくのは期を一にしているということだ。

その仕上げが延喜式だったのだろう。

人間が神の存在をあれこれと配置転換した延喜式の挙に対して、真向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

それぞれの氏族には歴史があって神々がいた。
しかしその神々は延喜式によって都合よく書き換えられた。
道真はこれに真っ向から対決したというのだ。

この「延喜式」について、ウィキペディアを見ると

延喜式 
成立 905年(延喜5年)、醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め、時平の死後は藤原忠平が編纂に当たった。『弘仁式』『貞観式』とその後の式を取捨編集し、927年(延長5年)に完成した。その後改訂を重ね、967年(康保4年)より施行された。

となっている。

道真の左遷は901年で、四年後の905年に勅命が出たということは、
延喜式の計画はかなり早くから提起され、道真は強く反対していたということになる。

高木の神もその一柱で、これを高産神(タカミムツミ)に併せた造化三神の一柱なる神産神(かみむつみのかみ)には、高木神なる神名は如何なる創意を考えたか不詳である。

高皇産霊神(たかみむすび)は宇宙から出現したのち、姿を隠した。
なのに、アマテラスの時代になって、高木神と名を変えて、
アマテラスの参謀のような姿でまつりごとの主体者になっていた。

私は『古事記』を訳しながらこの不自然さに、とても驚いた。
これがずっと謎で、本来は別神ではないかという思いがいまだに捨てきれないでいる。
しかし実態が分からず、ついつい同神として取り扱っている。

真鍋大覚でさえ、高皇産霊尊に高木神という名をつけた意図を測りかねていた。

「延喜式」は神社のランク付けをして、神々を自由に取り扱った。
その思い上がりが、仏と神を混淆していくという、
本来の姿から掛け離れた宗教形態を生み出したと言いたいのだろう。

今、人々が神社に対して御利益を求め、単なるパワースポットになってしまったのも、
真鍋が生きていたら、この延長にあると言うのだろう。

道真が時平との対立に勝っていたら、平成の神社の在り方も違っていたかもしれない。

そして、ここまで書いて思った。
私たち渡来人の集合体が日本人としてまとまった事に、
案外、延喜式は一役買ったのかもしれない。

禍福は、あざなえる縄の如しというではないか。




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by lunabura | 2014-12-21 17:17 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(2)

(3)道真の遺言・「思ふ所」とは何だったのか


(3)道真の遺言
「思ふ所」とは何だったのか


太宰府天満宮の始まりは菅原道真が埋葬されたことからだという。
天満宮のHPを読んでみよう。

太宰府天満宮は、菅原道真(すがわらのみちざね)公の御墓所(ごぼしょ)の上にご社殿を造営し、その御神霊(おみたま)を永久にお祀りしている神社です。「学問・至誠(しせい)・厄除けの神様」として、日本全国はもとより広く世のご崇敬を集め、年間に約700万人の参拝者が訪れています。
成り立ち

道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。

門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。

延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟(しびょう)が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。その後、道真公の無実が証明され、「天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)」という神様の御位を贈られ、「天神さま」と崇められるようになりました。

太宰府天満宮の本殿の地下に菅原道真は眠っているのだが、
ここに決めた理由は「牛が伏して動かなくなった」ためだという。


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いったいこの牛は何処に連れて行かれようとしたのだろうか。
火葬場へと向かっていたのだろうか。


くるま座さんは興味深い資料を提示した。

それは「道真の遺言」と、「太宰府で亡くなった貴族たちの遺骨の取り扱い」
について書かれた記述のコピーだ。(出典不明)

『北野天神御伝』は延喜三年正月、道真が次の遺言をしたと伝える。

余見る、外国に死を得たらば、必ず骸骨を故郷に帰さんことを。思ふ所有に依りて、此事願はず。

大宰府をはじめ京の外で死去した中央貴族の遺骸は、骨送使の手によって都へ運ばせている。しかし、道真は「思ふ所」によって、あえてそのことを願わなかった。そして、遺言のとおりその遺骸は大宰府に葬られることになった。

当時は客死しても火葬されて遺骨となって自家に送られたらしい。
骨送使という官人までもいたということだ。
だから、道真が太宰府に埋葬されることは「当時の慣例を破った」ものだったのだ。

