ひもろぎ逍遥

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ひめちゃご89 大中臣神社 藤原広嗣が創建した



ひめちゃご89

大中臣神社

藤原広嗣が創建した
 



前回の福童神社から600mほど南下した平地に大中臣神社がある。
将軍藤で有名だが、今は初冬。








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神社のランドマークともいえる銀杏が遠くからでも見えている。






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楼門は小郡市の文化財指定となっている。

案内板によると、
<平安時代の斉衡3年(856)作成の筑後国神明帳(高良下宮社神明帳)
に『西福童大中臣神』の神名が記載されており、
今から1100年以上昔、既に神社が存在したことを証するもので>
とある。







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楼門を潜るとさらに奥に社殿が鎮座していた。








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祭神は大中臣大明神、春日大明神、住吉大明神とあるが、
『福岡県神社誌』には「天児屋根命」とのみ記載されている。

地元の「小郡市の歴史を守る会」HPに、次のように記載されていた。

<【大中臣神社】
 大中臣神社は天平12年(740年)に藤原広嗣により創建され、
嘉禄2年(1226年)現地へ遷宮されました。

天保6年(1835年)、現在の社殿が再建されたと言われています。

祭神は天児屋根命(主祭神)、武甕槌命(脇祭神)、経津主命(ふつぬしのみこと)、
三筒男命(脇祭神)。>

この宮は藤原広嗣の創建だそうだ。




広嗣について、ウィキペディアによると、
<天平9年(737年)朝廷の政治を担っていた藤原四兄弟が
天然痘の流行によって相次いで死去した。

代って政治を担ったのが橘諸兄であり、
また唐から帰国した吉備真備と玄昉が重用されるようになり、
藤原氏の勢力は大きく後退した。



天平10年(738年)藤原宇合の長男・広嗣(藤原式家)は
大養徳(大和)守から大宰少弐に任じられ、大宰府に赴任した。

広嗣はこれを左遷と感じ、強い不満を抱いた。

天平12年(740年)8月29日、広嗣は政治を批判し、
吉備真備と玄昉の処分を求める上表を送った。
9月3日、広嗣が挙兵したとの飛駅が都にもたらされる。>

とある。


740年の上表文が挙兵と誤解されたのか?

大宰府で挙兵するとなると、何らかの勝算もあったはず。
ウィキペディアの説明では見えない構造的な問題があったのだろう。


この740年に大中臣神社を広嗣が創建したということは、
当社に並々ならぬ祈願があったということだろう。

この宮は1226年に現在地に遷宮したとあるので、
当初はどこで創建されたのかは分からない。


広嗣の古戦場は板櫃川(いたびつ)川だという。


到津(いとうづ)八幡神社(下巻91)はそのそばに鎮座する。

こちらは大将軍大野東人が戦勝祈願していた所だ。







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さて、次の宮に行こう。






大中臣神社








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by lunabura | 2017-08-31 20:17 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご88 福童神社2 冬至の太陽は鷹取山から昇る



ひめちゃご88

福童神社2

冬至の太陽は鷹取山から昇る
 



天照国照彦火明命を祀る福童神社に
天文祭祀の気配を感じたことを書くと、
チェリーがさっそく調べてくれた。

以下、コメントから。

<福童神社は耳納連山の最高峰「鷹取山」から 300.0°になりました。
そして、まれな事だと思うのですが、
ちょうどここから冬至の太陽が昇るようです。

方位のラインと太陽のラインが一致するみたいです。
カシミールの画像が正しければの話ですが…

鷹取山というのはどうなんでしょう?
耳納連山の最高峰になりますので、
ラインの立場としては一番の重要ポイントなのですが、
信仰の対象とはなっていないみたいですねぇ…

画像送りますね!>








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<今年の12月22日の日の出です。135mm望遠にセットした画像です。
20分前に同じ鷹取山から金星が昇るようです。見えないでしょうけど>

今年の冬至の日の出だ。20分前に金星の出も見られるとは、
かなり特異な日だ。


鷹取山は耳納(みのう)連山にある最高峰だ。
何度か登ろうとしたが、ルートが分からなかったことを思い出す。

そういえば、鷹取山は三つあるらしい。

一つは綾部神社の山、寒水川の上流域にある三角錐の山だったと思う。
あと一つは?
多分、筑後国造が知っている。
チェリーも簡単に見つけるかもしれない。


佐賀は何本もの太陽祭祀ラインがある地域のようだ。



さて、話は変わるが、糸島の「高祖山」の由来について、
別の人から次のような話をいただいた。

<高祖山の「高祖」は、漢の高祖の子孫の阿智王が
伊都国に来て高祖山になったとの由来もありました。>

これもまた興味深い話だ。
ここに追記しておこう。

お二人に感謝。

<2017年8月30日>












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by lunabura | 2017-08-30 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(18)

新しい相棒



新しい相棒


今年の夏、新しいパソコンを購入しました。
モバイルタイプです。

各地の歴史講座でパワーポイントを使うのですが、
プロジェクタとの接合部の形状が進化(変化)しているので、
初めての会場で上手く繋がるのか、
実はいつもハラハラしています。

会場によってはプロジェクタが旧式のため、
自分のパソコンが使えない時がありました。

そこで、今でもお古のモバイルのXPが大活躍しています。

しかし、XPもさすがにメモリー不足が起きることがあるので、
思い切って新規に購入したのです。

今日は初めて新しいパソコンを持っていきましたが、
念のため、古いのも持って行っていきました。

新しいパソコンが使えましたよ^^
新しい相棒の誕生です。


でも、来月の歴史カフェの会場では古いタイプしか使えないので、
XPを大事に持っていこうと思っています。

歴史カフェもパワーポイントを使うようになるので、
イメージが掴みやすくなります。

やはり、カラーの世界は素晴らしいですね。

今日も新しい出会いがあったり、
新たなヒントをいただいたりした一日でした。




メールやコメントありがとうございます。
お返事、今日は休みますね。




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by lunabura | 2017-08-29 21:21 | にっき | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご87 福童神社 天照国照彦火明命はニギハヤヒ?



ひめちゃご87

福童神社 

天照国照彦火明命はニギハヤヒ?
 



媛社神社から姫古曽神社に向かう途中に、福童神社がある。
直線で西に1.5キロほどの距離だ。
歩いて行ける距離だが間に川がある。

福童神社は小郡市福童(ふくどう)の神屋敷に鎮座する。



社殿は南面し、正面に入口がある。
しかし、境内に足を踏み入れてから違和感が付きまとった。

鳥居の位置や植物の配置から、
現在の社殿とは違う境内の形が見えてくるのだ。



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創建は438年前(平成7年から遡って)の室町時代末期とされている。
神殿から弘治3年(1557年)の木札が出ているそうだ。


しかし、社殿が建つ前から宮があったと感じられた。


祭神は天照国照彦火明命。

これを見て、さらに混乱に陥った。
ニギハヤヒが小郡に祀られている。


ところが、火明命は饒速日(ニギハヤヒ)とされるが、
『日本書紀』一書では、海幸彦とする。

そもそも「天照国照彦火明命」と「火明命」は別神なのだろうか。

実はこの「火明命」が海の中道の志式神社に豊玉姫と共に祀られているのだ。
「荒ぶる神々」の一柱なのである。

志式神社は明らかに安曇族の神社である。
しかし、志賀海神社に尋ねると、祭祀的な関連は全く無いという。

火明命が海幸彦なら、志式神社に祀られるのは理解できるが、
ニギハヤヒとなると、その関連が分からない。



神功皇后の本を書く時も、分からないままを書き、
後世の研究に委ねることとした経緯がある。


ここ小郡は物部が濃厚に存在している。


ここでの天照国照彦火明命はニギハヤヒなのだろう。

そういえば、媛社神社も鳥居の「磐船神社」から、ニギハヤヒの痕跡がみられた。

ここがその中心の宮だったのだろうか。

地形は、微高地の南部にあったと考えられる。

集落から出れば、肥沃な田園地帯が広がっている。
かつては中津海だったのだ。




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境内から社殿を撮ると、朝日が少し高くなっていた。
この向こうには媛社神社がある。








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東の鳥居は「天照□□」と読めた。

春・秋分の日には鳥居の向こうから朝日が昇る。
どこか、太陽祭祀の名残も感じられる宮だった。





志式神社(ししき) 「神功皇后伝承を歩く」下巻72


赤 福童神社 紫 媛社神社(七夕神社)







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by lunabura | 2017-08-28 20:27 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(1)

パソコンレッスン




今日もパソコンの個人レッスンに行ってきました。
次の夢を実現するために、新たな手法を求めて。


そして、暮らしの中でも共時性がいくつかありました。
見えない世界からの援助のサインです。


問題点を見つけては、クリアしています。


時間をどうやって作り出すかも、目下の課題です^^



<2017年8月26日>




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by lunabura | 2017-08-26 22:59 | にっき | Trackback | Comments(0)

高祖(たかす)の語源



高祖(たかす)の語源



【真鍋ノート】

白鳥座の十字の中心に、昔は赤い高津星があったという。
今はない。

いにしえの人はこの赤い高津星が銀河の中心を示し、
万物の生命の発祥として尊崇していた。
この祭壇があった所を「高祖・たかす」「鴻巣・こうのす」と呼んだ。

糸島の高祖山の語源がこれである。

のちには「託社(たこそ)」とも呼んだ。
倭人が巫女の神託を求めたことからくる。

倭人は上古は神産(かみむすひ)に祈り、
それから高麗系の南林を拝すようになった。

南林とは地中海の天地創造の二神のうちのガリヤという地の女神を
燕文に書き改めた神名である。

さらに次の時代になると、倭人は妙見や普賢や観音を唱えるようになる。

高津川とは、天の川のことである。


メモ 
鞍手六ケ岳の高祖も同じ由来か。   
高倉神社の神山は「高津の峯」という。神々が降臨した神奈備山。
「赤間」の語源も、この高津星が神武天皇の前に現れた赤馬に乗った神、
 ということからだと考える。





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画像出典
http://www.kvision.ne.jp/~ktmksdkh/14houkoku.html




『儺の国の星』p91

高津星

古今和歌集巻九羇旅 在原業平(825~880)
  名にしおはば いざこととはむ 都鳥 
  わが思ふ人は ありやなしやと
都鳥とは嘴(くちばし)と脚が赤いカモメである。 

空飛ぶ姿をみあげると、頭と腹に各々紅一点があり、
これが昔の白鳥座のありし日の姿であった。

眼光の位置には今も赤色巨星デネブが輝いているが、十文字の交点に
もっと赤く淀んでいた高津星は今はない。

高津星は夏の夜空に銀河の中心をしめす星であって、
万物の生命の発祥としての尊崇が古人にあり、
この祭壇があったところが怡土高祖(鷹巣)山(416m)、
那珂鴻巣(こうのす)山(100m)などとして、
名だけが残っている。

平安の頃は託社(たこそ)とよんでいた。

そして、わが心に思う女人の胸の内を告げる巫女が
里人の求めに応じて託宣(のりごと)を伝えていたときく。

倭人は天の川を「たかつがわ」とも称していた。
 




<2017年8月25日>

高祖山 上巻28 高祖神社
高津の峯 上巻11 高倉神社



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by lunabura | 2017-08-25 19:38 | <地名の由来> | Trackback | Comments(0)

さすがに




さすがに

35度越えの暑さに、昨日、今日と思考が停止しております。
ブログを書こうにも、考えることそのものに拒否反応。

それはそれで「あるがままに」が肝要ですね。

こんな時は整理が一番。

史料を出して整理するだけでも、いろんな発見がありますが、
やはり「考えたくな~い」
と頭が拒否しております。

涼し気な冬の海を一枚^^





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車窓から慌てて撮ったので水平線が斜めってます(^^;




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by lunabura | 2017-08-24 20:02 | にっき | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご86 媛社神社(七夕神社)


ひめちゃご86


媛社神社(七夕神社)
 





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昨年の12月8日の朝、冬の淡い太陽の光が届き、









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媛社神社の神額の金色の文字が浮かび上がった。

媛社神社。(ひめこそ)
福岡県小郡市(おごおりし)に鎮座する。

ここに三度(みたび)立った時、
ようやく、かつて夢で見た神社だと納得できた。

夢では「姫方」(ひめかた)信号の近くの女神を祭る神社という
キーワードでここに辿り着いた。

そうして、またここに立っている。





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二つ目の鳥居は暗いが、
「磐船神社」と「棚機神社」が併記され、
饒速日(ニギハヤヒ)の痕跡がわずかに残されている。



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そして、通称は「七夕神社」。





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詳しいことは「七夕神社」に書いている。
読み返してみると、我ながらよく調べている。
今も、それほど見解は変わっていない。

変わったことといえば、
奴山古墳群が世界遺産に登録されたことぐらいか。



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そして、この宮は恋人の聖地となっていた。



ちなみに、『小郡市誌』を見ると、仲哀天皇を祀る宮がいくつも出て来た。

1御勢大霊石神社 および、境内社 2成末神社
3竈門神社 および、境内社 4成末神社
5烏帽子石神社 
6日吉神社

仲哀天皇の崩御地は記紀でも複数伝えられているが、
祭祀の多さからも、やはりこの小郡での戦死が濃厚だ。

物部は仲哀天皇を守り切れなかった。
このトラウマが御原軍団という精鋭部隊を生み出した。
今でもそう思う。


さて、媛社神社については、過去記事をリンクしておこう。

『肥前風土記』が沢山の暗号を残している。




















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by lunabura | 2017-08-22 21:06 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

資料完成^^



歴史講座の資料が出来上がりました。
来週の分です。
8ページにもなりました(^^;

最近は紙を節約する事より、
ページ配分をゆったりとして、見て楽に思える方を優先しているので、
ページ数がだんだん増えてます(;’∀’)
(空白が増えている^^)

二時間内にまとめるのに、また一工夫が必要なのです。

今回は物部氏や賀茂氏。
シンボルを理解していくと、随分昔から各地に展開していたのが
見えてきました。

どちらも冶金の民と言えますが、
物部氏は武器を造ってたのかな。
賀茂氏は農機具などがメインということでしたよね。

七支刀は鉄の刀です。
各地に出土するのは青銅器が多いですよね。
どの部族が作ったのかが分かると面白いんだろうなあ。







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by lunabura | 2017-08-21 21:29 | にっき | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご85 ヒメコソ三社参りに戻ろう



ひめちゃご85

ヒメコソ三社参りに戻ろう
 




ヒメコソ三社参りをしたのは、昨年のこと。
2016年12月8日だった。

この詳細を記録する間もなく、
あちこちのヒメコソ(姫神)たちに参拝して回った。

比売神。
三女神。
何と北部九州の各地に祀られていたことか。


その深層には市杵島姫信仰が流れている。
災害を畏れる人々の祈りの女神だったと思うようになった。


今、各地から絶え間なく知らされる災害が
古墳時代にも起こり続けたのではないか。

あの広大な筑後平野が海から陸地に変化するために、
何が起こり続けたのか、
それを実際に目撃させられているように思われてならない日々だ。

「ナイルの氾濫」は「ナイルの賜物」と表裏一体だったが、
同じことがわが国の各地の平野でも起こり続けた。


昨年と今年では、すっかり世界が変わってしまった。


さて、いったい「ひめちゃご」が何をきっかけに始まり、
何を調べていたのかも、分からなくなってしまった。


今一度、「ひめちゃご35」の一部を掲載して、思い出そう。


ひめちゃご35 祭神の書き換え

このシリーズは「ヒメコソ」という言葉から始まった。
直後に訪れたみやき町の若宮八幡神社には「仁徳天皇」が祀られていた。

「若宮」といえば、仁徳天皇を指す所が多く、ここもそうだった。
この天皇が佐賀に祀られている点も驚きだったが、
もとは「姫古曽神社」と同じ神が祀られていたという話が琴線に触れた。

「ヒメコソ」社といえば、鳥栖と小郡に二社鎮座していて、
わずか2キロ半の距離だった。

が、二つは県が違っていて、佐賀県と福岡県に分かれていた。

稀有な事に『肥前風土記』にその「荒ぶる神」についての記述があるので、
過去記事を整理しようと手順を考えていたのだが、
立て続けに八女やみやまの神社を参拝することになった。

が、ついに歴史カフェのテーマとして、
「物部とヒメコソ神」が浮かんだことから、
11月に徹底的に伝承を並べて比較することにした。

その結果、鳥栖の「姫古曽神社」で起きていた「祭神の書き換え」が、
みやき町の「若宮八幡神社」でも起きたと考えられることが分かった。


つまり、こういうことだ。

鳥栖(とす)の「姫古曽神社」では、本来の祭神は「市杵島姫」だったが、
八幡神が勧請されると、本来の祭神は隅においやられてしまった。

「市杵島姫」は「たなばた屋敷」に留められた。

ところが、明治の維新の時に調査が入り、本来の神を前面に出すこととなり、
「市杵島姫」が主祭神に返り咲き、社号も「姫古曽」となったという。

この「ヒメコソ」は地名の「姫方」の語源ともなった。


「ヒメコソ」とはどういう意味か。

「こそ」とは貴人に使う敬称である。
だから「ヒメコソ」とは「姫さま」という意味となる。「姫方」も同意だ。

「ヒメコソ」とは貴(あて)なる姫神を指すことばで「普通名詞」と考えてよい。

だから、各地に「ヒメコソ」神は鎮座していることになる。
無理に同一神に習合させる必要はない。



鳥栖の「姫古曽神社」の祭神が書き換えられた事情が明らかになったことから、
みやきの「若宮八幡神社」も同様な書き換えがあったことが推測できる。

しかし、「若宮八幡神社」には調査が入らなかったのだろう、
上書きされた祭神の名のみが伝わることになったと考えられる。

しかし、奇しくも口碑に「ヒメコソ神」の存在が残されていた。

姫神さまが祀られていた証しは
その北部に展開する「姫方遺跡」という地名にも残されている。


さて、同じ市杵島姫を祭る二つの宮だが、やや離れている。
地図に落として眺めていると、二つの間に朝日山が乗って来た。


つまり、若宮八幡神社―朝日山―姫古曽神社 (市杵島姫―朝日山―市杵島姫)

というラインが存在するのだ。
驚いてチェリーに確認してもらうと、ドンピシャと重なったという。

それどころか、「姫古曽神社」から見た冬至の日没ラインと重なることが分かった。>



そうだ。こんな話だった。

若宮八幡神社に向かって
小郡の媛社神社(七夕神社)から出発したヒメコソ三社巡りの
詳細を思い出して書いて行こう。

<2017年8月20日>






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by lunabura | 2017-08-20 21:18 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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