ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

香椎宮(Ⅲ)天皇の崩御をどうやって隠す?

香椎宮(Ⅲ)

天皇の崩御をどうやって隠す?


c0222861_141859.jpg


初めて古宮を訪ねた夜、気になる事が出て来て、眠れませんでした。
仲哀天皇の死は隠された。
いったいどうすれば隠すことが出来るのか。
それが疑問として浮かび上がったのです。多くの人々が仕える宮なのです。
そんな事ができるのでしょうか。

そこで、どうやったら天皇の死を隠せるのか、今日は、にわか迷探偵の推理レポートです。

まず、状況を再現してみましょう。

天皇の死の現場はサニワの場です。天皇は御簾の中で、琴を弾いていました。
神功皇后は座って目を閉じて、神がかりをしています。
その懸った神が本物か偽物かを判断するために、竹内宿禰が一人控えています。
そして、天皇は急死した。

もし、控えの者たちを人払いしていたのなら、これを目撃する者はいなかった可能性はあります。
現場は下の写真のように、狭い場所です。
神功皇后と竹内宿禰が黙っていれば、一晩ぐらいは隠せるなと思いました。

今から熊襲を攻めようという、矢先でした。
神功皇后に降りて来た神は、「熊襲ではなく、その後ろ盾になっている新羅を討て。」と言います。
「そんな国があるとは知らない。」と天皇が言ったとたん、亡くなってしまいました。

こんな不吉極まりないことはありません。
討つのが熊襲にしろ、新羅にしろ、戦意喪失が一番怖い。

この写真に写っている範囲がサニワのあった所で、仲哀天皇が崩御された所。
c0222861_1413369.jpg

正面。
c0222861_1415171.jpg

横から。 ここで、会議も行われた。
敷地の奥は崖になっていて、下のすぐ近くを川が流れる。
写真の左側が入口なので、そこには護衛がいても、人払いをしたら、独立した空間になる。

二人は群臣たちを集めて会議をしました。
神社の案内板によると、棺の板を立てて、天皇と見立てて、会議をしたといいます。
群臣たちには、その死が告げられた事でしょう。そして、緘口令がしかれました。
志式神社の伝承を調べるうちに、仲哀天皇の弟王に、
十域別王と、稚武王がいた事が分かりました。(⇒志式神社
天皇の死後、この二人が新羅まで一緒に赴いています。
兄弟ですから、この二人も会議の席に着いたと思われます。

会議のメンバーは、神功皇后、竹内の宿禰、十域別王、稚武王。
最低四人は特定できました。
これに、安曇族の長、中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)、
などが順次呼び出されたと思われます。

安曇族の長は、実行の手配のために。
中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)は、
その後、竹内の宿禰に代わって、審神者をする事になります。(⇒小山田斎宮

「遺体が腐敗する前に、ここから運び出さなくてはならない。」
「殯(もがり)をせねばならない。」
「どこで殯をしたらいいのだ。」

兵士たちから隠せて、しかも、管理が出来るところ。
それが山口県の穴門の豊浦宮でした。
日本書紀に書いてあります。香椎宮の前に作った宮です。
ここなら、兵団から、目の届かない所でした。

「天皇の姿が見えないのをどう言い訳するか。」

ルナの頭で、あれこれと考えましたが、せいぜい、「天皇の身を安全な所に置くため」
とか、「やや、具合が悪いので、静養するため」とかしか思いつきませんでした。

(日本書紀の別伝では、熊襲と戦って、矢が当たり、
その傷が原因で亡くなったという説も書いてあります。)

「誰かに天皇の衣装を着せて、ダミーを作ろう。」
生きた天皇が、豊浦宮に戻るように見せる案が一番妥当でしょう。

しかし、遺体をどうやって運び出すのか。

この疑問は現場を思い出したら、容易に解決しました。
香椎宮から海まで川が通じているのです。
途中までは実際に歩いて確認しています。
まだ、未確認の所は古宮のあたりだけです。
はたして、古宮の傍に川が届いているでしょうか。

そこで、ルナは再び確認しに行きました。
古宮の手前から左に歩くと、やはり川がそばを流れていました!
これなら、船をすぐそばに付けることが出来ます。
夜陰に紛れて、極秘のうち遺体を運び出すことは簡単です。

c0222861_1425528.jpg

古宮の裏側から撮りました。古宮に沿って川が流れています。
この水路は昔はもっと幅が広かったそうです。左上の森が古宮です。

棺はどうやって調達するのだ?