道真の辞世の詩の結びには「帰家」とあり、家に帰る事を切に望んだはずの道真が
あえて墓所を安楽寺に求めた。

いったい「思ふ所」とは何だったのか。
それは墓所とした太宰府天満宮の前身が「安楽寺」だということにその答えがある、
とくるま座さんは言う。

「ということは、安楽寺はもっと古くからあったの?」
「そう」とくるま座さん。


「牛が動かなくなった」という差し障りの無い縁起の背景に「隠されたものがある」
と解釈することに無理はない。


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確かに、境内の志賀社の札には
「古代後期より中世にかけて海外貿易を行っていた安楽寺(太宰府天満宮)は海上安全の海の神として祀る。」
とあり、安楽寺が古くからあったような文面となっている。

これを見て真っ先に思い出したのは宮地嶽神社の宮司が言われた
「「安」「阿」が付くのは安曇族です」ということばだった。

太宰府天満宮の志賀社は綿津見の三神を祀っている。
ほかでもない、安曇族そのものが祀っている証しだ。

そうすると、「安楽寺」も安曇族の経営する寺だった可能性がある。
海外貿易を担える古代豪族は他には数少ない。

さらに突き詰めれば、ここは倭王朝の重要拠点だったと考えられる。

今、安曇磯良の話(第一回)を志賀島で話したところだが、
仲哀天皇と神功皇后を支えた二雄、竹内宿禰と安曇磯良の歴史上の扱いの差が
気になってしかたがない。

竹内宿禰の話をした直後だったので、その差は印象深かった。

竹内宿禰の名声は轟き、古代豪族がこぞって、我が祖先としているのに、
安曇磯良は名前どころか痕跡までも、すっかり消されているのだ。

両雄はそれぞれ「高良の神」(竹内宿禰)、「高良玉垂の命」(安曇磯良)という神名で祀られたが、
やはり後世には両神とも竹内宿禰に集約されていく。

だから、安曇磯良の名を消す必要があったのだと確信するに至った。
誰が消したのか?
それは倭王朝と日本王朝という二大勢力が日本王朝に収斂されている点に
ヒントがある。

唐突に出す名前だが、豊玉彦(豊玉姫の父)の影を私はずっと見ていた。

豊玉彦から安曇磯良へと続く安曇族こそが
倭王朝の主たる系統だと今は確信している。

安曇の子、イワレヒコ(神武天皇)の東征を母方として支援して来た安曇族だが、
この東征こそ、先々、安曇磯良の名を消す種を蒔いてしまうことになった。
東の地に日本王朝の芽が生じたからだ。

道真が「思ふ所」とは、何だったのか。
消えた倭王朝の残り香を伝えようとしたのだろうか。
その手掛かりを残すために、「骸骨を故郷に残さんことを願」わず、
ここに埋葬されることを願ったのだろうか。



地図 太宰府天満宮


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by lunabura | 2014-12-18 20:22 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(2)

(2)道真と鳩文字


道真と鳩文字


所は変わるが、宗像市赤間の古社、八所宮(はっしょぐう)の神額は小野道風の書だという。
鳩文字で書かれているのが特徴だ。

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八の字や点など、複数の鳥が見えている。


聞き覚えで、あいまいだが、太宰府に居た時に鳩文字を習得したらしい。
道風が太宰府に居たのかどうかは未確認だ。


で、思い出したのが、菅原道真の鳩文字だ。
これはくるま座さんが数年前に発表した研究の中に出て来たもので、
今回はどんな話だったのか、思い出してみたい。

道真の没後、都では道真を陥れた藤原時平の一族が次々に死んでいく。
そして三十年経った頃、小さな子供に道真の霊が憑いて、託宣したという。

「自分に思いを寄せるものがいればこれらの詩句を詠じるがよい」
その詩というのが次のものだ。

離家三四月 落涙百千行 
万事皆如夢 時々仰彼蒼
盈城溢郭幾梅花 猶是風光早歳華
雁足将黏疑繋帛 烏頭点著思帰家

このような話が『江談抄』に載っているそうだ。

これは『菅家後集』の巻頭の作品と巻尾の作品を組み合せたものだという。
その二つの作品を並べてみた。

476 五言自詠 
離家三四月 落涙百千行 万事皆如夢 時々仰彼蒼

故郷を離れて数ヶ月、とめどもなく涙が頬をつたう。全ては夢と思うほかなく、今は天を仰いで我が身の運命を訴えるだけだ。
(訳は市のパンフレットより)

