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日若神社(4)神武天皇を馬見神社へ連れて行ったのは物部氏だった

日若神社(4)

三つの神社の伝承がつながった
神武天皇を馬見神社へ連れて行ったのは物部氏だった


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神社の境内から入口を写しました。
左の方は道路と池です。

今日は神武天皇のケースを見て行きましょう。

さて、日若神社(2)の神社史の訳によって、神武天皇と馬見の物部末裔の駒主の命の出会いが
書いてある事が分かりました。その部分をもう一度掲載します。
初めてイザナギの命がここに現れたのは、実に人皇第一代、神武天皇の時である。天皇は中州に向かおうとして日向の国から豊の国に行幸された。珍彦(うづひこ)を得て、案内人とした。

天皇は宇佐島から陸路で田河の吾勝野にお出ましになり、兄弟山の中峯で天祖を祀った。時に、馬見の物部の末裔の駒主の命に出会った。天皇の行幸を聞いて、遠くよりお迎えに出掛けて来たのである。

天皇は大変喜んで、駒主の命が献上した駿馬にまたがって、筑紫に行幸された。その家に行って皇祖を馬見山の上に祀られた。

その北麓を廻ってまさに日尾山にやって来た時に、この道は谷が広く深遠で、進路は険しく、ひどく悩まされていた時に、神の出現があった。

日尾山は現在の日王山だったよ。

この神社史を訳すとき、まずは古代の日尾山がどこかを捜さねばなりませんでした。
現代の地図を見ると、この神社の裏には日王山鳥尾山があります。
「日尾山」が「日王山で」はないかと予測して、地元の歴史資料館まで出かけましたが、
あいにく閉鎖されたばかりでした。図書館でも分かりませんでした。

それから、なにげなく『福岡県神社誌』を広げると、
すぐ隣の町の嘉穂(かほ)郡・頴田(かいた)村鹿毛馬字宮の
厳島神社の記事が目に入りました。
おっ。ここにヒントがある!

その由緒書きを訳します。祭神は宗像三女神です。
豊前の国、宇佐島より筑前の国・宗像郡・沖津島に鎮座の時、当村日尾山を越えられたという故事によって、景行天皇の御代に三女神を祀った。

宗像三女神もこの日尾山を越えて行ったという話です。

地図を見ると、この神社が日王山のすぐ近くにありました。
それで、日王山を昔は日尾山と書いていた事が分かりました。

そして、さらにそこの神社史を読むと、やったね!
神武天皇の記事が載っていましたよ。
神武天皇が幼名の狭野(さの)命と言われる時、筑紫を廻ってみるという事で豊前の国からこの村にやって来られた。
馬牧が葦毛の馬を献上し、その馬で嘉穂郡の馬見村へ出掛けられたのを老翁が見送り申し上げた事からこの村を駈馬(かけうま)と言う。鹿毛馬という村の名前の起源がこれである。

「葦毛の馬」とは白色に黒の斑が入った毛色の馬だそうです。
「老翁」とは馬見の物部の末裔の駒主の命の事かも知れません。
そして、はっきりと馬見村へ出かけたとあります。
例の馬見神社の所です。
これで、三つの神社の伝承が補い合えるのが分かりました。

その馬見神社の由緒をもう一度書いてみます。
福岡県神社誌によれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる。

『筑前名所図会』では
白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。この神、葦毛の馬を忌むという。
この里に飼うを忌むのみならず、他の所から来ても、村の方で留めて置くという。

どうやら、神武天皇の馬がここで逃げたのは、馬が葦毛だったせいで、
きっとニニギノ命が嫌ったからだろうと人々は畏れた訳です。
理由はニニギノ命は白馬がシンボルだったからです。
ストーリーがだんだん見えて来ました。

この三つの神社の伝承をまとめてみましょう。
神武天皇は周防灘に面した豊前の国に行幸しました。
ここで、珍彦という道案内人を得ます。(この人は、後に活躍します。)
次に田川のアガノ(上野?)に行きました。それから山越えをして遠賀川流域にやって来ます。
そこは筑紫です。

その時、馬見の物部氏の末裔の駒主の命が葦毛の馬を連れて来て神武天皇を迎えに来ました。
大喜びした神武天皇は早速馬に乗りました。そして、駒主の命が天祖を祀ってくれている馬見神社まで出かけました。(そこで、馬が逃げてしまって、葦毛の馬がタブーになった。)

それから、廻ってこの日若神社の所までやって来ました。
そして、霧で困っていたのを、神のお告げで、イザナギの命を祀って霊水を振ると、霧が晴れました。


馬見神社(5)
で、そこに誰がイザナギやニニギノ命を祀ったのか、
ヒントを見つけたように書きましたが、
実はそれが、この日若神社の由緒書きだったのです。
答えは物部氏です。
深い縁があって、神武天皇が東征の準備を始めたのを聞いて
はるばると迎えに来たというのが見えて来ました。

物部氏を辞書で調べました。
古代の大豪族。軍事、警察、裁判、刑罰にたずさわった。ニギハヤヒの命の子孫と称し、天皇の親衛軍を率いた。6世紀半ば、仏教受容に反対。

なるほど、物部氏は、大和政権で重要な位置を占めているのですが、そのルーツがここにあったのですね。
東征を成功させた功績があったから大豪族になった訳です。
のちに仏教が入って来た時は、物部氏はそれまで古来のやり方で天孫を祭祀していたので、
「とんでもない」と反対した訳です。

日子は暦を持つ人ですが、実際に太陽や星を観測して、暦を作っていたのが物部氏です。
(これについては別項で。)

この流域は物部氏の本拠地だと聞きます。
ニギハヤヒの降臨したという山が下流域の鞍手郡にあります。
いずれそちらも逍遥しましょう。

以上、これらの伝承から、物部氏は馬を飼育していた事が分かりました。
そして、天孫を祀る家系で、神武の東征に参加していたと。

さて、古代の馬の写真が欲しいなと思っていたら、
ちょうど西日本新聞に在来種の木曽馬の記事が掲載されました。

日本の馬は小型だったよ。

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木曽馬(長野県)はドサンコ(北海道)、御崎馬(宮崎)と並ぶ三大在来種。
穏やかな性格は人に懐きやすく、険しい山間部で農耕馬として人々の生活に欠かせない存在だったという。
大正時代以降に雑種化が進み、絶滅の危機にひんした。(略)現在全国で約150頭が飼育されている。

サラブレットに比べると、やはり、ずいぶん背が低いですね。
この「さっちゃん」は北九州市小倉南区の市立総合農事センターで飼育されているそうです。

駒主の命が連れて来た馬もこのくらいのサイズだったんでしょうか。


地図 日若神社 鹿毛馬 馬見神社 田川 犀川

次回は神武天皇の結婚についてです。
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# by lunabura | 2010-05-05 14:26 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(6)

日若神社(5)姫の名前には古代鉄の暗号が。

日若神社(5)

イスケヨリ姫との結婚の背景
姫の名前には古代鉄の暗号が。


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さて、神武天皇には、アヒラ姫という后がいました。
が、そののち大后を求めて、イスケヨリ姫とも結婚しました。
今日はそのイスケヨリ姫の実家の事情を見て行きたいと思います。

古事記に書いてある彼女の実家。
イスケヨリ姫の家は狭韋(さいがわ)のほとりにありました。
イワレビコノ命はイスケヨリ姫の元にお出ましになって、一夜、共寝をなさいました。
その川を狭韋河と言う訳は、その川辺に山百合の花がたくさん咲いていたからです。
サイとは山百合の花の事です。

のちに、イスケヨリ姫が入内された時に、イワレビコノ命が歌を詠まれました。
「葦がいっぱい生えている所の、粗末な小屋で、
菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、私とそなたと一緒に寝たなあ。」


古事記の岩波体系本の注釈では、
この「サイ河」の場所が分からないと書いてあります。

神武天皇が東征したのが45歳と言われています。
大和を制圧した年齢を単純計算しても60歳を過ぎています。
ですから、サイ河を大和でなく、
東征前の九州で探してもいいと思いました。

