ひもろぎ逍遥

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<   2016年 01月 ( 26 )   > この月の画像一覧

馬上の武人3 百済の武寧王


馬上の武人3
WAKIMIKO
 百済の武寧王


物部麁鹿火
(あらかひ)の娘婿は大伴金村(かなむら)に殺された。
この二人の武将がのちに力を合わせて磐井君を滅ぼすことになる。

それに至るまで、どのような経緯を辿ったのだろうか。


麁鹿火の娘婿は平群(へぐり)の息子、(しび)だった。
金村が鮪を殺したとはいえ、それを命じたのは武烈天皇だ。

影姫は武烈天皇の物になったのだろうか。
その後のことは書かれていない。

武烈天皇は金村の勧めで即位したが、
皇后には春日郎子(いらつめ)を迎えている。




さて、『日本書紀』には武烈天皇の時代の「百済からの朝貢」が書かれている。

今回、確認したいのはこの「百済との関わり」だ。
何故なら、先々、大伴金村は百済政策で大失態をしでかすからだ。

鞍橋君百済王子と共に新羅と戦うようになった背景も確認せねばならない。



『日本書紀』から抜粋する。

武烈3年11月、百済の意多郎(おたら)が卒(しゅっ)し、高田丘に埋葬された。
―「卒」からは身分が高かったことが分かる。

武烈4年、百済では末多王(まったおう)が暴虐無道のために廃位され、
嶋王が即位した。これを武寧王(むねいおう)という。
—武寧王は唐津で生まれた。あとで詳述する。


武烈6年10月
、百済国は麻那君(まなきし)を派遣して朝貢してきたが、天皇は長年朝貢しなかったことを理由に留めて帰さなかった。


武烈7年4月、百済王は斯我君(しがきし)を派遣して朝貢した。
文書で「先の使者、麻那は王族ではなかったので、
斯我を派遣して朝廷にお仕えさせます」と伝えた。


武烈8年12月、天皇は崩御した。



以上、百済との関係の部分だけを書き抜いたが、
百済は日本に朝貢する立場にあることが分かる。

他の国との交渉は全く書かれていない。
もちろん中国との交渉も書かれていない。

また我が国は「倭国」ではなく「日本」と表記されている。

百済の朝貢記事が並ぶ中、武烈4年の「武寧王の即位」の記事が目立つ。
この武寧王は先述のように唐津で生まれた嶋王だ。

この嶋王誕生については、雄略天皇の所に書かれている。

<百済が献じた池津媛が天皇に召される前に他の男と通じたために殺された。

それを聞いた百済王・加須利君(かすりのきし)は「女はもう貢がない」と言って、
自分の弟、軍君(こにきし)に日本に行って天皇に仕えるように命じる。

軍君は承諾したが、王の妻を自分に与えてくれるように願った。
加須利君は妊娠している妻を与えた。
「臨月なので、途中で出産したら、母と子と一緒に帰国させてくれ」と言いながら。

6月1日に筑紫の各羅嶋で出産したので、「嶋君」と名付けて帰国させた。
「嶋君」が武寧王である。>

これを読むと、感想に困ってしまう。男女の問題は人それぞれだ。

今回のテーマは「百済の武寧王が日本で誕生した」ということを
確認したかったのだが、状況は意外だった。
こんな説明、某博物館に書いてあったっけ?
かなり表現を変えていたね。



さて、この嶋王の誕生の記事は近年まで疑われていたらしい。

「筑紫の各羅嶋」とは「唐津の加唐島」(かからじま)のことで、
その浜の名は「オビヤ浦」と伝わっている。
http://www.saga-shima-show.jp/kakara/

そして1971年、韓国では王墓が未盗掘の状態で発見された。
墓誌から、『日本書紀』の記事が正しいことが証明され、
韓国の『三国史記』の記述も正しいことが証明されるという稀有な例となった。
(もちろん、それぞれに異説はあるが)

しかも、王と王妃の木棺は日本にしか存在しない高野槙だったという。

韓国の観光サイト(日本語)
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=3149
を見ると、その黒い漆塗りの美しい木棺は何故か出ていない。


邪馬台国大研究
http://inoues.net/korea/buneiou.html
が詳しい。



このサイトによると、高野槙の棺の説明の日本語版はないが、
英語版があり、そこにはその説明が書かれているという。
お国柄が伺えて面白い。


この武寧王陵の発見により、日本と韓国の史料と出土物が一致し、
武烈天皇4年は西暦502年と証明された。


磐井の乱は527年。あと25年だ。
磐井君ももちろん活躍していることだろう。





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by lunabura | 2016-01-30 22:27 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

馬上の武人2 物部影姫


馬上の武人2
WAKIMIKO
物部影姫

物部麁鹿火(あらかひ)は磐井君を滅ぼしたのだが、
『日本書紀』を開くと、その娘が出て来た。
「影姫」という。

物部影姫は有名な女性のようだが、私は初めて知った。

武烈天皇のページは読みたくなかったのだが、
麁鹿火を知るために読んでみた。

武烈天皇の名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)で、
これ以外は見当たらない。
ここでは武烈天皇という名を使おう。
その皇太子の時の話だ。

父の億計(おけ)天皇(仁賢)が崩御したときに、
大臣の平群真鳥(へぐりのまとり)が自ら王になろうとした。

真鳥は皇太子のために宮殿を造ると言って、出来上がると自らが住んだ。

この頃、皇太子(武烈天皇)は物部麁鹿火の娘の影姫の評判を聞いて
媒酌人を通して妻問をしようとした。

ところが、既に影姫は真鳥大臣の息子の(しび)を迎え入れていた。
そこで、「海柘榴市(つばいち)でお待ちします」と返事をした。

歌垣の当日、皇太子は影姫と会い、袖を取っていると、
鮪が二人の間に割り込んだ。

皇太子と鮪は歌のやりとりをした。
そのあと、皇太子が影姫に歌を贈った。

「琴の音に魅かれて神がやってくるという影姫は
玉に例えるなら、僕の好きな真珠のようだよ」

影姫の代わりに鮪が歌を詠んだ。
「大君の帯が結ばれて垂れていますが、
私は他の方と帯をほどいて結ばれているのです」

その歌で、鮪と影姫が恋仲だと知ると、皇太子はその夜、
大伴金村連の家に行って鮪の討伐を命じた。

大伴金村連は数千人の兵を率い、乃楽山(ならやま)で鮪を討った。

影姫は追って行き、鮪が殺されるのを見て嘆き苦しんだ。

以上が、あらすじだが、一説には、
鮪が影姫の家に宿った夜に殺されたとも書いてある。

歌の中で影姫は鮪を「夫」と詠んでいる。
妻問の時代だから、夫と呼ぶのは当然のことだが、
今日は影姫のことではなく、
その実家が「麁鹿火」宅であることに注目したい。

本来、この時代に天皇の称号はなく、「王」「大王」と呼ぶ時代だ。

平群真鳥が実力で王座に着こうとしたことが分かるが、
息子の鮪(しび)と物部影姫が夫婦になっていたのだから、
物部麁鹿火と平群真鳥は手を結んでいたことになる。

鮪(しび)は物部の婿になった。
その婿(むこ)が殺されて、平群との結束は失われた。

麁鹿火の方は特段、お咎め無しだった。
しかし、娘婿を殺した大伴金村に対して、どんな思いを持っただろうか。

若い二人を通して新しい支配地図を描いていたいに違いない。
そんな未来が消されたが、
武力に勝る大伴に屈するほか、なかったのだろう。
麁鹿火の動向は描かれていない。

これが八月のことだった。

そして、11月11日に大伴金村連は皇太子に会い、
平群真鳥大臣の討伐を持ち掛け、
自ら大将となって真鳥の家を囲んで火をつけた。
真鳥(まとり)はついに殺された。

12月に大伴金村は皇太子に討伐の終了を報告した。
この時「政を皇太子に返した」と書紀は語る。

これは、やはり平群真鳥が一時期にしろ、
王座に着いていたことを表している。

金村はこのあと、皇太子に即位を勧めた。
こうして武烈天皇が誕生した。
金村はその日、大連になった。



平群氏はこれで滅んでしまったのだろうか。

調べると、殺された鮪には既に子供がいたらしく、
その末裔が名を残している。

平群氏については、
糸島南部から福岡市早良区に掛けて居住していたことが分かっている。

糸島に行けば、宇美八幡宮で真鳥の祖・平群木兎(づく)の末裔が
武内姓で宮を祀り続けている。

(宇美八幡宮は拙著『神功皇后伝承を歩く』上巻32の方)


