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高天原(2) 砂鉄による地震予知の方法

高天原(2)
福岡県福岡市東区志賀島弘
真鍋大覚に学ぶ地震予知(1)

「地震とナマズの伝承」は、
浜が砂鉄で真っ黒になる事だった。


福岡市の志賀島の高天原の海です。
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この浜には荒磯があって、ごつごつした岩が波に洗われています。
砂の色は、黒みがかった灰色です。砂鉄が行く筋も走っていました。
「砂鉄だ。」
懐かしいなあ。子供の頃は磁石で遊んだっけ。

そう思いながら帰ったのですが、その夜、真鍋大覚氏の本を読んでいると、
浜辺の砂鉄と地震予知についての記述を見つけました。

「地震とナマズ」の伝承は、浜辺の砂鉄が真っ黒になる事だった!
日本は太古から噴火が多い。降り落ちた灰は地熱と日射で分解して砂鉄となる。
これを駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

波打ち際に沿って、干潟の浜に行く条もの縞模様が、或いは濃く、或いは淡く、えんえんと連なる。
漁師はこれを見て、海が荒れるか、和らぐかを見極めた。

特に地震の直前は、海底からの無数の気泡が間断なく噴き上がるので、思い砂鉄の粒はいつもより多量に海水の中に浮き上がり、これが長い波に大きく寄せられて、浜に上がる。
浜は一面に炭の屑を厚く固めたかの如く黒く敷かれる。

かつて、漢人が日本の西海に如墨という国名を記録した理由はこの青黒い海の色を見ての事ではないか。

地震鯰(なまず)のことわざは上流の火山を水源とする大河の口に(住む)漁師であれば(分かっていて)、日本のいたる所で(起こる)津波の、地磁気の(観察)から生まれたことわざであった。

鯰の黒い背の色はまさに「ぬち」の塩水にぬれた色そのものであった。漁師は水の底に巨大な鯰を空想して、これが地震の前になると里人に教えていると考えていたのである。

砂鉄を肥後で「なぎ」、伯耆で「のぎ」、越後で「ねぎ」、美濃で「なへぎ」という。
地震即ち「なゐ」(地震の古語)で、ゆり動いて煽り出るからと説かれている。

『儺の国の星・拾遺』より  (一部、読みやすく追加、変更しました)

地震の前にはナマズが暴れる」ということわざの由来が
現代では分からなくなっていたのですが、地震雲の大家、真鍋氏は
「地震の前には、浜辺が砂鉄で真っ黒に埋まり、それが海水に濡れて、
ナマズの背中のように黒く光る現象だ」
と説明してくれています。

それは地震の直前には、海底から無数の気泡があがって、
砂鉄を舞い上げて、それが浜に打ち上げられるからだという事です。

地名に込めたメッセージ
これ(砂鉄)を駿河で「はまな」、石見で「はまだ」、筑前で「はまを」と言う。
又、肥前では「ぬち」、肥後では「うと」と言う。

筑前の「はまを」は「浜男」と漢字で書きます。香椎宮のすぐ近くです。
かつてはそこまで海だったと、いろんな方から聞きました。
浜のラインに沿って、鉄道が通っています。

浜男」とはその浜が真っ黒になるほど、砂鉄が上がって来た事を
伝えるためについた地名の可能性が出て来ました。そこには、浜男神社もあります。

よど姫神社や姫神社も70年に一度の津波を知らせるための
神社だという事を「高良大社」で書きました。

地名は歴史を物語ります。これらの地名は、津波が押し寄せた事を
後世に教えようとしている先人からのメッセージなのです。

福岡県の国道3号線の古賀市の所に「」という変な名前の交差点があります。「ながれ」と読みます。
江戸時代にここまで津波が来て、家が流れたと言い伝えています。

浜辺の砂鉄。

これは誰でも観察できる地震の予兆です。
全国のビーチ・コーマーの皆さん、また、浜辺を散歩する皆さん、
浜歩きの時には砂鉄を観察してください。
そして、検証して行こうではないですか。浜辺の砂鉄ほど分かりやすいものはありません。

