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狐塚古墳(2)昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


狐塚古墳(2)

昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


手元に『埋もれていた 朝倉文化』(福岡県立朝倉高等学校史学部)という本があります。ふと、本棚から出したのですが、そこに狐塚古墳の記事がありました。

この本は、朝倉で整地、開墾が次々と行われるなか、高校生が調査して書き遺したものを一冊にまとめたものです。

そして狐塚古墳については、当時天井石を失ってはいたものの、おびたただい出土品があり、多量の武器、馬具、須恵器、はては北宋銭や石鍋、石硯などが記録されています。

土器には弥生土器も混じり、平安土器、北宋の白磁、南宋の青磁などが含まれています。北宋銭は真書の天聖元宝(1023年)が二枚です。

天井がないことから、違う時代のものが混入したのか、あるいは400年後も扉が開けられて奉納されたのか、全く不明ですが、この地が中国と交流を持っていたことを物語っています。

筑後川を下って大川の風浪宮に着けば、その近くに榎津という国際港があるので、珍しいものが直接入って来ている可能性があります。

出土品には釘が多数出ていることから、木棺だと分かっています。その分布からはやはり複数の木棺が置かれたもようです。

そして、本には奥壁の鏡石に書かれている船の詳細な絵図が掲載されていました。
それは、前回紹介した看板の画とは全く違っていました。



衝撃の壁画です。







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これは渡来人でしょうか、二人は明らかに別の人種と思われます。
左の人物はタッチが違うので、後世に書き加えた可能性が大きいです。
人物は船から降りています。屋形がある大きな船で、左下の小船と比べるとその差がよく分かります。有明海から入ってきたのでしょう。船の右手にびっしりと彫られた格子は、現代でもまだ目視できました。が、人物の部分は船のラインがわずかに見えるだけです。



次は同じ部分の看板のイラストです。


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何故、あれがこのような壁画とされたのか、理由は不明ですが、詳細は昭和29年3月「福岡県文化財調査報告」第17輯に載っているそうです。



狐塚古墳は出土品が多いので、専門家によって、もっと時代が描きさせるのではないでしょうか。
周囲の古墳が赤や青で描かれているのに対し、これは特殊なもののようですが、専門家なら円石室の分布とともに、明らかにできるものではないでしょうか。

この古墳はもっともっと評価されるべきものと思われました。





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by lunabura | 2015-09-25 22:34 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

狐塚古墳(1)・線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


狐塚古墳(1)

朝倉市入地2741?
線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


前回まで、うきは市(浮羽)の神社と古墳について書きました。

八咫烏の発祥の賀茂神社があり、的物部などのような古代豪族たちと、絢爛豪華な装飾古墳群が特徴の地域でした。

これは筑後川の左岸に展開した遺跡群ですが、今回はその対岸にある朝倉の古墳の話です。

狐塚古墳と言います。リンクしている筑後国造さんの案内で実際に石室を見学することができました。
役場との調整によって石室を見ることが出来るとはいえ、その準備や手間を思うと、感謝に堪えません。

浮羽の古墳群を書いたあとなので、朝倉と浮羽の違いがよく分かります。

印象を先に述べると、浮羽の石室は長方形のプランで、色彩は赤や青の力強くて華やかなカラーの装飾です。個人的には、佐賀の太田田代古墳や飯塚の王塚古墳と共通するものを感じます。

ところが、この狐塚古墳の石室は円構造で、装飾画は線刻です。別の文化圏ではないかと思わせるほど、差があります。

それでは写真を見ながら紹介しましょう。



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この古墳は石室がすっぽりと建屋で覆われています。









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ドアを開けるとこのような光景が目に飛び込んできます。無残にも天井石などが抜かれて(?)しまっていますが、全体構造がよく分かります。奥が玄室、手前が前室、右手が羨道となっています。

とても広いので、一目見て、テンションが上がりました。





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これが平面図です。玄室が丸いです。前室も、上から見たら丸く見えました。石の重力をどうバランスするかが石工の腕の見せどころでしょうが、かなり広い玄室の天井をどうやって組んだのか、もう知ることはできません。






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前室から玄室を撮りましたが、壁が整然としていないのが特徴です。正面の茶色の丸い形の石が奥壁の鏡石で、ここに船の線刻画がありました。







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舳先(へさき)と艫(とも)が二股になっています。底が平たいので、川船です。櫂(かい)も描かれています。朝倉舟と言っていたのがこのタイプかもしれません。

これを見ると、対岸の浮羽の豪族たちとは全く別の豪族だということが分かります。





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他に馬や不思議な線刻などがあります。






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これは羨道の方を撮ったもの。丸石で重ねた所は多分、現代の加工。上方の白い部分は建物の壁です。
床のまな板のような石にはホゾがあります。





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これは初めからあったものです。
つまり、ドアがあったということになります。穴は片方だけなので、片開きのドアです。

宮地嶽古墳にも扉があったのですが、それは枠が造られていました。

追葬したり、祭祀したり、横穴石室は、一族の祭事の中心だったと考えられます。


時代は1400年前、すなわち600年頃だそうです。出土品にはベルトのバックルや馬具などがあり、甘木歴史資料館の資料には7世紀初め頃のものと書かれています。出土品が何処で見られるのかは書いてありません。


大体600年~610年頃と仮定しましょう。筑紫では何が起こっているでしょうか。

600年に倭王阿毎多利思北孤が遣隋使を派遣しています。
607年には阿毎多利思北孤の送った国書には有名な「日出處天子」とあります。これを学校では聖徳太子だと習いましたが、どうなってるのでしょうか?

倭王阿毎多利思北孤と聖徳太子では身分が違うし、天皇は女帝・推古天皇なので、性が違います。
こんなところで、日本の正しい歴史が何なのか、つまづくとは (´・ω・`)
倭王朝と日本王朝という二元の王朝の併存をありのままに捉える事が必要のようですね。

話が逸れないように、戻りましょう。


さて、602年には来目皇子が新羅と戦うために筑紫に来て、翌年糸島で亡くなっています。
この時、佐賀の綾部では盛んに武器を造りましたね。

この狐塚古墳の被葬者は来目皇子と同じ頃に亡くなったことになります。
そして、あの埋納坑のあった古賀市の船原古墳もこの時代になります。

この狐塚古墳の遺族は古墳に船と馬の画を描かせました。死者に捧げる画です。
まさに、筑後川での営みそのものです。

この巨大な円墳に埋葬された人は、ここ、「入地」の支配者なのでしょうか?

「入地」といえば、私には思い入れがあります。
『神功皇后伝承を歩く下巻』を書く時、朝倉市に問い合わせてまで、調べたかった事があったのです。

「入地」は、神功皇后が羽白熊鷲を滅ぼして山を下って来た所にあります。

皇后は兵士たちに武器を研がせ、漆で錆止めをさせています。
その場所が徳次(とくつぎ)、塗器(ぬるげ)という地名で残っているのです。

その地名が何処にあるのか、検証しておかなければならなかったので、市に問い合わせました。そして、分かった場所を下巻の9ページに書いています。

朝倉市からの報告を見て私は驚きました。
二つの地名は太刀八幡宮(52番)と福成神社(53番)の間にあったのです。
この二つの宮はどちらも祭神が三女神なのです。

ここ筑後川流域は水沼三女神です。これに加えて軍事訓練の伝承があることから、「入地」は水沼水軍の軍事訓練所だったと推定しました。この狐塚古墳は上記の二つの宮を直径とした円内に入るのです。

神功皇后から400年経ってはいますが、水沼水軍が他に滅ぼされない限り、この狐塚古墳の被葬者は水沼族に関係のある豪族だと推定できます。

この古墳が出来て60年ほど経った661年。
斉明天皇がすぐ近くの朝倉橘広庭宮で崩御しています。

斉明天皇は朝倉に到着すると、ただちに朝倉の宮地嶽神社と福成神社に参拝しています。視点を変えれば、天皇の御幸の手配をしたのは地元の豪族のはずです。





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これは古墳の正中線の先に見える風景です。
見える範囲に朝倉橘広庭宮は存在し、殯(もがり)の宮もあります。
この古墳の「被葬者の末裔」は広庭宮の造営を見ていたかもしれませんね。


追記
この記事を書いた翌日、昭和29年の実測図が見つかったので、次に紹介しています。
このため、少しこの記事を書き換えています。



狐塚古墳 


地元の方、位置がずれていたら、教えてくださいませ。





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by lunabura | 2015-09-23 23:59 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

山北と賀茂神社と田中幸夫コレクション

二年前の記事ですが、ちょうどこの浮羽の話だったので、再掲します。


山北と賀茂神社と田中幸夫コレクション


先日、くじらさんから「山北」についてコメントをいただいた翌日、
なんと、「山北」から出土した石戈皮袋型須恵器を見る事が出来ました。
このシンクロニシティを忘れないうちにメモしときます。

