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馬見神社(4)うまみ・白馬大明神とは彗星のこと?・日本に隕石が落下していた

馬見神社(4)

白馬とは彗星の事かなあ
日本に隕石が落下した記事を発見

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縄文時代に馬はいたのだろうか
このあたりは、やたらに馬が出てくるよ


地名や伝承、神社に奉納された馬、など、
この遠賀川流域には馬がよく出てくるのが気になりました。

日本の馬がいつからいるのかについては、神功皇后が新羅から連れて帰ったというのが
定説だと書いた文を読んだ事ガあります。

定説は書き換えられる事になりそうだ。

ところが、新宮町町史には、仲哀天皇と神功皇后が、騎馬訓練をした場所が掲載されています。
その地名を的野(まとの)と言います。これは当然新羅に戦闘に行く前の訓練です。
ですから、神功皇后が新羅から連れて帰ったという定説とは符合しません。

同時代を記す魏志倭人伝には「日本には牛馬がいない」と書いてあるのですが、
昨年でしたか、壱岐(いき)の島の遺跡から馬が一頭まるまる出土しました。
これで、日本には古くから馬がいた事が証明されました。

(ネットを検索すると、縄文時代に馬がいた事を証明するサイトがあります。)

縄文時代から日本には馬がいたと考えてよいようです。

念のため、地元の歴史愛好家にも聞いてみると、この辺りは古来、馬の飼育が盛んだったのだそうです。

なぜこんな事を確認したかと言うと、三千年前に白馬大明神が降臨したという伝承を考える時に、
その時代の人が馬を知っていないと、話にならないからです。

古代の人たちは馬をよく知っていました。これを前提にこの先を考えていきます。

白馬大明神とはなんだろうか。

3000年前に馬見山山頂付近に降臨した神。それを白馬と人々は名付けた。
これを考えていたら、ふと、星の事も知れないと思いました。

考えている間、何度も心に蘇るシーンがあったのです。それはヘールボップ彗星です。

飛行機に乗っていた時、「彗星が見えます」とアナウンスがあって、窓から見る事が出来ました。
大阪あたりの大きな山塊の上空に白い斜めの筋が見えました。動かない白い筋の光
とても不思議な光景でした。

馬見山の上に彗星が現れたら、これを人は白馬と呼ばないだろうか。


彗星は接近しながら同じ所に夜な夜な現れます。そして、いつか消えてしまいます。
その彗星が山頂にかかったら、白馬大明神が降臨したと言うのではないだろうか。

そこで、『儺の国の星』を開くと、流れ星を白馬に例えた記事が載っていました。
日本に隕石が落下した記事でした。

隕石の古語は「かたいし」でありました。「かた」とは「かかち」の略で、星の事であります。
昔、大隕石が落下して破片を地上に散らせたところを「かたかす」と呼びます。
博多の堅粕(かたかす)もその地であったらしく、推定2663年前の隕石が地下から発見されております。

「九州治乱記 巻7 
1465年9月13日夜
明月だといって、老若月を眺めていると、
西の空に大きな星が流れて、東の空に飛んで行き、
落ちた音はもう、雷のようで、
これを見聞きした者はみな地に倒れて気を失った。
近年は(隕石の落下が)続いていて、
こんな天災は古今聞いた事がないと、人々は話していた。」
(綾杉が現代語訳しました。)


これは九州島の近くに墜落した大流星の記述であります。
隕石口は「かさをり」と呼びます。奄美笠里(かさり)がこれであります。

流星が落下する時のすさまじい閃光と轟音と風圧を、
昔の人は千頭の白馬が疾駆するさまにたとえました。
奄美の伝説は、その時、天から白馬がおり、
一瞬にして天地が燃えたと語りますが、今も焼け焦げた根株が残り、
その場所は、5メートルも海の底に沈んでいると聞きますから、
今から500年昔の実話であったとききます。


中国での、彗星の記事も載っていました。
紀元前2279年、紀元前1098年と、彗星の記録が紹介されています。
彗星を鳳凰に例えていたそうです。

日本でも、11世紀に、記録がありました。(漢字がよく読めないので省略します)

昔は彗星の尾がかかる山を観と定めて、ここに天神地祇を祭った。
その観のあるところが国府であり、日振(こふれ)の略だった。

やはり、彗星が現れて、山に尾がかかると、ここに天地の神々を祀っています。
(観と国府については、よく分かりません。)