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この日の高天原の砂浜の砂鉄です。薄い砂鉄の筋が何本か走っていました。
まだ、この砂鉄の重要さを知らなかったので、ちゃんと写真に撮ってませんでした。

それにしても、ここの砂浜が黒いのは、砂鉄が多かったからなのですね。
同じ砂鉄でも、小戸(御手洗)の方では、筋にならずに、50センチの塊の状態でしたよ。

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# by lunabura | 2010-02-03 20:37 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(5)

駕輿八幡宮

駕輿八幡宮
かよいはちまんぐう
福岡県糟屋郡粕屋町大字仲原字駕輿丁987 
神功皇后が休憩したお宮

御祭神 神功皇后 応神天皇 玉依姫命 住吉大神

福岡空港の東側の粕屋町に、大きな湖があります。駕輿丁(かよいちょう)池と言います。
いつも市民が散歩したり、ランニングする姿が見られます。
そんな湖の一角にある、こんもりとした森と鳥居がいつも気になっていました。

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どうやら、そこも神功皇后に縁のある所らしいと知って、行ってみました。

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湖の半島のように突き出た境内はとても明るく開けていました。

この神社の由来です。 (原文どおり)
このお宮は、神功皇后が応神天皇を出産されるため香椎の宮を出発され、宇美八幡宮に行幸されたとき、この地で休息されたので、ここに住んでいた人々が祭神したのが、駕輿八幡宮の由来とされています。

やっぱり神功皇后が来ていましたよ。ですから、なるほど、御祭神も

神功皇后  応神天皇    玉依姫命    住吉大神
(母)      (子)     (守護の女神)   (旅の守り神)
です。

粕屋町ホームページにはさらに、こう書いてありました。(口語訳)
神功皇后が香椎より宇美に行かれた時、仲原の村人が御輿(みこし)をかいて、この地に御休息になったので、地名を駕輿丁とつけて、のちの世に駕輿八幡宮を奉斎した。

仲原とはすぐ近くの町です。

神功皇后が新羅征伐から帰って、いよいよ出産するのに、
香椎宮で生まずに、もっと内陸部へ向かったのがこれでわかります。

香椎からはずっと輿に乗ったのかな、船に乗らなかったのかなと、思っていると、
もう一つ、神功皇后を伝える神社の話が載っていました。

日守神社
日守(ひまもり)-夷守(ひなもり)-の由来のはなし

神宮皇后(じんぐうこうごう)は、お産のために現在の宇美町に向いましたが、その途中、現在の粕屋町乙仲原西区にある日守付近で休憩しました。

そして、「日を守りたまいて(太陽をじっと見て)、今は何時頃ですか。」
と尋ねられました。
この伝説から、休憩した場所を「日守(ひまもり)」と呼ぶようになり、神宮皇后が腰掛けた場所をまつって
日守神社ができたと言い伝えられています。

地図で見てみましょう。

地図を見ると、日守神社は川のすぐそばです。
ここで船から降りて、あとは輿に乗り換えたのでしょうか。

応神天皇は冬に生まれています。かなり寒いはずです。
寒い中に大きなお腹を抱えた皇后を気遣う人々の思いやるようすが目に浮かぶようです。

駕輿丁(かよいちょう)の語源が書いてありましたよ。
その人たちについては駕輿八幡宮の由来書からうかがえます。省略しながら書き写します。
大化2年(646年)には駕輿丁座がありました。

そもそも、駕輿丁の「」とは乗り物の意味で、「輿」とは御輿(みこし)(神のみたま)のことで、「」とは仕丁(しちょう)(つかえのちょう)として身分の高い人を運ぶ人々(しゅうだん)をさします。

この人々は南側の階段から、さらに池に降りる階段の下に集団で住んでいましたが、この池が江戸時代に築堤されたので、他の地に移転しました。

この八幡宮には古来、駕輿丁座の人々が住んでいたのがこれでわかりました。
この時代に船と輿を使って人々は移動していたようすが読み取れます。

神功皇后を乗せたのは、よほど印象深い出来事だった事でしょう。
はるか遠い都の美しいお后様を直接乗せたのですから。
見た事もない立派な衣装を召された皇后さま。まずは近くに寄れない皇后さま。

