ひもろぎ逍遥

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<   2017年 12月 ( 24 )   > この月の画像一覧

さすがに




さすがにルナワールドも、年末体制で大掃除モードです。

以前、重層を溶かして拭き掃除をしている話を書きましたが、最近は劇落くんのそっくりさんのダイ○―の「落落くん」を愛用しています。

水だけで落とすやつです。
拭き上げたあと白くならないので、シュッシュッとスプレーして、雑巾をかけて終わりです。
食品まわりも安心の電解水です。

あは。
それでも、すぐにバテますな。

やっぱり、三十分掃除を続けるのが一番合ってます。(´・ω・`)




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by lunabura | 2017-12-30 20:13 | にっき | Trackback | Comments(0)

楊貴妃は蜀の人だった




楊貴妃は蜀の人だった




三星堆の不思議な青銅の仮面像から蜀の文化を知ったが、楊貴妃がこの「蜀」の人だと知って驚いた。

唐文化華やかな時、玄宗皇帝に愛された楊貴妃がライチが好きだったとか、傾国の美人とされたこととか、ワンパターンの知識でしか見ていなかったが。

ライチは蜀の産物だったのだ。
故郷から700キロも離れて暮らす楊貴妃。
故郷の思い出と共に食べていたことになる。

彼女は胡舞を舞う美しい娘だったという。
胡舞とは胡人の舞。
胡人とは西域の異民族。
南方の蜀の娘が胡人に紛れて生きた。

当時の胡舞のスタイルはまるでベリーダンスのようなヘソ出しファッション。
その美しさで注目された楊貴妃が皇子の妃となり、その父皇帝に召し抱えらえた。

なよなよとした姿で描かれる楊貴妃だが、胡舞を舞うとなると、纏足(てんそく)もされておらず、生き生きと動く官能的なスタイルの女性だったことになる。

蜀の娘が胡舞族の一員となったのも、哀しい背景があったのだろう。
それ相当の覚悟を持って生きていたと思う。

安史の乱(755)の時、玄宗皇帝が城を脱出して楊貴妃を連れて向かったのが「蜀」だった。そう、二人は楊貴妃の故郷に向かっていたのだ。

安史の乱のうち、安禄山はイラン系ソグド人。
ラクダに荷を乗せてシルクロード交易をする商人、すなわち異民族だった。

唐は多民族国家だった。
その縮図は日本にもあった。
一つ知ると、一つ見えてくる。

ところで、玄宗皇帝に重用された遣唐使に井真成がいる。
その「井」姓も気になるところである。















<2017年12月29日>




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by lunabura | 2017-12-29 20:04 | メモ | Trackback | Comments(2)

エジプト太陽の船と筑紫野の五郎丸古墳壁画



エジプト太陽の船

筑紫野の五郎丸古墳壁画





エジプトのクフ王のピラミッドの脇から二つの太陽の船が出土しているが、そのサイズが違っていて、大小二つあるのがずっと気になっていた。
一つは帆船で、もう一つの船を曳くようになっているらしい。




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曳かれる船はキャビンだけで、太陽神ラーとファラオが乗るようになっているそうだ。

これと同じ二艘の船の壁画が南アメリカのピラミッド関連の壁画にも描かれていることがRKBテレビであっていた。










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(画像出展)
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo14.htm


これを知った後に筑紫野市の五郎丸古墳壁画を見ると、上の船の四角の構造物は棺ではないのかもしれないと思うようになった。
棺にしてはサイズ感が違うのだ。
これは王の為のキャビンの可能性はないだろうか。

エジプトの壁画と同じ思想の船が浮羽市と筑紫野市にあるのは、
有明海から入って来た渡来人が居をなしたからか。

彼らは石室の空間を埋めずにはいられない観念を持っている人たちだと思う。



<2017年12月27日 >



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by lunabura | 2017-12-27 21:33 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

王城神社縁起 胸肩県主に阿部高丸・助丸の名が



王城神社縁起 

胸肩県主に阿部高丸・助丸の名が



 太宰府市にある王城神社の縁起を見ていると、
胸肩県主阿部高丸・助丸 今宗像郡宮地村の宮地嶽大明神なり」
という記事が出てきて、思わずのけぞった。

これはどういうこと?????

