ひもろぎ逍遥

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脇巫女 14 卑弥呼の鬼道


脇巫女 14
WAKIMIKO
卑弥呼の鬼道


昨日と今日は、高島忠平氏の講演を二日続けて追っ掛けしてきました♪

11月28日は
遠賀川 古代の王国再興会議キックオフイベント
王塚古墳から見た古代/遠賀川に輝く弥生の神々
「ホナミの王と神々」

11月29日は
全国邪馬台国連絡協議会第二回全国大会
~久留米から邪馬台国が見える~
「東アジアと倭の政治」

です。どちらも、会場は熱気いっぱいで、
九州の古代を取り戻す機運で盛り上がっていましたよ。

また、29日の講演では、纏向遺跡を掘った関川尚功氏が
学者としての良心的なお話をされました。

これは機会があれば、お伝えすることにして、
高島忠平氏の話の中に『脇巫女』を理解する助けになる話があったので、
今日は二、三点、ピックアップしたいと思います。

高島忠平氏は吉野ヶ里遺跡の発掘の指揮を取られた方です。

遠賀川流域出身でもあったので、私の取り組んでいる時代の
考古学的分野を把握したいということで受講したのですが、
なんと、星読さんの託宣と同じような話が出て来たのです。

◇◇ ◇
縄文時代人の「精霊信仰」を基盤としながら、弥生時代には「祖霊信仰」が
大きな柱となり、宗廟(祭殿)を祀るようになった。

その祖霊から託宣、神託を告げる巫女(神子)がいて、
その結果を連合国に伝えた。
この「祖霊からの託宣」を受けることを
「魏志倭人伝」では「鬼道」と書いている。
◇◇ ◇

卑弥呼の時代は30国ほどの連合国があり、卑弥呼は最も権威があって、
その託宣の結果を30国に伝えたということです。

この話は、星読さんのいう「物述」の説明をしてくれています。
部族国家の連合国の中ののメッセンジャーの存在を
考古学者が言及されたのです。
これを星読さんは「物述」(もののべ)(物を述べる)と言っています。


高島氏は吉野ヶ里遺跡の解析からの見解を話されました。
◇◇ ◇
吉野ヶ里遺跡には墳丘墓があるのですが、そこに「始祖」を埋葬し、
柱を立て、手前に祠堂を立てています。
そこから南に二列の甕棺がずらりと並び、巨大な祭殿へと続きます。




その祭殿は夏至の日の出と冬至の日没を意識して設置されていますが、
そこで祖霊を祀り、託宣を受けていたということです。
さらに南に延長するともう一つ祭壇があるのですが、
これは水、雷などの神々を祀っていたということでした。

◇◇ ◇

謎だった、冬至の日の出ラインの延長線上には古処山があるということでした。
これはチェリーさんに確認して頂きたいラインですが、
本当に古処山(こしょさん)にラインが当たるとすると、
その山を拠点としていたのは羽白熊鷲ですから、
吉野ヶ里は彼らと何らかの結びつきがあるということになります。

吉野ヶ里が一時期、断絶することと羽白熊鷲の滅亡という
新たな関連も視野に入れることになります。
中国では紀元前3~4世紀に東西南北を意識するようになったそうです。

また、吉野ヶ里人と飯塚の立岩遺跡人はほぼ似た形質の渡来人だそうです。
吉野ヶ里遺跡のすぐ近くには大伴氏の拠点があることから、
磐井の乱までの大伴氏の動きも気になるところです。
もちろん、物部氏の動きもです。

さて、高島氏の話でもう一つ押さえておきたいのは、「魂魄」という中国思想です。

人間は「魂」と「魄」(はく)という二つの魂を以っていて、
人間の死後「魂」は天に帰り、「魄」は地に留まるという思想がありました。
「魄」を大事にしないと祟るという思想があったために、
死者の亡骸を丁重に扱ったということです。

今、問題になっている古墳の破壊が、不思議な現象を起こしているのも、
この「魄」の存在で説明できます。

「祖霊を祀って託宣を受ける」
「魂魄の魄を丁重に扱う」
という二つの思想が弥生時代には確立していて、
古墳時代にも受け継がれています。

今、『脇巫女』で描いている世界は弥生の精神世界でもあったことを知ったのは
大きな収穫でした。


そして、私が留守の間、訪問者の皆さん同士で盛り上がっていてくださって
うれしい限りです。
さすがに、コメントの返事は無理ですな(^^;




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by lunabura | 2015-11-29 22:30 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(7)

脇巫女 13 「月守の民」とセオリツ姫


脇巫女 13
WAKIMIKO
「月守の民」とセオリツ姫


<十> 2015年11月17日
「月守の民」たち

「月守」は闇を支配する者たち、災いを予知する者たち
「月」に仕える者たち
闇を恐れる者たちのために、新しき太陽が東の空に生まれるまで「月」を守る民

「月」は闇を照らす夜の太陽

「月」は天候をつかさどる神
「月守の巫女」は「月神」の声を伝える

「月守」は低き地より「神」の声を聞く
「星読み」は高き地より「神」の声を聞く
「神」の声、ともに「もののべ」に伝える

「月守の民」「星読みの民」は共に「闇神」を拝す

「星読みの民」追われしとき、「月守の民」この地を追われる


「闇神」荒ぶる神、
人々恐れ敬うも、遅し
人々災い恐れ、この地より去る

月守の民、星読の民仕えし神「月神」は生命の営みを支配する神「セオリツ姫」

セオリツ姫は「生命を司る神」
潮の満ち引きを行い
全てのものに「生」と「死」を与えしもの
すべての神々を支配する絶対神。

「天皇」は神の子
その神を支配するものの存在を認めることが出来ない
セオリツ姫は「天皇」によって「その名」を奪われた

この地に住みし者たちは「セオリツ姫」を守れずこの地を追われた

◇◇ ◇

「月守の民」の話がようやく出て来た。
月守は名のごとく、「月」を「守る」民だった。
「月守の民」にも巫女がいて、「月神」の声を伝えていた。
この民も「星読みの民」も「月神」に仕えていた。