駕籠をかいた人は、それはそれは自慢だったことでしょう。
そして、自分たちの村で大切にお祀りしました。

さて、神功皇后は何故、香椎でなく、内陸部へ向かったのでしょうか。

それではルナの推理シアターの始まり、始まり。
この時、皇后はひとりぼっちでした。
夫の仲哀天皇が亡くなって、10か月。その夫には兄弟王が二人いましたが、その二人は別の島に配属しました。身内と呼べる人は一人もいません。

信頼置ける人間は竹内の宿禰ただ一人。この男は、皇后が九州入りしてから、ずっと支えてくれた。
あとは、知らない人間ばかり。

香椎宮で出産しなかったのはまだ、産屋は別にした時代という訳でしょうか。または、仲哀天皇が亡くなった所では生みたくなかった。あるいは…。産み月になっても生まれない事への人々の目。
とにかく香椎では生みたくなかった。

全く知らない土地で、子供を生むとしたら、いったいどこで生んだらいいのか。

そうだ、たった一人だけ、心の支えになった人がいる。
というより、女神。名前は玉依姫。(サイドバー⇒)

神功皇后がかつて玉依姫の墓所で祈った時、「姉妹の契りを交わしましょう。」と言ってくれた。
死んだ夫の代わりに軍を率いるという難事の時に支えになってくれた女神さま。

そのそばで生もう。
そこならきっと、出産も助けてくださる。


そんな気持ちがあったのではないかとルナは思いました。
玉依姫の墓所は今では分からなくなっています。
江戸時代から明治にかけても大捜査があったのですが分からずじまいです。

この辺りは三笠川の氾濫がたびたびあって、玉依姫の墓を祀る神社も移動していたりします。
ただ、墓所があった証として中学校の名前に御陵(ごりょう)中学校とつけられて言い伝えています。

いずれにしろ、この駕輿八幡宮は、そこまであと一息の場所なのです。

実際に出産したのは蚊田という所です。
彼女が出産してからは、宇美神社となって、いまでも安産を願う多くの人々が訪れています。

さあ、駕輿丁公園へ。

さて、この駕輿八幡宮に来たのなら、この駕輿丁公園を歩かずにはいられません。
周囲4キロの広大な湖には、水鳥が遊び、桜や菖蒲やバラがよく手入れされています。

ちょっとだけ、寄り道しましょ。
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湖が一周出来るように、遊歩道があります。

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薔薇園へと上って行きましょ。

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ここの薔薇園は大きくて沢山の品種が見られます。一回だけでは、とても紹介しきれません。
また、別の季節に、ゆるりとご案内を。



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# by lunabura | 2010-02-02 14:59 | 駕輿八幡宮・かよい・粕屋郡 | Trackback | Comments(0)

冬の駕与丁(かよいちょう)公園

冬の駕与丁(かよいちょう)公園
福岡県糟屋郡粕屋町大字仲原字駕輿丁

冬の薔薇園はつぼみが輝いてました

冬のバラを見に行って来ました。
冬なのに?
そう。
きっと、冬でもバラが咲いてるはずなんです。

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ほら、やっぱり。
小春日和の中で、冬のバラが咲いていました。




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綺麗!
それにつぼみのエネルギーもすごいです。





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花びらが柔らかそう~。


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花の活力がみなぎっていて、体感温度は ↑




薔薇園の隣の散歩道です。

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ベンチの向こうに見えるのは菖蒲園です。
菖蒲はまだまだ、気配もありません。
菖蒲の中を歩ける初夏が楽しみです。

裸の木は桜です。
枝がほんのりピンク色になり始めましたよ。




薔薇園の住人、じゃなく、住猫で~す。



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どう?
決まってる?



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う~。ばりばり。



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んふ~。
%&?¥~$#…。


帰る時、一匹が
薔薇園の端っこまで見送ってくれました。

また会おうね。

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# by lunabura | 2010-02-01 20:18 | 駕輿八幡宮・かよい・粕屋郡 | Trackback | Comments(0)

志賀海神社 (Ⅰ) 龍の都と呼ばれた海神の宮 


志賀海神社 (Ⅰ)
しかうみじんじゃ
福岡県福岡市東区志賀島877
龍の都と呼ばれた海神の宮

「御手洗(みたらい)」は本当にあるのだろうか

さあ、今日は天気がいいので、志賀海神社に行きましょう。

福岡市の東区の国道495号線の和白(わじろ)交差点から、
海の中道への案内板を見て、志賀島へ。
街を過ぎると、快適なドライブコースになります。
海の中道公園を過ぎると、海の真ん中を走る道に出ます。
橋を渡ればもうそこは志賀島です。

でも、橋の手前で、いったん車から降りましょう。
そして、一度に見える左右の海を堪能しましょう。
左の方は、博多湾です。
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能古島(のこのしま)が正面に見えます。(写真では右の島)
来た方を振り返ると博多の町も見えます。
内海らしい、たっぷりとした海の風情が味わえます。

そして、次に右側を見ましょう。
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こちらは玄界灘です。外海です。波が打ち寄せています。海の色が全く違うでしょ。

こちらは浜辺に降りる事が出来ます。ぜひ砂浜に下りて、散策しましょう。
海の色の美しさはもちろん、流れ着いた貝殻や生物など、生きている海を感じる事が出来ます。
写真の島が目指す志賀島です。

橋を渡れば志賀海神社はすぐです。標識をお見逃し無く。
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最初の石段と鳥居。
ここにも石段の手前にお汐井がありましたよ。これを体に振って清めてから上ります。
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広々とした土の参道。右側は海です。
左側は古木が鬱蒼としていますが、下を覗くと崖になっています。
この参道は小さな尾根状になっているようです。不思議な地形です。

参道の左脇にはいくつかの社がありますが、この山之神社(やまのかみしゃ)は特筆!
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御祭神は大山津見の神で、
「御神徳は国土安泰、延命長寿、開運、夫婦和合」
と立札に書いてありますが、お参りの仕方がユニークです。
御神前にオコゼやアラカブを備えると
その顔立ちの悪さを見て喜快に思われ、快く願いを叶えてくれる。
また空の財布を供えると、財が貯まるといわれるなど、
幸福の道先案内の神として信仰されている。

今、ちまたではブサカワが人気ですが、この山の神さまは、元祖 ブサカワ・ファン
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アラカブで~す。

山門をくぐって本殿の前へ。
拝殿に着くと可愛い先客。
若いお父さんとお母さんの真ん中で、
女の子がちゃんと手を合わせてお参りしてました。
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(この可愛さに見とれて、本殿の全体写真を撮り忘れちゃった!?)

本殿の後ろにはいろんな摂社があります。それぞれ趣があって歴史を感じます。
時計回りにぐるりと回って、戻って来ると、海に向かった鳥居が目に飛び込んできました。
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遥拝所です。そこに立つと海が見えます。
そのずっと向こうに立花山が見えますが、正面からは微妙にずれています。
いったい何を祀っているのでしょうか。

社務所に氏子さんがいらっしゃるので尋ねてみました。
「あの遥拝所は立花山を見ているのですか?」
「ええ、それだけでなく、すぐ手前の大岳神社も見ていますよ。」

すると、宮司さんも出て来て、一緒に説明してくれました。
「遥拝所からは、伊勢神宮、橿原神宮、御所、大岳神社
など、折々に祈っています。直接は行けませんから。」
という事です。
神事がある度に、こうして遠く離れても、共に祈ってあるんですね。
日本の神社の祈りのネットワークを知って、感動しました。

「御手洗」はどこ?

そこで、「御手洗」の地が現在も残っているのか、ついに聞きました。

「『香椎宮史』を読んでいたら、『筑陽記』の「志賀島」の所に
御手洗 イザナキ大神、与美国の穢れを洗い清め給ひし所という。」
という一文があって、それが志賀島のどこなのか探しているんですが。」

氏子さんが地図のついたパンフレットを出して下さいました。
それを見ると「御手洗」という地名が載ってました!やったね。

そこは勝馬(かつま)の沖津宮の所でした。
志賀島の一番北側で、この志賀海神社の神々が祀られている元宮です。
なんと、すごい所に、探している「御手洗」があった!
そこは志賀島の海水浴場として有名な所です。

