ひもろぎ逍遥

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<   2017年 10月 ( 25 )   > この月の画像一覧

ひめちゃご102 検見谷遺跡 12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった



ひめちゃご102

検見谷遺跡 

12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった
 


さあ、弥生時代に遡ろう。

やけに遺跡が多い北茂安町だが、出土は22号線以北に集中するという。
そこまでは海が上がってこなかったのだ。

丘という丘は甕棺や住居跡だったのではないか、と想像したくなるほど多い。

そして、あの麗しき12本の中広型銅矛がこの地域から出土していた。








c0222861_20394149.jpg

この12本の銅矛が出たのは旧北茂安町だったが、場所が特定できない。

町史にその記述を見つけたが、
住所は「大字白壁字一の幡」としか書かれていない。

HPでも場所が示されていないという異常事態だ。

この場所について、町史では
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。
この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、
南へ入り込む小支谷の斜面上で、標高約24メートルの場所である。>
と書かれている。

これではいったいどこから出土したのか、全くわからない( ;∀;)

手掛かりは
<銅矛の発見は、(略)その土地を所有するゴルフ場の職員による
樹木移植作業中のことであった。>
とあり、そのゴルフ場が佐賀カントリー倶楽部だ
ということだけが分かった。

地図をいくつも照らし合わせるが、わからない。









c0222861_2111397.jpg

チェリーの地図だと、画面右下の丘陵地帯がゴルフ場らしい。

物部神社の東に谷がいくつもあるが、そのいずれかだろう。
さすがの、るな探偵もお手上げだ。

出土状況は12本を刃先と袋部を互い違いにして埋納していたという。
このような埋納法は
春日市岡本辻遺跡や那珂川町安徳遺跡と同じだそうだ。

銅矛の長さは82・2~83・8センチ。
綾杉状の文様が研ぎだされている。

これと共通点が多いのが島根県斐川町の荒神谷遺跡だという。
銅剣が358本出土したが、そのほかに16本の銅矛が出土している。

互い違いに置かれ、刃を立てた状態は検見谷遺跡と同じで、
丘陵斜面の中腹であり、
等高線とほぼ並行した状態で埋納されたという点でも一致しているそうだ。

荒神谷遺跡の16本の銅矛のうち、中広型は14本で、
綾杉文様があるのは7本だというので、検見谷遺跡の方が多い。

鋳型は北部九州や四国の西部に限られるということだが、
たしか、出雲の銅矛の鋳型は春日だと聞いたことがある。

出雲の銅鐸と「吉野ケ里遺跡から出土した銅鐸の鋳型」が一致した話もあり、
この佐賀東部と出雲との関連は検見谷の銅矛の出土から、
さらに深いものになった。

それにしても、どうしたことか。
荒神谷遺跡の出土地は簡単に見学できた。
それなのに、検見谷遺跡は出土地の確認さえ、一般人には出来ない。

さらに、六の幡遺跡の29号甕棺は弥生後期初頭で、
完形の連弧文昭明鏡という中国製の鏡が出ている。

なんだか、すごい出土品の数々なのだ。
こんな情報が今どき、ネットでも見られないのは問題だと思う。


さて、ここは風土記にも登場している。
どうやら、佐賀カントリー倶楽部は『肥前国風土記』では
三根郡に当たるようだ。

町史によると、
「三根郡は、『肥前風土記』によれば、海部直鳥が望んで、
神崎郷の一部をさいてつくったとされる。
郷は千栗・物部・米多・財部・葛木・漢部の六郷があるが、
風土記では物部・漢部・米多の三郷しか説明されていない。>
とある、

葛木郷は物部神社の南にあった。

葛城氏について、町史は「大和の大氏族」と書いているが、
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔の宮で、
葛城氏はもともと九州の氏族だったと思う。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻96番篠崎八幡神社)

そして、巨大な銅矛が制作できたのは加茂氏ではないかと
最近は考えるようになったが、
この地域の南西にはなぜか「加茂」という信号があったのを思い出した。


佐賀カントリー倶楽部



<ひめちゃご>
<2017年10月31日>





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by lunabura | 2017-10-31 21:03 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご101 物部神社2 板部城と中津隈城



ひめちゃご101

物部神社2 

板部城と中津隈城
 


さて、物部神社の西から聞こえてきた
「私たちはここにいます」という森について、
密かに筑後国造の調査を期待していたが、やはり調べてくれた♪

以下はそのコメントだ。

<物部神社の西の森は、板部城という中世の城跡で、古墳は無いようです。
しかし物部神社の西500mの宝満神社
(祭神は玉依姫命であり、息長足姫命、市杵島姫命、大山咋命も合祀されています)
の境内には、前方後円墳である中津隈宝満宮古墳や
他の古墳の石室の石材が露出しています。
また、三階松紋もあります。>

このように、西の森には板部城があることが分かった。

また、さらに西にある中津隈宝満神社にも三階松紋があるという。
「宝満神社と三階松」は珍しい組み合わせになる。

実は、これと前後して、地元に詳しい方が
その宝満神社の画像と掲示板の説明文を寄せてくれた。








c0222861_2144764.jpg


幡の上部に赤い三階松紋が見える。
この石垣が古墳の形状を残しているのだろうか。
ほかの古墳の石材もあるということで、
もともと複数の古墳が築造されていたようだ。

この宝満神社自体は732年に松本というところに勧請されたのが、
812年に現地に遷されたということだ。

すでに古墳があったので、神社を建てる時に一部の古墳が壊されたのだろう。

「城」の話を手掛かりに『北茂安町史』を調べてみた。
すると、ここにも中津隈城があったという。
そして、この中津隈宝満神社が城の核とされていた。

つまり、中津隈城の丘の歴史は、もともと古墳があり、
神社が建ち、城が建てられたことになる。

これと同様の歴史を辿ったのが物部神社と板部城のようだ。



町史によると、板部城の敷地に関しては、
西の森説と、物部神社を含んだ敷地説の二つに分かれるという。











c0222861_2153167.jpg

物部神社の境内には上のように古墳の奥壁が並んでいる。
城を建造するときに、奥壁だけ残されて祀られたような趣だ。

この古墳は物部神社敷地にあったものか、
あるいは西の森から移されたのではないか。














c0222861_2161646.jpg

この場所について、チェリーが新たに作成してくれていた
現地周囲の地図があるので、見てみよう。

物部神社の西に島が見える。(「スーパー地形」の「形」の右側)
これが「中津隈西」といい、中津隈宝満神社が鎮座する所と思われる。

そして、物部神社の南に涙の形をした島(岬)が見える。
そこを「中津隈東」と呼ぶようだ。

「隈」は天文観測所の可能性がある。

「西」と「東」があるということは、中央があるということだ。
「西」と「東」に挟まれた岬には重要な施設があったのではないか。

地名と地形からそんなことを考えた。

なお、『風土記』には物部神社の北、綾部八幡宮の南の地点に
「郡役所」があったことが書かれている。
その場所が神社の形で残っていたら素晴らしいが。

そして、綾部~物部の舌状台地の東を流れる川が寒水川だ。
寒水川といえば、先日の朝倉の水害で氾濫した川と同じ名だ。

綾部~物部の東の寒水川も土砂崩れが起こって、僧が祈っている。
(九千部山の語源由来)
周囲は花崗岩質の風化土からなる丘陵地帯で、
綾部の民が故郷に戻らず居ついたのも納得できる。

さらに古くは阿蘇Ⅳの火砕流が及んだ所でもあるという。
これは9万年前の話だ。

三人の情報のおかげで、漠然としたまま素通りするところが、
地形と由緒をしっかりとみることができた。
三人に感謝。

<2017年10月30日>





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by lunabura | 2017-10-30 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(7)

ひめちゃご100 物部神社 三階松紋は白村江戦後を象徴するか ここにも市杵島姫が



ひめちゃご100

物部神社

三階松紋は白村江戦後を象徴するか
ここにも市杵島姫が
 



「ひめちゃご」もついに100回となった。

壊れたパソコンは復元されて戻ってきたが、
画面が点灯しないという肝心の故障が治っていなかった。

再び修理に出した。
壊れてからもう一月近くになる。

新パソコンにバックアップデータを取り込みながら
「ひめちゃご」を完成させることにした。

幸い、昨年の秋の撮影だったので画像は残っていた。
ファイルを恐る恐る覗くと、イチョウの落ち葉を撮っていた。
丸一年が過ぎようとしていた。



c0222861_19391285.jpg







c0222861_19395343.jpg

ここは佐賀県三養基郡。









c0222861_19401632.jpg

物部神社。

忘れもしない。
境内に入ってゲートボール場を過ぎるあたりで声が聞こえた。
「よく来られましたね」
女性の声だった。

思わず辺りを見回したが、当然ながら人はいない。
見えない世界からの歓迎の声に胸が熱くなった。



祭が行われたばかりのようだった。









c0222861_19404365.jpg

この物部神社、神紋がなんと三階松なのだ。






c0222861_1941853.jpg

宮地嶽神社と同じ神紋だ。
九州王朝すなわち倭王朝紋とされる三階松紋を物部神社が挙げている。
その意味が不明だった。
しかし、この難問は「高良玉垂宮神秘書」の解読によって解決した。

倭王朝は安曇族の阿部氏が主体だったが、
白村江の敗戦後、流浪の王家となった安曇族に代わって
高良山に仏教を受け入れて生き延びたのが物部氏だったのだ。

だから高良下宮社には物部氏の社殿に三階松紋がある。
阿倍磐井も皇別とあるので、古いところでは系図が交錯している。

この三養基郡の物部神社も、その背景の上にあるのだろう。
これを知るために、一年の学びをしてきたようだ。



ここはかつて「北茂安町」だった。
「北茂安町史」にこの物部神社が載っていた。

鎮座地は 大字中津隈(板部)とある。

「創建・沿革」に次のようにあった。
<推古天皇は602年2月に来目皇子を撃新羅将軍に任ずる。
皇子は国造・伴造らの軍勢。2万5000人を率いて筑紫に到着する。

その時、物部若宮部をして今の板部の地に「神の社」を建てさせた。
戦勝祈願のためと考えられる。

「肥前国風土記」に
「此の郷の中に社あり、名を物部の経津主之神という」
とあるのが今の板部の「物部神社」であろう。
なお、来目皇子は602年6月病気にかかり、翌603年2月に亡くなっている。
新羅攻撃は中止になったという。
とすれば、物部神社の創建は602年で、北茂安町にある神社の中では
最も古いということになりそうである。>

こここそ、風土記にも書かれた物部神社だった。
しかし当時、社殿が建てられたわけではないだろう。

社殿を造営したのは、正平年中(1346~1370)、当時この地を治めていた地頭・
板部越前守成尚であり、
再建したのは延享5年(1748)、国主・鍋島宗教によっている。

これからすると、後世になって三階松紋になったと思われた。

当社は今は物部神社だが、明治34年までは「板部神社」と称したという。

さて、祭神は物部経津主神とあるが、
町史によると市杵島姫命も祀られていた。

ここにも、まさかの市杵島姫だった。
饒速日の妃として、市杵島姫信仰は
この佐賀東部にずらりと見られたことになる。

さて、この日、参拝を済ませて戻る時、

「私たちはここにいます」

という声が聞こえた。








c0222861_1942843.jpg

声の方を見ると、森があった。


この社を守った一族が奥津城としているのだろうか。
いかにも古代の営みがありそうな丘だ。

この物部神社の創始が風土記にあるように推古天皇の時代だとすると、
あの磐井の乱の時代、朝日山宮地嶽神社に対して、
物部神社は物部氏の拠点となったのではないかと考えたことは
誤りとなる。

しかし、この森から6世紀より前の墳墓が見つかれば、
もともとここには市杵島姫を祀る物部氏がいて、
新たに武神を迎えて祀ったとという仮説もあり得よう。
が、それは発掘を待たねばならない。









c0222861_19424699.png
                   (カシミール3D)

チェリーがすごい画像を作ってくれた。
千栗八幡宮や物部神社が岬上に建っていることが良く分かる。
クジラが岬の話をよくしていたね。

一年前に、この画像を東から西へと夕陽に向かって参拝していった。

さあ、次回はいよいよ始まりの宮、若宮八幡神社だ。

<ひめちゃご>
<2017年10月29日>

本日天皇皇后両陛下、宗像大社へ。











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by lunabura | 2017-10-29 19:45 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(8)

RKBラジオ「古代の福岡を歩く」1回目の放送がありました



RKBラジオ「古代の福岡を歩く」

1回目の放送がありました


以前お知らせしていたRKBラジオ「古代の福岡を歩く」は
日本シリーズ(祝ホークス♪)放映のため、
時間を早めて2時15分から放送されました。

あの坂田周大アナウンサーの番組だったんです(;’’∀’’)
低音と雰囲気がかっこいい♪




c0222861_195658100.png



この番組では『神功皇后伝承を歩く』を最初から
取り上げてくださるということです。

ですから、今回は1番の忌宮神社でした。

テーマは新羅の上陸襲撃事件や祭祀、軍備、干珠満珠など。

脱線した話も面白いということで、
あちこちと飛んだ話を放送してくださいました。
(私は脱線していないつもりだったのですが(;^_^A)

ラジオは「ラジコ」というサイトでパソコンから生視聴できます。
RKBラジオのHPの左上に大きなアイコンがあります。

もし聞き逃しても、アーカイブがあるので、
時間があるときにいつでも視聴できます。

RKBラジオ→番組表→土曜日→「古代の福岡を歩く」→アーカイブ

以下から入れます。




私の分は「シーズン3」の4回目からです。

今日(10月18日)の話は数日後にUPされると思います。





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by lunabura | 2017-10-28 19:59 | お知らせ | Trackback | Comments(0)

真鍋ノート魏志倭人伝2 躬巨国 投馬国 伊都国 耶馬国 好古都国


真鍋ノート

魏志倭人伝2

躬巨国 投馬国 伊都国 耶馬国 好古都国



さて、真鍋大覚による魏志倭人伝の国々の記事のつづき。

躬巨国くしこく 古賀政男の出身地・筑後三潴大川。(宮崎康平説)
投馬国とうまこく 天草島。天鳥船の故郷。
早良さわら 魏志倭人伝にはない。
伊都国いとこく 怡土郡。奴国との境は室見川(早良川)
奴国ぬこく 那珂郡。伊都国との境は室見川(早良川)
耶馬国やまこく 筑後八女郡。
好古都国こことこく こごち。満天の星座。不知火の群光を連想させる。
邪馬台国やまたこく 時見の対象となる高山を遠望するところ。

早良に関しては、遺跡がありながら、
魏志倭人伝には記述されていない謎があるが、
真鍋は奴国の一部としているようだ。

伊都国は糸島水道の南から室見川までとしているので、
高祖山や飯盛山の山塊は伊都国ということになる。

奴国は「ぬこく」「なこく」いずれを読んだか未詳だが、
室見川と「ありなれ川」に挟まれた領域で、
那珂川町を中心と考えているもよう。

耶馬(やま)=八女(やめ)

好古都国に関しては断定はしていないが、
文脈からは不知火(しらぬい)の見える有明海沿岸と考えているようだ。

邪馬台国も断定していないが、東か西に時計代わりの高山があるとする。

また、「奴佳鞮」(なかて)とは邪馬台国の「官名」だが、
同名の「王」(あるいは邪馬台国の一官)が
多良岳~諫早を領有していたとする。


前回の地図に追加してみた。









c0222861_19373985.png

「奴佳鞮」(なかて)が邪馬台国の一官名ということは、
邪馬台国はこの付近としているように見受けられる。

倭国の大乱は雲仙岳(画像では普賢岳)の領有を巡ってのものだ
という文も見られた。(少しあいまいな記憶)


見つかったのは以上の国ぐらい。

本をお持ちで、ほかの国を見つけた方は、
コメント欄に、ページとともに一文を是非とも!


<2017年10月27日>




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by lunabura | 2017-10-27 19:38 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

真鍋ノート 魏志倭人伝 奴国 不彌国 為吾国 伊邪国 姐奴国 巴里国


真鍋ノート

魏志倭人伝 


奴国 不彌国 為吾国 伊邪国 姐奴国 巴里国



邪馬台国論争に参加する気持ちはサラサラないが、
真鍋大覚の本には各国の場所がちりばめられている。

単語帳をエクセルでボチボチと作り始めたところ、
真鍋による魏志倭人伝の各国も少しずつリストに挙がってきた。


今回は、その国々の中、わずか六国ではあるが、
その場所を確認しよう。


奴国ぬこく二万戸余り。戸をもって数えた。ありなれ川を挟んで対岸に不彌国。
不彌国ふみこく千余家有り。家をもって数えた。ありなれ川を挟んで対岸に奴国。
為吾国ゐごこく肥後菊池泗水。ゐご=地底から湧き上がる水をためた深い池。
伊邪国いざこく肥前松浦伊万里。筑紫の天原の領域。
          中東民族が住み着いた歴史あり。
姐奴国そなこく宮崎康平によると、肥後益城。(ましき)
          そぬ・せの=女人が衣装を洗い濯ぎ、
          砧でたたき晒して干し、頭に乗せて帰る姿。
巴里国はりこく朝倉郡。あさくら・はり=高瀬舟の元祖の名。

地図に落としてみた。









c0222861_20324216.png

真鍋は「奴国」の位置を「ありなれ川」の西としている。

私自身、論を立てるようなレベルには達していないが、
真鍋の言う奴国の位置に関しては違和感がある。

香椎宮の位置が儺県(なのあがた)だからだ。

奴国とは、
委奴国(倭奴国)の金印が出た志賀島を中心とした博多湾沿岸全体、
すなわち、那珂川~那の津~香椎~旧粕屋郡北部を考えている。


真鍋による魏志倭人伝の世界は、
これからも少しずつ追及していこう。

あくまでも真鍋の世界であって、
私の説ではないことを断っておきたい。


真鍋の邪馬台国は何処だろうね。

<2017年10月26日>



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by lunabura | 2017-10-26 20:35 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(5)

土蜘蛛



真鍋ノート

土蜘蛛



土蜘蛛といえば田油津姫だ。

兄の夏羽も、その祖の神夏磯姫も土蜘蛛ということになる。

真鍋は、土蜘蛛は地中海のエトルリア人の子孫、トロヤ人、
フェニキア人、更にはペルシャ人を含むという。

金工の術に長じた西域出身の異邦人である。

「つくみ」とは夜の間も眼光炯々(けいけい)として目を輝かす
フクロウ(梟)ミミヅク(木菟)のことをさすが、
一方で、鉄を溶かす炉の火口(ほぐち)の形容でもあったという。

仕事が終わるまで昼夜の区別なく
赤く燃え盛る炎の中身を除く窓のことも指した。

近東では、火の加減はすべて未婚の女人があつかったという。

ギリシャ神殿では、神に供える料理を作るために
巨大なレンズで天の日(火?)を集めて火をともすのは
神殿の女官の務めであったという。
(儺の国の星拾遺 p108)

2018平昌冬季オリンピックの聖火の点火は
え?
本日24日?




c0222861_1923449.jpg


<2017年10月24日>



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by lunabura | 2017-10-24 19:25 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(2)

新月のいざないは



10月20日は新月でした。
なんだか、大きな節目の「新月」だったようですね。

今回の「新月」は
「新しい体験が始まる」のと、「根気のいること」がセットらしい。

わたしもまたまた新しいことを思いついたのですが、
さすがに根気が要る(´・ω・`)

そういう点では新月の占いは当たっているなあ(;^_^A

何を思いついたかというと、
「真鍋の本の単語帳を作る」というアイデアです。

これまでも何度も単語帳を作りました。

手書きやワード打ち込みなどなど。

でも、利用しにくいのです。

最終目標の渡来人の読解に関して、
言葉が重複したり、難解だったりして理解が進まないのです。
誤植もあります。
「カン人」が「韓人」か「漢人」か、分からないのです。
「漢字」が「韓字」となっているのを発見したからです。
「展開」が「転回」となったり。

真鍋が盲目になったため、校正が出来なくなったのがその理由です。

ですから、根本的に読んで理解しないと、
誤植のまま解釈する危険性があります。

そのためには、単語帳を作って正誤表も要るなあと。
いったいどれだけの労力が必要だろうか。


大体、言葉にすると「思い」は消えてしまいます。
だから、普段は「形」になるまで発表しないのですが。
今回は書いてみようと思います。

書いて消える思いなら、大したことはありませんね。




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by lunabura | 2017-10-22 20:47 | <真鍋大覚儺の国の星> | Trackback | Comments(0)

鎮懐石八幡宮3 夏至の日没が見える宮



鎮懐石八幡宮3

夏至の日没が見える宮


前回のバスハイクで鎮懐石八幡宮に参拝しました。

宮司さんに伺うと、現在の社殿は新たに遷したもので、
元の場所は陰陽石などが安置されている祠の所だそうです。

社殿の手前の見晴らし台が元宮の位置ということになります。
ここからの夕陽の画像をいただきました。
とても綺麗な夕陽が撮れるポイントなのです。
Facebookにも載せられています。

それを見て、(例のごとく)ここは天文観測所だったのでは、
という思いが生まれました。

鎮懐石八幡宮は北が開けていて、北西には姫島が三角形に見えています。

ここから、暦的にいつ日没が見られるのかチェリーさんに調べてもらいました。










c0222861_1950692.jpg

やはり、夏至の日没が観測されました。
が、姫島に沈むことはありません。
夏至が過ぎると、日没は左に寄っていくのです。









c0222861_19502873.jpg

チェリーさんも次のように説明してあります。
<海に沈む日の入りが見えるのは、夏ということになると思います。
夏至から一ヶ月後の7月21日の日の入りの画像を添付します。
北寄りに移ってきた日の入り地点が、左側に戻ってしまいますね…
日の入り地点の左側は、東松浦半島沖の島々です。>

以上から、ここは夏至を照準に観測できるポイントだとわかりました。


夏至の日取りの決定には星の観測も加味するので、
星没も調べると、面白いことになるでしょう。

ここは神功皇后が安産の祈りをしたというのですから、
支えた海人族がいたはずです。

このすぐ北の志摩には安曇族関連の宮があり、
皇后軍(連合軍)の出兵の地も伝えています。

元宮からは糸島水道に出入りする舟も監視できるのです。
高見台などを設置すれば、かなりの範囲が観測できるでしょう。

ここは夏至日没観測地として記録しておこうと思います。




さて、チェリーさんがさらに面白いラインを見つけました。
この鎮懐石八幡宮を頂点とした直角二等辺三角形の底辺ポイントに
神社があるというのです。






c0222861_1951222.jpg

それは壱岐島の女嶽神社と宗像大社の辺津宮です。
逆様の三角形になります。


c0222861_19521034.jpg


以下はチェリーさんのメモです。

<女岳(女嶽神社) → 鎮懐石八幡宮旧社地 南東134.96°距離 50.221km
女岳(女嶽神社) → 宗像大社辺津宮 東89.88°距離 70.874km
鎮懐石八幡宮旧社地 → 宗像大社辺津宮 北東44.98°距離 50.180km
鎮懐石八幡宮旧社地 → 縫殿神社 北東45.00°距離 48.002km

壱岐の女岳(女嶽神社)から宗像大社辺津宮の西側の山稜は見えるようです。
ただ、真東よりは、少し誤差があります(0.12°ですけど)。
でも、この誤差の範囲であれば、直角二等辺三角形と言えると思います。
(頂角は89.81°になります。)

ただ、その意味するところは、不明です。>

縫殿神社がライン上に乗っています。
この縫殿神社は江戸時代に遷宮して山の中に鎮座していますが、
元宮はすぐ近くの畑の中にあり、やはりラインに乗ると思います。


鎮懐石八幡宮からは壱岐の山も見えるそうですよ。






c0222861_19524150.jpg

<カシミールの判定では、壱岐の山が見えます。
200mm望遠相当の画像を添付します。>


チェリーさんのお陰で、古代の太陽観測地のデーターが
少しずつ集まってきました。
真鍋の本をより理解するためには、
神社と天文観測地の理解がとても役に立ちます。
いつも、ありがとうございます。

地図は国土地理院発行のものを、
立体図はカシミール3Dを使用しています。

『神功皇后伝承を歩く 下巻』62 神功皇后は石を腰に挟んで出産の遅れを祈った


<2017年10月21日>
<鎮懐石八幡宮><祭祀線>

糸島市二丈深江2310






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by lunabura | 2017-10-21 19:56 | 鎮懐石八幡・ちんかいせき・糸島 | Trackback | Comments(4)

歴史とスピリチュアル




歴史とスピリチュアル


昨夜は床につくなり、
来年の講演の概要が浮かんできてびっくりしました。
(まだお知らせしていない分です)

スピリチュアルの極みである『ガイアの森』を出しながら、
今の私は学問のような歴史を書いています。


神社を参拝するうちに
神話は歴史だったことに次第に気が付いてきました。

その神々を祀った人々がいます。
その歴史が日本の歴史でもあります。
わたしにはこれを学ぶことがとても大切なことでした。

今思えば、歴史カフェやお話会では、
スピリチュアルな話を求めてきた方も多かったのでしょうね。

なのに、ガチガチの歴史の話をしました(;’∀’)


このブログに初めてアクセスした方の中には
神社や神々に惹かれる謎解きがきっかけだった方もあるでしょう。

『ガイアの森』というスピリチュアルな世界が
展開しているのではないかと思う方もあったことでしょう。


しかし、分かったのです。
神話と歴史は密接につながっていることが。


沖ノ島関連遺跡がすべて世界遺産に登録されたのは
スピリチュアルだったから。

まさに、地に着いた歴史の学びがあってこそ、
このスピリチュアルな価値観も理解できると思うようになりました。

気が付くと、このブログももうすぐ丸8年。

8年間の歴史の学びをしてきました。
基礎を勉強したのですね。

スピリチュアルな世界と歴史が融合していきますように。


この数日、執筆に戻るために真鍋大覚を精査していますが、
今朝、ふと思いたって、
「那珂川町 儺の国の星 復刻版」
で検索したら、すでに復刻版が出ていました。
「拾遺」の方はなんと初版本が出ています。

うれしい旧価格1000円と1500円。

チーム・アンドロメダ。
この指止まれ。
一緒に学びましょう。




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by lunabura | 2017-10-19 21:01 | にっき | Trackback | Comments(2)
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