『儺の国の星』には、計算法が詳しく書いてあります。
天子のみが暦を支配できるのですが、この記録は天子というより太子の仕事だったそうです。

これらを踏まえると、やはり、馬見山に降臨した白馬とは、彗星か、流れ星ではないかと思いました。

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ニニギノ命がいた時代に彗星が現れたのが伝承となったのでしょうか。

いずれにしろ、ここに天孫を祀った氏族がいたのは、間違いありません。
それが誰なのか。意外にも他の神社の記録に見つける事ができました。
現地に行ったら、紹介したいと思います。

と言う事で、それまで、別のところを逍遥しましょ。

追記
その答えが日若神社で分かりました。
右のカテゴリからどうぞ。
 
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# by lunabura | 2010-03-26 17:31 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Trackback | Comments(4)

多賀神社 (1) イザナギとイザナミの夫婦神を祀る宮

多賀神社 (1)
福岡県直方市
イザナギとイザナミの夫婦神を祀る宮
シンボルはセキレイと桃の子だよ


多賀神社は小高い丘の上にありました。長い石段が堂々と高く高く伸びています。

駐車場へは、丘を迂回して、裏側から上ります。
境内がとても広い上に、直方の町がぐるりと見渡せる、神が鎮座するにふさわしい一等地でした。
山門がかなり大きいです。

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これをくぐって行くと、本殿。
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おお、これもまた大きい。
創建は不明ですが、江戸時代や炭鉱時代に、大変あつく信仰された所のようです。

お祭りも、大名行列があって、平安時代から江戸時代までの衣装の人々が練り歩くのが見られるそうです。
御神幸は御輿(みこし)でなく、神馬に載せられてのお渡りとか。御輿でないのは全国でも珍しいそうです。
そうそう、馬を見に来たのでした。

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等身大の立派な像です。

さあ、御祭神はどなたでしょうか。
由緒書きがありました。(口語訳)
御祭神 イザナギの大神とイザナミの大神。
寿命の神である多賀大神は天照大神のご両親で、この宮は古く日の若宮と言いました。
奈良朝の養老三年に再建し、天平八年に妙見(みょうけん)大明神と称えました。
ここにはイザナギとイザナミの夫婦神が祀られていました。
この二人の神が生んだ子供の数は大変な数です。
日本の島々を生み、海や山や自然の神々を生み、最後の最後にアマテラスを含む三貴神を生みました。

ちょうど、この二柱の神を現代語訳した所ですが、この二柱が日本神話の中枢にある、
大事な神々だというのがよく分かりました。

夫婦の始まりであり、出産、死去、子殺し、死後の世界、禊、国生み、神生みと、
あるいは人口の増加の謂われ、などなど人間の普遍的な営みをシンボル化した夫婦の神なのです。

この神社のシンボルは鶺鴒(せきれい)と桃の実だって!
なるほどですねえ。
セキレイとは、雀の大きさの可愛らしい小鳥です。白と黒色で、尻尾がシュッと長く伸びています。
(よく、自動車のサイドミラーに映った自分を見てる変わった鳥です。)

この鳥は尻尾を上下に振り振りして歩きます。
これを見て、イザナギとイザナミの神は夫婦の交わりの方法を学んだといういわれがあります。
だから、セキレイと言えば、夫婦の円満を象徴する鳥なのです。

桃の子は、この夫婦が死に別れした後のエピソードから来ています。
黄泉の国に妻を探しに行ったイザナギですが、約束を破って妻の亡骸を見てしまい、
恐れおののいて逃げ出してしまいます。イザナミはそれを恥じ、追っ手を差し向けます。

次は古事記の該当の部分です。

(イザナミの命が差し向けた)軍勢はさらに追いかけて来て、黄泉比良坂(よもつひらさか)のふもとに着きました。その時、イザナギの命が、そこに、なっていた桃の子を三つ取って、待ち構えて投げつけると、みんな逃げて帰りました。

そこで、イザナギの命はその桃の子に言いました。
「お前は、私を助けてくれたようにして、葦原の中つ国にいるすべての青人草(あおひとくさ=人々)が苦しい瀬に落ちて憂(うれ)い悩む時に助けてあげなさい。」
と言って、オオカムヅミの命と名を授けました。

こうして、助けてくれた桃の子に大神の実という名前を授けました。
桃って可愛らしい姿をしながら、災いを払ってくれるすごいパワーの持ち主でした。
この桃の子が神社のシンボルです。

お祭りには桃のお菓子が与えられるそうですよ。魔を払い、人々を幸せにしてくれる。
神話の世界が今でも生きていました。

セキレイや桃と言えば、イザナギとイザナミの事だって、昔の人はよく知ってたんですね。

(つづく)
二人の神について、現代語訳しました⇒サイドバー
次回はここが妙見神社となった訳にチャレンジです。



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# by lunabura | 2010-03-10 20:47 | 多賀神社・たが・直方市 | Trackback | Comments(0)

多賀神社(2)ここは北斗七星を祀る宮だったよ


多賀神社 (2)
ここは北斗七星を祀る宮だったよ

多賀も妙見もイザナギ夫婦も
みーんな同じ星座の事だった

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今日も由緒書きをひも解いて行きましょう。

御祭神 イザナギの大神とイザナミの大神
寿命の神である多賀大神は天照大神のご両親で、この宮は古く日の若宮と言いました。
奈良朝の養老三年に再建し、天平八年に妙見(みょうけん)大明神と称えました。
この由緒書きにはこの宮が日の若宮とも言っていたと教えています。
なんともゆかしい名前ですね。

また、奈良時代になると妙見大明神と称えたとも書いてあります。
すると、イザナギ・イザナミ夫婦を妙見大明神と呼んだんだ。
どういう関係があるんだろ。今日はその由来を考えてみました。

辞書で確認すると、妙見とはもともとは北極星の事でした。
のちに北斗七星とごちゃまぜになったそうです。

その原因は歳差運動のせいじゃないかな~
もともと5000年前の中国では天子のシンボルが北極星でした。
当時は竜座のツバーン星が北極星として真北に輝いていました。
ですから、天子のシンボルは竜とツバーン星になりました。

ところが、歳差運動のために北極星は移動して行き、数千年たつと真北には星が無くなりました。

そんな時代に、北極星の信仰は、言葉だけは残っているのに実際に星が見当たらないので、
人々は近くにある北斗七星を当てはめるようになったのではないかと考えました。

それから、さらに数千年たった現在、私たちの夜空にはポラリスが北極星となって輝いています。

こんな事情で、妙見は北斗七星でも北極星もOKになっちゃったと考えました。
(歳差については、高良大社でも少し書いてます。)

それじゃあ、この多賀の地に祀られたのは
北斗七星かな、北極星かな?


その手がかりはイザナギとイザナミにありました。
『儺の国の星』によると、北斗七星のうち、四角い枡(ます)がイザナギで、
三つの星の柄(え)がイザナミだと言い伝えていました。

柄が、はまる所がタガ(多賀)です。
こうして、北斗七星を多賀の星と呼んでいました。

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(ついに星座が作れるようになりました!)

まとめてみると、北斗七星をイザナギ・イザナミの神に例えた氏族がいて、
多賀の星と呼んでいたけれども、仏教が入って来たので、新たに妙見とハイカラに呼び方を変えた
と解釈しました。

いずれにしろ、ここは北斗七星を祀る聖地でしたよ。
氏族によって、聖なる星が違うので、ここの里人は北斗七星。
覚えておかなくちゃ。
(つづく)

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# by lunabura | 2010-03-09 17:54 | 多賀神社・たが・直方市 | Trackback | Comments(4)

多賀神社(3)ここはイザナギの命が光り輝いて出現した岬だった

多賀神社 (3)


伝承って面白い!
ここはイザナギの命が光り輝いて出現した岬だった


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神社のホームページには由緒がたくさん書いてありました。

しかも古事記や日本書紀とは違う伝承です!
これは楽しみ。
でも…。
漢字がムズカシイ…。
頑張って訳します!

国土を作り固めて、多くの神々を生み終えたイザナギの命が、
天にいらっしゃる天津(あまつ)神の所に、戻る途中の事です。

この地に、にわかに五色の瑞雲(ずいうん)がたなびきました。
光明があかあかと天地を照らして、
国人(くにびと)たちがこれを見て仰天するうちに、
イザナギの命がその姿を現して、言われました。

「私は群神の祖(おや)である。
このたび、国土や万物を生成して、天に帰る途中だが、
国を守り、人々が安らかでいられるように、
今、この山にその跡を示すものである。
なんじらは、この私を祀って、
長寿と幸福を祈るがよい。」

国人たちは大変喜んで、ただちにこの山を日若山と呼び、
イザナギの命を日の若宮として拝み、
社伝を立てて、日若大明神とあがめました。
(多賀神社誌)

なんと、珍しい伝承でしょう。
要約すると、
国や神を生み終えたイザナギの命は
天に戻る途中、この山の上で光となって出現し、
「ここで自分を祀れば、国人たちを守る。」と約束されたという事です。
人々は喜んで、イザナギの命を日の若宮と呼び、
この地を日の若山と呼びました。


イザナギの命だけが登場しているのは、
妻のイザナミがすでに亡くなっているためですね。
また、
イザナギの命は天に帰る途中だったと書いています。
古事記では、
イザナギの大神は淡海(おうみ)の多賀に鎮座されています。
となっています。
ちょっと違うのが面白い。


ここが発祥の地?

淡海とは近海(おうみ)とばかり思っていたけど、
良く見ると漢字も意味も違うぞ。
淡海とは、淡水と海水とが混じりあう所?
それじゃあ、ここがそう。
ここは古事記に書いてあった場所の可能性が出て来ました。

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神社は丘の上にあるので、直方市の町並みが見渡せました。


古代は岬だった?

ここは地図をみると陸の中ほどにありますが、
縄文時代などはすぐそばまで海が迫っていました。

この遠賀川流域は、縄文時代の遺跡が沢山出ていて、
6000年前の縄文人の骨も出土しています。
早くから、人々が住み着いた土地です。
海から見ると
この丘は遠くから分かる岬だったと思われます。

船を操る海人族の人たちが、岬の上に光り輝く北斗七星を見て祀ったのが
この宮の始まりではないかと思いました。
北斗七星を多賀の星と呼び、守護の神と仰いだ氏族たちです。

初めてこの土地に来た時に見つけた岬の上にこの星が輝いたのでしょうか。
それとも、国造りをし終えて一段落した記念でしょうか。

(つづく)
次回はこの宮に伝わる古縁起です

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# by lunabura | 2010-03-08 20:08 | 多賀神社・たが・直方市 | Trackback | Comments(0)

多賀神社(4)古縁起が伝える驚きの内容

多賀神社 (4)

古縁起が伝える驚きの内容
この宮は高千穂の大宮の鬼門にあたる


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神社のホームページには、他にも古縁起が載っています。
そこに驚くべき内容が書いてありました。訳してみます。
そもそも、筑前の国は筑紫の島の北部に位置していて、
特に鞍手(くらて)郡東蓮寺村は古くは日若(ひわか)の里と言っていた。
この地は神代の帝都の日向の国・高千穂の大宮より、ちょうど鬼門(東北)の方位にあるので、
太古、イザナギの大神が国土万物をすべて生成し終わって、この地に御身を隠された。

何に驚いたかと言うと、
①この地は帝都の日向の高千穂の宮の鬼門(東北)にある。
②イザナギの命はここに身を隠した。
         という二点です。

さっそく①について見て行きましょう。
古縁起には、この多賀神社が九州の北部にあり、帝都の鬼門にあると書いています。
すると、高千穂の大宮はここから南西にあると言う事になります。

日向の国高千穂と言えば、宮崎県ですが、直方(のおがた)市からは、はるか南の方にあります。

もしかしたら、現代の私たちの知らない日向(ひむか)がある?
これはどういう事だろう。
この古縁起の言う神代の帝都はいったい何処だろうか。
探してみよう。

この文から引き出せるのは、
多賀神社が鬼門にあるという事は、その南西に帝都がある。
そこが日向の高千穂の宮である。

という事です。
日向という地名は各地にあるので、ターゲットは沢山あります。
この神社の南西線上には、何かそれらしき都の跡があるでしょうか。

それを探す前に、古縁起を書いた人の考える鬼門を含む神代の国らしきエリアを
確認しておきたいと思います。
候補1 狭いエリアでは、六獄(むつがたけ)山を中心とした旧鞍手郡のエリア。

候補2 一つ広いエリアを考えると、嘉穂(かほ)盆地全体のエリア。
中心は飯塚市の立岩堀田遺跡か。

候補3 さらに広げて、福岡県北部をエリアとする。
南西の山を越えると、昔から栄えていた太宰府や、背振山がある。

候補4 九州全体をエリアとして、宮崎の日向から見て、直方市が鬼門の方向と勘違いした。

この古縁起を書いた人の宇宙観はどれでしょうか。
とても珍しい資料なので、検証してみると面白そうです。

とりあえず、南西ラインを見て行くと、六獄山、笠置山、立岩堀田遺跡、太宰府、背振山が
線上に浮かんできました。
六獄(むつがたけ)山は宗像三女神の降臨地
笠置山はニギハヤヒの降臨地
として伝えられている所です。