志賀海神社の御祭神は次の三柱です。
 底津綿津見神 そこつわたつみのかみ
 仲津綿津見神 なかつわたつみのかみ
 表津綿津見神 うはつわたつみのかみ
 
これは海の底と中間と表面で生まれた神々です。
イザナギの命が禊(みそぎ)をした時に生まれた神々です。

「ここは新たに遷宮したお宮で、元宮は三つとも勝馬(かつま)にあります。
そこはかつて入江だったと地質学でも証明されました。」
と宮司さんが説明してくれました。さらに
「志賀島には高天原という地名がありますよ。また、穢れをとても忌む神社があります。」
と教えていただきました。
志賀島に高天原がある理由は分からないそうです。

また、氏子さんも話してくれました。
「そういえば、志賀島の山で「かもう山」と呼んでいる所がありますよ。
漢字は「神思う山」か「神生まれる山」のどちらかです。」
「へえ、そうですか。」
と、宮司さんも初耳で興味深そうです。地図で示してもらうと、展望所付近の山のようです。
(これらは、また別の日に行ってみましょう。)

住吉三神はオリオンの三ツ星

ルナは話のついでに、綿津見神と一緒に生まれた住吉三神の話をしてみました。

「綿津見の三柱の神さまたちは、住吉の三神と一緒に生まれていますが、なぜか交互に生まれていますよね。三柱ずつ一緒には生まれてないですよね。これには何か大切な意味があると思うのです。

私は住吉三神はオリオンの三ツ星ではないかと思っているんですが。
オリオンの三ツ星の角度で時間と方角が分かるので、神として祀られたと思うんですが。
どうでしょうか。」

すると氏子さんが話してくれました。
「そういえば、夏の朝は、立花山の方角にオリオンの三ツ星が出て、それに向かってまっすぐに帰って来てますよ。」
氏子さんは漁師さんでした。

漁から志賀島に帰ってくる時に東の方角の目印として、オリオンの三ツ星を見て帰るという事です。
ああ、実際に現代でも、星のナビゲーションが生きている!
直接こんな話が聞けると嬉しくなります。

「ところで、朝って何時頃ですか。」
「三時ごろです。」
「えっ、三時ですか。」
「季節が変わると、反対側に夕方、見えますよ。」

オリオンの三ツ星は、水平線から昇ってくる時に垂直に出て来ます。
そして、横向きになって、沈む時にはほぼ逆さまになって沈みます。
これで、時間と方角が分かるのです。
それを住吉の神と呼んでいるとルナは考えています。
詳しくはまた、別の機会にお話しましょう。

さて、社務所でお話をしているうちに、すっかり時間が経ちました。
菊の御紋のある、山門を見て、この日は一旦帰る事にしました。

地図   志賀海神社  沖津宮と御手洗  二見岩 海の中道



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# by lunabura | 2010-01-30 00:00 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志賀海神社(2)沖津宮と小戸ーイザナギの禊の場所


志賀海神社(2) 
沖津宮と小戸
福岡市東区志賀島勝馬
海の神々が生まれた美しき聖地
イザナギの命が禊をした所だったよ

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さあ、志賀島を一周するドライブコースで、海を見ながら、一番北側の勝馬に行きましょう。
右回りでも左回りでもOKです。(地図は前回のを見て下さいね。)

ここ、勝馬は国民休暇村がある国定公園です。道路に沿って、駐車場があります。
そこに車をとめて、砂浜へ下りて行きましょう。
海水浴をするもよし、サーフィンをするもよし、ぼんやりと潮騒に身を委ねるもよし。
デートなら、さらによし。

浜辺から右手を見ると、小島が見えます。その小島の中に、目指す沖津宮(おきつぐう)があります。
波と戯れながら、沖津宮まで歩いて行きましょう。白い鳥居がすぐ目に入って来ます。
島に行こうとすると、手前には浅瀬があって、お宮には歩いて行けません。
大潮の日だと、潮が引いて歩いて行けるそうです。今日は手前の浜から見るだけです。
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この沖津宮には天の御中主の神と、表津綿津見神が祀ってあります。

天の御中主の神は日本神話の一番初めに出てくる神さまです。
表津綿津見神は、この浅瀬の底から生まれた海の神さまです。

綿津見の神ってどんな神さま?
志賀海神社と綿津見神についてはパンフレットにこう説明されています。
神代より「海神の総本社」「龍の都」と称えられ、
玄海灘に臨む海上交通の要衝である博多湾の総鎮守として志賀島に鎮座し、
厚く信仰されている志賀海神社は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊祓(みそぎはらい)
によって御出生された綿津見三神を奉祭している。 

この志賀海神社は博多湾の総鎮守なのですね。
その御祭神の綿津見神はイザナギの大神の禊で生まれています。
これが、今日のキーポイントになります。
御祭神「綿津見三神」は
海の底、中、表を守り給う海の主宰神として、海上交通の安全は固(もと)より
塩・魚介類といった海産物の御恵をもたらす神として篤く信仰されている。
また禊祓の神として不浄を祓い清め、諸々の災厄を祓除する御神威を顕している。

さらに水と塩(潮)を支配し、潮の満ち干きによって人の生死をも司るとされることから
人の命や生活の吉凶をも左右するとされている。

海の神なので、交通安全の神であり、潮の満ち引きから、生死も司る神なのですね。
また、イザナギの命の禊で生まれた事から、禊祓いの神でもあった訳です。
海の神とは私たちの暮らしに密着する神でした。

その海の神のうち、海の底から生まれた底津綿津見神がこの島に祀られています。
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なんとも心惹かれる風景です。前回から探してきた御手洗の方から撮りました。

御手洗と小戸は同じ場所だった!
イザナギ大神が禊をした場所がここなのですねえ。とても綺麗な海辺です。
地図を見ると、ここには名前がいくつも付いていました。

勝馬、舞能が浜、大戸、小戸、三瀬、神遊瀬、御手洗
これから分かる事は小戸御手洗は同じ場所だという事です。

小戸(おど)といえば祝詞に出て来るので有名です。
祝詞を唱える方はすでにピンと来ていると思います。
知らない方のために祝詞の途中、数行分を書きます。
イザナギの大神、筑紫の日向の橘の小戸のアワキが原に
禊祓い給ひし時に、生(あ)れませる、払い戸の大神たち、もろもろのまが事、罪穢れを
払いたまえ、清めたまえと申すことの由を…。

このように、祝詞ではイザナギの大神が小戸のアワキが原で禊をしたと出て来ます。

その小戸がこの場所の可能性が出て来ました。
また、祝詞では、払い戸の大神たちと、一言で終わっていますが、
古事記を見ると、その時には26柱の神々が生まれています。

その神話のあらすじを書きましょう。

イザナギの神生み
イザナギの大神は、亡くなった妻に会いに黄泉の国に行って、妻の亡骸を見てしまいます。
その腐りかけた姿を見て、驚いて逃げて帰ると、身を清めるために、
竺紫(つくし)の日向の橘の小門の阿波岐(あはき)原に行きました。

そこで、身に付けていた服や杖などを脱ぎ捨てると、そのたびに、神々が生まれ出て、
十二神になりました。

それから、イザナギの大神は初めて瀬の中に入って行きました。
そして、中の瀬に潜ってすすいだ時に、十四柱の神々が次々に生まれました。

こんなストーリーです。
そのうちの後半の十四柱の神々の名前を具体的に書いてみます。
初めて中の瀬に潜って、すすいだ時に生まれた神の名は
八十禍津日(やそまがつひ)の神。
次に大禍津日の神。

神直毘の神。
大直毘の神。
次にイヅノメの神。

次に水の底にすすぐ時に生まれた神の名は、底津綿津見の神
次に底筒の男の命。

中にすすぐ時に生まれた神の名は、中津綿津見の神
次に中筒の男の命。

次に水の上にすすぐ時に生まれた神の名は、上(うへ)津綿津見の神
次に上筒の男の命。
(略)
左の目を洗う時に生まれた神の名は、天照大御神
次に右の目を洗う時に生まれた神の名は、月読の命。
次に花を洗う時に生まれた神の名は、建速須佐の男の命。

こうして26柱の神々がこの瀬戸で生まれました。

アワキが原は何処にあるのか、という論争があるのですが、
その候補地として名乗り上げるのに十分な伝承がここには揃っていました。

「阿波岐が原」とは何だろう?

あはきというのは、普通名詞では、「淡水と海水が混じりあった所」という意味です。
川が海に流れ込んで、満ち潮の時には淡水と海水が混じりあう、そんな所なのですね。
そして、この御手洗の浜には、川が流れ込んでいて、その条件を満たしています。

でも、このアマテラスを含む26柱は
本当にここから生まれたのでしょうか。


もちろん実際に生まれた訳ではありません。神話として、この地がモデルになったんだと思います。
ここは阿曇族の人々の神話の世界、つまり、宇宙観を地上に置き換えた場所なのです。

ずっと西の彼方から、船に乗って東を目指してやって来た阿曇族の人たちが、
たどりついて、上陸した日本の地。
その中の博多湾周辺に住むようになって、自分たちの聖地として、
一番清らかなこの地を選んで、神話を伝えたのです。

これから案内して行くのですが、三つの小島や小山が揃って存在して、
三柱の海の神を祀るのに、これまた、ピッタリの場所なのです。

組み合わせられた神話
私たちが目にする神話は、いくつかの神話が混じっている可能性があります。
神話が載っている古事記にも、当時、伝承がいくつもあって、それらを参照したと、
書いてあります。

ですから、著者の太安万侶(おおのやすまろ)は、阿曇族の神話と別の部族たちの
神話をとりまぜて、彼なりに考えて、このイザナギの大神の神生みのシーンも
作り出したと考えました。

この26柱という神々をつぶさに見て行くと、阿曇族以外の神話がどのように
組み合わさっているのが明らかになるのではないかとも思いました。

小戸のアワキが原がいくつもある訳は?
日本神話の原型、プロトタイプとなった地がここだと分かりましたが、
阿曇族たちは、行きつく湊ごとに、自分たちの神々を祀って神話を伝えていきました。
それが、各地に小戸のアワキが原として、残っている理由なのだと思いました。
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この島は伝承を調べれば調べるほど、神話の源流に近付いて行くようなときめきを覚えます。

次回は仲津宮(なかつぐう)をブラブラ歩きましょう。



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# by lunabura | 2010-01-29 00:00 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)

志賀海神社(3)仲津宮 


志賀海神社 (3)
仲津宮なかつぐう
福岡県福岡市東区志賀島勝馬
今も昔も航海の安全を祈る宮
浜辺の異世界へ、ちょっぴりトリップ気分

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この小山の中に仲津宮があります。参拝口は左の方にあります。
今日はその参拝口から上って、右側へ下りて行きます。

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参拝口の鳥居です。奥の方に樹木のトンネルが見えます。
長年踏み固められた土の参道を行くと、すぐに、照葉樹の森の中に入りました。

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深い森のような風情ですが、すぐ左下は小学校で、子供たちの歓声が聞こえてきます。

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ほどなく神殿前に出ました。神殿は厳しい風雨に耐えるためにコンクリートで作られていました。
御祭神は仲津(なかつ)綿津見の神です。
イザナギの大神が海に潜って、中ほどの所ですすいだ時に生まれた神です。
左下はすぐ海です。潮騒がひときわ大きく聞こえて来ました。
足もとの石には浜のお汐井が置かれています。
航海の無事を祈る人々の思いがひしひしと伝わってきます。

帰りは反対側に下りてみました。こちらは、石段になっています。
海から運んだ石でしょうか。角が丸いです。

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おりしも、椿の花がこぼれ落ちて、参道を彩っています。

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森の小道を抜けると、おおっ、正面に玄海島が!
この島が、数年前に大地震の震源地となった島です。
まるで、この参道は、その玄海島からまっすぐ続くかのようです。
祈りのレイラインを歩いているような光景です。

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杜を出て、振り返ると、鳥居がありません。なんだか、異界から戻って来たような…
不思議な気分になりました。

次回は表津宮(うわつぐう)です。



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# by lunabura | 2010-01-28 16:56 | 志賀海神社・しかうみ・福岡市 | Trackback | Comments(0)
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