ひもろぎ逍遥

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<   2016年 10月 ( 19 )   > この月の画像一覧

日向星(ひむかみぼし)スハイル星 冬至、春分の目安星



日向星(ひむかみぼし)

帆座 アル スハイル アル ワズン
冬至、春分の日の目安の星
 




太陽を観測するだけではどの日が冬至か、夏至か、あるいは春分、秋分か、
目測では決め難い。

暦があるからこそ、観測できるものだ。

特に、太陽がUターンする夏至や冬至は振り子が止まって見えるように、
留まってみえる(だろう)。

(だろう)というのは、寝坊助には観測の経験が無いから(^^;




古代の人はどうやって見定めたのか。

星見の物部はこれに星の観測を組み合わせていたという。
その時を告げる星を日向星と呼んだ。

学名でアル スハイル アル ワズン。
略してスハイル星という。

以下、『儺の国の星拾遺』から


<冬至>
神代の昔、遠い祖先は暁方にこの星が南の果てに上がるのを見て
冬至の日を見定めたと語られている。

やがて朝日が上がるのを家屋の左端に望んで、
春を待つ心によろこびを感じたと語られている。

今は赤緯歳差で南天の彼方に去ったが、
古今和歌集の頃は大寒厳冬の最中になっていた。

氷上星(ひかみのほし)、或いは氷室星(ひむろのほし)
日甦星(ひのかわりぼし)、氷川星(ひかわのほし)がこれであった。

<春分>
また暮れ方のまだ明るい春霞の彼方に
彼岸の中日に眺めることが出来たところから、
中日星(なかびのほし)、或いは日拝星(ひおがみぼし)、
日向神星(ひうがみぼし)などの名もあったという。

<道真公>
延喜式以降、筑紫では天神星(てんじんのほし)の名が
いつとはなしに出来上がった。
菅原道真の命日に見えたと伝えられる星であった。

<立冬>
今から1994年昔は、
明け方にこの星が有明の干潟の彼方に上がる日が立冬であった。

その頃は立冬を元旦とする氏族も多かった。
因りてこれを冬日星(とうひのほし)、なまって登志星(としのほし)と
呼んでいた。

以上『儺の国の星拾遺』p202

< >は綾杉が追加したもの。


まとめ

スハイル星
冬至 明け方、南から昇る。 氷上星。
春分 暮れ方、明るい春霞の彼方(西?) 中日星、日拝星、日向神星、
立冬 (太宰府から見て?)有明海の方角から昇る。 冬日星、登志星
旧2月25日 道真公の命日にちなんで 天神星



星が季節によって時間と方角を変えて姿を見せる。
ダイナミックな宇宙の動きを古代の人は感じていたんだな。

「日向」の地名を地図で探すと次々に出てくる。
案外、天体観測に関連する地形だったのかもしれない。

日向神(ひゅうがみ)は地名だが、星の名でもあったとは興味深い。
人々は辿りついた地に星の名を付けていったという。
美しい話だ。


c0222861_2057272.png

                     画像出典 ウィキペディア 
帆座 λ(ラムダ)が スハイル星




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by lunabura | 2016-10-31 21:03 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(2)

歴史カフェ 次回は「物部とヒメコソ神」



歴史カフェ 

次回は「物部とヒメコソ神」



今日の歴史カフェ、第一日目、ご参加ありがとうございました。

テーマは中大兄皇子(天智天皇)の
福岡での事績、水城や漏刻、指南車、観世音寺などでした。

中大兄皇子や斉明天皇の存在は福岡では語られることがなく、
記憶から消え去っている印象を受けます。

二人(に限らす大田皇女や額田も藤原鎌足も)が福岡に来たことを、
私たちは子供のころから教えられなかったので、
『日本書紀』の話が奈良や京都の話と思い込んでいたんですね。

新たな視点を得て読んでみると、
『日本書紀』は身近な歴史を伝えてくれているのがよく分かりました。

改竄や捏造も納得しながら読み込めば、
もっと故郷の歴史を導き出せることを確信しました。

「ひめちゃご」は中大兄皇子を通して見せられている部分もあり、
女神だけでなく、日本を守った人たちを知ることでもあるのだと
思うようになってきました。


百済が滅びて唐軍が占領し、
難民が筑紫に押し寄せるのを目の当たりにした中大兄皇子は、

続けて筑紫もまた唐軍に占領されることを恐れ、
筑紫の神々を守るために京都などに神々を遷したのではないか。

中大兄皇子の筑紫での祭祀を見ていると、そうも思われてくるのです。



「脇巫女」と「ひめちゃご」は同じテーマでありながら、
別の時代を教えられてもいるようです。

奇しくもその舞台は、鞍手、姫方、太神長島という「物部の里」でした。
(くらて、ひめかた、おおが・おさじま)

次回のお題は「物部とヒメコソ神」です。

物部の祭祀、出自、ヒメコソ神など、
これまでブログに出て来た内容を整理して、一緒に考えていきいと思います。

目次など詳細が決まったら、また案内しますが、募集は開始しますね。
ご参加お待ちしています。


また、本日(10月30日)の内容を11月10日にも話します。
興味のある方は申し込みお待ちしています。





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by lunabura | 2016-10-30 22:10 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(4)

白鳥座 規矩星 きくのほし



白鳥座

規矩星(きくのほし)






c0222861_2014025.jpg


<「さきくさ」は聖書の百合であり、天文学でいう星座の白鳥キグナスであった。

古事記允恭記には木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と
衣通郎女(そとおしのいらつめ)の名が見える。

白鳥座の古名は十薹星(そとうのほし)、木梨星(きなしのほし)、
軽子星(かるのほし)などがあった。

機久(規矩・木魂)星(きくのほし)。物干し竿を衣透(そとほし)といった。

星は記紀の頃にはすでに古人の心に身に溶けてしまって、
表にはもはや出てこなかったのである。>

『儺の国の星』p188


白鳥座もまた見る人によって異なる物語を持っていました。

『古事記』の衣通姫、軽大郎女は同じ人で、
白鳥座の名を持った人ということになります。
でも、『古事記』の時代には星の意味は忘れ去られたようですね。




c0222861_2023073.png

(画像出典 ウィキペディア)

白鳥座を規矩(きく)の星とも言ったそうです。

確か、規矩の星と言って北斗七星を指すという話も載っていたと思います。

さて、企救(きく)国は白鳥座なのか、北斗七星なのか。
どっちかな。



以下はウィキペディアから。

衣通姫(そとおりひめ、そとおし-)は、記紀にて伝承される女性。衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される。

『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。




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by lunabura | 2016-10-29 20:06 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

「規矩県主・耳熊丸」と「企救の重留遺跡」の広形銅矛はどうなんだろう。



「規矩県主・耳熊丸」と「企救の重留遺跡」

の広形銅矛はどうなんだろう。



さて、先日「いのちのたび博物館」に出向いたのは
「企救の国の青銅器文化」展があっていたからだ。

北九州から巨大な銅矛が出土した。


c0222861_20594197.jpg

これはそのチラシ。
卑弥呼の時代だ。
この時代は銅矛がここまで大きくなっている。

約85センチだったと思う。
このサイズだと、もう女性では簡単に抱えられない。
持つとき、必ず刃の部分を支えないといけないので危険だ。

だからなのか、刃の研ぎ出しはしていないようだ。

北九州で出土した銅矛は出雲のそれとサイズも似ている印象だが、
出雲の剣身に見られた矢羽のような研ぎ出しは見当たらない。

これが住居の隅に一本だけ埋納されていたという。
何度か使用しては埋め戻していた痕跡があるそうだ。

この地域は「企救(きく)郡」があった所なので、
「企救国」が想定され始めている。



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「企救」で思い出すのは、ここに県主(あがたぬし)の名が
伝えられていることだ。

その名を「耳熊丸」という。





拙著『神功皇后伝承を歩く』下巻をお持ちの方は96番を見てほしい。





c0222861_2104428.jpg


神功皇后は京都郡(みやこぐん)の生立八幡神社(おいたつ)から
何処に向かったのか、
海上の行き先を探していたとき、次の伝承を知った。


「豊前国の葛城藤丸と規矩(きく)県主の耳熊丸は
神功皇后を筑豊の境に迎えに行った。」


寒風の吹く冬に船を仕立てて皇后たちを迎えにいった人たちの名が伝わっていた。

葛城藤丸。
規矩県主の耳熊丸。

この名は記紀には出てこないが、篠崎八幡神社に伝わっていた。
(小倉北区篠崎)

もともと高尾山の麓に鎮座していたのが、現在地に遷宮している。

この耳熊丸と同時代に生きていたのが

岡県主の祖の熊鰐であり、

伊都県主の祖の五十迹手(いとて)だ。


耳熊丸は紫川流域、
熊鰐は遠賀川流域と棲み分けていたのか。


「きく」は企救、規矩、菊とも表記される。
「企救国」が想定されるなら、この耳熊丸が治めていたと考えられる。

「きく」で思い起こすのは菊物部という名称だ。
耳熊丸が物部かどうかは分からない。

ただ、一緒に出て来た葛城藤丸は葛城氏だ。
篠崎八幡の葛城小藤丸は葛城襲津彦の末裔だという。

そして、時代は違うが、中大兄皇子の諱(実名)は葛城皇子だ。

こう連想すると、当地には物部氏、葛城氏のいずれかの
リーダーの存在が考えられる。


重留遺跡のすぐ北にある「城野遺跡」には
伊都国の平原遺跡と同様の「方形周溝墓」が発見されていた。


2基の石棺には水銀朱が塗られ、子供が埋葬されていたという。

規模は城野の方が大きいそうだ。

棺が平原遺跡は割竹木棺なので、こちらが石棺なのは興味深い。

しかも、水銀朱愛は同じ。

この城野遺跡は国有地だったのが、民間企業に売却されてしまったそうだ。
実に惜しい。
が、まだ間に合うはずだ。



この重留、城野遺跡と篠崎八幡神社の距離は2キロ未満だ。
その元宮と遺跡の関わりは深い。

これを探っていくことで、
企救国の古代が立体的に描き出せる予感はするのだが。

いちブロガーではどうにもならない。






「企救の国の青銅器文化」2016年11月6日(日)まで。
いのちのたび博物館
北九州市八幡東区東田2-4-1 スペースワールド駅下車






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by lunabura | 2016-10-28 21:03 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

準備中



今年はキンモクセイの花がびっしりと咲いて、
家中に香りが漂いました。

撮った画像を見たら、空っぽ。
なんだ、バッテリー無しで撮ったんだ。

わずか一週間で散ったけれど、
今日は土の上に黄金色の小花の重なりがびっしり。
その間から水仙の芽が出ています。

キンモクセイはもうすぐ二番花が咲いて、
もう一度、甘い香りを漂わせてくれます。





さて、昨日から歴史カフェのテキストに画像を入れる作業をしています。

文字ばかりの資料にカラーの画像をたっぷりと入れていくと、
ワクワク楽しくなってきます。

自分で天智天皇紀を読んでみると、知らなかったことばかりでした。

人の考えを通さず、自分の目で見ると
ウロコがびっしりと付いてたんだなあ、とよく分かりました。(^_-)-☆

難しいけど、今回もやっぱり原典を読みましょう。

今回は真鍋大覚の資料と突き合わせるので、
ほぼチーム・アンドロメダです。

「チームア・アンドロメダ」とは、
アンドロメダを大覚星とも呼ぶことから勝手に付けた研究会の名前です。

さて、このアンドロメダ星雲を「太歳の星」とも呼ぶそうです。


神功皇后の時代、太歳の予定の日に日食が起こって空が暗くなり、
アンドロメダが日中に黄金色に輝いたことから付いたそうです。







c0222861_233988.jpg






人々は驚き、その神秘性を心に深く刻んだのでしょうね。


ということは、神功皇后は即位したんだろうな。
田川の位登八幡で。
筑紫の資料では「十五代」と書かれたものを見かけるもんね。
中国の史料にも。

そして、天智天皇もまた「太歳」した年に即位したんだろうね。

以上、これも歴史カフェの予習編でした。






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by lunabura | 2016-10-27 23:05 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

いのちのたび博物館 恐竜がいっぱい sanpo



いのちのたび博物館

恐竜がいっぱい




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でか(;゚Д゚)











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すごすぎ。(;’∀’)
画面に入らない。











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どれも全身骨格?