まさか、ここで作らせるわけにはいかないでしょ。

弥生時代は甕棺が普通だけど、そんなのを持ち込んだらバレバレです。
古墳の発掘現場で、舟形石棺とか見たことあるなあ。
そうだ。
丸木舟をそのまま棺にしたらどうだろう。
そういえば、長―い丸木舟の型の木棺を写真で見たこともあるし。

遺体が腐敗しても、丸木なら防水をしなくても大丈夫。
現代では、ドライアイスを沢山使うのですが、移送する時間がかかる事を考えると、これが一番かな。
この時代に丸木舟型の木棺があるかどうか、ネットで確認すると、
ちょうど同時期の丸木舟の木棺が出土していました。

崩御が2月6日の厳冬の頃なので、腐敗は遅かったでしょうが。

殯(もがり)をせねばならない。

さて、その丸木舟を載せた船は、何処を目指せばいいのか。
それが先ほど書いた、山口県の穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)です。
そこは九州に入る前に、二人が合流して、宮として住んだ所です。
仲哀天皇はその宮を出発して船団を率いて、ここまでやって来たのです。
ここなら、留守を預かる者もいて、隠しやすい。

こうして、仲哀天皇は志半ばで倒れ、亡骸となって、密かに、誰にも知られずに豊浦宮に運ばれました。

送り届けたのは竹内の宿禰です。

崩御は2月6日。彼が戻って来たのが、22日。この間、16日です。
崩御されて、会議があって、船に乗せられるのに二、三日ほどかかったとして、
香椎宮から豊浦宮まで、船でどのくらいかかるのでしょうか。
これが次に気になり始めました。

豊浦宮で、殯(もがり)の手配をするのに、三日は欲しい。(と、勝手に想像)

すると、10日位で船で往復できるのだろうか。香椎と下関の間。
これを調べなくてはなりません。
幸いにも、これについては、大変貴重なデータがみつかりました。

実験考古学の資料があった!

『大王のひつぎ海を行く』(読売新聞西部本社編 海鳥社)という本が出ていました。
大和地方の古墳の石棺が、熊本県に産出するピンクの石で出来ていました。
いったい、これをどうやって、運んだのだ!?
という事で、古代の船を実際に造り、石棺を作り、手漕ぎで搬送するという実験があったのです。

そのルート上に、ちょうど志賀島から下関が重なっていました。
その行程は、わずか4日でした。それに予備を加えると、5日で行ける!
往復で10日。どんぴしゃりです。
日本書紀の記事はこの実験で証明されました。

火無し殯(もがり)の宮

留守を守っていた豊浦宮では、天皇が亡骸で戻って来られて、仰天、驚愕した事でしょう。
武内の宿禰の采配で、ただちに殯の場が整えられました。

もがりでは、遺体が腐敗する間、人々が哀悼の儀式をするのですが、
灯火を燃やし続けます。
しかし、天皇の死を隠していたために、火は焚かれなかったそうです。

神功皇后は、新羅から凱旋して、改めてそこで葬儀をしました。
御陵は大阪府藤井寺市惠我長野西陵にあるそうです。
(そちらにお住まいの方、今どうなっているか、よかったら教えて下さい。(^-^))

という事で、新羅征伐の間、天皇の崩御は無事に?隠されたのでした。

以上、にわか迷探偵の推理レポートでした。


☆ あれから一年。日本書紀に会議のメンバーが書いてあって、
十域別王と稚武王は除外されているのが分かりました。 (・.・;)



[PR]
# by lunabura | 2009-10-23 00:00 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(26)

香椎宮(4)仲哀帝はここで天下を治めた・三種の神器


香椎宮(4)

仲哀帝はここで天下を治めた
船に掲げた三種の神器の解釈



c0222861_21512366.jpg

このブログで初めて書いた記事がこの香椎宮でした。
「古宮を訪ねて」というサブタイトルです。
読み返すと、まだブログの書き方がよく分かっていなくて、
パソコン上の文字を読むのにも慣れていず、
ずいぶん読みにくかったんだなあと反省しました。

それで今日、読みやすいように改めて編纂しました。
写真は同じものを大きくしました。
宮の様子がずっと理解しやすくなったかなと思っています。
(文章には変化はありません。)
他の記事も少しずつ読みやすくしているところです。

あの日以来、二年もかけて神功皇后の伝承のある百社以上を廻る事になるとは
夢にも思っていませんでした。
ましてやガイドブックまで書く事になるとは。御縁って不思議ですネ。
(ガイドブックの出版はまだ先になるそうです。)

今回再び香椎宮に戻って来て、改めて由緒書きを読み直すと、
その言葉の意味や背景が理解出来るようになっていました。
すごく成長したなあと灌漑深いです。
皆さんも一緒に筑紫の古代の旅をして下さってありがとうございます。

今回押さえておきたい事が二点あって、それを書きたいと思います。
一つは香椎宮が皇居であった事。
もう一つは熊鰐や五十迹手たちが天皇家を長年支え続けた一族だという事です。

1.那の国の都は何処にあったのか?
  倭国の都は何処にあったのか?

考古学や歴史の先生たちの世界では不明になっているようですが、
仲哀天皇の時代に限って言えば、
古事記にも日本書紀にもこの香椎宮が皇居だったと明記してあります。

(日本書紀)
「仲哀2年9月に宮室(みや)を穴門に興(た)てて居(ま)します。
是を穴門の豊浦宮と謂う。
仲哀8年1月21日に儺県(なのあがた)に到り、橿日(かしひ)宮に居します。」

(古事記)
「帯中日子(たらしなかつひこ)天皇、穴門の豊浦宮、
また筑紫の訶志比宮にましまして、天の下治(し)らしめしき。」

古事記の方は「豊浦宮と香椎宮で天下を治められた。」と分かりやすいですね。
だから、この香椎宮は行宮や仮宮でなく皇居そのものです。
天下を治める皇居がある所を都と言います。

仲哀天皇の時代に限って言えば、
倭国の朝廷は豊浦朝廷であり、かつ香椎朝廷であって、
大和朝廷とは呼べないのだという事を確認しておきたいと思います。

というのも、各神社の案内板に「大和朝廷に屈服した筑紫の人々」という
ニュアンスの書き方をしてある物を幾つか見かけたからです。
最近書かれた案内板にその傾向が強かったので残念に思いました。

このような誤解が生じた原因の一つに
熊鰐五十迹手の掲げた三種の神器への解釈の勘違いが関わっています。

2.熊鰐の三種の神器は正装だった。

洞海湾の熊鰐三種の神器を掲げて船で仲哀天皇を豊浦宮に迎えに行った事について、
北九州に行ってみると、熊の一族は神武天皇の時代から支えた一族である事が分かりました。
(⇒一宮神社 ほか)

三種の神器を榊に掲げることは服従や恭順の意を示したものではなく、
正装して迎える形式だったという事が明らかになりました。
私も最初は恭順の意と勘違いして記事にしてしまっている所があるので、
少しずつ訂正して行きたいと思います。

伊都国の五十迹手(いとて)も熊鰐と同様な立場です。
この二人についてはこの先、神社の記事を通して書いていくので
もっと具体的に明らかにして行きたいと思います。

以上の二点ですが、これまでの通説的な読み方を改めることが、
古代日本の正しい理解のための基礎になるのではないかと思いました。
これが歴史を探究する人々の共通認識になる事を願っています。







ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2009-10-22 21:55 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(0)

香椎宮(5)神木綾杉・死しても日本を守ると誓った皇后


香椎宮(5)

神木綾杉
死しても日本を守ると誓った皇后


c0222861_19313643.jpg

香椎宮に行くと必ずこの神木の前を通るようになっています。

c0222861_19315765.jpg

杉の一部は倒れながらも再び空を目指しています。「綾杉」と言います。立札を読んでみましょう。
神功皇后様が「とこしへに本朝を鎮め護るべし」と
祈りこめられてお植えになった杉で紀元860年(西暦200)のことであります。

ちはやふる 香椎の宮の あや杉は 神のみそきに たてる成けり
                      読み人知らず 新古今和歌集
秋立や 千早ぶる 世の杉ありて  夏目漱石

この「綾杉」については福岡県神社誌に詳しいので、それを訳して行きましょう。
神木綾杉
綾杉は本宮の神木で、神功皇后が三韓より帰られて、ここに三種の神器((御剣御鉾鐡御杖)を埋めて、その上に杉を植えて、「後世の人が杉のように真っ直ぐな心で君に仕えるならば私はその人を必ず守護する。後代までも我が霊をこの杉に留めて異国を降伏する。」と誓われた。

それからこの杉が繁茂していったが、その葉が他の杉とは違って海松(みる=海草)の房のように葉が交わって綾の紋のようになっているので綾杉という名がついた。

c0222861_19335716.jpg

左は綾杉の葉。右は海中の海松の房。ホントそっくりですね。
この綾杉の下には神功皇后が納めた三種の神器が埋められているそうです。
三種の神器が「剣・鉾・杖」というのは珍しい組み合わせです。

皇后は死後も神霊となってこの杉に留まり、真っ直ぐな心で君に仕える人とこの国を守ると誓いました。
「君」とはこの時代は天皇家の事でしょうね。

つづきを見ましょう。
また養老7年(723)2月6日と12月28日の御託宣で、
「私がこの杉に霊を留めて長く異国を降伏し、かつまっすぐな杉の木のように正直な人を守る。」とお告げがあり、そののち天平神護元年に初めて綾杉の葉朝廷に献上した。

これが恒例となって毎年朝廷に献上する事となった。太閤秀吉が朝鮮征伐の時、神官らがこの杉の葉を肥前名護屋に献上したので太閤は大変喜び、外国への旅立ちなのでと言って諸将に分けられたという。
この養老7年の託宣でも再び皇后の誓いが告げられました。
この神託の詳細を調べると、
「神功皇后を聖母大菩薩と呼び、笴襲(かしい)聖母大菩薩と唱えるように告知した。
(しょうも・しょうぼ)
朝廷の尊崇する神社は1伊勢・2香椎・3宇佐という順だった。
天皇の即位など国家の事が香椎宮に報告された。
三年に一度神殿を改築するようにと告げられた。
西海道巡察使太宰府・国府などの就任者は香椎宮に参詣してから任地につく。」

という内容で、当時の重要性がよく分かります。

香椎宮はもともと「香椎廟」(かしいびょう)と言われていました。
「廟」とは中国式の呼び方で「先祖の霊を祀る建物」を「廟」と言います。
11世紀の末頃には「廟」が「香椎宮」に変わっています。

秀吉の名前が出て来ました。ブログにはまだ書いていないのですが、
秀吉は九州を制圧する時、神功皇后の足跡と重なるところがあり、
神功皇后にあやかっているなと思われる事が所々に見受けられました。

その神功皇后が鎧の袖に杉の小枝を挿して渡海したと言われていたので、
秀吉も綾杉が届けられると喜んだことでしょう。
諸将にも分けたというのですから、お守りにしたのですね。

つづきを読みましょう。
また筑前国続風土記糟屋郡・若杉山の条に、
太祖権現イザナギ尊を祀っているが、神功皇后が三韓征伐の前にこの神にも祈って、御帰朝ののち、そのお礼に香椎の綾杉を分けてそこに植えたので「分杉(わけすぎ)」と名が付いた。後世なまって「若杉」という。」
と書いてある。
若杉山(標高681m)は東南約10キロの所にある篠栗町の神山で、
篠栗お四国霊場のお遍路の一つになっています。その頂上にあるのが太祖宮です。

「神功皇后は太祖宮の御神木の綾杉の小枝を自ら手折り、鎧の袖に挿してお守りとし、凱旋後、香椎宮の境内に三種の神器(剣・鉾・鎧)を埋めて、綾杉の小枝を植えた。」(篠栗町の昔話の一部抜粋)
と、順序が反対の伝承もあって、綾杉はどちらが先か分からなくなっています。
三種の神器も少しずつ内容が違いますね。(いかにも彼女らしい選び方ですが。)

いずれにしろ、この香椎宮と太祖宮の縁が深い事を示しています。
若杉山は古代祭祀線を引こうとすると必ず出て来るポイントで、山頂には巨大な盤座があります。

さて、つづき。
その後、延享元年、本宮に奉幣勅使として飛鳥井中将・藤原雅重朝臣が参向した時に、綾杉の葉を朝廷に献上する事が再興されて、明治元年まで124年間、綾杉の葉に「寶祚延長天下太平」を祈った不老水を添えて献上したが、その後再び廃絶した。

また太宰府に新任の人は本宮に参拝して、神主から綾杉の枝を冠に挿してもらうのが習わしだった。

江戸時代には綾杉の葉と札と不老水を朝廷に献上し、
もっと古い時代には太宰府へ新任の人の冠にその枝を挿したという優雅な話です。
これらは皇后の誓いを人々が長らく忘れなかった事を示しています。

前回にも書いたように、このブログは香椎宮から始まったのですが、
この二年間に世界はすっかり変わってしまいました。
自然大災害を体験し、日本近海諸島も穏やかでなくなりました。
平和な時代が終わろうとしているのでしょうか。

竹内宿禰は織幡神社で日本を守り、神功皇后は香椎宮で日本を守っています。
「死しても日本を守る」と誓った人たちがいます。
これからの平和は自分たちで守るという時代になりました。

戦いでなく、魂の進化の中で新しい平和を産み出す時代の到来です。


蛇足
私のペンネーム。皆さんが薄々感じるように、この神木から戴いたのですが、
このような誓いの神木とは知りませんでした。(なんだか畏れ多くなった…。)


地図 香椎宮と太祖宮







ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2009-10-21 19:45 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(3)

香椎宮(6)武内神社・不老水・高倍神社・竹内宿禰について


香椎宮(6)

武内神社・不老水・高倍神社
竹内宿禰について


武内神社
c0222861_21222853.jpg

本殿の左側に武内神社があります。

c0222861_2123094.jpg

拝殿です。

c0222861_21231782.jpg

拝殿と神殿です。祭神はもちろん竹内宿禰です。
タケシウチには「武内・竹内・建内」という表記があります。
私は「竹の一族」であり、「内の一族」であり、
竹斯(ちくし)の王者という意味を合わせて「竹内」と書いています。

c0222861_21235758.gif

竹内宿禰は記紀では最高位の大臣として、また知略に長けた武将として、
また霊力の優れた者として描かれています。

彼の両親を探すと父は佐賀県の武雄市武内の武雄神社に祀られていますが、
母の山下影姫も同じ武雄市の黒尾神社に祀られている事が
久留米地名研究会の古川清久氏の調査で判明しました。

「黒」と言えば竹内宿禰と言われますが、久山町の黒男神社もまた竹内宿禰です。
武雄市で両親が揃うとなると竹内宿禰の出身地の可能性が高いです。

武雄市の地名は父の名「ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロ」に含まれています。
徐福の上陸地に近く、早くから新進の大陸文化を受け入れた一族
という姿が見えて来ました。

武内屋敷
この香椎宮の境内を出て不老水に向かうと隣に「武内屋敷」があります。
末裔の家として知られていて、史跡になっていますが、今でも末裔の方が暮らしてあります。

不老水
その隣に不老水があります。

c0222861_21254814.jpg

c0222861_2126210.jpg

泉が今でもこんこんとわき出ています。

c0222861_21261992.jpg

その横に仲哀天皇と皇后、竹内宿禰などが描かれています。
「不老水」という名は長寿の竹内宿禰に因むのかと思っていましたが、
大善寺玉垂宮や赤司八幡宮に行ってからは、これは「変若水」(おちみず)という、
「月から降りて来る若返りの水」だなと思うようになりました。
仲哀天皇はわずか一年の滞在でしたが、二人はきっとこの泉で禊をした事でしょう。

c0222861_21264242.jpg

不老水の遠景です。

高倍神社(こうべじんじゃ)
この山の左の方に進むと、高倍神社があります。

c0222861_21271068.jpg

c0222861_21403224.jpg

御神体石に
「祭神 香椎武内家始祖 香椎廟廟司 大膳紀宿禰氏連命」
と書いてあります。当初から香椎宮を守り続けた一族です。

「武内宿禰は大和朝廷に従ったのか、それとも、朝廷と共に香椎に来たのか」
という質問をある方から いただいたのですが、

竹内家の発祥は佐賀県で、物部氏とともに血縁関係のあった仲哀天皇を支え、
神功皇后と共に近畿に行って、関西の開発に貢献したという姿が見えて来ました。
また久留米の方には、神功皇后の死後、再び筑紫に戻って来たという伝承もあります。


さて、まだまだ香椎宮には史跡が残っていますが、ひとまず おいとまして
次回は縁のある壱岐神社に行って見ましょう。 (^-^)




ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2009-10-20 21:42 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(4)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー