ひもろぎ逍遥

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高良玉垂宮神秘書 神紋と鎧 ・玉垂命と覆面


高良玉垂宮神秘書 
神紋と鎧 
玉垂命と覆面


実は御縁をいただいて2012年の臨時の勅使祭の行列に加えてもらい、鎧と甲を載せた車を引かせていただきました。

高良玉垂宮の祭神、三柱にそれぞれ鎧と甲がありますが、御神紋を知らなかったので、どの神の御神宝を引いたのか分かりませんでした。

「高良玉垂宮神秘書」にそのことが書かれていたので、今日はそれを確認したいと思います。まずは御祭神のこと。

一五三条 一、左宮 宇佐八幡大菩薩   (末梢文字)
一五四条 一、中宮 玉垂大菩薩     (末梢文字)
一五五条 一、右宮 住吉大明神     (末梢文字)
一五六条 一、善神王 左本地 或は両部大日 右本地 或は不動毘沙門

中宮が玉垂大菩薩です。左宮に八幡大菩薩、右宮に住吉大明神。それぞれの神に関して説明があったのですが、消されてしまっています。

玉垂大菩薩が誰であるのか。私は「安曇磯良とその奉斎する綿津見の神」という立場を取っています。

一言でいうなら「安曇磯良」となりますが、現在、高良大社では「武内宿禰」とされています。それは江戸時代からの流れです。この神秘書が書かれたのはその少し前、中世末期です。

ここで注目したのは156条の「善神王」です。これこそ武内宿禰ですね。これで、玉垂大菩薩は武内宿禰ではないことが明らかになりました。

多くの宮で祭神が変遷していますが、ここでも、もともと安曇磯良だったのが、武内宿禰に変わったと考えています。

安曇磯良とする証拠も見つかりました。
22条(祭礼の次第の事)一、大菩薩抱き奉る次第の事、覆面の絹一疋、(略)

高良大菩薩に奉納するのが「覆面」の絹です。これこそ安曇磯良の顔を覆う白い布だと思います。

鎧の色が書かれていました。
40条(幸行有る時の次第の事)
一、住吉の御鎧白糸、八幡の御鎧黒糸、大菩薩御鎧緋縅。(略)


祭神の鎧は糸の色で区別が付けられています。住吉は白糸、八幡は黒糸、高良大菩薩は緋縅(ひおどし)。赤色ですね。


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最前には赤い糸!高良大菩薩です。そして、神紋は木瓜(もっこう)。
次に見えるのが黒糸!八幡大菩薩ですね。神紋は巴(ともえ)です。
最後は住吉ですが、よく見えません。



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この写真も駄目だな。住吉神の鎧は何故か上手く撮れていない。これは真横から撮ったものです。背の方に白い糸が編んであります。神紋は「五七の桐」。横向きです。これを「桐の臺(とう)」ともいいます。



それぞれの神紋の由来も書かれていました。
309条【訳】住吉の御紋に桐の薹を使われることは、鵜戸の岩屋でウガヤフキアワセズの命をお生みする時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。

産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けた。これにより、異国を攻められた時も桐の薹を御紋として御攻めになった。

住吉と申すはヒコナギサタケの御ことである。

ちょっと説明がいるけど、住吉神はウガヤフキアエズの事だと書かれています。産屋(うぶや)に桐の葉を敷いたことから桐の紋になったと書かれています。

住吉=ウガヤフキアエズ
これは意外な展開になりました。住吉に関してはもっと調べようと思っています。


さて、話を戻しましょう。次。

310条【訳】八幡の御紋は神功皇后が異国追伐の時、八幡を懐妊されていて、御舟の前の水の渦を御覧になって御紋とされたので巴である。


八幡が巴紋だという理由は、神功皇后が八幡をお腹に宿しながら見た水の渦目を見たので渦巻の巴紋になったということです。

そして、高良玉垂命は?
311条【訳】高良の御紋の木瓜(もっこう)のこと。

神功皇后が筑前国四王寺の嶺で大鈴を榊の枝に掛けて七日間、異国の退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開けて四方に光を放ち、四王寺の嶺に降られた。

