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多賀神社(3)ここはイザナギの命が光り輝いて出現した岬だった

多賀神社 (3)


伝承って面白い!
ここはイザナギの命が光り輝いて出現した岬だった


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神社のホームページには由緒がたくさん書いてありました。

しかも古事記や日本書紀とは違う伝承です!
これは楽しみ。
でも…。
漢字がムズカシイ…。
頑張って訳します!

国土を作り固めて、多くの神々を生み終えたイザナギの命が、
天にいらっしゃる天津(あまつ)神の所に、戻る途中の事です。

この地に、にわかに五色の瑞雲(ずいうん)がたなびきました。
光明があかあかと天地を照らして、
国人(くにびと)たちがこれを見て仰天するうちに、
イザナギの命がその姿を現して、言われました。

「私は群神の祖(おや)である。
このたび、国土や万物を生成して、天に帰る途中だが、
国を守り、人々が安らかでいられるように、
今、この山にその跡を示すものである。
なんじらは、この私を祀って、
長寿と幸福を祈るがよい。」

国人たちは大変喜んで、ただちにこの山を日若山と呼び、
イザナギの命を日の若宮として拝み、
社伝を立てて、日若大明神とあがめました。
(多賀神社誌)

なんと、珍しい伝承でしょう。
要約すると、
国や神を生み終えたイザナギの命は
天に戻る途中、この山の上で光となって出現し、
「ここで自分を祀れば、国人たちを守る。」と約束されたという事です。
人々は喜んで、イザナギの命を日の若宮と呼び、
この地を日の若山と呼びました。


イザナギの命だけが登場しているのは、
妻のイザナミがすでに亡くなっているためですね。
また、
イザナギの命は天に帰る途中だったと書いています。
古事記では、
イザナギの大神は淡海(おうみ)の多賀に鎮座されています。
となっています。
ちょっと違うのが面白い。


ここが発祥の地?

淡海とは近海(おうみ)とばかり思っていたけど、
良く見ると漢字も意味も違うぞ。
淡海とは、淡水と海水とが混じりあう所?
それじゃあ、ここがそう。
ここは古事記に書いてあった場所の可能性が出て来ました。

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神社は丘の上にあるので、直方市の町並みが見渡せました。


古代は岬だった?

ここは地図をみると陸の中ほどにありますが、
縄文時代などはすぐそばまで海が迫っていました。

この遠賀川流域は、縄文時代の遺跡が沢山出ていて、
6000年前の縄文人の骨も出土しています。
早くから、人々が住み着いた土地です。
海から見ると
この丘は遠くから分かる岬だったと思われます。

船を操る海人族の人たちが、岬の上に光り輝く北斗七星を見て祀ったのが
この宮の始まりではないかと思いました。
北斗七星を多賀の星と呼び、守護の神と仰いだ氏族たちです。

初めてこの土地に来た時に見つけた岬の上にこの星が輝いたのでしょうか。
それとも、国造りをし終えて一段落した記念でしょうか。

(つづく)
次回はこの宮に伝わる古縁起です

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# by lunabura | 2010-03-08 20:08 | 多賀神社・たが・直方市 | Trackback | Comments(0)

多賀神社(4)古縁起が伝える驚きの内容

多賀神社 (4)

古縁起が伝える驚きの内容
この宮は高千穂の大宮の鬼門にあたる


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神社のホームページには、他にも古縁起が載っています。
そこに驚くべき内容が書いてありました。訳してみます。
そもそも、筑前の国は筑紫の島の北部に位置していて、
特に鞍手(くらて)郡東蓮寺村は古くは日若(ひわか)の里と言っていた。
この地は神代の帝都の日向の国・高千穂の大宮より、ちょうど鬼門(東北)の方位にあるので、
太古、イザナギの大神が国土万物をすべて生成し終わって、この地に御身を隠された。

何に驚いたかと言うと、
①この地は帝都の日向の高千穂の宮の鬼門(東北)にある。
②イザナギの命はここに身を隠した。
         という二点です。

さっそく①について見て行きましょう。
古縁起には、この多賀神社が九州の北部にあり、帝都の鬼門にあると書いています。
すると、高千穂の大宮はここから南西にあると言う事になります。

日向の国高千穂と言えば、宮崎県ですが、直方(のおがた)市からは、はるか南の方にあります。

もしかしたら、現代の私たちの知らない日向(ひむか)がある?
これはどういう事だろう。
この古縁起の言う神代の帝都はいったい何処だろうか。
探してみよう。

この文から引き出せるのは、
多賀神社が鬼門にあるという事は、その南西に帝都がある。
そこが日向の高千穂の宮である。

という事です。
日向という地名は各地にあるので、ターゲットは沢山あります。
この神社の南西線上には、何かそれらしき都の跡があるでしょうか。

それを探す前に、古縁起を書いた人の考える鬼門を含む神代の国らしきエリアを
確認しておきたいと思います。
候補1 狭いエリアでは、六獄(むつがたけ)山を中心とした旧鞍手郡のエリア。

候補2 一つ広いエリアを考えると、嘉穂(かほ)盆地全体のエリア。
中心は飯塚市の立岩堀田遺跡か。

候補3 さらに広げて、福岡県北部をエリアとする。
南西の山を越えると、昔から栄えていた太宰府や、背振山がある。

候補4 九州全体をエリアとして、宮崎の日向から見て、直方市が鬼門の方向と勘違いした。

この古縁起を書いた人の宇宙観はどれでしょうか。
とても珍しい資料なので、検証してみると面白そうです。

とりあえず、南西ラインを見て行くと、六獄山、笠置山、立岩堀田遺跡、太宰府、背振山が
線上に浮かんできました。
六獄(むつがたけ)山は宗像三女神の降臨地
笠置山はニギハヤヒの降臨地
として伝えられている所です。

それでは、地図を見てみましょう。


この日向の高千穂がどこにあるのか、古来論争があっています。
候補4の宮崎については、江戸時代の著名人が宮崎県だと言ったために、
定説のようになってしまいましたが、多くの疑問が出されています。
考古学的にも、縄文や弥生時代の出土例があまりなく、宮崎に都を見つけるのは難しいらしいです。

高千穂探しが有名な理由

高千穂が何故話題になるかというと、天孫降臨の地が決まるからです。
ニニギの命が最初に高千穂のクジフル岳に降臨したという事から、
日本の始まりの場所が分かるからです。

これまでは別に、どっちでもいいやと思っていたのですが、
ここに直方市が高千穂の東北にあるという古資料が出て来たら、
がぜん、ホントカナって、調べたくなりますよね。
この遠賀川流域は見逃せない所になりました。(ぶらぶら歩きをする内に、見つかるかも。)

***

さて、②の文章もチェックしましょう。
イザナギの命はここに身を隠した。

身を隠すというのは亡くなるという意味です。
イザナギの命の死去については、古事記では
そのイザナギの大神は淡海(おうみ)の多賀に鎮座されています。

という書き方で、具体的には触れていません。
でも、この宮の古縁起では、「ここに身を隠した」と書いています。
これも、新発見です。

HPには、さらに別の古縁起が書いてありました。
イザナギの命は国土や万物の生成の仕事を成し遂げた。
天徳はとても大きい。ここで天に昇って報告された。
それから、日の少宮に留まって住まわれた。

以上、いくつかの古縁起が伝える内容をまとめると、
イザナギの命が国づくりをしたあと、ここに住居を構え、ここで亡くなった

というモチーフが伝えられている事になります。
真偽は分からないけれど、面白い伝承です。

次回はこのお宮に伝わる古い歌謡です。

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# by lunabura | 2010-03-07 10:49 | 多賀神社・たが・直方市 | Trackback | Comments(4)

多賀神社(5)ここでは歌垣があっていた?