数も半端ないっす。

これが何と常設展示。



え?
ホントは「企救の国の青銅器文化」展(~11月6日)
を見に来たんですがね。

なかなか行きつかないのです。(^^;

たのしい~~~




いのちたび博物館
北九州市八幡東区東田2-4-1









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by lunabura | 2016-10-23 20:49 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(0)

筑紫舞 2016



筑紫舞 2016





天気予報では一日中、雨だったが、
今年も奇跡的に午後から回復。


宮地嶽神社で筑紫舞が舞われた。


「光の道」が参道に出現して秋祭の始まりを告げると、

九州王朝に伝えられたという筑紫舞が

あでやかな和の彩りを添える。

ご覧になる神は

神功皇后。
勝村神。
勝頼神。



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「千代の友」
千代の友とは菊の事。









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千代に八千代に、国が豊かであるようにと祈る。












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「鑑の曲」かんのきょく
筑紫秘舞。











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浮き立つ春の曙に 白み渡れる山の端の
雲の衣も紫のうら珍しき春の香










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「千鳥」










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梅が枝にこそ 鶯は巣をくへ
風吹かばいかにせん 花に宿る鶯











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「橘」










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雲居の庭に色変えぬ 花橘にほととぢす
千代を鳴らして久方の 空にぞ声の聞こゆる










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浮神(うきがみ)
芸能の祖と言われる阿曇磯良が舞ったという。

天上神が磯良に舞い降りて舞う「つくし神舞」の秘舞。










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イソラ神はここにもおはす。

鞨鼓を持ちて舞いたもう。







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by lunabura | 2016-10-22 20:34 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

第八回 歴史カフェ1030 1110 は「筑紫における中大兄皇子」



第八回 歴史カフェ
 1030 1110

「筑紫における中大兄皇子」


― 乞食の相あり に至るまで ―




お待たせしました。
次回の歴史カフェのご案内です。


中大兄皇子が「乞食の相あり」と言われて
みやま市の釣殿宮に至り、太神宮を祀るまでに
皇子はどのように筑紫と関わったのでしょうか。

前回は『日本書紀』の「斉明天皇紀」を元にして
筑紫入りした斉明天皇や中大兄皇子、中臣鎌足の祭祀を中心に見ていきました。

今回は『日本書紀』の「天智天皇紀」を元にして
筑紫での中大兄皇子の事績を見ていきます。

また、今回は『儺の国の星』などに書かれている中大兄皇子の事績を
突き合わせて見ていきます。

太歳の具体的な設定法、
漏刻や指南車を製作して太陽暦を響かせた話、
水城に貫通する謎の複数の水路の利用法、
ダムとしての水城と運河化、
観世音寺の創立と鐘の製造、初代管長の笠麻呂(加茂氏)など。

大宰府の天文官の家系ならではの伝承を紹介していきます。
そして、釣殿宮の位置付けを一緒に考えましょう。


日程 10月30日(日)2時~4時
   11月10日(木)2時~4時


会費 1500円 (別途、ドリンクを各自でご注文ください)
   (会費は当日、受け付けにて)

募集人員 若干名(要予約)

会場  オーガニック広場 ひふみ
 福岡県古賀市天神1丁目2-3 
    (JR古賀駅前) 駐車場はありません。
092-944-5755

申し込み方法 
「歴史カフェ1030希望」もしくは「歴史カフェ1110希望」と書いて、郵便番号 住所 氏名 をご記入の上、メールでコチラに送ってください。
(コメントでハンドルネームを使われた方、よかったらそれもご記入くださいね♪)
メールはサイドバーの「メールはコチラ」からでも大丈夫です。
一度参加された方は、住所は書かなくても結構です。

申し込みがあれば必ず返信しております。返信が無い場合はブロック解除、あるいは「アドレス違い」がないか、調査をお願いします。


オーガニックな食材のお買い物が出来ます。(^-^)
地図 オーガニックひろば ひふみ




 皆さんのご参加をお待ちしています♪



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by lunabura | 2016-10-21 21:00 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(0)

バスハイクのお知らせ 12月2日 「洞ノ海 魚鳥池」 


バスハイクのお知らせ 
12月2日 (北九州市)

「洞ノ海 魚鳥池」 




「歴史と自然をまもる会」のバスハイクのご案内です。

12月のバスハイクは「神功皇后の足跡をたどる②」で、
北九州市の洞海湾の湾岸地域をまわります。

1.一宮神社(上巻2)八幡西区 熊鰐一族が守った神武天皇の岡田宮跡 磐境神籬
2.勝山勝田神社(上巻3)八幡西区 大倉彦の領地 竹竿供出
3.飛幡八幡宮(上巻6)戸畑区 仲哀天皇が祈った千曳の岩
4.若松恵比須神社(上巻7)若松区 武内宿禰が祈った光る石
5.魚鳥池神社(上巻8)若松区 神功皇后の船が立ち往生した洞ノ海あと
6.貴船神社(上巻9)若松区 船留の松 神功皇后が貴船の神を祀った
7.芦屋歴史の里 山鹿貝塚 赤ん坊を抱いた縄文人

山鹿半島は、かつては島で、
陸との間の穏やかな海を「洞ノ海」(くきのうみ)と言いました。
今は洞海湾(どうかいわん)と言いますね。

この海域で船団を組織し、造船をして修理もしていたのが
岡県主(おかのあがたぬし)の祖(おや)である熊鰐です。

遠賀水軍の長と言われています。

当ブログではよく登場しましたね^^

豊浦宮(下関)から周防にいったん疎開していた
仲哀天皇と神功皇后を熊鰐は迎えにいきます。

その途中から天皇と皇后は別の船に乗って遠賀川に向かいます。

皇后の船が魚鳥池(ぎょちょうがいけ)で立ち往生した話が
『日本書紀』に載っていますが、
その現場が田んぼになって残っています。

その周囲の神社も廻っていきます。

勝山勝田神社と貴船神社は水の神様をまつるので、
独特の神秘性があります。
私ももう一度行けるのが楽しみです。

最後に時間があれば「芦屋歴史の里」で縄文人の埋葬復元を見ます。
二人の女性が赤ん坊を挟んで眠っていますが、
その胸には大きな緑の石がかけられていました。
北九州の歴史を知りたい人必見の資料館です。

拙著『神功皇后伝承を歩く』上巻の2~9までのうち、
6社をまわります。

申し込みは「歴史と自然をまもる会」までどうぞ。
http://rekishi-shizen.com/

2016年12月2日(金)
天神8:30出発です。

(第一回は弁当を作って持っていったのですが、
唐戸市場に行ったので、海鮮丼を買って食べちゃいました。
自分の弁当はお持ち帰りです( *´艸`)

今度もおいしそうな所に連れていってもらったら、やばいから
弁当なしで参加します。

もちろん、歴史の案内は私がします!)



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by lunabura | 2016-10-20 20:41 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご24 阿曇比羅夫と阿倍比羅夫 百済救援軍



ひめちゃご24

阿曇比羅夫と阿倍比羅夫 

百済救援軍
 


今朝の目覚めのお題は「阿曇比羅夫と阿倍比羅夫」だった。

『日本書紀』に出てくる二人の将軍の名だ。


「ひめちゃご」は中大兄皇子の視点で女神やたちや
倭国を守った武将たちの存在を次々にクローズアップさせている。


次回の歴史カフェで読む予定の『日本書紀』を訳していて、
この二人の将軍の名が出て来たばかりだった。

「阿曇比羅夫と阿倍比羅夫」
よく似た名前だが、名字を見ると二人とも明らかに安曇族だ。

この二人は何度か朝鮮半島に派遣されているが、途中で一人の名が消える。
気になったが、改めて調べよということなのだろう。

今回、思いがけないことを知った。


まずは『日本書紀』の該当部分を簡潔に引用しよう。

<斉明7年(661)7月24日に天皇は崩御された。
皇太子は素服を来て称制(即位せずに政務を摂ること)した。
この月に皇太子は長津宮に遷居され、ようやく海外の軍政をされた。

8月に前将軍大花下(だいかげ)阿曇比羅夫(ひらぶの)連(むらじ)ら、
後将軍大花下阿倍引田比羅夫臣らを遣わして百済を救わせた。

(大花下とは冠位)
(前将軍・後将軍→軍の編成は前後の二軍、あるいは前中後の三軍)

天智元年(662)5月大将軍大錦中阿曇比羅夫連らは170艘を率いて
百済王子豊璋らを百済に送り、王に即位させた。


天智2年(663)2月2日、新羅が百済に侵入した。
3月に前将軍上毛野君稚子ら、後将軍阿倍引田臣比羅夫らは
2万7千人を率いて新羅を討伐に向かった。>





以上、百済が滅び、斉明天皇も朝倉で崩御したのちの抜粋である。
倭国は百済の大臣の要請で救援軍を出すことにしていた。

661年7月に長津宮(那珂川町に推定)に中大兄皇子は遷宮した。
(地元の伝承と日付にズレがある)

そして、翌8月には王が唐に連行されて滅んでしまった百済救援軍を派遣した。

救援軍は前将軍が阿曇比羅夫。
後将軍は阿倍引田比羅夫。

阿曇比羅夫が百済王子を送り届け、百済王に即位させている。
これが662年5月のことだ。

前年の661年にも阿曇比羅夫は前将軍として百済に上陸しているので、
いつのまにか帰国して、再びの渡海ということになる。

そして、いよいよ663年に本格的な救援軍を派遣しているが、
この時、前将軍が上毛野君稚子に変わっている。


阿曇比羅夫はいったい何処にいるのか。
百済の前線に残っているのだろうか。

ネットで阿曇比羅夫を探すと、意外にもあの穂高神社の祭神になっていた。

<御船祭
例大祭は「御船祭」と呼ばれ、毎年9月26日・27日に行われる。
高さ6m・長さ12mにもなる大きな船形の山車(だし)「御船(おふね)」を
ぶつけ合う勇壮な祭で、長野県指定無形民俗文化財に指定されている。

なお26日は神事のみで、本祭りは27日である。
9月27日は天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで戦死したという
安曇比羅夫の命日と伝えられている。>


阿曇=安曇 
阿曇比羅夫はやはり百済に留まり、白村江の戦いで戦死していた。
そして、その命日を穂高神社では御船祭として毎年祀っていたのだ。

安曇野で祀られている阿曇比羅夫。

彼は渡海したとき、この奈多の海を含む阿曇郷の港から出港したのだろうか、
それとも日本海から直接渡海したのだろうか。
死んだ後、彼がどのような経緯で長野に祀られるようになったのかは分からない。

が、彼は日本を守って命を落とした武将だった。


もう一人、阿倍引田比羅夫はどうだろうか。
阿倍姓からは宮地嶽との関わりが考えられる。

661年と663年の救援軍の後将軍を務めている。

これもネットで調べると、
その前には蝦夷を服属させ、粛慎(みしはせ)と交戦している。
一生戦った男だ。

越国守・後将軍・大宰帥を歴任していて、拠点がどこか分からない。
没年も分からない。
白村江の戦いのあと、生きて帰ってきただろうか。

二人の比羅夫。
阿曇と阿倍。
中大兄皇子の御代の海戦が安曇に委ねられていたことを初めて知った。

日本を守った二人の男たち。
それが朝のお題の答えだった。


歴史を知って感謝の意を捧げよというメッセージだったのだろう。







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by lunabura | 2016-10-17 22:21 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(13)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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