ひもろぎ逍遥

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ひめちゃご77 厳島神社 日王山から遷された三女神





ひめちゃご77

厳島神社 

日王山から遷された三女神
 


英彦山からの三女神と大己貴のレイライン。

それはどれもが日王山を経由する。
そこで景行天皇が三女神を祀ったという。

その日王山の祭祀は麓に下りていった。
後光厳天皇の御代、延文年間(1356~1360)のことだ。

アマテラスは福智町神崎の飯土井神社へ。
三女神は飯塚市鹿毛馬へと下った。







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それを厳島神社という。









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鹿毛馬川から上がって南西の丘に向かう位置が選ばれた。












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祭神は市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命。
三女神が一所に祀られている。


『福岡県神社誌』では
豊前国の宇佐島から宗像の沖津島に鎮座するとき、
当村、日尾山を越えられたという古実から
景行天皇の御宇に三女神を祀ったとある。








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「日王山」の表記は「日思山」だったともいう。

それは三女神が山頂の「方丈の瑞石」に神をって
天照大御神を祀ってからの名だそうだ。

烏尾峠の地名由来も、
三女神が道に迷った時、烏に導かれたことからついたという。


地図を見ると、烏尾、船尾、日尾と、「尾」がついた山名が集中している。

これらを「八咫烏」「天鳥舟」「太陽の尾=彗星」と、
なんとなく変換してみた。



近くの田の中には三女神が休憩したといわれる「神休所」という磐座がある。

英彦山からの帰り道、車で走りながら左手に見えたが、写真は撮っていない。
またの機会に撮ろう。

その斜め上に向いた姿は御許山を指す磐座を思い起こさせた。

厳密に測量された三女神レイラインはいったい何を現すのか。
この磐座との組み合わせがヒントになるかもしれない。

が、何かあるという事自体が幻想なのかもしれない。









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参拝を済ませて戻る参道の向こうに鹿毛馬神籠石がある。
この史蹟は鉄の生産施設だと確信している。

山城ではない。

列石は二重三重に誤解されてきた。

「神籠石」という名の発祥である『高良玉垂宮神秘書』では結界となっている。

高良山の神籠石は巨大な磐座だ。
そう、磐座信仰が神籠石なのだ。




この「鹿毛馬」という地名は神武天皇にちなむ名だそうだ。

『福岡県神社誌』によると、
神武天皇がまだ狭野命という時に、筑紫をまわるために
豊前国からこの村に来られた。

馬牧から足毛の馬を献上されてその馬に乗って馬見村に向かった。
その姿を老翁が見送ったという。

これからこの村を駈馬村というようになった。

その牧の跡を大石で区域を残したという。

鉄生産施設が後に牧として利用されたと考えているが、
その形状が鉄を生産する熊本の一目神社と全く同じものだという記事は
ずっと前に書いた。


神籠石はひとくくりで論じる前に、個々について精査する必要がある。

山城として論じる人は、どこに主を住まわせて守るのか
一つ一つ説明する必要があると、最近よく思う。




福岡県飯塚市鹿毛馬1088







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# by lunabura | 2017-05-15 22:34 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

今日という一日




「平成4年のあなたの年賀状が出て来たのよ」
と、友人から電話。「25年前よ~」

物持ちがいい人だなあと、思ったら、
「今年はパッチワークで孔雀明王曼荼羅に挑戦します」
と書いていたそうな。

で、この曼荼羅キルト、ブログに出してたなあと、グーグルで検索。

私の画像がすぐに出てきました。
絵の曼荼羅の中に紛れこんでいる。


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なんと便利な時代。


計算すると、平成3年の5月12日に製図をしたことになる。
26年前の昨日。

懐かしいね。
ちゃんと、完成させたよ。

型紙に起こす時、円を何分の一に分割しようかなと思うと、
教えてくれる声が聞こえて、
その通りにすると、完全に製図が出来た。


布を探すために高速を飛ばして買いに行くと、理想的な布に出会う。

スケッチのために孔雀の羽根の本物が欲しいなあと思った時、
友達の家で花瓶にささっているのをみつけて、
「欲しい」と言ったら、「どうぞ。どうぞ」とくれたっけ。

これは見えない世界の援助があると思い、

トップ(表のパッチワーク)が出来て、キルティング(綿入れ)する前に、
孔雀明王に見てほしいと思って、
祀っている所を探して、篠栗のお寺に見せに行ったことも。

完成すると、当たり前のように存在しているけど、
多くの困難と葛藤の中で気力で創り上げたもの。

今日は改めてその頃の苦労を思い出している。


それから26年経った今日は本を書いている。

人生は不思議。

そうだね、今の本も全部書き直すという決意でやっている。
完成してこそ、作品だね。

今日はその応援のメッセージだ。

あきらめるなよ。

ってね。





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# by lunabura | 2017-05-13 19:11 | にっき | Trackback | Comments(4)