四方に開けた白雲は四天王である。御紋の中に四本の鉾を抱えているのは四天王の鉾である。これをそのまま門光(もんこう)と名付けた。

異国追伐の時の高良の御紋はこれである。四方に光を放っているので門の光と書く。高良、四天王に従して天下られる所を四王寺が嶺と名付けた。



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これが高良山の御神紋の木瓜紋で、門光とも書きます。
神功皇后が四王寺山で祈った時、白雲が現れ、四つに分かれて光を放ち、その中央には四天王の鉾が現れたということです。

この文は第一条よりもオリジナルに近いかなと思っています。これが一条では住吉神に変わってしまい、神秘書の中で矛盾が起こります。

このからくりがようやく分かりました。今回は話が逸れるのでまずは紋の話までにしましょう。


で、3年も前の祭だったので、どの神さまのものを引かせていただいたのか、もう記憶がありません (^_^;)

御紋のこと知っていたら、覚えているでしょうけどね。
締まりの無い結果になりました(/・ω・)/ .





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by lunabura | 2015-07-29 22:26 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(12)

高良玉垂宮神秘書 麓の一火 八咫鏡の威力 秘すべし


 麓の一火 

高良玉垂宮神秘書
八咫鏡の威力 
秘すべし


さて、高良山にもたらされた三つの玉、「神璽の玉と干珠と満珠」の霊力「一火」は上宮の神殿から駆け降りて八葉の石畳を巡って再び神殿に戻る不思議な力ですが、麓にも「一火」がありました。

それは三種の神器の一つ、「八咫鏡」の霊力でした。

麓の「一火」というものがある。

その神威は大祝居屋敷を出て南の丘に出、馬場の堀、下宮、本躰所を巡り、阿志岐、不開(あけず)を行き、朝妻を渡り、矢取の前を通り、瓦礫場に上がり、元の丘に留まった。

この謂われは玄孫大臣が異国を攻められた時から皇宮に行くまで内侍所を預かられたのを、御子の日往子命へ譲られたので、当山までも随身されたので、今に大祝職の家に伝わっている。

(神霊が)この鏡に現れて入られたので、麓の一火となった。スイ体である故に、自然に人の目に掛かる事もあるか。かの丘と申すは大祝職日往子命の廟である。

山上の一火は金剛界、麓の一火は胎蔵界、火タイ、水タイのフニを表している。秘すべし、秘すべし。神秘なり。(高良玉垂宮神秘書215条)

(カタカナは原文のまま。漢字不明…候補の漢字、募集します^^)

まずは、言葉の解説をしましょう。
○「大祝居屋敷」(おおほうりいやしき)-大祝家の屋敷があるところで、大鳥居から参道に入って約500メートル、右手にあった。


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(大鳥居)

○南の丘―祇園山古墳がある所。方墳で、頂上のみ発掘されているが、横穴式古墳という記録がある。また、濠があったという記録もある。現在一部が高速道路になっている。玄孫大臣の子・日往子(ひゆきこ)尊の廟。


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(祇園山古墳。右は高速道路の塀)




○玄孫大臣(げんそん・ひまこ)-第一条では物部連で、日往子(ひゆきこ)の父とするが他の系図と矛盾がある。三種の神器の内、鏡を預かったまま高良山へ随行する。

○内侍所(ないしどころ)-三種の神器の一つである神鏡を安置した所。ここでは神鏡そのものを指す。八咫鏡。神功皇后から預かったものだが、子供の日往子命に譲った。そして、その鏡の霊力が「一火」となった。

○「一火」が回るルートの地名は現存している。参道の大祝居屋敷からいったん祇園山古墳に行き、下宮などを巡り北麓から朝妻(味水御井神社)を巡って丘に留まる。五十年に一度の勅使祭の前半ルートにほぼ重なっている。



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(下宮で挨拶をする神輿)