これらは歴史には出てこない。
この逍遥で知り得たことだ。


※さて、馬上の武人を追って、鞍橋(くらじ)君の背景を探っている。
古墳時代の話は「馬上の武人」シリーズとして、
「脇巫女」の中で章立てすることにした。カテゴリは「脇巫女」に入る。




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by lunabura | 2016-01-29 20:36 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

馬上の武人1 饒速日の九代目


馬上の武人1
WAKIMIKO
饒速日の九代目 物部膽咋


2月の遠賀水軍の話の件は、まだ正式な依頼があっていないので、
詳細を告知できないでいるが、
今回の試みとして、列伝方式でやろうと思っている。

そこで、物部膽咋(いくひ)の拠点を探してみた。
「徳力」(とくりき)の地名の由来である「採り木」に関連するのが膽咋だ。
小倉(こくら)にある。

過去記事では「大元稲荷造化宮」としてUPしているが、
今は神理教の境内社となっているもよう。

そこで、神理教のHPを見ると、
膽咋は饒速日(にぎはやひ)の九代目と書いてあった。

膽咋は娘を景行天皇に嫁がせている。
また、山下影姫に武内宿禰が生まれると、
自分の妻の幸を乳母に差し出している。

この幸夫人が高良下宮社の幸神社の祭神だ。
武内宿禰を育てた人として、敬われたのだろう。

膽咋の娘が景行天皇に嫁ぐのだから、
神功皇后の時代には長老的な立場だということが分かる。

その膽咋が神功皇后を案内して徳力に連れて来ている。

目的は「採り木」すなわち造船のための木材調達ということだが、
大元稲荷造化宮の急勾配の小山はいかにも武器庫を思わせた。

膽咋は武器の準備の進捗を皇后に見せたのだろう。

この時には阿部高麿・助麿兄弟が護衛をしていた。

残念ながらこの兄弟は数年後に新羅が皇居を襲った時、
天皇と皇后を守って戦死した。
この時の皇居は、もちろん下関の豊浦宮(忌宮神社)だ。
決して奈良ではない。

戦死した兄弟は宮地嶽神社の失われた祭神だった。
だから、安曇族だ。

この時代は物部氏と安曇族は蜜月だったようだ。




このあと、物部氏の十九代または二十代の頃に磐井の乱があった。
膽咋の末裔は物部麁鹿火(あらかひ)側についた。

これは香月氏と同じだ。
香月氏も饒速日の末裔だった。
そして麁鹿火側についた。



――安曇系の磐井と饒速日系の物部の戦い。
そんな縮図が透けて見えてくる。

『日本書紀』を読むと、
継体天皇側と磐井側は、山を隔てているが、海は隔てていない。
同じ陸の戦いとしか解釈できないのだ。

これは何を意味するのか。
筑紫と豊の戦い。
それが磐井の乱だったのだろうか。

ところが、豊側の継体天皇と麁鹿火が次々に死んで
戦いはうやむやに終焉してしまった。

そして、少々変化しつつも元の棲み分けに戻った。

そんな世界が見えて、茫然とする。




神理教




追記
「馬上の武人」シリーズを新たに立てて古墳時代の歴史を探る。
カテゴリは「脇巫女」。



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by lunabura | 2016-01-28 22:30 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(2)

脇巫女 40 筑紫君磐井と鞍橋君


脇巫女 40
 WAKIMIKO
筑紫君磐井と鞍橋君


鞍手には大きな古墳が二つある。
新延大塚古墳(6世紀後半)と八尋1号墳(6世紀末)だ。

後者の八尋1号墳は銀冠塚古墳とも言い、破壊されてしまっているが、
その石室の土の中から銀の冠が出てきている。

二つの古墳の距離は二キロほど。
築造時期が近いので両雄はお互いの事を知っていただろう。

消失した八尋古墳1号は観光マップからも消えている。
一行の記述もない。
そこには今は県営住宅が建っているらしい。

夢に出て来た「馬上の武人」は、この銀冠を持った八尋一号墳の主ではないか
という思いがある。
証拠はない。
漠然とした思いだけだ。

そして、それは鞍橋君(くらじのきみ)ではないかという思いも消えない。
そう、百済王子と共に新羅に侵攻して籠城し、敵を打ち破った武将だ。

この状況が「私たちは国のために戦ったのだ」という武人の言葉を
よく説明しているのだ。

武人は「鷹ノ口おだ山」の前に立っていた。
そこが「星読の託宣」と「私の夢」の接合点でもあった。

イチキシマ姫と鞍橋君は400年ほど差があるのだが、
武人はその禁足地を守り続けていたのかもしれない。

取っ掛かりとして、
「馬上の武人」=「鞍橋君」=「八尋古墳一号の被葬者」
という仮説を立てて追ってみようと思う。

違っていれば、それはそれで収穫がある。


この鞍橋君は筑紫君磐井の孫にあたる人物だ。

鞍橋君に「君」の字が付けられているのは、磐井君の末裔だからだろう。
磐井君については『日本書紀』では「筑紫国造磐井」と低い身分にしているが、
『古事記』では「竺紫君石井」(ちくしのきみいわい)となっている。
身分が全く違う。

これについては『古事記』に軍配を上げている。

何故なら、磐井君が物部麁鹿火や大伴金村らに滅ぼされたあと、
『日本書紀』では葛子が「筑紫君」になっているからだ。

逆賊の国造の子が「筑紫君」になれるはずはない。
『日本書紀』は嘘をついたが、自己矛盾の修正に失敗した。

もともと磐井君は「筑紫君」だったのだ。

しかも、通説では磐井君は「新羅寄り」というが、
自分で読んでみると、その解釈は不可能だ。

すぐに戦わなかったから「新羅寄り」と解釈するのは論理的ではない。

「新羅と戦え」と言われてすぐに戦えるはずがない。
海外で戦うのに軍備にどれだけの時間が必要か。

仲哀天皇でも8年の歳月をかけて造船も含めた軍備をしているのだ。

これまでの通説を捨てないと真実は見えてこない。









これは掲載済みの鞍手町誌の系図だ。その下の方を拡大してみた。

c0222861_2164198.png

青い色の系統が香月氏。
紫の系統が筑紫君。安曇系だ。

青の方に物部麁鹿火と大伴旅人の名が見えている。
これは継体天皇との深い関わりを示している。


葛子は磐井と香月氏の通婚による子供らしい。

かつては筑紫と豊の国は棲み分けをしていたが、
それが対立に変わろうとした時、
危機を避けるために磐井と香月が通婚したのだろう。

しかし、香月の養子の倭男人が麁鹿火に付いて戦いとなり、
磐井が敗戦。

その後、葛子たちは弔い合戦をして麁鹿火たちに勝利、
葛子の子供たち勝村・勝頼兄弟は宮地嶽神社に拠点を持ち、
鞍橋君が熱田神社を奪還。

そんな流れが各神社縁起から掘り起こせた。
これを証明したのが次作の「宮地嶽神社と筑紫君磐井の末裔たち」だ。

この「脇巫女」では鞍手の鞍橋君に焦点を当てることになる。







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by lunabura | 2016-01-26 21:08 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(17)

脇巫女 39 ターゲット


脇巫女 39 
WAKIMIKO
ターゲット


  星読によると、昭和36年の航空写真が見つかったそうだ。
「鷹ノ口おだ山」の当時の山の形と現在のものはかなり違っているらしい。

その理由は、田を作る時に土を採ったからだという。
これは、各地でよく聞く話だ。

なるほど、「鷹ノ口おだ山」の輪郭がリアス式海岸のように
出たり入ったりしているのはそれが原因だった。

星読によると、航空写真には頂上部にT字型の人工物らしきものが見えるという。
さらに下がった所にも。

これを持って今週は聞き込みに入るということで、
この写真と聞き取りを照合すれば、
ターゲットがかなり絞り込めると思われた。


あとは、次の時代。
「馬上の武人」の時代を把握する必要がある。

2月には遠賀水軍の話をするのだが、
冒頭は南朝鮮にある前方後円墳の話から始まる。

鞍手は遠賀水軍に含まれるそうだが、
古墳時代に遠賀水軍が朝鮮半島に派遣されたという事実は
馬上の武人の「私たちは国のために戦ったのだ」
という言葉の背景を知ることになる。

歴史的な勉強を中国史も含めてしなければならないようだ。






鷹ノ口おだ山









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by lunabura | 2016-01-25 21:22 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(2)

雪籠り



今日は朝から吹雪でした。
その中で、町内のゴミ分別収集の当番。
一時間半でしたが、沢山着込んで立ち番しました。

外で働く方々は大変でしょうし、
古代の人々はなおさら。
どうやって寒さをしのいだのか、
人間の生きる力の底知れなさを思った一日でした。

星の観測は倭国では数分置きのデータを取っていたという
研究論文もあるので、星読みの民は想像を絶する我慢強さです。

明け方まで一晩中観測するのですから。
ま、雪の日は観測は出来ないでしょうが。
雪が止んで凍り付いた世界を想像すると、
星の光も凍っていそう(´・ω・`)



今日は、遠賀水軍のデータをまとめていました。

仲哀天皇と神功皇后の時代に組織されたと思われる遠賀水軍ですが、
名前が分かっている人をざっと挙げただけでも十人ほどいました。

名前が分からない豪族も同じくらいいます。

鞍手は話題の種日子王が三韓征伐に参加しているので、
父の御剣王や祖父の小狭田彦もまだ存命だと思われます。

豪族の長たちは大きな墳墓に埋葬されたはずですよね。
それぞれの地域の遺跡と照合できるようになれば
面白いなと思いました。





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by lunabura | 2016-01-24 21:44 | にっき | Trackback | Comments(2)

踏み出す



趣向が変わりますが、今日は
ヘミシンクの坂本正道さんを囲んだ席に集いました。

スピリチュアルの最先端は不思議に古代史に戻ってきます。


すべての方に内なる声が響いている時なのでしょうか。

歴史を知り、平和な日本を作って下さった人々をリスペクトし、
魂の浄化をする時が来ているんですね。

特別な人とかいない。

それぞれが内在する神の声に耳を傾け、勇気を出して一歩を踏み出す。
その積み重ねが新しい夜明けを生み出します。

決心したときに、嬉しいと思ったら正解。

私は昨日、依頼を受けて、遠賀水軍の話をすることに決めました。
決意すると、翌朝、その出だしのフレーズが浮かんできました。

詳細はまたUPしますね。


さて、聖なる幾何学模様を発見した古月さんが、
ついにブログを立てました。

「古月のおと」
http://furutsuki.exblog.jp/ 
です。

さあ、これで美しい幾何学は古月さんの直筆で。

るな的には伝承の方に力を入れます。






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by lunabura | 2016-01-23 23:58 | にっき | Trackback | Comments(3)

脇巫女 38 禁足地



脇巫女 38

WAKIMIKO
禁足地

四日前に遡ろう。

「馬上の武人」の背後にあった「鷹の口おだ山」が「禁足地」だった
という証言が得られた。

そして、鞍手町では開発するための組織が既に作られた事も分かった。

「禁足地」ということは聖地だったはずだが、
破壊を止めるには考古学的な発見がなければならない。

しかし、「禁足地」なので古墳のような副葬品は出ないだろう。
沖ノ島のように露天の祭祀場でもあれば良いが。


星読はこの「禁足地」の情報を得るために奔走し始めたが、
その時に託宣が降りた。

◇ ◇ ◇

<28.1.19>
「禁足地」それは朝廷が「封印」したい土地

神を「ヤマトタケル」に書き換えたように・・・・

再び、「封印」したいのか
それほど、わが力が怖いのか
ならばなぜ、わが地を奪ったのだ

「六」に仕えし者たちよ、今こそ集え

「八」に惑わされし者たちよ、その基をみよ

◇◇ ◇

禁足地になった理由は、そこでイチキシマ姫が
殺されたことによるものだという。

この事件のあと、大災害が続いた。

それを畏れた者たちは「鷹の口おだ山」を禁足地にして祀ったのだろう。
それでも足らずにイチキシマ姫を沖ノ島に封印した。

その沖ノ島が世界遺産に登録されようとしているため、
神々がざわついているという話が周囲に出始めている。

沖ノ島は「お言わずの島」なのだ。
世界に公開してはならない島なのだ。

沖ノ島の危機と共に「鷹の口おだ山」が破壊されようとしている。

だから、託宣が降り始めたのだ。


<神を「ヤマトタケル」に書き換えた>
ということは、ヤマトタケルを祀っている神社は
もともと「月守の民」や「星読みの民」の聖地だったということを意味する。

昨日、斉明天皇が祈った聖地を推測した基準は
実はヤマトタケルを祀るかどうかということだった。
「木月剣神社、八剣神社、熱田神社」

これらの古層には、月守の民たちの祀りが存在したのだろう。


託宣は「六」に仕えた者に集え、という。
「八」に惑わされている者たちにも、気づきを求めている。

「六」とは何か。
「八」とは何か。

星読に尋ねると、すぐに返事があった。

◇ ◇ ◇

<古物神社・・・「ふるべもののべ」
 六嶽のタタラで製鉄の技術を覚え、
「月守の民」を守るために人目に付きにくい山すそで
ひっそりと武器を創っていた者たち


六嶽神社・・・お札は五角形
 五角形のお札!
 収まりが悪いと思っていたが・・・意味があった・・・五芒星
 今頃気付いた・・・遅し!


「六」は六嶽・・・「星読みの民」「月守の民」とそれに従う者たち
「八」は八剣・・・朝廷側の者たち>


◇ ◇ ◇

「六」と「八」。
星読の答えは明確だった。

六嶽すなわち姫神たちを祀る人々が「六」
ヤマトタケルの味方をした人々が「八」

ヤマトタケルが西や東のクマソを滅ぼして短い一生を終えたあと、
息子の御剣王が戻って来て、尺ノ岳と新北で父を祀った。

これが封印の始まりか。
この頃、六嶽神社の祭祀も小狭田彦すなわち朝廷側に取って代わられた。

物述たちの中には小狭田彦に従わない一族もいただろう。
物述は小狭田彦の「八」と、古い物述の「六」に分裂していった。

結局は、物述は同根だ。


「お言わず」としたために、その歴史も忘れ去られた。

しかし、今「六」でも「八」でもない時代が来ている。

すべての分裂は統合され、融和し、新しき融合の世界を作る時が来ているのだ。

転生を思い出せばわかる。
敵にも味方にも転生するのだ。
他民族に憎しみを持てはその対象に生まれ変わる。
それだけのことだ。


数千年もの間、転生を繰り返すうちに、敵も味方も己が魂に内在していく。
誰かに恨みがあるとすれば、その対象は外ではなく
自分の中に既に存在している。

どうしたらいいか。
それはすべての過ちを許すことだ。
そこから、道は始まる。







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by lunabura | 2016-01-22 19:24 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

脇巫女 37 額田王の鏡


脇巫女 37
WAKIMIKO
額田王の鏡

 

2016年1月21日
未明、夫が寝ている時、次のような言葉を言った。

「宮殿の準備が整いましたので、移られますように」
というような内容だった。
寝ながら誰かにきちんと話している。


これを聞いたとき、豊日社が浮かんだ。
それから、「女帝」に対しての言葉だと何故か確信した。

女帝。

豊日社と関連する女帝とは誰だろう。
ヒントは豊日社で物部が話題にしていた額田王だった。

そうすると、女帝とは斉明天皇のことになる。
何故なら、その子、中大兄皇子が中間市の磐瀬宮にいたからだ。

中大兄皇子がそこにいたということは、
当然ながら斉明天皇も滞在したということになる。
そして、額田王も。

斉明天皇は唐・新羅と戦わねばならなかった。

筑紫に入ると、新羅に勝った神功皇后の旧跡を回って、
同じように戦勝祈願をしたことだろう。

斉明天皇の安全が保障されているという事は、
この地域に物部氏がいたからに他ならない。

天皇は磐瀬宮を拠点に小舟に乗って鞍手の奥深くまで入り、
剣神社、八剣神社、熱田神社でも祈ったのではないか。


その名残が豊日宮の額田王の鏡の件だと思われた。

本人が猿田峠まで登って来たという訳ではないが、
彼女の祈りが込められた鏡があったのだろう。

そうして磐瀬宮から朝倉の橘広庭宮へいよいよ遷宮するときの奏上が
「宮殿の準備が整いましたので、移られますように」
という言葉ではないかと思った。


額田王の鏡は誰かが見つけるかもしれない。





さて、豊日社に集結したという二百人の物部を恐れる必要はない。
その日は、物部の言葉を理解する人たちが三人もいたから、
彼らは集結したのだ。

移されたご神体の行方も、翌日、無事に氏子に伝えることが出来た。

集落と神社が道路や運動施設で隔てられたために
心が離れてしまったのだろう。

人々の感謝の祈りこそ、聖地を守る力となる。
思い思いに参拝することが物部の思いに応えることになるだろう。


さて、豊日社が鞍手を守る聖地だと聞いて星読が早速参拝した。

そして、星読はそこに落ちている瓦が
六嶽神社の神紋に似ていることを発見した。

そのあと、古物神社にも行って、やはり同じような神紋に気づいた。




古物神社(ふるべもののべ)
c0222861_20115138.jpg

在庫を探すと、一枚だけ写っていた。三つ巴の周囲に12の丸が巡る。






次は六嶽神社(むつがたけ)
c0222861_20122528.jpg

三つ巴の周囲に9つの丸。


丸の数に9と12の違いがある。
六嶽神社は丸瓦の上の瓦の形も特徴的だ。
龍が上を見ているように見えるが、なんだろう。


ところで、豊日社の丸の数はいくつだったのだろうか。




赤 猿田峠  青 磐瀬






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by lunabura | 2016-01-21 20:17 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(15)

脇巫女 36 豊日社


脇巫女 36 
WAKIMIKO
豊日社

 
昨夜投稿した「脇巫女35」を今朝、いったん非公開にした。
掲載の許可を物部の件に関わった二人からもらっていなかったためだ。

今朝、許可をいただいて、再び公開することになった。

昨日の記事はハンドルネームに差し替えた。


なんと、その記事を見て、逆に、これまでの話を伝えたいと言われて、
急遽、菊如(きくじょ)の家に伺うことになった。

愛音(あいね)が車で迎えに来てくれた。

「猿田峠」を通って行くという。



この話を書いたあと、すぐに当事者に会いに行くのだ。
何らかの意味があるのだろう。

豊日社がどうなっているのか確認したい、と言うと、
愛音は快く車を止めてくれた。


鳥居の右手には猿田彦大神が祀られている。

菊如によると、ここは埋もれていたのだそうだ。
落ち葉に埋もれていて倒れていたものを復活させたという。

当時は鳥居の先にある石段もかすかに分かるような状態だったという。


菊如が語るには、そもそもの始まりは、
「六柱の猿田彦を探せ」と告げられたことだった。
苦労の末、六柱とも探し出してここに合わせて祀った。


今日、小雪が舞い、大風が吹く中、石段を見上げると薄暗い。

が、石段を見ると元気が湧く、変な体質になった私の足は
勝手に石段を堪能しようとする。



落ち葉はあるが、思ったより新しい葉で、きれいにしている。
雲が切れたか、薄日が石段を照らし始める。

途中に巨大な磐座があった。





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祭祀の始まりはこの磐座だったのではないか。




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磐座を迂回しながら頂上に出ると、フラットな境内が広がり、
祠にだけスポットライトのように日が差していた。

正月を迎えるために清められたのだろう。
すがすがしい境内だ。

境内の形は、これまでも何度も出合った稲荷らしき空間だ。
武器庫でもあったかもしれない。

ここは「豊日社」。
祭神は不明だが、豊受の神とも縁があると言う話だった。

当初、祠も破れていたのを菊如が新しく奉納したという。


地名は「吉留」(よしとめ)
神々が留まるのに良き地なのだ。

祠が破れていたとき、ご神体石はある所に預けられ、
保管された。
その場所も伺った。

昨日の今日、このように豊日社のいわれを伺うことは、
ご神体石が新しき祠に戻り、氏子の方々に祀られることを
神は待たれているのではないか。
そう思われた。
あとは関わる人がどう動くかなのだろう。
私の役割はブログを通して、ご神体石が何処にあるのかを、
氏子さんに伝えることなのだろう。


菊如が探させられたのは六体の猿田彦だけではなかった。
それ以外に、八本の剣、干満の珠などなど、数々の神器を探させられたという。

それをすべて探し集めて、伊勢と出雲の遷宮の時に、
奉納したという。
それらは、この鞍手や宗像を中心とした筑紫にあったものだった。
もちろん、凡人の私の目には見えない神器の数々だ。

私がブログを書くことを知っていての、菊如の招きなのだから、
その話を公にしてよいということだ。
おいおいと、流れのまま書き進めようと思う。

書くことが多くなりすぎて、逆に書けない状態になりそうだ。
これからは秩序なく、バラバラに書いていくことにしよう。
とりあえず、書き留めておくスタイルが無理がない。




七色が二本の杉の間の情報が欲しいという。
そんなの分かるはずがない”(-“”-)”

取りあえず、反対側を撮ってみた。
数本の杉の間に、山頂が見えたのを載せておこう (´・ω・`)



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豊日社に向かう参道だったのでは?
今は車道が横切っている。









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by lunabura | 2016-01-19 21:46 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(33)
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