この「月神」の名を「セオリツ姫」という。

セオリツ姫は生命を司り、潮の満ち引きを行い、「生」と「死」を与える。

ここまで書いて、私はワタツミの神を思い起こした。
ワタツミの神もまた同様の働きをする神なのだ。
しかし、その神は「海神」だ。
しかも「月神」とも言われる。

しかし、セオリツ姫とワタツミの神は別神だ。

私はその事が気になり、星読に尋ねた。

「セオリツ姫はクマソの神だったのです。
その当時、クマソは九州全体をクニとしていて、絶対唯一神でした。
それがセオリツ姫だったのです。
クマソは部族単位で九州の各地に集落を形成していたのです」

そうか。
それならよくわかる。
同じ作用の神に対して別々に名を付けていたのだ。

天皇家とクマソの戦いはこのブログでも断片的に出て来た。

景行天皇は九州に入ると、次々に部族の長を騙し討ちにした。
あるいは女王国の長には子供を生ませていった。
歯向かう国は滅ぼした。

これら九州の豪族や部族や女王国がクマソと呼ばれる人たちだったのだろう。

景行天皇は、息子のヤマトタケルに命じて残党狩りをさせた。
そして、さらにその子の仲哀天皇もまた残った部族を滅ぼそうとして、
矢に倒れた。
そのカタキを討ったのが神功皇后だった。

神功皇后を支えた物部氏や水軍や陸軍たちが団結していった。
このとき倭国というクニの原型ができたのだと思う。
それはクマソとの戦いの中で醸成されていった国体だった。

当時は天皇家も、天皇という称号も存在しない。
のちに「天皇家となる一族」がいただけなのだが、
その一族の母体となるのが安曇族だった。

潮が満ちる時、人は生まれ、
引くときに、人は死ぬ。
その満ち引きを司っているのが月だと、古代人は看破していた。

同じ「月神」を安曇族とクマソは別の名で呼んだ。
「ワタツミの神」と「セオリツ姫」。

託宣は「天皇」によってセオリツ姫の名が奪われたと語る。
それは倭国とクマソの間の戦いが背景にあった。

ところが『古事記』や『日本書紀』には
玉垂命(安曇磯良)もセオリツ姫の名も無い。
二重に消された歴史があったことになる。

託宣は、星読みの民が追われると月守の民もまた追われた、という。
それは両民ともセオリツ姫を拝していたからなのだという。

それなら、いったい何故、二つの民がクマソの神を拝していたのか。
新たな疑問が生まれてきた。


この託宣にはもう一つ押さえておきたいことがある。
次回はそれについて書いておこう
                       (つづく)





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by lunabura | 2015-11-27 21:05 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(20)

脇巫女 12 イチキシマ姫


脇巫女 12
WAKIMIKO
イチキシマ姫


<九>2015年11月16日
三つの民の記憶

月守の民
星読みの民
そして・・・・・
海の民が揃った

月守の民は、闇(夜)を守りし民
星読みの民は、星(神)からの声を伝える
海の民は、船を操り、幸(財)をもたらす

それぞれの「民」には神に仕えし「脇巫女」がいた

海の民は、星を読む航海術であり、天候を月から読み取っていた
海の民は、いくつかの部族からなっていた

物述の民は、海の民からもたらす武器を手にすることで強靭な武力集団となっていた
海の民と物述の民の一部は強い絆で結ばれていた
海の民は、物述の武力と手を組み、その支配下に置いた
海の民は、その財力に応じた地位と支配地を求めるようになっていた

海の民はその能力から星読みの民が疎ましくなっていた
海の民の「巫座」(巫女)に真実を告げず、ただ戦いに最適な時を占わせた
「巫座」は星読みの民を滅ぼす戦いと知らずに、その時を知らせた

星読みの神(イチキシマ姫)は、頭から血を流し、命を奪われた

このことを知った、海の民の「巫座」は追放され、騙され、裏切られた事を悟った

「セオリツ姫」を守り切れずに宇佐へ
「姫大神」となる

この地に三度降臨す

◇◇ ◇

「三つの民」とは「月守の民」と「星読みの民」と「海の民」である。
それぞれに「脇巫女」あるいは「巫座」(ふざ)が存在していた。
両者とも神の声を「物述」に伝える立場にあった。

「海の民」はいくつかの部族からなっていた。
思いつくのは、安曇族、住吉族、伊都水軍、遠賀水軍(出雲族か)、水沼族。
宗像族。

海の民は財と武器を「物述」にもたらし、支配地を求めた。
それから「星読みの民」の能力を疎ましく思い始め、ハカリゴトをした。

すなわち「星読みの民」の失脚を。

海の民は自らの巫座(ふざ)に目的を告げずに開戦の時を占わせた。
その巫座は何も知らずにその時を告げた。

この謀略により、星読みの民の神であるイチキシマ姫が殺された。


イチキシマ姫を失った星読みの民は宇佐に逃げた。

海の民の巫座が、それが自分の占いの結果だと知ったときは遅かった。

目的を知らせられずに占わせられた巫座の絶望は如何ばかりか。
想像に難くない。

星読はさらに直観的に知り得た内容を教えてくれた。
「海の民の巫座は慕われていたけど、濡れ衣を着せられて主犯に仕立てられ、
追放された。
海の民はイチキシマ姫のタタリを恐れて沖ノ島に封印した。
その時、自分たちの二女神を合わせて三女神として沖ノ島に祀る形にした」と。


それで、あの荒波のはるか彼方の沖ノ島なのか。
何故か合点がいく。

「二女神」+「イチキシマ姫」。
どこに行っても、この組み合わせを教えられた。
それはこのような事情があったのか。


さらに、託宣は「セオリツ姫」の名を語り出した。
星読みの民は「セオリツ姫」を守り切れずに宇佐に逃げたという。

何故、唐突にこの女神の名が出てくるのだ。

星読に何度か話を聞くうちに、
この女神はさらに古層の時代の女神だということが分かって来た。
詳しい話は次回に譲ろう。

もう一つ、問題の言葉が出てきている。
「この地に三度降臨す」
だ。

「この地」とは鞍手のことか。
私の想像した久留米の赤司八幡神社は出てこない。

星読に確認すると、いずれも鞍手ではないかということだった。
一度目は六ケ岳。
二度目は宇佐から戻ってきた時。
姫大神となって鞍手を奪い返して荒れ狂う力を見せ、このとき社が作られた。
そして、三度目。
「それが今だと思う」
と星読は言った。

だから、長遠寺探しをしたのか。
そこは急斜面の谷の中、砂防ダムの上流域にあった。
その隣の谷にはまだ砂防ダムが出来ていないことが明らかになった。

もし、土砂崩れが起こったら、車は入れず、空からしか救助できない、と星読はいう。

この問題は七色に以前から断片的に降りかかっていた。
謎めいた知らせが、こうして言語化されて、今、人間界に伝えられた。

               (つづく)


※ コメントありがとうございます。
返事は後日に。


六ケ岳




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by lunabura | 2015-11-26 23:38 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(2)

脇巫女11 沖ノ島


脇巫女 11
WAKIMIKO 
沖ノ島


<八>2015年11月16日

沖ノ島を神聖な地としなくてはならない

イチキシマ姫のタタリを恐れ、その地に神殿を建てた

島に上がる前に裸で海に入り、何も隠していないことを示す

二度と命を狙わないと誓うために

◇◇ ◇
託宣は沖ノ島の歴史を語りだした。
それはイチキシマ姫のタタリに関わるものだという。
男たちが裸で海に入るのは、武器を持たたないことを示しているのだという。

二度と命を狙わない?
ということは、イチキシマ姫は命を狙われたというのか。
驚くべき内容だった。

沖ノ島を世界遺産に登録させようとしているが、
「お言わず」の島を何故、世界に伝えようとするのか、
私は理解できないでいる。

テレビがどんどん入って、沖ノ島は秘められた世界ではなくなった。

女神たちはそれを喜んでいるのだろうか。

しかし、もう時間がないのだろう。
姫神たちは隠されたものを出そうとしていた。
             (つづく)





沖ノ島








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by lunabura | 2015-11-25 20:52 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

脇巫女 10 二人の「アマテラス」


脇巫女 10
WAKIMIKO
二人の「アマテラス」


<七>2015年11月13日
二人の「アマテラス」

優しく、暖かな「日の光」に包まれた女神
誰にでも優しく微笑み、慈愛に満ちた光を注ぎ「癒し」を与えてくれる
光の時の優しい女神

闇の時、光の国を守る「鬼神」
誰よりも強く、荒々しく、力強く、誰もが恐れおののくその姿
甲冑を纏い、手には剣を持ち、入り来る者を迎え撃つ

闇の国が世界を覆い尽くさぬように、再び「光の時」が世界を覆うときが来るまで

弟「スサノウ」は立ち向かうことができない「鬼神」姿の兄「アマテラス」の
強さを知っていた。
「スサノウ」は「光の時」の姉に会いに行ったが、
そこに待っていたものは兄「アマテラス」だった。
驚いた「スサノウ」、待ち構える「アマテラス」

剣を差し出すことで戦う意思のないことを伝えようとするが、
二度と悪さをさせぬため、その剣を砕き、
三人の「姫」の姿に変えた「アマテラス」

「アマテラス」は三人の「姫」を地上界に天降りさせる

三人の「姫」は「星を読み」この地を治めるも、
裏切りに遭い、土地を奪われてしまう

取り戻そうとして三人の「姫」は再び一体となり「ヒメオオガミ」となり
その「地」を奪い返す

その力は甚大にして、荒れ狂う力となり、恐れられた

人々は「怒り」をお収めするために「社」を作り「鎮座」して頂いた

◇◇ ◇
星読は
「これは『ガイアの森』を読んでいた時、浮かんだのです。
続きを読みたいのに、パソコンを打たねばならない。
打たなくちゃならないのに、続きが読みたい」
そんな葛藤をしながら打ったと話した。

初対面の日、私はふと「アマテラスって男と思いますか、女と思いますか」
と星読に尋ねた。すると、
「女。…であって欲しいと思います」
という返事があった。

私自身はアマテラスに関しては、初めて知った時、
アニメ映画で女神として描かれていたので女と思い込んでいたが、
男と思う人は多い。
物部系の場合は男神だ。

世界の太陽神は男神とするものが多い。
「ファーザー・サン」という言葉はその一例だ。

ネイティヴ・アメリカンのホピ族にとっては、それは女神で、
「あの御方」と、はばかって呼んでいる。
だから日本で堂々と「アマテラス」と呼ぶのを知って驚いていた。

鞍手郡内には「天照神社」があるが、男神だ。

男神か女神か。
一人一人解釈が違うので、尋ねてみると面白い。
正誤はない。


さて、星読の託宣は思いがけない「アマテラス」を描き出した。

「アマテラス」は「日の光」の時には女神の姿をし、
「闇」の時には「鬼神」の姿をとるという。
まさに和魂(にぎみたま)と荒魂(あらみたま)の両方を表現するよう内容だ。

弟の「スサノウ」は両面性を知っているので、女神の時の姉に会いに行ったが、
「鬼神」の姿で出迎えた。

「スサノウ」は戦う意思の無いことを示すために剣を差し出すと、
「アマテラス」はその剣を砕いて三人の「姫」を出現させた。

三人の「姫」は天降りしてこの地を治めた。
が、裏切りに遭って土地を奪われた。

「この地」とは鞍手のことで、宇佐に逃げた時の話だろう。
三人の「姫」が一体になった姿が「ヒメオオガミ」だと星読は言う。

そして「その地」を奪い返したというのだから、
「ヒメオオガミ」が鞍手に戻ったということになる。

その「荒れ狂う力」を畏れて人々は「社」を作った。
そうすると、その「社」が六嶽神社ということになろうか。

そして、「荒れ狂う力」とは抽象的な表現ではなく、
現実に洪水や疫病などが起こったことを表しているのだろう。


チェリーさんが描き出してくれた六ケ岳の馬蹄形。
その鳴谷の中にぽつねんとある名の無い寺。
星読と七色が調べてくれて、これは直方の長遠寺の別院で、
今も鎮座していることが分かった。

この「鳴谷」という地名を見て思い出すのは、広島の山津波だ。
山が鳴ったら避難せよと言い伝えていたという。

この寺名探しは、先人の智慧を受け取るためのものだったのかもしれない。



さて、託宣に戻ろう。
「スサノウ」も初めて出てきたが、町内の古物神社には
「古門村は神代の昔、スサノヲ尊が高天原より出雲に至る時の旧跡である。」
という興味深い縁起を伝えている。(拙著『神功皇后伝承を歩く』18参照)

この一文からは鞍手は高天原と出雲の間にあることになる。
今まで逍遥した中で出会った「高天原」地名は志賀島に、
また「出雲」地名は飯塚にある。
遠賀川流域こそ古出雲だったと発想すれば、
古門村の伝承は理に適う話だと最近よく思う。
 (つづく)



コメント沢山ありがとうございます。
返事は少しお待ちくださいね。




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by lunabura | 2015-11-24 23:29 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(5)

脇巫女 9 夢物語

 

脇巫女 9
WAKIMIKO
夢物語


星読から預かった託宣や夢はすでに十六を数えた。
通し番号を漢数字で打つことにした。
今日は<四>から<六>までを連続して紹介しよう。

◇◇ ◇
<四> 2015年11月9日
早朝4時45分頃、まどろんでいる時、
若者が懐に飛び込んでくるような勢いで顔がアップになって目が覚めた。
深呼吸を一回したが、気分は落ち着いていた。

◇◇ ◇

懐に飛び込んで来た若者は誰か。
尋ねると、ヤマトタケルだったという。

ヤマトタケルが誰かを殺した時のようだと星読は言った。
驚いて目が覚めた星読だが、感情が乱れることはなかったという。

ヤマトタケルは気性が荒かったらしい。
彼に殺された人を思い起こすと、兄の大碓命、クマソタケル、出雲建などがいる。

星読はこれから解かねばならない謎の重要なシーンを見せられたのだろう。
答えは一つ動けば一つ教えられるのだろう。

◇◇ ◇
<五>2015年11月11日
これからの物語は作者(星読)の「夢物語」

「夢」は未来のためにだけあるものではない

過去を夢見て、そのあるべき姿を知る

今を生きる者たちのために

まだ見ぬ者たちのために

◇◇ ◇
星読の託宣に対して、私は歴史的背景を考察しているが、
この先は驚くべき内容が展開される。

これまでの歴史観に反するものも出てくるだろう。
が、感情が揺さぶられた時には「夢物語」だと受け流そう。

「感情」に「浸る」ことをやめて「感情」を「観察する」ことが
人類の意識の進化に欠かせない。
これを読んで私はそう思った。

◇◇ ◇
<六>2015年11月13日
一人の男が、宇佐神宮の祭殿の前でひれ伏し、
「お迎えに参りました」
「長いことお待たせいたしました」
とつぶやくと
光(風のようなもの)が「われ先に戻る」と告げる

男は「入口と窓を開き、出迎えるよう」(自宅に)告げる

男が(自宅に)戻ると、神棚が騒がしい。

男は山に行く

この地に戻りし神々よ この地を守りし神々よ
この地を守りし われに力を与えよ
この地を奪われないために
◇◇ ◇
「男」とは星読自身のことだという。
星読は宇佐神宮に祀られている三女神を迎えにいった。
女神たちは星読より先に鞍手に戻るので、星読は自宅に連絡して
入口と窓を開けて神々を迎え入れるようにと告げた。

戻ると、自宅の神棚が騒がしかった。

それから、星読は山に行った。
この山とは六ケ岳だそうだ。

そして、星読は戻って来た女神たちに
「力を与えよ。この地を奪われぬために」
と祈ったという。

現在なのか、未来なのかは分からない。

「もののべ」によって鞍手を追われた「星読みの民」は
三女神と共に宇佐に行ったという話が出たが、
星読はその女神たちを六ケ岳に迎える役目があるのだろう。

フラッシュバックのように重要なポイントが示されているようだった。

※ ※  ※

チェリーさんが六ケ岳の祭祀線の記事を投稿してくれた。

「地図でつなぐ聖地の旅」 lunaさんへのレポート 
「鞍手」 その1
 http://sakurasaku0911.blog.fc2.com/blog-entry-117.html 

六ケ岳は麓からは、六つのピークがきれいに並んだ連山に見えるのだが、
チェリーさんの作成してくれた地図を見ると、
六つのピークを結んだ稜線は馬蹄形になっていて谷を囲んでいた。
想像外の形状だった。

その谷の麓に卍マークがあるが、その寺の名前が分からないそうだ。
馬蹄形の焦点にあるような位置取りで気になった。

私も手元の地図や山の本を調べたが書かれていない。
廃寺となっていれば調査ははかどらないかもしれないが、
六ケ岳信仰の要かもしれない。

七色に調査の依頼メールを送ると、早速、探索に行ったとメールが入った。
七色は鉄砲玉か… ”(-“”-)”

気軽に尋ねたのがこのような展開になると、当方が恐縮する。
星読も同行していた。
場所が分からないようなので、改めてチェリーさんの地図を見ると、
砂防ダムの上流150mほどの位置になる。

これはもう土砂の中に埋もれているだろう。
いかにも山津波が起こりそうな地形だ。
砂防ダムの受け皿は大丈夫だろうか。

久山の伊野天照皇大神宮の上の砂防ダムのようすが心に浮かんだ。
すでに土砂はダムを乗り越え始めていた。
大雨が降れば、神殿に掛かるのではないかと恐れている。
あれから対策はされているだろうか。

七色が夜になって電話をくれたが、
鞍手のハザードマップが緊急に必要だと言う。
昭和33年にこの地は災害に見舞われてたそうだ。
地形的には海からの津波が上がれば波高が高くなる所だし、
上流域に大雨が降れば流されるような地形だ。

七色にはその警告の声が聞こえているのかもしれない。


c0222861_20594621.png

これは、tatsuさんが作ってくれていた10mの洪水マップだ。
弥生早期の想定地図に当たるが、本来、洪水を調べるのためのソフトだ。
国土地理院のHPの中にもあったはずだから、活用してほしい。


星読の最後の言葉が気になる。

<この地に戻りし神々よ この地を守りし神々よ
この地を守りし われに力を与えよ
この地を奪われないために>


「この地を奪われ」る状況が想像つかなかったが、
あるいは鉄砲水、山津波などの自然災害の可能性もある。




さて、話が変わるが、チェリーさんのブログには
六ケ岳―六嶽神社―宗像大社のラインも描かれていた。

問題は宗像大社の位置だ。
市の発行した本によると、
宗像大社の辺津宮の社殿があった時期は788年までしか遡れていないのだ。
それまでは辺津宮は無かったと考えるのが妥当だ。

不二さんの話によると、昭和に「古高宮」に初めて登った時は木が生えてなく
海が見渡せ、祭神は大国主命だと聞いたという。
宗像族の祖は出雲系なので、当然だと思う。

また、今の「高宮祭場」は「昭和」に作られたものだ。
発掘した時、土器が少し出たので祭祀があっただろうという事で、
現在のように整地して神籬(ひもろぎ)が作られた。

露天祭祀を継承したすばらしいデザインで、神も降りてこられる所だが、
古代祭祀線を考える時には除外したほうが安全かもしれない。
六嶽神社の参道とラインがずれるのは時代が違うためだろう。

高宮祭場の参道を延長したらピークがある。
氏八幡神社の参道を延長するとそのピークと交わる。
そこが「古高宮」だ。
そこが最初の祭祀点ではないかと思われる。

以上、地元の情報をここに記しておこう。
チェリーさんの参考になればと思う。

マップの赤が古高宮(祭神大国主命)青が高宮祭場(昭和のもの)





              (つづく)


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by lunabura | 2015-11-23 21:05 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(92)

脇巫女 8 ジングウコウゴウ


脇巫女 8
 WAKIMIKO
ジングウコウゴウ

 
<ジングウコウゴウは「もののべ」に守られ戦いへ・・・>

星読は、ヤマトタケルや神功皇后の時代がさっぱり分からないという。

それは当然のことだ。
有識者が「それは神話だ」「実在しない」と決めつけて
研究をすることから逃げて来たためだ。

しかし、当事者である九州にはおびただしい記憶が残っている。
その光と影、トラウマを明らかにする必要があるのだ。
それが今なのだと思う。

大地に刻みこまれた記憶を明らかにすることで、
謎が解ける人もきっといるだろう。



さて、ヤマトタケルと神功皇后は関わりが深い。

ヤマトタケルは神功皇后にとっては舅(しゅうと)に当たる人だ。
ヤマトタケルの子供が仲哀(ちゅうあい)天皇。
この天皇に嫁いだのが神功皇后だ。


ヤマトタケルの時代、鞍手においては、行宮を立てて歓待し、
ヤマトタケルが武内宿禰とともに戦いに出立したのを見送った。
それから数年経って、ヤマトタケルはここに凱旋した。

さらに数年経って、ヤマトタケルは死んだ。

その記憶もまだ新しい頃、その子が天皇となって皇后を伴ってやって来た。
このときも武内宿禰が同行していた。

武内宿禰が軍勢を自由に動かせたのは、本人が物部氏だったからだ。


仲哀天皇の足跡を確認しよう。

仲哀天皇が下関の豊浦宮から都を遷すとき、直接香椎宮へ向かわずに、
いったん遠賀川流域を遡り、中間市の島(埴生)に停泊している。

そこを拠点として飯塚(撃鼓神社)や田川(鏡山大神社)に
祭祀や武器調達や出兵の依頼や確認に行ったと考えている。

当時、遠賀川流域の船運を司るのは岡族・遠賀族だ。

町誌によると、鞍手族は広い意味でこの岡族に属していたという。

思いがけず、町誌に「鞍手族」という単語が使われていた。
今、考察中の「星読みの民」=「鞍手族」(國栖)と、
町誌の「鞍手族」とではニュアンスがかなり違う。
町誌の場合は「物部氏を含んだ、鞍手在住の各族全体」というニュアンスだ。

「鞍手族」(國栖)という名称をどうしようか。
これは変えねばならなくなるかもしれない。
本来の「星読みの民」と書くのが間違いがないのかもしれない。


さて、鞍手の問題を考える時、遠賀川流域全体も視野に入れる必要がある。

仲哀天皇やヤマトタケルを支援した遠賀川流域の氏族の名を
思い出すまま書いてみよう。

香月氏、物部氏、岡族(熊鰐)、安曇族、住吉族。

夏羽も支援者だったが、のちに殺される。
夏羽は景行天皇の子か孫ではないかという気がしてならない。

田原麻瑠は田川から神功皇后の遠征に参加し、
凱旋後は皇后の出産の宮を警護した。
その時に担当して持っていた白旗を大事に田川に持ち帰っている。

ヤマトタケルの孫の種日子王(香月氏)もまた神功皇后に従軍した。



この地方は古代氏族の名が具体的に残っていることに驚嘆する。


天皇と皇后は島にあったヤマトタケルゆかりの剣神社に参拝して、
虫生津(むしょうづ)という古代湊から上陸した。

古物神社に宿泊し、神崎神社経由で白山嶺を越えて宮若市に向かった。

この時代の鞍手の物部氏は新北(にぎた)物部が中心である。



神功皇后の話は語り出すときりがない。
ほどほどで三番目の託宣の解釈を終わりにしよう。
星読は次々に続きを書いている。

この先はいよいよ、星読の世界を描き出すことになる。

                      (つづく)






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by lunabura | 2015-11-22 23:59 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(3)

脇巫女 7宇佐の姫大神 


脇巫女 7
WAKIMIKO
宇佐の姫大神


星読の託宣はまた時代を変えた。

<「もののべ」によって星読みの民はこの地を追われ宇佐へ
          ・・・・姫大神となった三女神>


「星読みの民」すなわち鞍手族(國栖)は
「もののべ」の上に君臨していたはずだが、その「もののべ」から追われたという。
そして、宇佐に至り、姫大神となった。

宇佐の謎であるヒメ神とはやはり三女神だったのか。
星読はたぶん、ヒメ神が謎の神だ、ということなど知らなかっただろう。

私も、これまで注意して各地の祭神を確認していたが、
すべてが宗像三女神としていた。
ここに星読の託宣と各地の伝承は一致した。

しかし、私の中にはまだ受け入れられない部分が残っていた。
頭ではすごく納得しているのだが。


それにしても、鞍手でいったい何が起こったというのか。
「星読みの民」は何故追われたのか。
星読のリーディングを待つしかないが、私は別の件で驚かされた。

それは、占星術の件だ。

あの真鍋大覚が、宇佐神宮の託宣は占星術で占われたと書いているのだ。

宇佐に逃げ込んだ「星読みの民」の占星術が花開いたというのか。

真鍋によると、
宇佐と出雲はもともと同族で、のちに分かれたらしい。
その証が四拍手なのだろうが、
このときの出雲とは遠賀川流域と私は考えている。

「星読みの民」は湊を造成する技術もあったため、
物部の手が及ばぬ宇佐に受け入れられたのかもしれない。

何としても、真鍋の伝える渡来人たちの全容を知りたいのだが、理解が困難だ。
今日、関わる部分だけ、抜いてみることにした。

八幡は舟人で、太白暦(金星暦)だった。のちに八幡は宇佐と結託する。

後には河童と呼ばれる國栖(鞍手族)は「つき人」と呼ばれ、太陰暦(月暦)だった。
國栖は磯城(しき)という石積みを作った。

石上(いそのかみ)は磁針作成の達人で、やがて舟人の八幡と結束する。
石上は物部のことだ。

同じように星を観測する民であっても、
「暦を作る物部」と「占いをする八幡や國栖(鞍手族)」とでは
理解し合うのは難しかったのかもしれない。



2015年11月20日

                 (つづく)






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by lunabura | 2015-11-20 23:49 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(13)

脇巫女 6 ヤマトタケル


脇巫女 6
 WAKIMIKO
ヤマトタケル


前回の二上山の件で、tatsuさんが、
六ケ岳からの日の出のようすを作図してくれた。


c0222861_21245595.png

六嶽神社から六ケ岳の日の出を観察すると、このように見えるという図だ。
冬至になると六ケ岳の右の鞍部から見事に昇ってくる。

また、夏至も目当ての緩やかな鞍部から出てくる。
これは2015年、すなわち今年のシュミレーションだが
古代もほぼ変わらない。

ここは古代の天体観測所だったものが、神社となったと考えていいだろう。
周囲より少し小高い丘にあったと記憶している。


「市杵島姫」を象徴する「ひめこそ」の星とは彗星のことなので、
ある時代に彗星が確認されたのかもしれない。

鞍手の古物神社とは、「降るもの」神社という意味で、
隕石落下を彷彿とさせる伝承を持っている。

隕石から鉄を取り出す技術を持っていた物部氏と三女神の降臨が
ここでつながるようなイメージをさそう画像だ。
Tatsuさんの協力に感謝したい。



さて、託宣に戻って解釈を進めよう。
短い託宣なのに、当方が言葉があふれ出して、思いがけない長文になっている。
思いつくことが多々あるのだ。


<ヤマトタケルはなぜ「くらて」に立ち寄ったのか
   勝利を祈るためか
   戦いの時期を聞くためか
ヤマトタケルは戦いの民でもある「もののべ」に、
クマソタケルに嘘の報告をさせ勝利した
    大和の高い位をその報酬として・・・・・>

ヤマトタケルは鞍手で歓待を受けている。
この時代は小碓尊(おうすのみこと)という名の時代だったはずだ。

彼の父が景行天皇だ。九州を回って各地の邑を支配下におさめていった。

小碓尊は父が征服し得なかった部族たちの仕上げの討伐に
差し向けられたのではないかという印象を持っている。

鞍手は物部が天皇家を支えていたので、軍備を整えて小碓尊を迎えたと思う。
当然ながら星読の疑問にあるように、
「星読みの民の長」に戦いの時期を尋ねたりもしたことだろう。

ヤマトタケルは「もののべ」に嘘の報告をクマソタケルにさせたという。
この報酬が高い位だったという。

この時代、奈良の方はまだ発展しておらず、
「大和の地位」とは九州の範囲内だと私は思っている。

景行天皇の都は旧京都(みやこ)町にあった。
福岡の東部だ。

この続きは佐賀に出てくる。
クマソタケルと戦うのだが、その戦地が佐賀だったのだ。
いや、戦わずに敵を殺した話は有名だ。

佐賀市大和町大字川上大願寺の伝承と「大和町誌」をみると
次のようなストーリーとなる。

熊襲タケルは筑紫を根城にして北部九州をおびやかしていた。
この「北部九州」という表現は一般に佐賀も含むので矛盾があるが、
多分、佐賀から見て北の方という意味だろう。

筑紫には筑紫城があったと日本からの使者が中国に報告しているので、
その付近かと思うが、まだ見つけ出していない。

そこで、ヤマトタケルと熊襲タケルは一度会っている。
その後、景行天皇は熊襲征伐を計画し、ヤマトタケルを大将に、
弟彦王を副大将に、武内宿禰を補佐役として、筑紫の穴倉陣に攻め入るが
クマソタケルは逃げ去った。

そして、佐賀川上に潜伏しているのを知ると、舟で近づき、女装して宴会に入り込む。

二太刀目で急所に決められた熊襲タケルはヤマトタケルに
倭健(ヤマトタケル)という名を贈り、自らは川上姓になったという。

このとき、ヤマトタケルは16歳。武内宿禰は14歳あたりか。


こんな話を私は星読にした。それは初対面の日だった。

星読はヤマトタケルが実在するかどうか疑問だと言ったことから、
こんな話をしたのだが、
私が「殺されたクマソタケルたちの方の思いを考えると、」
と言うと、星読の潜在意識の感情にスイッチが入ったようだった。

星読のふるさとはクマソタケルのふるさとでもあったのだ。
滅ぼされた一族の心をわが心としたようだった。


過去世と現世の記憶の回路をつなぐスイッチ。

それが「感情」だ。

オーラに「負の感情のアイコン」があって、それに触ると
いきなり過去世の心の嵐にリンクするようなものだ。

その負の感情を浄化しないと、同じことが繰り返される。
だから、歴史を知り、自分の過去世を知る必要があるのだ。

そして、その夜、星読は覡(おかんなぎ)のスイッチが入った。
託宣が始まったという。

星読の実名の姓は物部系だ。
物部氏は伝統的に男が神降ろしをする。



さて、ヤマトタケルに関して、私は以前、夢を見ていた。
「夢見力」の方に書いていたので読み直すと5年ほど前の記録だ。

このとき、私は鞍手との縁を得たのが今になって分かった。
その時の記事を書こう。

◇◇ ◇
「青い目をした青年」

『古事記』を読むと、古代に天皇が何人も九州にやって来ては
まつろわぬ者と戦っています。

(勝ったとしても、征服して統治するには、都から遠すぎるのになあ。
いったい、何を求めて戦うんだろうか。)

そんな事を考えていて、
「ああ、金属の利権を確認するためだ」と思い当りました。
「鉄や銅を求めての戦いなんだ」と。
でも、これを証明するには、途方もない研究が要る…。

そう思っていたら、『ひもろぎ逍遥』のコメントで、
マリリントリさんが谷川健一氏の『青銅の神の足跡』『鍛冶屋の母』
を教えてくれました。
それを読むとヤマトタケルの東征ルートには鉱山がある事が
すでに証明されていました。
ああ、やっぱりそうなんだ。

その夜の夢が、これです。

青い目の青年の顔が出てくる。髪は剛毛で、ラフな感じ。
そのそばにもう一人の青年がいる。彼をサポートする人か。

その後で古地図を見せられる。日本の東半分だ。
「ヤマトタケルの東征のルートだ。やっぱり金属だ。」と思う。


e0184648_23585962.jpg

イラストに書いている「青人草」とは古語で、
「青い草のように旺盛な生命力のある人々をさす言葉」と言われていますが、
眞鍋大覚氏によると「青い目の方」という意味だそうです。
クサとは敬称です。

ヤマトタケルは目が青かったのかな。
それで、父天皇から疎まれたのかなと、思いました。
どうせ、夢です。歴史的事実とは全く関係ないですョ。

見知らぬ青年の顔を夢に見るのは珍しいので、描いてみました。
描くとかなり違う顔になってしまいますが、これで忘れる事はありません。
ちなみに、右下は自分のつもりですが、全く似ていませんよ。
夢ですから。ふふふ。好き勝手に描いてます。

前回「八剣神社」のデジャヴを書いたので、
しばらくは自分の夢を書かなくてもいいかな、と思ったのですが、
昨日友達と会って、またもやヤマトタケルの話が出て来たので、
(今度はこれか…。ハイ書きます)と思いながら書いています。
八剣神社は彼が熊襲に往復する途中に滞在した所だったのです。

ヤマトタケルは熊襲タケルをだまし討ちにしてるんですね。
現代語訳しながら、結構気分が悪かったです。
彼は最期には伊吹の神をあなどったために、病気で死んでしまいます。
実際には、伊吹には鉱山があるので、水銀の毒で水俣病にかかって
亡くなったんだろうと思っています。

今年から小学校の教科書にヤマトタケルが載るそうです。
「歴史事実ではなく、神話として教えないといけない」
とマスコミが書きたてていました。
でも、そう言う人たちは、自分で調べたのかな。
「ヤマトタケルは実在しない、ただの神話だ」と公言するには、
日本中に残る彼の伝承を全部否定出来てからでないと、それこそ非科学的です。

まずは、『古事記』を読みましょう。
そして、伝承の地を訪ね、耳を傾けましょう。
そこに立てば、新しい風景が見えて来ます。

ちなみに「ヤマトタケル」は「日本男児」程度の普通名詞です。
『古事記』に出てくる彼の名は小碓(おうす)の命といいます。


◇◇ ◇
こんな記事を書いていた。
やはり、記録しておいてよかったと思う。

ヤマトタケルの目が青いかどうかは永遠の謎だが、
「青人草」の名は磐井の乱の時代の記録にも出て来た。

磐井の死後、葛子がすぐに命乞いをしたように『日本書紀』には書かれているが、
そうではなく、筑紫では同時多発的に反乱を起こしている。
その一部族として青人草の名も挙げられていた。

筑紫(ちくし)はある時期まで渡来人による多部族の連合国のような
形だったのではないかと思われた。

夢の中の後ろの人物は、佐賀の伝承を知って、武内宿禰だと分かった。
ヤマトタケルと武内宿禰が一緒に佐賀に侵攻した。
こののち武内宿禰は物部氏の筆頭となる。

さて、この話と星読の託宣はつながるのだろうか。
補い合うようなら、面白い。



また、前文に出てきた「八剣神社」についても再掲しておこう。

◇◇ ◇
デジャヴ (八剣神社にて)
初めて訪れた福岡県の八剣神社の、階段を上り始めたとき、
「あれ、ここ初めてじゃない。」
と思いました。
石段の両脇には提灯を灯すための棚がずらりとあります。
かつて、別の神社で元旦の0時を待って行った、
夜中の参拝を思い出しました。
「この感じ、なんだか覚えてる。」

そして、次の古い鳥居を過ぎて、境内に出てびっくり。
境内には沢山の灯篭や狛犬がありました。
石ごけがついて、いかにも古い感じです。
「ああ、やっぱり知ってる。」
そう、またデジャヴです。夢で見たのをはっきりと思い出しました。

e0184648_14203364.jpg


この感じ。
夢のストーリーを思い起こすと、
石灯籠のいっぱいある、古いお宮をに行って、
それからその右の方に出て、どこかに向かって歩いていく夢でした。
数年前の夢です。

思い返すと、現実の八剣神社そのものではありませんが、
夢の持つ特有の匂いとでもいうのでしょうか。
それが、この神社を暗示していました。

そして、「これを出しなさい」という内なる響き。
この印象がいつまでも消えません。

現実では、『ひもろぎ逍遥』で、八剣神社を書いたあと、
ようやく宗像神社と三女神の移動ルートをたどるつもりでした。
ところが、今度は「古物神社」という内なる響きに促されて、
急きょ行って見ました。
もう夕方でした。

古物神社は里山の、いかにも氏神様らしいたたずまいでした。
しかし、神社誌をひも解くと、古代の日本を知るのに大事なお宮だと
分かって来ました。
そして、ここに祀ってある十握剣から宗像三女神が生まれたのを知った時、
ああ、この順番でないと、いけないんだと納得しました。

結局夢の通りに八剣神社を書いて、古物神社を書く事になりました。
それから、宗像三女神です。

さて、この神社の歴史的な重要性を、どこまで筆で表せるのかなあ。

そして、この記事の投稿で、「出しなさい」という声は消えるのでしょうか。

◇◇ ◇

今読み返すと、
あの時から、三女神の問題が与えられていたのが改めて分かった。

星読の託宣に出て来た「われ」は、
私に筑紫の古代史を導いた存在の一柱だったのかもしれない。

これまでは孤独な探索だったが、
今回は星読や七色の協力を得て、さらに具体化できそうだ。
 (つづく)






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by lunabura | 2015-11-19 21:36 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(8)

脇巫女 5星読みの民の天文観測所


脇巫女 5
WAKIMIKO
星読みの民の天文観測所

「鞍手と水摩・物部」という組み合わせを前回の末尾に書いたが、
よく考えると「3」で出て来た
「星読みの民」と「月守の民」・「物部の民」の組み合わせに近いのではないか、
と閃いた。

すなわち「鞍手族と水沼族・物部氏」の組み合わせだ。
これが正しいかどうかはいずれ明らかになるだろうが、
一応ここにメモを残して、この路線で考察を進めてみることにした。

星読と真鍋大覚の資料から描き出す鞍手町の古代について再現すると、
近東を起源に持つ渡来人がこの地にやってきた。
彼らは湊の建設ができて舟を操り、水の管理ができる一族だった。
彼らは「舟の民」という意味で「くら手」と呼ばれるようになった。

しかも鞍手族はエジプトかメソポタミアあたりで培った
星の観測と占いの技術を持っていた。
この地に受け入れられ、この地の長となった。
これが七色のいう「水を司る一族」であり、
星読がいう「星読みの民」のこととなる。

星を観測して暦を作る物部氏でさえも、その託宣を求める形で従っていた。
物部氏は託宣を聞くと、各地の王に結果を伝えに行った。

こんなストーリーだ。


「星読みの民」という言葉から、
天文観測所が鞍手にあるはずだという話になった。

観測の目当ての山として、三角錐の山型がよく利用される。

また、犬鳴連峰が日面見山(葛城山)とも称されるのは、
西から見て、日の出の観測にちょうど良い峰が並んでいるからだ。

そんな地形がどこかにないだろうかと話しながらも、
等高線のついた地図がなかったので、それは七色と星読の課題になった。
もちろん、六ケ岳の凸凹は一番気になる山型である。

もし目当ての山がなくても、吉野ヶ里遺跡のような高度な観測所の跡が
見つかればかなり面白い。

「吉野の葛」という言葉は「吉野の國栖(鞍手)」と同様の意味なので、
「吉野ヶ里」の天文観測所を設計したのは國栖(鞍手)ではないか、
という、私の中のかつての思いが再び浮上した。

吉野とは奈良と思い込んでいるが、
「吉野の離宮跡」が佐賀のダムに沈んでしまっている。
県議会で質問が出たと聞く。
先日亡くなった古田武彦氏率いる古田史学の会は
吉野は佐賀にあったという認識だと聞いている。

それでなくても、吉野ヶ里における弥生時代の天文祭祀は
紛れもない事実だ。

また、下関の仲哀天皇殯斂地は、真東に干珠満珠の二つの島が見えて、
冬至、夏至の日の出が島影を利用して観測できる場所なので、
天文観測所だという説を私は出している。
(これもまた、全く世間の反応はないが…)
それでも、こんな素朴な形でも観測所になる証拠だ。


もし、観測所が鞍手で発見できれば、祭祀線が冬至なのか夏至なのかと、
科学的に比較検討できることになる。

さて、それでは、星読の託宣の続きを検討しよう。

<その星読みが行われていた場所・・・むつが岳>

むつが岳は山名は「六ケ岳」と書き、神社名は「六嶽」と書く。

パソコンを変えたために文字変換を入力しなおさねばならず、
面倒で、ずぼらをしてどちらも「六嶽」で表記してしまった。
これからはきちんと区別しよう。(反省)


そして、この託宣を今読むと、
「その星読みが行われていた場所・・・むつが岳」
と、答えの一つがあっさりと書かれていた。

六ケ岳山頂には何らかの観測施設があったと考えられる。
星読は私の過去記事の中に、「六嶽神社の上宮が分からない」
と書いた文を見つけて、探し出してくれていた。
それは六ケ岳ではなく、すぐ近くの別の独立峰にあった。

そこからだと、六ケ岳の稜線を利用した観測が出来そうな気もする。
まずは、よい地図を手に入れなくては。

そして、tatsuさんから応援メールがあって、
六嶽神社から六ケ岳は日面見山としての位置にあることを確認し、
山頂にシリウスが出る時代を特定していた。

これもまた、のちに掲載することにしよう。

るな的には、二つのピークの間にある鞍部の星の出、あるいは日の出が気になる。
凹のくぼんだ所から出る天体の観測が古代においてのキーポイントだ。
二上山の形状が愛されるのは観測がしやすいからだと思っている。

いずれにしろ、六嶽神社もまた天文観測所としての調査対象となった。


さて、託宣の続きを読もう。
<むつが岳・・・三女神天降の地

三女神の一人が「卑弥呼」

三女神は三人の「卑弥呼」

「ヒミコ」・・・・・「姫巫女」

「卑弥呼」は歴代の「ひめみこ」のことで一人ではなかった>

六ケ岳が三女神の降臨の地ということは当ブログでも何度か紹介した。
大阪のブログ友はこれを見て驚き、疑ったが、
この話はこちらでは普通の伝承なのだ。
鞍手神話が世に出ていないだけのことだ。

託宣では「卑弥呼」とは「姫巫女」のことだという。
三女神はヒミコと呼ばれる巫女だったということになる。

(つづく)



※ 今日はコメントの返事できそうにもありません。
後日いたしますので、よろしくお願いします。






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by lunabura | 2015-11-18 20:23 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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