ひもろぎ逍遥

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出目天満宮・袴着天満宮/御神体は天体石 菅原道真


出目天満宮・袴着天満宮 
久留米市御井町高良山
御神体は天体石 
菅原道真

祇園山古墳のすぐ手前に、小さな神社があります。
大きく書かれた「出目天満宮・袴着天満宮」の文字。(でめ・はかまぎ)
周りに何もない所での、そのアピール力は抜群。
それでなくても、神社好きにはたまらない。やっぱり寄りました。
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緑なす里山の中のたたずまい。

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拝殿が比較的新しいようです。

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拝殿の右では石の御神体を祭ってました。この祭り方は珍しいですね。おや?

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さらに、その右側にも石の御神体が。三角形の石です。
こちらには「袴着天神天体石」と書いてありました。
(はかまぎ・てんじん・てんたいせき。)
さすが地名研究会と一緒なので、口々に由緒を教えてくれます。

「袴着」の由来は、その菅原道真公が高良山にお参りするために、
ここで綺麗な袴に着替えたという事のようです。
「天神さま」といえば、福岡では菅原道真公を指します。

この三角形の御神体石には梵字も彫ってありました。
昔から信仰のある岩に梵字が彫られるのはよくある話で…と、行き過ぎようとした時、
「むむ。天体石?天体って星じゃない。星。星?石の裏に何か手掛かりがある…かも?」
と閃きが…。

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植木との隙間に身をよじって覗きこむと、おお!杯状穴が!いくつも…。
明らかに人工的に彫ってあります。
この写真でも、右半分にいくつもあるのが分かると思います。
上半分には穴がカーブを描き、かつ右下に向かってまっすぐ並んでいます。

この杯状穴の並び方は星座を表しているのかも。
半円になる星座って冠座かな、と野尻抱影氏の星の本を調べて行くうちに、
よく似た半円形のコップ座という変わった名の星座を見つけました。
これとうみへび座を組み合わせるとそれっぽいけどなあ。

でも特定できないな、と諦めて、次に眞鍋氏の本を開きました。
「うみへび座」なんて載ってるかいな、と探してみると、これがあるんですね~。
そこで読み進めると、なんと菅原道真の名前が出て来ました。何でここに?…
という事で、今日はその一部だけ。

うみへび座アルファド星飛廉(ひれん)の星と言う。
フェニキア人(比鸞人・ひらん)が日本に渡航したのは、エジプトの第6王朝ネコ二世(前611~595)が、喜望峰を東に船隊を派遣した頃から始まっていた。
プトレマイオス(前304~30)の世界地図に現在とほとんど変わらぬ極東の形が描かれているのがこの背景にある。

宮中の賢所(かしこどころ)では元来は日月星の神を祀っていた。
「かしこ」とは観星台、即ち琉球の「ぐすく」から派生した「ごしょ」を
平安時代の女官が改めた名前である。
神社の三光の流紋、三つ丸、三つ巴はこの象徴であり、
藤原時平(871~909)の顔色を伺いながら、延喜式の頃に創作されたと聞いている。

藤原氏は太陽神一つに信仰の対象を絞った。
それまで信仰されていた太陰神と石位(いわくら)神をことごとく、
イザナギ・イザナミ神の系統に合祀していった。
高木の神もその一柱で、タカミムスビの神を高木の神とした理由はわからない。
これに真っ向から対決したのは菅原道真(845~903)であった。

一つずつ確認して行きましょう。

エジプト人が渡来した話は南十字星の和名の所で書きましたが、
フェニキア人もやって来たという事です。
喜望峰はアフリカの最南端。スエズ運河がないので、航路は南廻りだったんですね。
プトレマイオスはアレクサンドリア図書館の管理者です。
古代の原資料をもとに自分の地図を作製したそうです。

紀元前の人ですから、ずっとその前に世界地図が存在している訳ですが、
その地図は20世紀の高度な測量法でしか描けない詳細なものだそうです。
(参考『神々の指紋』グラハム・ハンコック)

ピラミッド付近から出土した太陽の船を見ると、外洋の船旅も十分可能です。
(ピラミッドが作れるくらいの人たちですし。)
ネコ2世が派遣した記録があるのなら、紀元前600年頃。
日本では縄文と弥生の混在期です。
伊都国で出土したビーズが北アフリカ・西アジア・欧州でしか造られないものだったのは
昨年明らかになりました。(⇒三雲・井原遺跡
研究が進むに連れて、縄文・弥生の国際的な交流が見えて来ています。

さて、フェニキア人の名前は意外な所からも出ています。
与那国島の海底神殿は誰でも知っていますが、木村政昭琉球大学教授が
調査を重ねて、ついにフェニキア人の神殿だと発表されています。
これが3世紀付近らしい。
「ぐすく」が観星台で、それが宮中では「賢所」になったとすると、
古代史の研究法ももっと意識の変革を要する事になります。

暦を作るための観測資料が「日月星」だったのは三光紋として今でも残っていますが、
藤原時平はこれを「日」一つに絞ろうとしたという事です。

菅原道真を左遷させたのがこの藤原時平ですから、この政争は単なる政権争いでなく、
太陰・星暦VS太陽暦の採用の争いだったという事が読み取れます。
なるほど。これなら道真は絶対譲れなかったはずです。

筑紫に流された道真については伝承が沢山あり、天拝山で祈ったというのは有名です。
それに加えてこの久留米市でも祈ったという事が、
この袴着天満宮の伝承から伺えて来ました。

菅原道真の先祖はアメノホヒの命だ、と「新撰姓氏録」に書いてあって、
アメノホヒの命は熔鉄の神だそうです。
(この神は天照大御神の息子で、出雲制圧の為に最初に派遣された神です。)



さて今度は方向を変えて、もう一つの出目天満宮の方をネットで探す事にしました。
幸運な事に「御井町誌」が掲載されていて、由来が書かれていました。

この袴着天満宮はもともと近くの御井小学校の校庭のムクの大木の下にあったのが、
出目天満宮に移されたと書いてあります。
ところがその後、出目天満宮が高速道路建設に引っかかったために、
現在の地に二つとも移転する事になったという事です。

え?すると、椋の木の下にこの天体石があった?
これまで、このブログに何度も出て来ましたが、
隕石を使う鉄の民は隕石が落下した所に、目印として椋の木を植えていました。

すると、この御井小学校でも、古代に隕石が落下して、椋の木を植え、
天体石を据えて祀った可能性が出て来ました。
(現存する椋の木は当然、数代目のものです。)

すると道真公は、隕石落下の聖地の事を知って、参拝に来た可能性がある?
これが袴を着替えてまで祈った理由?ちょっと想定外の話になりました。

御井小学校では、まだムクノ木は残っているのでしょうか。
道真公は学問の神様ということで、袴着天満宮が敷地内にあった時は、
とても親しまれていたそうです。

(出目天満宮についてご存じの方、教えてくださいませ。)

地図 出目、袴着天満宮 御井小学校





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# by lunabura | 2011-04-08 11:30 | 出目・袴着天満宮・久留米 | Trackback | Comments(2)

祇園山古墳(1)ピラミッド型の方墳に箱式石棺


祇園山古墳(1)
福岡県久留米市御井町高良山
ピラミッド型の方墳に箱式石棺

四角いピラミッド型の古墳が見つかったという話を聞いて、
何度か行った祇園山古墳。何十年前の事だろう。
いつかまた行きたいと思っていたけど、
久留米地名研究会のトレッキングに参加して、思いがけず再会出来ました。

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再訪すると、古墳は当時そのままで残されていました。
高良山の西の麓の小さな丘の上にあります。
右側に見えるフェンスの下は高速道路です。
高速道路からでも、助手席からなら一瞬だけ、ちらりと確認出来ます。

この高速道路を建設する為に、この古墳は破壊されかかったのですが、
古墳時代の初期の貴重な方墳と言う事で住民運動もあって保存されました。
方墳って珍しいですよね!ここ以外に訪れた方墳は平原遺跡でした。

さあ、頂上に登りましょう。頂上は10m四方ほどの平地になっています。
石棺がありましたよ!

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見ると露出したままで、かなり土砂が入り込んで、もうすぐ埋没しそうです。
この石棺の深さは90センチあるのですから、
そろそろ何らかの手を打つべき時が来ているようです。


何十年も前、初めて見た時の印象が蘇ってきます。
1.石棺が長方形というより、やや台形だったのが不思議だった。
2.頭の方には朱が結構残っていたので、また見たかった。
3.側面の葺き石が面によって出来栄えが違っていて、おかしかった。
4.周りにも沢山の石棺などがあったけど、どこにあったっけ。
5.確か男女の骨が一緒に逆さまに埋められていた話があったけど、どこだったっけ。

こんな記憶を確認できるチャンスが来ました。
今回はこのあいまいな印象を一つずつ確認して行きましょう。

1.石棺が長方形というより、やや台形だったのが不思議だった。
真横から見ると、左の石板が右より長いのが分かります。
資料(久留米市史)で大きさを確認すると、
底面の広さが内のりで長さ約200センチ×幅約75センチとあります。
細かい差は分かりませんでした。
深さは約90センチですから、かなり深いです。
側面の石の板は安山岩で一枚板です。加工するだけでも大変そうですね。

2. 頭の方には朱が結構残っていたので、また見たかった。
これは、全く確認出来ませんでした。露天なら仕方がないですね。
この石棺には石の蓋もあったのですが、バイクで割られたそうです。
その蓋の裏にも朱がありました。

出土物については、この石棺はすでに盗掘を受けていて、
人骨も副葬品も全く出ていません。
しかし高良大社に行くと、神社所有の三角縁神獣鏡
ここから出土したと推定されていました。
盗掘した者が畏れて神社に奉納したのかも。

3.側面の葺き石が面によって出来栄えが違っていて、おかしかった。
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今回、斜面の葺き石は確認出来ませんでした。
この写真は四隅の一か所です。
現代の手が加わっている感じがしますが、どうでしょう。

葺き石のイメージとしては、こんな石が斜面にびっしりと並べられていたのですが、
正面がきちんと並べられていたのに対して、
左面は適当に並べられていたのが、印象に残っています。
統一感がないのは請け負ったグループが別々に仕事をしたんだなと、
想像されておかしかったのです。
資料を見ると、「いくらかの作業集団が認められる」と書いてあり、
誰でも言及したくなるほどの出来栄えの差に、やっぱりニヤリとしてしまいました。

4.周りにも沢山の石棺などがあったけど、どこにあったっけ。
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看板の測量図を見ると、盛り土のすぐ周りに墓が沢山あります。
って事は…さっきの写真を撮った時、私の足元に棺があった? (・.・;)

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反対側に廻って盛り土を写したのですが、
この時も私の足の下に十個ぐらい棺があったみたいですね…。(;一_一)

調べると、この方墳の周りには合計62基の墓がありました。
ネットを見ると、この数字が魏志倭人伝の「卑弥呼の殉葬者の100」という数字に近い事から、卑弥呼の墓だと言う人がいるのが分かりました。

そこで、その62基の埋葬法を調べると、
甕棺墓3基、石蓋土壙墓32基、箱式石棺墓7基、竪穴式石室3基、不明墓7基
となっていました。ずいぶん多彩です。
殉葬なら同じ様式で埋葬するほうが合理的じゃないかな、
と現代人はついつい考えるのですが。
殉葬が0だとはもちろん言えないのですが、
ペアを意識した埋葬もあって、一族の墓の可能性も考えていいなと思いました。

1号甕棺墓
その中でも1号甕棺墓には副葬品が残っていましたよ。それは
半分に割った後漢の鏡、5センチほどの勾玉、二個の管玉刀子です。
この半分の鏡には紐が通せる穴が開けられていたので、ペンダントにした可能性があります。

この甕棺の内側には朱が塗られていました。
興味深いのは、この甕棺が「糸島地区の甕棺の末期と系譜的に繋がっている」点です。
甕棺なら古い時代に見えるのですが、そうではなくて同時期のものらしいです。
すると弥生時代と古墳時代が同居してるんだろうか。

糸島系の甕棺と鏡…。これが筑後地方に出ている…。

甕棺を「日本の古代遺跡34福岡県」で調べると、
「分布範囲は福岡県西半部、佐賀県東半部、熊本県北部が主要である。
1万基を超える甕棺があるが、鏡一面、あるいは銅剣一本、あるいは管玉類若干など
わずか1件でも副葬品を伴っているものは100例にも満たない。」
と書いてあります。

するとこの1号甕棺墓は100例の中に入る貴重なものなんだ。
鏡があるだけでも、すごいんですね。それに勾玉も管玉も入ってた。
鏡は誰かと半分っこしてる。大きさは10センチ。かなり高い身分の人です。

こりゃあ妄想推理したくなりますよね。

この筑後地方にやってきた1号甕棺の被葬者の出身地は鏡大好きの伊都国。
彼もしくは彼女は伊都国から出る時に、身分のある親に別れの挨拶に行った。
すると親は一族の証として鏡を取り出し、半分に割った片身だけを授けた。

それには紐通しの穴が開けられていた。
彼(彼女)はそれを受け取ると、大事に胸に下げた。
その胸にはその身分を示す大粒の勾玉と管玉が輝いていた。

そして船に乗って、この高良山の麓の邑にやって来て、何らかの重要な立場につき、
方墳の被葬者に仕えた。

(副葬品が盗掘されていず、武器が刀子だけとすると女性の可能性が高い。
まあ、女性としておこう。)

仕えた人が亡くなった後、彼女も亡くなったが、
筑後地方の石棺には馴染まず、故郷の甕棺の埋葬法を望んだ。

やっぱり妄想ですね~。
でも、甕棺から伊都国と高良山の一族との関わりが見られるなんて面白い。

そして、現場でこの石棺の問題点をメンバーから指摘されたのを思い出しました。

「古墳って普通、頂上に埋葬される?」
そ、そうだ。これは変だ…。                  (つづく)



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# by lunabura | 2011-04-04 22:58 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)

祇園山古墳(2)まだまだ謎が多いなあ。


祇園山古墳(2)
まだまだ謎が多いなあ。

そうだよ、古墳って大地の上に石室を作って、
それを覆うように盛り土をかぶせるんじゃない?
同じような方墳の平原古墳だって、大地に穴を掘って盛り土をかぶせてる。

それなのに、この古墳の石棺は頂上にある。言われれば変だ。
もしかしたら既存の古墳の上に埋葬してる?
盲点だった。
祇園山古墳って、まだ未発掘の部分があるのかも…。

そこで、手掛かりを求めて資料を読み直しました。
すると、この石棺の埋納法が書いてありました。

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この写真は頂上部の石棺の周囲を撮ったものです。
四角にくぼんだ部分があります。ちょうど緑色になっていますね。
それが約3.2×3.6mの広さに近いと思われます。
そこを四角く掘って行って、1.1mの深さまで掘り下げています。
石棺を置く為にさらに掘り込んで、側壁の石の板を並べ、
それが倒れないように支えの石や粘土を使って安定させていました。
現在の方墳の高さは5mほど。当初は6mではないかと推定されています。

これが竪穴式というのでしょうが、やはり方墳全体から見ると、
二次的な埋葬の可能性が否めない。
この古墳の基底部分にはまだ未発見の棺があるかもしれない。
そう考え始めました。
この仮定が当たっていると、支配者の交代劇が想定されます。
旧支配者のシンボルの上に、新支配者が墓を建てるのは世の習い。
示威行為です。う~ん。これって、またまた、るなの妄想?

もし可能なら、真実が知りたいですね。
最近では掘らなくても、超音波で調べられる時代です。
いつかそんな調査があったらいいなと思いました。

もし、まだ未発見の墓がこの封土の下にあるとすると、
時代がもっと遡ることになります。
すると、甕棺などとの関係も変わってきます。
祇園山古墳はまだ謎を残してる…。これ以上は調べられない。

そして思い出したのが、メンバーからの更なる情報。
この被葬者についての記録があるそうなのです。
この高良山の祭神の甥の日往子尊(ひゆきのみこと)の廟だと書かれた書があるとか。
この古墳辺りは高良山の社家の廟所として祀られてきたという話も
ネットで拾い出しました。

調べてみるか。
その時、るなの頭の中で響くのは高良大社の宮司さんの言葉。
「高良山の御祭神は謎が多くて、いったんハマると抜け出せないようですね。
研究されるのは大いに結構ですが。」
そうだ。そこは泥沼だ。ほどほどにしとかなくちゃ…。

次の写真は墳丘から見える景色です。
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古墳の頂上から見渡せるのは筑後平野と筑後川。
正面にうっすらと見えるのは佐賀県の背振山地ですから、
その麓には吉野ヶ里があります。被葬者は同時代を生きています。

調べれば調べるほど、ここは重要拠点ですね~。
この古墳の真下には高速道路が通っていますが、
その建設の為に何十という古墳が消失しています。
奇蹟的に残ったこの古墳。何かもっと語ってくれないかな。

5.確か男女の骨が一緒に逆さまに埋められていた話があったけど、ここだったっけ。
男女逆さまの埋葬は当時の新聞で大きく取り上げられたと思うのですが、
この石棺の被葬者ではありませんでした。
もう一度、資料を読んでみたのですが、人骨について言及がありませんでした。
ネットでは、古墳の周囲の墓の一つに男女の遺骨が逆さまに入っていた
と書いてありました。これ以上は発掘報告書を見ないと確認出来ません。

ただ、ここから100m離れた祇園山古墳群の中の祇園山3号墳では
男女が逆さまに埋葬されているのが確認出来ました。
(ちょっと怖いので、内容はパスします。)
私が見た古墳はまだ少ないのに、この埋葬法はもう3例目です。
当時の生と死について、いろいろと考えさせられる埋葬法です…。

それにしても竹林がそばまで侵入して来ているのが気がかりです。
この古墳は久留米市でも一、二の古さを競う古墳だとか。
早急に竹林への対策を取っていただけたらと思いました。

地図 祇園山古墳 吉野ヶ里 伊都国



さて、この古墳に行く途中にあった神社。誰でも、気になるよね…。
次回はそちらへ。




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# by lunabura | 2011-04-04 00:11 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

石橋文化センター/花のオーラあふれる


石橋文化センター
久留米市野中町
花のオーラあふれる夢の庭園

文化センターの入り口に来たとたん、あまりの輝きに吸い込まれてしまいました。
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美術館前の庭園は花盛り。

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一歩入って目に飛び込んだコーナー。これぞ夢のガーデニング。
草丈と花の色を熟知しないとこうはなりませんぞ。むむ、やるなあ。
一番奥の白い花はノースポール。50センチぐらいになる花です。

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そして同じノースポール。ここではグランドカバーに使っていますよ。
これはきっと株間を広げて、何度も新芽をピンチしたに違いない。
チューリップの大人びた色といい、ランダムに植えた感じといい憎い演出。

久し振りに訪れた石橋文化センターは夢のような花の時を迎えていました。

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真っ白なペリカンたちは健在。
円形のプールの色は透明感あふれて、サンゴ礁の海の色を思い出させます。
ケヤキたちも新芽の赤い色をまだ留めていて、初夏の訪れを待っています。
後の図書館の壁の色まで、緑のケヤキの色と調和するように選んであるゾ。

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桜は五分咲き。
今日の陽気に誘われて散策する人たちはみんな微笑みを浮かべています。

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画家の坂本繁二郎のアトリエが移転されていました。

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中に入れますよ~。まるで喫茶店のよう。
光を取り入れる為に天井までガラスです。
これが昭和6年頃の建物なんですからね~。
イーゼルも特大!

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坂本繁二郎の名前を知らない人も、この馬の絵なら見た事がある?
描き続けて行きついた淡い淡い色の世界。久留米を代表する画家です。

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お弁当を広げたのは日本庭園のベンチ。
最近のマイブームはフランスパンのトーストのサンドウィッチ。
鳥の声と、人々の不思議なさざめきと、ビヴァルディーの四季の生演奏。
こんな小粋なランチタイムはアウトドアならでは。

石橋文化センターと言えばバラ園が有名ですが、
バラを待つ春の美しさにも脱帽。所用を忘れてついつい長居してしまいました。

この公園はブリジストンタイヤ創業者の石橋正二郎氏が
久留米市に寄贈したのが始まりです。
市民に愛され、ますます美しく進化する庭園公園です。

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桜草、パンジー、アリッサム
石橋文化センター 
福岡県久留米市野中町1015 0942-33-2271
10:00~17:00
月曜休館/祝日・振替休日の場合は開館。(2011年5月2日は特別に開園)
入場無料
バラ園/330品種 2500株 見頃5月上旬~下旬
美術館、図書館
駐車場/最初の二時間まで200円。

イベント情報はHPにて
石橋文化センター
http://www.ishibashi-bunka.jp/

地図 石橋文化センター




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# by lunabura | 2011-04-03 20:52 | <催しもの・あそび> | Trackback | Comments(2)

南十字星の和名/古代の呼び方


南十字星の和名
古代の呼び方


 「南十字星を古代の日本では何と呼んでいたのか、
真鍋大覚氏の本に記録がありますか?」という質問をいただいたので、
『儺の国の星・拾遺』からまとめてみました。
ずいぶん沢山の呼び方がありましたよ。その一部を紹介します。

まずは、星空を見てみましょう。
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どれが南十字星か分かりますか?

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これが南十字星です。日本でも南の島で見ることが出来ます。
しかし、少し斜めになっていますね。
古代の人たちも、この南十字星を見ながら日本に渡航したはずですが、
主軸が傾いて見える為に、十字架には見えず、少し傾いた船の帆に見立てたようです。

そんなイメージで、古代の呼び方を見てみてください。

風早星(かざはやほし)
上の写真のように、主軸が傾いて見える事から、船の帆が貿易風をいっぱいにはらんで、柱が斜めになった印象と重ねて風早星と呼んだ。風早の地名は筑前那珂隈本、太宰府など、南風が強く吹く所にある。

ほぶれ星・群(ぶれ)の星・鋒立ち星・葉室星(はむろのほし)
今でも奄美では上の三つ星を群星(ぶれのほし)と略称する。
平安貴族はほぶれはむろと呼び変えた。葉室とは竹の壁にヤシやシュロの葉を葺いて、床にゴザを敷いた南方の家屋の大和言葉。

八幡星(やんばるほし)・ヤハギの星
鎌倉時代には泉州の堺から中国南部の仙頭に向けて、南蛮通いの八幡船(やんばるふね)が往来していた。八幡船は洋風で、船が傾いて帆が片持ちになっていた。帆柱の最上の横桁を「ヤ」と呼んでいて、これがブレルことから、ヤハギの星とも言った。

波浮星(はぶのほし)
帆を羽布とも言った事から付いた名前で、南十字星の上の三ツ星を見立てたもの。
伊豆大島波浮、長門厚狭埴生、丹波船井埴生、筑前遠賀波浮、下総印旛埴生の地名に残る。

南十字星
高槻城主の高山右近(1552~1615)の頃だけ、南十字星として認識しているが、その後は再び歴史から消えてしまう。

日向星(かふりのほし・ひなたのほし)被布星(かふりのほし)
これは神代の頃の呼び方。
女人は髪の上に布をおき、これに荷を載せて運んだ。この習慣から付いた名前。
筑前怡土加布里(かふり)、三井小郡、摂津難波小郡、周防吉敷小郡など、南方の船人が寄せた所に地名として残る。

十市星(とおちのほし)・落方星(おちのほし)
「おち」とは坩堝(るつぼ)の事で。落方は、水平線の彼方に輝く事からついた名か?歳差を計算すると、466年には出羽飽海でも水平線上に見えていたことになる。

葉広星、南面里星(ゆつまのほし)、三重の星
「ゆつま」とは南方の意味で、南北に延びた川谷の南の端も「ゆつま」という。

登張星(とばりのほし)・烏幡星(とばたのほし)・南蛮星・南幡星(やんばるほし)
この名前は鳥部から来る名前。
鳥部(とべ)とは古代エジプト語で北回帰線の事。古都のテーベの名はこれが由来。
加賀河北津幡(つばた)、筑前遠賀鳥畑(とばた)、越後佐渡赤泊(あかとまり)、志摩牟婁尾鷲なども、南十字星のかなたから渡って来た鳥部の故郷である。

吐蕃(とばん)とはチベット民族の古称であるが、もともとエジプト民族であり、ツバーン星を北極星と仰いだ民族であった。紅海を渡ってインドを開拓して、やがて雲南四川に住みついた。

筑前志摩可也山にトビの村(日本書紀神武紀3年)を作り、のちに皇族の妃を出す鳥部がこれである。
鳥部氏については他にも記述があるので、いつかまとめてみたいと思います。

ツバーン星は龍座の星で、昔の北極星です。

エジプトで思い出したのですが、イギリスの大英博物館で、
古代エジプト人のミイラを見たのですが、彼らは大変小柄でした。
見学の時間が足りなかったので、両手を広げて寸法を確認しただけですが、
私の両手の幅よりずっと小さかったです。
(だいたい両手を広げた幅と身長は同じだと言います。)

ですから、古代のエジプト人は130センチとか140センチの印象でした。
ミイラ化して小さくなった可能性もあるのですが。
古代エジプト人と鳥部氏のルーツが同じだとしたら、
小柄な人たちだったのかもと思いました。(ミイラの平均身長とか、聞いたことがないよ…。)




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# by lunabura | 2011-04-01 11:28 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(2)

おがたまの木/招霊・小賀玉・緒霊


おがたまの木
招霊・小賀玉・緒霊


神社の境内で時折見かけるこのゆかしい名前の木。
おがたまの木。
どんな木かも分からずに写真に撮ったものが少し溜まったので、
改めて並べてみました。

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(福岡県 伊野天照皇大神宮)
まっすぐ伸びたこの木が招霊の木です。

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(福岡県 伊野天照皇大神宮)
谷あいに生えているので、光を求めて縦に縦に伸びています。
長寿になると20mにも達するそうです。
根元に立って枝を見上げました。葉っぱが見えます。

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(伊野天照皇大神宮)
幹を見ると、つるんとしています。固そうな感じだなあ。

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これは竈門神社の招霊の木です。まだ若木のようですね。

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(福岡県 織幡神社)
立札があり、
「小賀玉の木(緒霊樹)現在、天ノ岩戸神社と当境内に残る貴重な木です。
太古の玉串にはこの木を用いていましたが今は榊を用いています。」
と書いてあります。
かなり古木に見えます。幹はあまり太くならないのが見て取れます。
背が高いため、葉っぱが見えないのですが、玉串に使ったんですね。
「招霊」(おがたま)というのは、「神霊を招く」という意味だそうです。

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(福岡県 篠栗町87番札所 弘照院 龍泉堂)
招霊の葉と花です。いい香りがするそうですが、
それを知らなくて匂いを嗅がなかったよ。
これは2010年6月1日に撮影しました。
2月~4月に咲くと書いてある資料もあります。
モクレン科なので、桜のちょっと前が見頃でしょうか。
確かに葉っぱが榊とそっくりです。

おがたまの木 小賀玉木・黄心樹
モクレン科の常緑高木。日本南西部の暖地に自生。高さ18mに達する。
樹皮は暗緑色で平滑。葉は長楕円形で、光沢ある革質。
春、葉腋にやや紫色を帯びた白色の小花を開き、芳香がある。
果実は集まって球果状。材は床柱また器具とし、葉は香料。古今伝授三木の一つ。(広辞苑)

床柱に使えるので、やはり木が固いのでしょう。
葉っぱもアロマ効果あり? 

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なんとつつましげな花でしょう。
今年も出会えたらいいな。




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# by lunabura | 2011-03-31 11:30 | おがたまの木 | Trackback | Comments(7)
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