胸肩県(むなかたのあがた)の長は「阿部高丸・助丸」だというのだ。
この二人はもちろん宮地嶽神社の失われた祭神で、安曇族だ。
宗像の長は宗像氏ではないことになる。
そして、宗像は安曇族の領地だったということになる。

これをいったい、どう解釈していいのだろうか。
大体、あの時代、釣川の河口域に平地があったのだろうか。
かなり奥まで海が入っていたはずだ。
そして、奥には安曇族が入っていた。八所宮然り。安倉然り。

宗像大菩薩とはいったい誰だったのだろうか。

改めて、この「胸肩県主=阿部高丸・助丸」でどのようなストーリが出来るのか考察せねばならなくなった。 

この一文の前後は神功皇后が出産ののち、王城神社で「皇子の賢くましまさんこと」を祈った時のことが書かれ、阿部高丸・助丸と武内宿禰が側で祈ったとある。

すでに阿部高丸・助丸は豊浦宮で戦死しているはずだ。
忌宮神社(豊浦宮)で戦死している。それは出雲でも神楽になっている。


実はここに『日本書紀』がどうしても隠したい歴史がある。
それは新羅が先に倭国の皇居を襲って侵略しようとしたことだ。

三韓征伐の真の目的は新羅の侵略を食い止めるためだったのだ。
徹底的に隠された戦いが今でも古代史家を欺いている。

真実は忌宮神社に残されているのだ。




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それにしても、阿部高丸・助丸(高麿・助麿)兄弟が宮地嶽神社の祭神であるという記録に初めて遭遇した。

この史料は『大宰府市史』の「王城神社縁起」だ。



ところで、王城神社の神紋の扇は安曇磯良が神功皇后から賜った紋と同じだ。
当社の真魚箸神事(まなばし)は志式神社の早魚(はやま)神事の継承変形だ。

明らかに安曇族の聖地だったものが、白村江戦ののちに事代主命に上書きされている。

王城神社にはいくつも大事な記録がある。

神武天皇の城が四王寺山に築城された件もその一つだ。中国史に載る筑紫城の候補となる。
水城の水は山口川から入れられた。

今日は取りあえずメモしておこう。
ちょっと、時間をかけて取り組む内容だ。史料には間違いも含まれているので慎重に当たらねばならない。



最近、当たる資料が多すぎ、アイデアも、どこに書いたか忘れて探すこともしばしば。
ブログに書いておくのが一番確実だと気付いた。

自分で、自分のブログのサイドバーで検索するっちゃ。(´・ω・`)

『神功皇后伝承を歩く』上巻1 忌宮神社 p11「塵輪の襲撃」





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by lunabura | 2017-12-25 20:56 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

昨夜のラジオ放送 八幡古表神社


昨日のRKBラジオ「古代の福岡を歩く」は八幡古表神社でしたね。

四年に一度の傀儡舞・神相撲があるそうで、前回行く予定にしていましたが、あいにく台風が接近中で、急遽取りやめました。

でも、この番組のディレクターは出かけたそうで、その内容の放送がが昨夜ありました。

宮司さんの話、自分が行っても聞けない話で興味深く聴きました。

神功皇后が船や兵士の調達に来たということなので、時期を考えると、豊浦宮の時だろうなと思いました。

また、隼人の乱と傀儡舞の話は、大伴旅人の歌人とは違う側面が印象深かったです。

番組を聴くのはブログのサイドバーからRKBラジオをクリックして、左上のラジコを開いていますが、この時、テーマになった神社や古墳のHPをパソコンで開いて、画像を見ながら聞いています。

