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「志賀島に眠る神々」のお知らせ


「志賀島に眠る神々」のお知らせ




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九州大学ソーシャルアートラボ 主催の

「広報戦略プログラム・公開フォーラム『九州という固有性から発信する』」

というイベントのフォーラム2で、「志賀島に眠る神々」というタイトルで少しの時間、お話をさせていただきます。

「フォーラム2」は3日連続の「人材育成講座」の一部ですが、一般公開されます。

フォーラム2 プログラム

九州文化のシンボルともいえる焼酎に着目し、さらに神話や民俗芸能、宗教などの領域を横断しながら、九州がもつ歴史性や地域性の発信力に迫ります。

◆「焼酎の発酵音響から生まれた現代神楽《甕の音なひ》」
 藤枝 守(九州大学大学院芸術工学研究院教授・作曲家)

◆「九州の本格焼酎を世界に」
 渡邊 眞一郎(京屋酒造 代表取締役)

◆「志賀島に眠る神々」
 綾杉 るな(作家、神社研究家)
 
◆「伝承芸能を舞台にのせる」
 田村 博巳(新国立劇場おきなわ部長)

◆「神話から読み解く九州」(仮題)
 鎌田 東二(京都大学こころの未来研究センター教授)

◆クロストーク


定員:先着50名

日時:2015年9月5日(土) 13:00~17:30

場所:九州大学大橋サテライト・ルネット (西鉄大橋駅東口徒歩1分)
    福岡市南区大橋1-3-27

受講料:無料

申し込み方法:下記の項目を記載のうえ、メール・FAXのいずれかよりお申込みください。また、facebookイベントページからもお申込みいただけます。
[記載事項] ①氏名(フリガナ) ②電話番号 ③メールアドレス

メールとFAX
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応募締切だそうです
            




詳しくは以下のHPに書かれています。ご覧になってから、申し込んでください。

http://www.sal.design.kyushu-u.ac.jp/ikusei.html



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画像出典
九州大学ソーシャルアートラボ 
https://www.facebook.com/events/438842416302520/


「甕のなかはかすかな響きに満たされている。
麹がかもす発酵の音。
その響きは「音なひ」というカミの声にたとえられる。
その「音なひ」に耳をかたむけるうちに、
アチメやイソラ、ツクヨミたちのウタがきこえてくる。
そのウタは、しだいに「音なひ」につつみこまれていく。
「甕の音なひ」という現代の神楽。

~「焼酎の発酵音響から生まれた現代神楽《甕の音なひ》」
 藤枝 守~
より引用。


受講希望の方は、「フォーラム2」と明記して申し込んでください。



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by lunabura | 2015-08-31 10:45 | お知らせ | Trackback | Comments(2)

安心院 佐田の京石


安心院 佐田の京石




安心院にある不思議な巨石群。
その中の京石だけ撮影していたので、UPしますね。


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このように看板にはあるけど、登山しても、巨石群を見つけることができなかった山です。

看板の左下に小さく描いてある「こしき岩」がベンベン石と言った分です。
その写真は撮ってませんでした(^_^;)
堀田氏がこれはベンベン石だと言ってましたが、ちょっと違いましたね。


以下に「こしき岩」の画像があります。

佐田京石
http://www.yado.co.jp/kankou/ooita/kunisaki/sada_kyouisi/kyouisi.htm

山と組み合わせた画像がなくて残念。
この「こしき岩」は米神山の山頂よりさらに上方を指していたような…。


数度、行ったのですが、何でか、どうも相性が悪くって (/・ω・)/

チェリーさん、在庫はこんな感じでした (´・ω・`)
すまぬ。




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by lunabura | 2015-08-27 20:45 | 宇佐・安心院 | Trackback | Comments(7)

『景行天皇と日本武尊』出版記念シンポ


『景行天皇と日本武尊』
出版記念シンポ


このたび、河村哲夫氏が新しく『景行天皇と日本武尊』(原書房)を出版されました。河村氏は神功皇后の研究でも有名ですが、新著の出版を記念してシンポジウムがあります。

その第一部「古代九州へのアプローチ」にパネリストの一人として参加させていただくことになりました。

以下、その案内文です。

「景行天皇と日本武尊」出版記念シンポ

1.日時:平成27年8月30日(日)13:30~16:30

2:場所:福岡ビル9階・大ホール(福岡市中央区天神1-11-17)

3:第一部 シンポジウム「古代九州へのアプローチ」(13:30~)
       パネリスト 綾杉るな氏(歴史作家・『神功皇后伝承を歩く』著者)
       パネリスト 東 久仁政氏(建築史家)
       コーディネーター 成瀬雅人氏(原書房・社長)
第二部 記念講演 「神々の伝承と日本人」(15:15~)
       講師 河村哲夫氏 (『景行天皇と日本武尊』著者)

4:入場料:2,000円 (資料代含む・高校生以下無料・定員120名)

○主催:ふくおかアジア文化塾・原書房
○共済:九州・アジア文化芸術フォーラム
○後援:福岡県文化団体連合会、全国邪馬台国連絡協議会九州支部

○終了後、懇親会有り(希望者のみ・会費6,000円)

※申し込み:ファックス、メール、郵便のいずれかでお願いします。
ふくおかアジア文化塾事務局
(〒813―0041 福岡市東区水谷2-20-21.S-107)
電話 080-5413-7513

訂正です。

電話 080-5483-7513

FAX 092-519-5331
E-mail : mf.takano108@gmail.com
(先着受付・お支払いは当日です)


