ひもろぎ逍遥

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鎮懐石八幡宮(1)出産が遅れるように願いを託した二つの石


鎮懐石八幡宮(1)
ちんかいせきはちまんぐう
福岡県糸島市二丈深江子負ヶ原(こぶがはら)
出産が遅れるように願いを託した二つの石

福岡県の東部の海岸沿いの神社を廻ると、神功皇后の伝承ばかりでした。
こうなったら、西の方の伝承も確認しよう。
という事で、前から気になっていた鎮懐石八幡宮を目指してやって来ました。
地図にも載ってるし、と思って202号線をやって来ると、
JRの向こうに鳥居が見えました。
ああ、ここは何度も通り掛かりに見かけながらずっと気になってた神社だ。
とてもゆかしい参道…。ここにこれたなんて…。と感激。

JRの踏切を渡ろうとすると、車は通れない!!
歩いてしか行けないようになってるけど、駐車場もない。どうなってるの?
ナビを拡大すると、道がありそうなので、西の方に迂回してみると、
だんだん道幅は狭くなり、農作業中のビニールハウスに突っ込みそうな勢い。

しかも、先の方は行き止まりかも。へたしたら、溝に落ちてしまう。
もしかしたら、このくねくねの細い坂道をバックで帰る?(汗)
とうとう車を降りて、道を確認しに行くと、あったあった、
駐車場もあるし、目指す神社がありました。

(このブログを見て行きたいと思った方、このルートを通るのは
お勧めしません。(;一_一)JRの踏切を歩いて渡りましょう。)

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ここは海に近い高台にあります。さっきまでのどしゃぶりも止んで、
曇り空ですが、光を集めたように明るく開けた境内でした。
ああ、ここも桜がいっぱい。花芽を含んで、充実しきった冬の枝もいいですね。

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拝殿に出ました。参拝して、右を見ると神社の由来に関する資料が
沢山貼られていました。それに、持ち帰り用の資料が置いてありました。
ありがたい…。資料館に行かなくていい。お礼を投入してっと。
この神社は古代史を調べる人は必ず押さえに来るんだろうな…。
そう。だって、日本書紀に書いてあるもんね。

まずは、拝殿にある由緒書きを見てみましょう。

祭神 神功皇后(息長足日女命)
     応神天皇(八幡大神)
     武内宿禰

おお、見事な組み合わせです。ずっと、この三人は一緒です。
母と子と重臣です。黒男神社では、武内宿禰がすべてをかけて、
この母子を守ったのが思い出されます。
では、この神社の「鎮懐石」って何?

由緒 昔神功皇后は応神天皇を懐胎しながらこの地を通って、新羅へ向かって兵を出された時に、卵形の美石2個を求めて肌身に抱き、鎮懐として出産の延期を祈られたのであった。願は叶って、帰国後、宇美にて応神天皇を御安産されたのである。

そこで皇后がかの経尺の璧石をこの丘の上に、お手ずから拝納されてより、世の人は鎮懐石と称してその奇魂を崇拝するようになった。

そうか、ここはいよいよ新羅への出兵の場所だったのですね。
でも、あれっ?出兵は志賀島からじゃなかったっけ?
そうか、当時は朝鮮半島に行く湊と言えば志賀島と松浦と二つあって、
そのどちらにも、伝承があるんですね~。困ったですね。
まあ、それはそれとして、西の方にはどんな伝承があるのか、
楽しみに見て行きましょう。

さて、神功皇后は夫が亡くなる寸前に、神託で懐胎を告げられています。
それから三輪町では戦をして、新宮町では訓練を見て、
古賀市では船団を待って、久山町や福津市など色んな所で祈願をして
忙しく過ごします。そうこうしている内に、産み月が近づきました。
そんなお腹で、戦闘に出かける?戦争中に船の上で出産する?
しかし軍備は整って、流れは止められない。

そんな彼女を助けてくれたのが、この二つの石だったのです。
その石に願を掛けて懐に収めていたお蔭で、出産が延びました。
当然ながら、この件がいろんな本で問題にされています。
(さすがに、石を懐に入れただけで出産は延期出来ない)

神社史によると、神功皇后はこの湊に戻って来てから、
みずからその石を奉納しています。
なるほど。これは現地に行かないと分からなかった話ですね。

(つづく)
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獅子が睨む先には海が広がってます。


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# by lunabura | 2011-02-20 22:20 | 鎮懐石八幡・ちんかいせき・糸島 | Trackback | Comments(8)

鎮懐石八幡宮(2)石の大きさの謎をルナもやっぱり考えた


鎮懐石八幡宮(2)
石の大きさの謎
ついついルナも…

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それではこの神社に関わる日本書紀のシーンを読んでみましょう。

新羅へ出兵する時、ちょうど皇后は産む月にあたっていた。
皇后は石を取って腰に挟んで、祈って言った。
「戦が終わって戻って来た日に、ここで生まれたまえ。」
と。その石は今は伊都の県(あがた)の道のほとりにある。

とあるのが、まさしくこの鎮懐石八幡宮の場所です。
当時は道のほとりにあったと書いてあります。この部分だけでも、謎だらけです。
石のサイズです。腰に挟めるサイズですから、小さいはずです。
でも道のほとりにあるなら、認識出来る、ある程度の大きさがあるはずです。
古来、この石のサイズの矛盾の謎解きと妊娠期間の計算から
神功皇后にハマる人が出て来ているようです。

この石は今はどうなっているのでしょうか。
神社に置いてあった資料を読んで見ましょう。
鎮懐石物語 白く光り輝く二つの石 (糸島伝説集よりーその一部を)

新羅遠征も勝利の中に無事凱旋になると、めでたく胎中の天皇が御降誕になった。後の応神天皇である。皇后の御安堵と喜びは一方ではなかった。その後、皇后はこの神意志を祈願した地・子負ヶ原(こぶがはら)の丘上に納めて永く祀られたのである。

その後この宮の前を行き来する者は下馬したり、ひざまづいて拝んだと万葉集にも書き残されているが、その頃からこの神石を皇子産石(みこうみ)とも鎮懐石とも呼ぶようになった。

帰国してから、無事に出産したんですね。そして、例の石をこの丘の上に納めたんだ。
万葉集にはこの宮の前を行き来する人が参拝している様子が書いてあります。
なんと、この万葉歌人って、山上憶良ですって!
筑前の守として、ここまでやって来たんですね。
彼の詞書きによると、この時の石は大小二つあって、サイズは
大が長さ1尺2寸6分(約40㌢)、周囲1尺8寸6分(約60㌢)
小さい方は長さ一尺一寸(約36㌢)、周囲1尺8寸(約60㌢)
(一尺を33センチで計算してみました。)
う~。大きい。どうなってるの?話が伝わる内に、
こんなに大きな石を袖の中に挟みつけたという事になってる。
無理ですね…。ま、つづきを読みましょう。
この石は寛文年間(1661年)まで残っていたが、いつの間にか盗難にあってしまった。ところが、天和3年(1683年)の夏、六郎という里人が卵形の珍しい美麗な一個の石を拾って家に持ち帰っていると、ある日、一羽の鳩が飛び込んで来て、床の間に据えていたその石に止まったので不思議に思い、ある博識の古老に話した。

するとこれは子負ヶ原から失せていた鎮懐石の一つに違いないと教えられたので、六郎も近隣の人々も、瑞鳥が飛んで来て止まったのも道理だ、もったいないことだと、子負ヶ原丘上に納めたのであった。そして、貞享2年(1684年)に社殿を新築して、これを御神体にしたという。

現在、疑問を感じるのはこの石の大きさである。今の石は横7寸(約23センチ)高さ6寸(約20センチ)径5寸(約16センチ)と言。
われているが、古書では皆、長さ1尺2寸6分(約40センチ)、まわり1尺8寸6分(約60センチ)と記されていることである
貝原益軒は如何に長い年月を経たとて、大きな石が小さくなる事もあるまいが、神仏のことは常識を以て論じ難いと評論を避けている。

それにしても、このように大きな石を御腰に挿まれたとか、御裳の中にいれられたということは誰もが不審に思うであろうが、これも皇后に神力があったと考える外はない。

なるほどですねえ。
これはまた大変大きな石が盗まれたんですね。持ち上げればぎっくり腰間違いなし
ですが、後から奉納された小さな方でも、ラグビーボールぐらいの大きさ?
これを二つねえ…。妊婦が腰に挟んだ…。貝原益軒が評論を避けるのも無理ないな。

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これは、境内にあった白い石です。無造作に置いてるので、
何だろうと思って取り敢えず撮影したのですが、
古書にある大きい石がこのくらいの大きさみたいですね。
う~ん。ますますミステリー。続きをもう少し読んでみましょう。
なお、社前に御船をつながれたという「とも綱石」が
玉垣を巡らして残されているのも、珍しい。



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 境内にこんな石があって、これもまた何だろうと思って撮影しました。
 ほかには「とも綱石」らしきものには気づかなかったです。
この神社そのものが移動しているので、よく分からないです。
(地元の方で、これが何か分かる方、教えてください。)

さて、この「玉垣を巡らす」という言葉で思いだしたのが、
このような丸い石は堤防を作るのに一番いい素材だという事です。
古代には、せっせと海の底に潜っては積み上げて護岸した人たちがいました。
そんな作業中に海の底で白くて綺麗な丸石を見つけると、
神社にでも奉納したくなりますよね。
この浜にいた海人族たちも白い卵型の石を見つけると、神功皇后の伝承を思い出し、
ゆかりの神社に奉納したのではないかなと想像しました。
ここから近い唐津市の鏡山にも、白い丸石が沢山奉納されていました。
そこにも神功皇后伝説があります。

この石のサイズの問題について、ルナはこう想像しました。

「昔の神女は純白な玉石を紅袴の腰紐の中に入れていた。」そうです。
神功皇后も豊浦宮で綺麗な石を見つけて大事に拾ったりしています。
この糸島でも彼女が見つけた石は小さいものだったんではないでしょうか。
そして、出産が遅れる祈願の神事を大々的にしました。
もちろん、兵士たちへのパフォーマンスもこめてです。
彼女はその白い小石をみんなが見守る中で身につけた。

この出来事は人々に強烈な印象として残り、伝えられる内に石は巨大化していった。
それからは白い卵型の石が見つかると、人々は神社に奉納するようになった。
その内で特に大きな二つの石が道端に置かれて、道祖神のように崇敬の対象になった。
それを山上憶良が見聞して記録したのが、そのまま鎮懐石と呼ばれるようになった。
盗まれた最初の石は、きっと懐に入れられるほどの小さな石だったと思われます。

白い石は、次回紹介する唐津市の鏡山にも沢山たくさん奉納されていました。
この糸島から唐津にかけての海人族たちは白い石を見つけると、
「神様に奉納しよう。」という、ならわしがあったのかも知れません。
白い石については、もっと沢山の伝承を見通してみたいと思いました。

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境内からは海が見渡せます。左の方は今から行く唐津方面の海が見えています。

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神社はこの森の向こうにあります。
写真の左が海です。右には大きな道路が出来ています。

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昔の写真も資料にありました。
鎮懐石神社はかつては石垣を巡らした岡の上にあったそうです。
昭和11年(1936年)に現在地に遷りました。
風情がありますね。

地図 鎮懐石神社




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# by lunabura | 2011-02-19 13:35 | 鎮懐石八幡・ちんかいせき・糸島 | Trackback | Comments(10)

鹿家 こんな日でも波乗りする?


鹿家
しかか
こんな日でも波乗りする?


また来てしもうた。
この日の天気予報は雨のち雪。しかし長崎方面は曇りと雨。
もしかしたら雪になる前に帰れるかもしれないと、期待をして長崎方面へ。
だんだん雲が明るくなって来た。前回紹介したルートでやっぱり海岸線を走る。
今日の海は小さな三角波が沸騰したように沸き立ち、小刻みにぶつかりあって、
こりゃあ、荒れ模様。まさかサーフィンしてる人、いないよね。

そして、またまた鹿家の二丈パーキングエリアに来てしまいました。
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ここは鳴き砂の浜というではないですか。
それならと強風の中、浜辺に下りてみました。風は強いが、思ったより冷たくない。
でも写真のように砂は濡れていたので、鳴くはずもない。

サーファーが渚に座り込んでいました。
仲間に「今日は心が折れた。」と言っています。今日は命懸け。
波は立ってはすぐに崩れ落ちるから、乗れそうな波も2~3秒で消えている。

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それなら冬の荒波を撮ってみようと水際で撮ってみると大した波が撮れない。
それならこっちは。

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と、振って見たけど、やはり体感ほどの波は撮れない。
へぼカメラマンは、あきらめが早い。戻るとするか。

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あっ、こんな日でも、波を捉えたヤツがいた。すごいヤツだよ。
次の瞬間、さかさまになった彼の足だけが宙に見えた。

曇り空の冬の海なんて、暗くて載せてもねと思ったけど、
この海の透明感はやっぱり魅力的。

最近は古墳ばかり出していていたので、ここらへんで厄落とし。
訪問して下さってる方々に、きれいな海をプレゼントしよう。

鹿家の意味?  「シカ」は「=スカ=砂の処」、「カ」は「崖」
まさにここは崖と砂浜だけがある所です。古代の地名みたいですね。

鹿家 福岡県糸島市二丈鹿家 鹿家海水浴場




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# by lunabura | 2011-02-18 10:52 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(2)

新宮町の神功皇后伝説


新宮町の神功皇后伝説
福岡県粕屋郡新宮町

人丸古墳で紹介しきれなかったのですが、この新宮町には
旧石器から縄文や弥生、古墳時代の遺跡が沢山ありました。
海のすぐ近くなので砂鉄を採って鉄器を生産し、土器や石製品も製造していました。
弥生時代にはダムを作って、灌漑をしていました。

古墳時代になると武人たちを埋葬する時には、鏡や勾玉、金の耳環などとともに、
馬具や実用的な鉄の刀や剣を持たせました。
かれらの武器が青銅器でなく、鉄の真剣だった事から、また海のすぐ近くで、
港があることから、ここは軍事的に重要な所で、
船や馬に乗って戦う兵士たちがいた所ではないかと思いました。

倭国から百済や伽耶に行くのに、ここは一番便利な所で、
筑紫の兵士たちを調達出来る所なのです。

子供向けの町誌があり、その軍事的な背景が想像できる伝承が載っていました。
少し改変して紹介します。
「地名に残る神功皇后の足跡
的野(まとの)・夜臼(ゆうす)・上府(かみのふ)・下府(しものふ)

4世紀後半、南九州の熊襲が反抗しました。このため仲哀天皇とその皇后の神功皇后が九州に来られて、橿日(かしひ)の宮(現在の福岡市香椎)を拠点に平定に乗り出されました。

また神功皇后は仲哀天皇が橿日の宮で急死された後も、ここを基地に三韓(朝鮮半島)に出兵したと言われています。この時、二人はわたしたちの町にもたびたび足を延ばされたそうで、二人にまつわる地名が数多く残っています。

まず行政区名となっている的野(まとの)です。的野の「的」は弓矢の標的であり、「野」は野原のことで、ここで兵士が弓矢の訓練をしたので的野とつけられたと言われています。

同区の古賀市との境にある、永浦から古森にかけての高台に、馬挿場(うまさしば)と呼ばれている所があります。神功皇后の兵士がここで馬術の訓練や弓のけいこをした所と伝えられています。この一帯は戦に備えての、一大訓練の場だったと想像されます。

行政区の名前にもなっている夜臼(ゆうす)の起源もこの時のことです。二人がここに陣を構えた時、ここのひとたちは軍用米を差し出すため、夜通し米をつきました。天皇があちらこちらから聞こえてくる「コットン、コットン」という音をたまたま耳にされ、そばの者に「あれはなんの音だ」とたずねられました。

そばの者は「あれは私たちのために徹夜で米をついている音です。」と答えました。それからこの地区を「夜まで臼をつく」という意味で「ようす」と呼ぶようになりました。そして、月日がたつうちに「ゆうす」になまったといわれています。

また鉾田(ほこた)は、二人が野外で陣営を張られた所だそうです。臨時の陣営なので、より厳重な警備が必要だったのでしょう。矛や槍を持った兵士が、二重三重に陣営を取り囲んでいたということから、鉾田とよばれるようになったといわれています。

上府の神木(じんぎ)という所は熊襲平定の作戦会議、つまり神議(神様の会議)がたびたび開かれた所といわれています。この神議がいつの間にか神木になったのでしょう。

福岡市との境に近い下府に、飛山(とびやま)という小高い所があります。ある日、天皇が夜臼の東の山に登られ、四方の景色を眺めておられた時のことです。西の方にぼつんと立った小高い山が目にとまりました。天皇がこの山だけが他の山とかけ離れているので、「飛山だ」と言われ、以来それがこの山の名になったそうです。
う~ん。最後の飛山だけが、どこの話が分かりますね。
人丸神社と古墳があった所です。

(このあと、自分のブログを確認すると、なんと皇石神社(3)にも
全く同じ文を掲載してるのに気づいた…(;一_一)
忘れていたとは、ちとヤバイ。
同じ話ではないかと気づいた人も多いだろう…。
でも、この話の内容が昨年よりもかなり理解出来るようになったのだ…。
当時は屯倉の中に黄金を想像したが、今では武器庫だったのがよく分かる…。
私の中身は成長した。せっかく打ち込んだんだから、このまま出そう…。)

これを読むと、三韓征伐という言葉は知っていても、海を越えた戦いのために
どれだけの準備をしていたのか、何も想像出来ていなかった事に気づきました。

当然ながら、兵士たちは訓練をしなくてはなりません。
武器も沢山要ります。馬の訓練も必要だし。
新造船の訓練も必要です。船は48隻。宇佐で作らせました。

天皇と皇后も自ら夜臼での野営訓練に立ち会いました。
夜臼は弥生の環濠があり、登り窯などもあって、大変栄えていました。
米も豊富で兵糧があったので、ここを野営の陣にするのも納得です。
香椎宮もすぐ近くです。簡単に行き来できますね。
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日本書紀にこんな一行がありましたよ。
仲哀9年秋9月10日に諸国に命じて、船舶を集めて兵士たちを訓練する。

これは、仲哀天皇が亡くなったあと、
神功皇后が軍の指揮をする事になった時の話です。
夫について来ただけなのに、戦いを指揮しなくてはならなくなった女性。
自分がそうだったら、とても悩むだろう。
しかし、彼女は軍の指揮を取る決意をした…。

天皇が亡くなっても隠し続けて、軍勢を訓練した場所は新宮町なんですね~。
たった一行ですが、具体的な場所が分かったので、がぜん面白くなりました。
日本の歴史研究の人たちは、きっと誰も知らないんだろうな…。


平行して日本書紀の神功皇后を訳し始めています。
リアルタイムでどうぞ。


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# by lunabura | 2011-02-16 18:51 | <神功皇后伝承を追って> | Trackback | Comments(2)

人丸古墳(1)王家の墓と呼ばれていた古墳は男女を上下さかさまに合葬していた?


人丸古墳(1)
ひとまるこふん
福岡県粕屋郡新宮町下府
王家の墓と呼ばれていた古墳は
男女を上下さかさまに合葬していた?


人丸神社のすぐそばに人丸古墳はあります。
町誌を見ると、王家の墓とも呼ばれていたとか。
しかも、男女が重なって埋葬されていたらしい。
これは、是非見てみたい。そう思って町立歴史資料館に行きました。
しかし、尋ねてみると開発の為に古墳は完全消滅していて、
跡を示す看板もないとか…。未盗掘で、江戸時代の本にも載ってる古墳なのに…。

そうか、それならブログ上で少しでも、古墳の再現をしてみよう。
と言う事で、今日は新宮町誌と町立歴史資料館の写真を使ってトライします。
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まずは発掘時の写真から。中央の木の間にトレンチが入った円墳が見えます。
ここは立花山から延びた低い丘陵地で標高18m。
「筑前国続風土記」には「人丸墓―下府村の大道筋、日の下という所に
小高き大塚がある。村人は景清の娘・人丸の墓という」とあり、やはり、
当時にはすでに神社と古墳とゴッチャになっているようです。
しかし、地元では「王家の墓」と呼んでいた場所なので、
身分の高い人が葬られた記憶が伝わっていました。発掘は昭和63年(1988)です。
写真からは下の方からも古墳がよく見えていたのが分かります。

c0222861_1642450.jpg測量図です。墳丘の高さは0.8m程度ですから、ずいぶん低い印象です。大きさは約20m。
周囲に幅約70センチ、深さ3センチ、長さ5mほどの溝が残っていました。
蓋石は4枚あり、石棺全体を薄く粘土で覆っていました。その蓋石のすぐ上には半球形の穴のある滑石製の石が一個置かれていたそうです。


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石棺です。組み合わせ式の箱式石棺で、長さ2.1m、幅0.6m、高さ0.35mの細長い長方形です。下には小石が敷き詰められてます。左の方には鉄剣が見えてます!人骨は消滅していました。

石棺について考えた
石棺の長さ が2.1mというのは、ぎりぎりの寸法ですよね。だって敷布団の長さが2mなんです。
石棺のについても、敷布団の幅は1mなので、石棺が60センチの幅しかないとすると、かなり狭くない?
そこで横にいる人のサイズを測ってみたら、腕の所は60センチを少し超えていた。
石棺の高さ が35センチというのも気になって、鼻から後頭部まで測ると25センチはあるし、胸の厚みも30センチはあったので、ぎりぎりの高さ。
この古墳は小柄な男性が寝ていて、肩は側面にきっちりとくっつき、頭と足元に少しゆとりがある程度だと分かりました。
蓋の上に石が置かれていたのは、「鎮石(しずめいしーおもし)だろうか」と、書いてあったのですが、ルナは今では、石に魂を留めている可能性がないかなとも思うようになりました。(出雲の赤い玉石は織幡神社でUPしましたよね…。)

この古墳には表面に鉄斧が二つも置かれていたそうです。(平原遺跡でも、周囲の溝あたりにいろんな鉄製品が奉納されていました。また、木棺には刀が横向きに置かれていました。)
未盗掘だと、こんな風習まで残っていて、参考になります。ただ、ここの鉄斧は発掘調査中に盗まれたそうです。

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埋葬されたのは男女?
出土状況の図です。先ほども書いたように、人骨は出ていないので推理するしかありません。
石棺の寸法からは男性が一人埋葬されていても、ぎりぎりの大きさだと分かりましたが、ここにはさらに女性が埋葬されていた可能性があるというのです。その理由を考えて行きましょう。

まず注目されるのは鉄刀と鉄剣です。合わせて4本も置いてあるのですが、二本ずつ、上下を向いて埋納されています。
しかも、も上下にあります。頭が上と下にある証拠です。
このことから、上下さかさまに二人が埋葬されていた可能性が出て来たのです。

次に性別を見て行くと、上の人には臼玉琴柱(ことじ)の形の石飾り があり、肩口にはがあります。手元には刀子を持たせています。女性だと思われます。

それに比べて下の方を見てみると、鉄の矢じり が耳元に沢山置いてあって、もあります。男性ですね。弓の名手だったのでしょうか。

これらから男女がさかさまに重ねられて埋葬されていると推定されるのです。埋葬の時期が同時か、ずれていたのか気になる所です。

ここからは空想ですが、
石棺の高さが35センチしかないことから、男性が先に死んで、
埋葬の準備が整った頃に、にわかに女性も死んでしまったので、
一緒に永遠に過ごせるように埋葬しようとしたが、スペースがなくて、
女性をさかさまに埋葬したんじゃないかな…。と思いました。
どんな事情で亡くなったんでしょうか。それはあんまり考えたくないですネ。

(つづく)



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# by lunabura | 2011-02-14 17:00 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

人丸古墳(2)鉄刀を持つ女王?副葬品 琴柱型石製品と鉄刀ほか


人丸古墳(2)

 鉄刀を持つ女王?
副葬品 琴柱型石製品と鉄刀ほか


それでは、出土した副葬品を見に新宮町立歴史資料館に行きましょう。
資料館はシーオーレ新宮の4階にあります。

琴柱型石製品
この古墳の出土品の特徴は、琴柱(ことじ)型の石の製品が2個出土したことです。
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これがその現物です。なるほど、琴の弦を支える琴柱に似ています。高さ2.5センチ。
大変精巧な作りです。石をここまで成形するのはかなりの伝統があると思われます。
この琴柱型石は全国で出ていて、8タイプに分類されています。

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パネルからまとめると、一部に6世紀代のものもありますが、4~5世紀にかけて
盛んに作られた石製品です。全国的には40遺跡以上120例以上が見つかっています。
特に関西地方が多く、九州地方からは8遺跡15例しか見つかっていません。
粕屋地区(この古墳を含む)からは6例で、いずれも恵解山型(えげのやま)です。

イラストを見ると中央に穴があって、竹ヒゴ等を挿せるようになっています。
2.5センチなら、髪に挿しても大丈夫です。そんな復元図をどこかで見た記憶があります。

クシ
クシも出土しているのですが、この資料館にあったかな…。記憶がありません。
他での資料を見ると福津市の福間割畑遺跡でも出ています。竹製です。
古墳時代は竹ヒゴを束ねてカーブさせて、仕上げに漆を塗っています。
髪をとくためでなく、飾りに使ったそうです。
この人丸古墳では女性は4つ、男性は1つが残っていました。
これらから分かるのは男女とも小さなクシを挿す事です。
特に女性はクシと琴柱型の髪飾りをいくつも付けているので、結い上げているんだろうなと思いました。

銅鏡
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出土状況です。女性の左肩付近に置かれていました。

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腐食が激しく「四獣鏡?」と表示されています。直径10.8センチです。
(紐を通すつまみ)にはが残っていて、繊維や木の部分が付着していたので、
布に包んで木箱に入れて副葬されたようです。

臼玉
臼玉とは滑石で作られた小玉です。

鉄鏃
男性の耳元にたくさんの鉄のヤジリが置かれていました。
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さて、もう一つ大事なものが鉄刀と鉄剣です。
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この4本の展示の中の手前から2本目が人丸古墳で出土した鉄刀です。
これらの鉄の武器を見た時、大変実用的なのが印象的でした。
他にない迫力なのです。
明らかに戦いに備えた生き方の人たちだったのが分かります。
しかも、この鉄刀は女性の腕に置かれていました。

この女性は琴柱型石製品や銅鏡から、巫女か女王と考えられています。
ネックレスは石のビーズですから、意外と質素です。
ところが両手に鉄剣と鉄刀、小刀を持たせていますから、
戦いの象徴の雰囲気も伝わって来ます。
刀を持った女王。
いったいどんな時代に生きた人たちなのでしょうか。

時代背景を調べました
この古墳は5世紀初頭のものだそうです。西暦400年代なのですね。
すると日本書紀から時代を伺うことができます。
この時代は雄略天皇(ワカタケル王)の時代らしいのですが、479年
この筑紫と関わりのある記事が出ています。

雄略23年(479)の夏4月に、百済文斤王(もんこんおう)が亡くなった。天皇昆支王(こんきおう)の5人の子供の中で、第二子の末多王(またおう)が年少でも聡明だったので、勅命を出して内裏に呼んだ。天皇みずから頭をなでて、親しみを込めて、王に任命した。そうして、武器を与え、筑紫の軍士500人を遣わして、百済に護衛しながら送らせた。この王は東城王(とうせいおう)と言う。
この年、百済の朝貢はいつもより沢山あった。筑紫の安致臣(あちおみ)・馬飼臣らは船と軍勢を率いて高句麗を攻撃した。

百済は王族の人質をつねに倭国に預けていて、百済王の任命権は倭国にあります。
しかも、護送するのは筑紫の兵です。このようなシーンは他にも出て来ます。
高句麗とは対戦中です。玄界灘を渡るには、この筑紫の兵と舟なしにはあり得ません。
この新宮町の丘陵地帯はその兵と武器と船で常に武装していた地域で、
この500人の護衛隊もこの新宮町から出した可能性が出て来ました。
人丸古墳の被葬者たちも、その軍隊を司る立場にいたのかも知れませんね。

ここは、有名な夜臼(ゆうす)遺跡がある所でもあります。
教科書に夜臼土器が出て来ますよね。
弥生時代から、環濠を持ち、竪穴住居、登り窯、石製品や鉄の工房がある、
ちょうど吉野ヶ里のような遺跡が集中していた所なのです。
あいにく、すべて消滅しています。わずか地名にその名残を留めるだけです。

しかし、伝承がまだ伝わっていました。次回はそれを見てみたいと思います。

地図 人丸古墳 シーオーレ新宮 夜臼


※日本書紀の神功皇后を訳し始めました。
読んでみると、記述と福岡の伝承がかなりマッチするのです。
どうなってるの?見てみたい。けど、長いぞ~。



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# by lunabura | 2011-02-13 17:53 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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