ひもろぎ逍遥

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引き渡し




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今日は天神でゲラ刷りの原稿を渡してきました。
文章や地図の校正、写真の確認などなど、話し合う事が山ほどありました。

地図の校正は何度やっても、課題が出てきます。
それでも、名刺サイズの中に織り込まれた情報はすごい。川や池の名前、国道や県道の番号。それが有ると無しでは大違い。この踏ん張りがよい結果に繋がります。この地図があれば私も簡単に行けたのにって思います。

ただ、ゲラ刷りが出来ているのは52番から90番まで。あと10番、まだ手元に届いていません。八幡東区のお話会に間に合わせるにはあと一週間で仕上げないといけないのですが。(^_^;)

「大丈夫?」とつぶやく私。
「もちろんです」と力強い返事をいただきました。「後書きを書くように言いましたかね?」
「後書き?いえ。初めて聞きます。下巻は何も書かなくていいと言いませんでした?」
「前書きがあるなら、後書きもあるでしょ」
「が~~~ん」

また宿題 (T_T)



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これが終ったら、別の方々と歴史を採りいれた観光の可能性について話し合ってきました。福岡の歴史の深さはやっぱり素晴らしい。知的好奇心がキラキラと輝き出さずにはいられません。

私たちが身近な歴史を知って感動し、交流を深め、そのエリアを広げていく。そうやって楽しんでいれば、きっと他県からも人々が集まって来るでしょう。私のガイドブックを手にして「へえ~」って思っていただけたら本望だなと思います。そして、次世代に伝えたい。

そんな夢に向かうために、宿題やるか (/・ω・)/





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by lunabura | 2015-02-26 20:59 | にっき | Trackback | Comments(2)

散り初めの開運桜 宮地嶽神社


宮地嶽神社

散り初めの開運桜


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今日の宮地嶽神社の開運桜です。




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昨日の雨で、花びらが散り始めていました。




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この桜と出会って6年目。


今思い返すと、当社の御祭神のことが全く分からなかったのに、
いつの間にか本を出し、人に伝えるようになっていました。




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神功皇后。息長帯姫。ここには何度も来られ、宮地岳に登って神々に祈られた。
その女神の本がもうすぐ出来あがります。

阿部高麿神と助麿神。仲哀天皇と神功皇后を守って下関の忌宮神社で亡くなられた。
敵は新羅。



勝村神と勝頼神。この神々は筑紫の君・葛子の御子神。磐井の君の孫に当られる。勝村・勝頼神の二柱は宮地嶽古墳に共に眠られた。

鞍手の鞍橋(くらじ)の君はその御兄弟。百済の王子余昌と共に新羅を攻めて籠城し、王子の窮地を救われた。

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そして、もう一柱。謎の阿部相丞(しょうじょう)の神。
お尋ねします。
あなたは安曇磯良なのですか?
大善寺玉垂宮と宗像大社ではそう伝えていますが、それでよろしいですか?


私は神功皇后の本を書きました。そこには阿部高麿・助麿神も含まれます。

磐井の君の末裔たる勝村神と勝頼神も原稿は出来ました。
そして、安曇磯良神の本も春になったら取り掛かります。


もし、安曇磯良神が阿部相丞の神なら、私は宮地嶽神社の六柱の神、すべての本を書くことになるのです。
今日はその御縁の不思議さに気づいて驚いています。





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by lunabura | 2015-02-21 20:31 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

梁塵秘抄 後白河院と傀儡女


 
梁塵秘抄 後白河院と傀儡女

校正は順調に進んでいます。

「梁塵秘抄口伝集」馬場光子が手に入りました。
読む?
そんな暇ないよ。
と自問自答しながら、ページをめくると、後白河院の至高の師は七十余歳の傀儡女(くぐつめ)「乙前」(おとまえ)とあるではないですか。やはり、傀儡との関わりが出てきました。院はテープレコーダーが無い時代、どうしても歌声を残しておきたかったみたいです。
これは面白そう。
でも、お預けです^^

先日は不知火書房さんとの打ち合わせで、筑紫舞は菊邑検校(きくむらけんぎょう)から200曲伝えられ、それぞれにエピソードも一緒に伝えられたという話を聞きました。それも知りたいですね。

何だか、まだまだ安曇との縁が続いています。




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by lunabura | 2015-02-20 22:41 | にっき | Trackback | Comments(1)

ゲラ刷り 籠城


ゲラ刷りの校正をやっております。
何よりもこれが優先。

すぐ電池切れするから、気分転換の取り方がポイントに成ります。(^_^;)

頑張りま~す^^


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スティッキー・ウィケットのパターン





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by lunabura | 2015-02-19 15:53 | にっき | Trackback | Comments(4)

天鳥船 何故かクスノキ・パーティー (^o^)/


天鳥船

何故かクスノキ・パーティー (^o^)/


 変光星「ミラ」が光を増した頃、天草の乱が起こったそうです。
そして、「ミラ」を「天草星」と呼んだそうですが、「あまくさ」という言葉の謂れは「天鳥船」(あめのとりふね)から来たものだそうです。それはクスノキで造った船のことでした。
今日は、神々の乗り物、空飛ぶUFOの話ではありません。(^^ゞ
真鍋大覚から

天鳥船
 「あまくさ」とは古事記神代記に出てくる天鳥船またの名は鳥石楠船(とりのいわくすふね)、のちにこれを合して天盧樟船(あめのいほくすのふね)の略であった。

「いはくす」とは盤石のごとく根株を地上に盛りあげ、しかも枝を水平に広くさしのべた樟や楠の古木老樹を云う。

今も未だ然りであるが、樟の筏を海に浮かべると、水に溶けた芳香は大小の魚から蝦の類まで集めるので、漁師は労せずして居ながらにして水揚げができた。
『儺の国の星拾遺』p1

「天鳥船」は「鳥石楠船」とも言い、「石楠」は石のように根が盛り上がった古木で造った船だといいます。

クスノキは神功皇后伝承の宮々でよく遭遇します。船の材料になるので、意図的に植えられたのかも知れないなあ、と次第に思うようになりました。クスノキは大きくなると空洞化するので、そのまま刳り船(くりふね)に利用できるとのことです。

クスノキの空洞を利用したボートに波よけの板を並べれば「準構造船」になります。

クスノキで造った(いかだ)は、その芳香が水に溶け、魚が集まったそうです。
芳香って、あの樟脳の匂いのことかな…。う~ん。タンスの香り?(@_@;)

で、多分、真鍋が言いたかったのは、神功皇后の船に大小の魚が集まって来て、酒を流すと魚がしびれ上がって採れたという話が『日本書紀』に挿入されているけど、あれは特別な出来事でなく、普通の事だ、ということじゃないかな ( ´艸`)
そのエピソードがこれ。仲哀天皇が下関の豊浦宮(忌宮神社)に遷宮し、皇后が遅れて向かう途中の話です。

夏、6月10日に、天皇は豊浦の津に停泊しました。一方、皇后も角鹿を発って、ヌタの門に着いて、船の上で食事をしました。その時、鯛が沢山船のそばに集まりました。

皇后は酒を鯛に注ぎました。すると鯛は酔っ払って浮かびました。それで海人(あま)は魚をたくさん獲って喜んで「聖王の与えられた魚だ」と言いました。

こういう事から、この辺りの魚は6月になると、いつも酔っ払ったように口をパクパクさせるようになりました。

クスノキで造った船なら、どの船でも魚が集まって来るんですね。魚をしびれさす漁法というのもあったらしいし。神功皇后を神格化しようとした文でしょうが、魚が集まるのはクスノキのせいだと真鍋は言いたいんですね。

クスノキが船材になるということで、神社の境内では注意して見ますが、神功皇后伝承の宮々のクスノキは古過ぎて、使い物にならないくらいに空洞化しています。^^


クスノキは若いうちは(数百歳)真っ直ぐ伸びていますが、何百歳でしょうか、二股に分かれて左右に枝を伸ばし、根の所には大きな洞ができ、ついに枝を落としてしまう、という印象を持っています。



そうだ。今日はクスノキ・パーティにしよう。



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下関市 住吉大社




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古賀市 五所八幡宮 上巻35   ムーミンの木





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朝倉郡筑前町 松峡八幡宮 上巻41





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筑紫野市 松尾宮 下巻54





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大川市 風浪宮 下巻77







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宇土市 大歳神社








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佐賀市 與止日女神社 







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武雄市 川古








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武雄市 武雄神社

神!




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by lunabura | 2015-02-17 21:37 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(2)

梁塵秘抄は香椎宮で生まれたという


梁塵秘抄
りょうじんひしょう
香椎宮で生まれたという


  遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん、
  遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ

古文の時間に初めて出会ったこの歌は、古典の世界が堅苦しい格言に満ちたものではなく、人間らしい情感が許される世界だと教えてくれた歌でした。
  遊んでいいの?
  勉強しなくていいの?
なんてね。しかし、「遊び」とは音曲のことだと聞いて、がっかりしたり驚いたり。
印象深い歌でした。誰もが一度見ただけで忘れられないという点でもこれは名歌です。

さて、この歌が載っている梁塵秘抄は後白河法皇の撰によるものと言われていますが、真鍋は驚くべき話を伝えていました。これは、もともと香椎宮で収集していたものを平清盛が後白河法皇に伝えたものだと言うのです。

平清盛は太宰大貳として筑紫にやって来た時代があります。太宰の帥(長官)なら赴任時に香椎宮に参拝するのですが、大貳に関しては分かりません。しかし、香椎宮別殿が太宰府に在ったことを考えると、清盛が歌集の存在を知る環境にあった可能性はあります。

香椎宮の梁塵秘抄については『儺の国の星拾遺』の「大犬座のミルザム星」の章に書いてあります。引用します。

土に木を入れ容を入れ、さらに気を加えて金に換える技を業とする氏族をまのあたりに見ることが多くは在っても、大仏開眼の頃から何か別の境外のことに思う時代となったのである。

察するに釈教が鹿橐(ろくなう)を乱用して人心を損傷するを固く禁じたことに因る。しかしこの反面、祖先伝来の特技を禁ぜられた工人は願人となり、その厳粛な儀式を貴人の邸宅の前で誦みあげて身分相応の操業許可を申請していた。

香椎宮が養老七(723)年以来、事ある毎に蒐集してきた歳歌の類は、平清盛(1118~1181)によって、後白河院(1127~1192)に達し、これが嘉応元(1169)年の梁塵秘抄の完成となった。そして光格帝文化元(1804)年、勅使の四辻公説(きみとも)(1780~1849)によって世に演奏された。  『儺の国の星拾遺』p220

金を生み出す工人たちは日本に早くから入植していて、その文化が様々な言葉や地名などに残されていることを今知り始めたところですが、「大仏開眼」すなわち752年の頃から、その存在が陰になって行ったと言います。

その理由は、釈尊(しゃくそん=仏陀)の教えとは真逆の殺生があったことに由来すると真鍋は考えています。

仏像は何のために作られたのか。
供養や悟りのためだとしても、あの巨大な仏像を作るためには途方もない量の銅や金の生産が行われました。しかも、そのためには沢山のフイゴが必要でしたが、フイゴの材料は鹿の皮を逆剥ぎにしたものでした。それが足りなくなると猪に及びました。

供養が目的の仏像の鋳造なのに、その裏では大量の殺生が行われたのです。この矛盾が人々の良心をさいなんだのでしょう。この技術は禁制になったようです。

しかし、これを生業(なりわい)としてきた工人たちは他に生きる道はありません。「願人」となって、貴人の邸宅の前で厳粛な儀式を行い、操業許可を願い出たといいます。

香椎宮は事あるごとに「歳歌」を収集したとあります。この「歳歌」がどのようなものか分かりませんが、「願人」の儀式の時に謡われたり、あるいは宴などで歌われたものなのでしょう。

それを平清盛が知って後白河院に伝えた結果、院が編者とされるようになりました。香椎宮の名前は消え、筑紫の存在も露ほど伺えませんが、思えば、香椎宮は大火災があって古文書一切が焼失したので、梁塵秘抄は場を変えて生き延びたということもできます。

ウィキぺディアを見ると、梁塵秘抄の存在は徒然草などに書かれていて、一部だけ現存していたのが、明治44年(1911)に佐佐木信綱がさらに断片を発見し、本になり、一般でも読めるようになりました。そして信綱は「後白河法皇自らの撰によるものではない」と結論づけています。

そうすると、そのルーツが香椎宮にあったという話も可能性がゼロではありません。梁塵秘抄は平安末期の遊女や傀儡子(くぐつ)などによって歌われ広められた流行歌ということなので、これもまた地理的にも香椎宮との接点が濃厚になります。

筑紫舞は傀儡舞ともいいます。梁塵秘抄の中には傀儡舞の断片が見つかるかも知れません。そう思うと、早く読みたくて、早速書店に注文しました。

漢字で書かれているのか、仮名で書かれているのか、どんな歌が採録されているのか、本が届くのが楽しみです。



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by lunabura | 2015-02-15 15:53 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(0)

楽しいお話会でした



今日は快晴。こんな日にお出掛けの用が入っていると嬉しいですね。
パソコン抱えてお話会へ。
レトロな銀行に初めて入ります。
木製のドアをあけるとイベント会場。
天上まで吹き抜けで、白いしっくい調の柱がおしゃれです。
奥に小部屋が二つあるだけで、昔の銀行は可愛らしい規模でした。

いつも来てくださる方の顔もチラホラあり、地元や遠賀川流域から見えた方など、
合間を縫っての雑談も楽しみなお話会でした。

英彦山DANRAN村主催のオーガニックな食材が一杯ありました。山を杉山でなく自然林に戻そうという試みと安全な食材を作る人たちとの架け橋をなさっています。また、私の話のあと、思いがけずボロンさんの生コンサート♪楽しく過ごさせていただきました。

次回、3月15日(日)は下巻の内容です。不知火書房さんも、下巻の販売に来て下さる!ということで、どんな仕上がりの本になるのか、私も楽しみです。

3月7日(土)は久留米地名研究会で「高良玉垂命 安曇磯良―消された王」というタイトルで話をします。早速そちらの準備にかからねば。詳細案内はボチボチ書いてUPします。



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by lunabura | 2015-02-14 20:16 | にっき | Trackback | Comments(0)

装飾古墳の船・これは双胴船なのかな?


装飾古墳の船

これは双胴船なのかな?

明日は快晴の予報♪
北九州市で「神功皇后伝承の歩く」の上巻の話の日です。

明日のために画像を沢山用意していると以前書きましたが、装飾古墳の壁画も二枚出すのですが、立て続けに見た時、二つの壁画の「船」がそっくりだと気付きました。二枚の壁画とは中間市の瀬戸横穴墓第14号と宮若市の竹原古墳です。


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これは中間市歴史資料館内のレプリカ。本物は破壊。


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右の船が弓型で、舳先と艫が同じ形です。上部がフラットなのでどんな素材の舟かなとずっと考えていました。


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これは竹原古墳。パンフレットから取った画像です。船が赤色で、瀬戸横穴の船とそっくりなのが分かります。



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色処理をするとこんな感じ。同じ形ですね。そして、こちらの方は舳先(へさき)と艫(とも)がそれぞれ二股に分かれているのがくっきりと分かります。これはどういう意味でしょうか。


真鍋大覚の口伝を整理してみると、船の古代の呼称は「ダウ」型(タウ・タム・トホ・ドブ・ロブ)と「カウ」型(カウ・カラ・カラヌ)などがあります。
「ダウ」型は櫂(かい)で漕ぐ刳船(くりふね)。
「カウ」型は筏(いかだ)タイプだという所まで分かってきました。

一方、黄當時(こうとうじ)氏によると、ハワイ語でカウルアは双胴船だと書いてあります。(『悲劇の好字』より)「カウルア」は真鍋の伝える「カウ」と同じで、速く発音すると「カラ」と聞こえます。

黄氏の言う「双胴船」とは「連結した船」ということのようで、筏(いかだも)連結した船と考えれば、真鍋の伝える古代の日本語はハワイ語と同じものを指しているということが分かります。もちろんハワイ語は現代語。日本語は1000年以上も前の言葉です。

で、今日は何が言いたかったのかというと、遠賀川流域で二つの装飾古墳に描かれた船は、その形から双胴船で、「カウ」という船ではなかったかということです。

そして、それは葦舟だったのではと思ったのです。真鍋は葦舟について、「弓のごとくに舳と艫を中空に張り上げた形であった」と言います。のちに鯱鉾(しゃちほこ)の形になぞらえられたとも言います。そっくりですね。材料の葦は現地に山ほどありますし。

ということで、遠賀川流域で古墳時代に活躍した船は葦で造った双胴船で「カウ」「カラ」と言われたものだろうというのが結論です。

明日は船の話まで出来ませんので、備忘録として書いておくことにしました。

明日は、神功皇后の足跡を辿りながら、美しい福岡の山野や神社などを画像で紹介します。
では、明日、レトロな百三十銀行でお会いしましょう。
もちろん、飛び込みOKです♪


赤 中間市   青 宮若市



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by lunabura | 2015-02-13 19:54 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

宿題でた



出版社の不知火さんから連絡がありました。
準備中のガイドブックの下巻は上巻より少なくて49社ですが、
内容が濃かったので、16ページも増えるそうです。
そういえば、やけに大変だったなあ。

で、「一ページだけ空きが出るので、何か書いてください」と言われました(^_^;)
「何がいいですか?」
「何でもいいです。」
これが一番難しい。

で、話しながら「佐賀編」のイメージが湧きました。
山門県(やまとのあがた)(みやま市)で田油津姫を滅ぼした後、
『日本書紀』では、いきなり松浦郡の話になっているのですが、
みやま市から松浦郡までわずか9日で何処を通って出たのか。

るな的には佐賀を通って玄界灘に出たのだろうと予想し、
現地調査をしたら裏付ける伝承が見つかったのは過去ブログで紹介しました。

杵島郡から武雄市にかけては竹内宿禰の居城、父や母や妻や壱岐真根子の死地など、
一族の伝承地が集中して分布。
これを本で紹介する機会があるかどうか分からないので、
簡単でも出しておこうという気持ちもあります。

で、これを書こうとすると、また史料の読み直しや住所調べ。
あの暑い季節の苦労を思い出しちゃいましたが、頑張ります。


一方、北九州八幡東の神功皇后のお話会も、順調に準備しています。
志賀島で話す時には志賀島近辺に時間をかけ、
久留米で話す時には久留米周辺、
福津で話す時には福津~古賀周辺、と
詳しく話す部分を変えています。

忌宮神社がスタートなのはいつも同じです。
新羅の塵輪が直接皇居を襲撃したという大事件が『日本書紀』に書かれていないので、
新羅と戦う意味が分からなくなっているからです。

今回はゆったりと北九州周辺の奥行きの深さを紹介できるので、
沢山の画像を準備しています。
志賀島の磯良の話と組み合わせて聞いていただけたらいいな、とも思いました。




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武雄市 武雄神社の大楠



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by lunabura | 2015-02-06 21:13 | にっき | Trackback | Comments(1)

景教と秦氏の時代的な関係が分からない


景教と秦氏

時代的な関係が分からない

私の目の前には写しかけの『儺の国の星』があります。
「ゾロアスター」の文字にマークを入れていました。
「景教」という文字も見えます。

丸々2ページ。ふう~。
タイピングしながら、量の多さにひるんだ所でした。

でも、またシンクロが起きたから、続けなくでは。
今日のお題は「景教」という単語。

秦氏について書かれたウィキペディアの一文に「景教」の文字があったのが
気になっていました。
それがこれ。
「秦氏には景教(キリスト教のネストリウス葉)徒のユダヤ人とする日ユ同祖論」
があるということです。

これに関しては、日本に渡来したのはユダヤ人だけではないので、
「日ユ同祖」という言葉は不正確な表現なのだと今は分かります。
「日ユ一部同祖」というべきだと思います。

でも、この論を理解するために「景教」をネットで調べていくうちに、
景教が中国に入ったのが7世紀前半だということが分かりました。

秦氏の日本への渡来が3世紀。
景教の中国流入が7世紀ですから「秦氏は景教徒のユダヤ人」
という説は時代が逆転しています。
この「日ユ同祖論」の論拠は何なのでしょうか。

秦氏は7世紀以降、再び渡来した?
浅学なために、よく分かりません。誰か教えてください。

次は参考にした文です。

世界大百科事典内の景教の言及
【キリスト教】より
…布教の経路は,北のクルディスターンからいわゆるシルクロードを通って中央アジア,トルキスタン,中国,モンゴル,シベリアに及ぶ陸路とアラビア半島からインドに達する海路の二つがあった。635年に長安(西安)に達したネストリウス派教会は景教の名で知られる。中国では勢力が伸びなかったが,のちこの教派を優遇したモンゴル人の元の時代に多少の拡大を見た。…
【東西交渉史】より
…このルートを通って,西暦紀元前後には仏教が中国に伝来し,2世紀以降,中国人の精神生活に大きな影響を与えたが,2世紀の後漢の都洛陽では,仏教のみならず,衣食住および芸能の分野でも〈胡風〉と呼ばれた西域趣味が流行した。このルートは,ひき続き盛んに利用され,5~6世紀にはゾロアスター教(祆(けん)教),7世紀前半にはネストリウス派キリスト教(景教),7世紀末にはマニ教(摩尼教)などイラン系の諸宗教がこのルートを通じて相ついで中国に流入した。また,それとほぼ時を同じくして,イランの美術工芸の伝統も中国に伝えられ,異国趣味にあふれた美術工芸品を生んだ。…
https://kotobank.jp/word/%E6%99%AF%E6%95%99-58637


真鍋はキリスト教伝来について、紀元200年頃には日本に入っていて、
中東の風習とともに伝えていたので、
戦国時代にキリスト教が入って来た時、人々は祖先の言い伝えと通じるものを感じて、
佐賀~長崎辺りでは容易に受け入れられたと言っています。

西暦200年頃ですから、まだ聖書が書き換えられる前の教義だということになります。
中東には多くの民族がいたので、日本に残された中東のシンボルの数々、
ユダヤだけに結び付ける必然はないなと思う、この頃です。


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景教 画像出典 ウィキペディア





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by lunabura | 2015-02-01 20:58 | 徐福と弓月の君と秦氏 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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