ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

伊野天照皇大神宮 4


今日は伊野天照皇大神宮を見直ししています。

以前、どんな本を読んでいるのかというコメントがあったのですが、
今日の資料はこんな感じです。

c0222861_23131753.jpg

日本書紀と古事記。
そして白い紙の束が現在手直し中の原稿です。
一センチくらいの厚さです。

これが小説の時は4センチほどの厚さがあったのが、十日ほどで片付いたのですが、
ガイドブックの方は厳しい道のりです。

青い本は伊野天照皇大神宮の縁起書です。

今日、伊野天照皇大神宮を手直ししていて、
この貴重な縁起書が手に入った御縁を思い出しました。

当宮は正式名は天照皇大神宮というそうですが、
普通は伊野神社と言って親しまれています。

いついっても掃き清められていて、
台風の翌朝行った時、すでに落ち葉が掃かれていたのに感動しました。

それを知人に話したら、なんとその掃除は知人の親戚の方がされているとか。
当番制で、毎朝、早朝に大変だそうです。

たまたま、私は、何かの本で、
「神社の掃除など奉仕する方に神恩は必ずあるが、それは本人にとは限らない。
その家系の、一番困った人に神の恩寵が届くようになっている。」
という内容を知ったばかりなので、その話を伝えました。

そうしたら、ある日、伊野天照皇大神宮の縁起書が玄関に届けらていました。
それが、写真の青い本です。
「九州のお伊勢さま 伊野皇大神宮誌」というタイトルです。
これは非売本でした。

このような本の御縁をいただいて、本当にうれしかったです。

それで、ブログ記事に少し引用できたのですが、
今、改めて読み直すと、
私も少し歴史が分かり始めたようで、
内容がかなり理解出来るようになっていました。

その一部をまとめてガイドブックの方に書いている所ですが、
驚いた事に、石田三成が当宮に何度も参拝していたんですよ。

島津義久の薩摩兵によって、福岡はあちこち焼打ちにあっていますが、
当宮も兵火にあって、再興できずにいたので、
石田三成にかなり期待がかかったようですが、
まもなく家康の命令で福岡を去ってしまい、人々はがっかりしたそうです。

いったい何人の人がこの素晴らしい縁起書を読んだことか。
それほどはいないでしょう。

こうして私の手元に来たのは、きっと、書きなさい、
この神宮の素晴らしさを多くの人に伝えなさいと言うことなのでしょうね。

c0222861_23133716.jpg





ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2009-11-08 23:15 | 伊野天照皇大神宮・粕屋 | Trackback | Comments(2)

斎宮(山田)(Ⅰ)神功皇后の神懸かりの地を捜して    

 斎宮(いつきのみや) 山田(Ⅰ) 

 福岡県粕屋郡久山町山田

神功皇后の神懸かりの地を捜して  
 
 
 


二つの斎宮候補地


c0222861_1211547.jpg



さて、もう一つの「小山田斎宮」の候補地、「山田斎宮」へ。

福岡県の粕屋郡の集合商業施設、久山トリアスの近くの下山田の交差点に
「九州の伊勢、伊野皇大神宮」の案内板があります。

「斎宮」はその伊野皇大神宮に向かう道沿いにあります。
周りが開けた平野で、人家も少なく、周りの山々もよく見える場所にあります。

神社の名前は『斎宮』ですが、便宜上、ここでは『山田斎宮』とします。

「山田斎宮」は伊野皇大神宮に対して、「外宮」でもあり、
豊受大神も併せて祀っています。
そばを流れる猪野川の名も五十鈴川という名を持っていて、伊勢と同じです。
でも、「外宮」としてより、「斎宮」としての方が有名です。


まず、正面の脇に「斎宮 聖母屋敷」の石碑が目に入りました。
「聖母」とはここら辺では神功皇后の事です。
「しょうも」と読みます。


c0222861_122694.jpg


堂々とした銀杏の巨木が二本並んでいます。

その間を通って本殿に行って、手を合わせました。

道路沿いに、分かりやすい由緒書きがありました。
書き写してみましょう。


 神功皇后と斎宮

 神功皇后は、『古事記』『日本書紀』に登場し、
日本史上はじめて朝鮮半島へ出兵したと伝えられる人物です。

『日本書紀』巻第九、神功皇后(オキナガタラシ姫)の章には、
夫である仲哀天皇がお亡くなりになられた香椎宮、
応神天皇をお産みになられた宇美八幡宮などとともに
斎宮の事が記されています。