○「秘すべし、秘すべし」-有名な文言で、本書の数か所に出て来る。

以上、かなり、マニアックというか、地元の方にしか分かりにくい話でもありますが、「一火」は初めて知る話なので紹介しました。

仲哀天皇の崩御後、三種の神器は剣を神功皇后が持ち、八尺瓊の玉は高良大菩薩が、そして八咫鏡は玄孫大臣が預かり、凱旋後にそのまま高良山にもたらされたということです。

そして、玉の霊力は干珠満珠と合わせて上宮の「一火」となり、鏡の霊力は麓の「一火」となりました。のちに仏教思想によって「山上の一火」は金剛界、「麓の一火」は胎蔵界を表すということになりました。

この「一火」が高良山を照らしていますが、火が消える時、高良山は滅亡すると書かれています。

さて、ガイドブックでは高良玉垂宮・高良下宮社(上巻26)、味水御井神社(上巻27)を紹介しています。回る時には、三社とも回る事をお勧めします^^





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湧水量が復活していた味水御井神社の泉。中央の石が御神体。



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by lunabura | 2015-07-27 23:40 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(4)

高良山の「一火」・三種の神器の行方・神籠石の呼称を戻さねば

 

高良山の「一火」

高良玉垂宮神秘書より
三種の神器の行方
神籠石の呼称を戻さねば


仲哀天皇の崩御後、三種の神器はどうなったのだろう。

そんな謎が頭の中からはすっかり欠落していましたが、『高良玉垂宮神秘書』を読むと、三韓征討後、安曇磯良の操縦する龍船が有明海経由で風浪宮に至るまで、共にあったと書かれていました。

三種の神器の中の「神璽(しんじ)の玉」―即ち、「八尺瓊(やさかに)の勾玉」を「高良大菩薩」は預かっていたと「神秘書」は伝えます。

『神秘書』は中世末期に書かれたものです。その当時から千年以上もの間、語り継がれた物の中には真実も残っているし、書き換えられたものもあります。

特に、「高良大菩薩」に関しては、安曇磯良、武内宿禰、住吉大神、と変遷していきます。

当初の高良大菩薩が安曇磯良である証拠は、大菩薩が風浪宮で浪風の神を祀ることから、明らかになりました。

浪風の神とは綿津見の神のことです。この神を祀るのは安曇族しか出来ないので、「高良大菩薩」は安曇磯良しか有り得ないのです。

福井県の気比神社にも、わざわざ安曇連が龍宮の海の神を祀りに出かけた話がありますが、これも他の部族ではよその神を祀れないことをよく伝えています。

綿津見の神を武内宿禰が祀ることは出来ないのです。風浪宮でも、仮宮を作ったのは武内宿禰ですが、綿津見の神を祀ったのは磯良でした。

また高良大菩薩に奉納する布に「覆面」の絹が含まれていることが分かりました。「覆面」こそ、磯良神のシンボルでしたね。

磯良は干珠満珠を海神から借り受け、武内宿禰に渡したので、新羅からの凱旋の時、龍船には「神璽の玉と干珠と満珠」の三つの勾玉があったことになります。

外洋船である龍船は大善寺玉垂宮に置かれ、小舟で高良山に皇后たちはやってきます。


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こうして、高良山には一時期、「三つの玉」が揃いました。これが神霊の力を発揮したというのです。その霊力を「一火」と呼びました。(読み方は書かれていません)
この「一火」について書かれた214条を今日は紹介します。(るな訳)

当山の「一火」は大菩薩が神璽の玉を、異敵を攻めた時から皇宮に行くまで預かっておられた。また干珠満珠を龍宮から借りて異国を平らげた。

これら合わせて三つの玉の霊力は高良山を一火として照らし、上宮御殿を出て八ヶ寺を巡り、鷲尾を下り、瓦礫場のそばに下り、八葉の石畳を巡り、もとのように上宮御殿に留まった。


もしこの火が消えることがあれば、当山は滅亡する。二、三日照らさなければ必ず苦節が来る。


高良山に伝わる「一火」は神霊の力となって、(原文は「威力」)高良山を照らし、上宮の神殿から出ると、麓まで下り、「八葉の石畳」を廻って再び神殿に戻ったといいます。


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この「八葉の石畳」は考古学者が「神籠石」と名前を変えて紹介したので、本来とは違うものを指すようになってしまいました。

「神籠石」とは「神が籠る石」という意味で、高良山にある巨大な磐座なんですね。


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(この画像一杯の岩盤が神籠石です)

「神秘書」では列石の方を一貫として「八葉の石畳」と書いています。これは結界でした。


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これを山城と考えてしまうと、パネルのような薄っぺらな石の説明が出来ません。


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防御の戦略も考えられませんね。


これは、本来の呼称「八葉の石畳」に戻すべき課題となってしまいました。このすり替えによっても、歴史が正しく見えない原因になってしまっています。



こうして、数行の話なのですが、沢山の説明を要して、どう説明したらいいのか、悩んでいました。

さて、話を戻しましょう。
この「一火」が消えるとき、高良山は滅亡するというのです。驚きの話でした。
そして、これを山上の「一火」とすると、麓にも「一火」があったということが書かれていました。(つづく)




ガイドブックをお持ちの方は「上巻26高良玉垂宮」「下巻77風浪宮」をどうぞ。




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by lunabura | 2015-07-26 21:28 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(6)

表現


「高良玉垂宮神秘書」を気持ちが乗っている間に少しでも、と思って本文を訳していました。

いくつもの発見があり、ブログで伝えたいのですが、内容が多すぎて記事にすることが出来ずにいます。

るな的にはこれまでの仮説を裏付ける内容がいくつも出て来て納得したし、「神秘書」の中で捏造されている部分も見えてきました。


自分が知っただけでは意味がないので、それを表現しようとすると、表現が出来ないでいます。


安曇磯良が正史から消されたように、高良玉垂命もまた謎をまとっています。それは同じ運命の中にあるからです。

手を広げないようにしようと思って、あまり出掛けないのですが、その一方で、新たに女神の宮への縁を得たりしています。

螺旋階段を下るように、どれもが繋がっています。
まだまだ力不足です。書くことが多すぎで手が付けられない状態でいます。








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by lunabura | 2015-07-25 21:24 | にっき | Trackback | Comments(0)

宇奈岐日女神社・湯布院


宇奈岐日女神社

湯布院

昨日は湯布院へ。



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にゅっ。



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雲がどんどん長くなって、龍の姿に。眼も見えています。


旅の目的は湯布院の宇奈岐日女神社です。
湯布院は霧の多い盆地で、この日も霧が立ち込めて高速が通行止めになっていました。

迂回路を通って辿り着きましたが、その山際の道が正面の古代からの参道のようでした。




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一の鳥居です。




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紫陽花が参道を彩ります。





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御神門。赤い色が龍宮を思わせます。
この宮はぐるりを水が廻る、水の宮でした。







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あれ?この子たちが空から迎えに来てくれたのかな^^





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本殿です。御祭神は六柱。

国常立尊 (くにとこたちのみこと)
国狭槌尊 (くにさつちのみこと)
彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊 (ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
神倭磐余彦尊 (かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇)
神渟名川耳尊 (かむぬなかわみみのみこと、第2代綏靖天皇)


宇奈岐日女の名前は見当たりません。上書きされたのでしょうか。

彦火火出見、ウガヤフキアエズ、神武天皇、綏靖天皇と、連なる名を見ると、玄界灘で展開した姫神たちとの恋を思い浮かべます。

この男性神やその父と結ばれた姫神たちは伊都国や奴国などで輝く女神たち。
木花咲耶姫、豊玉姫、玉依姫、奈留多姫。

ここにニニギノ命を加えると、皆さんに御紹介したいと思っている姫神たちのお相手の面々なのです。


日女神の宮で男神たちに出会うとは思いもよりませんでした。
海から遠く、今でも車や汽車でないと訪れることのできないような地でも、地層のように積み重なった歴史があることに気付かされます。

ここ湯布院に名を連ねる歴史の始まりの神々。
また一つ、古代から連綿と息づく歴史の地を知りました。





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この日はついに由布岳は二つの峯を見せてくれませんでした。
かつて登山しようと前日から泊まったのですが、翌日はあいにくの雨で登山を断念したことがあります。
今回も雲が頂上に残り、その全容は見せてくれませんでした。
これもまた心象風景なのでしょう。

湯布院は行くたびに違う表情を見せてくれる街でした。
宇奈岐日女のことも、少しずつ調べてみたいと思います。
その時、由布岳はほほえんでくれるのでしょう。






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by lunabura | 2015-07-20 21:32 | 神社(ウ) | Trackback | Comments(2)

干珠満珠の形は勾玉か・高良玉垂宮神秘書から


干珠満珠の形は勾玉か

高良玉垂宮神秘書から



この数日の読書は「高良玉垂宮神秘書」です。高良山の始まりは神功皇后の三韓征討が関わっていました。

この本はカタカナで書かれていて、ブログを書き始めたころは、読み解くのが必死でしたが、ガイドブックを書き終えた今では、内容が良く分かるようになっていました。


先日、「干珠満珠はどんな形をしていたんでしょうかね」という質問を受けました。その翌日、神秘書を読んでいたら、たまたま(いつもコレですが(^_^;))、その答えが書いてあったんです。

で、今日はその部分を訳して紹介します。また、ガイドブックが楽しめるように、( )に掲載神社の番号を付けて紹介しています。お持ちの方は活用してくださいね。


五〇九条
 【訳】干珠満珠は龍宮にて賜ったのち、彼の玉を龍宮から高良へ持って行かれたが、神代(くましろ)に納められたとも申す。それ故に神代(くましろ)を神の代とは書くなり。また、神辺(くまべ)を神の辺(ほとり)と書くなり。彼の玉を神代に納められた。また、阿上に在るとも言う。干珠は白い玉、満珠は青い玉である。長さ五寸ほどである。頭は太く、尾は細いという。それ故に高良を玉垂宮と言う。


解説します^^

「干珠満珠は龍宮にて賜った」
三韓征討の前に、神功皇后や竹内宿禰は志式神社の奈多の浜で神楽を奏して安曇磯良から干珠満珠の秘法を授かったことを指す。干珠満珠を持っている海神の宮が龍宮。(ガイド72番志式神社参照)



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舞台となった奈多の浜


「彼の玉を龍宮から高良へ持って行かれた」
凱旋後、神功皇后の軍船は安曇磯良が舵取り(船長)となって、有明海から入港した。大善寺玉垂宮で乗り捨て、小舟に乗り換えて高良山へと向かう。(ガイド77番風浪宮、78番大善寺玉垂宮参照)

「神代(くましろ)に納められた」
「神代」とは地名の事です。高良山の北麓にあります。筑後川には今も神代橋が掛かっています。その近く、干珠満珠を納めた場所が伝わっています。

「阿上に在る」は注によると「河上に在る」です。「河上」なら佐賀大和の與止日女神社かと思われます。そこにも干珠満珠の宝珠が伝わっています。

「干珠は白い玉、満珠は青い玉」
何度も出てきましたね。北の夜空に輝くポラリスとツバーンの象徴で、その星の色が白と青。海神は二つの玉を捧げて航海の安全を祈ったといいます。

「長さ五寸ほどである。」
出ました!一寸は約3.03センチメートル。3センチ×5=15センチ!大きいですね!!てのひらサイズです。

「頭は太く、尾は細い」
これは勾玉!見事に説明しています。

ということで、干珠満珠は15センチほどの長さの白と青色の勾玉でした。勾玉といえば緑色です。古代は色は四色ほどに分類されたというので、緑でも青に含まれます。



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こんな感じかな。鞍手歴史民族資料館に行くと見られる。(ガイド19神埼神社)


以上、高良山に伝わっている話を紹介しました。実際は違うかも知れません。與止日女神社のものは宝珠の形をしています。


「干珠満珠を納めたことから、高良を玉垂宮という。」
「玉垂」はやはり干珠満珠から発生した言葉でしたね。


【要約】
龍宮から賜った干珠満珠を凱旋後、高良に持って来た時、神代に納めた。
河上(與止日女神社)に有るとも言う。
干珠は白玉、満珠は青玉、長さは十五センチほどで、勾玉の形をしている。
干珠満珠を納めたことから、高良を玉垂宮という。




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by lunabura | 2015-07-18 13:33 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(2)

水城の地下の木樋・ イタドリ


水城の地下の木樋

 イタドリ

1200mもの長さのある水城。今は樹木が生い茂って緑の森の土手となっています。

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東門から撮りました。右手が博多湾側です。
見えている範囲に外濠があり、水が溜められるようになっています。水城の向こう側にも内濠が確認されています。



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これが水城の断面図。上の写真は右側から撮っています。博多湾側です。一般には敵が攻めて来たら土手の上から矢を射て防御するという説が主流です。

真鍋が伝えているのは左側即ち太宰府側に水を溜めていたというものです。それをどう捉えるか。土塁の地下に注目してください。水色の線があり、木樋と書かれています。これが水城の地下の導水管です。





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水城を断ち切って国道三号線が通っています。そのすぐ左手から導水管が発見されて、今はコンクリートで復元されています。実際は巨木で出来ていていました。

この木樋が現在、三ヶ所で発見されています。

土塁を築く前に木樋を数本(多分、均等な間隔で)敷設して、排水をコントロールしようとしています。





これに関して、真鍋はどう伝えているでしょうか。

イタドリが緑の葉に変る頃、瀦水塘(ちょすいとう)の閘門の板(いた)扉(び)を揚げて水を落とす。冬の間に蓄えた水が下手に移る。これを百姓はいたどりと言った。この時に南の空に明るく光る星が板取(いたどり)星(ぼし)(ブーテスα16アクチュルス)であった。『儺の国の星拾遺』p105


イタドリとは植物のことで、初めは赤い葉が出ます。それが緑に変わるのを合図に水を落としたといいます。
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(画像出典 ウィキペディア)


閘門(こうもん)が木樋と思われ、それには板の扉が付いていて、それを上げると水が外濠に流れ込む仕組みだったようです。

これがいったん外濠に溜められて、博多湾沿岸の水田に水が張られていきました。
その時に南に見える星を板取星と呼んで、これも合図にしていた訳ですね。




瀦水塘は上田(かみだ)ともいった。水(みな)雪(つき)田(た)、或は水盡(みなつき)(空)田(だ)ともいった。雪(ゆき)の古語は「つき」であって、冬分は雪積で水も氷も凍結しているからである。

夏分は下田(しもだ)に水を遣り果すから、水がなくなる六月の大雨なる水(み)無月(なつき)の由来がここにあった。

そして水(みな)漬(つき)星(ぼし)の名がここに生まれた。百姓がみな、箕を着けて水につききりの四ケ月であった。



「水城」以外に「小水城」がいくつかありますが、その話だと思われます。上の田と下の田をつなぐ導水管が発見されています。かつては福岡も冬は雪が厳しかったと聞きますが、雪を溜めて初夏になるとそれを下田に送っていたことになります。
蓑を着けて、つきっきりの四カ月。水田の世話をする人々の姿が目に浮かびます。



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これは大土居小水城の木樋です。


この使用法が具体的に分かるのが次の文です。

万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空(こ)閑(が)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。

貯水の観縁戚までが活用される仕組みであった。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。

唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。

その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。『儺の国の星拾遺』p140

この瀦水塘の巨大な構造物が大野城市の水城だということになります。





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大野城市HPより。
木樋から水が流れているようすが描かれています。この外濠は水量調節のためのプールではないでしょうか。






