ひもろぎ逍遥

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豊の秦氏


豊の秦氏

今日は「秦氏」のシンクロ。
ドアを開けたら居間のテレビがついていて、
鶴太郎が宇佐神宮に参拝するシーンが映っていました。
そのまま座り込んで見たのですが、司馬遼太郎の「街道を行く」を手にしながらの
旅番組で、最初に薦神社に向かっていました。

私が見逃した三角池(みすみいけ)のほとりで発掘をした人との対話がありました。
二メートル下は水が湧いていて、かつては沼地だったのを、
秦氏が枝敷きをして土手を7世紀ごろ版築したもよう。
枝敷きとは水城の時にも使われた敷粗朶(しきそだ)工法と同様の物のようです。

土が斜めに重ねられている図が一瞬出ましたが、王塚古墳の築造法に似てたみたい。

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テレビでは秦氏が3~4世紀に渡来して、
7世紀ごろ、豊に朝鮮半島から農法をもたらしたと言っていました。
3~4世紀というのは、ちょうど前回書いた弓月の君が求めて来た
秦人の救出のことを言ってるんですよね。

少し、私の理解が変なのかな?
秦氏って朝鮮半島由来の渡来人?
テレビでは朝鮮半島人として話していたように感じました。
私はてっきり中国から来たのだと思っていましたよ。
あらためてウィキぺディアを見ると、諸説あるんですね。


テレビでは豊の国が日本の農業の始まりという説で説明が進んでいましたが
???
板付や菜畑の方が古いと思うけど…。(´・ω・`)
いったいどうなってるんだろう。

稲作の渡来ルートの話ですが、最近Yさんから、米は北では作れないから、
朝鮮半島経由はあり得ないと聞いたばかりでした。
また、テレビでも、朝鮮半島の北は麦畑だと言っていました。
確かに、日本でも北で米が採れるまでに何百年かかったことか。


私は一時期、休耕田を借りて自家菜園をやったんですが、
その田んぼが放棄された理由は「水が冷たくて稲が育たなかった」というものでした。
山に近くて、山水が流れこんでくる地形だったんですね。
わずかの水温の差が問題だったのです。

米は冷たい水では作れないんだ。
だから、米作は南ルートでないと伝わらないという話がよく分かるのです。

歴史の世界ではこれからもずっと北ルートと南ルートの論争が続くのでしょうね。
こんなシンプルな真理は永遠に歴史の教科書に反映されないんだろうね。
「葦」を「米」と解釈させるのと同じように。


実は、今朝は「過去記事を読み直せ」というサインで目が覚めて、
秦王国に関しての考えや、弓月の君のこと、
まだまだ未熟な説を書いたな…と反省している所だったのです。

福津市の縫殿神社では、神功皇后のお蔭で加羅と通えるようになったと喜んでいます。加羅に秦人が留まっていたんですね。新羅が邪魔をしていたんです。

縫殿神社があるのは「奴山」(ぬやま)という所です。
ここに加羅と連絡を取りたかった人たちが住んでいたということになります。
3世紀ごろの話です。

秦氏の上陸地は福津~宗像近辺ではないかと思っていますが、
秦姓の分布から考えると、周防灘の方にひろがり、
豊に秦王国を築いたのかな…と考えたりしています。
まだまだ理解不足です。

ずっと前に書いた弓月の君の記事を続けて読めるようにしておきます。

http://lunabura.exblog.jp/i211/



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by lunabura | 2015-01-31 22:14 | 徐福と弓月の君と秦氏 | Trackback | Comments(0)

徐福と弓月の君・竹内宿禰は襲津彦に迎えに行かせた


徐福と弓月の君

竹内宿禰は襲津彦に迎えに行かせた


本日の妄想


佐賀県には徐福伝説が深く根付いていて、
上陸地の話や、当時ぬかるんでいた話など、
けっこう具体的な話が今でも話題になる。

福岡県でも筑紫野市の宮地岳、福岡市の名島など、枚挙にいとまがない。
秦の始皇帝から逃れた徐福は3000人の童男童女を連れて、
日本に向かった。
生殖能力を重視したのだから、新たな国造りを意図した事がみてとれる。
船の数だけでもたいそうな数だ。
各船はばらばらに日本に到着したのだろう。

佐賀県の吉野ヶ里には中国の影響があると言われるが、
徐福のもたらした文化を指すのではないかと思っている。

ばらばらになった徐福の船団は長い時間をかけて互いの居住地を発見して、
連絡を取り合うようになっていたと思われる。

徐福の死後、約400年。

竹内宿禰が生まれた。
父が武雄市で祀られている。母も同様。
母の墓は小郡市の竈門神社に伝わっている。
小郡市のすぐ隣は基山(佐賀県)だ。
竹内宿禰は佐賀生まれだろう。

基山(きやま・きざん)は「キ」の国でもある。
竹内宿禰は和歌山県の紀の国の湊も利用していて、そこにも徐福伝説がある。
同じ「キ」の国なのだろうと思っている。


つまり竹内宿禰には徐福関係の血が流れているのではないか。
それがずっと気になっている。

宗像市の織幡宮は「シキハム」様と呼ばれている。
主祭神が竹内宿禰だから、彼の名が「シキハム」というのだろうか。
まだ、確証はない。
しかし、神功皇后をそこまで連れて来て、近くのハツでハタ織りを指示していることから、
秦氏の関連性が見られる。

竹内宿禰は神功皇后を旗頭にして新羅攻撃をした。

それから、しばらくして、
新羅によって足止めを食らっている弓月の君たちを
息子の葛城襲津彦に迎えに行かせた。(日本書紀)
弓月の君はもちろん秦氏だ。

一方、新羅では『晋書』辰韓伝に、
「辰韓は馬韓の東にあり、苦役を避けて韓に逃げて来た秦人が住んでいる。」とある。
この秦人も秦の始皇帝の時代の人たちだった。

そうすると、秦の始皇帝から海路で逃れた徐福たちと、
陸路で逃れた秦人たちがいたことになる。
後者が弓月の君とはいえないだろうか。王族とはいえ、王位争奪に負ければ命はない。
1~2万人を連れていたので、陸路でないと移動できなかった。


ふと、そう思い付いて弓月の君についてwikipediaを調べた。

弓月の君
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。

そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。

渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(wikipedia)

葛城襲津彦と平群木莵宿禰は竹内宿禰の子。

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イメージとしては上の感じ。
「弓月の君」=「秦人」であれば、妄想は結実する…。

ということで、久し振りの妄想コーナーですぞ。

徐福は言った。
「扶桑の国(日本)に先に渡って、平和な国を創っておきまする。
貴殿(弓月の君の祖)は陸路で人々を連れて東の果てに行ってください。
必ず迎えに行きます。」
「分かった。東の果ての湊で待とう。扶桑の国にて必ず会おうぞ。」
そう言うと、弓月の君の祖は海路で行く徐福を見送った。

徐福は有明海から入って行き、ありなれ川の右岸に着いた。
近くの倭人たちに技術をもたらしながら、
倭人と通婚して溶け込んで行った。
その一方で、弓月の君たちの居所を確認するために
使者を何世代にもわたって中国に送り続けた。

それから数百年後。
佐賀で生まれた竹内宿禰は成長して、弓月の君からの連絡を知った。
「ついに約束の時が来た」
息子の襲津彦を呼び出すと、加羅に迎えに行くよう命じた。


今日は、こんな妄想が浮かんでしかたがない。
取り敢えずメモしないと、次に進めない。

という、るなさんでした。

リンクはサイドバーからどうぞ。

竈門神社 玉母宮 小郡市
織幡神社 宗像市
葛城襲津彦 『古事記の神々』




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by lunabura | 2015-01-31 21:58 | 徐福と弓月の君と秦氏 | Trackback | Comments(10)

太秦 「うずまさ」とか、秦王国とか


太秦 「うずまさ」とか、秦王国とか

「うずまさ」というヘアースタイルから考えた


「太秦」について、真鍋が一言、書いていました。

「胡人を肥前松浦で大身(ありたけ)、山城葛野で太秦(うずまさ)と呼んだ。背が高く、しかも髪を束ねて頭上に結うからであった。胡人はSiriusシリウスの彼方から二神連れ立ちて来るものと信じていた。」『儺の国の星拾遺』p126 

佐賀県の松浦では、早くから渡来人が集落を築いていたらしく、
その渡来人たちを「胡人」と表現しています。
胡人とは中東、中近東、近東辺りから来た人たちで、大きな体をしていたようです。

その胡人を、松浦で「大身」と呼んだのは、その体格からで、
山城葛野で「太秦」と呼んだのは、髪型からだということになります。

「髪を束ねて頭上に結う」というヘアースタイルで思い出すのは
竹内宿禰が香坂王・忍熊王の二皇子と戦う時の戦略です。

兵士たちの髪を椎(つち)のように結わせ、そこに弓の控えの弦を忍ばせておいて、
敵に和睦案を出して、自分の味方の弓を切らせます。
これにだまされた敵が安心して同じように弦を切った時、
髪に隠した弦を取り出して弓に装着するのです。

この時のヘアースタイルが「うずまさ」ということになります。


さて、「竹内宿禰と太秦」から思い出したのが宿禰の九人の子の長男です。
長男は「波多八代」と言います。

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これは古事記からの系図ですが、
建内宿禰の子として古代豪族がずらりと並んでいます。
子供たちがそれぞれ古代豪族になったのでしょうか。
それでは不自然です。
これは既に存在していた各豪族に竹内宿禰が通い婚して、
子を成して一族となった結果、後の世に、子供たちの祖としたのだろうと
考えています。

