ひもろぎ逍遥

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<   2017年 01月 ( 23 )   > この月の画像一覧

ひめちゃご52 新延大塚古墳1星のようにきらめく光の石の下で眠る武人

ひめちゃご52 


 新延大塚古墳1

星のようにきらめく光の石の下で眠る武人



鞍手
)
町にある巨大な古墳は「新延(にのぶ)」にある。





c0222861_21201106.jpg

円墳だ。

県指定になっているので、残されている!

まずはそれが嬉しい。








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鍵を開けて入ると美しい石組が。

奥には不動明王が祀られていた。

奥壁はもちろん他の古墳のように素敵な平たい面が出ているが、

この古墳は奥室の左右にも平たい面があった。

たしか、糸島の櫻井神社の古墳の中もこのように

左右に平たい面が出ていたと思う。







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天井は高い。

送り出した石の上に蓋をしている。







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白いものはカビではない。

光を当てるとラメのようにキラキラと輝くのだ。

星読)によると、地元では普通に見かける石だそうだ。
古墳の築造者はわざわざ光が星のように輝くように

これらの石を配置していたのだ。

  

(つづく)

<2017年1月31日>







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by lunabura | 2017-01-31 21:27 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

あれれ


あれれ。

今日、エキサイトブログの投稿画面が強制的に変更されている\(o)/!


ブログを持ってない方には分かりにくいでしょうが、

投稿画面に記事を書いて、UPするのですが、

エキサイトでは新しい投稿画面が提供されるようになりました。


かつて、その新しい投稿画面にトライした時、

プレヴュー画面と実際の投稿画面が一致せず、

かなりの時間を費やして、不完全のまま投稿したのです。


それに懲りて、こっそりと昔の投稿画面に戻って使ってたけど、

いよいよ強制終了されちゃいました。(´・ω・`)


しばらく短文で慣れるとするか。

画像投稿も練習だい。

さてっと、試しの画像はどれにするか?

在庫の中をゴソゴソ。






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2016
年の宇佐神宮でした^^







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by lunabura | 2017-01-30 20:17 | にっき | Trackback | Comments(0)

まるで春の嵐みたい



福岡は雨ですが、春の嵐のような雨音がしています。
まだ一月ですがねえ。

外に出るとモアっと暖かい。






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紅梅はいい感じ。(四日前)

今、せっせと執筆中。
予定より早く進行しています。

忙しくなる前に出来るだけ進めておこう。



飛鳥時代から気分転換したいけど、古墳時代は近すぎて無理。


で、
「ひめちゃご」はお預けとなっております。




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by lunabura | 2017-01-29 15:48 | にっき | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご51 「ひめちゃご」の行方



ひめちゃご51

「ひめちゃご」の行方
 



昨年の末、年末が近づくと、
私はこの「ひめちゃご」の落とし処を求め始めた。

「ヒメコソ」という言葉が響き、
何が起こるか分からないままその理由を求めて佐賀に行った。
それは8月のことだった。


そして、もう一度行けば、その落とし処が分かるのではないかと思い、
12月に再び佐賀に向かい、東から西へと「ヒメコソ三社巡り」をした。

その記事を書くヒマもなく、宇佐に行くと、
鞍手の郡誌の一行がつながり、宇佐の比咩神が六嶽と同じだったことが判明した。

その間、多くの女神たちに参拝した。

「脇巫女」の始まりとなった七色と星読との再会を偶然に果たすと、
あとは菊如や崋山にも挨拶して、2016年をくくろうと思った。

そのあと、佐賀の媛社郷(ひめこそのさと)にじっくりと取り掛かろう。

山積みとなった市史や町誌を開くのが楽しみだった。


ところが思いがけず、崋山から
鞍手の大塚古墳とヤマトタケルの墓所に行くように、という話が出て来た。

大塚古墳は遠賀川流域でも最大級の古墳だった。
星読が鍵を借りて来てくれ、道案内もしてくれるという。

この古墳は古賀市の船原古墳と同様の馬具の装飾が出ている所だった。

この時代、鞍手では磐井の子・北磐津が一度奴婢に落とされたが、
磐井の孫、鞍橋君が鞍手を奪還していた。

時代的に近い。

年の瀬も押し詰まった12月25日に行くことにした。






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by lunabura | 2017-01-26 21:28 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご50 八剱神社 ヤマトタケルと砧姫



ひめちゃご50

八剱神社 

ヤマトタケルと砧姫
 




恋多きヤマトタケル。

その伝承が集中する遠賀川河口域だが、同じ水巻町の立屋敷(たてやしき)に
ヤマトタケルと寵姫・砧姫(きぬたひめ)を祀る宮がある。

八剱神社だ。(やつるぎ)

同じ社号の神社はいくつもあるが、当社は砧姫との恋物語で知られている。

遠賀川の土手の東側、73号線から見える銀杏と鳥居が
気になる人も多いだろう。






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砧姫は讒言(ざんげん)のために都からここに来ていたという。










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二人が結ばれた住まい跡がここだというから、
古来、その史蹟が移っていないことになる。


この仮宮を世話していたのは、小狭田彦たちだろうか。
物部氏だが、後にヤマトタケルから香月姓を賜っている。








c0222861_2205389.jpg


この銀杏はヤマトタケル自身の手植えによるものだという。

この木の遺伝子の研究が行われ、同じ遺伝子をもつものが、
韓国慶尚北道亀尾市や島根県太田市などにも所在することが
証明された。

銀杏といえば、武内宿禰が仲哀天皇をしのんで植えたものが
忌宮神社と織幡神社にある。

織幡神社のものは代替わりしたものだ。

このような植樹もまた深い意味を持つのだろう。

まっすぐ立つ銀杏は遠くからのランドマークとなり、
その銀杏目当てに神社を探し出すこともよくあったのを思い出す。





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これはその気根だ。

この銀杏の話を知ったのは、別の神社で出会った当社の氏子さんからだ。

ようやく参拝できてほっとした。



「水巻昔ばなし」によると、
砧姫には王子が生まれ、砧王と名付けられた。

のちに守護職に任ぜられた砧王は
重広王、末広王、時王、末守王の四王子をもうけて、末永く栄えたという。

そうすると、仲哀天皇の異母兄弟ということになる。
仲哀天皇の遠賀入りの時にも支援者となったのだろう。

なおヤマトタケルの進入路は
周防の海(瀬戸内海)から洞海湾に入り、
ここから江川を通って遠賀入り海に入ったという。

この熊襲討伐は父の景行天皇の命によるもので、
このあと香椎宮に向かう予定で、兵員、兵糧の補給をしたということだ。

<2017年1月25日>




遠賀郡水巻町立屋敷3丁目13-30









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by lunabura | 2017-01-25 22:04 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご49 八所神社4 八祭神は天皇を守護する神々だった



ひめちゃご49

八所神社4 

八祭神は天皇を守護する神々だった
 



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最後に、この八所神社の祭神を書いていないことに気付いた。

福岡県神社誌によると、

高産日神、神産日神、足産日神、生産日神、
魂留産日神、御饌産日神、大宮能賣神、事代主神

である。

このほか、以下の三社が合祀されている。
今宮神社 菅原道真、
武徳神社 加藤清正、
須賀神社 素戔嗚尊

加藤清正がこの地方で祀られているのは面白いが、
今日のテーマは社号の「八所」にちなむ「八柱の神」のことだ。


同じ「八所」の社号が付いている宗像の八所宮の祭神とは祭神を異にしている。

初めての神々なので、調べないといけないが、多いなあと躊躇していると、
ブログ「月船物語」に投稿されたばかりの記事を見て驚いた。


津森神宮
が挙げられていたのだが、そこに同じ神々が祀られていたのだ。

http://tukifune3.exblog.jp/26576161/


住所は 熊本県上益城郡 益城町寺中708
あの、熊本の地震の爪痕の厳しい地の神社だった。


この津森神宮も被害があったようだが、社殿は何とか保たれたようだ。


益城郡は山の中とばかり思っていたが、
縁起によると、かつては入り海だったという。

以下はHPより。

<本宮は、欽明天皇二年(西暦540年) 神武天皇の神霊神勅により
時の国司・藤原法昌により創祀せられました。

往来此の辺りは入り海の津でしたが、
神武帝の霊体出現時よりたちまち森となり、
此の地は 「津森」と言われ宮所の名となっています。>

欽明天皇二年とあるので、磐井の乱の傷跡も残る時代のことだ。
神武天皇の神霊からの神勅があったという。

それでだろう、ここの主祭神は神武天皇である。

東末社に天照大神が祀られて、西末社に八柱の神々が祀られていた。
その神々は以下の通り。

高産日神、神産日神、足産霊神、生産霊神、
魂留産霊神、御膳神、大宮賣神、事代主神

次に八所神社の祭神を並べてみる。

高産日神、神産日神、足産日神、生産日神、
魂留産日神、御饌産日神、大宮能賣神、事代主神

全く同じ組み合わせだった。単に表記が違うだけである。
福岡と熊本の八座が同じだということは、セットの神々だ。

鎮魂八神で調べていくと、この八神は「天皇を守護する八神」と分かった。

益城の津森神宮と水巻の八所神社は創建の事情は違えども、
同じ神を祀るという点で氏族が共通していることも伺える。


話を八所神社に戻すが、
ヤマトタケルや斉明天皇がここに来たのは、
この八神が鎮座していることが一番の理由だったというのが分かった。

まさに自分を守護する八神に祈願をしに来ていたのだ。

その神々を天文の民が祀っている。

地名は「二」。
物部二十五部衆の一つに「二田」ふただ物部がいる。
これと関連はあるのだろうか。




地形がいずれも入り海だ。
これは新しい古代地図を描き始める瞬間かもしれない。










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by lunabura | 2017-01-24 21:31 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご48 八所神社3 古代天文の民がいたのか



ひめちゃご48

八所神社3 

古代天文の民がいたのか
 



さて、縁起のもう一つの注目点は星の描写である。

<叢雲の中から、宝剣の形をした光が燦然(さんぜん)と輝き、
南斗、北斗破軍星、太白、鎮星、九曜、七曜、二十八宿の諸星が
光る宝剣を守るように八方から照らし、南の方をさして進んで行った。>

これを見て、その星々をイメージできる人が何人いるだろうか。

私は北斗と太白と鎮星は分かったが、
あとはネットのお世話にならねばならなかった。

このヤマトタケルの物語を愛した里人たちは、
星の意味が分かっているので、こんな派手な振り付けをしたのだ。

この「二」の人たちは天文学の知識に長けていたと言わざるを得ない。
天文占いをしていたのだろう。




さて、せっかくだ。
この機会にこの里人たちに負けないように調べておこう。

「南斗」
南斗は北斗七星と似ているが、六星で構成されている。



c0222861_21172019.jpg

(画像出典 ウィキぺディア)

<北斗は死をつかさどるとされ、白い服を着た醜い老人の姿で描かれる。
南斗は生をつかさどるとされ、赤い服を着た醜い老人の姿や、
逆に若い美しい男の姿で描かれる。>ウィキペディアを改変

真鍋も北斗と南斗について書いている。

<祖先は北斗を末期の水をすくう匙、南斗を復活の薬を汲む匙とみていた。>
<北斗は人間の死を登録する神。南斗は人間の生を延命する神。儺p20>

北が死の世界、南は生の世界というイメージは遠い昔からあった。
ただ、この縁起では何らかの瑞祥として描かれている。



「北斗破軍星」
北斗七星の剣先にあるアルカイド星。




c0222861_2118850.png

(ウィキペディアより)

<北斗七星の柄先の星 (おおぐま座ηイータ) をさす中国名。
これを剣先に見立てて,その方向に向って戦うものは勝ち,
逆らって戦うものは負けるとして吉凶を占った。>ことばんく

<この星の守護を得ると戦に勝つと信じられていた。>ウィキペディア
破軍星は勝利のシンボルだった。


「太白」金星

「鎮星」土星

「九曜」
<インド天文学による9つの天体。
このうち七曜は実在する天体で、残りの二つは月の交点のうち、
昇交点(ラーフ)、降交点(ケートゥ)のことで、日食と月食に関わる。>
ウィキペディアを改変。


「七曜」火星・水星・木星・金星・土星・太陽・月

「二十八宿」
中国古代での、星座の区分。黄道(こうどう)を二十八に分けて、星座の所在を示した。

以上、簡単にまとめてみた。



こんな難しい専門用語が縁起で普通に語られるのだから、
この「二」の里人は天文の話は日常だったのだ。

占星術を行い、天文観測も実際にしていたのだろう。
ここも地形的に東西や北の目安の山を探すと面白いのかもしれない。

以上から推測すると、
ヤマトタケルもここにやって来たのは吉凶を占ってもらうためだったのかもしれない。

それがのちに、剣から立ち昇った叢雲の中に光り輝く宝剣が現れ、
それを囲んで諸星が宝剣を囲んで南に進んだという華やかなストーリになった。


当地にはその占星術が継続され、
斉明天皇もまた、吉凶を占って貰いに来たのかもしれない。

ふと、そう思った。








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by lunabura | 2017-01-23 21:20 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご47 八所神社2 「二」という地名



ひめちゃご47

八所神社2 「二」という地名
 


さあ、ようやくこの物語に戻ろう。
水巻町の八所神社の途中で中断していた。

この八所神社の鎮座地は遠賀郡水巻町二西四丁目一の一だ。

住所の「二西」は「ふたにし」と読む。

この「二」(ふた)という地名がヤマトタケルに由来していた。
『水巻昔はなし』を参考に概略を書こう。


ヤマトタケルが船でこの「浮島」という山にやって来て、
山上に十握剣を立てて天地の神に祈った。

すると、剣から一筋の雲が立ち昇って、入り海の数か村を覆い、
叢雲(むらぐも)で蓋をしたように垂れ込めた。

そのうち叢雲の中から、宝剣の形をした光が燦然(さんぜん)と輝き、
南斗、北斗破軍星、太白、鎮星、九曜、七曜、二十八宿の諸星が
光る宝剣を守るように八方から照らし、南の方をさして進んで行った。

これを見たヤマトタケルは感激して、
「これは皇祖天照大神と素戔嗚尊のお召しによる瑞雲だ」
と思って決意を新たにすると、叢雲がたちまち晴れた。

それから、この地を蓋叢雲郷(ふたむらぐものさと)と呼んでいたが、
これが略されて蓋叢郷となり、蓋叢村と変わり、
二村村、二村、二と変化していったという。



この話から、二つの事に注目したい。
一つは十握剣と天叢雲剣。
もう一つは星の描写だ。


まずは一つ目のヤマトタケルの十握剣と天叢雲剣について。

ヤマトタケルが手にしているのは十握剣だが、
「叢雲」の中から出現した「宝剣の形をした光」は
明らかに「天叢雲剣」を象徴している。

この「天叢雲剣」は八岐大蛇(やまたのおろち)のしっぽにあった剣で、
スサノオが取り出したものだ。

スサノオはこの剣をアマテラスに渡した。
それがニニギ尊に降ろされて、倭姫(やまとひめ)に伝わり、
ヤマトタケルに与えられた。

のちに草原で火に囲まれた時に、その剣で草を薙ぎ掃ったことから、
草薙剣というようになった。


そうすると、今ヤマトタケルが手にしているのはその天叢雲剣、
あらため草薙剣そのものの可能性がある。

だから、その剣を立てたら叢雲が沸き起こったとするのだ。
そして、ヤマトタケルに
「これは皇祖天照大神と素戔嗚尊のお召しによる瑞雲だ」
と言わしめた。

まさに叢雲剣の霊威が現れ、勝利を約束された瞬間だった。



いかにもビジュアルに仕立て上げられた話だが、
ヤマトタケルを愛する里人がその話を何度も繰り返して
子供たちに言い聞かせたようすが目に浮かぶ。








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この像はその話を描いているのが、こうして理解できた。

惜しむらくは、ヤマトタケルはまだ16歳のころだ。
ヒゲはまだないかもしれない。
このあと、女装してもバレなかったのだから。(^_-)







八所神社
遠賀郡水巻町二西四丁目











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by lunabura | 2017-01-22 18:00 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

ひと息



今日は、飯塚での古代史講座でした。
ご参加の皆さまありがとうございました。

気付くとスケジュールが立て込んでしまった一週間でした。

各地でいろんな話をしましたし、
皆さんからも話をいただきました。

小さな情報でも、大きなヒントとなってくれます。
今はそれらが頭上をグルグルと回っています。

時間が経てば、ラセンを描きながら着地し、
新たな芽を吹き始めるのでしょう。



今は、自分の思いと実現のための時間のギャップが大きいので、
静かな時を造ろうと思います。







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風が吹くと揺れる湖水。
きれいです。





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by lunabura | 2017-01-19 21:21 | にっき | Trackback | Comments(0)

明日19日は飯塚で羽白熊鷲、田油津姫との戦いの話です



明日19日は飯塚で

羽白熊鷲、田油津姫との戦いの話です。



明日は飯塚での古代史講座、「神功皇后講座」の3回目です。

前回までは仲哀天皇が崩御して、亡骸を忌宮神社に届けると、
小山田斎宮で教えを垂れた神々の名を尋ねたと『日本書紀』に
書かれた場所が実存することなど紹介しました。

3回目はその『日本書紀』に書かれた
荷物田村(のとりたのふれ)の羽白熊鷲を攻撃し、
山門(やまと)の田油津姫を攻めていくルート上の伝承を話します。

これらもまた書紀に書かれた所が神社となって残っていました。
そして、それを補う神社群がルート上にありました。

神功皇后が大本営とした夜須には松峡八幡宮(上巻41)があります。
皇后軍が敷いた七か所の陣営の跡地は「七ケ森」と呼ばれ、
そこを辿っていくと、羽白熊鷲の終焉地に着きました。

その終焉地には寺内ダムが出来ましたが、
幸いにも墓所は陸地にあります。(上巻50)

その墓が施設のプールに引っかかったため、
現在、直ぐ近くに大きく再興されています。






c0222861_18391181.jpg

地元で採取した話なども紹介します。




さて、神功皇后軍が羽白熊鷲を討伐したあと、寺内から下山すると、
武人たちは武器を研ぎ(太刀八幡宮下巻52)、
次なる田油津姫攻撃の準備をしました。

神功皇后は水沼水軍(下巻56)の出迎えを受けて、
山門に上陸し、ついに田油津姫を討ち取ります。





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(田油津姫あるいは葛築目の墓と言われる、女王塚。今は蜘蛛塚という)
下巻59


田油津姫が何故、殺されなければならなかったのか。


その理由は田川の若八幡神社(下巻60)に書かれていました。

田油津姫は神功皇后を暗殺しようとしたというのです。

『日本書紀』だけでは解けない神功皇后の謎。
今回は朝倉から山門にかけて、次々に現れてくる伝承を辿ります。





この古代史講座はスポット参加ができます。
興味をお持ちの方は、以下に連絡の上、ご参加ください。
パワーポイントで楽しむ古代史講座です。


2017年1月19日 13時半~15時

麻生西日本新聞TNC文化サークル 
アイ&カルチャ あいタウン飯塚
電話 0948-22-3356(申し込み先)

福岡県飯塚市吉原町6-1(あいタウン3階)








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by lunabura | 2017-01-18 18:47 | お知らせ | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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