 『日本書紀』によると神功皇后は仲哀天皇が香椎でお亡くなりになると、
小山田邑(むら)に斎宮を作らせ、天皇の亡骸を運んで安置し、
自ら神主となられています。

この斎宮の故地について、江戸時代の学者、貝原益軒が
『筑前国続風土記』のなかで次のように述べています。

「聖母屋敷 上山田村にあり。其の所に神功皇后のお社あり。
是、神功皇后の跡なるにや。」

「この山田村は、香椎に近ければ、この村にある聖母屋敷こそ、
まさしき斎宮の跡には侍るべき。」

 ここ山田の地に鎮座する斎宮は、日本最古の国史に記載された
「小山田邑 斎宮」の比定地とされる神社です。
千数百年の間、人々に深く信仰され、大切に守られてきました。

 町内には六所宮跡や審神者神社など神功皇后にゆかりの深い神社や、
神功皇后を描いた絵馬などが多く残っています。
  平成16年3月  久山町
                     久山町教育委員会
 


子供たちにも分かるように、平易に書いてあります。
伝承をこうして伝えて行こうという地元の人たちの熱意が伝わってきます。

貝原益軒の考え

ここでは、「小山田斎宮」が「山田斎宮」である理由として、
貝原益軒の意見を採用してあります。
益軒の文には、省略されている文があるので、
それを加えて箇条書きすると、こうなります。

1、 上山田と小山田と似ているのでこの山田の地の可能性がある事。
2、 ここは香椎宮に近いこと。
3、 聖母屋敷の名が伝わること。
4、 小山田の方は、山越えをするので、地理的に無理があること。

などが理由のようです。

それに対してルナが考える事は

1、 山田と小山田は似ていますが、小山田がある以上、
   無理に山田にしなくてもいいのではないか。
2、 香椎宮にはどちらも一日あれば歩いて行ける。
3、 聖母屋敷の名がどちらにも伝わる。
4、 小山田にも山越せずに行けるが、益軒はそれを知らなかったようだ。

という事で、益軒の意見には賛同する理由が見つかりませんでした。

ではルナが「小山田斎宮(Ⅰ~Ⅱ)」の方で持った、
三つの疑問に対してはどうでしょうか。

 Q1 交通手段は本当に船なのだろうか。 
 西暦200年頃に道路網が発達していたとは考えにくいです。 
 地上を歩くと 川や沼が道をさえぎったに違いないと思うのです。
 
 ですから、昔の交通手段は船ではないかと考えるようになりました。
 この斎宮のそばを流れる川を見た時に、その想像は確信になりました。

 香椎宮から海に出て、左に舵を取り、多々良川の大きな河口から遡って、
 久山に向う支流に入って行けば、ここに出ます。

 香椎から右に行けば、「小山田」へ。
 左に行けば「山田」へ。という感じです。

 そのルートをずっと考えていた時、
 川を中心とした逆さまの地図があれば便利なのにと思っていたら、
 ありました、ありました。
 『香椎宮史』に載せてありましたよ。
 やっぱり、川のルートがあったよ。


Q2 移動時間はどのくらいかかったのだろうか。 
 どちらも一日以内で着きました。

Q3 何故この地が選ばれたのだろうか。  
 これについては、特別の理由がみつかりません。
 神功皇后たちにはこの時点では、ここは土地勘がありません。

 小山田が丘の上にあるのに対して、ここは平地の真っ只中です。
 目標がない所です。
 もし、ここを選んだとしたら、誰かよほど信用の置ける人の案内が必要です。

 いろいろ想像をたくましくしてみると、
 ここは船を出してくれた海人族の安曇族たちの
 特別な場所だったのかも、と思いました。

 その安曇族の長が勧めるこの地に
 ついて行ったというストーリーができます。

 本当に信用置ける人ならいいけれど、
 相手に主導権を与えてしまうので、
 ルナが当人なら、知らない所にノコノコとはついていかないなあ、
 と思いました。

 それでも、考えましたよ。
 ここにも何らかのメリットがあるはずだ、と。

 そうだ。川の上流にある伊野皇大神宮に近いぞ!