日本武尊は仲哀天皇の父。神功皇后にとっては御舅(しゅうと)に当たります。当ブログでも時々登場しますね。その全容を知りたいと思っていましたが、河村氏が本にされました。

今、各研究者の方々がそれぞれの立場から欠史、あるいは神話とされる時代を探求して、次々と本にされています。そうすると舞台が九州になって来るんですね。とても面白い現象です。



私自身、この度は神功皇后に絞ってガイドブック『神功皇后伝承を歩く』を書きましたが、福岡には日本武尊やさらにその父景行天皇もその面影が色濃く残っています。

それを、河村哲夫氏が俯瞰できるように本にして下さったのですから、有り難い限りです。

私はパネリストとして少しだけお話することになると思いますが、詳細はまだ分かっていません。多分、シンポジウム全体で景行天皇~日本武尊~仲哀天皇・神功皇后の時代が語られることになると思います。


さて、拙著『神功皇后伝承を歩く』でも日本武尊について、少し触れている所があるので、本をお持ちの方は、是非とも本を開いてみてください。もちろん、ブログでも記事にしているので、サイドバーから、あるいは検索欄からアプローチしてください。
以下はそのポイントです。

神功皇后は、糸島の雷山で戦勝祈願したのち、下山すると雉琴(きじこと)神社に泊まります。その夜、皇后の夢枕に日本武尊が立って戦法を伝えました。(上巻31雉琴神社)

また、遡って、忌宮神社から香椎宮に遷宮するとき、遠賀川から鞍手に上陸する前に、まだ島だった剣神社では日本武尊を偲んで祈っています。(上巻17剣神社)

仲哀天皇と神功皇后にとっては日本武尊が心の支えであったことが、これらのエピソードからも伝わってきます。

さて、生前の日本武尊の恋のお話も遠賀川に伝わっています。(これはまだブログに書いてません。)

佐賀では武内宿禰と共に熊襲タケルと戦いました。これはブログで紹介しています。

その父の景行天皇は、先日紹介した湯布院の宇奈岐比咩神社など、九州山地を中心に沢山の伝承を残しています。佐賀の古墳シリーズでも何度か出てきましたね。

景行天皇から殺された女王・葛築目(くずちめ)は名前だけしか伝わっていないのですが、下巻59番、老松神社で紹介しています。境内の蜘蛛塚古墳の被葬者は葛築目とも、田油津姫とも言われています。

同じく、田川の若八幡神社では、田油津姫の兄の夏羽が神功皇后軍に殺されてしまいましたが、その母か祖母に当たるのが神夏磯媛です。神夏磯媛は景行天皇を迎え入れ、そして香春岳の開発に関わりました。(下巻60番若八幡神社)

景行天皇の伝承には哀しい弥生の女王たちの話が多いのですが、観点を変えると、九州の各部族が一つにまとまっていくキッカケとなった大王でもあると言えます。

そんな景行天皇と日本武尊の壮大な歴史を一冊にまとめられた河村哲夫氏の講演テーマは「神々の伝承と日本人」です。

今、次々に明らかになる古代の真実。そんな時代感の中に私たちはいます。
御参加お待ちしています。




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by lunabura | 2015-08-26 13:26 | お知らせ | Trackback | Comments(2)

賀茂神社(5)三毛入野命の末裔の宮


賀茂神社(5)

三毛入野命の末裔の宮


町誌を見ていると「三毛入野(みけいりの)命の裔」という文字がさりげなく二か所に出てきています。
???
どこかで聞いた名前だな。

そう思って調べると、神武天皇の兄でした。
『日本書紀』によると、
三毛入野命はイワレビコ(神武天皇)たちと共に東征する途中、海難に遭い、常世の国に行ってしまいます。

その時の恨みの言葉が「私の母や叔母は海神(わたつみ)なのに、どうして波を立てて溺れさせるのだ」です。

この時、もう一人の兄、稲飯(いなひの)命も「我が祖は天神、母は海神。どうして陸に海にと、翻弄するのだ」と嘆いて剣を抜いて入水します。

海神とは即ち、安曇族。
二人の母と叔母とは即ち、玉依姫と豊玉姫のことです。

これを踏まえて町誌を読んでみましょう。

由緒
当社については、迦毛大御神御神跡で賀茂社の総本社に座すという伝など諸伝があるが、藩内通俗諸書の述べるところでは、後村上天皇の御代正平元年(1346)に西征将軍懐良親王が領主三毛入野命の裔山北四郎永高に命じて、九州鎮護のために、山城国愛宕郡賀茂下上大神宮を勧請されたのが創始である。(略)時の大宮司は熊懐平馬太輔行景であった。(略)

「領主・三毛入野命の裔」と出てきました。時代は1346年。懐良親王が来た時の話です。

迎えた領主・山北四郎永高は三毛入野命の末裔だったのです。町誌では、この時、京都の賀茂神社を勧請したのが創始であると書き、古伝はバッサリと切り捨てて、内容が一行も書かれていません。