514 謫居春雪
盈城溢郭幾梅花 猶是風光早歳華 雁足将黏疑繋帛 烏頭点著思帰家

大宰府の内にも外にも春の雪が降り積もって、どれほどの白梅が咲いたのかと見誤った。これは歳の初めに咲いた美しい花に相違ない。雁の足に雪が粘りついているのを見ては、蘇武が匈奴から帰還できた故事を思い、カラスの頭に白いものがポツンとついているのを見ては、燕の太子丹が故郷に帰れたことを思う。(…自分も家に帰りたい!)
(514の訳は 古典・詩歌鑑賞(ときどき京都のことも)より)
476は太宰府で詠まれた詩として有名だ。
514は辞世の詩だ。

この二つの詩の赤字の部分を組み合わせたものを読み取れば
道真の思いが分かるというのだ。
もう一度、書いてみよう。

離家三四月 落涙百千行 
万事皆如夢 時々仰彼蒼
盈城溢郭幾梅花 猶是風光早歳華
雁足将黏疑繋帛 烏頭点著思帰家

青字の「離家」と「帰家」に注目するだけでも、道真の思いが伝わってくる。

託宣の真偽はともかく、当時の人々はこれを受け入れたのだろう。

そして、「476 五言自詠」を道真がふすまに書いたと言われるのが次の書幅。


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これを見て驚くのが「鳥の姿」が沢山描かれているという点だ。
止まっている鳥、飛んでいる鳥、振りかえる鳥。
私は14羽見つけたけど、どうだろうか。
もっと居るかもしれない。

くるま座さんはこの「鳥」に注目した。
「太宰府天満宮と鳥」といえば、「ウソ替え」を思い起こす。

この行事は木彫りの鷽(ウソ)を取り替える行事だが、
もともと大江正房が企画したものだそうだ。

「鳥を替える」は「鳥に替える」とも解釈できるとくるま座さんは言う。

つまり、有名な「飛梅」の「梅」を鳥に替えると「飛鳥」となって「あすか」となる。
「あすか」は奈良だけでなく、九州にもあり、
それは即ち、九州王朝の存在を示すものだというのがくるま座さんの結論だ。

また、鳩文字は呉王夫差(?~紀元前473)の剣に彫られているという。
この夫差の子孫が熊本の松野連(まつのむらじ)に繋がっていくのだ。


「何かが隠されている。それは九州王朝の存在なのです。道真はそれを伝えたかった」
と、くるま座さんは語る。

「飛梅」と「飛鳥」の解釈はもう少し説明が欲しいところだが、
ちょっと、面白い。

(つづく)





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by lunabura | 2014-12-16 19:36 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(4)

(1)太宰府天満宮 道真の正室と舅


太宰府天満宮
道真の正室と舅(しゅうと)

何年振りだろうか。
太宰府天満宮に改めて参拝した。

雨が雪になり、雪が雨になっていた。
歴史を歩き始めて見る天満宮は別世界だった。

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赤い太鼓橋を渡ると志賀社があった。
御祭神は海神 綿津見三柱神だ。

「古代後期より中世にかけて海外貿易を行っていた安楽寺(太宰府天満宮)は海上安全の海の神として祀る。」(説明板)
これは安曇族と安楽寺の強いきずなを示していた。
  

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菅原道真の正室の社があった。
「楓社」とある。

正室の名は島田宣来子(のぶきこ)。
女性の名前が残っているのは大変珍しい。
読み方は東北で「せきこ」と振り仮名をうっているものがあった。

宣来子は道真の五歳下。
25歳で嫁いだので、当時としては遅い結婚だっただろう。
しかし、別の資料では10歳で嫁いだことになっている。
いったいどっちが正しいのか、真実はここでも一筋縄ではいかないようだ。

道真がこの地に左遷された時、宣来子は京都に残った。

これまで逍遥して気になっていたのが、吉祥女という夫人のことだ。
これが正室を指すのか側室を指すのか私には分かっていない。

これまでは若くして死んだ側室として解釈してきたが、今立ち止った。
宣来子の墓所は北政所吉祥女住所蹟(きたのまんどころきっしょうにょじゅうしょあと)
となっているのを知ったからだ。

筑紫で道真と並んで祀られている吉祥女とは誰の事だろうか。
素直にこの宣来子としていいのだろうか。



宣来子の父は島田忠臣。
正殿の真裏に祀られていた。
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忠臣は道真に詩を教えたという。
そしてその忠臣は道真の父是善(これよし)の弟子だったという。


