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小山田斎宮 (Ⅱ)神懸かりの地を捜して


小山田斎宮(Ⅱ)   
オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して


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さあ、村史の次のページも読んでみましょう。

見てみると漢字だけです。仮名交じり文にもなっていません。
「、」や「。」さえついていないのです。誤植も多いし…。う~。こりゃ無理だ。読めない。 (;一_一)
該当する岩波版の『日本書紀』で訳してみます。

訳してみてびっくり。なんと迫力ある神懸かりのシーンが書いてありましたよ。 
村社 斎宮
祭神 天照大神 健布都神 事代主神 住吉三神 息長足姫尊
由緒 日本書紀 巻九の「オキナガタラシ姫(神功皇后)の尊の巻にこう書いてあります。

仲哀九年の春二月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御されました。この時皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。

そこで、群臣と百人の司たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

三月の壬申の一日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となられました。そして、武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。そうして、織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて、申し上げました。

「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。

「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。」と。

烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他に神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。

「他におられますか。」
天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ、そらにことしろ、たまくしいりびこ、いつのことしろのかみ)有り。」

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」

そこで、審神者が言うには、「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底に居て、海草のようにわかやかに出てくる神、表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとはおっしゃいませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。

と有ります。これが即ち、本宮の起源です。
この託宣でここにはオキナガタラシ姫の尊を一緒に御桐殿に合祀しています。
オキナガタラシ姫の尊は神恩を祈願して、稀有の神蹟を得ました。

斎宮ご祈願霊蹟
 聖母屋敷は本社の西南の小川を隔てた所にあって、今は民有地だ。
中央に聖母宮の小さな祠があり、周辺には大神宮址、武内社、-略―。
神懸かりとか、サニワとか、こうやっているのですね。なんだかすごいです。知りませんでした。

さて、この小山田斎宮に来て新たな謎が出て来ました。
Q1交通手段は本当に船なのでしょうか。
さきほど、船で行ったように書きましたが、 実際どうなのだろうかと思いました。
すると、この『小野村史』に答えが見つかりました。
「古賀村にて海に入る」 という一文があったのです。
この地に、古代の船のルートがあった事が確認できました。

Q2移動時間はどのくらいかかったのでしょうか。
  ここから香椎へは何日かかったのでしょうか。
  そう思っている時、たまたまテレビを付けると、NHKの「街道てくてく旅」で原田早穂ちゃんが、
  香椎宮から青柳まで、旧街道を歩いていました。なんというタイミングでしょう。

  彼女は朝出発して、三時には着いていたと思います。
  その青柳から小山田まではさらに1時間はかからないでしょう。
  彼女はのんびりと人と出会いながら歩いて、この時間です。
  なんだ、速足の人なら往復が簡単にできるような距離でした。

  古代の船の速度は歩行速度とあまり変わらないと確か船の本で読みました。

  香椎宮から船に乗って、一旦海上に出て、右に舵を取り、
  しばらく海上を通って、川を遡れば丸一日もかからずに着くのですね。

  疑問の一つがテレビのおかげで簡単に解けました。

  さて、こういう事から、この「小山田斎宮」については、否定する要素が全くありませんでした。

  日本書紀に書いてある「小山田」の地名もそのまま残っています。
  わざわざこれを否定して、「山田の斎宮」に軍配をあげるのは却って不自然だなと思うようになりました。

 Q3 何故この地が選ばれたのでしょうか。 
  ここは香椎宮に到着する前に、一度来た所らしいです。
  北九州からやって来ると、最後の停泊地になった可能性があります。

  神功皇后の一行は、ここで旅の汚れを落とし、
  明日はいよいよ宮へと向かうために、装いを新たにしたのではないでしょうか。

  香椎宮から程よい距離で、土地勘がある小山田を思い出して、
  そこを斎宮にしようと決めたのではないかと思うようになりました。 


でも、これではまだまだ納得できません。
さあ、もう一つの候補地、「山田の斎宮」のについても調べましょ。

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千年以上も経つイチイガシの巨木です。 


仲哀天皇が亡くなった事情は、右サイドバーのリンクからどうぞ。
『古事記の神々』のオキナガタラシ姫に書いています。
 

地図 小山田斎宮

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# by lunabura | 2009-10-30 00:00 | 小山田斎宮・古賀市 | Trackback | Comments(4)

香椎宮(Ⅰ) 古宮を訪ねて


香椎宮(Ⅰ)
 福岡県福岡市東区
古宮を訪ねて

                
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『古事記の神々』に息長帯姫(オキナガタラシ姫) (神功皇后)のお話を書きました。

この話の中で、神宮皇后が神懸かりするシーンがあります。
その場所が香椎宮には今でも伝わっている事を知って、出かけて行きました。
その場所を古宮と言います。

古宮とか、奥の院とか聞くと、見逃せません。血が騒ぎます。
厳しい暑さを避けて、台風がひと吹きした後の、涼しくなった日に出かけました。

このお宮は春には桜の花が咲き誇り、山門や本殿の両脇を、まるで姫の髪飾りのように彩ります。
朱塗りに映える桜の色の華やかさと、古代から在るものだけが持つ重みを兼ね備えた姿が
素晴らしい神社です。

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ご神木は綾杉です。その周りを古代の衣装を着た翁がほうきを持って掃き清めていました。
その人に「古宮」への道を尋ねました。「本殿の脇から行けます。」と教えてくれました。

まずは本殿へ。

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朱塗りの本殿はいかにも姫宮らしいあでやかな色です。かしわ手を打つと、よく響きます。
お参りを済ませて、教えられた通りに、右の方へ行ってみました。

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「仲哀天皇 樫日宮蹟(古宮) 100メートル」との案内板がありました。
赤い塀を出たとたんに、うっそうとした森の中に出ました。
わずか30メートルほどの森ですが、古代もこのようだったのだろうかと思うと、ゆかしい気持ちになります。
道は少し下り坂です。

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車道にいったん出ると、すぐ正面に古宮の表示が目に入ります。こんもりと木々が茂っています。
右横の赤い煉瓦の塀が昭和の懐かしい記憶を留めていました。
引き込まれるように正面の階段を上って行きます。

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なだらかな上り坂で、10段ほどの石段を上ると、正面ではご神木を手厚く祀っていました。
綾杉とは違う、二つ目の神木です。木の名はよく分かりません。(「香椎宮」の名にちなむ椎の木かも。)
と思いながら、右の方を見ると、木立の中に上り坂があって、人を誘なっています。

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 その道を辿ると、すぐ奥の方に、金色の文字が彫られた石碑が見え出しました。
「仲哀天皇大本営御旧蹟」と書いてあります。  (大本営か…。)
確かに、熊襲征伐のために設営した宮だから、そうなのですが、
どこか国威高揚に励む時代の言葉のようで神域にはなじみません。
石碑の側面を見ると、大正時代の日付がありました。
  (なるほど、日本が戦争をしていた時代に建てたんだ。)

ここが目指す古宮です。広さは庭付きの家が一軒建つくらいです。
周りは木立が囲んでいますが空が透けて見え、小さな丘の頂上です。
神功皇后が神懸かりして、仲哀天皇が琴を弾いたのは此処でしょうか。
そして、突然亡くなったのも…。
由緒書きを書き写してみます。(口語訳しました。)
仲哀天皇 訶志比宮(かしひのみや)址(あと)
「仲哀天皇は筑紫の訶志比宮に遷宮されて天の下を治められた」と古事記に書いてある宮の跡で、
天皇の8年正月21日(西暦199年)にここを都と定めた。

仲哀天皇の崩御の地
天皇は開闢以来の進取革新の内外政策をご実行されていたが、惜しくも9年2月6日(西暦200年)この宮にて崩御。御年52歳。御陵は大阪府藤井寺市惠我長野西陵にある。

仲哀天皇の大偉業
天皇の大偉業は実に広大にしてその一端が神宮皇后の三韓征伐である。
この宮が策源地であったために大本営址として記念碑が建っている。-略―

香椎廟址
祭神 仲哀天皇
由緒 仲哀天皇崩御されるや、ただちに天皇の神霊を祭神とした神社は他にはない。
    朝廷廟として特別の尊崇を捧げられる。

    奈良朝に大宰府の官人が京から下るとき、まず香椎に参詣し始めて、入府する。
    春秋の大祭には帥(そち)、国郡司を引き連れて必ず参拝し、
    宣命を奏するのが通例であった。  -略―

もう一つ説明板がありました。

沙庭斎場
仲哀天皇の進取革新の内外政策は開闢以来の大偉業であるため、常に沙庭(サニワ)をたてて、神の教えを乞請された聖地である。沙庭が国史に現れたのはこの地が最初である。

棺掛椎
仲哀天皇のご偉業を完遂しようとされて、神宮皇后は天皇の喪を秘し、天皇の御棺をこの椎の木に立て掛けられて、まるで天皇がここにいらっしゃるかのようにして御前会議を開かれた。
この時、御棺より良い香りが漂ったことから、香椎の名前が起こったとの地名伝説もある。

やはり、この丘が物語に出てくる場所でした。この丘は人に沿ったなんとも心地よいサイズです。

   ご神木のスペースで天皇と皇后は神を祀り、平安を祈った。
   ここには、許された人だけが訪れる事が出来た。
   ここで天皇は突然亡くなってしまい、重臣たちがその後の事を話し合った。

そんな地に立てるのは、隔世の感があります。
そう思いながら、出口に向かうと、両脇に立ち並んだ楠木や石灯篭が宮にかしずく人たちに見えて来ました。

再び本宮に戻りました。本殿からは、広い境内が見渡せます。
ここでは何千という兵士たちが陣営を営んだのかもしれません。ざわめきが聞こえて来るようです。

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帰りに見上げる楼門の壮大さに思わず足が止まりました。
そして、その楼門によって区切られた向こうの景色にはっとしました。
帰り道の景色さえ、計算され尽くしたアートでした。


息長帯姫(オキナガタラシ姫)の物語は右の『古事記の神々』に現代語で書いてます。
(オキナガタラシ姫)


地図 香椎宮




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# by lunabura | 2009-10-25 20:28 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(8)

香椎宮 (Ⅱ) 古宮とスピカ


香椎宮 (Ⅱ)
福岡県福岡市東区
古宮はスピカを祀る日振宮(ひふりのみや)だった
そんな社伝に魅かれて 
 

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二か月前に、古宮からオキナガタラシ姫(神功皇后)の斎宮を探しに行って、
ずいぶん遠回りして、再び香椎宮に戻って来ました。
その時には半信半疑だった事を今日は書こうと思います。

それは友達が送ってくれたコピーから始まりました。
「橿日宮(かしいぐう)の社伝によれば、“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。」
(真鍋大覚『灘の国の星 拾遺』)

この香椎宮ではスピカを祀っていたという一文が強烈に心を揺さぶりました。
出た。ついに出た。星の伝承が出て来た。

そこで、とりあえず、古宮へ行ったのが、香椎宮(Ⅰ)です。
そうしてスピカや伝承を調べて、今ここに舞い戻って来ました。

 ここが「スピカを祀る日振宮」だというのです。
何か痕跡があるでしょうか。
 

まず、この地で天体観測が出来なくてはなりません。

この古宮の広さは庭つきの家が一軒たつほどの広さです。
見回すと、周囲は大きな木々が立ち並んでいます。
これがなかったら、小さな丘なので、太陽や星を観測するのには都合のいい所だと思いました。

古代の天体観測をする地点に、これまでも何カ所か行ったのですが、どれも、意外に狭い所でした。
狭い理由は、その方があまり動かずに観測出来るからです。
なるほど、真っ暗な夜中に星を観測するとなると、確かに座ったままで観測できる方が安全で効率的です。
この地はその条件を満足しているなと思いました。

また、目当ての山などがあるはずです。
東の崖の所に立つと、山の峰が見えました。この山のどこからか朝日が昇ったことでしょう。

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古宮の東の端から、外を撮りました。足元は崖です。

 春分秋分の象徴としてスピカを祀る。 
これはいったいどういう事でしょうか。
 まず、春分と秋分について確認しましょう。 
秋分と春分の日には、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。昼と夜が同じ長さです。
辞書を調べると、この日には天皇が皇霊殿で大祭を行っているそうです。
皇霊祭と言います。
天皇は太陽神アマテラスの子孫ですから、太陽を祀るのは大切な儀式です。

それが、春分と秋分に連綿と執り行われている訳です。
仲哀天皇もこの香椎宮にいる時にも、きっと日子として、祭祀をした事でしょう。

 「日振り」とはなんでしょうか。 
「日振り」については、『灘の国の星 拾遺』に説明がありました。まとめてみます。

福岡県那珂川では仲哀天皇の頃から、御火焚(おひたき)の祭事が始まり、今も部落ごとに守られている。太陽暦と陰暦のずれを計算して、太陽暦にする。

氏族が自分たちの部落の行事に適するように編纂した暦を新しく神に供えると同時に、旧の暦を焼き捨てる。
これが御火焚(おひたき)の発祥であり、この名前はギリシア語のキタヒから来ている。それを書いた本の名前がビブリオンで、「日振り」の語源に当たる。

木の幹を小さく割って大小さまざまに一年の月日を並べて、衆議一決するまで立て替え並べ直して、納得の行くまで日取りを組む。これが「日振り」であった。

そして、これが出来上がると、氏族一同に触れて回る。これが「日振れ」である。年ごとの資料は神殿に奉納して子子孫孫に伝える。これが「国繰(くにく)り」であり、「国縫い」であった。

太陽暦と陰暦の差は現代も調整が難しい。  
太陽の運行は正確には一年に365日ではないので、四年に一度、366日の年を作って調整します。
陰暦は月の満ち欠けを基準にしますが、一か月を30日としても、30日×12か月=360日。
6年経つと、一か月の差になります。季節が全く変わります。

この5~6日の差をどうするかは、難問で、国や氏族で個性がありました。
これを専門に計算する人たちが古代にもいました。日本では安倍清明の家系が有名です。

この本の著者の真鍋大覚氏の家系も、暦を伝える家系でした。
(この本には、古代ギリシアなどが出て来て、驚きますが、高松宮宣仁親王の指示によって出来た本で、
那珂川町が出版した本です。)

古代の人々は、氏族によって習慣が違う上に、暦の基準も違いました。
これをどうつき合わせるかは、大切な政治でもありました。
もし、暦がないと、「来年1月1日にまた会おう」と言っても、
太陽暦の人と陰暦の人では、違う日に当たるのです。

暦のすり合わせは、大切なイベント で、古代史を理解する上でも研究の余地があるように思います。
日本の天皇は太陽を観測し、太陽の気を下ろし、暦の設定の任を負っていたと思われます。
あの古宮は「日振り」をするための基準を確認する、そんな神聖な天文観測所だったのです。

香椎宮は何度も炎上して、古代の文献が残っていないそうです。しかし、社伝で言い伝えていたのですね。
「橿日宮の社伝によれば“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。」

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古宮の端っこに立って撮りました。
では、スピカとは古代、どんな役割の星だったのでしょうか。
スピカは乙女座の星です。白く輝く星で、日本では真珠星と言っていたそうです。
この事も真鍋氏の本から見つける事が出来ました。
『灘の国の星』より

乙女座のスピカを若狭の国三方では「しんじぼし」と呼ぶ事を野尻抱影氏が書いている。
「しんじ」とは古語で、昼と夜が同じ長さで、冬と夏が接する彼岸の中日、即ち春分、あるいは秋分のことであった。別名を「しなつ星」「ひなかば星」とも言う。

スピカは春分の中日と秋分の中日のシンボルでした。
氏によると、星の観測は皇后の神事だったそうです。すると、神功皇后はこの日スピカを観測したのでしょうか。
幸い、現代では星座ソフトでその夜を再現できます。ステラ・シアター・プロを使ってみる事にしました。
調べるには、年月日の入力が必要です。
仲哀天皇が199年にここにいたと言う年代は正しいのでしょうか?
日本書紀の年代はこうです。

仲哀天皇の8年正月21日(西暦199年)にここを都と定めた。同じ9年2月6日(西暦200年)この宮にて崩御。御年52歳。
じつは、199年というのを、古宮で見た時には、
ルナは思いがけず、「え、弥生時代?」とたじろいでしまいました。
日本書紀の年代については、多くの人々が計算をして、疑問視しています。

どうしようかと、困ってしまったのですが、暦法の大家の真鍋大覚氏が年代を訂正していません。
しかも、この年は、太陽暦と旧暦が全く同じ年だったと、確認してあります。
ですから、これに従って、日本書紀の記載通りに調べて行きたいと思います。

ターゲットを設定しました。
仲哀天皇が香椎宮にいたのは199年1月21日から翌年の2月6日まで。わずか一年余りです。
ターゲットになる、春分と秋分の日は199年3月21日と9月21日、だけです。
この二日だけ、仲哀天皇が神事をした可能性があります。

場所は福岡県福岡市に設定しました。
春分の日を3月21日、秋分の日を9月21日として設定します。

まずは春分の日から。
199年3月21日  朝6:30 太陽が真東から出る。
            夜18:15 太陽が真西に沈んだ。
            夜18:24 スピカが真東から出る。
       22日  朝6:00 スピカが真西に沈んだ。

この日は、太陽が真西に沈むと、スピカが入れ替わりに上って来て、
同じコースを運行して行きました。

 こんなシーンがあったかも。 
天皇が夜明け前からここで待って、真東から昇る太陽を迎える神事をし、夕方になると、真西に沈む太陽を送る。
それから、数分後、皇后が真東からスピカが昇るのを迎えて神事をし、翌朝、真西に沈むのを送る。

古代は太陽の儀式を天皇がして、星の儀式を皇后がし、皇太子が暦の調整をすると真鍋氏は言います。
神事とは、単に日や星をシンボルとして崇めるのではなく、その眼で、実際に観測して確認したという事になります。

 ちょうど、韓国ドラマ「大王世宗」に暦の話が出ていました。 
ルナは50話ごろから見始めたのですが、暦の話が出て来て、驚きました。
自国の暦を持つ事は、隣の国、明からの独立を象徴する事であり、
これが知られたら、戦争にもなりかねないほど、大切な事だったというのです。

日本ではすでに200年には暦を持っていたので、状況が違う訳です。
暦って、国の威信をかけてつくったんですね。なんだか面白くなって来ました。
さあ、199年の春分の日は確認できました。

 では、秋分の日はどうでしょうか。  
199年9月21日 朝6:11 太陽が真東から昇る。
          夜18:01 太陽が真西に沈む。
                 スピカは太陽のすぐ傍に居て、暗くなってしばらく見えていたが、
                 太陽と一緒に沈んだ。
          夜18:36 満月が真東から出る。
      22日 朝6:32 満月が西に沈む。
  
スピカは太陽の傍に移動しているために、夕刻にちょっとだけ見えました。春とは全然違います。
しかし、その代わりに満月が昇って来ました。


これはパソコンの画面でも、感動しました。実際にはもっと感動的だったに違いありません。

 翌年の空も同じだったのでしょうか。 
翌年2月に、仲哀天皇は崩御しました。ですから、その年の春分の日は神功皇后一人でした。

それでも、この年も太陽が沈むとスピカが真東から昇って来ました。
秋分の日には、スピカは太陽と一緒に昇るために見えません。月もずれていて、特徴のない夜でした。

昔は今よりずっと寒い気候でした。スピカは春分の日には春を告げる星として、
古代の人々は格別な思いで見た事でしょう。
春分の日は、古代の福岡では、この日から雪が溶けるという喜びの日だったそうです。

「香椎」・「橿日」はともに「かしい」と読みます。
「かし」は古語で、一般的に「星」を指すそうです。すると、「橿日」とは「星と太陽」になります。
この香椎では「かし」といえば、「スピカ」を思い浮かべる氏族がいたのでしょう。
そう、香椎は古代から栄えた港町だったのです。
野尻抱影氏の本には
「昔の航海者は、スピカの近くに月が出ていると、その間隔をはかって
船のいる経度を50キロ以内まで正しく知ることができました。」
と書いてありました。すごい話です。
また、
「スピーカと、北斗の柄の第二星ゼータとを結んだ直線を延長すると、北極星にとどきます。
これは北斗七星が見えない時に、北極星を発見する方法の一つです。」

雲の多い日にその雲の切れ間から、スピカを見つけると、
海の只中に居ても、北が分かり、進路が分かるというのです。
少し暗い北極星より、明るいスピカの方に、心惹かれる感じも分かります。

夜にはスピカが、昼には太陽が、方角と時を教えてくれました。
それが「かし・ひ」だったのでしょうか。

香椎を拠点とする海人族たちは、スピカを神として祀ったのでしょう。
そして、ここの海人族とは、安曇族です。

この香椎はその時代、すでに大きな港町で、物資が集まったのはもちろん、船を造ったり
修理したりする所でもありました。
だから、仲哀天皇は北九州市の近くの拠点を捨てて、この福岡市の香椎に移動したのですね。

神功皇后と仲哀天皇が、実際に古宮でスピカを祀ったかどうかは分かりませんが、
神官たちが、春分秋分の日にはスピカを祀っていた事でしょう。

ここからは蛇足です~。
現代のスピカと太陽 
この後、気になる点が出て来ました。
歳差運動のために星の出は少しずつずれていくはずです。
1800年経った現在、スピカはどう見えるのでしょうか。

2009年を調べてみました。
春分の日 
 2009年3月21日 6:26 太陽が真東から昇る。
                  スピカは西南西の地平線近くにいて、沈もうとしていて、
                  間もなく太陽の光に消えた。
         18:19 太陽が真西に沈む
         20:29 スピカが東南東寄りから昇る。

秋分の日 
2009年9月21日 6:12 太陽が真東から昇る
             18:03 太陽が真西に沈む。
             18:57 スピカが西南西に沈む。
         翌朝 スピカは見えない。


現在では199年のような天体ショーは見られませんでした。
春分の日に太陽が沈んでから、
スピカが太陽の跡をたどって夜空を運行するというのは
神功皇后時代を中心とした数百年のものでした。
                             香椎宮(Ⅲ)につづく
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# by lunabura | 2009-10-24 00:00 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(4)

香椎宮(Ⅲ)天皇の崩御をどうやって隠す?

香椎宮(Ⅲ)

天皇の崩御をどうやって隠す?


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初めて古宮を訪ねた夜、気になる事が出て来て、眠れませんでした。
仲哀天皇の死は隠された。
いったいどうすれば隠すことが出来るのか。
それが疑問として浮かび上がったのです。多くの人々が仕える宮なのです。
そんな事ができるのでしょうか。

そこで、どうやったら天皇の死を隠せるのか、今日は、にわか迷探偵の推理レポートです。

まず、状況を再現してみましょう。

天皇の死の現場はサニワの場です。天皇は御簾の中で、琴を弾いていました。
神功皇后は座って目を閉じて、神がかりをしています。
その懸った神が本物か偽物かを判断するために、竹内宿禰が一人控えています。
そして、天皇は急死した。

もし、控えの者たちを人払いしていたのなら、これを目撃する者はいなかった可能性はあります。
現場は下の写真のように、狭い場所です。
神功皇后と竹内宿禰が黙っていれば、一晩ぐらいは隠せるなと思いました。

今から熊襲を攻めようという、矢先でした。
神功皇后に降りて来た神は、「熊襲ではなく、その後ろ盾になっている新羅を討て。」と言います。
「そんな国があるとは知らない。」と天皇が言ったとたん、亡くなってしまいました。

こんな不吉極まりないことはありません。
討つのが熊襲にしろ、新羅にしろ、戦意喪失が一番怖い。

この写真に写っている範囲がサニワのあった所で、仲哀天皇が崩御された所。
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正面。
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横から。 ここで、会議も行われた。
敷地の奥は崖になっていて、下のすぐ近くを川が流れる。
写真の左側が入口なので、そこには護衛がいても、人払いをしたら、独立した空間になる。

二人は群臣たちを集めて会議をしました。
神社の案内板によると、棺の板を立てて、天皇と見立てて、会議をしたといいます。
群臣たちには、その死が告げられた事でしょう。そして、緘口令がしかれました。
志式神社の伝承を調べるうちに、仲哀天皇の弟王に、
十域別王と、稚武王がいた事が分かりました。(⇒志式神社
天皇の死後、この二人が新羅まで一緒に赴いています。
兄弟ですから、この二人も会議の席に着いたと思われます。

会議のメンバーは、神功皇后、竹内の宿禰、十域別王、稚武王。
最低四人は特定できました。
これに、安曇族の長、中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)、
などが順次呼び出されたと思われます。

安曇族の長は、実行の手配のために。
中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)は、
その後、竹内の宿禰に代わって、審神者をする事になります。(⇒小山田斎宮

「遺体が腐敗する前に、ここから運び出さなくてはならない。」
「殯(もがり)をせねばならない。」
「どこで殯をしたらいいのだ。」

兵士たちから隠せて、しかも、管理が出来るところ。
それが山口県の穴門の豊浦宮でした。
日本書紀に書いてあります。香椎宮の前に作った宮です。
ここなら、兵団から、目の届かない所でした。

「天皇の姿が見えないのをどう言い訳するか。」

ルナの頭で、あれこれと考えましたが、せいぜい、「天皇の身を安全な所に置くため」
とか、「やや、具合が悪いので、静養するため」とかしか思いつきませんでした。

(日本書紀の別伝では、熊襲と戦って、矢が当たり、
その傷が原因で亡くなったという説も書いてあります。)

「誰かに天皇の衣装を着せて、ダミーを作ろう。」
生きた天皇が、豊浦宮に戻るように見せる案が一番妥当でしょう。

しかし、遺体をどうやって運び出すのか。

この疑問は現場を思い出したら、容易に解決しました。
香椎宮から海まで川が通じているのです。
途中までは実際に歩いて確認しています。
まだ、未確認の所は古宮のあたりだけです。
はたして、古宮の傍に川が届いているでしょうか。

そこで、ルナは再び確認しに行きました。
古宮の手前から左に歩くと、やはり川がそばを流れていました!
これなら、船をすぐそばに付けることが出来ます。
夜陰に紛れて、極秘のうち遺体を運び出すことは簡単です。

c0222861_1425528.jpg

古宮の裏側から撮りました。古宮に沿って川が流れています。
この水路は昔はもっと幅が広かったそうです。左上の森が古宮です。

棺はどうやって調達するのだ?

まさか、ここで作らせるわけにはいかないでしょ。

弥生時代は甕棺が普通だけど、そんなのを持ち込んだらバレバレです。
古墳の発掘現場で、舟形石棺とか見たことあるなあ。
そうだ。
丸木舟をそのまま棺にしたらどうだろう。
そういえば、長―い丸木舟の型の木棺を写真で見たこともあるし。

遺体が腐敗しても、丸木なら防水をしなくても大丈夫。
現代では、ドライアイスを沢山使うのですが、移送する時間がかかる事を考えると、これが一番かな。
この時代に丸木舟型の木棺があるかどうか、ネットで確認すると、
ちょうど同時期の丸木舟の木棺が出土していました。

崩御が2月6日の厳冬の頃なので、腐敗は遅かったでしょうが。

殯(もがり)をせねばならない。

さて、その丸木舟を載せた船は、何処を目指せばいいのか。
それが先ほど書いた、山口県の穴門豊浦宮(あなとのとゆらのみや)です。
そこは九州に入る前に、二人が合流して、宮として住んだ所です。
仲哀天皇はその宮を出発して船団を率いて、ここまでやって来たのです。
ここなら、留守を預かる者もいて、隠しやすい。

こうして、仲哀天皇は志半ばで倒れ、亡骸となって、密かに、誰にも知られずに豊浦宮に運ばれました。

送り届けたのは竹内の宿禰です。

崩御は2月6日。彼が戻って来たのが、22日。この間、16日です。
崩御されて、会議があって、船に乗せられるのに二、三日ほどかかったとして、
香椎宮から豊浦宮まで、船でどのくらいかかるのでしょうか。
これが次に気になり始めました。

豊浦宮で、殯(もがり)の手配をするのに、三日は欲しい。(と、勝手に想像)

すると、10日位で船で往復できるのだろうか。香椎と下関の間。
これを調べなくてはなりません。
幸いにも、これについては、大変貴重なデータがみつかりました。

実験考古学の資料があった!

『大王のひつぎ海を行く』(読売新聞西部本社編 海鳥社)という本が出ていました。
大和地方の古墳の石棺が、熊本県に産出するピンクの石で出来ていました。
いったい、これをどうやって、運んだのだ!?
という事で、古代の船を実際に造り、石棺を作り、手漕ぎで搬送するという実験があったのです。

そのルート上に、ちょうど志賀島から下関が重なっていました。
その行程は、わずか4日でした。それに予備を加えると、5日で行ける!
往復で10日。どんぴしゃりです。
日本書紀の記事はこの実験で証明されました。

火無し殯(もがり)の宮

留守を守っていた豊浦宮では、天皇が亡骸で戻って来られて、仰天、驚愕した事でしょう。
武内の宿禰の采配で、ただちに殯の場が整えられました。

もがりでは、遺体が腐敗する間、人々が哀悼の儀式をするのですが、
灯火を燃やし続けます。
しかし、天皇の死を隠していたために、火は焚かれなかったそうです。

神功皇后は、新羅から凱旋して、改めてそこで葬儀をしました。
御陵は大阪府藤井寺市惠我長野西陵にあるそうです。
(そちらにお住まいの方、今どうなっているか、よかったら教えて下さい。(^-^))

という事で、新羅征伐の間、天皇の崩御は無事に?隠されたのでした。

以上、にわか迷探偵の推理レポートでした。


☆ あれから一年。日本書紀に会議のメンバーが書いてあって、
十域別王と稚武王は除外されているのが分かりました。 (・.・;)



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# by lunabura | 2009-10-23 00:00 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(26)

香椎宮(4)仲哀帝はここで天下を治めた・三種の神器


香椎宮(4)

仲哀帝はここで天下を治めた
船に掲げた三種の神器の解釈



c0222861_21512366.jpg

このブログで初めて書いた記事がこの香椎宮でした。
「古宮を訪ねて」というサブタイトルです。
読み返すと、まだブログの書き方がよく分かっていなくて、
パソコン上の文字を読むのにも慣れていず、
ずいぶん読みにくかったんだなあと反省しました。

それで今日、読みやすいように改めて編纂しました。
写真は同じものを大きくしました。
宮の様子がずっと理解しやすくなったかなと思っています。
(文章には変化はありません。)
他の記事も少しずつ読みやすくしているところです。

あの日以来、二年もかけて神功皇后の伝承のある百社以上を廻る事になるとは
夢にも思っていませんでした。
ましてやガイドブックまで書く事になるとは。御縁って不思議ですネ。
(ガイドブックの出版はまだ先になるそうです。)

今回再び香椎宮に戻って来て、改めて由緒書きを読み直すと、
その言葉の意味や背景が理解出来るようになっていました。
すごく成長したなあと灌漑深いです。
皆さんも一緒に筑紫の古代の旅をして下さってありがとうございます。

今回押さえておきたい事が二点あって、それを書きたいと思います。
一つは香椎宮が皇居であった事。
もう一つは熊鰐や五十迹手たちが天皇家を長年支え続けた一族だという事です。

1.那の国の都は何処にあったのか?
  倭国の都は何処にあったのか?

考古学や歴史の先生たちの世界では不明になっているようですが、
仲哀天皇の時代に限って言えば、
古事記にも日本書紀にもこの香椎宮が皇居だったと明記してあります。

(日本書紀)
「仲哀2年9月に宮室(みや)を穴門に興(た)てて居(ま)します。
是を穴門の豊浦宮と謂う。
仲哀8年1月21日に儺県(なのあがた)に到り、橿日(かしひ)宮に居します。」

(古事記)
「帯中日子(たらしなかつひこ)天皇、穴門の豊浦宮、
また筑紫の訶志比宮にましまして、天の下治(し)らしめしき。」

古事記の方は「豊浦宮と香椎宮で天下を治められた。」と分かりやすいですね。
だから、この香椎宮は行宮や仮宮でなく皇居そのものです。
天下を治める皇居がある所を都と言います。

仲哀天皇の時代に限って言えば、
倭国の朝廷は豊浦朝廷であり、かつ香椎朝廷であって、
大和朝廷とは呼べないのだという事を確認しておきたいと思います。

というのも、各神社の案内板に「大和朝廷に屈服した筑紫の人々」という
ニュアンスの書き方をしてある物を幾つか見かけたからです。
最近書かれた案内板にその傾向が強かったので残念に思いました。

このような誤解が生じた原因の一つに
熊鰐五十迹手の掲げた三種の神器への解釈の勘違いが関わっています。

2.熊鰐の三種の神器は正装だった。

洞海湾の熊鰐三種の神器を掲げて船で仲哀天皇を豊浦宮に迎えに行った事について、
北九州に行ってみると、熊の一族は神武天皇の時代から支えた一族である事が分かりました。
(⇒一宮神社 ほか)

三種の神器を榊に掲げることは服従や恭順の意を示したものではなく、
正装して迎える形式だったという事が明らかになりました。
私も最初は恭順の意と勘違いして記事にしてしまっている所があるので、
少しずつ訂正して行きたいと思います。

伊都国の五十迹手(いとて)も熊鰐と同様な立場です。
この二人についてはこの先、神社の記事を通して書いていくので
もっと具体的に明らかにして行きたいと思います。

以上の二点ですが、これまでの通説的な読み方を改めることが、
古代日本の正しい理解のための基礎になるのではないかと思いました。
これが歴史を探究する人々の共通認識になる事を願っています。







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# by lunabura | 2009-10-22 21:55 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(0)

香椎宮(5)神木綾杉・死しても日本を守ると誓った皇后


香椎宮(5)

神木綾杉
死しても日本を守ると誓った皇后


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香椎宮に行くと必ずこの神木の前を通るようになっています。

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杉の一部は倒れながらも再び空を目指しています。「綾杉」と言います。立札を読んでみましょう。
神功皇后様が「とこしへに本朝を鎮め護るべし」と
祈りこめられてお植えになった杉で紀元860年(西暦200)のことであります。

ちはやふる 香椎の宮の あや杉は 神のみそきに たてる成けり
                      読み人知らず 新古今和歌集
秋立や 千早ぶる 世の杉ありて  夏目漱石

この「綾杉」については福岡県神社誌に詳しいので、それを訳して行きましょう。
神木綾杉
綾杉は本宮の神木で、神功皇后が三韓より帰られて、ここに三種の神器((御剣御鉾鐡御杖)を埋めて、その上に杉を植えて、「後世の人が杉のように真っ直ぐな心で君に仕えるならば私はその人を必ず守護する。後代までも我が霊をこの杉に留めて異国を降伏する。」と誓われた。

それからこの杉が繁茂していったが、その葉が他の杉とは違って海松(みる=海草)の房のように葉が交わって綾の紋のようになっているので綾杉という名がついた。

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左は綾杉の葉。右は海中の海松の房。ホントそっくりですね。
この綾杉の下には神功皇后が納めた三種の神器が埋められているそうです。
三種の神器が「剣・鉾・杖」というのは珍しい組み合わせです。

皇后は死後も神霊となってこの杉に留まり、真っ直ぐな心で君に仕える人とこの国を守ると誓いました。
「君」とはこの時代は天皇家の事でしょうね。

つづきを見ましょう。
また養老7年(723)2月6日と12月28日の御託宣で、
「私がこの杉に霊を留めて長く異国を降伏し、かつまっすぐな杉の木のように正直な人を守る。」とお告げがあり、そののち天平神護元年に初めて綾杉の葉朝廷に献上した。

これが恒例となって毎年朝廷に献上する事となった。太閤秀吉が朝鮮征伐の時、神官らがこの杉の葉を肥前名護屋に献上したので太閤は大変喜び、外国への旅立ちなのでと言って諸将に分けられたという。
この養老7年の託宣でも再び皇后の誓いが告げられました。
この神託の詳細を調べると、
「神功皇后を聖母大菩薩と呼び、笴襲(かしい)聖母大菩薩と唱えるように告知した。
(しょうも・しょうぼ)
朝廷の尊崇する神社は1伊勢・2香椎・3宇佐という順だった。
天皇の即位など国家の事が香椎宮に報告された。
三年に一度神殿を改築するようにと告げられた。
西海道巡察使太宰府・国府などの就任者は香椎宮に参詣してから任地につく。」

という内容で、当時の重要性がよく分かります。

香椎宮はもともと「香椎廟」(かしいびょう)と言われていました。
「廟」とは中国式の呼び方で「先祖の霊を祀る建物」を「廟」と言います。
11世紀の末頃には「廟」が「香椎宮」に変わっています。

秀吉の名前が出て来ました。ブログにはまだ書いていないのですが、
秀吉は九州を制圧する時、神功皇后の足跡と重なるところがあり、
神功皇后にあやかっているなと思われる事が所々に見受けられました。

その神功皇后が鎧の袖に杉の小枝を挿して渡海したと言われていたので、
秀吉も綾杉が届けられると喜んだことでしょう。
諸将にも分けたというのですから、お守りにしたのですね。

つづきを読みましょう。
また筑前国続風土記糟屋郡・若杉山の条に、
太祖権現イザナギ尊を祀っているが、神功皇后が三韓征伐の前にこの神にも祈って、御帰朝ののち、そのお礼に香椎の綾杉を分けてそこに植えたので「分杉(わけすぎ)」と名が付いた。後世なまって「若杉」という。」
と書いてある。
若杉山(標高681m)は東南約10キロの所にある篠栗町の神山で、
篠栗お四国霊場のお遍路の一つになっています。その頂上にあるのが太祖宮です。

「神功皇后は太祖宮の御神木の綾杉の小枝を自ら手折り、鎧の袖に挿してお守りとし、凱旋後、香椎宮の境内に三種の神器(剣・鉾・鎧)を埋めて、綾杉の小枝を植えた。」(篠栗町の昔話の一部抜粋)
と、順序が反対の伝承もあって、綾杉はどちらが先か分からなくなっています。
三種の神器も少しずつ内容が違いますね。(いかにも彼女らしい選び方ですが。)

いずれにしろ、この香椎宮と太祖宮の縁が深い事を示しています。
若杉山は古代祭祀線を引こうとすると必ず出て来るポイントで、山頂には巨大な盤座があります。

さて、つづき。
その後、延享元年、本宮に奉幣勅使として飛鳥井中将・藤原雅重朝臣が参向した時に、綾杉の葉を朝廷に献上する事が再興されて、明治元年まで124年間、綾杉の葉に「寶祚延長天下太平」を祈った不老水を添えて献上したが、その後再び廃絶した。

また太宰府に新任の人は本宮に参拝して、神主から綾杉の枝を冠に挿してもらうのが習わしだった。

江戸時代には綾杉の葉と札と不老水を朝廷に献上し、
もっと古い時代には太宰府へ新任の人の冠にその枝を挿したという優雅な話です。
これらは皇后の誓いを人々が長らく忘れなかった事を示しています。

前回にも書いたように、このブログは香椎宮から始まったのですが、
この二年間に世界はすっかり変わってしまいました。
自然大災害を体験し、日本近海諸島も穏やかでなくなりました。
平和な時代が終わろうとしているのでしょうか。

竹内宿禰は織幡神社で日本を守り、神功皇后は香椎宮で日本を守っています。
「死しても日本を守る」と誓った人たちがいます。
これからの平和は自分たちで守るという時代になりました。

戦いでなく、魂の進化の中で新しい平和を産み出す時代の到来です。


蛇足
私のペンネーム。皆さんが薄々感じるように、この神木から戴いたのですが、
このような誓いの神木とは知りませんでした。(なんだか畏れ多くなった…。)


地図 香椎宮と太祖宮







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# by lunabura | 2009-10-21 19:45 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(3)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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