 しかし、ウィキペディアに誰かが書いて置いてくれたお蔭で、私たちは縁起を知る事が出来ました。その出所は当社の古文書です。

 で、今回のテーマは「三毛入野命の末裔が当地の領主だった」ということです。

これを推理すると、神武天皇が安心院から浮羽にやって来た時、実は兄も一緒だったのではないでしょうか。

賀茂氏が姫を三毛入野命に娶(めあわ)せたとすると、その子供が代々、当地を治めたということになり、辻褄が合います。

イワレビコは安心院では侍臣の天之種子を水沼の姫と結婚させていました。こうして、各地で姻戚関係を結ばせることによって、着々と支配体制を固めていきました。

その後、軍備が整うと、三毛入野命とイワレビコ命は共に安曇族の船に乗って、東征したのでしょう。

浮羽では、賀茂氏と天孫族は協力関係の絆を太くしました。


さて、町誌によると、境内には箱式古墳や有紋土器が散在していたとあるので、確認してきました。

境内は整地されていて、その様子は分からなかったのですが、気になる丘の方に行ってみると、おびただしい古墳があったのです。


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三王神社とあります。




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石碑を撮って一歩下がった時、穴に足を踏み入れそうになりました。
見ると、石棺の蓋がずれています。向こうにはマウンドが並んでいます。
ここは古墳群だったのです。


ここは賀茂氏の領土なので、聖地のそばにある古墳群は代々の賀茂氏の長のものかもしれません。

それは、賀茂氏でも、三毛入野命という神武天皇の兄の系譜となります。もちろん、安曇の系譜でもあります。

当社の4月11日の例祭には京都の葵祭の規式によって神幸が行われているそうです。

12月11日の氏子祭には、往時は生葉、竹野、筑前上座、下座、夜須の社家が集まって奉仕したそうです。上座、下座(朝倉)夜須までもが当社の氏子だとすると、かなりの広範囲です。

そして、その範囲こそ、神功皇后が羽白熊鷲討伐で通った古代路と重なるのです。

夜須では大本営、松峡(まつお)八幡宮を設営しています。いったい、どんな豪族が協力したのだろうかと、考えていました。

賀茂神社の縁起から、三毛入野命の末裔と協力関係があった豪族だったのが分かりました。




「神功皇后伝承を歩く」をお持ちの方
「羽白熊鷲のとの戦い」
40番砥上神社から、51番美奈宜神社まで、通してお読みください。
松峡宮(大本営趾)から秋月野鳥(のとり)の熊鷲を攻撃、滅ぼして朝倉へ降りて来る道筋を描いています。







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by lunabura | 2015-08-23 16:41 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(2)

賀茂神社(4)鉱物資源を求めた渡来人たち


賀茂神社(4)

鉱物資源を求めた渡来人たち


ふたたび、うきは市の賀茂神社に戻ってきました。



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同じような朱色です。

ウィキペディアに書かれている当社縁起は
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。(略)

となっています。
御祭神
神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊

はっきりと、「賀茂別雷尊、賀茂建角身尊」と、賀茂の神が祀られています。安心院の足一騰宮のケースから考えると、玉依姫はやはり、神武天皇が母を祀らせたのかもしれませんね。

神武天皇の移動ルートは安心院から浮羽へと縁起は伝えています。その様子を推理しました。

浮羽の賀茂氏は神武天皇がやってくる以前から、筑紫を貫流する「ありなれ川」が流れていた頃に、船で筑後川の上流に辿りついて産鉄に取り掛かり、地元の水沼族や北部の安曇族と連携を結んで交易を行い、安心院にもその勢力を延ばしていた。


一方、山幸彦の一派が安曇族に通婚し、玉依姫にイハレビコ(神武天皇)が生まれた。イハレビコは成人すると、安心院や浮羽(うきは)を回って武器生産のようすを視察した。

この時代は船にミサキカラス(八咫烏・カチガラス)を載せて干潟や湖沼のようすを調べさていていた。賀茂氏は「先導するもの」として、八咫烏というトーテムで呼ばれた。

そんな流れでしょうか。

賀茂氏の製鉄技術と、安曇族や水沼族の運搬力が早くからシステム化されて、日本の各地を開発していた姿が見えてきました。

その代表例が長野の安曇野です。
また、阿蘇の盆地でも、湖沼の水を抜いて葦原にして、鉄を産し、のちには水田化させています。阿蘇は神武天皇の次男、三男が開発に関わったので、「鉄を統べる者は倭国を統べる」ような状態だったのでしょう。(統(す)べる)

スズ鉄の生産は葦を燃やせばいいので、環境をそれほど破壊しなかったのですが、砂鉄による製鉄は山の木を切り倒して燃やすために、伐採された山はがけ崩れが起こり、水田は土砂で埋もれ、自然災害を伴うような産鉄でした。良質の砂鉄が採れる糸島や熊本の海岸部ではその方法で鉄器を作っていました。

渡来人たちが倭国を目指して来た目的に、鉄や金や銀、水銀があったのがくっきりと見えてきました。それほど、鉱物には魅力があるのでしょうか。

現代人は月や宇宙にロケットを飛ばしていますが、その目的の一つに「資源の開発」があることを考えると、人類って何千年も変わらない性(さが)を持っているようです。



そろそろ転換期に来ていると思うんですがね。


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境内の狛犬。


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境内裏の小塩川。



地図 うきは市(赤) 安心院(青)







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by lunabura | 2015-08-20 21:58 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(3)足一騰宮2・賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合


賀茂神社(3)
足一騰宮2

賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合



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「足一騰宮」(あしひとつあがりのみや)という不思議な言葉も、「足が一つ騰がっている姿」即ち、「片膝立てた姿」と考えれば、それが何を象徴しているのか見えてきます。

「片膝立て」とは冶金の民が炎の色を見る時に取る楽な姿勢のこと。言い換えれば、ここには冶金の民がいたということになります。

ここで神武天皇を迎えた宇佐都比古、宇佐都比売は兄妹で三女神の神裔だといいます。(三女神社縁起)。水沼族は三女神を祀る氏族ですが、ここ安心院でも祀っていたことが分かりました。

神武天皇以前に水沼族は安心院(あじむ)に入植していたことになります。三女神社(二女神社)は水沼の聖地だったのです。川沿いにあったので、船着き場を掌握したのでしょう。

一方、神武天皇は磐座のある共鑰山(ともがきやま)に母・玉依姫を祀りました。そして、侍臣の天之種子命(あめのたねこのみこと)と宇佐都比売を結婚させました。それからこの地を「妻垣」(ともがき)と呼ぶようになったといいます。

天之種子命は天皇からここを守るように命ぜられ、その子孫・矢候(やこう・矢野)氏が代々社家を勤めていました。天之種子命については、当宮縁起にも『日本書紀』にも、中臣氏の遠祖と書いてあります。

こうして神武天皇は母の玉依姫を祀るための仕組みを作りました。それは安心院が安曇族の統治する地だという宣言でもあります。

「安心院」(あじむ)という地名は、玉依姫が霊界で「安楽の御心」になったことから「安心」院となったと当宮縁起には書かれています。少し無理があります。

「安楽」は大宰府の「安楽寺」という安曇関係の寺の名であり、「安心」(あんじん)には「安曇」(あんどん)の音韻変化がみられます。あるいは「阿知女」(あちめ)「アジメ」「アジム」と変化したのかも知れません。いずれにしろ「安曇」の発音の変化の一つでしょう。


神武天皇が宇佐に来た時は安曇族の海船に乗り、駅館川(やっかんがわ)を遡るのは水沼族の川船だったと思われます。

その目的は何か。
それはこの盆地がかつては葦の生える沼地だったことがヒントになります。
葦から採れる鉄はスズ鉄(リモナイト)です。

鉄を作るのは賀茂の民。
「足一騰」に象徴されていたのは賀茂の民です

水沼族の本貫地である久留米の赤司八幡神社から大善寺玉垂宮にかけての筑後川には、今なお葦が茂っています。その上流域にうきは市の賀茂神社があるのです。

「足一騰」は星にもその名が付いていました。
「足一騰星」と呼ばれたのは北斗七星です。

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北斗七星が横になった時の形を「一」と「目」即ち「片目」に見立て「一目星」(はなみのほし)とも呼びました。これは炎の輝きから視力を守るために、あるいは集中するために片目を閉じる「一目」(ひとつまなこ)のことです。

賀茂(かも)の語源は燕語の「一目」即ち「かなむり」の倭約で、「かなむり→かも」と変化したものだろうと真鍋は推測しています。その風貌は緑眼鼻高とも言っています。

「足一騰宮」とは賀茂氏の宮だたのでしょう。ここで鉄を生産し、武器を作っていたのです。その現場は隣の佐田神社の方です。

宇佐都比古と宇佐都比売は「三女神の神裔」だということですが、思えば、三女神のうち、二女神がオオナムチと結婚しています。それぞれに二人の子が生まれ、タキリ姫の方にはアジスキタカヒコネが生まれています。このアジスキタカヒコネこそ、「賀茂大神」と言われています。

思いがけず、系図からも賀茂氏の名が出てきました。

そして、中臣氏がここに結婚という形で残りました。中臣氏は祈りを司ります。水沼もまた神と人の仲立ちをする巫女の家系です。玉依姫を祀るための盤石の体制が整いました。

さて、この宮にはもう一つ、重要なものがあります。
馬蹄石の磐座です。

「龍の駒のヒズメの跡」(馬蹄石)といいます。「龍」とは明らかに海神のことで、神霊となった玉依姫がつけた趾とも言われています。

この「馬蹄石」が、久留米の高良山の磐座、神籠石にも残されています。

高良山に残る馬蹄石に関しては神秘書にこう書かれています。
高良大菩薩(この時は安曇磯良)がやって来たとき、山を支配していた高木の神が下って来た。高良大菩薩が証拠として神籠石に付けられた「馬のヒズメの跡の穴」を見せると、高木の神が納得して山を下ったとい内容です。

何故、高木の神が「穴」を見て納得したのか、理由が書かれていないので、当時の常識で、伝わっていない事情があるのだろうと思っていたのですが、どうやら「足一つ」という賀茂氏、あるいは安曇族を象徴するものの可能性が出てきました。
他に馬蹄石の伝承が見つかれば何らかの答えが出そうです。

安心院で見られた賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏。
この連合が、うきは市の賀茂神社でも、高良山の麓でも見られます。

複雑ではありますが、婚姻を重ねることで、筑紫君が形成され、勢力を拡大していったと読み取る事もできますね。


※ガイドブックをお持ちの方。
「水沼が神と人を仲立ちする巫女を生みだす家系」については「下巻78大善寺玉垂宮」に。
タキリ姫とオオナムチの結婚については「下巻70楯崎神社」に書いています。







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by lunabura | 2015-08-19 22:47 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(2)足一騰宮1・神武天皇は安心院からやって来た?


賀茂神社(2)
足一騰宮1
 

神武天皇は安心院からやって来た?


賀茂神社、昨日再び行って来ました( ´艸`)

ここには神武天皇がやってきましたが、近くには景行天皇が来ています。そちらも確認したかったのです。

うきは市の賀茂神社は京都や脊振山よりも、はるかに古い伝承を持っています。

神武天皇や景行天皇の味方であり、鉄を産み出せるというで、天皇たちは武器調達のためにここまでやって来たのだろうと思われます。

ウィキペディアを見ると、ここ「山北」に来る前には宇佐にいたことが書かれています。

当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、

「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」

と述べている。(略)
(ウィキペディア)

この宇佐の方にも神武天皇の伝承が濃厚に残っているんですね。そして、実際に行ったところ、神武天皇がいたのは宇佐というより、安心院(あじむ)でした。

周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡って、水沼の君と関わる三女神社(二女神社)に上陸し、葦の生える沼を渡って足一騰宮(あしひとつあがりみや)に足跡を残しています。現在、足一騰宮は妻垣(ともかき)神社という社号に変わっています。

過去記事ですが、賀茂氏、八咫烏について考えるために、この足一騰宮(妻垣神社)のシリーズをしばらく再掲していきたいと思います。




 妻垣神社(足一騰宮)1
ともかき・あしひとつあがり
 神武天皇が母君・玉依姫を祀らせたという

三女神社の次に妻垣神社に参拝しました。
「妻垣」はいろんな読み方があるようですが、神社の由緒書に「ともかき」と書いてありました。

コメントによると、神武天皇三女神社から当社に向かったという伝承があるそうですね。
(同じルートを辿ったんだ!!)

三女神社(二女神社)は周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡上して
安心院(あじむ)盆地に入った時、最初に舟を泊めるような地形でしたが、
そこからさらに支流を遡上していったのでしょう。

平坦な地形から、当時は湖沼で、葦原だったのではないかと思われました。

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今はそこに青々とした稲が風にそよいでいます。
目指す妻垣神社は正面の烏帽子型をした妻垣(ともかき)山の三合目あたりにありました。

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一の鳥居です。かつては石段を登っていったのですね。
今はその横に車道が通っています。
ヘアピンカーブをぐっと登ると神門前に出ますが、駐車場はそれをやり過ごして先の方にありました。

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車から降りて神門に向かいましたが、この参道から入ると、
当社もまた横から参拝するような配置になっていました。

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一旦神門に出て、入り直ししました。

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深い紅色の拝殿です。
当社は二礼二拍手一礼です。
御祭神は
比咩大神(玉依姫命)八幡大神 神功皇后です。

当社は宇佐神宮を中心とした八ヶ社の一つですが、
このように、比売大神に関しては「玉依姫命」と明記してあり、他社と一線を画しています。

その由緒について、書き写しましょう。(一部改変)
妻垣山(ともかき山)は太古、比咩大神の御降臨された霊地にして、宇佐神宮第二殿と言われる。

八幡大神は称徳天皇、天平神護元年宇佐八幡、此の地に行幸、駐輦の地に同年十月八日、勅使石川豊成に八幡の神託有り、神殿を創建し奉祀。

神功皇后は淳和天皇、天長年間に御勧請し奉祀。 

この山は比咩大神の降臨地で、宇佐神宮の第二殿ということです。

当社が玉依姫を祀る事情について、さらに詳しく書いてありました。
足一騰宮
神武天皇、御東遷のみぎり、宇佐国造の祖、莵狭津彦、この処に宮殿を建立、奉賛餐せる旧跡で、当時、天皇、天種子命を以て、神武天皇の母后玉依媛命を祭らせ給う。

当社は比咩大神を祀って八幡社と号し、かつては普賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、当郡、中津、島原の領民百余村の氏子を有し、宇佐郷の宗社として崇敬され今日に至る。

神武天皇が東遷の時に、莵狭津彦が宮殿を建てて、もてなした旧跡で、
天皇が母君を天種子命に祀らせたということですね。
それゆえに、比咩神とは玉依姫だということです。
思いがけないところで、玉依姫に再会しました。

さて、足一騰(あしひとつあがり)の宮。
この不思議な名前の宮は『古事記』に出て来ますが、
いつかは行って見たいとかねがね思っていた宮でした。

神武天皇と宇佐津彦の伝承と共に、こうして現地が残っているとは感激です。
『古事記』の神々から抜粋してみましょう。

イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、
高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、
臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」
と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。

そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、
その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が
足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。

そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。
またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年刊滞在しました。
さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

イハレビコが後の神武天皇ですが、母が玉依姫ですね。
イハレビコを迎えて食事をもてなしたのがウサツヒコ、ウサツヒメですが、二人は兄妹だそうです。

当宮から岡田宮に移動しています。
岡田宮は一宮神社という名で、熊鰐一族が現代に至るまで、
その磐境神籬(いわさかひもろぎ)を守っていましたね。

どちらもその神籬を守っているのですから、素晴らしいです。

神武天皇もまた、祖神を祀って神助を得る事が大移動の一つの目的でした。
ほかには、物部氏に迎えられて馬見山の祖神を祀りにも行きましたね。

そして、ここは?
縁起からは、神武天皇が玉依姫を祀らせたのですが、
もともと別の目的があって来訪したはずです。

当地は真鍋大覚の記述から、鉄を作っていた所と考えています。
神武天皇は武器の調達に来たのではないか。

それは「足一騰」という言葉そのものが教えていました。

(つづく)


妻垣神社




一宮神社や岡田宮については、ガイドブック上巻2に書いています。
サイドバーからもどうぞ。

安心院シリーズ全体を読み通すにはサイドバーの「宇佐・安心院トレッキング」からどうぞ。






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by lunabura | 2015-08-16 21:25 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

賀茂神社(1)賀茂大神はここに天降りして、八咫烏となって神武天皇をたすけた


賀茂神社(1)

うきは市
賀茂大神はここに天降りして、
八咫烏となって神武天皇をたすけた


前回の「ミサキカラスと太陽の船」を描いた珍敷塚古墳(めずらしづか)。
地図を見ていると、うきは市の吉井町にあります。

そして、話題にした「賀茂氏と八咫烏」の伝承を伝える賀茂神社は何と、お隣の浮羽町。(浮羽郡(うきはぐん)の時代の地図を見ています)