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by lunabura | 2015-07-16 19:11 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

観世音寺2・初代管長 満誓沙弥・梵鐘と水城


観世音寺2

初代管長 満誓沙弥
梵鐘と水城


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満誓(まんぜい)沙弥は笠(かさの)麻呂の法名である。斉明帝(655~661)の菩提寺としてしられる太宰府観世音寺の初代管長であった。養老7(723)年2月のことである。鐘の銘文の上三之(かさの)麿(まろ)はその雅号である。
万葉集巻三 沙弥満誓(643~733)作
  世間(よのなか)を 何に譬(たと)へむ 
  朝びらき 漕ぎ去(い)にし船の 跡なきがごと
は、水城の上を島廻りする船を眺めての詠歌であった。
『儺の国の星』p72

この観世音寺の初代管長は満誓。旅人と同時代。
鐘の銘文は意見が色々あるようですが、「上三之(かさの)麿(まろ)」すなわち、笠麻呂の雅号だと伝えています。

さて、満誓を調べましょう。
大辞林 第三版の解説
まんせい【満誓】
奈良前期の官人・僧。俗名,笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)。右大弁のとき,元明上皇の病気平癒を祈願して出家。勅命により723年筑紫観世音寺を造り別当として太宰府に住し,大伴旅人らと親交。万葉集に短歌七首を残す。生没年未詳。沙弥満誓。


筑紫万葉歌壇にいたんですね。その歌には水城の景観が読み込まれていました。
  世間(よのなか)を 何に譬(たと)へむ 
  朝びらき 漕ぎ去(い)にし船の 跡なきがごと
世間とは男女の仲。
夜が明けて水城の門が開かれると船が漕ぎ出し、その跡もやがて消えてしまう。

朝になると二人の契もすっかり忘れてしまったかのように立ち去る男の後ろ姿が重ね合わされています。

そんな男のつれなさを僧が詠むのですから、僧と男女の恋―このギャップが歌壇では喜ばれたんでしょうね。

さて、この光景は水城の上流域に水が溜められていなくては詠めない光景です。

昔、水城が湖であった頃の渚に沿って沼あり丘あり、雑木の林あり、まことによい景観と展望の地が連なっていた。
『『儺の国の星拾遺』p202


現在、福岡での各研究者の公での発表を聞くと、水城は水を下流に溜めるという説が主流です。

が、水城の断面は上流域の水の圧力を分散させるようになっているので、上流域に溜めると考えるのが合理的です。

工学系の研究者には後者の意見を持つ方がいらっしゃいます。




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水城は人が立っている地点は中腹。ずっと下まで築造されている。左が博多湾側。右が都府楼側。勾配が緩くなって水圧を逃している。



さて、疎水の証拠を探していたのですが、水城の真ん中、道路が交差する辺りで石敷きが発見されました。瓦も出てきました。その上流域には矩形の遺跡跡も見つかっています。それが天智帝の造った疎水ではないかと睨んでいます。

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天智天皇(662~671)は、かつて筑紫の国造(くにのみやつこ)磐(いわ)井(い)(418~528)がひらいた水城なる瀦水塘を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖にきりかえる大工事を完成された。
『儺の国の星拾遺』p140


疎水式とはスエズ運河のように、水門で水を溜めて航行する方法です。



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イギリスではナローボートと言って、狭い水路を沢山の水門を通りながら旅をしていますね。




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この程度の幅で充分疎水の働きをします。



天智帝は都府楼に自らの開発に成る時計を据え、玄界灘と有明海の潮刻(しおどき)をみはからって水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせ給うた。後にこれは御母斉明帝の菩提寺に建てられた観世音寺に移されたともきく。『儺の国の星』p68


この疎水の開通式の時にはきっと厳かな梵鐘の声が響き渡ったことでしょう。
それが、後に観世音寺に移されたと伝えています。


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長洲宮の行在所で、筑紫の観天望気にふかい大御心を寄せられた天智帝(662~671)と天武帝(673~686)は笠朝臣(かさのあさみ)の家系の叡才を信じたまい、もって有明海と玄界灘を結ぶ水城の監理を托されたと聞く。
(儺の国の星)p72

この水城の通行税で観世音寺が経営されたとも真鍋家では伝えていました。









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by lunabura | 2015-07-13 21:36 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

観世音寺・菅原道真 「不出門」


観世音寺

菅原道真 「不出門」





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大宰府の古社、観世音寺。





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菅原道真は榎社からこの鐘の声を聞いたという。





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観世音寺から榎社はわずか800メートル。






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しかし、間には三笠川が無情に流れる。






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道真公はこの地を踏むことは出来ただろうか。







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道真公は榎社に蟄居し続けたのか。







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意外にも久留米市高良山の麓にその足跡を残している。








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飯塚市老松宮は道真を支援したという。





天智帝が母、斉明天皇の菩提を弔うために造られた観世音寺。

その鐘は今もなお妙音を響かせる。








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by lunabura | 2015-07-12 22:21 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

志登神社3・ハレー彗星とカノープス


志登神社3
ハレー彗星とカノープス


志登神社は北に柑子岳、南に雷山が見えるという特殊な位置にあり、しかも夏至ラインには今山の二上山が乗るという驚きの位置でもあります。


糸島市 志登神社




「志登」の意味は「海淵」。波が立たない日には星の観測にもってこいでした。星の観測には空を直接見る方法と、プールに映して観測する方法があります。

ティオティワカンでしたか、ピラミッドにプールがあるのは星の観測のためと考えています。水鏡に写る星は、ステラナビゲータなどとは違う軌跡を描くのを見た事があります。


さて、「志登星」(ハレー彗星)は76年ごとに到来しますが、19年を四度(しど)重ねると76年になることから、「四度」→「志登」となって、ハレー彗星を志登星と呼ぶようになりました。

19年って、メトン周期でしたね。(※メトン周期とは19太陽年は235朔望月にほぼ等しいという周期)

昨年末、朔旦冬至に志賀島に行ったのも、もう遠い過去のようです。ブログに書かなかったら、記憶に留まらなかったかもしれません。

今年、志賀島のお膝元の志式神社では19年に一度のお祭りがあったそうです。お潮井があった事も重ね合わせると、どうやら志式神社にもまた天文観測官がいたのではと思うようになりました。(ガイドブック下巻72)

さて、糸島市志登は単なる湊ではなく、安曇族の天文観測官がいた可能性が出て来たのですが、tatsuさんが、志登から見える志登星(ハレー彗星)の画像を作ってくれました。

すごく感動したので、ご紹介します。


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これを見ると、以下の真鍋の文がよく理解できます。

 
彗星を志登星という。十九歳を四度かさねるを言う。その大なる時、北斗を覆う故とも説かれる。北斗を四三星(しそのほし)というから、その一つの方言でもあった。(拾遺p51)


ハレー彗星が本当に北斗七星を覆っていました。

画像を見ると、星空を6月1日に固定してあります。固定しないと背景の星は動きっぱなしになって分かりづらくなるんですね。グッド・アイデア!


姫古曾神社の所で考察しましたが、「彗星」を倭人はオオゲツヒメ、燕人系は姫子星と呼んでいました。そこに祀られているのが市杵島姫です。市杵島姫は物部氏と通婚しているので、基山の辺りは物部の天文観測となるのかもしれません。


安曇の星祭祀と物部の星祭祀、いつか区別が分かるようになると面白いですね。



さて、tatsuさんはカノープスの画像も造ってくれました。雷山に沿ってカノープスが動いています。


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「這うように」と描写されるカノープスは、諏訪星と呼ばれ、スサノヲの化身とされました。荒ぶる神です。

以上、志登から見えるハレー彗星とカノープスでした。
Tatsuさんのお蔭で解読が進みました。ありがとうございます ^^







 




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by lunabura | 2015-07-11 18:37 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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