島田忠臣の名を立て続けに三人位から聞いた夏があった。
私はその名を知らなかったのだが、年配の人には有名らしい。

道真の師匠なら有名なはずだ。

その夏、道真の真実を追う男に会った。
道真の真実が分からないから、その周囲の人を調べていると言った。
私が神功皇后を追っている時の手法と同じだった。

その男は島田の一族が平家一門で、飯塚の山の中に逃げ込んだことを突き止めていた。
そして、私はその一族を知っていた。

山の中に平家が逃げ込めたということは、それを導く一族がいたということだ。
それが何族かが分かっていない。


また、その麓の老松神社は大己貴神と少彦名神が滞在したと伝え、
また道真と親交を結んだということなので、同族として支援したのが分かってきた。
その地名は桂川町土師だ。
「出雲」も近い。
これは多くのヒントに満ちている。




話を太宰府天満宮に戻そう。


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その摂社には天穂日命社があって、菅家祖神として祀っている。


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そして、野見宿禰社も菅家祖神を祀る。
いずれも熔鉄の神と、私には見える。


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柿本人麻呂もこうして並ぶと青銅の神。


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武内宿禰を祀る高良社もあった。

神功皇后の時代を継承する力学関係が在る程度、続いていたことを暗示している。


道真は亡くなるまでの二年間蟄居していただけだろうか。
否。
高良山麓にはいくつもの伝承があるので、参拝したのはこの間のはずだ。
支援者がいたことは明らかだ。

道真の子は多かったようだが、九州では追討されたのか、不穏な話をいくつか聞いた。


そして、道真の最期の詩の冒頭に「松梅」と書かれていたことを知った。
「松」と「梅」だ。
続きが分からない。
さっきネットに出て来たのに、もうその詩が見つからない。
(検索が得意な方、見つけたら教えてほしい)



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道真を知ることは、亡びた倭王朝の残照を知ることになることを確信した。

それは栄華の時代を照らし出してくれるだろう。
そして、古出雲の輪郭を明らかにしてくれることだろう。

今回は皆さんに力を借りたい。
道真の伝承の神社に関して社号・住所・縁起・祭神など教えていただきたい。
リンク先でも結構。

亡くなる前の二年間が明らかになればと思う。




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by lunabura | 2014-12-14 22:37 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(18)

6 国分松本遺跡と水城東門 またもや敗退


6 国分松本遺跡と水城東門

またもや敗退


木簡が出た国分松本遺跡に現地説明板が立った!
いざ現地へ。
と資料を手に入れて再びチャレンジしました。
が、あえなく敗退。
ネットの地図には住所が書かれていないので、
現地説明会の時の住所をナビに入れましたがその番号は存在せず。
車だと、一路地間違うと戻れない細道で、あきらめました。

残念でしたが、現地は筑前国分寺跡と尼寺の中間付近で、
川がかつては流れていたことを地図上で確認。
現地は傾斜のある坂で、
下ればすぐ水城に出るような場所だということが分かりました。

つまり、船着き場ではないことを確認できたのが一番良かったかな。
13点の木簡の中には廃棄するために折られたものもあり、
何らかの施設が在った所だと推測されています。


で、ここから、ちょっと下れば大伴旅人と郎子児島が別れた水城があるんですね。
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凡ならば かもかもせむを 恐みと 振りたき袖を 忍びてあるかも 
(おほならば かもかもせむを かしこみと ふりたきそでを しのびてあるかも)
大意 あなたが平凡なお方なら私の思うようにしますのに、
恐れ多くていつもならはげしく振る袖をこらえて振らずにいます   巻六 965 郎子児島

ますらをと 思へるわれや 水くきの 水城のうえに なみだ拭はむ
(ますらをと おもへるわれや みずくきの みずきのうえに なみだのごはむ)
大意 立派な男子だと思っていた自分も 
水城の辺りに立って涙を拭(ぬぐ)うことであろうか。   巻六 968 大伴旅人


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ここは水城東門付近。

木樋があった所で、コンクリートのレプリカ見えています。
これを造った人、そして行き交った人々。別れた人。
多くの思いが籠った場所でした。

水城は今年、各地で歴史講座があって、多くを学びました。
それは真鍋の伝える水城の姿を補う物ばかりでした。

通説の、天智天皇が一年で防御施設として作ったという解釈には
多くの誤りがあることを確信しました。

久留米大学公開セミナーでお話したことに加えて新たな資料も出てきました。
これらをどんな形で残そうかと思案しています。





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by lunabura | 2014-12-13 21:41 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(3)

