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高良大社(4)高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ


高良大社 高良玉垂宮(Ⅳ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)
高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ
アンドロメダ星雲と暦の変化 


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高良山をネット検索したらウィキペディアの説が目に止まりました。
それにはこう書いてありました。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、
高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、
高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになった
という説もある。
現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。

この話の出所が分からないのですが、気になってさらに調べてみました。
すると、地元の人がブログで同じような伝承を書いていました。言い伝えがあるようです。

そこで、今回はこの伝承の謎にチャレンジする事にしました。
「結界」は神護石を指している?
まず、「結界」という言葉に注目しました。
これは高良山にある神籠石(こうごいし)の事ではないかと思いました。
神籠石とは謎の列石で、高良山の山中にぐるりと置かれている石積みの事です。

これについては目的も時代も分かっていません。
しかし、同じような神籠石が西日本の各地に十カ所ほどあります。
この謎の列石を神話的に言い換えて、ここでは結界だと言っているのかなと思いました。

高木の神とは?
それでは、もともと高良山の氏神だった高木神とはどんな神様なのでしょうか。

高木神は何かのを暗示しているのではないかと思って
『儺の国の星』を調べると、やはり出て来ました。
高木星という星がありました。
これはあの有名なアンドロメダ星雲の事でした。
文中にこう書いてあります。
日本人も蒙古人も、その遥かな祖先はアンドロメダ大星雲を拝していた。
神代紀に出る高木の神がそれである。これを大嶽(だいがく)と名付けていた。

このアンドロメダ星雲を崇拝していたのが「日本人も蒙古人も」と言っているのには訳があります。

それは1264年の出来事です。
モンゴルと日本で同じ年に元号が変わったというのです。
日本は文永元年となり、蒙古は至元元年となりました。

その理由がこのアンドロメダ星雲に関わっていたという事なのです。
これを理解するために、本には暦法の説明が書かれています。
おおよそこういう事です。

「太歳」について
天皇が変わると暦法を選定する儀式があって、それを太歳と言いました。

これは天皇一代のうちには変更できない暦ですが、治世が長くなると、
「星による暦」と「太陽による暦」のずれが溜まってしまって、
現実と合わなくなるので、適当な時期に改元をしてそのずれを調整していたそうです。

ところが基準とする日に日食が重なる事があったそうです。
それが起こったのが、1264年でした。

日本は文永元年、蒙古は至元元年と改元したその年は、
春分の正午にアンドロメダの中心が重なった。西暦1264年であった。


これはどういう事かと考えたのですが、日食のときには空が暗くなって、昼なのに、星が見えます。
その時、アンドロメダが暦の基準線の所にいた(例えば南中したとか?)のではないかと、考えました。

当時の人々はこの気象現象を観測して日食を畏れ、またアンドロメダが昼間に輝いたのを畏れて、
日本も元の国も改元したらしいのです。

アンドロメダの華麗な渦巻きの中心には、昔はまばゆくきらめく超星があった。
昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。

と、真鍋氏は書いています。

当時はアンドロメダ星雲は夜空で今よりもずっと輝いていたというのです。
そして、太陽と並んで崇敬されていたというのです。

真鍋氏の本を理解するのには歳差運動の計算を理解する必要があるので、
この「日食とアンドロメダの関係」については難しくて、文面からなんとかここまで解釈が出来ました。

この現象は神功皇后の時代にも起こったそうです。201年と220年と228年です。
そのために彼女は太歳を三度も行ったそうです。
アンドロメダ星雲が昼間に観測される事は古代の一大事だったようです。

遷都する理由
さて、太陽と星は日々にずれて行き、70年もすると、素人の目にもそのずれが明瞭になってしまいます。
当時は山の頂上や峠が観測の基準になっていました。

目印の山と、ずれてくるのです。
そのために、星や日月を見定めるにふさわしい土地を新たに求めて遷都をしなくてはならなくなりました。
それが神武天皇から天武天皇の時代の事だそうです。

星の暦から太陽暦へ 
その後、地勢に頼らずに太陽の観測で時を計る方式に変わりました。
それが持統天皇から現在です。

暦法の話が神話になった? 
以上の事から古代の人たちが暦を作ろうとする時には
アンドロメダ星雲を代表とする星たちと太陽を観測して作っていることが分かりました。

ですから、アンドロメダ星雲を高木の神と崇敬し、太陽を天照大御神と呼んで、崇敬した訳です。

天照大御神は有名だけど。高木の神か…。別名、高御産巣日神。
高い所で次々に星々を生みだす神?
アンドロメダ大星雲。
いったいどんな神なのだろう。

高木の神がどんな神だったのか、想像もつきません。
そこで『古事記』を訳してみました。そして、二度も驚きました。

高木の神は神話のナンバー2だった。
まず、神話の冒頭に特別な五柱の神々が出てくるのですが、
高木の神はなんと、二番目に華々しく登場しているのです。
日本神話の第二番目ですよ。

これでこの神はどれほど重要な神かと言う事が分かります。これが最初に驚いた事です。

高木の神はしかし、独神(ひとりがみ)として、そのまま身を隠してしまいました。

高木の神は本当に身を隠した?
神話を読み進めていくと、高木の神がさらに何箇所も出て来ました。

高天原で出雲を征服しようと相談が起こった時です。その時に高木の神とアマテラスは一緒に出て来ました。

話はこうです。

高天原では、出雲征服を工作するために神々を送るのですが、出雲の居心地がいいらしく、
二度も失敗してしまいます。

それに対して次々に対策を練るのですが、その時に、この二柱の神はいつも一緒に出て来ます。
いつもいつもです。
二人はペアで行動する神なのです。
まるで一心同体と言えるほどです。
二人は一緒に高天原の秩序を守っていたようなそんな印象を受けました。共同経営者です。

冒頭に身を隠したと書いているのに、高木の神は隠れてなんぞいませんでした。
大活躍です。これが二つ目の驚きでした。

この二柱の神は何故いつも一緒なのだろうか? 
二人がいつも一緒に出てくる理由を考えました。

ここで先ほどの暦の話に戻りますが、暦を作る時に、昼には太陽を、夜にはアンドロメダ星雲を
観測していた事を象徴化したのではないかと思いました。

アマテラスは太陽で、高木の神はアンドロメダ。
この二人の神が昼と夜とを分かち合って、運行しているのです。
高天原の昼と夜の秩序を二人の神が作り出していました。

なるほど…。だから、二人はセットで出て来るんだ。

暦法の変化が崇敬する神を変化させた?
アンドロメダは暦法が発達していくと、その地位を太陽神に譲ることになりました。
アンドロメダへの崇敬は天照大御神重視へと移行して行きました。
だから、現代の私たちは高木の神なんて噂もしない。

これで、アンドロメダ(高木の神)のおおよその姿が分かりました。
ここでようやくタイトルに書いた「神々の交代」の神話にチャレンジできます。

アンドロメダからカペラへ変わった事情を探る
前回までの話をまとめると、古代はこのようだったと思われます。

アンドロメダ(高木の神)が崇拝されていた時代、筑紫を縦に貫く二日市水道の中央の聖なる山に、
暦の基準となるアンドロメダが輝くのを見て人々はアンドロメダを祀り、その名を取って、
高牟礼山(高木山)と呼んでいた。

しかし、歳差運動のためにかつてのように、アンドロメダはその山頂を通らなくなってしまった。
そうするとアンドロメダを祀っていた人々は、ふさわしい地形をよそに見つけて去って行った。

時代は朝鮮との戦いなどが続いて、人々は戦いの勝利を願うようになった。
すると脚光を浴びるようになったのは、かつて新羅討伐に勝利を導いた海神の神玉垂命(カペラ)だった。
人々は聖なる山にその神を祀るようになった。

これを踏まえて、冒頭の伝承を解いてみます。もう一度書きます。
高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。

この伝承を「星の神話」に置き換えると、こうなります。
高良山にはもともとアンドロメダが祀られていてアンドロメダ星雲山(高牟礼山)とも呼ばれていた。しかし、時代が変わり、戦が起こったりした。

すると、海人族たちは戦勝祈願と航海の安全のために、干珠満珠を司る海の神(カペラ)も共に祀るようになった。
戦争に勝利すると、そのまま海の神(カペラ→カウラ玉垂神)が祀られて、高良山と呼ばれるようになった。

そして、アンドロメダ(高木の神)は下の方で祀られるようになった。
のちに 神籠石の列石も作られた。これを人々は玉垂神の結界と呼んだ。

人々の崇敬の念は次第に太陽神に変わって行き、アンドロメダ星雲のことは忘れ去られていきました。

アンドロメダの名は、高木星、太歳星(たいさいのほし)、太宰星(だざいのほし)、千歳星(ちとせのほし)千年星と(ちほせのほし)と変わって行きました。

そう言えば、高良山の麓を流れる筑後川は千歳川と言いました。その名を留めているのでしょうか。

高木星の名は長崎に地名として残っています。
筑紫の果てにある肥前の高来(たかき)彼杵(そのき)の両郡を東西と南北に並べた四つの半島の形は、まさにこの巨大なアンドロメダ星雲の姿を地上に映した渦巻き模様と同じであります。

昔は今よりはるかに明るく昼の太陽に並ぶほどの美しさでありました。これが神代紀の天照大神と高木神の由来でありました。
古代の長崎県は海がかなり進出していて、沢山の島々が海中に浮かぶ地勢だったそうです。

八幡とは元来は風にひるがえる衣装の靡きを言う胡語であって、この発祥はアンドロメダ大星雲の旋回を表現した。   『儺の国の星』


高良山の八幡神はもともとここに、縁があったのもこれで分かります。
         (「高木の神」の現代語訳は『古事記の神々』に書きました。
         サイドバーからリンクしてます。)
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# by lunabura | 2010-01-02 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良大社(5)高良山を開山したお坊さんのお話


高良大社 高良玉垂宮(Ⅴ)
(こうらたいしゃ  こうらたまたれぐう)
観音寺縁起 (修験道の開祖の物語)

高良山を開山した隆慶上人のお話


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高良山の駐車場から筑後平野を眺める。

平野の緑の筋が筑後川。
向こうの山は背振山。
その山の向こうに博多があります。
この平野が今日の話の舞台です。


高良山はかつて修験道の山として栄えていました。
今日は、この山を開いた隆慶上人(りゅうけいしょうにん)のお話を紹介します。



高良山仏教の開祖、隆慶上人は、白鳳八年(679)から
奈良の大安寺の南院で定恵和尚を師とし、
仏法の奥義を学んでいましたが、
朱鳥元年(686)五月、
師の許しを得て帰郷の途につきました。

道中つつがなく、五月七日博多の津に至り、
十一日には筑後に入ることができました。
ところが、その日もの凄い大暴風雨に襲われたのです。
雷鳴は天にとどろき、
土砂振りの雨は蓑笠をも破る勢いでふりそそぎます。

大地は泥海と化し、ぬかるみに足をとられて進むことができません。
おまけに千年川(筑後川)が氾濫したとの報せです。
上人はやむなく鰺坂(小郡市味坂)村に宿をとり、
暴風を避けることとしました。

夜に入ると雨足はますます激しく、暴風は家を震わせ、
浪は壁を崩して倒壊する家、
柱根を洗われて流失する家も数知れず、
上人の宿った家も水に浮かんで漂流しはじめました。
家の廻りを、溺れた牛馬が浮き沈みしながら流されてゆきます。

泣き叫ぶ村人たちの間に端然と坐した上人は、
一心に観世音菩薩の加護を念じていましたが、
居合わす人々にも名号を教え指導しましたので、
「南無観世音菩薩」の大合唱が起こりました。
その声は暴風雨にかき消されながらも、闇の中に広がってゆきました。

すると、どこからともなく一つの火の玉が飛んで来て、
ぐるぐる廻りながら上人の宿を照らし出しました。
それを合図に波間から一隻の小舟が現れ、
上人の宿に近付いて来ます。
よく見ると、その小舟には大勢の童子が乗っているのです。

驚きあやしむ人びとをしり目に、童子たちは舟を家に着けると、
中の一人が縄を持って柱にするすると登り、
梁にしっかりと結びつけました。

童子たちが「エイヤ、エイヤ」とかけ声をかけて縄を引きますと、
上人の宿は流れにさからって動き出しました。
上人は「これこそ観音様のお助けに違いない。」と、
なおも人びとを励まして一心不乱に唱名を
続けました。

やがて夜明けまぢかになると、
それまで空を照らしていた一火(ひとつび)は飛び去り、
童子たちも忽然と消え去って、
水中に家だけが取り残されました。

恐る恐る見おろすと、
すでに浅瀬に着いていて、難をまぬがれたことが判りました。
「助かったぞ」人々は皆な水中に飛びおり、
抱き合って嬉し涙にくれるのでした。

のちに村人たちは、上人の宿をそのまま寺として、
十羅刹女(法華経を守する十人の羅刹女)の像を安置しましたが、
この寺は「御堂」と呼ばれて、永く崇められたということです。

久留米市合川町御堂島は、この寺の跡と伝えられています。

一方帰山した上人は、報恩謝徳のため
高良山中に新たに精舎を建て、
観世音菩薩の尊像を安置し、観音寺と名付けました。

その跡は、国指定の天然記念物、
金明竹林前の駐車場下段の平地であります。

『高良山の史跡と伝説』 の第一集   古賀寿 著
 

高良山の文献は明治時代の廃物希釈の時に、
大半が燃やされてしまったそうですが、
この高良大社の元の宮司である古賀寿さんが
高良山文化研究所を立ち上げて資料を収集されました。

その折発行された小冊子、『高良山の史跡と伝説』 の第一集から
書き写しました。
昭和の終り頃の刊行かと思われます。

この観音寺縁起を読むと、
筑後川の氾濫のようすが大変リアルに描いてあります。
これは、昭和28年の筑後川の氾濫を体験された事による
表現ではないかと思いました。

この昭和の大氾濫のあと、
筑後川沿いの家の軒下には舟がつるされるようになったと聞きます。

地図  小郡市あじさか(宿があった所?) 
     久留米市合川町(流れ着いた所?)
     高良山 観音寺の跡


伝承は日々忘れられて行きます。
古賀寿氏はなんとか後世に残したい思いで伝承を収集されたのでしょう。
地元の人々はこんな宝があるのを御存じでしょうか。


この本の目次を書いておきます。

1、観音寺縁起
2、今長谷観音堂縁起
3、中谷の薬師
4、小龍の登天
5、中院縁起
6、満福長者
7、待宵の小侍従
8、鶴の御返し

1の「観音寺縁起」をそのまま書き写しました。

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# by lunabura | 2010-01-01 00:00 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

高良大社(6)玉垂宮の縁起は志式神社の神楽とつながった


高良大社(6)
玉垂宮の縁起は志式神社の神楽とつながった


さあ、いよいよ高良大社にやって来ました。
これまで麓の神社や古墳を歩いて古代の営みを見て来ました。
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その中心を成すのがこの高良玉垂宮です。
本殿は高良山の頂上ちかく。車でヘアピンカーブを辿って登ります。
今回は神官さんから直接、高良大社の由緒をうかがうことが出来ましたよ!
御祭神
中央 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)左 八幡大神 右 住吉大神

高良玉垂の神がどんな神なのかは、江戸時代にも論争があったそうです。
当時でも結論が出ず、殿様が御祭神を「竹内宿禰」と決定したために、
神社側もこれを受け継いでいるとのお話でした。
それでも、御祭神を人々が研究するのはいっこうに構わないです、と、
寛大な姿勢を述べられました。

大社には二つの縁起曼荼羅があります。
大変巨大なもので、一つは神社の全景を描いたもの。
そして、もう一つは神社の縁起を描いたものです。

今日は高良山の縁起について考えましょう。
まずは中世時代に描かれた曼荼羅を見ながら伺った
縁起の概略を書きたいと思います。
(と言いながら、あっという間に忘れてしまったので、
話が違っていたら是非とも指摘してください。)

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(これはその絵巻の該当する部分です。許可を受けて掲載しました。
映像は不鮮明なままにしています。)
高良の神は10万の敵が攻めて来るのを迎え撃つために、水軍の援助を求めてイソラ神豊姫を遣わしました。
イソラ神は海の中に住んでいて、顔にフジツボや貝殻やワカメなどがびっしりついていたので、姿を恥じて、なかなか出て来ようとしませんでした。
(絵巻では、中央に亀の背に乗って釣りをしています。)

そこで、高良の神が八乙女に舞を舞わせると、「そこまでされるなら」と、イソラ神は干珠満珠を授けて、援助を約束します。

高良の神は敵と対峙した時に干珠を海に投げ込むと、みるみると潮が引いて行きました。敵が船を下りて攻めて来る時に満珠を投げ込みました。すると潮が満ちて、敵軍は溺れて降参しました。こうして高良の神は戦に勝つ事が出来ました。

この話を聞きながら、「これって志式神社の神楽と同じじゃない!」とドキドキ。
このブログで一緒に逍遥して下さってる方々も、
「あれ、まただ」と思ったに違いありません。
志式神社の神楽は、すでに「高良大社(2)」でも書いたのですが、再び書きます。
 
 磯良舞 いそらまい     
神功皇后らが48艘の船団で新羅へ進軍する時、武内神が干珠満珠を貰い受けるお話。
磯良神は大和で40万年、ひたちで40万年、勝馬(かつま、志賀島)で40万年過ごされた神。そのイソラ神が海神のところに行って干珠満珠を貰おうとするが、なかなかもらえず、豊姫が代わりに海神の所に行く。
すると海神は「神楽を舞うならば、授けよう」と言う。豊姫は神楽を舞い、海神から干珠満珠を授かる。豊姫はそれを武内神に渡す。


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神楽を舞う豊姫。舞台の袖で控えて座っているのが武内神。

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豊姫の舞を堪能した海神は、豊姫に金と銀の玉を授けた。

高良大社と志式神社では、少しずつ神の名がずれていますが、話の骨子は同じです。
いったい何度この神楽に戻って来た事でしょう。
どこに行っても、この話に戻ってしまう。
るなのブラブラ歩きはこの神楽を理解するためにあったのでしょうか。

イソラ神の姿

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イソラ神って、志式神社の神楽ではこんな姿です。120万歳?
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志賀海神社ではこんな姿。これは平成21年の御神幸祭の時のもので、
境内に掲示されていた写真を写しました。

イソラ神の祭りは、2年に一度、すべての準備が整ってから、その年のお祭りを
するかどうかのみくじを伺うと言う厳しい状況で行われるお祭りです。
「しない。」というみくじを引いたら、全部中止です。
その為に何年も行われなかった事があるそうです。
現代では無条件に2年に一度行われていると聞いています。
(顔に白い布のこの神さま、アニメ映画「千と千尋」に出て来ましたね。)

高良の神はこの神さまに助けられて戦う事が出来ました。
志賀海神社は当然ながら、安曇族の本宮。
私は「高良大社(2)」で、この高良山の縁起を知らずに、大胆にも、
志式神社の神楽と同じだ、なんて記事を書いて、思えば冷汗が出ますが、
こうして繋がったのには、何か不思議な縁を感じます。

海神の姿
高良大社ではイソラ神から干珠満珠を授けられた話になっていますが、
現地の神楽では海神のから授けられていました。

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これが海神。
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これは高良玉垂宮の拝殿の龍神の像です。後ろには波があります。
龍神は水の神であり、海の神でもあります。
志賀海神社は「龍の都」「海神の総本社」で、御祭神は綿津見神=海の神です。
神楽の海神と高良玉垂宮の龍は同じ「海の神」です。
この龍神は安曇族の力を借りて戦に勝った象徴だと思われました。

さて、宝物館に入ると、高良大社史年表がありましたよ。
西暦82 景行12年 景行天皇高羅(高良)の行宮に国内を遊覧し、
            御井の大川(筑後川)に渡し船を備える。
200年 仲哀9年 神功皇后天皇と共に筑紫に幸し、高良山に
            御滞在(安在地・朝妻)。次いで朝鮮半島に出兵。
          高良の神、神功皇后を援け給うと伝える。
367~390年 仁徳55~78 高良の神(玉垂命)、高良山に御鎮座。
            この頃、礫山古墳・祇園山古墳できる?
400年 履中元年 高良山に社殿を創建し、玉垂宮と称する。

ということで、高良山の記事は景行天皇が初出のようです。
次の時代の神功皇后と仲哀天皇は「朝妻」滞在と書いてあります。
すると、あの味水御井神社の所に滞在したんですね!
そこからは4本の銅剣が出土しているそうです。
銅剣を奉納するのは神功皇后がこれまでも、あちこちでやって来たことなので、
この銅剣もその可能性があるかも?
資料館に行けば見られるかな。
(この4本の銅剣と皇石神社、綱脇神社の銅剣が同じだったら面白い事になりますね。)
この年表からは時代が下がるにつれて、
神の性質が変化していくようすがよく分かります。

さてさて、この高良の神には王子が9人いるそうです。
王子の事を調べたら何か分かるかも。
    (つづく)




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# by lunabura | 2009-12-31 22:02 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(2)

高良大社(7)九躰皇子と『高良玉垂宮神秘書』

高良大社(7)
九躰皇子と『高良玉垂宮神秘書』


本殿の裏手にまわると高良御子神社がありました。

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摂社 高良御子神社
御祭神 高良玉垂命の御子神九柱(九躰王子
由緒 阿志岐(山川町鎮座の王子宮(高良御子神社)を明治六年に勧請)
例祭 11月13日
月次祭り 毎月13日
御神徳 無限の勝利、厄除け、農産牛馬守護、安産、病気平癒

九躰皇子。この不思議な名前。
「くたいおうじ」と読んで、九人の王子という意味です。
高良玉垂神の9人の御子の事です。
今回はこの九躰皇子についての伝承を調べましょう。

その手掛かりは、くじらさんが教えてくれた『高良玉垂宮神秘書』
という本の中にありました。
その本の冒頭の部分だけ読んだのですが、
内容は高良玉垂宮の神の系譜と縁起を書いたもので、
古事記と同じように、天神七代から書き起こしていました。
が、そこにはあのタカミムスビの神(高木の神)の名前はありませんでした。
そして、古事記や日本書紀とは少し違う神話が語られていました。

今回はこの「九躰皇子」の出生に至るまでの部分だけ、
るな流に解釈してまとめたものを紹介します。
(解釈に間違いがあったら、どんどん指摘して下さいね。)
ヒコナギサタケ・ウガヤフキアエズの尊住吉大明神であり、明星天子の垂迹である。
(垂迹とは、菩薩が人々を救済するために仮の姿をとって現れること)

叔母のオバキ玉依姫と夫婦になった。二人の間には5人の御子がいて住吉五神という。
内訳は女子が二人で、男子が三人である。
女子の名は表津少童命(ウワツフカタツミの命)、中津少童命(ナカツフカタツミの命)。

男子は嫡男が表筒男の尊で、大祝(おおはふり)氏の先祖であり、日神の垂迹である。
二男は中筒男の尊で、このクニに留まって初代天皇の神武天皇となった。
三男は底筒男の尊で、高良大菩薩の事である。月神の垂迹である。

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普通は「表・中・底筒男の神」の事を住吉三神と呼びますが、
ここでは少童(わだつみ)2姉妹を含めて住吉五神と呼んでいます。

この住吉五神の父はウガヤフキアエズで、この神が住吉大明神です。
彼が明星天子の垂迹という事は、星の化身という事です。
明星といえば、普通は金星を指しますが、ここでは一般的な星なのか、
金星なのか、あるいは他の星なのか分かりません。
(ちなみに、高良山の隣に明星山がありますョ。)

「九躰皇子」を理解するために、ここで押さえておきたいのは、
高良の神は高良大菩薩と呼ばれ、底筒男神であり、月の神だという事です。

さて、続きを読みましょう。
15代神功皇后の時、イルヰが日本を責め立てた。
その時、神功皇后は筑前国の四王寺の峰に登り、虚空に向かって祈った。
東の空に白雲が現れて、四方に開き光をはなち、月神が20歳の若者の姿で現れた。
四方に分かれた白雲には四天王が現れ、四つの鉾が見えた。
月神の次に、明星天子の垂迹である住吉の神と、日神の垂迹・表筒男の尊が現れて、
三人で皇后の前に立った。
そして、月神と住吉神は大将軍となり、日神は両副将軍となって力になる事を約束した。
ほどなく三韓を降伏させたのち、住吉神は虚空に戻った。

『神秘書』では突然、神功皇后の話になりました。
「イルヰ」が国の名か、人の名前かが分かりません。
(別の縁起には新羅軍5万人が襲来とあります。新羅はハングルでは「シルラ」です。)

このイルヰと戦うために、神功皇后は太宰府の四王寺山に登って祈ったのですが、
その時、月神が出現し、その四方には四つの鉾とともに、四天王が出現しました。
続けて、明星天子、日神が出現し、皇后を助ける約束をしました。
戦に勝利すると、明星天子だけが去り、二人の若者は留まりました。

神功皇后の祈りに応えたのは住吉の神々でした。
両者の深い縁はここから始まっています。

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(「筑前国四皇寺山」=四王寺山の写真のストックを探したら、
ちょうど太宰府政庁跡がドンピシャと来ました。これって?!!!)

さあ、続きを読みましょう。
嫡男の日神・表筒男の尊神功皇后の妹・豊姫と夫婦になった。
地上での名は太政大臣玄孫(ひまこ)大臣物部の大連天照大神のひまごという事から付いた名である。二人の間の御子は大祝日往子(おおはふり・ひゆきこ)という。
(玄孫って「やしゃご」と読むのが正解。ひまごは「曾孫」と書きますよね。)

三男の月神・底筒男の尊神功皇后と夫婦になった。
地上での名は物部の保連藤大臣。高良大菩薩
藤大臣と呼ぶのは、干珠満珠を借りた時の仮の名前。

皇后には九人の御子がいた。
四人は仲哀天皇との間の御子で、五人は高良大菩薩との間の御子である。
合わせて九人の御子を九躰の皇子と言う。

残った月神と日神は、神功皇后姉妹とそれぞれ夫婦になったんですって。
なるほど、だから20歳の若者の姿で現れたんだ。

この二組の夫婦は仲が良くて、一緒に皇宮に住んだそうですよ。
場所はどこだろ?文脈からは、高良山の麓なんでしょうね。
それとも、四王寺山の麓?(どちらも九州王朝の都の候補地だ!)
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長男の日神は豊姫と結婚して、生まれた子供に大祝日往子という名をつけました。
この大祝家は神官を務める家系です。物部氏なんですね。
この日往子のお墓が、祇園山古墳だという伝承もあります。

さて、メインの月神は神功皇后と夫婦になり、二人の間には5人の子供が生まれます。
仲哀天皇との間の4人の子供と合わせて九人を九躰の皇子と呼びます。

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どれもこれも、記紀とは全く系譜が違っています。
記紀に洗脳された頭には、何が描かれているのが理解に苦労しました。

この九人の御子の名前は『神秘書』には書かれていませんでしたが、
宝物殿に、それを書いた縁起書がありました!
1 斯礼賀志命(しれかし)     
2 朝日豊盛命(あさひとよもり) 
3 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
4 渕志命(ふちし)
5 谿上命(たにがみ)
6 那男美命(なをみ)
7 坂本命(さかもと)
8 安志奇命(あしき)
9 安楽應寳秘命(あらをほひめ)

9人の名前が伝わってるとはスゴイです。

さて、これも系図にしてみようとして、はたと困りました。

これが生れた順に書かれているなら、最初の四人は仲哀天皇の御子たちになります。
高良大菩薩の子供じゃないんです。
単純に考えるなら、シレカシ命は仲哀天皇の嫡男になってしまいます。
(宇美神社で生まれたホムタワケの命はどうなる?)
どうしよう。辻妻を合わせられない。そうだ。
神功皇后は元夫の子供を4人連れ子にした。
だから、高良大菩薩にとっては、子供が9人になった。
そうだ、別に変じゃない。それで、いいのかな…。
(違う気もする…。とりあえずスル―しよう…。)

神功皇后はこの後、東征をせずに、高良山の麓で幸せに暮らした?
そうなると、記紀とはかなりの違いですね。むむむ。
続きを読まなきゃ。          (つづく)




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# by lunabura | 2009-12-30 15:44 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(6)

高良大社(8)印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』


高良大社(8)
印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』

『高良玉垂宮神秘書』のつづきを読んで行きましょう。
17代仁徳天皇の時に神功皇后は崩御。
夫の高良明神玄孫大臣、豊姫、大祝日往子尊、武内大臣皇宮を一緒に出た。
武内大臣は因幡の国で靴と衣を残して、山の奥に入って行方不明。
豊姫と玄孫大臣は皇宮からはるばると肥前の国に留まり、豊姫は河上大明神となった。

高良大明神と大祝日往子尊は9月13日に高良山に戻り、三種の神祇をはからった
(はからうの訳、不明。取り扱う。相談する。処置する。など)
神璽(皇位のしるし・天子の印)は高良大明神が預かっていた。
宝剣は神功皇后が持っていた。
内侍()は玄孫大臣が預かっていた。

16代天皇は短命だったようです。彼がホムタワケの命か、シレカシの命か、
あるいは同一人物なのか、文脈からは分かりません。
しかし17代は普通に仁徳天皇になっています。
神功皇后が生きている間に、天皇が変わったというのは、
16代が短命だった事になります。

さてその後、神功皇后が亡くなると、高良明神たちは
皇宮にいられなくなったようにも読めるのですが…。

唐突に出て来た武内宿禰は鳥取県で行方不明…。
豊姫・玄孫大臣夫妻は佐賀県へ。
高良大明神は甥っ子の日往子尊を連れて高良山に戻ります。
この部分の皇宮は何処だったのだろうか。文脈がつながりません。

高良大明神は三種の神器を持ち帰ったのでしょうか。
肝腎の「はからう」の訳が分かりません。
仁徳天皇が持つべき神璽を高良大明神は預かったままなのか。
玄孫大臣は鏡を持っているのか。
三種の神器を持つ者が天子なのです。

いったいどうなってる?????
途中が欠落していて、ストーリーが分かりません。
神秘書を読んで、謎がまた増えた…。

それでも、手掛かりを探しました。
そうだ。本殿の裏には印鑰神社がある。

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末社 印鑰神社(いんにゃく)
御祭神 武内宿禰命 (高良山祠官家の祖神)
由緒 山麓宗崎鎮座の印鑰社を昭和6年(1875)に勧請
例祭 11月13日
御神徳 延命長寿 厄除け 盗難除け

この「印鑰神社」は「いんにゃく」と読みます。
「印」は印鑑。「鑰」は鍵という意味です。

この「印」が神璽なのか、単なる役所のハンコなのか分かりません。
高良大社に伝わる印鑑は宝物殿で直接見る事が出来ます。
不思議な模様で、文字ではありません。
(掲載の許可を貰い忘れたので、出せません。ごめんなさい。)

「鍵」と言えば、くるま座さんが、
「太宰府天満宮の祭りには、二か所の神社の黄金の鍵を持っていくようになっていたのが、近年途絶えた」と言っていたのを思い出しました。

ネットで印鑰神社を調べると、久留米市や壱岐、熊本、佐賀、石川などに見られ、
国の役所が置かれていて、国の印鑑や倉庫の鍵の保管場所だったのが由来のようです。
那の国の金印が中国から与えられた事情などを考えると、
古代日本では「三種の神器」以外に「印鑑と鍵」という権威のシンボルの二本立てで見ていく必要があるんだなと思いました。

この印鑰神社の御祭神は竹内宿禰ですが、
他の印鑰神社でも竹内宿禰を祭神とする所があるのが謎解きの鍵のようです。
『神秘書』の中では竹内宿禰は高良の神ではありませんでした。
「高良の神」は物部の保連(やすつら)でした。

『神秘書』の本文はまだまだ続くのですが、
「神部物部を秘密にせよ。」という文もあり、さらに背景の研究が必要でした。
(るな的にはこれ以上は力不足です。)
ただ、気になる部分があったので、少し書き出しておきます。
40代天武天皇の時、高良大明神は高良大菩薩となった。
異国征伐の時、干珠満珠で国土を守ったことから、
皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた。

やはり、高良大明神は天子の印を持っている時期があったととれるし、
玉垂宮と書いたのは高良山での事のように思われます。

アントンイソラは筑前国では志賀、常陸の国では鹿島大明神、大和の国では春日大明神という。

アントン・イソラなんてカタカナで書かれると、異国の名前のようですね。
ずっと考えたら、「安曇磯良」だった。(例。曇天はドンテンと読む)
アズミは安曇と書いたり阿曇と書いたりするけど、この例から「安曇」と書くのが原型に近いみたいです。

神功皇后の妹は二人いる。一人は宝満大菩薩。一人は河上大明神(豊姫)

神功皇后の妹は二人というのは、初めて知りました。

さらに、大問題が!
10月1日は日本の神たちが出雲に順番に集まるから神無月というが、高良大菩薩は訳あって、出雲大社には行かない。だから、筑後国では10月を神有月という。

う~ん。これは見逃せない力学関係ですね~。
筑後国は、諸国と立場が違ってる!

出雲に日本の神々が行くのは、
「翌年の暦を貰うためではないか」という仮説を持っているのですが、
高良の神が行かないのは、独自の暦を持っているからではないかと解釈しました。

物部氏って自分たちで精確な暦が作れるから、出雲なんかに行く必要はない。
そんなプライドが感じられます。つまり独立国であったという事。
これが世に言う「九州王朝」なのだろうか。

以上、『高良玉垂宮神秘書』の一部を読んで見ました。
四王寺の部分で垂迹説を唱えて粉飾してしまったのが、実に惜しいです。
この為に、虚と実と振り分ける作業が必要になってしまいました。
しかし、ここには当事者しか書けない真実の部分も見え隠れしています。

皇宮の場所は、どこか書かれてないけど、
三種の神器が一時期高良山にあったのを示唆しているようです。
記紀の中でも矛盾している3~4世紀を補うような予感がします。

そろそろ高良山を降りましょう。また、ここに舞い戻って来れますように。




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# by lunabura | 2009-12-29 20:55 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(13)

高良大社(9)高良山神籠石


高良山神籠石
こうらさんこうごいし
久留米市御井町高良山

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前回の高樹神社から少し登ると、高良山の二の鳥居があり、そこからは登山道です。
鳥居の上が苔むして良い風情です。
登って行くと、ほどなく巨岩が現れ、何やら石の柵に囲まれたものが。

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近づいてみましょう。

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有名な馬蹄石です。穴が二つ窪んでいます。
馬の足跡のように見える事からついた名前です。
この穴を踏むと足が速くなると言われているそうで、
地元育ちの元少年はこれを踏んでリレーの選手になったと話してくれました。

立札を読んでみましょう。
馬蹄石(ばていせき)
この大石の上に高良の神が神馬の蹄(ひづめ)あとを残されたという伝えから、「馬の足形」とも呼ぶ。しかし中世の縁起書『高良記』には、この石こそが「神籠石」であり、「八葉の石畳(現在の神籠石列石)」の起点、終点であると記されている。付近の字名も「神籠石」という。おそらく古代の盤座(いわくら)の一種であろう。

おお、なるほど。現在、「神籠石」(こうごいし)と言っている列石は、
かつては「八葉の石畳」と言っていたのですね。
高良山をぐるりと囲む列石を「蓮(はす)の花」に見立てたのでしょうか。
そして、この巨岩全体こそが「神籠石」と呼ばれていたそうです。

そうすると、この馬の足跡のような穴は杯状穴の可能性が出て来ました。
祈りを捧げた場所の名残です。
そこから斜め上の斜面を見上げると、三角形の盤座がありました。

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これも有名な「背比べ石」です。
背比べ石
神功皇后が朝鮮半島への出兵を前に、この石と背丈を比べて吉凶を占われたとの伝説がある。古代の石占(いしうらない)の習俗を伝えるものであろう。
菱屋平七の『筑紫紀行』(享和2年1802年)には「勢比石」と見える。

おっと、こんな所にまで神功皇后の伝説がありましたよ。
現在の高さは1mもないのですが、どんな風に比べたのでしょうか。
さきほどの馬蹄石と背比べ石がセットになって、祈りの聖地を形成していたようです。

ここで振り返ると、反対側にもう一つ説明板がありました。
史跡 高良山神籠石

筑後国一の宮高良大社が鎮座する高良山の山腹を広くとりめぐらした列石で、我が国の古代遺跡として、最も規模雄大なものである。古くは「八葉の石畳」と呼び、高良大社の縁起の中で、結界の表示として語られているが、古代の山城の一種とするのが通説である。

明治以降学界で問題となった同類の遺構は、最初に紹介された高良山の例にならい、神籠石と総称されるようになった。

列石は1m内外の長方形の切石を一列に並べたもので、高良大社社殿背後の尾根(海抜251m)を最高所とし、南側の尾根にそって下り、西裾の二つの谷を渡り、1300余個、延々1600mに及ぶ。ここ南谷には、水門の基底部の石組みが残っている。

これに対して、北側の列石は確認されていないが、天武天皇7年(678)の「筑紫国大地震」によって崩壊したのではないかとの説がある。

築造の目的、年代、築造者などについても諸説があり、正史に記載を欠くことと相まって、この列石をめぐる謎は深い。
昭和28年11月14日、国の史跡に指定された。

これを読むと、本来、「神籠石」とは「馬蹄石のある巨大な盤座」を指していて、
山を巡る列石群は「八葉の石畳」と呼ばれていたという事ですね。
これが明治以降、学術用語となって、日本各地の列石群をも含めて「神籠石」と
呼ぶようになったという事です。

やはり、この高良山で原信仰を探るなら、この馬蹄石と背比べ石の盤座の存在を
抜きには考えられない事が分かりました。
登山道の脇にさりげなくありますが、ここに社が建てられていてもおかしくない祈りの場でした。
(でも、こんな風に自然のままが大好きです。)

神籠石については、現在「山城」説に落ち付いているようですが、まだまだ謎を秘めています。

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これは、本宮の境内にあった「八葉石」(はちようせき)です。
この二の鳥居の所にあったのが、明治初年の廃仏毀釈によって、割られたものだそうです。

では、列石を見て行きましょう。
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これは大学稲荷前の列石です。バス停のすぐ上にあって、車道から見る事ができます。

c0222861_104416.jpg

これは本殿の左裏にある列石群です。この先はもう頂上で、
そこからは右にカーブしながら下って行って、大学稲荷前の列石に続きます。

久留米地名研究会の方が歩いて行ったそうです。でも、途中で迷ったとか。
傾斜は緩やかそう。と言う事は、ずいぶん長いルートなんでしょうね。

さて、この写真の場所から下ると神籠石がさらに続くはずなのですが、
この地点で消えています。これまではそれが謎だったそうです。

c0222861_1063084.jpg

角度を変えて撮りました。道路の左に見える斜面が列石の終点です。
本来なら、この道路を越えてずっと下に続くはずなのにありません。
どうなったのでしょうか。
右の斜面を見ると急激に下がっています。実は斜面が崩落したのです。
地震の為にずり落ちてしまったそうです。

それについて説明板がありました。
これより北方の列石線は確認されていない。従って列石自体が未完成ではないかとも疑われていた。

しかし最近、地震考古学の発達によって、神籠石の見い出せない北側尾根の真下に並行して、水縄(みのう)断層系追分断層が走ること、その上部の北側面には地震動による大規模な斜面崩壊の痕跡が認められることが判明した。

この大規模な斜面崩壊は山麓周辺の発掘調査から、水縄断層の最新の活動すなわち、日本書紀に見える天武天皇7年(678)の「筑紫国地震」である可能性が強く、この時の斜面崩壊で列石の断層寄りの部分が崩落したとすれば、列石が北側尾根に認められない理由も説明できる。こうして高良山神籠石の築造年代の下限が678年以前であることが、ほぼ推定されるに至ったのである。

1400年以上も昔に、この福岡県で大地震があり、断層が県の南北、そして東西に
走った事実があり、日本書紀にはこの時のようすが書かれているそうです。

この678年の筑紫の大地震の断層の差は数mの高さがあって、
今でも各地にその地形を見る事が出来ます。
この600年代は地震による津波や断層、戦争が相次ぎ、筑紫は大変な状況でした。
その時代に生きていたのが天智天皇や天武天皇です。

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これは高良山神籠石の全体図です。(歴史散歩#20久留米市教育委員会より)
赤い実線が現存する列石で、点線になったところが、地震で崩落した部分です。
吉見岳そのものがずるっと滑り落ちたそうです。信じられない激震です。
神籠石を追っていて、まさか地殻変動の歴史を見せつけられるとは思いませんでした。

それにしても神籠石って、どこの石を切り出して来たのでしょうか。
神籠石はこの近くの山にもいくつもあるので、どこかに石切り場があったはずです。
神社や祠があるかも知れません。
祭神が分かれば、どんな集団が祀ったのか見えてくる可能性があります。

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これは、日本に分布する古代山城です。(『あつまれ!!古代山城』より)
赤い丸は朝鮮式山城で、青い丸は神籠石系山城とされています。
神籠石は現在16カ所で発見されています。
これからの研究が大いに期待される遺跡群です。




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# by lunabura | 2009-12-28 10:20 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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