「山北」は福岡県浮羽市にあります。
まずは、くじらさんのコメントの概要。
これは神武天皇 伝承の宮々(1)でいただいたコメントです。
ところで、すでにご承知かもしれませんが、加茂大神がこの国に最初に光臨したといわれる神社が浮羽市にあります。
山北の加茂神社といいます。(http://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(うきは市))

境内摂社の三次神社は浮羽でも最も古い神社とのこと。
アジスキタカヒコネの伝承とあわせて考えるとおもしろいですね。
境内には非常に古い古墳があり、かつてはこの付近が筑後川の河口だった時代があったと思われます。物部郷も近くにあり、大陸からの渡来系氏族の重要な拠点のひとつと考えられます。



くじらさん、こんばんは。
「山北」ですね。それなら知ってるかも (^-^)
物部氏はかなり古いですね。想像以上。
あれほど福岡の広いエリアに分布するには、100年200年じゃないような。

何々、アジスキタカヒコネですか。
この神は、大国主命と宗像三女神のタギリ姫の間に生まれた神ですよ。
高良山の麓にも祀られていて、気になる神です。

うきは市の賀茂神社は加茂大神が最初に降臨?
興味津津。

早速ウィキペディアを引用してみましょう。
縁起
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、
「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」
と述べている。

境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土している事から鑑みこの旧記が有る真実を伝えているものと考えられる。

賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(たけうちのすくね)(孝元天皇の曾孫)19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。(熊懐氏参照)

祭神
神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(神武天皇)
賀茂下上大神(賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、
玉依姫命(たまよりひめのみこと)、
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと))
う~む。
宇佐から山北へ。
そして八咫烏となった。

これは奥深い伝承ですね。
いつかチャレンジしたい…。

さて、この翌日に出会った山北の出土品は
九州歴史資料館の田中幸夫コレクションの中にありました。

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甕棺のイラストと石戈。
今回、このコレクションの撮影OKだったので載せておきます。
紀元前1世紀です。
もう神武天皇よりずっと後の人々です。

石戈を見ると刃先が折れています。
その後も使用した形跡がありますが、専門家はどう見るのでしょうか。

甕棺は二つ合わせて147センチになっています。
イラストの寸法が正しければ、かなり大柄な人です。
イラストの右上には石棺も見えますよ。

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山北からは皮袋の形をした土器も出土していました。
時代はぐっと下がって6世紀。
これは福津市の奴山古墳群にも出てたなあ。

これらは現在展示中ですよ!4月7日まです。(2013年)

第13回企画展「筑後考古学研究の黎明 田中幸夫コレクション展」

 今回の企画展で紹介する「田中幸夫コレクション」とは、昭和初期から戦後にかけ、福岡県内の遺跡を精力的に調査研究された故田中幸夫氏の考古資料コレクションです。 氏が生涯をかけて収集され、当館に寄贈された考古資料コレクションの中から、筑後考古学研究の黎明期を飾った県指定文化財3点を含む約100点を展示します。
会期:平成25年1月16日(水)~4月7日(月) 会場:第2展示室

九州歴史資料館 〒838-0106 福岡県小郡市三沢5208-3 TEL:0942-75-9575 FAX:0942-75-7834
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/kyureki/index.html


田中幸夫は立屋敷遺跡(遠賀郡水巻町)を発見した人なんですね!
珍敷塚古墳もですって!

出土地の地図があったので、とても分かりやすかったです。
(どの資料館の展示もこうして地図を出してくれるといいなあ。)

地図 山北




2013年2月8日投稿






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by lunabura | 2015-09-22 22:42 | 神武天皇伝承の宮々 | Trackback | Comments(4)

風浪宮参拝


風浪宮参拝





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(磯良丸神社)



今日は風浪宮に参拝して阿曇宮司にお話を伺ってきました。

先日の河村哲夫氏出版記念のシンポジウムにも、九大のフォーラムにも足を運んでいただき、お招きを受けてのことでした。

今、安曇磯良の本を書いていて、ちょうど風浪宮の所で筆が止まってしまっていました。文体を変えようか、対象者の世代をいくつにするかなど、珍しく迷いも生じました。

風浪宮の資料を読み込むうちに、高良山との深い関わりが「高良山玉垂宮神秘書」に垣間見えたので、一念発起して、神秘書の方を通読。抜粋して訳した冊子を書いてしまいました。

これをブログの読者の方にも頒かちあう方がいいのではと思ったのですが、どのレベルまで注釈を入れるか、など納得するラインを見つけかねています。

それと並行して、神秘書の内容を少しずつブログにUPして、ミサキカラスから八咫烏の賀茂神社と、話がどんどん逸れて行ったのが、現在ですね(笑)

そんな最中に、ストップしていた風浪宮へ話を伺う事になってしまったのですから、やはりこれも神計らいということなのでしょう。


高良山の祭神が磯良から物部、そして住吉と、長い年月をかけて変遷していくのと同様の影響を風浪宮も受けていたことが確信できました。

住吉が伝えたかったのは、神功皇后の子供の父は自分だ、という問題に尽きます。

永遠の謎なので、私は触れることはしないつもりですが、やはり講演会の時などには質問があります。

昔って、妻問いの時代だから、固定した夫という道徳観を持ち込むと、変な風になります。江戸時代の封建制度も武士の世界の価値観であって、古代には存在しない考え方です。今なお私たちはそれにどっぷりと洗脳されているので、それであれこれと話をする方には、現代人の思考で判断しては変だよ、って思います。

兄弟が別の家の姉妹と複数で結婚するのも当たり前の時代なんですね。もちろん歌垣もあったので、民族を越えて愛し合えた。それが渡来人だらけの地で日本人という一つの民族という意識を造り上げたのかも、とまで思っています。

さて、安曇の御縁はまだまだ続き、志賀島でもう一度お話をすることが決まりました。

10月31日です。
志賀島公民館の文化祭の歴史講座で、志賀島の地名と伝承に関する話をします。
詳細はまた別にUPしますね。






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by lunabura | 2015-09-21 21:41 | にっき | Trackback | Comments(18)

珍敷塚古墳・天鳥船の壁画だけど外観のみ


珍敷塚古墳
めずらしづかこふん
 外観のみ


前回の浅田古墳群から西、久留米方面へ約6キロの所に、珍敷塚古墳があります。6キロという距離は氏族も別になるでしょうが、例の天鳥船があるので、現地を確認しに行きました。

前回、資料がないとボヤキましたが、うきは市の観光協会から戴いた資料の中に、「うきはの装飾古墳」という優れ物が入っていました♪

発行は、うきは市教育委員会です。重定古墳の壁画は、ユギがずらりと整列している様子が飯塚の王塚古墳に似てたり、行けなかった楠名(くすみょう)古墳の入り口が福津市の手光古墳と似てたりしていて、ワクワクしてます。

で、本題の珍敷塚古墳ですが、石室は見られなくても、福岡県大阪観光協会の発行したリーフレットに載っていた、あの天鳥船の現場ということで、行ってきました。
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あれ?
あれれれれ?
あれじゃない?
行きすぎました!

古民家カフェのような瀟洒な看板があって、通り過ぎながら「珍敷塚古墳」の字を確認。
車をバックさせて、現地に立ちました。

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ここは屋形古墳群と言って、四つの古墳があるということです。

壁画を観察すると、珍敷塚古墳と原古墳、鳥船塚古墳の三つが「ミサキ鳥」を舳先(へさき)と艫(とも)に一羽ずつ乗せて、帆柱などが描かれています。

エジプトのラ―の船と共通する画があるのはここです。
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(福岡県大阪事務所発行 無料で送ってくれますよ)


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この古墳は小さな家屋で墳丘もなく、古墳には見えないので調べて行くと、破壊されていて、奥壁だけが残されたもようです。

当地はフルーツ観光で有名ですが、造園業も盛んなので、古墳を壊して畑に造成し、石は庭石に使われていったのではないかと思います。


小郡市では、家の塀代わりにおびたたしい数の石室っぽい石が山積みされているのを見ました。

ここも、石を持ち去ろうとした時、この画の躍動感にただならぬものを感じた人が残してくれたのでしょうか。

この天鳥船のモチーフを描いた古墳が三つ並んでいる点では、一族の墓が次々と造られたんだろうなと、想像させてくれます。




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少し離れて写しました。裏手に三つの古墳が並んでいるはずです。少し坂になっていました。もう暑くて断念。

冊子からは、珍敷塚古墳の次の世代の人は力不足で、モチーフを描くのがやっとという印象を受けます。逆の意見を持つ人もいるかも。
四つ目の古畑古墳の絵は日岡古墳と似たタイプだと指摘されています。

時代については記述がないので、想像することが出来ません。








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これは反対側の風景です。

果樹園の先に立つと、筑後平野が見渡せます。筑後川は一夜川というほど、流れが変わる川で、いつも氾濫しました。

正面の山並みは朝倉です。3世紀の初頭まで羽白熊鷲が活躍し、神功皇后に滅ぼされました。それから400年以上経って、斉明天皇が神功皇后の足跡で祈り、朝倉橘広庭宮を造りました。