真鍋の本から、彼らの筑紫での本貫地が見えてきました。
許勢は筑後平野、平群は脊振山系、蘇我は早良区、葛城は犬鳴山系です。
木はもちろん基山辺りでしょう。
秦氏の在所はまだ出てきません。

竹内宿禰の長男が秦氏ということはどういうことだろうか。
ずっと謎でした。
それで、思い起こしたのが、
仲哀天皇が豊浦宮(忌宮神社)で軍備を進めていた時の話です。

軍船は主に下関、北九州、大分の沿岸で造らせていますが、
「旗」は筑紫の北部で作らせています。
具体的には、宗像市の織幡神社(祭神武内宿禰)が中心で、
その浦は「はた浦」と言いました。

船の帆を縫わせたのは隣町の福津市の縫殿神社。
のちに呉から連れて来た四人の織姫たち、兄媛(えひめ)弟媛(おとひめ)
呉織(くれはとり)穴織(あなはとり)のうち、兄媛だけ留めた地です。
(以上の各社はガイドブックに詳細を書いています)

これらは弥生時代から現地に織物文化が栄えていたことを示しています。
玄界灘沿岸と秦氏?
どう関係あるのだろう。

また、何故、竹内宿禰はその地域で織物作りを命じることが出来たのだろうか。
各部族がそれぞれクニを形成していた時代に、
紀氏である竹内宿禰がハタ氏に命じることができたのは何故か。

そんなモヤモヤがずっとありました。

そんな中、福津市に在住の秦さんが、自分たちは秦氏の直系だと名乗られました。
かつては「はだ」と発音していたそうです。

それを聞いて思いついたのは、宗像~福津には秦氏のクニがあり、
竹内宿禰はそこと通婚したのではないか、というものでした。
そう考えるなら、竹内宿禰が神功皇后を連れて、
旗や帆の制作現場を見せたのも合点がいきます。

仲哀天皇4年には下関の忌宮神社に秦の始皇帝の十一代功満王が帰化しています。
そして、今でも秦さんが福津にいる。
この二つの話に繋がりはあるのだろうか。

ということで、現代の秦姓の分布を調べてみました。

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これを見ると秦姓は福岡県と大分県に集中しています。
筑紫から豊にかけてです。
そして、弥生時代の秦氏の本貫地は福津から宗像にかけての沿岸地?

ちょっと、想定外の話になってしまいました。

でも、竹内宿禰と秦氏の通婚を想定すれば、のちに弓月の君の知らせを受けて、
葛城襲津彦たちが朝鮮半島に足止めされている秦人たちを救出に行ったのも、
動機があるな、と思ったりした次第です。


そしてもう一つ、思い出したのが、『隋書』倭国伝の記事です。

大業(たいぎょう)四年(608)、
隋の煬帝(ようだい)が倭国に使者を派遣しています。
この時の経路が次のように出てきます。

「(略)東に航海して一支国(いきこく)に着き、さらに竹斯(ちくし)国に至り、
また東に行って秦王国に着いた。秦王国の人々は中国人と同じである。
それでそこが夷洲(いしゅう)とおもわれるが、はっきりしない。
また、十余国を過ぎて海岸に到着する。竹斯国から東の諸国はみな倭国に属する」

竹斯国の東に秦王国がある。

この秦王国って、想定した本貫地と合致しない?


地図 織幡神社







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by lunabura | 2015-01-30 23:11 | 徐福と弓月の君と秦氏 | Trackback | Comments(0)

真鍋ノート作りとキルト作り



このブログに掲載した真鍋大覚の引用がファイル二冊分になったので、
分類化を進めていますが、今日はこんな感じです。


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こんな形式にしてから、とても読みやすくなりました。



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小さな冊子みたいにして、楽しんでいましたが、
あっという間に3センチぐらいたまったので、白いファイルに分類していたら、
今日はもう3冊になりました。

これでも、ブログに掲載した分の三分の一ぐらいかな。

一日一節程度を目標にしていますが、どこかで区切りをつけないと、
真鍋の世界は膨大すぎる。

夢は小冊子にしてシリーズ化すること。
やはり本の形式にすると理解しやすいですものね。

これ、皆さんも既読のはずなんですが、
初めて読んだという印象ではないでしょうか。
だって、書き写した本人もびっくりしているんですもの。

頭の中がヒートしたら、こんなの作ってます。




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ビフォー。




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アフター。
「アトランティスの宝石」というパターンです。
これはシンボルとしてはマンダラに属します。

心のバランスを取る時に夢に出てくるのがこのタイプ。
上下左右対称、丸と十字、とかがポイントです。

夢に出てこなければ、自分で作っても良い訳ですね。
これを作りながら心のエネルギーを充電している、という感じです^^



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by lunabura | 2015-01-29 21:12 | にっき | Trackback | Comments(0)

スサノヲ(2) 蹈鞴の神

スサノヲ(2) 蹈鞴の神 

今日も、スサノヲ命の過去記事からです。

高天原でのスサノヲの問題行動に関して、
真鍋の独特の視点で神話を読み解いています。

稲の民と鉄の民。
別の文化が出会ったとき、どんな問題が起こったのか、
またどんな利点があったのか。

そんな視点で読み返すと、まったく別の世界が見えてきました。

自分で過去記事を読み返すと、まだまだ推敲の余地があるなと、反省するのですが、
今日はそのままUPしなおします。




アマテラスvsスサノオ(1)

神話の暗号 スサノオの暴虐


「鉄穴流し」(かんなながし)は下流に土砂を流しこんで田畑を埋めてしまう。
そんな問題について、真鍋大覚は「玄海灘の海上気象」で、
高天原でのスサノオの狼藉(ろうぜき)を、製鉄における問題の神話化として読み取っています。

まずは、鉄穴流しにはどんな問題点があるのか、「和鋼スポット解説」
http://www.wakou-museum.gr.jp/spot1.htm
から引用します。

 (前略)
このうち、山土に微量に含まれる(0.5~10%程度)山砂鉄を採取する方法として、中国山地では、とくに宝暦年間から「鉄穴流し(かんなながし)」という方法が行われるようになりました。

幕末期の記録(「芸藩通志」「日本山海名物図会」「鉄山秘書」など)にのこっている鉄穴流しの方法は大雑把に分けると採取と洗鉱の2つの仕事からなります。

 その作業は、まず適当な地質の山を選び、花崗岩系の風化した砂鉄母岩を切り崩し、予め設けてあった水路(走りまたは井出という)に流し込みます。

この走りを押し流される間に土砂は破砕されて土砂と砂鉄は分離され下場(洗場、本場ともいう)に送られます。

下場では、一旦、砂溜り(出切り)に堆積されたのち、大池、中池、乙池、洗樋と順次下流に移送しますが、その際、各池では足し水を加えてかき混ぜ軽い土砂を比重の差で砂鉄と分け、バイパスで下流へ吐き出しながら砂鉄純度を高めて下流の池に移送し、最終的には80%以上の砂鉄純度にしました。

 一方、この方法は多量の土砂が下流に流出し、農業かんがい用水に悪影響を与えることから、一時期、農民の嘆願を受けて城郭の堀が埋まるとの名目で禁止されましたが、鉄山師の強い要請と藩財政を維持するために操業期間を農閑期である秋に彼岸から春の彼岸までと定めて解禁となり、逆に農民の冬場仕事ともなって農民にとって良い収入源であるとともに、鉄山自体もこれらの季節労働に大きく依存しました。

 また、鉄穴流しの跡地や、土砂流出によって膨大な土砂が下流に堆積して生じた平地は田畑として耕作され、山内(さんない:たたら集団の部落)の食糧の一部を補いました。今日、中国山地で棚田として残っているものはこのようにして形成されたものが多いのです

赤字で強調した所を書き抜きます。

1 多量の土砂が下流に流出し、農業かんがい用水に悪影響を与える
2 鉄穴流しの跡地や、土砂流出によって膨大な土砂が下流に堆積して生じた平地は田畑として耕作され、
3 棚田として残っているものはこのようにして形成されたものが多い

これは江戸時代の話ですが、
山を削って土砂を流すことで、土砂が灌漑用水を埋めてしまう被害が生じています。
一方で、跡地には平地が生まれて田畑となっていくという長所がありました。

真鍋はこの話が神話にシンボライズされて伝えられていると示唆しています。

それはアマテラスとスサノオが誓約(うけい)をして、
スサノオに邪心が無いことが証明されたあとの話に出てきています。

その部分を、るなの訳で御紹介。

こうして、スサノオの命がアマテラス大御神に言いました。
「私の心は清く、正しかった。だから、私の生んだ子は手弱女(たおやめ)でした。
ウケイの結果から言うと、私の勝ちですね。」と言いました。

それからは、スサノオの命は勝者としての振る舞いの度が過ぎて、アマテラス大御神の耕作している田のあぜを壊し、その溝を埋めて、またその大嘗(おおにえ…最初に収穫した米)を召し上がる御殿に糞をし散らかしました

スサノオの命がそんなことをしても、アマテラス大御神はとがめずに、
「糞をしたのは酔って吐き散らしたんでしょう。私の大事な弟がしたんだから(大目に見ましょう)。

又田んぼのあぜを壊して、溝を埋めたのは、土地が惜しいから広くしたいと思ったんでしょう。私の大事な弟がしたんだから(考えあっての事でしょう)。」
と、悪い事も良い方に解釈してかばいましたが、その悪い行為はやまずに、ますますひどくなりました。
神話の赤字の部分「田のあぜを壊し、その溝を埋め」
というのが鉄穴流しによる弊害を暗示しているという訳です。

びっくりですね。
でも、よく考えると、スサノオって鉄の民です。
稲の民であるアマテラスと鉄の民のスサノオの出会い。

稲の民の田を台無しにする鉄の民の生業。
しかし鉄のお蔭で鍬の先に鉄をつけて、生産力が上がるし、平地も増える。

両者の出会いにはそんな問題がありました。

さらに大嘗祭の時の直会でスサノオが糞をし、吐き散らかすことも、
真鍋には、酔っぱらいの所業ではなく、別の意味が見えていました。

天叢雲(むらくも)剣は、素盞嗚尊の手づから天照大神に捧げられたのであるが、顔をそむけさせる暴状は、仕事熱心のあまり、一酸化炭素あるいは熱射病の不慮の中毒に罹り、一時失神状態に陥って、嘔吐と排便を寛容しているものと解釈できぬこともない。

有明海特有の「へどろ」は膠質(こうしつ)性軟泥を指し、反吐(へど)から由来するものと聞いている。溝埋や畔放は砂鉄洗別による放出土砂の被害と解釈すれば、従来の水稲栽培田のことがらと別の意味が現れてくる。屎(しき)は鉄滓(かなくず)であり、反吐は炉の熱灰であった。
スサノオが神殿で吐いたり排便をしたのは、一酸化中毒や熱射病などの病状であったと考えると、なるほど、と納得できます。

溝を埋めたり、畔(あぜ)を壊したりするのは、砂鉄洗別のための土砂の被害だというのも、うなずけます。

さらに、スサノオは罪を重ねていきますが、
これについても真鍋には別の世界が見えていました。

(つづく)


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山鹿市 薄野神社(一ツ目神社)



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by lunabura | 2015-01-28 20:36 | スサノオ | Trackback | Comments(0)

スサノヲ(3) 蹈鞴の神として

スサノヲ(3) 蹈鞴の神として 


アマテラスvsスサノオ(2)

神話の暗号 天の斑馬


アマテラス大御神が、忌み清めた機織りの御殿に行って、神の御衣を織らせている時に、スサノオの命はその御殿の棟に穴を開けて、天の斑馬(ふちこま)を尾の方から逆に皮を剥いだものを落とし入れたので、天の機織女(はたおりめ)が驚いて、オサ(機織りの道具)で陰部を突いて死んでしまいました。

これは前回の『古事記』の続きです。
スサノオの行いは理解に苦しみます。なぜ、こんな残酷な嫌がらせをしたのか。

しかし、真鍋によると、この赤字の部分にもまた、鉄の民の大事なものが
描かれているというのです。
(「玄海灘の海上気象)p129 一部読みやすいように改変)

(略)『古事記』上巻の素盞嗚尊が天照大神の機屋(はたや)に逆剥(さかは)ぎにして投げ込んだ天の斑馬(ふちこま)について、
アマテラス大御神が、忌み清めた機織りの御殿に行って、神の御衣を織らせている時に、スサノオの命はその御殿の棟に穴を開けて、天の斑馬(ふちこま)を尾の方から逆に皮を剥いだものを落とし入れたので、天の機織女(はたおりめ)が驚いて、オサ(機織りの道具)で陰部を突いて死んでしまいました。(るな訳)
に出てくる「天の斑馬」とは「鹿」のことで、しかも白い斑点が鮮やかな夏秋は鞴(ふいご)の採取に絶好の繁殖力の盛んな時期であり、同時に熔鉄作業開始の時期でもあった。

斑馬は「ふく」である。ここを「鞴(ふいご)を吹く」ということであろうか。また背に負う負籠(ふご)もこれであろうか。

鹿は「しし」とも言う。鹿が乱獲され、これに代わる猪を充てたか。治承元(1777)年、平家追討の陰謀は洛中東山鹿ケ谷(ししがたに)で行われた。

 このときの平清盛、平重盛に由緒ある志摩郡金屋に十六町の小字名があり、これは鹿待(しかまち)を四四十六(ししじゅうろく)と戯化したものであろうか。鹿が可也山系から餌を求めて下りて来るところを、適当な頭数を揃えて捕獲していたところと思う。
引用文の中で、私が理解できる部分は言葉を補って改変していますが、
分からない部分に関してはそのままにしています。
(研究する方は原典をみてください)

アマテラスの神聖な仕事の一つに機織りがありますが、
その建物の屋根に穴を空けてスサノオはひどいものを投げ込みました。

それは「天斑馬」(あめのふちこま)の皮でした。
しかも尻の方からはぎ取ったものなのです。

この「天斑馬」とは「鹿」のことだと真鍋は言います。

当時の日本には馬は存在しているのですが、
魏志倭人伝に「そのほか、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)は無い」と
書かれていることから、馬はいなかったというのが定説です。

しかし、対馬では馬がまるまる一頭出土していますし、
旧石器時代の馬の化石が発見されたので、きっと定説は変わるだろうと思っています。

で、話を戻すと、『古事記』に書かれた「馬」は「斑馬」と書かれて、
「斑点」が描写されているので、「馬」のことではなく「鹿」の事だと真鍋は言います。


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写真は鹿の斑点のようすです。(画像出典 フリースタイル)
この斑点が出ると、冬の製鉄作業に備えて鹿を捕獲していたわけです。

古代では鹿の皮を使って「フイゴ」を作っていました。

鞴(ふいご)の字には「革」篇がありますね。

ふい‐ご【×鞴/×韛/▽吹子/▽吹▽革】. 《「ふきがわ」の変化した「ふいごう」の音変化》火力を強めるために用いる送風装置。箱の中のピストンを動かして風を送る。古代から金属の精錬や加工に使用された。ふいごまつり【鞴祭(り)】
多く11月8日に、鍛冶屋(かじや)・鋳物師(いもじ)など、ふいごを使って仕事をする職人が、稲荷神または金屋子(かなやご)神を祭り、ふいごを清めて祝う行事。踏鞴(たたら)祭り。《季 冬》
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/189930/m0u/
(g00辞書より)
空気の漏れない袋を古代にどうやって作ったのかというと、
p131
四足を切り取って、空剥(うつはぎ)にした鹿の皮の袋がフイゴに利用された。

とあります。稲の民からみると、残酷極まりないのですが、これが現実です。
肉も大事に食されたことでしょう。
アジアでは牛?の浮袋を抱えて川を泳いで渡る人をテレビで見ました。

「鹿」(しか)は「しし」と読み、その例として、真鍋は「鹿ケ谷」を挙げています。
古賀市の地名「鹿部」は「ししぶ」と読みますね。

福岡市西区の「拾六町」という地名は九九の掛け算、シシジュウロクから来たもので、
「鹿」をシシと呼んだことから「拾六」となったのではないかと推測しています。

万葉集には九九を使った歌はいくつもあるので、
掛け算は早くから知られていたことが分かります。
「四四の乙女」とかは「十六の乙女」と訳します。

糸島では、可也山の鹿が山を下りてくるのを待って、
必要な数を捕獲するための鹿待(しかまち)を「ししまち」と呼んで
「拾六まち」と呼んだと推測しています。
都市高速のインターの名前にも出てきますね。

話は冒頭の神話に戻りますが、
スサノオの投げ込んだ「天斑馬の逆剥ぎ」とは鉄の民の大事な「フイゴ」だったことになります。

それにしても、機織り女の死に方は異様です。
これについて真鍋はこう言っています。

煤煙で黒くなった爐壁(ろへき)と中の赤い火種を陰(ほと)すなわち女体に比喩したのは、このように脚色することによって神話が永遠に語り継がれる事を意識した、更年四十を越した巫女の臆するところなき洞察と見なければならぬ。

大胆な脚色をすれば未来に語り継がれると考えた巫女、
きっと四十を越えた知恵のある巫女の洞察だろうと真鍋は言います。
なるほどですね。




拾六町





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by lunabura | 2015-01-28 20:31 | スサノオ | Trackback | Comments(0)

スサノヲ(1) カノープス 諏訪星


スサノヲ(1)

カノープス 諏訪星
 
カノープスは地平線すれすれを通るため、めったに見られない星ですが、
それを見たら長生きできるということで老人星と呼ばれています。

そのカノープスをスサノヲに例える古代の文化がありました。

スサノヲはアマテラスとツキヨミの弟神。
アマテラスとツキヨミは目から生まれ、スサノヲは鼻から生まれた。

空ではカノープスは太陽と月に比べてずっと下の方を進んだ。
そのカノープスはナイルの氾濫を告げる星、スハヒル星(諏訪星)だった。

スサノヲは佐太大神、諏訪大神、草木の神、蹈鞴の神。雨風の神。
(諏訪大社の祭神とは違っています)

マミさんがスサノヲに御挨拶に行かれたということが心に残り、
過去記事から真鍋大覚のスサノヲ関連をまとめてみました。

古事記神代記に曰く、
天照大御神に「そなたは高天原を治めなさい」と言ってお与えになりました。次に月読命には「そなたは夜の食国(おすくに)を治めなさい」と言い、次に、建速須佐男命には「そなたは海原を治めなさい」と言われました。(るな訳)

月と星は夜に光を相争う存在であったから、月読命と須佐男命の永遠の仲違いは当然であった。

目は眼窩のなかで自由に動いても音はない。しかるに、鼻はイビキと鼻水を出し入れする。そのかしましい音を古人は「星、風を好むあり。星、雨を好むあり」の諺に則して、世の中に災いを残した須佐男命に見立てたのである。

そして、更に佐太大神或は諏訪大神の別称を奉って草木の神、或いは蹈鞴の神と祭ったのである。

日月が天空を通る道筋を黄道、白道と言う。鼻は目より下にあるから、古事記の須佐男命は地平線を徘徊する運命を背負わされた諏訪星、或いは大陸の言う老人星Canopus(カノープス)即ち雨風を司る神のことになる。

蒼穹の中枢たる北極星には永久に月日に隔てられて近づくを得ぬ存在であった『儺の国の星』「根堅洲国」p26
イザナギの禊から生れた三貴神。
アマテラス・ツキヨミ・スサノヲ。
アマテラスとツキヨミは目から生れましたが、スサノヲは鼻から生れました。

スサノヲが音を出す鼻から生れたことと
カノープスが雨風を司る神だということと重なっていました。


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志賀島 伊邪那岐の禊の場




サハラ沙漠の遊牧民族は、南の地平線の彼方にスハヒルの光芒を見出すと、たちまちにして駱駝と共に高所に居を移す。満々たるナイルの洪水が氾濫するからである。

スハヒルは水魔の象徴であった。そして永遠に天極から見放されて、大地の果てを放浪する運命を背に負わされた呪われた星であった。

何故に過去の宿業に悩まされているのか、近東の神話はその理由を語らない。しかしその鬱積した憤まんが天地晦冥(かいめい)のなかに暴水と怒涛をもって人類を漂没する悪神として敬遠されてきた。

前二十六世紀および前三十八世紀の二度にわたるノアの洪水も又、スハヒルの為すところと信ぜられている。
ナイルの氾濫を知らせる星としてはシリウスが有名ですが、
カノープスもまたその時を告げる星でした。
シリウスとカノープスは同じように南に出ます。

しかし、シリウスは道しるべのように天高く夜空を渡るのに対して、
スハヒル(カノープス)は地を這うように進んで、すぐに沈んでしまいます。

しかも、その星が出ると人々は肥沃な土地を捨てて、
水から逃れる旅に出なくてはなりませんでした。

自分たちの情けない姿とスハヒルの鬱屈した姿を重ね合わせたのでしょうか。
スハヒルは呪われた星という宿命を背負わされました。
日本神話でも同じ宿命を負った神がスサノヲでした。

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『古事記』神代記にいわく、
(こうして、それぞれがお言葉に従って、授けられた国を治めておいでになる中で、)スサノヲの命は授けられた国を治めないで、ヒゲが胸のところに伸びるまでひどく泣きました。その泣く様子は、青い山は枯れるまで、川や海は干上がるほどでした。そのために、悪い神の声はハエがワンワンとたかるように満ちて、いろんな災いが起こるようになりました。

そこで、イザナギの命がスサノヲの命に尋ねました。
「どうしてそなたは授けた国を治めないで泣きわめくのだ」
「わたくしめは亡き母の国、根の堅洲国に行きたくて泣いています」
とスサノヲの命は答えました。すると、イザナギの大神は大変怒って言いました。
「それなら、そなたはこの国に住んではならない」
と言って、そのまま追放されました。(るな訳)

須佐男命はまさにスハヒル即ち諏訪星を神格化した存在であったかもしれない。天照大神は日神であり、月読命は月神であり、そして須佐男命は星神であった。遠い祖先が人間の生活に時間の区切りを教える空間的存在の一つであった。星暦は今はない。 
『儺の国の星』p78
スサノヲは父から追放され、姉からも追放されます。
ナイルの氾濫を告げるスハヒルと、ナイル河畔から出て行かねばならない人々。
そして追放されるスサノヲ。すべてが重なるのですね。

毎年の洪水のために、ナイル流域の人々は家を建てることも出来なかったことでしょう。その地を捨てて東を目指した集団が出た理由はここにあったのかも知れません。






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by lunabura | 2015-01-26 20:20 | スサノオ | Trackback | Comments(0)

埴輪のヘアースタイル 「かふり」


埴輪のヘアースタイル
「かふり」


古代人のヘアースタイルにとても興味があります。

だから、九博に兵馬俑が来た時、しげしげと兵士の頭を後ろから見ました。
すると、左右の耳の後ろから小さな編み込みの三つ組を中央に向けて編み込み、
またうなじからも上の方に三つ組を編み込んで、最後は三本一緒にまとめていました。

その髪型を再現する俑の細やかさに驚いたのですが、
兵士が髪をまとめるのに三つ編みを利用していたのには
カルチャーショックを受けました。

だって編み込みですから、自分では出来ない (><)
この兵馬俑を作る時だけ美容師が付いたのか、普段からそうなのか、
など、疑問も出てきます。

編み込み三つ組なら、髪が乱れることなく、戦うのには理想的です。
写真に撮ってイラストを描きたかったのですが、もちろん撮影禁止なので、
記憶に留めるだけでした。


他の兵馬俑はどんなスタイルなのか。
もっと知りたいのですが、兵馬俑の後ろ姿の写真なんかまずは存在しません。



さて、福岡では埴輪もめったに見られないので、これも出会ったら必ず後ろから観察します。


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これは群馬県から出土した埴輪。    画像出典 東京国立博物館

埴輪の女性のヘアースタイルは「島田」と言われて、
日本髪のルーツとされているのですが、
どうみても、自分の髪をこんな風に結うことはできません。

ヘアーゴムがない時代にどうするんだい?
と見るたびに考えていました。
もし、頭頂で結べたとしても、こんな風に根元をフラットにするのは不可能です。

で、「島田」説を疑問に思っていたら、同じ考えの女性がいて、
この頭の上の物体は「布」であることを中国の雲南や四川で発見して
紹介してありました。
次のブログにはその実例が沢山紹介されています。

http://ysiuruhasi.exblog.jp/13418349

で、真鍋大覚に出てくる謎の「被布(かふり)」が、これだろうと気付いたのです。
「女人は多く髪の上に布をおき、これに荷を載せた。」と真鍋は語ります。

それなら、この厚みが納得できます。
この埴輪の女性は巫女とされていて、「かふり」も実用的でなく、
装飾的になっているような様子です。

九博にはこの「かふり」を被った埴輪がありましたよ。
頭と「かふり」の接点をしげしげと見て、やはり髪の毛ではないと確信しました。


それと、上の埴輪の女性は腰に鏡を下げています。
五つの子丸が付いているので、「五子鏡」というのではないかと推測しています。

これを見た時、七支刀と共にもたらされた「七子鏡」って、
こんなデザインだろうなと、ワクワクしていたのですが、
九博では違うタイプが紹介されていて、しょんぼりしたのでした。




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by lunabura | 2015-01-24 20:40 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

梅が咲いた


雨水(うすい)とでも言いたくなるような春の雨。

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梅を目覚めさせる暖かい雨が降って、庭の紅梅がチラホラ。


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つばきも雨宿りしながら、遠慮がち。

つつじも咲いているという気が早い小春。


今日は採れたてのレモンをいただいたので塩レモンにチャレンジしました。

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切って塩をかけるだけ♪
一か月待つのだよ。



テレビでは元岡で出土した鉄剣が三年ぶりに金象嵌を研ぎ出されたというニュース。

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これは字体の比較。



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卑弥呼の番組では、ひかげのかずらモドキ?
この人は卑弥呼ですが、アメノウズメの髪飾りをつけてます♪


卑弥呼の使いは誰の舟に乗ったの~? (-。-)y-゜゜゜



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ははは、糸島の元岡製鉄所跡、完全に無視されたね^^

鉄の日本での生産は6世紀からですって。
熊本で鉄を作ってた弥生人も無視されちゃったよ ( ´艸`)

今日は古代史は忘れて、と思いながら、
古代史の番組をついつい見ては、一人で突っ込んでいる誰かさんでした。





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by lunabura | 2015-01-22 22:52 | にっき | Trackback | Comments(0)

比売神・二女神・二龍女


比売神・二女神・二龍女



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志賀島の歴史講座で
「福岡では神話の神々を生きた人として扱っているようですが」
という感想をいただきました。ほかに、
「奈良から来たけど、向こうとこっちの話は全然違う」という方もありました。

そうですね。
福岡では神話の女神たちはリアルに息づいているのです。

ブログ村やエキサイトブログの歴史や神社のジャンルの他の方のブログと比べると、
私のブログだけ、やけに古代の話をしている、と気付いています。

でも、私は身近な伝承を紐解いているだけなので、
やはり福岡は弥生時代を中心とする古代の歴史を
神社縁起の中にそのまま伝えているのだと思います。

神功皇后も生きていて、竹内宿禰も、安曇磯良も生きていた。
物部胆咋(いくひ)だって、中臣烏賊津使主(いかつおみ)だって生きていた。

景行天皇や日本武尊もそこここで息づいている。

それから、もっと前の時代、宗像三女神(あるいは水沼三女神)も生きていたし、
豊玉姫や玉依姫も生きていた。

これらを抹殺しようとする流れがあるのも分かりました。
机上の論理で日本の歴史を語るのではなく、
歩けば古代の真実がまだ語り継がれているのが九州なのです。

今日は、前日の三女神に続き、
比売神と二女神と二龍女について考察した過去記事を再掲します。





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by lunabura | 2015-01-20 21:07 | 三女神伝承の宮々 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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