神相撲の取組表が掲載されていたので、マジマジと見ました(´・ω・`)
いろんな発見があります。
次回はその神相撲の話だそうですね。
年末の12月30日に放送されるのかな、翌年になるのかな。

聴きそびれてもアーカイブがあるから安心ですね。


豊前の方にも神功皇后伝承地がたくさんあるのですが、それを一つずつ訪問するのをあきらめたことを思い出します。慣れない土地の小さな祠を探すのは体力と気力がいるんです。

地元の市町村で伝承地のマップを作ってくださると、嬉しいですね。


飯塚市では素敵な伝承地マップが出来ていました。
ソラリアステージで作成した方とお会いしましたよ。

今年は色んな体験をしたんだなあ。





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by lunabura | 2017-12-24 18:09 | RKBラジオ 古代の福岡を歩く | Trackback | Comments(0)

冬至ですね


今日は冬至ですね。

古代の寒い所では春を迎える喜びの日でしょうが、現代の日本では今から真冬になる感覚がします。

日が長くなるのが春めく感じかな。

占星術的には18日の新月から節目が続いているらしく、いくつもの扉を開けていて、来週の月曜日の金星が移動したあと、新しいステージを迎えるらしいです。

古い事を終えて、新しいことを始めるタイミングとか。
いや、古いことが終わらないのに、新しいタイミングが来るらしい。



う~む。ピッタリ過ぎます。

現在執筆中の天智天皇の本はなかなかリーチが掛けられず、ずっとイーシャンテンの状態が続いています。(何だ。麻雀する人しか分からない(笑))

全く誰も触れたことのない話ばかりなので、慎重に進めています。

来年やりたいことのイメージもいくつもありますが、手を付ける訳にもいかないので、今は辛抱の時ですね。

皆さんの節目はいかがでしょうか。



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by lunabura | 2017-12-22 23:23 | にっき | Trackback | Comments(0)

最澄と田油津姫




最澄と田油津姫



みやま市に清水寺がある。









雉車(きじぐるま)という木彫りの雉が土産物として売られているが、
車輪のついた玩具は地元の人にとっても大切なシンボルだ。

その雉の由来は清水寺を創建した最澄に関連するもので、
唐からの帰りに、船の上から見えた光る山に至る道で迷った時、
雉が案内したことによるという。

最澄。
え?
また最澄が出て来た。と思わず由来を見直す。

清水寺の隣の山が女山(ぞやま)なのだ。
神功皇后軍に追われて逃げ込んだ女山で田油津姫は討伐されたという。

田油津姫と夏羽兄妹が皇后軍に滅ぼされてその亡霊が出るというのが田川市の方だ。

若八幡神社という。

亡霊を抑えるために八幡神が勧請されたが、
いかんせん、応神天皇と神功皇后では恨みは消えない。

その後、最澄が六ケ寺を建ててようやく鎮まったという。

田川とみやまは対応している。

そうすると、最澄は、田川の夏焼(なつやき)の地だけでなく、田油津姫の終焉の地にも出かけて供養したのではないだろうか。

田川では最澄による怨霊静めの話が伝わっていたが、清水寺ではその話が失われたのではないか。
そんな思いを持つようになった。

清水寺は雪舟が造ったという庭園が伝わっている。
紅葉が美しい所で、地元の人が皆勧めてくれた。

初めて行った時の初夏の美しさは今でも覚えている。




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女山から有明海に太陽の光が映っていた。
快晴なれども、pm2.5で、視界が悪い。












『神功皇后伝承を歩く』下巻60 皇后軍は夏羽を滅ぼした



                  <2017年12月21日>




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by lunabura | 2017-12-21 20:13 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(0)

猫飼ってないんですけどね






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猫飼ってないんですけどね、
膝の上でゴロゴロと喉を鳴らしています (=^・^=)

入れないと網戸破られる(;’∀’)

入れたあとでも破られたけど ( ;∀;)