5月の「歴史カフェ」「高良玉垂宮神秘書2」のご案内


  
5月の「歴史カフェ」

「高良玉垂宮神秘書2」のご案内
 
 
おまたせしました。第14回 歴史カフェの内容の詳細です。

タイトルは
「高良玉垂宮神秘書」2― 玉垂命と神功皇后 ―
です。

久留米市の高良大社(高良玉垂宮)に伝わる「高良玉垂宮神秘書」
(以下「神秘書」)は551条からなる玉垂宮の縁起書ですが、
カタカナで書かれているために読解が困難となっています。

しかも冒頭と巻末に、新たに創作された条が加えられて自己矛盾が生じ、
さらに困難となりました。

それを「秘すべし、秘すべし」と書いてあるものだから、知りたい。
なのに分からない。

葛藤満載の縁起書となっています。(^^;


この本はある時、老人が三日間出現して託宣したという形で書かれました。

その老人が誰か、一言教えられた手掛かりが
「17代仁徳天皇 9月13日に高良山に遷幸した者」でした。

全体を読み通すことで、ようやくこの謎が解けました。

しかも、仁徳天皇は通説では「16代」になっているので、
「17代」では天皇の代の数字が合わないのですね。

が、それは神功皇后を15代天皇としたからで、
応神天皇がとても短命だったことがそこから読み取れます。


「神秘書」の始まりは三韓征伐後で、「高良山縁起」と対応しています。

「玉垂」の語源は「干珠満珠」の二つの珠で、
それを「もたらした」アントンイソラ(安曇磯良)を玉垂命としています。


ところが時が経って、白村江の戦いの敗戦で倭国は筑紫君まで連行され、
安曇の舟は焼かれ、大変な状況になりました。

高良山は白村江の戦い(663)の十年後に仏教を受け入れる事で延命を図りました。

この時、本来の祭神の玉垂命は高良大菩薩になり、
上下宮とも物部氏の祖神である武内宿禰となりました。

これは白村江戦で倭国が滅び、安曇族が凋落したことと無関係ではありません。

今回はまずはその始まりの時代、
玉垂命と神功皇后の話を中心に「神秘書」を紹介します。


1章「高良玉垂宮神秘書」成立・背景・構成
2章 祭神 上宮と下宮 玉垂命と高良神の違い
3章 玉垂命 アントンイソラ(安曇磯良) 絵巻の中央に描かれた祭神
4章 三種の神器のゆくえ 高良山を照らしながら巡る一火の霊力
5章 神功皇后と共に 
6章 高良山遷幸 9月13日 神功天皇の崩御後
7章 玉垂命の最期と墓所 大善寺と高三潴
8章 九躰皇子 玉垂命の九人の子 


原典に触れていくことで、少しずつカラクリが見えてくると
歴史が面白いですね。

自分で判断できるようになれるのはステキなことです。


日時は
5月21日(日)10時半~12時半
5月25日(木)2時~4時
です。ご都合のよい日を選んでください。
今回の持参品は『神功皇后伝承を歩く』です。

お持ちの方は上下巻とも持参してください。
お持ちでない方は御貸しします。
また、新たに購入希望の方はメールに書いてください。当日、販売します。

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日程 5月21日(日))10時半~12時半
5月25日(木)2時~4時

会費 1500円 (別途、ドリンクを各自でご注文ください)
   (会費は当日、受け付けにて)
募集人員 若干名(要予約)
会場  オーガニック広場 ひふみ
 福岡県古賀市天神1丁目2-3 
    (JR古賀駅前) 駐車場はありません。
092-944-5755
申し込み方法 
「歴史カフェ521希望」もしくは「歴史カフェ525希望」と書いて、郵便番号 住所(市町村までで結構です) 氏名 をご記入の上、メールでコチラに送ってください。
(コメントでハンドルネームを使われた方、
よかったらそれもご記入くださいね♪)
メールはサイドバーの「メールはコチラ」からでも大丈夫です。

「一度参加された方」は、
メールフォームを使わずに綾杉の返信から申し込みください
。住所は書かなくても結構です。

申し込みがあれば必ず返信しております。
返信が無い場合はブロック解除、あるいは「アドレス違い」がないか、調査をお願いします。

返信が戻って来た場合は、サイドバーでお知らせします。
確認されたらもう一度メールをください。
当方の返信代わりにサイドバーの連絡を消します。

オーガニックな食材のお買い物が出来ます。(^-^)
地図 オーガニックひろば ひふみ


 





