ひもろぎ逍遥

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(15)高柳大塚古墳・ こりゃあ、美麗なり。

佐賀東部神社と古墳

高柳大塚古墳

 こりゃあ、美麗なり。


綾部八幡神社(みやき町)をおいとまして更に西に向かいました。ほどなく車は右折。



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田園風景の中を走り出すやいなや、右手にポコポコとしたマウンドが!車はそれを目指していました♪ (^o^)/






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絵に書いたような前方後円墳です!しかも、可愛いサイズ。
環境も素晴らしい。後円部の直径が20.4mです。







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開口してますよ!しっかりしてます。







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奥まで見通せました。入り口から奥壁までが10.20m。羨道部の先に前室があり、玄室へと続いています。







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奥壁が美しいです!
床は現代の加工。古墳の雰囲気を損なわないセンスの良い敷石です。
この古墳は立ったまま入れます。県史跡で、佐賀県内でも最大規模だそうです。宮地嶽古墳の石室が23 mほどあったので、ほぼ半分のサイズになります。








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天井を見るとしっかりと蓋がされていて、全体的に直線的なデザインです。手慣れた匠による築造という印象さえすます。







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仕切りの石も明瞭です。



時代は6世紀後半だそうです。田代太田装飾古墳と同時代ではないですか!

6世紀後半って肥前には誰がいましたっけ?

来目皇子が来たのは628年なので、それよりずっと前の人になります。

筑紫君磐井が亡くなったのが528年。磐井の君は筑紫と火の国を治めていました。磐井の君の次の筑紫君は葛子。彼は火の国を治めることは出来たのかな。誰か他の人が治めたのかな。

場所は前回の綾部八幡神社からはわずか1キロ。歩いても15分!綾部の岬を聖地とした文化圏が想定できますね。

周囲を見回すと田んぼだけですが、古代には集落があったのでしょうか。いや、集落の真ん中に古墳を造ることはないだろうから、もう少し南に営みの痕跡があるかも知れませんね。










で、石室は真北に向かっているように案内板の図には書いてあるんですが、地図を出して見ると、封土の軸の方が南北になっていませんか?

古墳の入り口は後円部と前方の接する所、右手に見えています。玄室は後円部の中央に位置します。熊本の和水の古墳とは左右対照的な位置だなあ。(名前忘れた)

この南北の軸とか、石室はどこを見ているんだろう。方角の調査、地図の得意な方にお任せしましょう。

ここは周囲の遺跡を調べると面白そうなエリアでした。


さて、次も古墳に案内してもらいましたよ。東山古墳と言います。吉野ヶ里です!








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by lunabura | 2015-04-30 22:56 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(6)

ありがとうございました^^



今日は森のオアシスさんの主催で出版記念のお話会をさせていただきました。
とても良い天気で、宮地嶽神社の鎮座する山の新緑が見える部屋で『神功皇后伝承を歩く』の下巻の内容をかいつまんでお話しました。

先月、北九州での話は、遠賀川の王たる熊鰐と神功皇后をテーマにしましたが、今回は、田油津姫と夏羽が何故滅ぼされたのか、住吉族や安曇族との交渉、出産、豊浦宮への帰還と香坂王たちとの戦いの準備などをテーマにしました。

本を書きながら自分で何度も読んだ内容なのですが、テーマを決めて俯瞰すると、いろんな謎が解けてきました。そういう点では、探求に終わりはないものだとつくづく思います。

GHQが神功皇后の名を教科書から消させたことが、日本人の精神的支えを失わせるための周到な計画の一端だったことも痛感しました。

倭国の真の歴史が『日本書紀』から消されたように。

『古事記』や『日本書紀』で神話とされる部分が筑紫および九州の歴史だったんですね。
神功皇后の伝承をそういう観点で読んでいただけたら幸いです。


さて、これから『宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち』の推敲を仕上げていきます。
そして炎のピラミッドを構成する11社を少しずつ回ろうと思っています。

ブログは肥前風土記の旅をもう少し続けながら、アチコチと取りとめもなく放浪していくようです ^^
あきれながらも、ついてきてね。






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by lunabura | 2015-04-29 20:28 | にっき | Trackback | Comments(0)

『神功皇后伝承を歩く 下巻』―足跡を辿る旅のガイドー・お話会のお知らせ


『神功皇后伝承を歩く 下巻』
―足跡を辿る旅のガイドー

出版記念のお話会のお知らせ

下巻がようやく4月20日に出版を迎えますが、森のオアシスさんの主催でお話会をさせていただきます。

上巻のあらましは次のようなものでした。
仲哀天皇は神功皇后と共に豊浦宮(忌宮神社)に皇居を定めて過ごしていましたが、仲哀七年に新羅軍が下関に上陸して皇居を襲撃。辛うじて敵将を射倒した仲哀天皇はその二年後、香椎宮に遷宮します。しかし一年後に天皇は崩御してしまいました。

傷心の神功皇后は神々に死の原因を尋ね、神祭りをすると軍を率いて羽白熊鷲を朝倉で討ち取ります。
ここまでが上巻でした。

下巻のあらましは次のようになります。
神功皇后は羽白戦の数日後には山門県に着いて田油津姫を討ち取ります。
その後、次なる新羅戦が現実化してくると、皇后は迷う心が押さえられず、ウケヒをしながら香椎宮へと戻ります。
しかし、ついに香椎潟で海に入ってミソギをすると男装をして、戦う決意を軍人たちに示しました。

 新羅遠征軍の構成は安曇族、住吉族、五十迹手率いる伊都水軍、熊鰐率いる遠賀水軍などなど。安曇磯良の舵取りで軍船が新羅に着いた時、津波が起こり、皇后軍は戦わずして勝利を収めます。
 凱旋すると皇后は男皇子を出産し、春になって大分(だいぶ)八幡宮で軍を解散しました。そして再び豊浦宮に戻ろうとしますが、帰還は簡単にはいかず、北九州に留まって再軍備を進めます。
これら、筑紫の伝承は『日本書紀』には描かれていない内容を多く含んでいました。

 今回は下巻の内容とその背景をパワーポイントを使って紹介します。美しい福岡を画像でご覧下さい。また、当日は書籍販売も致します。


日時 2015年4月29日(水・祭日) 13:30~15:30 (開場13:00)

会場 福津市 ふくとびあ 3階 らくらくルーム(視聴覚室)
〒811-3218 福津市手光南2丁目1番1号 ナビ用0940-34-3351
          駐車場有り
             
交通アクセス  JR福間駅から徒歩15分
          西鉄「手光」バス停から徒歩3分
          JR駅バスふくまーる「ふくとぴあ」バス停前

会費 1500円 (当日会場にて)

申し込み メールにて名前をお知らせください。 
            morino-oasis@nifty.com 
           090―8623―5895

主催 森のオアシス (安座上真理子) 


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ふくとぴあ







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by lunabura | 2015-04-28 17:56 | お知らせ | Trackback | Comments(4)

(14)綾部八幡神社3 旗で気象を占う

佐賀東部神社と古墳 (14)

綾部八幡神社3 

旗で気象を占う


このお宮にはもう一つ大きな特徴があります。それは旗で気象を占う儀式が今でも続けられているという点です。

帰りしな、神旗を見せていただきました。

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社務所の壁にこれまでの旗が時系列に掛けられています。


これらは麻で出来ていて、長さは一尺二寸。300年前にこの長さだった記録があります。

明治43年までは旧暦の6月15日に掲げていましたが、翌年の44年からは7月15日に揚げて彼岸中日の翌日に降ろしています。


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中央の昭和37年の旗は下がりも完全に残っていますが、左の昭和40年は半分に千切れて色も変色しています。

風の強さが違っているのが一目瞭然です。
日々、旗の巻きこみ方から気象を占い、宮には30ほどの型とその気象データが伝わっているそうです。


この旗を真竹(50mだったと思います)に取り付けて銀杏の木にくくりつけるのですが、その真竹の先が枯れていてはいけないそうです。

しかし、地面からは先の状況が見えないので、切り倒してか初めて確認できるそうです。ですから、枯れていないものが見つかるまで何本も切り倒さねばならないとのことでした。



さて、「気象を占う旗」に関しては、真鍋大覚が書き記したものがあります。まさかその現物を現代社会で見ることが出来るとは思ってもいませんでした。こうして実見することで、次の話が理解でき、さらに詳しい状況が想像できるのでした。

昔は神社には長さ四十尺、巾一尺の幟(のぼり)を上から吊り下げる形で立てた。これを幡と言う。倭人は「のぼりばた」と訓じる。

今から七百年の昔、ユリウス暦がイスラエル暦との間に七日、即ち上弦下弦の日数だけ朔望から外れる頃になると、旌旗(はんき)に変わった。これを「なかばた」といった。今の「はた」の形式がこの頃に百姓だけの器として、うちわに普及してきたのであった。

察するに彼岸が西域でParthusパルトス、即ち左右二つに開く意を言うし、春分は夏の門であり、秋分は冬の門であったところから、その扉の片方だけを旗に置き換えたものである。

これを「かたはた」と言い、略して「はた」になったときく。

すべて上から賜(くだ)されるのは「ながはた」であり、百姓が随時に用いることが出来るのは旗(かたはた)と定められていた。

維新後は泰西(たいせい・西洋)の伝統に習って弔意を表すに半旗を揚げる言葉が出来た。原語は半柱、或は半檣であるが、この聞きなれない舶来語をきいた明治の人々は、半旗なる和訳に何か納得しがたい響きを感じていたのである。
(『儺の国の星拾遺』p13 烏座 ギエナ星 44風子星)

これによると、神社ではもともと約30センチ×12メートルほどの幟を下げていて、これを幟(のぼりばた)と言いました。その後、1300年ごろには「なかばた」という短いものが百姓用に普及したようです。

これが「かたはた」「はた」と変化していくのですが、その背景には西域の春分、秋分を季節の扉と考える西洋の思想があったことを真鍋は示唆しています。

綾部八幡神社の場合、古い時代6月15日だったのは、夏至近くの満月の日に掲げられたと考えられ、真鍋の郷土の那珂川町の暦とは違う基準を持っていたようです。

夏至ラインといえば、すぐ近くの吉野ヶ里遺跡の夏至ラインが思い出されます。

春分秋分、夏至冬至など、新年の違いなどが催事の日取りや遺跡の祭祀ラインに反映されるはずなので、それらと氏族の対応表なんかができたらいいなと思って、コツコツと調べています。渡来人は故郷の風習を持って来ているはずだからです。

さて、引用文に戻りましょう。明治維新後、弔意を示すのに、旗を柱の上部から3分の1ほど下げた状態で掲げますが、これを日本語で「半旗」と訳しました。が、これが当時の人々には納得できなかったと真鍋はいいます。

日本にはすでに「はんき」という言葉があって、もともと「かたはた」すなわち短い旗を意味していたからです。



福岡の志式神社の伝承に、近くを通る船は旗を半分降ろして通ったという話があるので、日本では古来、旗を少し降ろすのは神々に敬意を示す意味で使われたことが分かります。ですから、国際的な基準とは違う使われ方があったということになります。


それで、当時の人は首をかしげたんですね。

さて、ユリウス暦とイスラエル暦が出てきました。物部氏は各民族の暦をつねに対照していたことになります。インドネシアだったでしょうか、いまだに各部族によって暦が違うので、毎年カレンダーが凄いことになっているそうで、古代日本もそんな風だったんでしょうね。

この綾部八幡神社では来目皇子の時代、播磨から来た鍛冶集団が製鉄をするのに最適な谷風が吹き始める日を旗で占っていたのかもしれません。

また、他のハタザキとの関係も興味深いです。古有明海にせり出す岬の上に宮はあります。久留米の旗崎、鳥栖の幡崎と同様に旗が靡いていた所で、奇蹟的に古来の姿を留めるものと思われました。

さて、最後に宮司さんに古墳のことを尋ねました。すると、先日書いた山田古墳群以外に古墳があることを教えていただきました。それが筑後国造さんがセレクトしてくれていた代表的な古墳だったのです。

ここと関連があるかも知れませんね♪
次回はその古墳を御紹介。えっと。名前は「高柳大塚古墳」と言います。



綾部八幡神社





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by lunabura | 2015-04-26 22:10 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(2)

(13)綾部八幡神社2 忍海漢人が兵器を造った

佐賀東部神社と古墳(13)

綾部八幡神社2 

忍海漢人が兵器を造った


「山田って、あの集落ですか?」
なんと、山田古墳群の地域はやはり鉄器すなわち兵器を造っていたところだそうです。
そして、ここは本来風の神を祀っていたと言われます。
そう、製鉄には風が必要なんですね。

そして、時代はあの来目皇子が筑紫に来た時、忍海漢人(おしみのあやひと)がここに来たというのです。

え?名前は知ってるけど。来目皇子の時代?!(@_@;)
忍海漢人が兵器を山田で造った!

すると、あの山田古墳群の被葬者もその人たちではないか。
そりゃあ、もう、忍海漢人の一族の古墳群としか考えられない。
あれほどの古墳を庶民が造れるはずはないんだから。

しかも、時代が特定できる!来目皇子の時代だ。

家に帰って落ち着いて読むと、いただいた由緒書にはっきりと書かれていました。

綾部郷と綾部一族
 推古天皇の628年、来目皇子が新羅征伐の際、播磨国の帰化人忍海漢人をこの地にとどめ、兵器を造らしめたが、そのまま土着して風神(バアヤベイ)を祀って里を作った。この漢部を綾部と書き改めた。バアーヤーベーからアヤベとなったとも推定される。

仮説が合っていれば、あの古墳群の時代は628年以降となります。

来目皇子は聖徳太子の弟ですね。
『日本書紀』によると、「推古10年2月に来目皇子を新羅征伐の将軍に任命し、もろもろの神部(かむとものを)および国造(くにのみやつこ)、伴造(とものみやつこ)ら合わせて2万5千人の軍衆を授けた。」とあります。

2月。真冬の決定です。2万5千人も大移動した!この人数にはいったいどれほどの食糧が必要でしょうか。船はどれほどあったのでしょうか。

こんな疑問をかつても書きました。屯倉の蔵が解放されたことでしょうが、博多沿岸は一気に人口が倍増して、大変な状況だったと思われます。

書紀の続きには
「夏4月1日に将軍来目皇子は筑紫に到着。志摩郡で駐屯、船舶を立詰めて兵糧を運んだ。」と書いてあります。

しかし、6月3日、志摩郡で来目皇子は病に臥し、翌年2月4日に薨去しました。将軍となってわずか一年でした。

この2万5千人の中に忍海漢人の集団がいたのでしょう。彼らは糸島とは山を隔てたこの谷筋の風を見極め、兵器を造ったのでしょうが、その準備がわずか一年で整ったのか、疑問が残ります。

山田にはもっと前から製鉄集団がいて、そこに新たな武器製造の技術が導入されたのかもしれませんね。

さて、将軍の死の知らせはすぐにここまで届いたでしょうか。届いたとしても戦争を中止する訳ではないので、鍛冶工人たちはここに留まって武器製造にいそしんだことでしょう。

そして二か月後、4月に当麻皇子が次の将軍に任命されるも、妻が途中で病死。当麻皇子は引き返したのでした。

鍛冶工人たちは播磨に戻らず、ここで新たに村里を作ったと縁起は伝えます。

ところで、推古紀には忍海漢人のことは出てきません。『肥前国風土記』の方に「綾部郷」のことが書かれていました。「三根郡」にその名が出てきます。

漢部(あやべ)の鄕 郡役所の北にある。
昔、来目皇子は新羅を征伐しようとして忍海(おしぬみ)の漢人(あやひと)に勅し軍衆として連れて来て、この村に住まわせ兵器を作らせた。それで漢部の鄕という。

この綾部八幡神社は古来の伝承を今に伝える古社でした。

ところで、当社では風神の名を「バアヤベイ」と伝えています。エジブトあたりの嵐の神「バアル神」をなんとなく思い浮かべるのは、るなぐらいかなあ。



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左手の山はいかにもイナリとして鉄器製造によさそうな地形ですが、特に施設はないそうです。







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by lunabura | 2015-04-23 20:56 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(0)

(12)綾部八幡神社1 火と風の神を祀っていた宮

佐賀東部神社と古墳 (12)

綾部八幡神社1

火と風の神を祀っていた宮
佐賀県三養基郡みやき町

 
さて、歴史逍遥の難しい点は、興味あるテーマに行き先々で出会い、その関心を封印するのが大変なことです(^_^;)

阿蘇山の結界の話も調べながら、現在逍遥している佐賀東部を平行して参りましょう。
そうそう、鞍手古道もありました^^


さて、前回(11)、三養基郡みやき町の山田古墳群を後にして、通りすがりに見えた綾部八幡神社へと向かいました。

当社の名称は綾部神社とか、綾部八幡宮とか、いろいろあるようですが、いただいた由来書から採って「綾部八幡神社」と書くことにしました。

噂通り、「ぼたもち」の旗がありましたよ。出来あがると旗を揚げるそうですが、神社そのものが旗で気象を占う聖地でした。



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ごらんの通り、少し高台にあります。



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味わいのある神門。そして、その奥に拝殿がありました。



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御祭神は「応神天皇、神功皇后、竹内宿禰、住吉大神、火具土大神、風神大神(級長津彦命、級長戸辺命、隆信沙門)です。

お馴染みの「応神天皇、神功皇后、竹内宿禰」にここで会えるとは!
これは元久二年(1205)に地頭職・藤原幸忠公が鎌倉八幡宮から勧請したものだそうです。

この頃、地元古来の「住吉大神、火具土大神、風神大神」も勧請合祀したそうです。
火具土(かぐつち)大神は当ブログでは初めてですね!
カグツチの神は火の神さまですが、製鉄の神様でもあります。風神大神も一緒ですから、これもまた製鉄を思わせます。



そして、祭神の隆信沙門については次のように言い伝えていました。

この地に天暦五年(951)に起こった風水害や流行病のために人々が苦しんだのを見て、脊振千坊に住む隆信という僧が九千部山頂に風神を祀り、一万巻の法華経を読誦する発願をして、九千部で息絶えたことから、その徳を称えて沙門を風の神として祀った。

これが九千部山の名の由来となったそうです。ここは脊振山系の麓に当たるんですね。
その風水害がひどかったのが前回の寒水川の流域だそうです。



宮司さんよると、もともとここは風の神を祀っているところだそうです。
そして、山田で鉄を造っていたと、思いがけない話を聞いたのです。

(つづく)



綾部八幡神社


右側に寒水川が流れています。
地図をクリックすると地名が分かります。



連続して読む場合は下の「佐賀東部の神社と古墳」から入ると便利です。



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by lunabura | 2015-04-21 21:27 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(0)

(1)阿蘇山を囲む「炎のピラミッド」に出会ってしまって…


阿蘇山を囲む「炎のピラミッド」に
出会ってしまって…


先週、熊本の八坂神社の田尻盛永宮司の話を聞きました。
余りの衝撃に、心が奪われっぱなしなのです。

阿蘇山の火口と火口湖―火と水を囲んで阿蘇五岳があるのですが、その山々の描く図形が不思議な形をしています。それを、囲んで四つの神社が平行四辺形に配置されていて、その中心を夏至ラインが通っています。

ここまでなら、誰でも見つけそうなのですが、さらに熊本全体に、合計11の神社が意図的に配置されていたというものです。

その意図的というのが、黄金比率やメートル法で確認できるというもの。

古代にメートル法を使った \(◎o◎)/!
メートルって、地球の大きさが分かっていないと計測できないんですよ!

どんなに文句言っても駄目。数学を使っているので、誰でも検算できるんです。おそるべき配置。


田尻宮司はこの不思議な神社群配置を「炎のピラミッド」と名付けられましたが、その正確無比な計算は学界で認められています。


いやあ、私が説明できるようなレベルではないのですが、血が騒ぎます。

それは、いつも参照にしている真鍋のやたら長い数値、十数ケタの数値の必要な古代世界の延長上にそれがあるからなんです。

田尻宮司はこの美しい数学的配置の時代を470年前後(誤差±20年位)頃と推定されています。ちょうど、ナスカ飛行絵が造られた時代です。そう、空からじゃないと分からない絵と同じ時代。

その発願者の名前も特定されています。

るな的に、加えて言うなら、これって筑紫君磐井の苦労した473年の針摺瀬戸の崩壊、476年の(姫古曾神社で紹介した)ハレー彗星と時代が重なっているのです。

磐井の君は火の国までも支配したのですから、風水害の集中した時代に、阿蘇山の噴火の鎮めにも関わったのではないでしょうか。

この数学的素養のある古代人。河内で巨大な前方後円墳群を造った人たちではないかと田尻宮司は推測されましたが、実は、これも真鍋の話と繋がってくるのです。

私はまだブログでは紹介していませんが、真鍋はエジプトの王家の一派が日本へ逃れて来ていて、それが糸島に着いたと言っています。その技術者が近畿で巨大古墳を造ったとも。

これだと、考古学会では取り上げられない、福岡に実在するいくつもの古い前方後円墳の説明がつくんですね。

福岡で造り始められた前方後円墳が近畿で巨大化して花開いた。

そして 宮司の話をつなげると、 (@_@;)
それを造った人たちが九州に戻って来て、阿蘇の噴火を鎮める結界を張った。
となります。

エジプトのピラミッドの建造者の末裔たちが日本に流れて来たと考えれば、あの設計の基本思想が日本で再現されるのもうなずけます。

「炎のピラミッド」そのものが学界で発表されたにも関わらず、マスコミが取り上げなかったので、それを知る人は殆どいないようです。

もちろん、私も知りませんでした。

熊本って、昨年、九州王朝の暦が出たのに報道されませんでしたよね。
弥生時代の製鉄も、NHK番組では全く無視されていました。
熊本のマスコミさん、郷土の歴史、もっと発信してくださいませ。

熊本は大陸からダイレクトに船が着く所なので、先進文化が直接流入する所なんです。途方もない歴史があるのは当然なんです。

今年は熊本が気になるな、と思っていたのですが、思いもかけず、驚異の古代史に触れてしまいました。

阿蘇神社、国造神社、草部吉見神社など、皆さん知っている神社が結界の一端を担っています。

眼には見えない全く別次元の世界。
それを知って、これまでの神社の話になかなか戻って来れずにいます。



神功皇后の本を書き上げたあとで本当に良かった。






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本の名前は『古代「火の国」の象徴 「炎のピラミッド」の発見』熊本出版文化会館発行 田尻盛永著






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by lunabura | 2015-04-19 22:30 | 阿蘇山・炎のピラミッド | Trackback | Comments(6)

春から初夏へ



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今朝のカエデ。今朝なんです♪ 秋のものじゃないんですよ。
これは新芽から紅葉する品種です。夏には緑がかって、秋には再び紅葉します。


さて、先日から次作の『宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち』の推敲を進めています。日付をみると脱稿は昨年の6月でした。一年経とうとしています。

宮地嶽神社だけで、これほど多面的な話があったのかと、今更ながらに驚いています。(書いた本人なのに…笑)
失われた倭王朝の残照が今再び輝きを取り戻そうとしているのでしょうか。

この夏にはきっと本になるでしょう。

植物たちは春から初夏へと勢いづいていて、剪定や草取りなども並行しています。今年はタイミング良くお世話出来ているかな。この数年手入れが出来ませんでした。


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それでも花を咲かせてくれます。ありがとう。



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by lunabura | 2015-04-18 20:40 | にっき | Trackback | Comments(0)

(11)山田古墳群・神名備山の麓で

佐賀東部神社と古墳(11)

山田古墳群

神名備山の麓で
 三養基郡みやき町

さて、鳥栖市をあとにして、車は西へと向かいました。次の目的地は三養基郡みやき町の山田古墳群です。山に向かう谷に古墳群があります。

県道31号線、綾部東の交差点を北上すると、すぐ左手に古社が見えました。ちょっと高台です。いいお宮!

案内板の文字に見える「風」の字に、「風の宮」だ!と思わず声を上げました。風を祀るなら製鉄かも!といつもの思考パターン。

すると、フウさんが、「あそこの門前町は饅頭が出来ると旗を揚げるので有名でね」と意外な話を。周りの人たちも御存知。その古社とは綾部八幡神社と言います。ここの幡は結構有名なんですね。

「あとで寄りましょうか」と筑後国造さん。
――やったね、神社だよ。古墳と神社はセットで見なくちゃね!

さて、車はどんどん北上します。川が流れる谷あいに出来た細い道です。川の名前は「寒水川」。「しょうずがわ」と読むそうです。
怪しい。製鉄関連地には「寒水」はつきものです。




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そこに、この山!
ああ、古代人がマークする神奈備山だ。
「何て言うんですか」
「鷹取山です」
先達がいると、山の名前がすぐに分かるので有りがたいですね!



いかにも古代人が集落を営みそうな雰囲気の所に、山田古墳群がありました。



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ぽっかり開口したもの。




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中に入って外を撮りました。





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これは封土がすっかり無くなってしまって石室が露出したもの。右から入る事ができます。





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これが正面。しっかりとしています。



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これは最奥。手前に石仏があります。
壁を見ると、天井との間に近所の石が詰め込まれている(?)感じです。



壁の作り方は個性があるので観察するポイントなんでしょうが、撮るのは難しいですね。

集落には古墳の高まりや穴は沢山あるんですが、竹やぶになっているので、何を撮っているのか、別の分からない画像ばかりになります。

それでも、大きな古墳は羨道を立って歩けるものもあり、谷あいの集落にこれほどのものを造れたということは、かなり富み栄えた部族と考えられます。農村ではありません。

「どうやって、こんな山の古墳群の存在を知るんですか?」
「郡誌や地元の本からです」
「ああ、私の神社調べと同じですね」

郷土史家の手作りの本や郡誌には考古や神社の資料が真摯に書かれていて、その本と出会うかどうかは、るなの古代史ワークの最大ポイントです。

これらの本は貴重なもので、多くは図書館の郷土史コーナーに保管されていますが、地元の図書館を一つ一つ回る事は不可能なので、こればかりは御縁次第ということになります。

ですから、九州全体の古代史を再現するには、地元の方が史料と現地の突き合わせをすることが肝要です。そして、古代史マップを作ろうとすることで、地元の歴史が明らかになってきます。

そんな土台となるマップが出来たら、関連ある地域へと探査を広げていくことで、2000年の歴史を描き出せるんだと思っています。

マップ交換会が夢なんです^^
そんなイベント、県や市が企画してくれるといいな。

九州は遺跡だらけなので、どこを掘っても遺跡が出てきますが、あいにく消滅するものが沢山あります。総てを残すことは出来ないのでしょうが、地元に関心を持ち、学ぼうとすることで、後世に伝えなければならない遺跡を見抜く力を養います。

意図的に消滅させられないためにも、フィールドワークは欠かせませんよね。
皆さん!連休はガイドブック持ってフィールドワークしましょう!(宣伝!)(笑)

さて、この山の中でこれほどの古墳を営むには、古代でも産業がなくてはなりません。
やっぱり、鉄しか思い浮かばないんだけどなあ。

戻りしな、フウさんが、ここは土砂崩れが起きそうな地形だなとつぶやきます。そう、山津波が起こったら、麓まで土砂が流れ出しそうな地形です。

そして、私たちの思い思いの感想は次に向かう神社で思いがけず証明されたのです。



地図 佐賀県三養基郡みやき町山田






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by lunabura | 2015-04-16 20:26 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(4)

(10)姫古曽神社3 彗星の化身・市杵島姫

佐賀県東部(10)

姫古曽神社3

彗星の化身・市杵島姫

荒ぶる姫古曽神の名が市杵島姫だったとは。
驚かずにはいられない。

実は、真鍋からの引用でよく分からなくてスルーした部分があります。

それは(6)媛社の鄕「荒ぶる神」で引用した文です。前回、触れなかった一文を赤字にしてみます。

姫子星(きしのほし)
 肥前風土記 基肆郡姫社の鄕の条に曰く
珂是古、即ち、幡を捧げて祈祷みて云ひしく、「誠に吾が祀を欲(ほ)りするならば、此の幡、風の順(まにま)に飛び往きて、吾を願(ほ)りする神の辺に堕ちよ」と。

太宰府から見ると、この中空あたりに彗星が出てくる。宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、この物語は後四七六年の時である。
 (略)
 彗星は最初にその姿をみせる所は、水平線に近い赤道上空である。倭人は彗星を大気都比売(おおげつひめ)とよんでいたかと思われる。「おほ」は長大と同時に形だけでなく、人間の呼吸、即ち「いをき」と通ずるところから伊吹星(いぶきのほし)とも呼ばれていた。
 (『儺の国の星拾遺』p78 姫子星)

今回は
「太宰府から見ると、この中空あたりに彗星が出てくる。宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、この物語は後四七六年の時である。」を解読したいと思います。

「太宰府から見るとこの中空あたりに彗星が出てくる。」という文は、真鍋の祖先が太宰府の天官であり、常に太宰府から天体を観測していたことを意味し、基肆郡はそこからは南に当たるという地理関係を理解する必要があります。

南の空低く現れるのがカノープスでした。気象を占うのに、カノープスの出現は洪水の前兆を示していました。

しかも、76年に一度の彗星が姿を表すと、夜な夜な角度を変えながら拡大し、カノープスの光を隠す時、古有明海(中つ海)は荒れ狂うのでした。

その彗星を姫子星と呼んだ人たちがいました。またオオゲツヒメと呼ぶ人たちもいました。オオゲツヒメの長く白い尾を見て、冬の白い息を思い浮かべる倭人だったのでしょう。


「宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、」
という部分は三女神が剣を三つに分けて噛んで吹き出した「息吹」から生れた神々ということを示しています。

剣というものは細長く白々としているので、彗星を見て剣と息吹を連想する人もいたということです。

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これを見て、女性の下着を思い浮かべるか、幡を思い浮かべるか、白い息を思い出すか、白い剣の刃(やいば)を思い出すかで、呼び方が姫子星、風子星、息吹星と変わったということでした。

『日本書紀』には三女神が生まれたのは十握剣に限らず、九握剣、八握剣から一柱ずつ生れたとする神話も紹介されていて、驚いたことがあるのですが、彗星の姿の象徴だったと考えると、ナルホドですね。

「宗像の神々は天津息吹に生(あ)れました。頃は前九〇三年であり、」
という一文は、三女神が彗星の象徴で、紀元前903年に既に観測されたということを示しています。

紀元前903年。
これもまた、物部氏にとっては引照とする年だったのでしょう。

「いちきしま」姫(市杵島姫)の語源は「斎く」(いつく)から来ているとするのが一般的ですが、それでは三女神が剣から生まれたことを説明できません。

剣のように冷たい白い輝きの彗星が爆発して三つに分かれて飛び散った時の輝きを神格化したのが三女神だとすると、神として崇められ、荒ぶる神として畏れられた理由を良く説明してくれます。


これまでの女神像、何だったのかと思ってしまいました。

市杵島姫とは彗星のことで、その白く長い輝きを冬の白く吐く息になぞらえ、息吹の女神として畏れられた女神でした。この原形を良く伝えるのが姫古曽神社の荒ぶる神だったということになります。

星の名をつけた人物がいます。
例えばシリウスの名をつけたのが安曇の長・磯良。
彗星の名がついたのが市杵島姫。
ちなみに獅子座流星群は稲目星と呼ぶそうです。そう、蘇我稲目もまた星の名前が付けられた人でした。


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◆ 『神功皇后伝承を歩く 下巻』が天神エリアでもうすぐ店頭に並ぶそうです。帯の色が二種類あり、古代の朱色と山吹色のものが出ているそうです。画像と印象が違うので、びっくりしないでくださいね。

また、予約の方からは到着したという連絡がそろそろ届いています。ありがとうございます♪


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by lunabura | 2015-04-15 20:25 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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