ひもろぎ逍遥

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住吉神社(2)能楽殿ー天守物語ー日本建築の音響空間はすごい


住吉神社(2)

能楽殿ー天守物語
素晴らしい音響空間を体験しました


南門の近くに大きな建物があります。
その脇から路地を入っていくと、能楽殿です。
建物の間の軒下を通ると、レトロな空間。
昭和の初期にタイムスリップです!
靴を脱いで上がると昔の受付があり、使いこんだ木の暖かさに包まれます。
そして、階段を数段上って、目に飛び込んで来たのは能楽の舞台。
桟敷席は舞台をL字型に囲んだ畳の席です。
わあ、ホンモノだ!これこそ和の空間だ!
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舞台が始まる前に宮司さんがこの能楽殿の話をしてくれました。
これは昭和13年に、能楽を愛する博多市民の人たちの
援助によってできたそうです。
皇居の能楽殿を作った棟梁が建築したので、
それに近いものではないかという事でした。

驚いたのは、話す声が直接、聞こえてくるのはもちろんのこと、
舞台の床板や天井などの反響を交えて、
とても多層的な響きを持っていた事です。
こんな音聴いた事無い。
その音は私の体まで共鳴板に使っているように響いてきます。
耳で聴くというより、身体全体で聴くという感じ。
コンクリートで作った現代のホールとは全く異質な音なのです。

その秘密はこの建物が総ヒノキ造りであった事にもあるのですが、
この床の下の空間に、壺がいくつも置いてあるという事で謎が解けました。
素焼の壺が客席のいろんな方向に置かれていて、
スピーカーの役目をしているのだそうです。
そして、一つは演じる人そのものにも向いているとか。
そこに立つのを「思う壺に入る」というのだそうです。
みんな冗談だと思って笑ってしまったのですが、
「本当ですよ。」という事でした。
(壺の写真はホームページの「能楽殿」に掲載されています。)

音のすごさは、舞台が始まってから、さらに迫って来ます。
人の声がクリアに、艶やかに聞こえて来ます。
雨や雷の音の時にはそのリアリティーで、思わず天井を見上げてしまいました。
録音だとは分かっていても、屋根全体に雨が叩きつけるように聞こえてくるのです。
これは素晴らしかった。
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(説明をされる宮司さん)

そして、光の取り入れ方が未知の体験。
窓は天井近くの所だけにずらりと付いていました。
夕方6時から舞台が始まったのですが、明るい日光が自然に入って来て、
ほの暗い空間が心地よい。
そして日が暮れるとともに、刻々と舞台がその明るさを変えていきました。
自然光の変化は舞台の色彩も変えて行きます。
舞台の盛り上がりと共に、身の周りが暗くなっていくので、
自然と舞台に集中して行くのです。
目からも、耳からも、体験したことのない感覚を醸し出す空間。
これぞ、日本の建築の極み。
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(舞台正面)

「天守物語」を見ました。


この日鑑賞したのは、大徳寺昭輝氏の演出、主演の「天守物語」です。
泉鏡花の代表作です。
大徳寺昭輝氏はラジオで「天の夢」という古事記の神武天皇の物語を
放送しています。
その声の朗々とした美しさはなかなかのもの。
その大徳寺氏が自ら、劇団を率いて奉納をされるのを二日前に新聞で知って、
とにかく行ってみたら、残席わずかの中に滑り込めました。

大徳寺氏がもちろん姫の役をするのですが、
気品と愛らしさと毅然としたさまは、まさに天守閣にすむ異世界の姫神。
その声と演技の素晴らしさに、すっかり引き込まれました。

演劇はみなさん素人との事ですが、見ごたえがあって、面白かったです。
舞台が終わって、涙を流すお客さんもいました。

この能楽殿は広く市民に開放されていて、誰でも借りられるんですって!
詳しくはホームページを見て下さい。
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(神門。舞台が終わって、夜遅く参拝しました。)

御遷宮スケジュール

25年に一度、装いを新しくする住吉神社の御遷宮。
その遷宮神幸は先日ありましたが、
それを祝う奉納行事が11月中続きます。(2010年)

11月6日(土)横綱奉納土俵入り(本殿)
   7日(日)歩射祭(9時)
        地球交響曲第7番「ガイアシンフォニー」上映会
   13日(土)えにしの唄会(琉球民謡・能楽囃子)
   15日(月)七五三子供祭(10時)
   16日(火)~18日(木)アントンクルーのワ―ニャ(翻訳創作劇)
   20日(土)「face to ace」ライブ
   23日(火)新穀感謝祭(10時)
         すみのえ海幸山幸・宝市(南参道)
   27日(土)琉球舞踊「二人舞への誘い」
(出かける方はHPなどで確認してください。)

土俵入りは白鵬ですね!
                          (つづく)




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# by lunabura | 2010-11-02 21:33 | 住吉神社・福岡市 | Trackback | Comments(2)

住吉神社(3)住吉三神はオリオンの三ツ星


住吉神社(3)

住吉三神はオリオンの三ツ星

今日は住吉三神についてのお話です。
まずは、その三柱の神の名前。
底筒男命(そこつつのおのみこと)
中筒男命(なかつつのおのみこと)
表筒男命(うわつつのおのみこと)

」とは「」の事です。
ですから、この三柱は「上中下の三つの星」という意味になります。
この三神が生れ出るシーンを読んでみましょう。(古事記)
 
イザナギの命は橘の小戸の阿波岐が原でミソギながら、多くの神々を生んだあと、「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れが弱い。」と言って、初めて中の瀬に潜ってすすぎました。その時に生まれた神の名は、
   八十禍津日(やそまがつひ)の神。
   次に大禍津日(おおまがつひ)の神。
この二神は、そのけがらわしい国に行った時の穢れによって生まれた神です。つぎにその禍(まが)を直そうとして、生まれた神の名は
   神直毘(かむなおび)の神。
   大直毘(おおなおび)の神。
   次にイヅノメの神。
次に水の底にすすぐ時に生まれた神の名は、
   底津綿津見(そこつわたつみ)の神。
   次に底筒の男の命
中にすすぐ時に生まれた神の名は、
   中津綿津見の神。
   次に中筒の男の命
次に水の上にすすぐ時に生まれた神の名は、
   上(うは)津綿津見の神。
   次に上筒の男の命

イザナギの命が一人で多くの神々を生むシーンです。
イザナギの命は死んだ妻を追って黄泉の国に行き、戻って来たあと、
このように海に入ってみそぎをしました。
三つの星の神はこの時に生まれています。

面白い事に、綿津見の神と交互に生まれて来ています。綿津見の神海の神です。
ですから、底・中・上の星の神は海から次々に生まれて来た事が読み取れます。

多くの本にはこの三神が何か分からないと書いてありますが、
これは「オリオンの三つ星」を指しています。

オリオンの三ツ星
岩波書店の古事記の注に
「筒」とは「星」で底中上の三筒男は、オリオン座の中央にあるカラスキ星で
航海の目標としたところから、航海をつかさどる神とも考えられる。

と書いてあります。カラスキとはオリオンの三ツ星の和名です。
私もこの説に賛成です。

オリオン座は真冬の寒さが一番厳しい時に、
南の空に悠然とその巨大な姿を見せてくれます
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これがオリオン座です。中央の三つ星が「上中下の星の神」です。
このイラストでは横並びに近いから上中下には見えませんが、
昇ってくる時には、縦になって一つずつ出て来るんですよ。
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その状態をイラストにしてみました。紺色の所は海だと想像して下さい。

冬の夜空を見ると午後7時には三つがになって昇って来ます。
だんだん横向きになって、午前5時明け方には、逆さまになって沈んで行きます。
時計と同じ方向に廻っています!
だから三ツ星の傾きの角度を覚えると時計の代わりになります。
それに方角も分かるので羅針盤にもなります。
夏には反対側に見えると漁師さんが教えてくれました。(志賀海神社(1))

ある日、ラジオドラマでちょうどこの三ツ星を捜すシーンが流れて来ました。
昔物語です。嵐の夜の海の航海のシーンでした。
「ああ。こんな夜に住吉様が見えたらなあ。雲がちょっと切れたらいいのになあ。
そうすれば、今どこにいるのか分かるのに。」
このドラマを聞いて、やはり昔は三ツ星を住吉様と呼んでいたのを知りました。
それをいつのまにか日本人は忘れてるんですね。
だから、いろんな本にいろんな解釈が書かれるようになりました。

住吉大社と三ツ星
この三ツ星の姿を大地に写し取ったのが、大阪の住吉大社です。
初めて参拝した時は神殿が四つもあって大変驚きました。

まさか、三ツ星の姿がそのまま、縦に並んでいるなんて。

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これが配置図です。
オリオンの三ツ星をかたどったものだというのがよくわかります。
底筒男命が上にあるので、オリオン座が昇って来る時の姿を表しています。

神功皇后と三ツ星

次に、神功皇后との関係を見てみましょう。
大阪の住吉大社では住吉三神の横に神功皇后が祀られています。
福岡の住吉神社でも、相殿に神功皇后と天照大御神が祀られています。

住吉三神と神功皇后はセットで祀られています。この理由も古事記を読むと明らかです。夫の仲哀天皇が神の教えを拒んだために突然亡くなった後の話です。
神の怒りを解くために、神へのお供え物を捧げ、国中の人々の犯した罪や穢れを払う大祓(おおはらえ)をしました。(略)この大祓を済ませると、再び建内の宿禰の大臣がサニワとなって、ご神託を求めました。
今度も、神が教え諭す様子は、全く先日の通りで、
「そもそも、この国は、皇后のお腹の中に宿る御子が治める国である。」
と諭されました。
そこで、建内の宿禰の大臣が言うには
「畏れ多いことです。我が大神さま、今お懸かかりになっているお方のお腹に宿る御子は男御子か女御子か、どちらでしょうか。」
「男御子ぞ。」
とお答えになりました。さらに詳しく尋ねました。
「今、このように教えられる大神のお名前を知りたいのですが。」
と求めると、すぐにお答えになりました。
「これは天照大神の御心ぞ。また、底筒男、中筒男、上筒男三柱の住吉大神ぞ。今まことにその国を求めようと思うならば、天の神や国の神、また、山の神、川や海の神に、ことごとく御幣を奉り、住吉大神の御魂(みたま)を船の上に祀り、マキの木の灰をヒョウタンの器に入れ、また、箸と柏の葉で作った皿をたくさん作って、それを皆大海に散らして浮かべて、渡るがよい。」
と言われました。
 そこで、詳しく教えられた通りにして、軍勢を整えて、船を並べて、西の方の国に渡られると、海原の魚、大小を問わず、ことごとく御船を乗せて進みました。その上、追い風も吹いて、御船は波が寄せるのに任せて行きました。その御船を乗せた波は新羅の国に押し上がって、完全に国土の半分まで達しました。

神功皇后が神懸かりをした時に降りた神々は天照大御神住吉三神でした。
この神の教えの通りにしたら、戦う事もなく新羅の国を帰順させる事が出来ました。
新羅王が降参したので、その王城の門にこの住吉三神の荒御魂を鎮めて来たように書かれています。
これは古事記の中の話なので、日本書紀ではまた少し違っています。

こうして住吉三神はオリオンの三ツ星という航海の守り神となり、
そして、戦争の勝利に導いた神となり、禊の中で生まれた事から禊の神となりました。

この話の背景を考えると、オリオンの三ツ星をシンボルとする海人族の協力で
戦ったのが見えて来ます。それが住吉族という海人族だと思います。

住吉三神(住之江の神)(現代語訳をしました。『古事記の神々』)
http://himeluna.exblog.jp/15348565/

◆ブログ内で古代人のオリオン座を見て歩く
オリオン座は氏族によっていろんな象徴となっています。

志賀海神社(1)龍の都と呼ばれた海神の宮―住吉三神はオリオンの三つ星
志賀海神社(2)沖津宮と小戸 住吉三神が生まれた聖地
日若神社 (5)イスケヨリ姫との結婚の背景
          姫の名前には古代鉄の暗号が。

住吉三神を祭る主な神社 (マイペディアより)
福岡市博多区住吉(筑前国一の宮) 三神の和魂をまつる。例祭10月13日
下関市一宮 (長門国一の宮)   三神の荒魂をまつる。例祭12月15日
大阪市住吉区住吉(摂津一の宮)  三神と神功皇后をまつる。例祭6月30日
壱岐市              三神の和魂をまつる。例祭11月9日。



さてさて、福岡に住吉神社があると知らなかったルナは大阪まで行って来ました。
何年も前の話です…。
そして、福岡にはさらに元宮があると知りました。これについては、またいつかレポートしますね。



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# by lunabura | 2010-11-01 15:02 | 住吉神社・福岡市 | Trackback | Comments(22)

東大寺で出土した剣に陰剣・陽剣の刻印を発見・正倉院から移したものだった

ニュースより
東大寺で出土した剣に
陰剣・陽剣の刻印を発見


正倉院から取り下げて大仏の膝元に埋納されていたことが判明


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(写真は頼光和弘氏ー一部変更)

25日、東大寺の「陰陽の二振りの剣」についてテレビ報道がありました。
今回発表された二振りの剣は、大仏の膝辺りの土の中から、
明治時代にすでに発見されていたものです。
最近、改めてX線撮影された結果、「陰剣」「陽剣」という文字が
彫られていたのがくっきりと映し出されました。
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(元興寺文化財研究所提供)

調査の結果、その陰陽の剣はいったん正倉院に奉納されながら、
「徐物」となって持ち出された剣だという点が明らかになりました。
1250年前の話です。
その詳細の記事を、書き写します。

明治時代に東大寺大仏足元で出土
幻の宝剣と判明
正倉院から1250年間不明
 


聖武天皇が建立した東大寺(奈良)の大仏足元から明治時代に出土した国宝の「金銀荘太刀」(きんぎんそうのたち)二本が、約1250年間にわたり行方不明だった宝剣「陽宝剣」(ようのほうけん)「陰宝剣」(いんのほうけん)とエックス線調査で分かり、同寺と調査した元興寺文化財研究所(奈良)が25日発表した。

光明皇后が天皇の遺品として東大寺に献納後、正倉院から取り出し、埋納したとみられるが、理由は不明。皇后からの献納品目録「国家珍宝帳」の武器リスト筆頭に記した貴重な宝剣で、正倉院研究の上でも画期的史料といえる。

東大寺と正倉院事務所によると、六百数十点の献納物を記載した国家珍宝帳には、今回の宝剣を含め「徐物」(じょもつ)の付箋(ふせん)を張って、リストから外した宝物が7件あるが、所在が判明したのは初めて。

「陽宝剣」と「陰宝剣」は鉄製で、長さはいずれも1メートル弱。さやは木製の漆塗りで金銀の金具で装飾されている。

明治末期、作業用の柱を立てるために大仏の台座そばに穴を掘った際、右ひざ近くから出土。同時期に見つかった別の太刀、銀製のつぼ、水晶合子(ごうす)などとともに「東大寺金堂鎮壇具」(ちんだんぐ)そして1930年に国宝指定された。

これまで奈良国立博物館が預かっていたが、保存修理に備えて、元興寺研究所がエックス線写真を撮影し、刀身の柄に近い部分に象眼の「陽剱」「陰剱」の銘文を発見した。 
                    (2010年10月26日 西日本新聞) 
 
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これが正倉院の「国家珍宝帳」です。
光明皇后が亡き聖武天皇の遺品を納めたリストです。
太刀を百振りも納めていたのが分かります。
そして話題の「陽宝剣と陰宝剣」が筆頭です。最高の太刀です。
寸法や細工のようすが書かれています。紫、黒紫、紅という字も見えます。
その上に「除物」と紙が張り付けてあって、取り下げられた事が分かります。

756年に聖武天皇の四十九日の法要があって、
その時に献納した太刀と特徴が一致しているそうです。
光明皇后が遺品をこうして納めたのですね。
東大寺こそ夫の聖武天皇が建立したものだから、
そこに最高のものをと選んだ気持ちが伺えます。

正倉院内の御物は鉄の刀でも今なお錆びないで光っています。
しかし、この宝剣は土の中に埋められたので錆びています。
それでも、他の鉄の出土物から見ると、ずいぶん良好な保存状態で、
細工のようすもよく伺えます。
これをじっくりと見ると、やっぱり細工がすごい。

宝剣と同時期に見つかったのが、別の宝剣と銀製のつぼ、
水晶の合子(ごうす・ごうし 蓋付きの器。)
(クリスタルの小さな入れ物なんて、すごいなあ。)
具体的な埋納状況が知りたいですね。

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東大寺大仏
(この右ひざの下あたりで出土)

光明皇后が取り戻した7点のうちの他の2点については、この夏、
NHKテレビ番組で「天皇の愛用の品を取り戻していた」という内容で
放送があっていました。
あいにく、具体的な品物の名は忘れたのですが、
亡き天皇をしのぶ皇后の思いを初めて知りました。
だから、今回の太刀を知って、あれこれと想像しています。
再放送がないかなあ。



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# by lunabura | 2010-10-28 21:56 | 陽宝剣と陰宝剣・東大寺・ | Trackback | Comments(4)

キュウサン☆マンガ☆クロニクル・北条司ほか10人のプロ漫画家の原画展


キュウサン☆マンガ☆クロニクルに行って来ました。
福岡市東区 九州産業大学
10人のプロ漫画家の原画がせいぞろい。

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新聞に載っていた北条司氏のイラストに一目ぼれ。
福岡市東区の九州産業大学美術館の特別展に行って来ました。
九産大はJR鹿児島線の九産大前駅のすぐ近くです。
ちょうど学園祭の真っ最中。
さすが、芸術学部があるだけに、ポスターや展示のセンスの良さに
アートな気分も盛り上がります。
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この特別展は九産大在学中に漫画研究同好会などに所属していた
10人の漫画家の原画展です。展示の漫画家は
春日光弘、巻来功士、北条司、井上正治、Moo.念平、坂井孝行、
小林俊彦、イワシタシゲユキ、今賀俊、六堂神士


生の筆づかいや、書き込み、下書きなどを直接見る事が出来ます。

今回は個人的には、肌色の色とか、ぼかし具合とか、光の描き方とか、
それぞれの作家の工夫に注目しました。
10人全員の作品の紹介は無理なので、北条司氏の作品に絞ります。
(エンジェル・ハートほか)
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押しピンも、その影もイラストです。
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新聞に北条司氏のインタビューが載っていました。その一部を掲載します。


やらない口実を探すより、まず何かをやってみようよ                   
                  北条司 (1981年芸術学部デザイン学科卒)

――プロになる気はなかった?
北条 はい。大学4年のときに3本ぐらい漫画を描きましたが、卒業後も福岡でコツコツとやっていけばいいと思っていました。連載を持って週に20~30枚も描くなんて絶対無理だと。でも卒業した年の6月、編集者からいきなり「連載が決まったから上京して来い、アパートも決まったから」と。それで仕方なく上京して「キャッツ❤アイ」の連載が始まったんです。

――絶対無理だと思っていた生活に入って、どうでしたか。
北条 やっぱり無理だと思いましたね。物語を考えるのにも絵を描くのにも時間がかかるので、締め切りに追われ、絵は荒れるし、徹夜徹夜で眠れないし。でもまあ、いろんな意味でコツをつかんだのか、半年後には1日10ページくらい平気で描けるようになりましたが。

――喜びとかやりがいは?
北条 やっぱり、作品が完成した時ですね。でも次の瞬間には、まだ駄目だな、もっといいものを、という気になる。執着点がない、無限地獄みたいなもんです。

――最後に、母校の在学生や大学を目指す若者たちにメッセージを。
北条 例えば社会が悪いだとか、口実を見つけて自分は何もしない、そんな人にはなってほしくないですね。50年生きてきても、社会が良かったことなんてないんだから。初めてのことに挑戦すれば、失敗はつきもの。言い訳を探して何もしないより、何でもやった方が絶対に楽しい。目の前にある何かを見つけたら、まずは首を突っ込んでほしいですね。
(企画・制作 西日本新聞広告局)

う~。さすが、プロの言う事は違うなあ。
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巻来功士
やっぱり、そうなんですね。たっぷり苦しむんですね…。
こんな後輩たちへのメッセージも印象的でした。

これが全作家です。この原画が全部展示してあります。
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 キュウサン☆マンガ☆クロニクル
期間 2010年11月7日(日)まで。
会場 九州産業大学美術館(福岡市東区松香台2-3-1)
開館 10:00~17:30 月曜休 (11月1日は開館)
入場料 一般200円 (でも、無料でした)
問い合わせ 九州産業大学美術館 092(673)5160

10月30日(土)14:00~
座談会 漫研の思い出、そしてプロの世界へ
パネリスト 井上正治氏 Moo.念平氏






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# by lunabura | 2010-10-25 01:13 | <催しもの・あそび> | Trackback | Comments(2)

大嶽神社(1)おおたけ・磐座の上に神社が建っている?・ここは立花山を遥拝する古代からの聖地?


大嶽神社(1)
おおたけじんじゃ
福岡県福岡市東区大岳
磐座の上に神社が建っている?
ここは立花山を遥拝する古代からの聖地?


ここは出発点。これまで何度か紹介した福岡県の志賀海神社です。
海に向かった不思議な鳥居があります。遥拝所です。
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いったい何処に向かっているのだろうと、お尋ねした所、
「宮中ほか、すぐ前に見える大嶽神社などです。」と教わりました。
写真の鳥居のちょうど真ん中に、その大嶽神社の山が写り込んでいます。
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鳥居の先の石の垣根まで行くと青い海が広がり、大嶽神社が右側に見えています。
今日はどうしてもそこに行ってみたい!

志賀海神社から戻る途中の左手から少し入りこんだ所にありました。
すぐ隣は大岳荘という海の幸の食事処。それをめざせばOKです。
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鳥居が赤だ。もしかしたら、ここはお稲荷さん?
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けっこう急な坂です。
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階段を上ったらすぐに境内でした。桜が散ったばかりです。
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近寄ってみるとやっぱりお稲荷さんでした。
でも、何だかへん。なんだろう。普通のお稲荷さんとは何処か違う。
ルナの嗅覚が働きます。
その原因はキツネ像の土台の石にありました。
さりげなく土台になっている石がどうやら盤座(いわくら)の岩に似ている。
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すぐ横にもいくつもの岩があって、その一つに四角い穴が彫られて、
そこにかつての扁額らしきものが建てられています。
「正一位稲荷宮」と彫ってあります。でも、その下の岩の方が気になる。
どうやら稲荷信仰よりもっと前の時代の痕跡です。
この岩は火成岩らしく、表面がつるっとしています。
他にも岩がないかなと、数m奥に行くと、こんな岩が。
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ひだひだになっていて、さっきのとは全く別の岩です。という事は?
ここは、組み石の上にある?
そう、それを磐座(いわくら)という。
ルナはかつて巨石や盤座に夢中になって、
鹿児島から神戸、三輪山、はてはイギリスまで、見て回った時期があったので、
この岩の感じに久し振りの興奮を覚えました。
さらに奥の方に行くと崖になって、海が見えました。そして。
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おお!な、なんと正面に立花山が…。ここからは見事に二上山だ。
この山はイザナギイザナミが一緒に暮らした神殿だという伝承が
麓の新宮町にあるのを最近知りました。如何にも貴い山容です。
すると、ここは、立花山の遥拝所になる?
ここは古代の盤座の上に神社が建ってるんじゃない?
そう思って、他を探すと少し下がった所にも岩が。
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さらに下に行くと祠の下に平べったい巨石が。
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やっぱり、そうだ。盤座の上に祠が建っている。
このフラットな感じは、かつての祭壇石かもしれない。
想像するに、この山にはもともと磐座があって、
後の世に土で基礎を固めて、稲荷の祠を建てたのではないか。
変形しながらも祈りの場として、連綿と続いている聖地なのではないか。
そんな思いがかけめぐります。
ここの巨石は、宗像大社の沖ノ島の盤座群と同様の盤座で、
何らかのネットワークを持っていたのかも知れない。

巨石文化といえば、このブログでは日天宮の所で紹介しました。
これがあるという事は重要な祈りの聖地なのです。

久し振りの磐座を見て興奮しながら帰ったのですが、
御祭神について調べていると、考えさせられる情報が入って来ました。
            (つづく)



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# by lunabura | 2010-10-20 22:41 | 大嶽神社・おおたけ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

大嶽神社(2)おおたけ・シナツヒコは風の神さま・シナツ星とはスピカ星


大嶽神社(2)

祭神・シナツヒコは風の神さま
そしてシナツ星とはスピカ星

 
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さて、海の中道の途中の小山にあった大嶽(おおたけ)神社
盤座(いわくら)を思わせる岩があちこちにあって、
しかも立花山を見ていたのが前回分かりました。
不思議なのは、神社の名前です。
「大嶽神社」が正式名のようですが、
岩の上に置いてあった扁額には「正一位稲荷宮」とあり、
現在の扁額は「正一位 大嶽神社」。なんだかミックスしたような…。

その不思議な感じの理由を明らかにするために
今回は祀られている神々について見て行きたいと思います。

御祭神の名前は志賀海神社のリーフレットに書いてありました。
志那都比古・志那都比売・大濱宿禰・保食神の4柱です。
今日は最初の二柱を見て行きましょう。

志那都比古と志那都比売
この読み方は神社に伺って、シナツヒコ・シナツヒメと教えてもらいました。
とても珍しい神さまです。古事記を調べるとありましたよ!
長いけど、現代語訳を読んでみましょう。
日本の島々と神々が生まれて行く感動的な情景が描かれています。
イザナギとイザナミの命の間に生まれた最初の子供はヒルコでした。
お二人は、話し合いました。
「今回生まれた子供は良くなかった。やっぱり、天つ神の所に行って、相談しよう。」
と言って、一緒に参上して天つ神の御意見を求めました。
そこで、天つ神の意見によって、太占(ふとまに)で占って、告げられました。
「女が先に言ったのが良くなかった。また帰って、やり直しなさい。」
そこで、再び天下りして、天の御柱を同じように廻りました。
今度は、イザナギの命が先に「ああ、なんと素敵なお前よ。」と言って、その後、イザナミの命が「ああ、なんて素敵なあなた。」と言いました。

日本の島々を生む
そうして再び、夫婦の交わりをして生んだ子供は
淡道(あわじ)の穂の狭別(さわけ)の島。
次に伊予の二名(ふたな)の島。この島は身体は一つで、顔が四つ有りました。顔ごとに名前が付いています。
伊予の国はエヒメと言い、讃岐の国イヒヨリヒコと言い、粟の国はオオゲツヒメと言い、土佐の国はタケヨリワケと言います。
次に隠岐の三つ子の島を生みました。またの名は天のオシコロワケ。
次に筑紫の国を生みました。この島もまた、身体は一つで顔が四つありました。顔ごとに名前が付いています。
筑紫の国は白日別(しらひわけ)と言い、豊国は豊日別(とよひわけ)と言い、肥(ひ)の国はタケヒムカトヨクジヒネワケと言い、熊襲の国はタケヒワケと言います。
次に壱岐の島を生みました。またの名は天の一つ柱といいます。
次に津島を生みました。またの名は天のサデヨリヒメと言います。
次に佐渡の島を生みました。
次にオオヤマトトヨアキヅ島を生みました。またの名は天つミソラトヨアキヅネワケと言います。
こうして、八つの島を先に生んだので、大八島国(おおやしまぐに)と言います。
 そうしてから、戻る時に吉備の児島を生みました。またの名はタケヒカタワケと言います。

次に小豆島を生みました。またの名をオオノデヒメと言います。
次に大島を生みました。またの名はオオタマルワケと言います。
次に女島(ひめしま)を生みました。またの名は天一根(あめのひとつね)と言います。
次に知訶(ちか)の島を生みました。またの名は天の忍男(おしお)と言います。
次に両児(ふたご)の島を生みました。またの名は天の両屋(ふたや)と言います。

神々を生む
こうして、国を生み終えて、さらに神を生みました。
生んだ神の名前は、オオコトオシオの神。
次にイワツチビコの神を生み、次にイワスヒメの神を生み、
オオトヒワケの神、天のフキオの神、オオヤビコの神、カザモツワケノオシオの神、
次に海の神で名は大綿津見の神を生み、
ミナトの神、ハヤアキヅヒコの神、イモハヤアキヅヒメの神を生みました。
(オオコトオシオの神からアキツヒメの神まで合わせて十神。)
このハヤアキツヒコとハヤアキツヒメの二柱の神はそれぞれ川と海を受け持ちました。

次に生んだ神の名は、アワナギの神、次にアワナミの神。
次にツラナギの神、次にツラナミの神。
次に天の水分(ミクマリ)の神、次に国の水分の神、
次に天のクヒザモチの神、次に国のクヒザモチの神。

次に風の神、名はシナツヒコの神を生み、
次に木の神、名はククノチの神を生み、
次に山の神、名は大山津見の神を生み、
次に野の神、名はカヤノヒメの神を生みました。
またの名は野椎(のづち)の神と言います。
(シナツヒコの神より野椎の神まで、合わせて四神。)
この大山津見の神とノヅチの神の二柱はそれぞれ山と野を受け持ちました。

すごいですねえ。この神々の名前が朗々と詠まれるのを聞けば、
日本の国土が形成されたようすが目に浮かぶようです。
そして、これが古代人の倭の国土のイメージなのです。
その中で、今日の話に関係があるのを青字で示しました。

知訶(ちか)の島
これは注釈では不明となっているのですが、私は志賀島ではないかと思います。
先の方で詳述しますが、
「昔は近島と言ったのが、今は訛って資河島という。」と言う伝承があります。
さらに古くは千顆(ちか)の島だったようです。
(「高天原」に書いています。)

この大嶽神社のある山も昔は島でした。
そして風の神・シナツヒコを祀って、船の安全を祈ったのが分かりました。

シナツ星はスピカ
ところが、この「シナツ」という言葉が『儺の国の星』には星の名前として出ています。
それによると「シナツ星」とは「スピカ星」を指していました。
これはシナツヒコとは関係ないのでしょうか。
そんな疑問が生まれたので、その部分を意訳してみます。

「シナ」には「中間・中」の意味があって、
「行きしな、もどりしな」と言って、「行く途中、戻る途中」の意味で使う。
乙女座のスピカを若狭の三方では「しんじぼし」と呼ぶことを野尻抱影が書いている。
「しんじ」とは古語で彼岸の中日、(春分と秋分)の事である。
昼と夜の長さが同じで、冬と夏が接する時である。
これからスピカを「しなつ星」「ひなかば星」とも言った。

スピカはバビロニヤでは春分を司る女神であった。
身に白絹のひれをかけて、髪には白銀の髪飾りを挿し、手に麦の穂を持つ姿だった。
かつてのバビロニヤでは春分の日を年の始まりとして祝っていた。
かつての栄華を誇った王国も一朝だけ咲く花の夢のようにはかなく消えてしまったが、
このスピカが春分の日の星として礼拝された時代は紀元前666年の頃である。

しかし、歳差運動によってスピカは春分を示さなくなり、今は夏至近くを示す星となった。そこで新しく付いた名前が「日夏星(ひなつぼし)」「日向星(ひなたぼし)」で、江戸時代には「始夏星(しなつのほし)」と呼ばれたかもしれない。

野尻抱影が採集した「しんじぼし」という言葉を残す若狭は、
近東や中東の民族特有の面立ちが見られる東の限界地である。
スピカが春分の日の女神であるという幻影が筑紫を通って
若狭まで運ばれた名残の言葉である。
小乗仏教で中時(しんじ)というのにもその名残が残っている。

これは真鍋大覚氏の本をかなり意訳しました。この文から読み取れるのは、
紀元前の昔、中東あたりのバビロニア王国が栄えていた頃、
スピカが春分の日と秋分の日に東から昇って、新年を告げる星だった。
スピカは両手に麦の穂を持つ女神として祀られた。
その暦を持った氏族が筑紫や若狭に辿り着き、
スピカをシナツ星とか、シンジ星、ヒナカバ星と呼んでいた。
しかし、歳差運動によって、今では1か月以上もずれてしまって、
春分の日を示さなくなった。

という事です。
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(『星の神話・伝説』野尻抱影より)

新年を決める基準として春分や秋分を選ぶ氏族と、
夏至、冬至を選ぶ氏族があります。
これは世界中の古代文明を見る時、注目したい点です。
メキシコのピラミッドは春分・秋分の日に蛇の影が出現するように作られています。
イギリスのストーンヘンジは最近の研究では夏至の夕陽が
一点を指すように作られていると言う研究が発表されました。
日本でもそのように、新年を見極める仕組みが古代の聖地で見られます。

確かにこの神社から見えた立花山は東の方にあります。
阿曇海人族たちはこの大嶽神社の場所を見つけて、
東の空にスピカが昇る観測点としたのではないかと思いました。
そして、故郷と変わりない新年の星を祝ったのかも知れません。
祭神の名前「志那都比古・志那都比売」にはそのような
「シナツー春分秋分を教える神」の可能性があるかもしれないと思いました。

☆ ☆ ☆

久し振りにスピカが出て来たのですが、このブログももうすぐ一年を迎えます。
このブログは「香椎宮とスピカの謎解き」から始まりました。
こうして、一年経って、またスピカに戻って来たのがとても不思議です。
しかも、ここから見える立花山の麓に香椎宮があるのですから。

眞鍋大覺氏の本の内容は難解だし、驚く事ばかりで、
自分でもよく理解できないまま、チャレンジして来ました。
三行しか理解できなかった眞鍋氏の本も一年の積み重ねのお蔭で、
少し理解出来るようになりました。(我ながら成長したなあ)
次回は一年前には理解出来なかった部分にチャレンジします。

地図 志賀海神社 大嶽神社 立花山 香椎宮


スピカのお話⇒香椎宮




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# by lunabura | 2010-10-19 20:58 | 大嶽神社・おおたけ・福岡市 | Trackback | Comments(4)
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