この珍敷塚古墳の被葬者はその間の人です。
周辺の神社は鷹取宮、天満宮、熊野神社、宮地嶽神社。

何か手掛かりはないか。
やっぱり歩かないと駄目ですね。



珍敷塚古墳







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by lunabura | 2015-09-19 23:03 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(10)

重定古墳と塚花塚古墳・同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


重定古墳と塚花塚古墳

うきは市浮羽町朝田
同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


前回の高御魂神社から新川を下り、賀茂神社前を通って西に1キロ進むと、有名な装飾古墳群に出ます。

今回はその内、重定古墳塚花塚古墳を見つけることが出来ました。
どちらも道路沿いにあったのですが、初めてだと、見つけ出すのが大変なのが古墳巡りです(^_^;)

でも、古墳の被葬者は神社にお参りしていたはずなので、歩ける範囲に古墳があるなら要マークです。しかも、装飾古墳♪

まず、重定古墳を見つけました。

重定古墳
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で、右手にあった石段を上ると何故か現代のお墓。



これ以上は進めず、訳分からず降りました。
ネットで見ると、もっと広い石段があり、頂上に出ることができそう(/・ω・)/
――先達は あらまほしきなり。

これは前方後円墳だったのが削られて、後円部が残っているそうです。
時代は6世紀後半。
磐井の乱の傷も癒え、宮地嶽の勝村・勝頼が活躍している時代。
阿毎多利思北孤や聖徳太子がそろそろ活躍しようとしている頃かな?


装飾古墳の絵柄も分からないですが、石室の写真を「うきは市の文化財」から。




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迫力がありますね。
天井石は一枚石だそうです。








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看板を見ると、双六のように、塚花塚古墳への道が。三歩進め、てか?



塚花塚古墳
つかはなづか

すぐ近くにありました。



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古墳の全景です。円墳だそうです。

ここには看板がありました。





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馴染みの絵図がありますが、全体のデザインが分かりません。


佐賀の田代太田古墳などのように、壁画や石室などの画像つきの看板に進化してほしいですね。

こちらも手元の資料によると6世紀後半ということなので、さっきの重定古墳と同時期になります。
でも、石室の設計は全く違います。



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こちらは小さい石を積んでいます。


同時期で近所なのに、前方後円墳と円墳という形の違いもさることながら、石室の設計が全く違うということは、興味深いです。
二種の石工がいたということになります。

壁画のアイテムの共通項はあるようですが、現地では何も分かりませんでした。
比較したら面白そうですね。

あらためて、装飾古墳の本を探さないと分からないのでしょうか。
浮羽の装飾古墳が一挙に掲載されている本とか、あるのかなあ。




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これは古墳の西側の山を撮りました。鷹取山でしょうか?









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こちらは新川方面。一番左の木立が賀茂神社かな?
右手の山裾に三次神社があるのではないかなと思いますが、あくまで推測です。


とても良い環境ですね!




地図







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by lunabura | 2015-09-17 23:09 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(6)

高御魂神社・ 的物部の宮という


高御魂神社
たかみたまじんじゃ
 的(いくは)物部の宮という
旧浮羽町新川春園


前回までの賀茂神社のそば、西を流れる新川水系を遡りました。
浮羽大橋を通り、合所ダムの東の山間部を走ると、新川駐在所の前に
心魅かれる古社の鳥居が見えます。
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急な石段の上に高御魂神社は鎮座していました。


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祭神 高皇産霊神 たかみむすびのかみ
   天御中主神 あめのみなかぬしのかみ
   神皇産霊神 かんみむすびのかみ

この三柱は『古事記』でも初源に出て来る神々です。
町誌を見ると八代から勧請された宮だと書いてあります。

由緒
宇多天皇寛平7年(895)、肥後国八代郡大田郷の妙見宮を、熊抱平馬太夫行定が御伴してこの地に勧請した。

895年とは、当ブログにおいては比較的新しい宮です。
熊抱という姓は賀茂神社の大宮司としても出て来ることから、
当地全体の統治に関わっていたと思われますし、
高御魂神社と賀茂神社が深い関わりだということも分かります。

この高御魂神社はもともと妙見宮と称していたのが、
明治6年(1873)に」高御魂神社と改称しました。

これ以上のことが分からないので、はたして八代に妙見宮が存在するのだろうか
とネットで検索すると容易に出て来ました。

八代市妙見町405に鎮座しています。

祭神は天之御中主神、国常立尊、また、北斗七星です。
両宮を比較すると「天御中主神」が共通しています。

面白いことに、八代の方は795年に創祀されていました。
浮羽は895年。ちょうど百年を節目として勧請していることが分かります。

八代の方では次のような縁起を伝えていました。
妙見神の来朝
天武天皇、白鳳九年(六八〇)、妙見神は、神変をもって、目深・手長・足早の三神に変し、遣唐使の寄港地、明州(寧波)の津より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に来朝せり。

妙見神は寧波(ニンポー)からの渡来神でした。
白鳳九年(680)と明記しているので、渡来人が亡命して来た可能性があります。
その渡来人の風貌が三神「目深、手長、足早」で表現されているのでしょう。

680年に渡来して、795年に上宮で祭祀されるようになり、
さらにその百年後に浮羽に勧請されたことになります。

895年以前に寧波からの渡来人の一部が浮羽の山奥に入植していて、
改めてその信仰神を勧請したと考えることが出来ます。

さらに八代の方をウィキペディアで調べていると、
次のような境外末社が出て来ました。
霊符神社
祭神 - 北辰星・霊符尊星
由緒 - 霊符神社(れいふじんじゃ)は八代神社の末社、鎮宅霊符神の総本社。

推古天皇のころ、百済国聖明王の第3王子琳聖太子が八代に日本最初の霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した。

信仰すれば、除災興栄、富貴反映を得るという。明治維新後廃仏毀釈で荒廃したが、大正年代に再興。
所在地 - 八代神社東方約200メートル

百済・聖明王の第三王子、琳聖太子が八代に来ています。

聖明王の長子が余昌(威徳王)で、鞍手の鞍橋君の率いる軍がこの余昌軍と共に新羅に侵入して、一緒に籠城しています。鞍橋君は葛子の子です。

ウィキペディアの聖明王の系図では二人の王子の名前しか書かれておらず、この第3王子の名はありません。八代にのみ残されているのかもしれません。

余昌は526年生まれなので、第3王子はその数年後の生まれです。

527年が磐井の乱です。
乱後は葛子が筑紫君になっているので、百済の第3王子は筑紫君葛子の質として来日したのかもしれません。

三韓がそれぞれ王子を質として差し出すのは、神功皇后の戦勝以来の話にみられ、高良山の方でも、三韓の三人の王子のうち、百済王子のみが生きて上陸し、他は船の中で死んだと伝えています。

話を八代に戻しますが、第3王子の琳聖太子は「霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した」とあります。

蛇足ですが、百済王子関連でありながら白木山となっているということは、他の白木も総てを新羅とする考えは見直さなくてはならないようですね。


以上から分かる事は、
八代には磐井の時代から百済王子を受け入れる政治的な組織があり、天武天皇の時代に中国からの渡来人を受け入れたということです。その風貌から中東の辺りの人かもしれません。それから百年後、浮羽にその神を勧請しました。

八代から浮羽へ。
何があったのか。
手元の資料からはこれ以上は分からなかったのですが、くじらさんから、次のようなコメントをいただきました。

藤波ダム下流の公園の隅に「物部本家ここにあり」という意味の石碑がポツンと立っています。

明治までは浮羽から星野にかけての山岳地帯を姫治といい、鉱物資源独占の為か、外部の人間は決して入れなかったと聞いています。

この広いエリアの物部郷はある意味、隠れ里として人の眼に触れる事無く、存続してきたのでしょう。物部の一党が代々守ってきた高御魂神社は八代 妙見宮から勧請されたと言われています。

星野で思い出すのは金山があった話です。金に限らずこの山塊には鉱物資源があって、物部氏がひそかに掌握していたことになります。

これらから総合すると、八代において妙見神が「白鳳九年(六八〇)」に渡来したという年がキーポイントになります。

これは白村江の戦い663年のすぐ後なんですね。
倭国と日本国の連合軍は唐と新羅の連合軍に負けています。

考えられるのは軍備の差。
八代にいた支配層は、唐軍の軍備との大きな開きを痛感して、寧波から武器製作集団を招いたのではないでしょうか。


倭王朝が滅び、日本国が台頭して、律令制度の支配下になることを嫌い、鉱物資源があった姫治を絶対的に隠したかった。そして、倭王朝の再興を期して力を貯えようとした。それが的物部氏がこの山岳を隠した理由ではないでしょうか。


麓には天満宮がかなりの数、点在しています。また装飾古墳群がずらりと並んでいます。ここは的物部の巨大な軍事産業基地だったと想定できます。


麓の三次神社や賀茂神社が大友宗麟の崇敬を受けたり、逆に焼き打ちに遭ったことを考えると、この浮羽は中世まで、各大名が喉から手が出るほど欲しかった武器供給地だったのでしょう。

しかし姫治は徹底的に隠されて、大友宗麟の手は及ばなかった。
そんな想像をしました。


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高御魂神社






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by lunabura | 2015-09-15 20:42 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(11)

三次神社(2)景行天皇の筑紫行 まとめ


三次神社(2)

景行天皇の筑紫行 まとめ




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(雨乞いの三次石があるというが、狛犬の間の石だろうか?)


由緒に、景行天皇が来た具体的な年と、猿大海にヒモロギを造らせた話が出てきました。
同様な話が久留米の赤司八幡神社でも採集できています。

猿大海と景行天皇のことは『日本書紀』にも出ています。
景行18年と28年を中心に筑紫や肥前の縁起も含めて整理してみました。

18年3月 天皇、京に向かおうとして筑紫国を巡狩する。
7月4日  筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みけ=三池)に至って高田行宮に居す。
       倒れた巨木、歴木(くぬぎ)について話す。
7月7日  八女県(やめのあがた)に至る。藤山を越えて南粟岬を望んで
       神の山ついて水沼県主猿大海に尋ねる。八女津媛について答える。
8月     的邑(いくはのむら)で食事をするとき、ウキ(杯)を忘れたことで浮羽という地名になった。
9月20日 日向より至る。

27年7月 武内宿禰に北陸視察を命じる。
8月     熊襲が背く。
10月13日 日本武尊(16歳)に熊襲を討たせる。
12月    川上タケルを討伐。
28年2月  日本武尊戦勝報告。

以上が『日本書紀』の記述(一部)です。
景行天皇は18年に三池から八女、藤山を経由して北上し、8月に浮羽に着いています。
ウキを忘れた事件はこの時の話となりますね。

この時、猿大海が同行しているようです。ここは賀茂氏が武器を造っていたのでしょう。その為に三次神社を聖地と定めて祀ったと考えられます。

『古事記』的には、宗像三女神(当時は水沼三女神)と出雲の合体が賀茂大神なので、浮羽は水沼の統治下にあったのかもしれません。

水沼県主・猿大海の屋敷は久留米の赤司八幡神社にあり、景行天皇はそこで天壇を造って三女神を祀り、国乳別皇子を天皇代行として残しています。

経路から考えて、藤山から赤司八幡神社を経由して浮羽に向かったのではないかと考えられます。

また、佐賀市大和町川上 真手山(まて)にヤマトタケルから襲撃された熊襲タケルが逃げ込んだ伝承があります。

熊襲タケルは筑紫で一度ヤマトタケルと会っていて、筑紫の拠点でヤマトタケルに襲撃されて佐賀市大和町まで逃げたといいます。

これが景行27年12月に該当します。
このあと28年に景行天皇は猿大海に命じて、三次神社の聖地に磐境、神籬を祀らせたことになります。

猿大海は水沼県主として、広範囲を治めた、かなりの実力者だったことが分かります。

国乳別皇子の后は水沼から出たので、さらに結束は強くなりました。

日本武尊、仲哀天皇と、次々に当地を訪れ、その記憶を留めるために親子三世代が祭神として祀られたのでしょう。

また、肥前国風土記では景行天皇は高羅の行宮から基肆国の永世神社に行ったと書いています。このルートを仮定すると、浮羽から高良山~佐賀と移動したのかも知れません。



以上の仮説を追加して、『日本書紀』に追加します。

18年3月 天皇、京に向かおうとして筑紫国を巡狩する。
7月4日  筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みけ=三池)に至って高田行宮に居す。
       倒れた巨木、歴木(くぬぎ)について話す。
7月7日  八女県(やめのあがた)に至る。藤山を越えて南粟岬を望んで
       神の山ついて水沼県主猿大海に尋ねる。八女津媛について答える。
このころ 久留米赤司の猿大海の拠点で三女神を祀るために天壇を造り、
       国乳別皇子を残して祭祀をさせる。


8月 的邑(いくはのむら)で食事をするとき、ウキ(杯)を忘れたことで浮羽という地名になった。
このときの滞在地はのちに三次神社となる。

このあと、高良山の行宮を経て基肆国永世神社に行く。
9月20日 日向より至る。

27年7月  武内宿禰に北陸視察を命じる。
8月      熊襲が背く。
10月13日 日本武尊(16歳)に熊襲を討たせる。武内宿禰同行。
12月     日本武尊は川上タケルを討伐。場所は佐賀市大和町真手山

28年2月 日本武尊戦勝報告。
同年  猿大海に命じて磐境と神籬を三次神社の地に造らせる。

こんな風になりました。

地図がないと分かりにくいですね。
私も、いつも福岡県の地図とにらめっこしています^^


猿大海、水沼、国乳別皇子については、『神功皇后伝承を歩く 下巻』
56 赤司八幡神社
57 弓頭神社
78 大善寺玉垂宮
で復習してくださいな。



地図 三次神社







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by lunabura | 2015-09-13 23:37 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)

三次神社(1)景行天皇が猿大海に磐境を造らせた


三次神社(1)
みつぎじんじゃ
旧浮羽町大字山北日盛園
景行天皇が猿大海に磐境を造らせた

賀茂神社を後にして、歩いて三次神社を探しに行きました。
8月15日の真昼、猛暑の日でしたが、思ったより辛くはありませんでした。


何枚もの地図を組み合わせて探しに行ったのですが、尋ねても知る人がいません。
それでも、やはり向こうに見えている森だろうと歩いていくと、車は入れない所でした。




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とても、風情のある小路です。





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あった!
真昼の影のせいで、神額が真っ黒に写っていますが、「三次神社」と書いてあります。



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真夏の日差しでハレーションを起こしていて、ピントがあっているのに、合ってないような感じになっています。
訪れる人もいないようです。






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石の社殿です。

祭神 大足彦忍代別尊(景行天皇) 日本武尊 仲哀天皇 菅原道真

御祭神は父と子と孫。三人揃って祀る宮は初めてです。



由緒
景行天皇十八年、天皇筑紫国を親征された時、生葉山の麓、三次の杜(今の楯山)に霊畤(まつりのにわ)を設けて天神地祇を祀って天下の泰平を祈りたまい、同二十八年、水沼県主猿大海に命じて磐境(いわさか)を造り神籬(ひもろぎ)を立てさせ、神祇を鎮め奉ったのが創始と伝えられている。


景行天皇が最初に来たのは景行十八年とあります。

この宮は生葉山の麓にあるのですが、どの山を指すのか、分かりません。
地図にも、目ぼしい山が見当たりません。


「三次の杜(もり)」はここでしょうから、霊畤(まつりのにわ)も、ここなのでしょう。
景行天皇は十年後の二十八年に水沼県主の猿大海に命じて磐境を造らせています。






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境内の周囲をぐるりと清らかな水が流れていました。





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裏に回ったとき、人工的な石組の跡を発見。その石垣の上に磐座があったのです。


崩壊しているのでしょうか、あるいは元々このような形だったのか。
しかし、そこではゴミが燃やされていました。
ショックのあまり、写真はこれだけしか撮っていませんでした。






神社を振り返ると、磐座は社殿の正中線上に乗っているように思われますし、正面の筑後川を経た向こうに聖なる山を見ているフシがあります。



この宮は過酷な運命を持っていて、大友宗麟に焼き払われた時を含めて6度も社殿を建て直さなければならない状況に見舞われていました。

そして、磐座もゴミ焼場に成り果て、市民から忘れ去られていました。






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by lunabura | 2015-09-12 23:10 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(6)

巡り合わせ

 
巡り合わせ


昨日はA出版社に、ある女神の小原稿を送りました。
これが不思議な巡り合わせだったんです。

3年前、私はA出版社を紹介されて、その女神の原稿を送ったことがあったのです。この時は、A社の発行するB誌に連載しないかという、ありがたい話をいただきました。

ところが、その後、すぐに『ガイアの森』と『神功皇后伝承を歩く』の出版が決まり、二兎は追えないと思って、A社へ送った原稿を引き下げたのです。

そして、先日、B誌の編集長と話す機会があって、何か原稿を書かないかと言われ、お蔵入りしていた小原稿の話を思い出して、話しました。すると、原稿をとりあえず、送る話になり、すご~く手直しして、送りました。

これは酒席での話だったので、先方は忘れているかもしれず、形になったら具体的にお知らせできるかな。

3年経ってその原稿を見ると、まだまだ修行が足りないな、と反省しきりです。 (^_^;)
あの時、取り下げていて良かったです。

それでも、3年を経て、同じ雑誌にその女神の原稿が渡ったというのも、不思議な巡り合わせだと思いました。

載るといいですね。




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by lunabura | 2015-09-09 22:20 | にっき | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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