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# by lunabura | 2017-05-11 20:47 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご76 高良山―英彦山 香春岳を巡る争い



ひめちゃご76

高良山vs英彦山 香春岳を巡る争い

 「高良玉垂宮神秘書」より
 



前回まで英彦山の話だったが、
今回は高良山に伝わる謎の本「高良玉垂宮神秘書」に
出てくる英彦山の話を紹介しよう。

142条 彦権現、異国人ニテマシマスノ間、彦権現ハカリコトヲ ナシ玉フ、
(略)高良ノ、彦権現ハ、モツハラノテキ神ナリ


高良にとって彦権現は異国人で「もっぱらの敵神なり」
という、珍しい話が書かれている。

こうなった理由は彦権現がはかり事をしたからだが、
その事情はずっと後の212条に出てくる。


それは豊前国の香春岳を巡る争いだった。
意訳をしよう。

212条

香春岳に異国から異国人が攻めてきたら、
三の岳に高良三所大菩薩が降臨して異類を退治しようと誓いを立てた。

異国征伐の時、高良大菩薩が三の岳に登って
異国のようすを視察したことから、
(香春岳)を高良峰と名付けた。

彦権現がはかりごとをして、高良峰を洗い崩そうと、
横に並んでいた山から樋を掛けて水を流したのを、
高良大菩薩が神通力で知って、樋を蹴ってのけたため大洪水になった。

また、仲哀天皇の崩御のあと、薫香が香春岳に垂迹して留まったので、
香春岳ともいう。

というものだ。

これは三韓征伐の直後、神功皇后や安曇磯良、武内宿禰の時代にあたる。

田川の若八幡神社の縁起によると、ここは神夏磯姫が開発した所だ。

その子か孫の夏羽の時代に仲哀天皇、神功皇后たちがやってきた。

そのあと、田油津姫と夏羽の兄妹は朝廷側に滅ぼされた。

その結果、香春岳は朝廷を支える安曇族の支配下になったことが
この二つの条から伺える。

高良大菩薩とはこの時代は安曇磯良を指している。

この香春岳を彦権現が奪おうとしたとき、
大洪水があったことが神話的に描かれているのが面白い。

二つの条から、かわら岳(香春)の地名由来として、
1 こうら(かうら)が支配したので「高良(かわら)峰」といった。

2 仲哀天皇が亡くなったあと椎の木に立てかけた棺から
良い香りがした(香椎・かしひ)という故事があり、
その香りが垂迹したから「香春」となった。

という、二つの話を述べている。
この本の成立は秀吉や家康の時代の頃なので、
それを考慮にして読まねばならない。

そんな中で、分かるのは
香春岳の銅山が古代から争奪の的になったということだ。
とれるのは銅だけではない。多くの種類の鉱物が採れていた。
金ももちろん。

九州に渡来人が各地からやって来て、この宝の山を発見して、
渡来人同士、争いながらも棲み分けをしていく過程が見えるような条文だ。

人間はロケットを飛ばしてまでも新しいミネラル(鉱物)に好奇心を持つ。

古代から、どんだけ鉱物好きなのか、と時々思う。
この話もそんなことを思わせる話だった。



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一の岳は山が削られてしまって、土台だけになっている中央部分。
三の岳は削られた山の左二つ目。




『神功皇后伝承を歩く』下巻60 若八幡神社 皇后軍は夏羽を滅ぼした



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# by lunabura | 2017-05-09 20:36 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご75 英彦山神宮 奉幣殿



ひめちゃご75

 英彦山神宮 

奉幣殿
 


英彦山には福岡県の男子が成人するとみんな登っていた。
父がそう話していたことを思い出した。

母に聞くと、母の故郷でもそうだったという。
福岡県の南部からも英彦山に登ったというのだ。

同じ話が真鍋大覚の本にも出ていたので、一般的な話だと分かった。







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福岡県中から成人した若者が英彦山に登っていたとは。

何のイニシエーションだろうか。

いったい何を求めて青年は登らねばならなかったのか。

英彦山神宮の主祭神は天忍穂耳命だ。
天忍穂耳に何故、祈らねばならなかったのか。


あるいは修験道にちなむ風習だったのか。

今は聞かない。
戦争でその風習は消えたのだろうか。

思えば、神武天皇も北九州の一宮神社の磐境神籬から
祈ったのは天忍穂耳だった。

日子、すなわちアマテラスの子と呼ばれる天忍穂耳。

この山は日子山から彦山となり、英彦山となった。

農耕の神、鉱山従事者の神の性格を持つ。当初は後者だろう。

筑紫の曙の頃の記憶を伝える神でもある。



友人から聞いたエピソードも思い出された。

友人が熊野に参拝したとき、社務所で、どこから来たのか尋ねられた。
福岡から来た、と答えると、
「お疲れさま、英彦山が元宮ですよ」
と言われたそうな。











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奉幣殿に着いた。








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昔と何も変わっていなかった。










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シャクナゲが咲く水場で水をいただく。
そうそう、高住神社も英彦山神宮も水がおいしい。
というか、神水だ。
ペットボトルを持っていこう。
リュックがあれば帰りも重くない。










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スロープカーで登って来た人たちがどっと訪れる。
憧れても登れない人たちがいた時代が千年以上もあったことからすると、
なんと良い時代になったことか。











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こちらは遥拝所で、頂上への登山口だ。
中宮に市杵島姫が姉姫たちと共に祀られている。

スロープカーで奉幣殿まで来て、ここから登れば
時短で市杵島姫に参拝できる。それも一手か。


二女神のラインが日王山を通って六ケ岳グランドクロスに届く。

地のラインだが、天空のラインとも呼びたい神々の世界だ。


奉幣殿から先は登山靴が必要だ。寒い季節はアイゼンも。

かつて春でも石段が凍って滑り台になっていたために断念したことがある。



雷鳴の間隔が短く近くなってきたが、不思議にあわてる気にならない。

なるようになるさ。








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長い石段を下りていく。

車に乗ると、ついに雨が降り出した。
ヒョウも降る。



途中、高木神社の祭に遭遇した。
ここだけは雨が降っていない。

そして、その町を抜けると土砂降りだった。

神輿を担ぐ人たちは周囲が雨とは知らなかっただろう。

神懸かった不思議な光景を見せられた。


『神功皇后伝承を歩く』上巻2 神功皇后は神武天皇の旧跡で祈った


<2017年5月7日>



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# by lunabura | 2017-05-07 20:31 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(12)

ひめちゃご74 英彦山神宮 参道にて



ひめちゃご74


英彦山神宮 参道にて
 

高住神社から車で数分、英彦山神宮にも足を延ばした。


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別所の駐車場から英彦山が見えた。









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ここから歩いて行ったが、道が広くなって崖の上の道だと気付く。
記憶に無い舗装道路だった。



スロープカーが出来てから様変わりしていて、土産物店も二つほどに減り、
参道のそばまで駐車場が出来ていた。


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石段は途中から登りづらくなった。
こんなに大変だったのか、石段の記憶も景色も何もかも違って見えた。

視点が変わると世界が変わる。





参道の両脇には大きな僧坊の跡が左右に残っている。
高良山にも300以上の坊があったが、草木に埋もれて姿を留めない。
英彦山はそれよりもスケールが大きい。




「ここは都だったね」と夫が言う。

この僧坊群の大きさからいうと、かなり大きな消費生活があったはずで、
それを支える町は当時の日本でも大きかったことだろう。

「熊野より大きかったかもね」と正直思った。





数年前の新聞記事に
航空写真から壮大な僧坊群があった地形が読み取られたことが載っていた。

地形だけ残る宗教施設の山はマチュピチュを思い起こさせた。


「まるでマチュピチュ」
天空の宗教施設という意味で同じ営みを感じた。









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「都」という言葉から、
久山の伊野神社(天照皇大神宮)の豊丹生(ぶにゅう)氏の話を思い出した。

大和国丹生で丹生氏に改姓し、皇大神に仕えていた小山田氏の曾孫が
公の場で席順の争い事を起こし、英彦山に流されることになった。

その時、アマテラスが「自分を連れていくように」と夢に出て来たので、
この英彦山に神体を持って来た。
さらにその子供に神託があって、
神体を久山の天照皇大神宮に移したことから豊丹生氏となった。

そんな話だった。

古文献を見ていると時々英彦山が出てくるので、
よほどの都会だったのだろうと思ったので「都」ということばに
いやに納得した。

こうして、左右の僧坊群を見ながら登ると、
食いっぱぐれても、ここに駆け込めば生きていける。

仏教にはそんな懐の深さがあって、
今より食べ物のない時代でも、誰でもが生きていけたんだろうなと思った。

コンクリートの中の暮らしでは想像もつかない豊かさが山の中にあった。



遠雷が時々響く。
雨に遭わなければいいが。

後で知ったが、博多どんたくを中止に追い込んだ雷雲がここまで及んでいた。







『神功皇后伝承を歩く』
上巻38 天照皇大神宮 神功皇后は天照大神を祀った





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# by lunabura | 2017-05-05 23:00 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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