東にわずか6キロ弱です。
その近くには国指定の装飾古墳がずらりと集中しているではありませんか。

新しい地図を買いに書店に行ったのですが、うきは市の地図なのに山の方は載っていなかったので、買わずに帰ってきました。

古い地図を拡大コピーしましたが、これには賀茂神社が載っていない (^_^;)

思い余って、観光協会に問い合わせて、観光マップを取り寄せました。翌日には、到着したんです!そして、「うきは市の文化財」「うきはの装飾古墳」という、装飾古墳の冊子も入っていました(^o^)/

その冊子には地図と、出土品の展示場所も書いてありました。これで「うきは市」の装飾古墳群の概要が見えてきました。

「うきは市」って「浮羽」「生葉」-そう、葛城襲津彦が秦氏を朝鮮半島に迎えに行った時に、共に行動した氏族の本貫地です。『日本書紀』に書かれた人たちの故郷が福岡にあるんです。

そして、そこには名だたる装飾古墳がずらりとあるのです。
月岡古墳
日岡古墳
珍敷塚古墳
原古墳
鳥船塚古墳
古畑古墳
重定古墳
などなど。

教科書で見て憧れた古墳も!

例の「太陽の船」は珍敷塚古墳以外でも描かれていました。


古墳の被葬者は必ず氏神を祭祀していたはずですから、古墳の周囲の神社のチェックは怠れません ^^



少し離れていますが、まずは賀茂神社を押さえましょう。

地図 珍敷塚古墳(青)  賀茂神社(赤)





くじらさんから、次のようにコメントをいただいていました。
それから5年も経っていました(+_+)

くじら
浮羽町山北 物部郷への入り口に賀茂神社があります。

「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と旧記に記されています。
 引用元 http://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(うきは市)

近くの高山(香山)の麓には古来より鵜飼を業となす人々、あるいは鍛冶職の人々も数多く住んでいました。加茂氏族も物部氏族も徐福と共にやってきたとも言われており、古久留米湾の干潟最深部である的邑に、ゴンドラ型の小舟で葦をかき分けやってきて住み着いたと考えられます。いずれにせよ渡来系氏族のごく初期の形態のなごりがこの地には観られます。



るな
すごい情報をありがとうございます。句読点の区切りごとに、たくさんのメッセージが入っていて、返事の書きようがありません。沢山のパズルがつながって来ました。

何層もある時代の地層の中の、それぞれの地図が明らかになる。そんな感じです。一つだけ教えていただけたら。

「物部郷」という言葉は古来から言われているのですか?また、最近クローズアップされたのですか。その流れをよかったら教えてください。

くじら
この地はおそらく『和名抄』に記録されている筑後国生葉郡物部郷のことだと思われます。『太宰管内志』ではその物部郷は「今は 廃れてなし」とされていますが、浮羽物部本家 当主の話では、少なくとも磐井の乱の時代から連綿として存続しているということでした。

そもそも浮羽の山中には製鉄地名が数多く残されており、明治までは外部の人間を一切入れなかったと聞いています。
http://ameblo.jp/pikkipikki/entry-10441301868.html

物部氏と加茂氏(秦氏)、共に製鉄氏族なのですが、物部氏は主に兵器類を、加茂氏は農具類を製造していたと聞きます。

なお、浮羽の山中には現在も物部氏の末裔が守っている高御魂神社が存在します。いつも敬虔な気持ちで参拝させていただいています。

るな
物部氏と加茂氏。兵器と農具。-漠然と想像していたのを、はっきりと書いていただいて、とてもスッキリしました。

浮羽の山中なんですね。製鉄が行われていたとは。外部の人を入れなかったなら、伝わらなかったはずです。

あのあたりは、イビザ・森の音楽館から内山緑地あたりまでなら、イメージがあります。よく行ったのに、古墳には行ってません。

高御魂神社ーさっそく地図で調べます。星野に行く途中にあった神社かなあ。いい感じの神社がありましたね。
浮羽にも巨石の盤座があると聞いていて、それも行かずじまいです。
情報感謝します。


以上が五年前のやりとりです。ようやく行くことができました。





福岡では珍しい赤い神門です。

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後由緒

当社は太古よりの霊地で、賀茂大神の御神蹟とも旧記に述べられ、神武天皇御東幸の聖蹟と伝えられ、八咫烏に化した賀茂大神の御先導より大和へ進まれたとあります。(後略)







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清らかな川が流れていました。






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御祭神
御祭神は

神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊

です。

賀茂氏がここに入植していたところ、神武天皇が宇佐からやって来て合流して東征したということになります。
だからでしょうか、神武天皇とその母・玉依姫も祀られています。でも、最後に書かれているので、賀茂玉依姫のことかも知れません。

(つづく)





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by lunabura | 2015-08-14 21:57 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(6)

高良玉垂宮神秘書・ミサキカラス

高良玉垂宮神秘書

ミサキカラス


先日、こんばんわんさんから、古代日本の帆かけ舟の線刻画が紹介されました。

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3世紀の岐阜県大垣市荒雄南遺跡から出土した土器に描かれた三隻の船のうち二隻は帆かけ舟だということです。中央の吹き流しの様子など、生き生きと描かれています。

多くの櫂(かい)はクフ王のピラミッドの脇に埋納されていた太陽の船を思い浮かばせます。



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(画像出典 ウィキペディア)
エジブトで復元された太陽の船の画像を見ると、多くの櫂が躍動的です。テレビで見た復元船には帆がついて、優雅にナイル川を通っていました。