c0222861_1242239.jpg


この川の上流に見える山の麓に伊野皇大神宮があります。


伊野皇大神宮に神功皇后の伝承がある。 

伊野皇大神宮と神功皇后との間に接点があるのです。
彼女が伊野皇大神宮の裏の山の、遠見岳に登ったという伝承が
伝わっています。

このお宮は天照大神が祀られている神社で、かなり古いのですが、
原初の由緒が伝わっていません。
それでも、後の時代に、天照大神の神霊が自ら、この地に祀られる事を
望んだ話が伝わっています。

天照大神は神功皇后が神懸かりした時に最初に現れた神です。
(オキナガタラシ姫や小山田斎宮の所を読み直してみてください。)

彼女が何故、遠見岳に登ったのか、ずっと不思議だったのですが、
  (あまりに辺鄙な所だったので、です。
  現代人の視点は捨てないと。うん。)


仲哀天皇に死をもたらしたのが、天照大神だと名乗られては、
祀らないわけにはいきません。

この遠見岳を中心に考えると、この山田斎宮がずっと近距離です。

            ( Ⅱにつづく )
             
[PR]
# by lunabura | 2009-11-05 12:27 | 斎宮・いつきのみや・粕屋郡 | Trackback | Comments(0)

斎宮(山田)(Ⅱ)二つの斎宮の謎が解けた

斎宮(いつきのみや)(山田)(Ⅱ)

二つの斎宮の謎が解けた


c0222861_1429476.jpg



もう一つ由緒書きがありました。
分かりやすく書きなおしながら、読んで行きましょう。
        (面倒くさい人は飛ばして結論へどうぞ)


斎宮
御祭神 
  天疎向津姫命(あまさかるむかつひめのみこと)(天照大神)
  武甕槌命(たけみかづちのみこと)
  事代主命(ことしろぬしの命)
  住吉三神(表筒男、中筒男、底筒男)
  息長足媛神(神功皇后)
合祀 六所神 (イザナギノ尊、イザナミノ尊、ニニギノ尊、速玉男命
   コトワケオの命、国常立の尊)豊受大神
境内社 祇園社

山田邑斎宮の由来記
 当宮は神功皇后が新羅征伐のとき、みづから神主となり、
神教を祈願された霊蹟の地であり、つぎのような由来を伝えている。


  第14代仲哀天皇は仲哀八年巳卯の春、
神功皇后と御一緒に熊襲征伐のために筑紫の香椎宮に行幸啓された。

そのとき皇后に
「熊襲が謀反するのは、新羅が後援しているからで、
本幹たる新羅をお攻めになると、枝葉の熊襲はみづから枯れるだろう。」
という神のお告げがあった。

しかし仲哀天皇は、神のおつげを無視して熊襲を討たれたため、
失敗されて、香椎宮に帰られ、翌年二月、病気で崩御された。

 皇后は非常にお嘆きになったが、密かに屍を納めになり、
喪を隠して、賊徒を征伐する業をお継ぎになった。

 そうして、香椎宮から群臣や百寮を率いて、小山田邑(上山田)に行啓され、
お住まいになったところが、聖母屋敷で、
聖母屋敷の西南にあたる六所の地に斎宮を造営され、
皇后みづから、神主となり、六所神を祀り、
三月一日から七日七晩戦勝の祈願をなされた。

神々のご加護により、国内も治まり、三韓を戦わずして、平定された。

 皇后が諸々の戦術と戦勝祈願をされた六所大明神は
慶長年中に大洪水で破損したので、村民は非常に恐れおののいて、
聖母屋敷に合祀した。
この社の跡を「ろくしゅう」と言って、六所田(神田)の中に
今も社の跡を残されている。

 なお、境外神社として審神者(さにわ)神社があるが
祭神は中臣烏賊津使(なかつおみ)。

「日本書紀」の神功皇后紀に皇后の祈願に際して中臣烏賊津使を召して、
審神者とす、とある。
審神者とは神の託宣請うてその意を伝える人である。(略)

 


この由来書は日本書紀から説を引用してあります。
実は、仲哀天皇の死因については、日本書紀にはいくつもの説が書いてあります。
記紀が書かれた時代にはもう、よく分からなくなっているのですね。

この山田斎宮では、熊襲征伐に行って、矢に当たったのが死亡原因だ
という説を採用してあります。

由緒書きでは、群臣や多くの長官たちを連れて移り住んだとあります。
大々的に移動して、それから、斎宮を営んでいます。

少し無理があるようです。
仲哀天皇の死を隠しているのですから。
時代が経つにつれて話が変化したようです。

何せ、1800年前の話です。
話が変わって当然です。

この斎宮のキーワードを考えました。
それは「戦勝祈願」です。
そこでこんな推理が生まれました。

二つの斎宮がある訳はこうだ?