多賀神社 (5)

ここでは歌垣があっていた?
恋を成就させる神様の前で踊ろうよ。


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多賀神社には「日若(ひわか)踊り」が伝わっていました。

これには歌詞も伝わっています。
それを現代語に直しました。

多賀のカムロギイザナの君は
黄泉の国や常世の国にお行きになって、
国を生み、人を生んで、筑紫に帰って来られた。
ここを倉戸と、お倉を定めて、
百千万代、静玉が鎮むように鎮まられたからか、
日の若宮とここの山を神も言うし、人も伝えた。

多賀の宮の主、イザナの君は
天降りなさって大八洲島を生み、
天地の神も生んで、
八百万のものを生んで、
豊かな国筑紫の島根、この島の
比古と宇麻美の河合の
小高い山根を見て、ここがよい、
ここがふさわしいと立ち寄って倉戸を造られた。

永久にその身を隠した玉を置いて、
玉を留められた。
こういう事で、神代から伝えて、
天津御国に高く光る日の若宮とこの宮を、
日の若山とこの山を
すべて称えて仰いだことよ。

天に輝く国の 棚機(七夕)か 
それか あらぬか
高く光る 日の若宮の 
神嘗(かんなめー今年の収穫を奉納する)の日若祭りは。

今日一日 舞え舞え騒げ 騒げ舞え
妹今に来む 背子今に来む

これは万葉調で、長歌の一部だそうです。
原文でよむとリズム感があってとてもいい雰囲気です。

では、まず、前半のポイントを見て行きます。

比古と宇麻美は聖なる山

前半の内容をまとめると、
イザナギの命は国や神や人を生んでこの筑紫に帰ってきた。
そして、この多賀の地を見て、
「ここがいい」、といってお住みになって、
最後にはこの地で亡くなりました。
という事になります。

そして、イザナミの命がこの地を気に入った理由が
豊かな国、筑紫の島根、この島の
比古と宇麻美の河合の
小高い山根を見て、ここがよい、
ここがふさわしいと立ち寄って倉戸を造られた。
という事です。

この歌には、比古宇麻美への賛歌が込められています。

今日はこれに注目しましょう。

比古宇麻美とは、
英彦山(ひこさん)と馬見山(うまみやま)だと思います。
この多賀神社のずっと南に聳えている山です。

遠賀川はこの二つの山から流れて来る水を集めて、海にそそいで行きます。
その途中にある小高い丘(岬?島?)を見て、
ここが良いと言って倉戸を建てて、
魂を鎮める玉を置かれた訳ですから、
気に入った理由が、この地形だというのが分かります。

英彦山と言えば、福岡県では古来から篤い信仰があります。
なにしろ、かつては県内の男性が成人すると、
必ず参拝しに行ったというのですから。

馬見山については、荒穂ネットワークらしきものがあるのが分かりました。
日天宮、荒穂神社参照)
流域の氏族がこの二つを聖なる山としていた事が
思いがけずこの歌で分かりました。

だから、この先、この流域の伝承を見て行く時に、
英彦山と馬見山は
押さえておくべき大切な場所だと思iいました。

***

次に歌の後半を見てみましょう。
祭りのようすが歌われています。

七夕さまのように年に一度の恋を

今日一日 舞え舞え騒げ 騒げ舞え
妹今に来む 背子今に来む
(彼女が来るよ。彼氏が来るよ。)

(いも)や背子(せこ)は、
恋い慕う男女が互いを呼ぶ名前です。

今日一日だけは踊って騒いで、
好きなあの子に会えるんだと、
ずいぶん盛り上がった祭りのようですね。

歴史の教科書に
古代日本には歌垣が各地にあったと書いてありました。
こんな歌がその歌垣の歌かもしれないなと思いました。

「天に輝く国の棚機(たなばた)か」と歌っているので、
年に一度の恋のお祭りだったんでしょう。

歌垣から古代の日本人について考えました。

縄文時代の日本人は平和な暮らしをしていたと言われます。
弥生時代になって、半島や大陸から渡来人がやって来ると、
稲作が飛躍的に向上したけれど、
反面、戦いも持ち込んだようです。

部分的には戦闘があったけれども、
それでも、縄文人と弥生人とは、
うまく住み分けをして、平和に暮らしていたらしいです。

それが、だんだん単一民族としてまとまって行きました。

伝承を尋ねていて、
かつては隣村とは決して結婚しなかったというケースを、
北九州市と宝珠山村で聞きました。
部族が違っているので、結婚が禁じられた例かなと思いました。

そんな例がある一方で、
縄文人と弥生人の混血がすすんでいきます。

この謎を解くカギがこの歌垣かも、と思いました。
大体が通い婚の時代です。
魏志倭人伝には、一人の男に対して、妻が何人もいると書いてあります。
そして、国が100ぐらいに分かれていたというので、
結婚となると、自分の国(氏族)の中で行われたと思われます。

しかし、
人間や動物は本能的に近親婚を避けようとします。
そして、出来るだけ遠い種と交配する事で、
種を健全に保とうとします。
そんな機会がこの歌垣だったんじゃないかなと、ふと思いました。

玉依姫のような極端な近親婚が支配者層にはあっても、
一般の人たちは、年に1,2回の自由恋愛の日があって、
隣の国のお祭りなんかにこっそりと加わって、
それで、ゆるやかに単一民族になって行ったのかもしれないと思いました。

幼子の棺が出土した例があります。
とても、大切に埋葬されていたその子は
縄文人と弥生人の混血でした。
両親はさぞかし悲しい思いをしたでしょうが、
そこに、日本人のルーツの愛の姿を垣間見る事が出来ます。

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境内には蛭子社がありました。
蛭子は二人が初めて生んだ赤ん坊。
でも、子供の数には数えないと古事記には書いてあります。
エビスともヒルコとも読みます。



さて、という事で次回は気になる馬見神社に行ってみましょう!

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# by lunabura | 2010-03-06 21:42 | 多賀神社・たが・直方市 | Trackback | Comments(2)

大分八幡宮・神功皇后はここで連合軍を解散した


大分八幡宮
(だいぶはちまんぐう)
福岡県飯塚市大分
神功皇后はここで連合軍を解散した
ここは筥崎宮の元宮


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大分八幡宮は遠賀川水系の奥まった所にあります。
そこから先は高い山々がそびえます。
福岡市方面から行くには山越えをしなければなりません。

車で神社に向かう広い道から最後の路地に入ると、
水量豊かな水路と、車が一台通る道がありました。

車道はすでに神社の外縁を通っていました。
水路側には人家が建ち並んでいます。
水路に架かった石橋がなんとも宮前らしい清浄な生活感を感じさせてくれます。

神社の入り口はその道の途中にありました。一歩入ると、ひろびろとした境内です。
平地にあるので、これまで訪れた神社とはずいぶん趣が違いました。

まず目に入って来るのが大きな楠。その堂々たる姿に驚かされます。
天然記念物で、樹齢350年だそうです。

鳥居をくぐると、左に白馬の像がありました。そして、正面には大きな山門が。
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朱塗りの山門にはこの辺りには珍しい仁王像などがありました。

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本殿です。

◇ 御祭神は?
この神社には
応神天皇、神功皇后、玉依姫の命
の三柱が祀られていました。
あ、また、この三人のセットだ。
応神天皇と神功皇后は子と母の関係、玉依姫は神功皇后の守護神でした。

八幡宮って、その三柱が当たり前なのですね。ようやく学習しました。ハイ。
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◇ 神社の由緒
由緒書きが石に彫られていました。読んでビックリ。
なんと、ここは神功皇后が立ち寄っているのです。え?また、神功皇后?
歴史書にはない伝承なので、ちょっとワクワクです。

その由緒書きを口語訳します。
御祭神 応神天皇、神功皇后、玉依姫の命(神武天皇御母君)

当宮は、神功皇后が朝鮮半島を攻めた後、粕屋(かすや)郡の宇美(うみ)村で応神天皇をご出産されてから、翌年の春、都にお上りの際、軍隊を引率されて、粕屋郡と嘉穂(かほ)郡の郡境にある、
険しい山「ショウケ越え」を通って、当宮について、しばらく留まられた所である。

ここで筑紫の行政をお執りになって、軍隊を解散された。

へえっ、ここを通って大和に帰った?
大分(だいぶ)という地名も大分(おおわ)かれという事から来たと言われるそうです。

◇ ショウケ越えの由来は赤ん坊をカゴに入れて運んだ事から
まず「ショウケ越え」とは、福岡市側から飯塚市に行くのに、
必ず通らなくてはならない峠の名前で、現代でも車で行っても難所です。

ヘアピンカーブの急勾配で、冬には凍結するのです。
トンネルが出来てから、すいぶん便利になりました。

西暦200年頃の道路事情はどうだったんでしょうか。
いわゆる登山道があっただけとしか考えられません。
この山道を駕籠や馬に乗ったままでは無理でしょう。
かなりの距離、神功皇后は徒歩で登ったのではないかと思いました。

しかも出産されてから翌年の春にここを越えたというのですから、伝承どおりだとすると、
応神天皇が一歳になるのを待って、しかも雪解けを待っての大移動となったという事です。

一歳になったばかりの応神天皇をどうやって連れて行ったのでしょうか。
なんと、竹で編んだ、ショウケ(小さなカゴ)に入れて運んだと言われています。
それが、「ショウケ越え」という地名の由来です。
そんな言い伝えが1800年経っても残されています。

そうやって、峠を降りて行って、ようやくほっと一息つける場所。
それが、この大分八幡宮のある所でした。車で移動しても、ほっとしたくなる所にありました。

◇ 連合軍の集合と解散
この境内はとても広いと書きましたが、ここは神功皇后の連れた軍勢が解散した場所でもありました。
見回すと、その広さはあの香椎宮と比較しても、遜色ありません。
何千と言う軍勢が駐屯するのに、水も十分にありました。

志式神社の所で書きましたが、彼女は福岡市の海岸近くで、軍衆会議をしています。
その近くの別の神社の伝承には、各部族の軍勢の集合地の跡だという所もあります。

でも、なかなか集まらないので、神功皇后は神事をしました。
すると、すぐに集まって来たと言い伝えています。

どこから、集まったのか。
それがこの宮の伝承から、この近辺の部族たちもそれに含まれると言う事が分かりました。

連合部隊のうち、遠賀川沿いの氏族たちの軍勢を引き連れて帰り、
ここでいよいよ解散したという訳です。

まあ、宇美神社から大分宮まで移動時間を考えると、徒歩隊でも、2,3日で充分でしょう。
さっきは何千人でも大丈夫だと書きましたが、よくよく考えると
本隊はすぐに帰したのでしょうね。
少数の精鋭部隊が残って、神功皇后の警護もしながら、一年を待ったのかもしれません。

◇ 神功皇后は陸路で大和に向かった。
宇美八幡宮から大和地方に向かうのに、海上ルートで帰れば簡単だったのでしょうが、
神功皇后は共に闘った彼らを送り届けながら、陸路で帰りました。

古事記の話を思い起こすと、この九州に遠征して来たのは、本来、熊襲討伐のためでした。
ところが、対戦相手が突然、新羅に変更になって、海を越えての戦争になったために、
集まった部族たちを納得させるのは大変だったと思います。

彼ら無しには戦えなかった。

そんな彼らを大切にした皇后の人柄が、慕われた理由の一つかもしれません。
いたるところに神としてまつられています。

夫の天皇の死は隠したまま、多くの武官文官をも引き連れての事です。
移動する都だったのです。よほど強い意志の女性だった事が分かります。

この宮からは先は、子供を抱きながら、帰る事ができたでしょう。
帰り道にも、彼女の伝承がいくつも残って、そこがそのまま神社となっています。

◇ 元宮としての大分宮
この宮は元宮です。枝宮は筑前の一の宮の筥崎八幡宮です。

この二つの神社は大変遠いので、いったい何故?という思いがずっとありました。
残念ながら、ここを訪ねただけでは、その事情が分かりませんでした。

くるま座さんに尋ねると、筥崎宮と大分宮を地図の上で結ぶと、
その線上に若杉山の頂上の磐座が来ると、教えてくれました。
新たな謎です。

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境内の池

◇ 白馬の謎

最初の写真に白馬の像が写っています。
参拝した時にはなんとも思わなかったのですが、前回、荒穂神社と馬見神社の関係を調べるうちに、
馬見神社には白馬大明神の伝説があるのを知りました。
この白馬と何か関係があるのでしょうか。

馬の像と言えば、ここより北の直方市の多賀神社にも馬の像があったのを思い出しました。
次回は馬の御縁で多賀神社に行ってみましょう。

大分宮を楽しむためのお散歩コース 

神功皇后と玉依姫の関係を知りたい ⇒駕輿丁八幡宮・宝満宮竈門神社                    
『古事記の神々』玉依姫

夫の仲哀天皇の崩御の事情を知りたい ⇒香椎宮
『古事記の神々』神功皇后


地図  大分宮  宇美八幡  ショウケ越え  筥崎宮

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# by lunabura | 2010-03-02 15:31 | 大分八幡宮・だいぶ・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)

荒穂神社(1)荒穂神社なのに、荒穂の神が祀ってない不思議

荒穂神社
福岡県嘉麻市大隈町牛隈

荒穂神社なのに、荒穂の神が祀ってない不思議。

荒穂神社に行ってみました。
嘉麻市を走る211号線と443号線の交差する所が牛隈交差点。
そこから北に入る路地の中に丘があります。

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神社はその丘の上に建っていました。住宅が近くまで迫っています。
石段を上がると周りが明るい境内でした。普通の氏神さまの雰囲気です。

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本殿の左右に小さな鳥居の摂社が控えていて、それが素朴で、とてもいい雰囲気です。
下の写真は左側の摂社です。鳥居の字は上手く読めませんでした。

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御祭神はどなたでしょうか?
『福岡県神社誌』から御祭神を調べました。
祭神 ニニギノ命 由緒 不明
境内神社 須賀神社、貴船神社、恵比須神社

御祭神はニニギノ命でした。由緒は分からなくなっています。

もう一つ、『筑前国続風土記附録』という古文書に書いてありました。(現代語訳します。)
荒穂社 牛隈村
産土神である。
祭神は三座。ニニギノ尊・別雷神・手力雄命である。
いつの頃からか、馬見(うまみ)大明神を勧請するという。
だから、昔は馬見神社という名前だったか。
明和4年。村民らが石の鳥居を建立した時に、荒穂神社と改名したという。

一純(著者)が思うのですが、
「荒穂の神は五十猛命(いたける)です。ニニギノ命を荒穂明神というのは間違いです。
この事は御笠郡武蔵村の所で西峰老人の説を引用しました。荒穂と改めたのは納得できません。」

これは江戸時代の本です。
二つの説を比較すると、ニニギノ命だけが共通のようです。

由来については、後者に馬見大明神を勧請していると書いてあります。

これで、荒穂神社の元宮は馬見神社だという事が分かりました。
それなら、馬見神社と名前がついてもいいはずなのに、荒穂神社になっています。
この矛盾を江戸時代の著者である加藤一純さんが問題にしています。
「荒穂神社なら荒穂の神が祀られているはずだ。」と。

なるほどですね。そう言えばそうです。名前と御祭神がバラバラのようです。

という事で、今日は荒穂神社に何故荒穂の神が祀られていないかをリサーチしましょ。

ところで、荒穂の神って誰でしょうか?
上の本には
「荒穂の神とは五十猛神(いたけるのかみ)」だと書いてあります。

それじゃあ、荒穂の神(五十猛神)ってどんな神さま?
調べてみました。
スサノオの命の子。
父スサノオの命とともに、高天原より天降るとき、大量の樹木の種子を持ってきた。
いったんは新羅の国に降り、ソシモリというところに住んだが、やがて日本に来た。
持参した種子は新羅の国には播かず、すべてそのまま日本に持ち込み、
全国余すところなく播いた。
『日本の神様を知る事典』より

と言う事でした。
五十猛神って植林の神様なんですね。しかも出雲系です。
なるほどそうすると一純さんが言うように、荒穂神社なら、五十猛神が祀られているはずなのに、
ニニギノ命が御祭神なので、確かに変です。
それなら、もっとルーツへ遡ってみましょう。
勧請元の馬見神社はどうなってるのでしょうか。
同じ古文書から拾い出しました。
馬見大明神社
産土神である。
御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
馬見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。

馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からないという。

元宮にはニニギノ命が祀られてました。
それと、問題の荒穂大明神の名前も出て来ました。

これらの宮では出雲系も、天孫系もゴチャマゼになっているので、
2000年もの間になんらかの歴史的なドラマがあったんでしょうね。

そこで、推理です。この荒穂神社の御祭神について。
ここには五十猛(いたける)神がもともと祀られていた。
が、元宮の馬見山の祭神が何らかの事情でニニギノ命になった。
そのために、枝社の荒穂神社も御祭神はニニギノ命だと言われるようになった。
名前も変わってしまった。
それでも、地元の人々は「ここは荒穂神社だ。」と宣言するために、
江戸時代に石の鳥居に荒穂神社と彫って、その名を復活させた。

と考えました。

日天宮との関係は?
全体としては馬見山と日天宮は巨石時代にレイラインがあって、
後の時代に、それを祀る神社がそれぞれに出来た印象を受けました。

馬見山(巨石の盤座) ―(レイライン)― 日天宮(巨石の盤座)
↓                 ↓
馬見神社     勧請⇒       荒穂神社

鳥居からは、元宮の馬見山が見えましたよ。
ただ、正面ではなく、少し左にぶれていました。

それにしてもニニギノ命か…。
ちょっと気になる事があります。

ニニギノ命って、天孫降臨で有名な神ですが、
ホントは父親の天の忍穂耳(おしほみみ)の命が降臨する予定だったんですよね。
天の忍穂耳の命の所で紹介してます。)

その天の忍穂耳の命が、すぐ近くの英彦山に降臨したと言い伝えられているんです。

ニニギノ命の降臨の地は宮崎か福岡かで論争があっていますが、
不思議にこの天の忍穂耳の命の降臨の地を争ったのは見た事がありません。

(どだい、天の忍穂耳の命が降臨したとは誰も思わなかった?
だって、古事記などに書いてないんですもん。彼は息子を先に行かせて、
後からいつのまにか降臨したのかな。)

いずれにしろ、親子で近所の山頂に祀られてるって、なんだか、この辺には
この天孫降臨の神話を持つ氏族が来ていたなって感じですよね。
そして、どこからでも見える高い山の頂上に、自分たちの信奉する神々を
それぞれに配置した感じがして来ました。

実はこの遠賀川水系の山には、他にも降臨した神々がいます。
有名な宗像三女神です。ここは神話の神々が降臨した山がいくつかあるので、
要チェックの水系です。

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神社の石段で蝶々が死んでいました。その横には木の実が…。
命終えたものと、命を蓄えたものと。象徴的な光景でした。
何か心通わせているような姿でした。  

地図 馬見山 馬見神社 荒穂神社 英彦山



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# by lunabura | 2010-02-23 21:41 | 神社(ア) | Trackback | Comments(2)

日天宮(1)三つの天体を祀る宮


日天宮(1)
福岡県嘉麻市嘉穂町牛隈

太陽と月と星を祀る宮

UFO騒動まであったって?
それなら行くしかないでしょ。

星岩宮と月読宮


電話でくるま座さんが教えてくれました。
「太陽と月と星を祀る珍しいお宮がありますよ。」
「ええっ?星もですか。それは珍しいですねえ。」
天体の三つとも祀る神社はまだ聞いた事がありません。

くるま座さんは福岡県の春日市JR春日駅近くで
玄米定食など、自然食を出す店を経営しています。
そして、裏の顔は古代祭祀線地震雲の研究家です。

ルナとくるま座さんとが顔を合わせると、何をしてるかというと、
国土地理院の地図を貼り合わせた、1メートルほどの地図を広げて、
あちこちに引いた線を見ては、どうだこうだと話してます。

二人とも、天体と山と、神社の関係が知りたくて仕方がないのです。
日本に残されている巨石文化を調べています。

さて、そのくるま座さんが送って来てくれた新聞のコピー。
タイトルは日天宮
読んでいて、あれ?これと同じ切り抜きを私も持ってる…。
十年以上も前の新聞記事ですが、やっぱり気になる所は同じでした。
二人が同じ記事を大切に持ってたなんてねえ…。

その新聞記事のさわりだけでもざっと紹介しましょう。

日天宮 『太陽、月、星を祭る神社』
「なぞめく天体信仰」太陽、月、星。いわば三点セットを祀った珍しい神社が嘉穂町にある。
「日天宮」という。
その由来は「農作物の豊作、凶作を左右する天体を神としてあがめた」という見方があるが、
地元住民もその起源は分からず、伝説、伝承もほとんどない。

同町にはもう一つ、「北斗宮」という、文字通り星を祭り、星占いをする神社が存在する。

かつてこの町では「UFO騒ぎ」があったと聞けば、何やら静かな農村もどこか、宇宙的な信仰の広がりを伴ってなぞめいてくる。



そんな嘉穂町で「UFO騒動」が起きたのは1975年秋のことだった。場所は甘木市との境界にまたがる八丁峠。
「空をジグザグに動くなぞの物体が見える」
うわさを聞きつけた人たちが各地から集まり、たちまち露店がでるほどの大騒ぎとなったという。

「もともと、この土地は宇宙との交流があった場所だから、天体信仰があってもいいじゃないですか」とは、
地元の一人。なるほど、ここはUFO伝説にふさわしい町なのかもしれない。
(1999年9月西日本新聞)
さて、この新聞記事を見て、一人で日天宮を探しに行ったくるま座さんですが、簡単には見つからなかったそうです。
記事を書いた記者に尋ねても、うまく説明できないとのこと。
数回探して、見つけ出したそうです。

碓井町の道の駅で待ち合わせて行ってみました。

福岡県嘉麻市牛隈の県道211号線のコンビニから脇道に入ったのですが、
その先のルートの説明が出来ません。(なんと、道がない!)

話によると、神社への道は産業廃棄物の会社が買い取ったために、参道が無くなったとか。
一般の民家の庭を通るしか、ルートがないようになりました。
挨拶をして通らせてもらって、車で坂を登り切ると、開けた丘陵地帯にでました。

そこは、流木や倉庫などが山積みで、本当に廃棄物処理場の中です。
トラックのつけた道があるのみ。
「あれ、変わったなあ。こっちかな。」
くるま座さんの勘頼りで、草むらの中の神社への入口に辿りつきました。

小さな石柱があって、日天宮と分かりました。

イノシシの足跡がくっきりと残る山道を歩くと、星岩宮と書いた立札がありました。
緑のもみじの向こうに、磐座(いわくら)がありました。
手前には小さな祠があります。
岩には直径50センチほどの丸が浮き彫りしてありました。

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この岩の後ろにも二つほど岩があって、ためつ、すがめつしていると、
「ここは序の口ですよ。この先、もっとすごいですから。」
と、促されて、奥へと進みました。

次の磐座は少し大きめ。月読宮と立札が立っています。
ここにも、祠がありました。

c0222861_15413678.jpg

岩の側面にいくつかの穴があります。
近寄って見ると、それは人工というより、海岸で自然に出来たような形状です。
ここは山の中です。
「なんだか、海から運んだ岩みたい。」
そんな話をしながら裏の方に登って見ると、垂直に切り出したような岩もあります。

c0222861_15424736.jpg

岩の配置に法則性は全く感じられません。

ここも、ほどほどにして、さらに奥へと進みました。自然歩道を歩くような参道です。

まもなくして、奥深くに石の鳥居が見えました。見て下さい。この鳥居のたたずまい。
いかにも古いお宮の風情です。

c0222861_15441351.jpg


ひっそりと、誰にも知られずに。しかも、知る人ぞ知る。

手すりがあることから、こんな人里離れていても、地元では大切にされているのがよく分かります。
鳥居から先は急坂になっています。廻りは原生林。
腐葉土がとてもいい雰囲気です。

(つづく)




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# by lunabura | 2010-02-12 16:01 | 日天宮・にちてん・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)
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