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これは、先日紹介した「ふくおか古代ロマンの旅」(福岡県大阪事務所)のイラストです。

上が福岡のうきは市の珍敷塚古墳の壁画。下がエジプトの紀元前14世紀ごろの壁画。下の画の舳(とも)を見ると、撞木鮫(しゅもくざめ)のような形をしています。
先程の荒雄南遺跡の舳の形はそっくりですね。

これらは、いずれ古代エジプト人の渡来を裏付けるものになることでしょう。海には国境はなく、古代人にとっても海洋は境界のない自由な世界だったようです。




日本とエジプトに共通する太陽の船の舳先(へさき)にいる鳥が今回のテーマです。


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珍敷塚古墳では赤い色で描かれていますが、その姿はカラスを思い起こさせます。足、何本かな?よく分からない。

昨日、過去記事の八咫烏を再掲したのは、この「カラス」について考察したかったからでした。


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このカラスは大善寺玉垂宮の縁起絵巻にも描かれています。しかも石人の上に止まっています。これは二本足です。

この武人像が「石人」(せきじん)であるという理由は他の人物(この画像外)が多色で描かれているのに対して、単色で描かれているという点にあります。

先日、久留米大学で吉田氏がこの武人像は磐井ではないかと発表されたのですが、カラスのことは分かりませんでした。ところが、思いがけない所にその解答が書かれていたのです。それが「高良玉垂宮神秘書」の中でした。

このカラスは「ミサキカラス」と言いました。142条

【訳】(酒見から)大菩薩は御船に乗って黒崎に上陸されて、住む所を探して御覧になると、北の方角に山があり、そこが良いと思われ、御旗を三流れ投げられた。旗はほどなく飛んで上宮の上に立ち靡いた。旗が靡くその方向を旗崎と名付けた。

また一説にはその三流れの旗が届いた?ともいう。背後を固めの兵に任せて登られた。

瀬高イチカウラへ馬で行き、山の景気をご覧になったのでイチカウラという地名がついた。

その後、遥か彼方に人が大勢見えた。「異類が攻めて来るぞ」と思われて、ミサキカラスを遣わして調べさせた。すぐに行って彼の人を噛んだ。「人形だ」と言われたので「人形」と名がついた。


大勢の人がいて、異類(異国人)に見えたので、高良大菩薩は「みさきからす」を遣わすと、カラスが人に噛みついても全く動かなかったことから「ヒトカタ」と分かった訳ですが、これが石人を指すと考えられます。

石人石馬は磐井の時代のものですから、大菩薩(安曇磯良)3世紀初頭と時代が逆転している点は、前述の仏教の話と同様、時代が分からなくなっていたからでしょう。

そうすると、この人形の話は創作となる訳です。が、大善寺玉垂宮縁起絵巻が高良山と同様の縁起を伝えていることは押さえておきたいと思います。

今回のテーマである「船の先に描かれている鳥」は筑後では「ミサキカラス」と呼ばれていたのが分かりました。「みさき」を頭注では「御前」と書いていました。

真鍋はカチガラスが八咫烏であり、賀茂氏がそれを伴って縄文弥生には渡来していたように書いています。賀茂氏は「隻眼一目の神」と崇められたともいいます。鉄を作り、金銀を作っていました。


八咫烏=ミサキカラス
国によって、地方によって言い方が違うけど、船の先で安全を確かめて導いてくれる鳥のようです。










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by lunabura | 2015-08-11 21:36 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高句麗壁画(1)八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


高句麗壁画(1)
八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


今日は高句麗の装飾古墳壁画です。
その中に八咫烏がいくつか出ていたのでそれを紹介します。
ヤタガラスーそう、日本サッカーのシンボルマークです。三本足が特徴です。
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この絵は「日神・乗鳳凰図」です。
「太陽神が鳳凰に乗っている図」という意味なので、左右の人物の乗り物を見てみましょう。
左は龍ですね。右側は鳥です。ですから右の方が日神です。
この日神は笛を吹いています。ヘアースタイルを見ると男の神です。
高句麗の太陽神は男の神です!
中央の円を見るとカラスがいます。
羽根を広げて、笛の音に合わせて舞っているかのようです。
そして、足を見ると、三本だ…。ホントにこれは八咫烏です。

この古墳は「輯安(しゅうあん)5塊墳4号墓」と言い、
中華人民共和国―集安地方にあります。6世紀の古墳です。
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「日神・月神図」これは同じ輯安5塊墳の5号墓。
男女の神が舞っています。八咫烏を頭上に差し上げているのは男神です。
左が月神で女神です。神さまらしく衣の袖が羽根です。
とても軽やかな描写で、自由な筆遣いに驚きます。

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「舞踏神」これも同じ5号墳です。
朱雀か鳳凰に乗って天女が踊っています。
その向こうに八咫烏の足が三本だけ見えます。なんだか大胆な構図ですね。
八咫烏の顔は見る人の想像にお任せ。なんだか嬉しそうな顔が浮かぶんですけど…。
鳥や天女の躍動感がすごいです。

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真坡里(しんはり)7号墳
これは少し時代が後で、6世紀後半の金メッキの銅の透かし彫りです。
中央の円の中を見てください。鳥がいて三本足です。
また上の方にも鳥が彫られています。
下に帯があるので、冠ではないかと言われています。

これら4点の八咫烏は6世紀のものです。日本とはどう関わりがあるのでしょうか。
6世紀だという事は日本も古墳時代に入っています。
日本での八咫烏の話は、神武天皇の時に出て来ていて、道案内をしています。
日本の神話はずっと古いです。
ですから、この高句麗古墳からの日本への直接の影響は考えられません。

それでは二カ国に八咫烏が伝わっているのは何故か?と考えると
もっと、前の時代に八咫烏の伝承があったと想定できます。
検索すると「三本足の烏」の思想は中国で生まれていました。
すると、こういうストーリーが出来ます。

中国辺りに八咫烏神話を信奉する氏族がいて、北部朝鮮に辿り着いた。
その一部は南下して日本まで辿りついた。
北部朝鮮に残った人たちはそこで高句麗の建国に関わって栄えた。

では、その人たちはどんな氏族だったのでしょうか。
そのヒントが同じ古墳(5号墳)に描かれていました。

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「燧(ひうち)神と鍛冶(かじ)の神」
左の神は火打ちの神です。右は鍛冶の神。
これから、この八咫烏を信奉しているのは鉄の民族である事が分かります。
この高句麗の装飾古墳に埋葬された人は、八咫烏をトーテムとした鉄の民です。

一方日本では「八咫烏は賀茂氏の祖」だと言われています。

賀茂氏については真鍋大覚氏の本にいくつか記述があるので、
言葉を補いながらまとめて見ました。
南冠座(コロナ アウストラリス θ)
賀茂の氏族は、日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、
むしろ百姓の鋤鍬(すき・くわ)の方を主としていた。
その祖が来た時代を考えると、海幸山幸の時代に釣り針が出てくるので、
そのころには渡来していたはずである。
「冠座」を「かまのほし」とも言うが、この起源は鎌の形の半円形から由来する。
鎌の形は当時の舟の形にも似ていて、それで水を渡る時には、
葦草を切り払いながら漕がなければならない。
そんな沼沢池を渡って来た氏族・北方系の胡人が賀茂氏である。
彼らが鉄を作る時、片目で坩堝(るつぼ)火の色を見ていたので、
冠座には要目星という名もついていた。
坩堝の底の反面に析出した金銀の粒を星の配列にみたてていたともいう。

鳩座 (コルンバ β ウズン)
烏鵲は干潟の冠水の有無遠近を見定める鳥として、
昔は旧約聖書のノアの洪水の神話の時代から知られていた。
縄文弥生の祖先は烏鵲と共に干潟の開拓に努めて来た。
神代には賀茂の氏族は八咫烏を伴として日々をすごしていた。
今、肥前にすむカチガラス即ちカササギは
まさにその生きた化石というべきものである。
有明の干潟にいるムツゴロウをカチガラスは餌としていたが、
干潟が稲田と変わった今日では全くムツゴロウとは無縁になった。
干潟が陸地化するまでに3500年の以上の歳月がかかった。

タタラで鉄をつくる賀茂の氏族は火勢を見つめる仕事をするようすから、
「隻眼一目の神」と崇められて来た。

賀茂の星
『淮南子』などには大陸の西北方、或いは北方、さらには東北方に
一目国があったと語り伝えている。
「一目」を高麗の古語でカナムリと言う。一目は「タタラの神」となった。
常に高温の金属蒸気を見るために視力保護の目的で片目をつぶって
物を眺める習慣が身についている工人の氏族の事である。
福岡県那珂川ではこれを称して「八丁様」と言い、
京都山城では「加茂の神」と崇め奉った。

天智天皇は662年、筑紫の長洲宮に遷都された。
そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。
天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、
筑紫と同じ「葵祭」を催行された。
こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。
「背振神社」は京都「賀茂神社」に、「現人神社」は大阪の「住吉大社」に
生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。
そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。
これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。
玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。
ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を
模した品にほかならないのと同じです。
これはあちこちにあった文章を集めました。

これをまとめてみます。
有明海が陸地化する3500年以上前に賀茂氏は八咫烏を連れてやって来た。
当時は葦原だったので、船を進めるには鎌で葦を払いながらであった。
その時の鎌の形が「冠座」の形と同じなので、「かまのほし」と名付けていた。
また、当時の船の形は三日月のように両端が上がっていた。
八咫烏には干潟が陸地になるかどうかを見極める力があったので、
賀茂氏はそれを連れていた。
賀茂氏の出身地は「一目国」で、中国大陸の北西から東北にあった。
「一目」の由来は、坩堝で鉄などを作る時、
閃光から目を守るために片目をつぶる習慣があったからである。
それを、筑紫では「八丁様」といい、山城の国では「加茂の神」と言った。
「賀茂神社の葵祭」の由来は、もともと筑紫の背振神社で行われていたのを、
天智天皇がご覧になって、京都でも真似をして始めたことにある。
葵祭は京で神社と共に栄えているが、
ルーツの方では寂れてしまって、忘れ去られてしまった。

この話は高句麗と日本と両方に八咫烏が伝わっているのを
よく説明してくれていると思いました。

古事記では神武天皇を助けるために天から八咫烏が使わされています。
その続きを読むと、地下で働く不思議な人々と出会って行きます。
これは、鉄の民の描写だと思っています。
神武天皇も鉄の民の協力を得て、力を付けていった事が婉曲に描かれています。
(⇒神武天皇
そしてこれが日本のサッカーのシンボルマークになりました。古くて新しいヤタガラスです。

参考文献
『高句麗文化展』 高句麗文化展実行委員会 (写真転載)
『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』 真鍋大覚 那珂川町発行



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by lunabura | 2015-08-10 08:10 | 高句麗壁画・八咫烏 | Trackback | Comments(10)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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