面白い事に、この日若神社の山を越えた15キロ位の所に
犀川(さいがわ)」があります。
京都(みやこ)郡・犀川町として地名が残っています。

そこは豊前の国です。地図は日若神社(4)で出しています。
(ピンクのアイコンです。)

さて、古事記では、その続きで
大久米の命が彼女の実家の説明をしています。
「この近くに良い娘がいます。この娘を神の子と言います。
何故かと言うと、三島のミゾクイの娘でセヤダタラ姫という人がとても美しい方で、
三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見染めたそうです。
その姫が川の上に作った厠(かわや)に行って、用を足していると、
大物主神は、赤く塗った丹塗りの矢になって、川から流れて来て、
その人のホト(女陰)を突きました。その姫は驚いて、逃げて狼狽しました。

その矢を床の所に置くと、たちまちに麗しい男になって、
セヤダタラ姫を妻にしました。
こうして生まれたた子供の名前はホトタタライススキヒメの命と言い、
また、ヒメタタライスケヨリ姫とも言います。
これはホトという言葉を嫌って後に名前を改めました。
こう言う事で神の御子と言うのです。」

イスケヨリ姫の名前って何?

彼女の本名はホトタタライススキ姫。
この中に製鉄の言葉が入っています。
ホトは女陰の事ですが、坩堝(るつぼ)の事でもあります。
タタラはフイゴや製鉄炉の事です。
ですから、彼女の名は鉄造りの坩堝のイススキ姫という意味になります。
イススキは狼狽するという意味ですが、
五十鈴の字が当てられています。

彼女の母の名前も坩堝!

彼女のお母さんはセヤダタラ姫です。
これにもタタラが入っています。
『儺の国の星 拾遺』にこう説明がありました。(訳)
泥石といった風化石でなく、金石といった結晶石でもなく、
蝋石(なまりいし)を広く底を浅く彫り出してつくった平皿の、
セヤ(中心をはずした所)に穴を開けた坩堝がセヤダタラである。

蝋石(ろうせき)は、印鑑や灰皿に加工される石です。
セヤとは不安定な状態を指す言葉だそうです。
で、セヤダタラとは、「不安定な部位に穴を開けた坩堝」となります。
御母さんの名前も坩堝姫でした。

三島族の名はオリオン

         その父の名が「三島のミゾクイ」です。                                     
この「三島」も、「ミゾクイ」も、真鍋大覚氏によると、
オリオンの星の事だそうです。
オリオンを三島星、あるいは三諸星と呼んだ、はるかな昔があった。
「しま」あるいは「すま」とは船人の渇きを癒す湧水・井泉のあるところを指した。
「し」は元来は透明な無色の水を表現する胡語(西域民族の言葉)であったが、
倭人は「し」+「みず」で、清水という言葉を造り出した。

ミゾクイ(みそくひ)もオリオンの古称だった。
「そくひ」は栄井(さくい)、すなわち「砂漠の中のオアシス」の事だった。
砂漠の民族には泉が無限の生命の発祥であるという信仰を
天上の星に託して、オリオン座にも同じ名前を付けた。
それを初代の天皇(神武天皇)の后の出身の民族の名にあてた。(意訳)

平たく言うと、
「シルクロードを辿って日本に来た民族にとって、
オリオンの三ツ星は道しるべであり、心の支えでもあった。
オアシスの水もまた心の支えだった。
そこで彼らは、オリオン座にもオアシスの名をつけた。」
それが三島であり、ミゾクイであったという事です。

すると、三島のミゾクイとは、渡来人であり、
オリオンの三ツ星をシンボルとする民族だったと言う事になります。
シルクロードの向こうから来たなら、
ウィグル自治区や、もっと向こうの人たちとなります。

眞鍋氏はオリオンの別の呼び方も覚えていました。
このオリオン座には天秤星(かさみのほし)という名もありました。
その形が昔の工人が仕事の成就を祈って
薪炭と砂鉄の分量を正確に計測していた頃の術語でありまして、
量検星(かさみのほし)とでも書いていたものかとも思われます。
これを約して「かさほし」の名が生まれました。

これは
オリオンの三ツ星を「三笠の星」とも呼んでいた理由を説明したものです。
その「みかさ」は「製鉄の材料のカサを量った事」から来る名前でした。
やはり、製鉄とオリオンは深い関係を持っています。
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オリオン座

こうして、
イスケヨリ姫はオリオンの三ツ星族のるつぼ姫という事になりました。

彼女の実家はシルクロードの彼方から、
製鉄の技術を持って日本に移住してきた民族だという事になります。

神武天皇の一族がこの鉄の技術をもつ一族と手を結ぶには、
その姫と結婚するのが一番穏やかな方法でした。

でもそうすると、鉄の歴史はどうなる?

もし、日本書紀の通りに神武天皇が2600年前の人だとすると、
それより前に製鉄が存在したという事になります。

鉄については稿を改めましょう。
そう、今日は神武天皇の結婚の話なんです。

で、この結婚によって、神武天皇は鉄の武器を手に入れました。
これは政略結婚であり、異民族の融合でもありました。

姫を紹介した大久米の命

イスケヨリ姫はこの男の目を見てびっくりします。
目の周りに入れ墨をしていたのです。
イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして鋭い目に見えるのを見て、
変わってるなあと思って、歌にして、返事をしました。
   「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
   どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」


眞鍋氏はミイラのアイラインと同じだと書いています。
そうすると、クレオパトラやツタンカーメン王のアイシャドウのようなデザインです。
かれは海人族の長でした。
まぶしい海の照り返しを避けるためのデザインかなとも思いましたが、
これも、彼の故郷の中東の風習を残したものと言います。

神武天皇の軍備

こうして、神武天皇は海兵を手にいれました。
東征するのに必要な軍備を周到に準備していたのが見えて来ました。
イスケヨリ姫との結婚もその為のものだったのですね。
でも二人は結婚してからも、仲良さそうですよ。

(『古事記の神々』で、「神武天皇」を訳しました。
天皇の崩御後、彼女は義理の息子と結婚することになります。
それについては「イスケヨリ姫」で見て下さい。)

さてさて、
この神武天皇の足跡は、まだまだこの近くに残っています。
そのうち、神武日記も書けそうですね。

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左が神社入り口。奥の山が日尾山と鳥尾山です。


      ブログでお散歩   さあ、里山を逍遥しましょう。

妻を亡くした後のイザナギの命の伝承を辿るコース
     志賀海神社 ⇒ 多賀神社 ⇒ 日若神社 
神武天皇の足跡をたどるコース
     馬見神社  ⇒ 日若神社 ⇒ 八所宮
神功皇后の帰り路をたどるコース
     大分宮 ⇒ 日若神社 ⇒ 綱分神社 
     (だいぶ)  (ひわか)  (つなわき)


                          (次回は綱分神社に行ってみましょう。)
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# by lunabura | 2010-05-04 23:34 | 日若神社・ひわか・飯塚市 | Trackback | Comments(8)

名島神社(1) 豊臣秀吉が御座所を設けた


名島神社(1)
なじまじんじゃ
福岡市東区名島
かつて、ここは島だった
豊臣秀吉が御座所を設けた

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名島神社に行くには福岡の大動脈、国道三号線の
名島信号あたりから海岸に向かって行くのですが、
周囲は次々に埋め立てられて、都市高速道路も走るようになり、道が分かりにくくなりました。

近づいたら、名島城跡や名島帆柱(ほばしら)石の看板を頼りに海岸に向かって行きましょう。
名島神社の看板を見て行ったら、裏参道の急坂に迷い込んでしまいました。
初めての人は、正面(海岸側)からがお勧めです。

駐車場は親水公園の所にあるので、そこに車を止めて、
海を見てから、山に向かって鳥居をくぐって上って行きます。

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(へえ?この石段は柔道の谷亮子が鍛えた所ですって?)
その石段を上ればほどなく拝殿に着きます。
境内に着くと、狛犬ではなく、ギョ、魚…?が迎えてくれました。

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拝殿です。

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この日は四人の青年がお参りに来ていました。
明日はお祭らしく、境内にはテントが張られたりして、準備万端の気運が満ちている日でした。
ここは桜の名所としても有名なお宮です。戻りながら海を見る事が出来ます。

駐車場付近に説明板がありました。
名島城跡 付 名島神社

名島城はもと大友の根拠地で、立花城の出城であった。
天正15年(1587年)豊臣秀吉は島津征伐の後、小早川隆景を筑前国主に封じ、
この城を増強するとともに「御座所(ござしょ)」を設けさせ、
何か事が起こった場合に備えるとともに、九州監察の中心とした。

文禄の役の折に、秀吉は肥前名護屋への西下の途中、
淀君(よどぎみ)らとこの城に立ち寄って宿泊をしている。

この城は関ヶ原合戦後、慶長5年(1600年)黒田長政が筑前国主となり、
やがて福崎の地に新しく福岡城を築いたので、廃城となったが、城跡らしさがまだ残っている。

山腹の名島神社は宗像三女神を祭神とし、元来神宮ヶ峯に祀られていたのを
隆景が築城する時、現在地に移したものである。
なお、神社の本地仏である弁財天はこの宗栄寺に移されている。
福岡市

もともと山頂に神社があったけれども、立花城出城の建設の時に、
山頂から少し下がった現在地に移動させられたのですね。
なるほど。

でも、ここに秀吉と淀君が泊まったなんて、歴史が急に身近に感じられました。

黒田長政がやって来ると、ここの天守閣は解体されて、福岡城の方に移築されました。
福岡城には、ここから移転された名島門というのが現物が残っているそうです。

そして、この神社は黒田氏の四代目によって建立されています。

頂上に行くと360度の展望の地でした。
(ただし、現在は海の方は樹木が茂っていて、見えません。)

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前回の梶谷城と同じように、山城として、海上のすべてを掌握できました。
しかも周りは浅瀬です。大きな船で攻められる心配のない所にありました。
ここはかつて島だったのです。それがよく分かりました。

南側の展望です。
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正面に見えるのが立花山。三つの峰が特徴的です。
しかし東から見ると二つの峰に見える不思議な山です。

その山頂に立花城があり、こちらはその出城だということです。
その間にビル群がありますが、かつては海でした。

ここは朝鮮半島への海路の大事な足がかりの地でもありました。
神功皇后の伝説も残っていましたよ。

天守閣は造らないで。もっと大切なものがある。


現在、ここに天守閣を作る計画があり、賛否両論があるそうです。
しかし、この名島には山城だけがあったのではありません。本来、神社があったのです。
宮司さんから話を聞くと、ここは古代のロマンを秘めた重要な聖地でした。
福岡市が観光スポットにしたいのなら、絶対古代の名島の復元をお勧めです。

数百年でなく、数千年の歴史と景観を守るために、天守閣は建ててほしくはありません。
せめて、このままにしてほしいと思いました。

次回は宮司さんから聞いた古代の名島です。
地図  名島神社




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# by lunabura | 2010-04-14 14:56 | 名島神社・福岡市 | Trackback(1) | Comments(4)

名島神社(2)ここには「那の国」の宮殿があったという


名島神社(2)

ここには「那の国」の宮殿があったという
かつては海神・豊玉彦が祀られていた


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名島神社の宮司さんからお話を伺いました。
その内容については、この先、本にする予定があるという事なので、
ブログでは差し支えのない範囲だけ、紹介したいと思います。

御祭神が明治時代に変えられた
江戸時代が明治に変わった時、廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)がありました。
それまで神道と仏教が混在していたのを、国家が神道一本でやって行く事になったので、
仏教を廃止しようという動きの事です。

この時にこの神社の御祭神も変えられたという話でした。

江戸時代の地図を見ると、名島弁財天となっています。
明治時代の廃仏希釈によって、弁財天から宗像三女神に変わったそうです。
もともとどちらも水の女神です。(弁財天はインドがルーツ)
弁財天は現在、すぐ隣のお寺に祀られています。

元々ここは豊玉彦の神宮だった


そして、もっと昔に祀られていたのは豊玉彦の命一柱だけだったそうです。
豊玉彦の命は海神です。
このブログでもあちこちに登場しておなじみになりました。

志式神社のお神楽では、例のもじゃもじゃ頭で登場しました。
高良玉垂宮では玉垂宮は海神・豊玉彦ではないかと推測しました。
豊玉姫・玉依姫の父神でもあります。

豊玉姫や玉依姫を現代語訳した『古事記の神々』では、
和多都美神社(長崎県対馬市豊玉町)を次のように紹介しました。

海神である豊玉彦尊がここに宮殿を造りました。この地を夫姫(おとひめ)と名付けました。
ここで生まれ育った豊玉姫はここで亡くなり、お墓が今でも伝えられています。

そして、この名島神社でも、その海神を祀っていたとは。これは新発見です。
宮司さんに聞かないと知らないままでした。

さあ、さらにお話を紹介します。

ここには「那の国」の宮殿(離宮)があった
「名島」のナは「那の国」のナと同じで、ここは那の国王が作った国です。ナとは湊(みなと)の意味です。ミナト島という意味でナ島と呼んでいたのです。壱岐の人たちは「浦」を今でもナと呼んでいて、
「郷の浦」はごうな、「さすの浦」はさすな、と呼んでいますよ。

その後、渡来人が来ました。
渡来人は湊を浦と呼んでいたので、名島は浦島とも言いました。浦島太郎のお話のルーツはここですよ。

この神殿はかやぶき屋根(流れ葺きで、神明造)だったのが中国からの渡来人の技術によって、中国式のそり上げの瓦葺になりました。彫刻が施されて、金銀が塗られていました。

なるほど、古代の日本の宮殿と言えば、それこそ伊勢神宮のような建物を想像しますが、
中国から技術者集団が来て、宮殿を建てたとしたら、屋根が反り上がって、きれいに彩色された
龍宮城のような建物が建つはずです。

浦島伝説と言えば、すぐ近くの志賀島にも残っていましたよ。

江戸時代の学者の本に、那の国に志賀島や和白が含まれている理由が分からないと書いてありました。
江戸時代には二日市水道が陸地化していたので、イメージが湧かなかったのでしょうね。

現在の市街地がほとんど海の上だと思えば、那の国が福岡平野に沿った湾岸地帯にあったというのが
分かります。

金箔のついた瓦が実際に出土していた

豊玉彦の宮殿が対馬でも、博多湾でも、当時の最先端の建築で建てられたのは間違いないでしょう。
対馬の方も瓦葺だったと伝わっています。

かやぶきの屋根の神殿が普通だった時代ですから、瓦葺きだとすると、それは大変な宮殿です。
しかも、金箔が貼られていたとは…。

そんな金箔の残った瓦がここから実際に出土して皇族のある方に届けられました。
(次回につづく)


次の絵は聖洲さんの想像画です。


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那国王、那の津展望の図(那島 龍宮城)
後ろ向きの二人の女性が豊玉姫と玉依姫。二人がそれぞれ手に持っているのが干珠満珠だそうです。
向こうの岸は那の津。現在もその地名が残っています。その奥の方に那の国の本宮があったそうです。

聖洲さんも昔の名島に詳しくて、出土した瓦や神殿に残るものを参考に描いたそうです。
中国文化が入っていて、当時は絢爛豪華な宮だったのを表すために、
天井の一枚一枚まで丁寧に描き込まれています。

那の国も奴の国も同じだよ。

ちなみに 「ナの国」の表記について、那でも奴でも儺でも、どれもナと読みます。
それぞれに歴史があって、どれもOKです。現存する地名は「那の津」などと書かれています。
私の表記もその都度変わります。個人的には那の国が好きです。





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# by lunabura | 2010-04-13 15:59 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(0)

名島神社(3)三笠宮とオリエント文化研究

名島神社(3)

三笠宮様はここで出土した金箔の瓦を見て、
近東の研究に向かわれた。


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昭和34年に三笠宮様が『日本のあけぼの』で
博多湾の名島が中心だ」と書かれたんですよ。
と宮司さんが話してくれました。
「え?三笠宮様が?ここに来られたんですか?」
「そうですよ。」

三笠宮について辞書を引きました。
皇族の一家。1935年、大正天皇の第四皇子崇仁(たかひと)親王(澄宮(すみのみや))1915年~)が創始。戦後東大でヘブライ史を専攻。日本オリエント学会名誉会長。

のちに、東大で講義をされたとも聞きました。ヘブライ語の研究をされた宮様がこの名島に注目された?
その理由がよく分からなかったのですが、思いがけず別の方から、詳しい話を教えてもらいました。

それは当時小学生だったという光さんと、親戚の聖洲さんの話です。

 三笠宮様がまだ澄宮と言われていた頃のことです。
小学生の光少年が遊んでいたら、澄宮に呼ばれて、生れて初めてカレーライスを御馳走になったそうです。

澄宮がここに滞在された理由は、戦前にここに無線局があって、そこにしばらく勤務されていたという事でした。
ここは世界中の無線が焦点のように集まって傍受できる特異な地形で、
いち早く世界の情報が取れる所だったそうです。
「新高山登れ」も最初に傍受したのはこの名島の無線局だったそうです。

光少年はこの名島神社付近が遊び場でした。
名島神社の境内からは、金の冠がバラバラになったものが出土したそうです。
金の指輪も出て、それは宗像神社の沖ノ島から出土した指輪とそっくりなものだったとか。
また、瓦が出て、それには金箔が残っていたそうです。

そして、三笠宮様が名島神社に来られて境内の岩に座られた時、
当時の名島の小町娘がお茶を出したそうです。
その時に、出土した金箔のついた瓦を献上したそうです。
それを見て、澄宮はヘブライ語の研究に向かうようになられたと教えてもらいました。

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この絵は聖洲さんが出土した物を、光さんから聞きながら描いたもので、
金冠と金の指輪と金箔の残った瓦です。

忘れられた神社の境内から異国の文化の遺物が出土した、その深い意味を悟られたのでしょう。
そう、古代の日本には文化と共に、多くの渡来人が来ていたのです。
この名島神社はその証を今に伝えていた神社でした。

三笠宮様は古代オリエント文明研究の第一人者となられました。
そして、昭和34年に三笠宮様が『日本のあけぼの』で「博多湾の名島が中心だ」と書かれたという訳です。

出土品は今、京大にある?

京都大学がここを発掘調査したそうです。続けて東大、九大がやって来たとか。
京都大学の考古学研究室には、これらの出土品がまだ保管されているでしょうか。
戦前のものはホコリをかぶったままかもしれませんね。
そこには、私たちの固定観念を一掃する遺物が収納されているはずです。
是非、調査して公開してほしいものです。

最近でも、境内からペルシャの彩陶が二片出て来たそうです。
宮司さんが確認したところ、鴻盧館(こうろかん・福岡市の古代の迎賓館)で
出土したものと、同じものだったそうです。
「一緒に展示したいと言われたけど、断ったよ」
とニッコリして言われました。

このエピソードがあった頃の名島の海岸のようすです。
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これも聖洲さんの絵です。昭和の初期まで、まさに海の中に島がありました。
今は団地などが建っているそうです。砂州があって、島に歩いて渡れるようになっています。
絵の右上に沖ノ島があります。(宗像の沖ノ島ではありません。)
ここからは、鉄が出土していたそうです。
神功皇后が戦争から帰って、ここに武器を置いたという伝説があります。

現在のようすです。
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古代の名島
海から見たらこんな風だったのかな?
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(聖洲さんの絵)

名島にお城を復元するなら、こっちの方が断然いいのにな。



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# by lunabura | 2010-04-12 21:46 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(2)

名島神社(4)君が代の歌のルーツがあった


名島神社(4)
那の国王が志賀島に渡る歌が残っていた。
それが君が代のルーツだった。

「志賀海神社との関わりを教えてください。」と尋ねると、
宮司さんは志賀海神社に伝わる歩射祭の歌を歌って下さいました。
今宵 夜半に着き給う 御船こそ たが御船ありけるや
あれはや あれこそは 阿曇の君の召し給う 御船になりけるよ
(今夜、夜中に到着なさる御船は誰の御船だろうかなあ。
あれはなあ、あれこそは阿曇の君が乗っておられる御船だよ。)
そう、歌ってから
「これは志賀の島に来る那の国王をお迎えする歌ですよ。」
と言われました。
「へえ、そうなんですか。」

歌の中には、はっきり阿曇の君と歌われています。
すると、阿曇の君那の国王という事になります。
国王は別の所にお住まいです。
それはどこか。
それを宮司さんは名島だと言われるのです。
そして、それを裏付ける話を別の出会いから教えられることになりました。

(神楽歌については、宮司さんの歌を書き写すのが間に合わなかったので、
一部違うのですが、『香椎宮史』の中に載っていた江戸時代の本から紹介します。
天保年間に採取された歌です。
『古伝神楽歌』 天保初年 志賀島所聞 宮崎大門)

この江戸時代に書かれた本を読んでいると、続きにこんな歌が書かれていました!

君が代は 千代に八千代に
 細石の 巌と成りて 苔の産霊(むす)まで

皆さんご存じの日本の国歌です。この「君が代」は志賀海神社に古くから伝わる神楽歌だったのです。
ネットで調べると、この志賀海神社の神楽歌が「君が代」の元歌ではないかと言われていますが、
やはり、その通りだと言う事になります。
この神楽歌が国歌になった事情についてはある神社の宮司さんが推挙されたと聞いています。
(出典が分からなくなったので、確実になったらはっきりと書きますね。)
(追記…香椎宮の木下美重宮司だと分かりました。
詳しくはサイドバーから【「君が代」ゆかりの三社参り】を見て下さい)

歌の情景を想像してみました。
日が暮れると、人々が浜辺で明々とかがり火を焚いて暗い海を見つめた。
潮騒だけが響く。闇の海の上に船の灯りが見えて、近づいてきた。
静かな湾をすべるように走る船。人々が歌い出す。
「今夜、夜中に到着なさる御船は誰の御船だろうかなあ。
あれはなあ、あれこそは阿曇の君が乗っておられる御船だよ。」

灯りがだんだん大きくなり、船の影が見え始め、かがり火に照らされた人々の姿も見え始めた。
そして、船が着くと、国王がじきじきに姿を現された。「おおっ。」人々のどよめきが響き渡る。

ふなべりに国王が立って手を挙げられると、人々は歌い出した。
「阿曇の君の世は、千代に八千代に続きますように。
小さな石が集まって大きな岩になって、苔がつくまで。」

こんな神楽が古代から歌われているのが志賀海神社でした。

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(志賀島からは福岡市のビルがよく見えます。左奥に福岡タワーなどがあるのが分かりますか。
この海が神楽歌の舞台です。)

これは驚き!
君が代は名島神社にもあったよ。
阿曇の君は名島に住んでいた!


共時性が起こりました。名島神社のあと、聖洲さんに初めて会いました。
するとその時、名島神社に君が代のルーツがあると言われたのです。絵まで描かれていました。

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絵の女性は豊玉姫と玉依姫?

吾が君は 千代に八千代に 
細石の 巌と成りて苔の生すまで
(伝 国家発祥の地)

これは名島神社に伝わる歌だそうです。志賀海神社とは初句が少し違うだけです。
そう、「君が代」とほぼ同じ!

ここの「吾が君」とは「那の国王」を指しているそうです。名島神社の宮司さんが言われた通りでした。
名島神社と志賀海神社とは深い関わりがあるのが分かりました。
こうして互いの島にそれぞれにこの歌が伝わっているなんて、奇跡のようです。

次の絵はそんな那の国王が川を渡って人々の暮らしを見に行かれる様子です。

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これも聖洲さんの絵です。
那国王、宮殿を出て、庶民の弥栄(いやさか)を祈って、
輿(こし)に乗って、行幸(ぎょうこう)さる。

絵が細部まで描き込まれていて、古代の様子が手に取るように分かります。
もちろん想像画ですが、当時の歴史をずいぶん調べたそうです。
輿などは、ユダヤのアーク(聖櫃)と同じイメージだそうです。
韓流の歴史ドラマを見ると、輿の形はこれとよく似てますね。
江戸時代の駕籠を見慣れている眼にはとても新鮮です。



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# by lunabura | 2010-04-11 14:42 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(6)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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