さあ、ルナ流の謎解きです。

香椎宮で仲哀天皇が亡くなった後、
竹内の宿禰は亡骸を船で山口県の穴門宮にお移しし、
二週間後に戻って来た。

それから、古賀市の小山田で斎宮を営み、三人で神意を尋ねた。
その結果、天照大御神の御意と分かったので、香椎宮に戻って、
群臣らと協議して、新羅攻撃を決定する。

それから、群臣らを率いて、山田の斎宮の地に向かう。
そして、神宮皇后らが、久山町の神路山で、
祟られた天照大御神をお祀りする。
斎宮に戻って、六所宮の神々を呼んで、戦勝祈願の神事をした。


いかがですか。
こういうストーリーだと、二つの斎宮と聖母屋敷の地名が
今に残る謎が解けます。

まあ、また新たな発見があると、推理は変わるかもしれません。
それもよし、としましょう。    

あなたはどちらが斎宮だと思いますか?
コメント寄せてくださいね。

この「二つの斎宮」を楽しむコース
お勧め順路

1、全体のストーリーをつかむために…『姫宮さまたちの物語』 ⇒ オキナガタラシ姫
2、仲哀天皇の崩御現場に行く   … 『ひもろぎ逍遥』     ⇒ 香椎宮
3、神宮皇后が神懸かりした斎宮に行く …             ⇒ 小山田斎宮
4、戦勝祈願をした斎宮に行く(このページ)  …         ⇒ 斎宮 (山田)


c0222861_1430820.jpg

本殿の右後ろにある、鳥の姿をした木です。
そっくり!

[PR]
# by lunabura | 2009-11-05 00:00 | 斎宮・いつきのみや・粕屋郡 | Trackback | Comments(0)

二見岩 竜宮門と名付けちゃいました


二見岩   福岡県福岡市東区志賀島

竜宮門と名付けちゃいました

c0222861_10245812.jpg

「志賀海神社の神様は、今、島の横の磯の岩場にいらっしゃるのよね。」
と、知りあったばかりのMさんが何度も言います。

ルナは神社大好き人間だけど、人には内緒です。
だから、まさか、いきなりこんな話を聞かされていいのかしらと、戸惑いました。

Mさんの話がどうしても気になるので、ある朝、
その神社とその磯の岩場に行きました。

ルナは神様がいるかどうかは分からないのですが、
神社は清々しくて、とても幸せな気持ちになります。

志賀海神社にお参りした後、
志賀島を外周するドライブコースを車で走りました。
右側はずっと海です。
とてもきれいな海です。

ガードレールにはトンビが、数十羽も止まって羽根を休めていました。
こんなに沢山の大きな野鳥を見れるなんて、
何か、ラッキーな気分です。

そのまま車を走らせると、Mさんの言う磯の岩場はすぐに有りました。
そこは自然と車を止めたくなる景勝の地です。
大きな岩がごろごろしていて、磯遊びには持ってこいの場所です。

車を降りて立つと、目の前に巨大な岩が二つ、
まるで海へと続く門のようにそびえていました。

私はその正面に立って見とれていました。

すると、その正面の沖合の海が丸く光り出したのです。
その時気づいたのですが、その日は曇りでした。

そして、その沖合の海の上の雲だけが丸く切れて、
太陽の光がまっすぐ射したのです。
まさにスポットライトでした。

「あそこが、竜宮への入り口だわ。」
と、思ってしまいました。
そこで、ルナはこの磯を秘かに『竜宮門』と名付けました。

それから画家の青木茂の描いた絵「わだつみのいろこの宮」
というタイトルが思い出されました。

「きっと、あれが、わだつみの神のいらっしゃる海の底のお宮の入り口だ。」
と、自然に手を合わせました。


でも残念な事に足元はゴミだらけ。
何も掃除道具がないので、もう一度、
今度は掃除に来ようと思って家に帰りました。

帰り道、トンビたちはまだガードレールの上に止まっていました。


c0222861_10325363.jpg


右側の岩には穴が開いていました。
こんなのが世界中にあります。


 何故二人の人間が同じ日に掃除に来たの? 

 掃除をしようと思いつつ、なかなかチャンスがなかったのですが、
ある日、「明日行こう。」と思い立ちました。

その頃は何故か朝早くから目が覚めてしまう日が続いていました。
「まあ、目が覚めたらね。」
と軽く思いながら寝ました。

翌朝、5時に目が覚めました。

寝ぼけてしまい、「なんでまた早く目が覚めたんだろ。」
と思って寝直しました。

すると、なんと、カラスがベランダに止まって、
「カア、カア、カア、カア」と四回鳴いたのです。
こんな事は初めてです。
「あ、起こされた。今日はお掃除に行くつもりだったんだ。」
と飛び起きました。

 箒としょうけとビニール袋を持って車を走らせました。
そして、その竜宮門に着いて、ほうきをトランクから出した時です。

磯から、黒いビキニの若い女性が上がって来ました。
彼女は沢山の拾ったゴミをビニール袋に入れています。

 お互いに同じ事をしているのを見て、
すぐにどちらからともなく話をしました。

近くで見ると、その人は歴史の教科書に出て来る、
阿修羅王の仏像そっくりな顔立ちの人です。
その黒く日焼けしてひきしまったな身体と、整った美しい顔にルナもほれぼれです。

「千葉から車でずうっと海沿いにやって来たんです。
海がゴミだらけだったので、拾った所です。」
彼女にとっては海の掃除は当たり前の事のようでした。

「ここのウニは食べられるのですか。」
「もちろん、大丈夫です。
漁師さんたちがここのウニを採って売っているのですから。」

ここでの漁は一般人はご法度ですが、
彼女は汚れた海しか知らなくて、ここの海の中にいるウニが
安心して食べられるかどうかを聞いて来たのです。

「この島の奥には行きましたか?」
「いいえ。」
「この道をずうっと行くと、有名な勝馬海水浴場があって、シャワーもありますよ。」
と教えて上げると、濡れた水着のまま、すぐに車に乗り込んで出発しました。

 彼女を見送ると、勇気100倍。道路の掃除を始めました。
だって、これって、結構照れくさいのです。

でも、同じ日に同じように掃除をする人間に出会えたなんて、
これこそ、神様の計らいだと、思いましたよ。

 帰りに志式神社の前を通る時、またカラスが
「カア、カア、カア、カア。」
と、遠くの空で鳴くのが聞こえました。
「あ、また4回だ。今日は行けないけど、またお参りに行きますね!」
と思いながら、家路を急ぎました。

 帰ってからルナパパが
「何かお知らせがありましたか。」
と聞いてくれました。
「うん。あった。あった。
同じように竜宮門を掃除する人がいたのよ。
彼女は海を。私は道路を。
あの、タイミングで会えるなんて、神様のはからいとしか考えられないよ。」
と、報告しました。

今考えると、この件が御縁で、
『姫宮さまたちの物語』を書くようになったのかな、と思いました。

豊玉姫や玉依姫が、この「わだつみのいろこの宮」の姫神です。
このあたりの海域が舞台だと分かってきました。

c0222861_10415871.jpg

海の中道から能古の島を望む

[PR]
# by lunabura | 2009-11-02 10:58 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(10)

小山田斎宮 (Ⅰ)神懸かりの地を捜して


小山田斎宮 (Ⅰ) 
福岡県古賀市小山田
オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して

c0222861_20322960.jpg

香椎宮での、仲哀天皇の突然の死。
何故、天皇は亡くなったのか。神功皇后(オキナガタラシ姫)と竹内宿禰
神意を尋ねずにはいられませんでした。亡くなったのは2月6日。大変寒い夜です。

天皇の亡骸は、すぐに山口県の穴門の豊浦の宮に船で移されました。
香椎に来る前に天皇が都とされた所です。
竹内宿禰が船に乗って送り、戻って来たのが、22日。往復で16日です。

神のご託宣を伺うために斎宮が営まれたのはいつでしょうか。
日本書紀を見ると、3月吉日に斎宮へ行ったと記述がありました。
天皇の崩御後、約一か月が経っていました。

この間に場所の選定がされました。穢れを特に忌み嫌う時代です。
神託を伺う場所は、香椎宮以外の地が求められました。

斎宮の場所については古典の本には、分からないと書いてあります。
しかし、香椎宮の近くに、伝承が二か所に言い伝えられています。
福岡県古賀市「小山田の斎宮」と粕屋郡久山町「山田の斎宮」です。
どちらかが、神功皇后の斎宮の可能性があります。

日本書紀には「小山田の斎宮」とはっきりと書いてあります。
しかし、現代では「小山田」は忘れ去られて、「山田の斎宮」の方が有名です。

江戸時代にも論考があっていますが結論は出ていません。
江戸時代では実際に確認しには行けなかったでしょう。
平成の今だから車で簡単に出掛けられます。
ようし、まずは自分の目で確かめてみようっと。

まずは古賀市の小山田の斎宮について書きましょう。 
c0222861_20335988.jpg

車で行くと、道は山脈に向かって進んで行きます。川沿いに上って行きます。
かつてはこの川を船で向かったのでしょう。

オキナガタラシ姫の一行が、香椎宮から船で海に出て、
右の方に進路を取って、海上を進めば、ほどなく小山田に向かう川口が現れます。
そこから入って、それを遡上して行けばここに着きます。

青々とした山脈に車で近付いて行くと、ワクワクして来ます。
船なら尚のこと、上陸が期待されたでしょう。

小山田の斎宮は山里にありました。小さな集落の中です。
ずっと昔からこの地の人々がコミュニティーを作り、力を合わせて暮らしていたのが伺えます。

 中央の小さな神奈備山。こんもりと樹々が茂っています。
そこが目指す小山田斎宮でした。
 

c0222861_20345240.jpg

 鳥居の左脇に小山田斎宮の石碑がありました。

c0222861_20353572.jpg

鳥居をくぐって行くと、すぐに二つ目の鳥居がありました。やたら古いです。
周りはイチイガシの自生地でした。古木が立ち並ぶのですが、
左右は小さな崖になっているので、杜は明るい印象です。

巨木を見ると、気分が高揚して来ました。見ているだけでうれしくなります。
こんな反応をするのは、私だけかなあ。

c0222861_20362079.jpg

あれ?参道の雰囲気が香椎宮の古宮への参道と似ている。
そう、斜面の傾斜と距離がほどよいサイズという印象がよく似ているのです。

ほどなく本殿に着きました。開けた敷地に宮が建ち、五色の旗が風に靡きます。
お祭りが近いのでしょう。

c0222861_20365858.jpg

この神社が氏子の方たちが大切にされているのが伝わってきます。
社殿の奥の方には山が続きます。ここは、ちょうど海に突き出た半島のような地形です。
本殿の前に立って手を合わせると、どこからか花の香りが漂って来ました。
古賀市の『小野村史』を見ると、斎宮について三か所も記事があります。
地元の伝承があるなんて、超ラッキーです。順に口語訳してみましょう。

日本書紀にある小山田邑は即ちここである。村社斎宮は字大裏に在り、その昔、神功皇后が三韓征伐に行かれる時、神の教えを請うために、斎(いつ)き籠(こも)られた宮所で、古宮の地を聖母屋敷と称え、本社の西南、小川を隔てて谷山とのさかいの丘の上にある。

今も小さな祠が五個ある。この地を汚せば必ず祟りありと言い、いにしえには香椎と並ぶ宮所であったが、兵火に遭って焼失して、文禄三年に今の社地に移し奉るものである。

ご神宝に神面を始め、斎宮当代の古祭器、古器物など、十数種類あってご由緒著しい。
明治40年1月8日、神饌幣帛科料供進社格に進まれて歳月を経て、次第に繁栄して、まさに崇敬すべき神社である。
聖母とはオキナガタラシ姫の事です。セイボ、ショウボ、ショウモという読み方をします。
当代の人々に、よほど慕われていたのですねえ。


                  (Ⅱにつづく)   

[PR]
# by lunabura | 2009-10-30 13:32 | 小山田斎宮・古賀市 | Trackback | Comments(0)

小山田斎宮 (Ⅱ)神懸かりの地を捜して


小山田斎宮(Ⅱ)   
オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して


c0222861_2051075.jpg

さあ、村史の次のページも読んでみましょう。

見てみると漢字だけです。仮名交じり文にもなっていません。
「、」や「。」さえついていないのです。誤植も多いし…。う~。こりゃ無理だ。読めない。 (;一_一)
該当する岩波版の『日本書紀』で訳してみます。

訳してみてびっくり。なんと迫力ある神懸かりのシーンが書いてありましたよ。 
村社 斎宮
祭神 天照大神 健布都神 事代主神 住吉三神 息長足姫尊
由緒 日本書紀 巻九の「オキナガタラシ姫(神功皇后)の尊の巻にこう書いてあります。

仲哀九年の春二月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御されました。この時皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。

そこで、群臣と百人の司たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

三月の壬申の一日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となられました。そして、武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。そうして、織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて、申し上げました。

「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。

「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。」と。

烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他に神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。

「他におられますか。」
天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ、そらにことしろ、たまくしいりびこ、いつのことしろのかみ)有り。」

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」

そこで、審神者が言うには、「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底に居て、海草のようにわかやかに出てくる神、表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとはおっしゃいませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。

と有ります。これが即ち、本宮の起源です。
この託宣でここにはオキナガタラシ姫の尊を一緒に御桐殿に合祀しています。
オキナガタラシ姫の尊は神恩を祈願して、稀有の神蹟を得ました。

斎宮ご祈願霊蹟
 聖母屋敷は本社の西南の小川を隔てた所にあって、今は民有地だ。
中央に聖母宮の小さな祠があり、周辺には大神宮址、武内社、-略―。
神懸かりとか、サニワとか、こうやっているのですね。なんだかすごいです。知りませんでした。

さて、この小山田斎宮に来て新たな謎が出て来ました。
Q1交通手段は本当に船なのでしょうか。
さきほど、船で行ったように書きましたが、 実際どうなのだろうかと思いました。
すると、この『小野村史』に答えが見つかりました。
「古賀村にて海に入る」 という一文があったのです。
この地に、古代の船のルートがあった事が確認できました。

Q2移動時間はどのくらいかかったのでしょうか。
  ここから香椎へは何日かかったのでしょうか。
  そう思っている時、たまたまテレビを付けると、NHKの「街道てくてく旅」で原田早穂ちゃんが、
  香椎宮から青柳まで、旧街道を歩いていました。なんというタイミングでしょう。

  彼女は朝出発して、三時には着いていたと思います。
  その青柳から小山田まではさらに1時間はかからないでしょう。
  彼女はのんびりと人と出会いながら歩いて、この時間です。
  なんだ、速足の人なら往復が簡単にできるような距離でした。

  古代の船の速度は歩行速度とあまり変わらないと確か船の本で読みました。

  香椎宮から船に乗って、一旦海上に出て、右に舵を取り、
  しばらく海上を通って、川を遡れば丸一日もかからずに着くのですね。

  疑問の一つがテレビのおかげで簡単に解けました。

  さて、こういう事から、この「小山田斎宮」については、否定する要素が全くありませんでした。

  日本書紀に書いてある「小山田」の地名もそのまま残っています。
  わざわざこれを否定して、「山田の斎宮」に軍配をあげるのは却って不自然だなと思うようになりました。

 Q3 何故この地が選ばれたのでしょうか。 
  ここは香椎宮に到着する前に、一度来た所らしいです。
  北九州からやって来ると、最後の停泊地になった可能性があります。

  神功皇后の一行は、ここで旅の汚れを落とし、
  明日はいよいよ宮へと向かうために、装いを新たにしたのではないでしょうか。

  香椎宮から程よい距離で、土地勘がある小山田を思い出して、
  そこを斎宮にしようと決めたのではないかと思うようになりました。 


でも、これではまだまだ納得できません。
さあ、もう一つの候補地、「山田の斎宮」のについても調べましょ。

c0222861_2056894.jpg

千年以上も経つイチイガシの巨木です。 


仲哀天皇が亡くなった事情は、右サイドバーのリンクからどうぞ。
『古事記の神々』のオキナガタラシ姫に書いています。
 

地図 小山田斎宮

[PR]
# by lunabura | 2009-10-30 00:00 | 小山田斎宮・古賀市 | Trackback | Comments(4)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー