ひもろぎ逍遥

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伊都国歴史博物館(1)平原遺跡・原田大六展・割られた鏡と首元の剣


伊都国歴史博物館(1)平原遺跡
福岡県糸島市井原916
原田大六展に行って来ました
割られた鏡と首元の剣


平原遺跡の記事で紹介した、この遺跡を発掘して守り抜いた
原田大六(だいろく)氏の特別展があったので行ってきました。

彼の代名詞は「博多のゲッテン(へそまがり)NO1」
そして「ケンカ大六
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このチケットの写真を見れば、妥協を知らない仕事ぶりが伺えますネ。

原田氏の少年時代のノートがありました。
歴史の事を詳細に調べてまとめていて、丁寧に記録し、
参考になる絵を切り抜いて貼りつけたり、自分で描いたりしていました。
歴史の全体を見ながら、詳細な部分も見ている。
しかも絵がうまい。
そんな天賦の才能を早くも見せていました。

のちに原田氏は沖ノ島の発掘調査にも参加しますが、
その報告書の図は手書き。毛筆で描かれています。
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これがその毛筆書きです。
そこでの原田氏の調査手法は、後の考古学調査の礎になりました。

その原田氏が平原の壊されかけた遺跡に出会いました。
そのようすが自著に書いてあるので、
今回はそれを抜き書きしながら、進みましょう。
驚嘆に値する遺物を出土した有田平原方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)も、また偶然発見であったが、一部は学術調査によって知られた。

昭和40年1月末、通称をツカバタケといっている場所に、蜜柑の植樹をしようと、井手信英氏が耕運機で開削中に、地下50センチのところから鉄刀を掘り出した。

通知を受けた原田(筆者)は急いで現地に行ったが、無残に遺跡は破壊され、いかなる遺構であるかさえ皆目わからなくなっていた。

私は団長となり、遺跡を復元して行くという発掘調査で、やっとそれが方形の溝で囲まれている墳墓であることを知り得た。全国的にはこうした遺構は早く知られていたのであるが、墓地と認定されたのは、この平原遺跡以降のことである。
(『日本古墳文化―奴国王の環境』原田大六著)
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これがその方形周溝墓 (現地看板より)
中央部に見える四角が墓穴で、周りに溝が掘られている墓。
墓穴中の黒い長方形が木棺があった所。
周溝の中央に作られた方形土壙の、そのまた中央に据えられていた割竹形木棺にはが塗られた痕を残し、内部には、ガラス製のマガ玉、クダ玉、琥珀製の丸玉、中国産の赤メノウ製のクダ玉小玉などが副葬してあった。

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(観光案内パンフレットより転写)
これが赤メノウ製の管玉。中国産だと分かっています。
これでブレスレットを造ると、大きすぎるので、ネックレスの方に使われたようです。
水色の勾玉は同じものが三つありました。
ひもを固定するために溝が掘られているのもくっきりと見えます。
棺外の西側小口に接しては、鉄刀一本、方形土壙の四隅には、ほとんど破砕した銅鏡が42面分雑然と埋めてあった。その鏡に含まれていた四面の巨大仿製鏡は、この遺跡をして全国に名をとどろかせた。

(この鏡の数は後の研究で訂正されています。)
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左が原田氏が復元した鏡の表で46,5センチ。
右が裏側。
(今回は国宝ばかりのためにブログに写真は出せません。
そこで、原田氏の本の表紙を掲載します。)
左の鏡の表面を見るとひび割れ程度にしか見えませんが、
裏側の写真を見ると、その破砕ぶりのすごさが伺えます。
よくみると、型から抜いた後の、ガタガタした表面が残っているので、
この鏡は磨かれていなかったんではと思うのですが。
ちなみに、鏡を磨くのには水銀朱や丹(ベンガラ)を使うのだそうです。
(磨き方は不明)
この裏側の青銅の色を見て下さい。艶やかな黒青色をしています。
他の鏡もこのように黒光りしていました。
普通みかける緑青を吹いた色とは違うので、確認すると、
薬品で洗った訳ではなく、出土したままの色だそうです。
鏡は出来たばかりの時には白金色に白く輝いています。

この鏡の復元品の重さは8(または10)キログラムほど。
一回り小さな鏡も結構重くて、片手ですっとは持てませんでした。
それらを破壊するには、かなりの道具と力が必要です。
これを外で割ったのか、現場で割ったのかは、確定していないそうです。

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(博物館リーフレットより)

これがその復元です。見事にその状態が再現されています。

水銀朱
中央が丸くくぼんでいて、丸木の木棺があった事が分かります。
その木が消滅したために、朱が土の方に残っています。
水銀朱で猛毒です。防腐効果があると言われています。
(が、今だに目的は謎です。)
日本の各地の古墳に水銀朱が出ています。
最初に確認されたのは小さな子供用の甕棺の内側に付着していた朱。
これを原田氏が鑑定に出して、この重要性が分かって来ました。

頭の方に実物大の鏡が置いてあります。
わざと割られていない状態で置いてあります。
足もとの割られた状態がそのままの復元です。
その破壊ぶりはやはり、なんだったんだろうと考えさせられます。

鉄剣
さて、原田氏の文に、さらりと書かれていた
棺外の西側小口に接しては、鉄刀一本」を見て仰天しました。

写真では大変分かりにくいのですが、
木棺の4分の一の所に黒い棒が見えます。これが鉄の刀です。
80センチあります。この場所を見て仰天したのです。
まさに首元です。その下にはネックレスが見えています。
棺の上の土の所にあるので、木棺の蓋の上に置かれたと思われます。

これまで、いくつか埋葬された鉄刀をみたのですが、どれも、
死者への敬愛をこめて、手元に身体に添うように置かれているものばかりでした。
それなのに、ここでは首元に。
まるで起きあがったら、死者を再び殺すとばかりに。
何かの間違いだ。耕運機で動かしたんだから、と思いたいのですが、
原田氏の仕事ぶりからは、厳密を極めたと思うのです。
これまでは、割られた鏡ばかりが注目されていますが、
この剣はかなり、重要な意味合いを見せています。

だからといって、被葬者個人に向けられた怨念という訳にも行かないのです。
それは、他で発見される鏡の多くも、このように割られているからです。
完品の方が少ないのです。
でも、鉄刀はね…首元なんてね、いくらなんでも、と思ったのですが、
水銀朱の壺を探している内に、とんでもないものをまた見てしまいました。
(つづく)



伊都国歴史博物館公式HP
http://www.city.itoshima.lg.jp/soshiki/33/hakubutsukan.html




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# by lunabura | 2010-11-15 12:59 | 平原遺跡と伊都国歴史博物館 | Trackback | Comments(7)

三雲南小路遺跡・剣は上向き、朱を入れた壺は逆さまに置かれていた・伊都国歴史博物館(2) 


伊都国歴史博物館(2) 
三雲南小路遺跡

みくもみなみしょうじいせき
剣は上向き、朱を入れた壺は逆さまに置かれていた

博物館に来た目的の一つに、水銀朱の入った壺探しがありました。
伊都国の国王の古墳から、水銀朱を入れた壺が発見されています。
その壺は土器だったか、またどこにあったか、現地なら分かるかなと思ったのです。

水銀朱は有毒で、一定の金属と化合しやすいので、
保存容器は何でもOKという訳ではないそうです。
そこで、伊都国で発見された水銀朱は何に入っていたかを確認するのが目的の一つでした。
たしか、土器の壺だったように記憶してるけど…。

この歴史博物館には、ボランティアの人がいて、質問が出来るようになっています。
さっそく、尋ねました。
「三雲遺跡には、たしか国王の墓にに水銀朱の壺があったはずですが。」
江戸時代に、地元の人が土壁の材料を取る為に畑の土を掘ったら、
が出て来て、さらに下の方から朱が入った壺が出たそうです。
それからさらに下から甕棺が出て来ました。」
という事でした。出土品は一部しか伝わっていないそうです。
そして、教えてくれたのが、
「水銀朱を入れた壺は古代朝鮮支石墓の下に埋納されていた。
その影響が見られ、朝鮮ではブームが去った後、形を変えて日本に残った。」
という事でした。

伽耶とか、新羅とかいう時代よりずっと前だそうです。
だから、水銀朱を倭人は何故好んだかという問題については
古代朝鮮をも視野に入れて、見て行く必要が出て来ました。

そこで案内してもらったのが、三雲遺跡のレプリカ。
ボランティアの人たちが作った復元ミニチュアで、教えて貰わなかったら見過ごした事でしょう。
そこで驚いたのは、剣が突き刺さるように土中にあった事です。
(これが前回書いたとんでもないものの正体です…。)

伊都国ではいったい剣にどういう意味を込めて埋納するのか。
平原遺跡の鉄剣との共通点はあるのだろうか。
切っ先の向きを確認しなかったな、と思いながら帰宅して、
原田氏の本を開くと、あった、あった。
銅剣の先は地上に向けて埋納されていたのが分かりました。

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これは、そのイメージ図です。(ホントにイメージなので、あしからず。)
追記
剣先ではなく刃先の解釈違いではないかと考えるようになりました。
銅剣の埋納は横に寝かせて刃を立てるのが基本だそうです。
もう少し勉強します。 2013年1月

では、該当の部分を抜粋しましょう。
文政五年(1822年)2月2日の出来事であった。怡土郡(いと)三雲(みくも)村の農長をしていた清四郎が、土塀を築くために屋敷から南に当たる字南小路という畑の土を取ろうと思い、偶然に掘ったことが大変なことになった。

地下90センチばかりの所から、切っ先を上にして埋めてある銅剣一本を掘り出し、又その横から銅戈(どうか)一本が出土した。その下を見ると素焼きの小壺が1個あって、さかさまに伏せられ中にはがいっぱいつまっていた。

勢いを得て、なおその下を掘ると、これも素焼の大ガメが2個あって、口と口を合せて横に寝せてあった。掘っていた者達は、その中に骸骨でも入っているのではないかとおじけづき、その日は大ガメは掘り起こさないで、その上から出土した物だけを持って、怡土の郡庁にとどけた。

郡庁は命令して、その下の大ガメを掘り出させた。その中は出るも出たり、古鏡が大小とりまぜて35面、銅鉾(ほこ)が2本、勾玉、管玉にガラスで出来た璧(へき)というもの等があった。これら多数の貴重な遺物を出土した墓が甕棺であったことは申すに及ばない。

このことは黒田藩に青柳種信という学者がいて、『柳園古器略考』という著書に記している。(『日本古墳文化―奴国王の環境―』 原田大六)

江戸時代の青柳種信氏のお蔭で、こうして出土状況が残りました。
そのお蔭で、探していた水銀朱の入れ物が素焼きの壺だったのが分かりました。
逆さまに置いてあったんですって!
また謎が増えた…。
銅剣の切っ先が上を向いていたのは、何となく、墓を守るイメージがあって、
なじみますが…。一緒に、銅戈があったとすると、
皇石神社支石墓の副葬品と同じ組み合わせですね!
(その写真は皇石神社古賀歴史資料館に載せています。)

この三雲南小路遺跡は弥生時代で、紀元前一世紀のもの!
卑弥呼平原遺跡より200年以上も前ですよ。
その後、昭和50年にはすぐ近くに王妃らしき甕棺を発見しています。
またいつか詳しく調べたいですね。
(この辺りに出た、1万個のビーズの話は三雲・井原遺跡に書いてます。)

取り敢えず、今回の目的、水銀朱の入れ物探しは素焼の土器という事で、一件落着しました。

ここでは、三雲南小路遺跡と、皇石神社の古墳の組み合わせ(銅剣と銅戈)が
同じだったのが予想外の収穫でした。
博多湾を中心とすると、東と西に同じタイプの埋葬があったという事です。
また、面白くなりますね。

さて、もう一つの謎を探そうっと。巨大柱の跡。分かるかな…。

(つづく)

地図 伊都国歴史博物館 三雲南小路遺跡 平原遺跡

★これは便利!
史跡巡りの前に、博物館に行くと、「伊都国散策マップ」が貰えますよ。




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# by lunabura | 2010-11-14 21:44 | 平原遺跡と伊都国歴史博物館 | Trackback | Comments(2)

平原遺跡(3)巨大柱の跡と鳥居跡を再現してみました・当時、邪馬台国の支配下にあった


平原遺跡(3)
ひらばるいせき
糸島市
巨大柱の跡と鳥居跡を再現してみました
当時、邪馬台国の支配下にあった

平原遺跡の調査報告書が、2000年に出ています。
今日は墓の周りに建てられていた物について、考えてみます。

大柱
墓穴の東端から14.8mの位置に大柱を立てた穴がある。
その立て方は長野県諏訪大社の御柱と同じようになっている。
規模は「二の柱」程度で、直径65センチ、長さ15m前後で、
地上には13mの高さにそびえる。大柱は他に2本あった。

三つの鳥居
直径10㎝の柱が立てられる二つの穴が約2mほど離れて掘られていて、
それが三組ある。鳥居状のものが建てられたと考えられる。
砥石や鉄の矢じりが供えられていた。

墓の周りにモガリの宮は建てられていない
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前回出した写真ですが、周囲の土の層を見て下さい。穴がいくつもあります。
不規則ですね。
これを、原田大六氏はモガリの宮を建てたのではないかと推測されたのですが、
調査によると、穴の大きさが柱を立てるには、小さすぎるという事です。
もし、柱を立てたとしても、遺骸を乗せるのがやっとのスペースしか取れず、
またそれ以上の重いものを乗せるには、柱が耐えられない事が分かりました。
ですから、(くい)を立てる穴と解釈するなら、OKだそうです。
その杭が立てられたのが、盛り土をする前か後かは分からないとの事です。
このいくつもある杭の中の4つが四角形を作り、
さっきの鳥居の一つと関係している事が分かりました。
4本の杭列という名で後に出て来ます。)

木棺主軸と日向峠は、ずれていた
割竹形木棺の主軸は、大柱の南側をかすめて通り、かなたには日向峠より南側の
王丸山(標高453m)の北側稜線裾で、現在高圧線鉄塔のある近くを向く。
そこから朝日が昇るのは、現在は10月25日である。

さて、ルナが確認したかったのがこの木棺主軸と日向峠の関係です。
原田大六氏がこれについて書いた有名な一文を書き抜きます。
この華麗な女王が、あの太陽をかたどった八咫の寸法を持つ大鏡4面(正しくは5面)を生前に所有していたのである。だとすれば、この女王はいうまでもなく太陽祭祀を行った大女王であった。

この大女王を葬った木棺は、東南方の日向(ひなた)峠の方角に正確に合わせ、股間をそちらに向けてあった。こうなると、日向峠から昇る太陽の光芒は彼女の股間に射しこむことになる。太陽祭祀を行った大女王が太陽と性的に結ばれているこの事実を解釈すれば、彼女こそが太陽の妻であり、日本古典のあの「大ヒルメノムチ」であったことになる。

平原遺跡(1)でも、同じ部分を抜き出したのですが、
これについての結論が出ていました。
木棺主軸は日向峠より、少し南寄りに向いていたという事です。
これについて、「ずれている」のか、「まあまあ許容範囲」という二つの考えが
出てくると思うのですが、これまでのルナの経験からは、
古代の人の測量技術は厳密なので、この差は「日向峠を向いていない」
と結論づけました。

発見された新たな祭祀線
新たな祭祀線が発見されていました。
1号鳥居の中央―4本の杭の中央―大柱中央―三雲端山古墳の後円部中央―日向峠
が一直線に並ぶ。

日向峠を意識したラインは日の巫女の死後に造られました。
しかも、三雲端山古墳を通っているというのです。
この古墳との関連の研究が待たれます。
この日向峠から朝日の昇るのは、現在では10月20日です。
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これが想像図です。現地の写真に合成したのですが、距離は不正確です。
まあ、こんなものかなと大目に見て下さいね。
墳丘の向こうに大柱が立っています。直径が65センチ。
柱が立つ位置が墳丘から14.8m離れています。
高さが13m程だとすると、朝日が当たると、墳丘に影が届くのでしょう。
現在は10月25日にそれが起こるという事です。

三つの鳥居がすごい発見ですね。右端の鳥居に立つと、日向峠は大柱の陰になります。
その代りに、影がまっすぐ伸びて来るのでしょう。これが、日向峠の祭祀線です
この鳥居の形状は私が勝手に考えたので、当時がそうなのかは不明です。
鳥居のルーツはこんな風にして始まったのかも知れませんね。
これらの事から、この被葬者・日の巫女が亡くなったあとも、大切に祀られていたのが分かります。

ですから、木棺の首元の鉄剣を置いたのは、このクニの人でなく、
征服者が置いたのではないかと、考えるようになりました。
いきなり征服者が出て来たのですが、この遺跡は卑弥呼と同時代です。

この伊都国は邪馬台国の支配下にあった事が魏志倭人伝に書いてあります。
(「世、王あり。皆、女王国に統属す」)
邪馬台国はこの伊都国のにあると書いてあります。
伊都国の南にはヤマトという地名が二か所ありますよ。

さて、この墳丘の周りからは意外なものが出土しています。
次回はそれを考えてみます。

ブログ内でお散歩 (サイドバーからどうぞ)
平原遺跡(1)伊都国の日の巫女が眠る墓 原田大六氏が救った遺跡だよ
平原遺跡(2)出土した鏡は広げたパソコンより大きい!
            水色と青とピンクの宝玉を身につけた巫女
伊都国歴史博物館(1)平原遺跡 原田大六展に行って来ました 割られた鏡と首元の剣



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# by lunabura | 2010-11-13 23:15 | 平原遺跡と伊都国歴史博物館 | Trackback(1) | Comments(2)

平原遺跡(4)置かれていた鉄の工作道具・南朝鮮に住んだ弥生人


平原遺跡(4)
置かれていた鉄の工作道具
弥生人と南朝鮮の交流は鉄がポイント?


太陽祭祀線
さて、空から古代祭祀線を見たいというリクエストにお応えして、
航空写真に、柱と鳥居を置いて見ました。
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一の鳥居と、墓の上の二本の杭第一の柱が一直線です。
(四本の杭は分かりませんでした。)赤いラインの延長上に日向峠があります。
空からでは、日向峠がずれて見えますが、地上では、まっすぐ指すのが
確認されています。(その写真は、伊都国歴史博物館にあります。)
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(日向峠からの日の出 報告書より)
現在ではその日向峠に朝日が出るのは、10月20日です。
1800年前は、秋分の9月20日頃に出たのでしょうか。
(歳差運動が分かる人がいないかな…。)
いずれにしろ、この平原の一族は暦を重視していたのが立証されました。

鉄の工作道具
この平原遺跡は、割られていた巨大な鏡が一番の特徴ですが、
測量図を見ていると、墓の周りに鉄製品や砥石があるのが気になりました。
そこで、その位置を写真に乗せて見ました。
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鉄のオノ、刀子、ノミ、キリ、ヤジリがぐるりと置かれています。
(刀子は別の墓の副葬品の可能性あり。)
それに砥石も二つあります。
特に、1号鳥居の下には砥石。3号鳥居の下には矢じり があります。
この出土状況から、これらは供えられたものではないかと考えました。
当時、鉄器は特に貴重品だったはずです。
それを供えたのは被葬者への余程の敬愛があるからではないかと思いました。

「太陽祭祀線」と「鉄器の埋納」を組み合わせると、
この墓を造って祀った人たちの可能性は、

1.太陽祭祀線を重視した部族である。
2.鉄の道具を使って、鉄製品か青銅器か、あるいはガラス製品を作る部族である。

と考えました。この墓の副葬品を思い出すと、
勾玉はガラス製、鏡は青銅製、素環頭の刀は鉄製でした。
近くの遺跡に工房は出てないのかなと探したら、ありましたよ!

弥生時代の伊都国の特産品
伊都国では工房の遺跡が出ています。

伊都国による独占的な交易のあり方は、弥生時代終末~古墳時代初頭に変化が生じ、博多湾沿岸部を含めて活発な交易が展開されるようになる。

潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡で水晶・碧玉を主体とする大規模な玉類製作が、(略)大塚遺跡や博多遺跡群では鍛冶の技術がいち早く導入されている。

伊都国東部から奴国北部において、朝鮮半島の鉄素材との交換材としての様々な製品の生産体制が整備され、今津湾・博多湾を重視した交易の多様化が見てとれる。
『玄海灘を制したものー伊都国王と宗像の君』(伊都国歴史博物館刊)

なるほど、やはり鍛冶集団がいたんですね。それに、玉も作ってた。

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(『玄海灘を制したもの』より、一部改変)

この地図によると、平原遺跡から歩いて行ける所に、玉作り工房と鍛冶工房が
ありました。時代は平原遺跡より少し後でしょうか。
三雲・井原遺跡は歴代の王の都です。
平原遺跡は、少し系統が違っていると言われています。

南朝鮮に弥生人の生活の跡があった。
そして、昨日、新聞の「考古学トピックス」で、
「韓国・金海亀山洞(キメクサンドン)遺跡に弥生人の集住を示す土器」
という記事が出ていました。内容をまとめて紹介します。
亀山洞遺跡では、大量の弥生系土器が出た。時期は弥生時代前期の終わりから中期の前半である。その調査から、弥生人やその子孫が村の中の一部に集住しながらも、地元の人たちと共に住んでいた事が分かった。弥生人は幾度となくここに来ている。

では、彼らは何をしに来たのか。ここで出た、鋳造鉄斧(てっぷ)の破片からみて、鉄器やその原料、あるいは製作技術の獲得が大きな目的であった。
一方、弥生人をうけいれた無文土器人側の理由には、コメや塩、木材、海産物、労働力などの獲得が想定されるが、明確な証拠がなく、今後の検討課題である。
中心の金海会峴里(フェヒョンリ)貝塚では弥生後期の近江系土器や弥生前期土器も出ている。  武末純一 (西日本新聞 2010年11月22日)
これを見ると、鍛冶の技術を獲得するために、弥生人が住み着いていて、
しかも、倭国と行き来していた事が分かります。
輸出品には玉製品もあったのが、工房跡から考えられます。
「弥生時代前期の終わりから中期」って、紀元前200年から紀元100年の頃?
すると、平原遺跡より古くから交流があってたんだ。

鉄の民と言えば、これまで出て来たのは、加茂氏や物部氏でした。
大まかにいえば、加茂氏は主に農機具などを作って、八咫烏がシンボル。
物部氏は中東から来て、主に武器や馬具を作って、暦を持っていました。
高句麗壁画にも八咫烏と鍛冶の神が描かれていましたね。
この平原遺跡とどう繋がるのか、謎が多いけど、
少しずつアプローチ出来ればと思っています。

さて、遺跡巡りはこれくらいにして、伊都国をドライブしましょう。
やっぱ、海やね~。




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# by lunabura | 2010-11-12 10:21 | 平原遺跡と伊都国歴史博物館 | Trackback | Comments(4)

板付遺跡(1)弥生人の足あと・縄文水田もあった


板付遺跡(1)弥生館
福岡県博多区板付三丁目21 
弥生人の足あと
縄文水田もあったって 


福岡空港の近くにその板付遺跡はあります。
弥生時代を代表する遺跡です。その特徴は
教科書を塗りかえた縄文水田の発見!
米作りは弥生時代からではなかった!
(弥生館・なぜなにノートより)

です。縄文水田か…。現在の教科書にはもう書いてあるのかな。
では、まずは弥生館へ行ってみましょう。
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駐車場はたっぶりとあるので、車でOKです。
写真の広場の奥に三角形の緑の屋根が見えますが、これが弥生館です。
まずはそこで、情報を仕入れましょう。
中に入って、右の方から廻ると、無数の土器が無造作に並べてありました。
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無造作過ぎるので、変だなと思って受付に戻って確認しました。
「この土器は本物の出土物ですか?」
「いいえ、これは現代で作ったものです。」
「本物はどこにあるのですか。」
「本物はガラスケースに入っています。」
との事でした。
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当時の農具の復元品です。現在の農具と基本構造は同じですね!
ここは弥生体験館という位置づけで、子供たちが触って実体験する施設でした。
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当時の繊維の復元ですが、
この繊維がここから出土したかどうかは分かりません。
左から順に素材は麻、リースは不明、葛、カラムシ(バッグ)
(カラムシは草の一種です。)
麻はちょうど、古事記の神々の天照大御神の天の岩戸の所に
出て来たので、興味しんしんです。


中央にはジオラマがありました。
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これが板付遺跡の全体のようすです。
中央部、奥の丸い溝に囲まれて、数棟の竪穴住居があります。
手前には川が流れていて、田んぼ があります。
毎朝、環濠の中から出て、稲の世話をしたのですね。

この遺跡の見どころについて
リーフレットから。
それは昭和25年1月のことです。一人の青年が板付の畑で二つの土器を発見して感激の声をあげました。青年は、縄文時代最後の土器弥生時代最初の土器が一緒に出る遺跡を長い間探していたのです。

昭和22年から始まった静岡県登呂遺跡の発掘で、はじめて水田の遺跡がみつかり、弥生時代に稲作が行われていたことが証明されました。

では、稲作は、いつどこから伝わり、日本のどこで始まったのかが次の問題でした。二つの土器の発見で板付遺跡こそ、その謎を解く重要な遺跡と期待され、さっそく発掘調査が始まりました。
(略)
これまでに深い溝に囲まれたムラや水田の跡が発掘され、日本で最初に稲作を始めた頃のようすがわかってきました。

なるほど、日本の弥生時代の稲作が分かって来たのは
昭和のはじめ頃だったんですね。思ったより最近の事でした。
登呂遺跡、板付遺跡、と次々に弥生時代の実態が分かって来た熱い時代の
雰囲気がよく伝わってきます。

その続きは館内の説明の紙から。
米作りは弥生時代からではなかった!
弥生時代から高度な米作りが行われていました。弥生人の足跡も無数に見つかり、裸足で米作りをしていたこともわかりました。
(略)
さらに事にその弥生水田の下に古い水田があることもわかったのです。同じ地層から出てくる土器は夜臼式(ゆうす)土器(縄文晩期)が多く、それに炭化した米粒や稲穂を摘み取っていた石包丁まで発見されたのです。このことから縄文時代晩期にはもう米作りが行われていたことになります。

それからの板付人は洪水との戦いの連続でしたが、決してあきらめませんでした。縄文・弥生時代の水田が重なっていたこと、そして弥生人の足跡がそれを物語ってくれます。その後、縄文水田は西日本を中心にどんどん発見されています。
(略)
また、縄文水田が多く見つかっていることから、弥生時代の始まりをさらに遡らせるべきだという考えも強まってきています。

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これが石包丁。二つの穴に紐を通して、指を入れて稲穂だけを刈り取ります。
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炭化した米も出てます。さざえの蓋とか魚の骨。右にはスプーンも。
(けっこうおいしそうな煮込み料理が食べられそう。)

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これが出土した板付式土器。弥生式土器ですね。
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これが夜臼(ゆうす)式土器。縄文時代の終わりのものです。
確かにあの派手な文様はついてません。
これらが出たので、弥生と縄文が一緒だという訳です

弥生時代が遡った
ちなみに弥生時代って、紀元前3世紀から紀元3世紀かなと思っていたのですが、
最新の考古学の本では紀元前10世紀から弥生時代に遡ると書いてありました。
すると、3000年前は弥生時代と縄文が混在なんだ。

3000年前から弥生時代だとすると神話の解釈も変わる?
神武天皇が2600年前と書いてあって、(縄文時代の話になるので、)
日本書紀は嘘を書いているという説があるのですが、
3000年前も弥生時代だとすると、その問題が無くなります。
最近は日本書紀などの年号をそのままに読もうという動きがあるのも、
こんな考古学の裏付けがあるのでしょうね。

ルナは、なにせ知識がないから、記紀はそのまま読むしかないです。
取り敢えず、まずは素直に読んでみたい。
それから、後で考えようというスタンスです。

そして振り向くと、何、これ?
c0222861_20165148.jpg

2300年前の水田に残された足跡でした!
え~。現代人と全然違う。
土踏まずがあまりなく、指の間がしっかりと開いている。
かかとと少し小さめ。
水田とか砂浜とか、難なく歩けそうなたくましさです。
寸法とか書いてない。これは足を乗せて比べられるようになってます。

これって、この弥生館のメインじゃない?
死角になる所に置いてある。うっかり見過ごす所でした。
ジオラマの前とかにあれば見逃さないのに…。

もしかしたら、ルナは反対廻りした?(・.・;)今頃、気づきました。
でも最後にこんな弥生人の足跡が見られて、けっこうテンションが上がりましたよ。

それじゃあ、次回は実際に水田と弥生のムラを見てみましょう。
                     (つづく)

板付遺跡弥生館
福岡市博多区板付3丁目21-1  電話 092-592-4936
(利用案内)
開館時間 午前9時~午後5時(入館は午後4時半まで)
休館日  年末年始(12月29日~翌年1月3日)
入館料  無料   
  

地図 福岡空港 板付遺跡




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# by lunabura | 2010-11-09 20:26 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

板付遺跡(2)弥生水田と環濠ムラ

板付遺跡(2)
いたづけいせき
弥生水田と遺跡公園


弥生水田の跡 
弥生館を出て駐車場の端に行くと復元された水田があります。
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水が入りかけています。え?そうすると、この水田、使ってる?
後で調べると、この水田に実際に稲を植えて、石包丁で収穫して、
脱穀する「弥生ムラ祭り」をしているそうです。
田植えの前の苗作りから草取り、水の管理を考えると
本格的に専従者がいないと維持は出来ません。
日本人の根幹をなす稲作を始まりの地で体験させようという、
県の努力を知って嬉しくなりました。
多くの子供達に是非体験してほしいですね。
c0222861_13472258.jpg

水田の反対側から撮りました。用水路の跡でしょうか。
橋が作られていて、ついつい歩き回りたくなります。
説明板を読んでみましょう。
この水田は、昭和53年(1978年)に発掘された弥生時代前期(今から約2300年前ごろ)の水田を復元したものです。

ムラ人たちは、板付台地に沿って用水路を掘り、東西に広がる低地を畦(あぜ)で区画して水田に作り変えました。

用水路には、沢山の木杭や横木を組み合わせて井堰(いぜき)を作り、水位を上げ、水をたくみに調整して、水田に水を入れました。

この時代の遺跡からは、稲の穂お摘み取る石包丁や田を耕したり水路を掘る木製の(すき)や(くわ)などの農具が発見されています。弥生人たちが今とあまり変わらない方法で米作りをしていたことがわかります。
でも、ムラの水田の全面積や収穫量などは、まだよくわかっていません。

板付遺跡公園

さて、水田から道路を隔ててこんもりとした森が見えるので、
気になって尋ねると、そこが住居跡だそうです。行ってみなきゃ!
c0222861_13494032.jpg

おお、立派な門構えです。UFOのようなモニュメントは、モミ?
c0222861_13502989.jpg

それらしき雰囲気のある門を入ると、あった、あった。
竪穴住居だ。
c0222861_1351344.jpg

反対側にも、たくさん。広くて気持ちがいいなあ。
この広場で、さきほどのムラ祭りなどをするようです。
c0222861_13521045.jpg

竪穴住居のアップです。甕なんかがあって、生活感があります。
扉もついています。冬は寒そう…。隙間があります。
ちょっと中を覗きたいですね。
c0222861_13523733.jpg

デジカメは便利です。
隙間からカメラを入れてシャッターを押したら、上手く撮ってくれました。
竪穴」の名の通り、床が地面より少し下がっています。
雨の時はどうするんだろう。
キャンプの時はテントの周りに溝を掘ったりするけど、
そんな溝の跡は出て来なかったのかな。
c0222861_13533531.jpg

端っこに行くと、土手と環濠がありました。
橋も作ってあります。かなり幅が広いですね。
V字型にかなり大きく掘ってあります。
大雨の時なんか、結構これで助かってるなと思いました。
目的ははっきりと分かっていないそうですが、
これは、まずは排水施設の役目が一番じゃないかな。
(吉野ヶ里はこれに防御の杭なんかがある。)

戦前まで、大潮の時には、宇美神社の近くまで、
また二日市の酒屋さんの所まで水が上がっていたと、聞きました。
「水が上がる」というイメージがよく分からないのですが、
排水の悪い所は冠水したりすると言う事でしょうか。
向こうに見える家の高さを比較すると、ここは少し高いです。
それでも、大水が上がってこないようにするためには、
こんな大がかりな排水施設を造る必要があったと思ったのですが。

c0222861_1355935.jpg

説明板に、推測しながら文字を入れました。
(少しずれているかも)
共同墓地は何か所があり、銅矛・銅剣も出土しているそうです。

この遺跡はとても広々としていて、シンプルでさわやかな場所でした。
小学生などには是非見せて置きたい遺跡だなと思います。
大人だって弥生時代の稲作を知るのに、もってこいでした。

出土物はここ以外に、
福岡市博物館と福岡市埋蔵文化財センターに展示・収納されているそうです。



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# by lunabura | 2010-11-08 14:05 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)
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