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by lunabura | 2017-12-19 21:33 | にっき | Trackback | Comments(0)

筑後の神々と豪族たち


筑後の神々と豪族たち



先取りのバスハイク計画を立てていますが、11回目は筑後地方になります。
時間的な効率を優先して回るのですが、意外な発見もあって面白いですね。

神功皇后の足跡を追っていると、皇后を迎えた豪族たちの里が見えてきます。

久留米市は水沼族の赤司八幡神社、大善寺玉垂宮、弓頭神社と続くので、水沼族が古有明海沿岸部に広範囲に営んでいたことが見えてきます。

そのあとの行程が、高良玉垂廟、風浪宮、鷹尾神社(旧高良神社別宮)となると、安曇族の里となります。

そうして、鷹尾神社まで来たら、あれあれ?矢部川の対岸には七支刀の「こうやの宮」があるんですね。天智天皇が滞在した釣殿宮や太神宮もそのエリア。何度も登場した物部の里ではないですか。

鷹尾神社から車で10分のエリアに次々と天智天皇関連宮が出てくるので、今回のバスハイクに組み込む事にしました。




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それから田油津姫終焉の地・女山(ぞやま)に向かいます。
女山は女王山の変化だし、蜘蛛塚は女王塚とかつては呼ばれていた。
つまり、山門県の東部は土蜘蛛たちの里となります。


コースの中に国乳別皇子の墓、安曇磯良の墓、田油津姫(あるいは葛築目女王)の墓と、エポックメイキングな人物たちの墓も次々と出てきます。


筑後地方の神々を尋ねる旅は失われた歴史を訪ねる旅となるようです。

本をお持ちの方は下巻の方にずらりと出てきますよ。






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by lunabura | 2017-12-18 20:59 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

筑紫舞の琴は「叩く琴」だった



筑紫舞の琴は「叩く琴」だった




RKBラジオ「古代の福岡を歩く」の伊都国博編で、古代の琴の話題が出ていました。
伊都国博物館で「叩く琴」が展示されていたのですが、出雲大社でも叩く琴が神事に使われているということで、その時の実際の音色が放送されました。

叩いて音を出すのですから、弦の琴とは全く趣が違いましたね。

番組を聴きながら、どうやらこのディレクターは「叩く琴」を追求しているぞ、と思い、香椎宮での収録のあと、逆取材を試みました。

厚かましいですな(;’∀’)
でも、るな自身も「叩く琴」を追求していたので、すごくうれしかったのです。

( ..)φメモメモ

何故なら、雉琴神社(上巻31)の伝承に、「雉の声を琴の音かと思って目を覚ました」という話があるからです。

琴の音=「春の海」のような豪華絢爛な弦の響きと思い込んでいたので、雉の鳴き声と結びつかなかった。

そうして調べていくうちに、忌宮神社(上巻1)の「板神楽」を知って、神功皇后時代の琴は「叩く琴」だったのが分かったのです。それなら、雉の声に聞こえる。

そんな話を香椎宮の古宮から不老水に行く途中で話しました。
(これは放送されない)

で、収録が終わって尋ねているうちに、な、なんと!「筑紫舞の琴は叩く琴だった」という話を聞いたのです。

しかも、その言葉は西山村光寿斎さんからの聞き取りだったのです。

それを聞いたディレクターが前回書いたように、筑紫舞の番組を作られたのです。

その番組、聴きたいですよね。
筑紫舞の情報は、古田武彦氏と、私のブログの光氏からの聞き取りしかないのですから。

今度ディレクターに会ったら、再放送か、アーカイブをお願いしようと思いますよ♪
実現するかどうかはその先のこと。

まずは、お願いから。
どうぞ、希望がある方はコメントに書いてくださいね。
きっと、届きますから。






それにしても、日本の神社って、すごい。
2000年ほど前の奏法を伝えているんですから。




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by lunabura | 2017-12-16 20:56 | メモ | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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