5 筑前国分寺と天満宮


5 筑前国分寺と天満宮


御笠団印出土地から来た道に少し戻り、坂を上っていくと文化ふれあい館に出ました。
館内には御笠団印と遠賀団印のレプリカが並んでいましたが、
撮影禁止なので外の七重の塔だけ御紹介。


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これがこれから向かう国分寺に立っていた塔の十分の一のレプリカです。


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国分寺を目指して坂を下りて行き、開けた所出ると寺跡がありました。



現地説明板より。
国分寺は、奈良時代の中頃、諸国に置かれた官寺で僧寺と尼寺があった。
当時は天然痘の流行や内乱などの社会不安が続いたため、平安を願うべく、聖武天皇は諸国に国分二寺の建立を命じた。世に言う「天平十三年の詔(みことのり)」(741年)で、筑前国分寺は、大宰府政庁西北の見晴らしの良いこの丘陵上に建てられた。しかしその創建についての記録は残っていない。ただ、西海道の国分寺が天平勝宝8年(756)には建てられていた記録があるので、筑前国の国分寺もこの頃までには完成していたと考えられる。

創建当時の筑前国分寺は約192m四方の寺域に金堂・七重塔・講堂などの建物が整然と配置されていたが、律令体制の衰退とともに国分寺の役割も失われていき、っ建物も荒廃していった。
 発掘調査の結果、当時の講堂や塔・回廊の一部が確認され、その構造と規模が判明した。調査後は整備が施され、塔基壇や回廊の基礎部分が平面的に表示されている。

創建の記録がなく、その跡が残されて実態が掴めたという寺院遺跡です。
構造は航空写真の方が分かりますね。




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南の方から遺跡と山を一緒に撮りました。
ピークが大城山でしょうか?大野山、四王寺山とも言います。
(ということでOKでしょうか。異称が多いですね)
チェリーさんは「しおじやま」と言っていたとも。
真鍋は「潮路見山」(しおじみやま)といって、水城の潮の満ち引きを観測していたと言います。



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撮影地点からさらに南に行くと、天満宮がありました。


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敷地計画として、国分寺とセットなのかな、と思われるほど近かったです。



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その境内に万葉歌碑が。


大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯の風に 霧立ちわたる
                山上憶良
(おおのやま きりたちわたる わがなげく おきそのかぜに きりたちわたる)
万葉集巻五 七九九

大意 大野山に霧が立ち渡っている。私が無き妻を想って吐く、深い深いため息で、一面に霧が立ちわたっている。

大宰帥として赴任した大伴旅人は、着任後間もなく愛妻大伴郎女を亡くす。当時筑前守としてこの地にあった山上憶良は、神亀五年(728)七月二十一日、長歌に五首の反歌をつけ、「日本挽歌一首」として旅人に奉った。その反歌の最後に詠まれたもの。背後の大野山(四王寺山)にはよく霧が立ち、旅人の嘆きを現在に伝えている。

大宰府政庁裏の坂本八幡宮近くに旅人の邸がありました。
そこからここまで歩いてくると、写真のように大野山がよく見えます。

異郷の地で妻を亡くした旅人像はリンクしている「磯良の海」さんが切々と描いてあります。

私はそれを読んで、初めて旅人という人物を心に描くことが出来たのですが、
宇佐に行って知った、隼人を滅ぼした旅人像とギャップが大き過ぎて、
とまどうばかりです。


さて、この日、私たちは木簡が出土した松本遺跡の現地に向かいました。
案内してくれたタクさんが行ったことがあるとのことで、
地図を見ながら案内してくれたのですが、どうしても分かりませんでした。

その日はあきらめて蔵司に戻りました。

そこで学芸員さんにバッタリ会ったので尋ねてみると、
マンションが建っていて、遺跡を示す案内板もないので分からないだろうとのこと。
(´・ω・`)
全国版で賑わったあの遺跡の場所も忘れられてしまうのでしょうか?

残念な思いで、水城へと向かいました。

追記
アクアさんからの情報で、国分松本遺跡の現地説明板が立ったそうです。
見てきますね!



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by lunabura | 2014-12-11 22:55 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(14)
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