それでは、地図を見てみましょう。


この日向の高千穂がどこにあるのか、古来論争があっています。
候補4の宮崎については、江戸時代の著名人が宮崎県だと言ったために、
定説のようになってしまいましたが、多くの疑問が出されています。
考古学的にも、縄文や弥生時代の出土例があまりなく、宮崎に都を見つけるのは難しいらしいです。

高千穂探しが有名な理由

高千穂が何故話題になるかというと、天孫降臨の地が決まるからです。
ニニギの命が最初に高千穂のクジフル岳に降臨したという事から、
日本の始まりの場所が分かるからです。

これまでは別に、どっちでもいいやと思っていたのですが、
ここに直方市が高千穂の東北にあるという古資料が出て来たら、
がぜん、ホントカナって、調べたくなりますよね。
この遠賀川流域は見逃せない所になりました。(ぶらぶら歩きをする内に、見つかるかも。)

***

さて、②の文章もチェックしましょう。
イザナギの命はここに身を隠した。

身を隠すというのは亡くなるという意味です。
イザナギの命の死去については、古事記では
そのイザナギの大神は淡海(おうみ)の多賀に鎮座されています。

という書き方で、具体的には触れていません。
でも、この宮の古縁起では、「ここに身を隠した」と書いています。
これも、新発見です。

HPには、さらに別の古縁起が書いてありました。
イザナギの命は国土や万物の生成の仕事を成し遂げた。
天徳はとても大きい。ここで天に昇って報告された。
それから、日の少宮に留まって住まわれた。

以上、いくつかの古縁起が伝える内容をまとめると、
イザナギの命が国づくりをしたあと、ここに住居を構え、ここで亡くなった

というモチーフが伝えられている事になります。
真偽は分からないけれど、面白い伝承です。

次回はこのお宮に伝わる古い歌謡です。

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# by lunabura | 2010-03-07 10:49 | 多賀神社・たが・直方市 | Trackback | Comments(4)

多賀神社(5)ここでは歌垣があっていた?

多賀神社 (5)

ここでは歌垣があっていた?
恋を成就させる神様の前で踊ろうよ。


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多賀神社には「日若(ひわか)踊り」が伝わっていました。

これには歌詞も伝わっています。
それを現代語に直しました。

多賀のカムロギイザナの君は
黄泉の国や常世の国にお行きになって、
国を生み、人を生んで、筑紫に帰って来られた。
ここを倉戸と、お倉を定めて、
百千万代、静玉が鎮むように鎮まられたからか、
日の若宮とここの山を神も言うし、人も伝えた。

多賀の宮の主、イザナの君は
天降りなさって大八洲島を生み、
天地の神も生んで、
八百万のものを生んで、
豊かな国筑紫の島根、この島の
比古と宇麻美の河合の
小高い山根を見て、ここがよい、
ここがふさわしいと立ち寄って倉戸を造られた。

永久にその身を隠した玉を置いて、
玉を留められた。
こういう事で、神代から伝えて、
天津御国に高く光る日の若宮とこの宮を、
日の若山とこの山を
すべて称えて仰いだことよ。

天に輝く国の 棚機(七夕)か 
それか あらぬか
高く光る 日の若宮の 
神嘗(かんなめー今年の収穫を奉納する)の日若祭りは。

今日一日 舞え舞え騒げ 騒げ舞え
妹今に来む 背子今に来む

これは万葉調で、長歌の一部だそうです。
原文でよむとリズム感があってとてもいい雰囲気です。

では、まず、前半のポイントを見て行きます。

比古と宇麻美は聖なる山

前半の内容をまとめると、
イザナギの命は国や神や人を生んでこの筑紫に帰ってきた。
そして、この多賀の地を見て、
「ここがいい」、といってお住みになって、
最後にはこの地で亡くなりました。
という事になります。

そして、イザナミの命がこの地を気に入った理由が
豊かな国、筑紫の島根、この島の
比古と宇麻美の河合の
小高い山根を見て、ここがよい、
ここがふさわしいと立ち寄って倉戸を造られた。
という事です。

この歌には、比古宇麻美への賛歌が込められています。

今日はこれに注目しましょう。

比古宇麻美とは、
英彦山(ひこさん)と馬見山(うまみやま)だと思います。
この多賀神社のずっと南に聳えている山です。

遠賀川はこの二つの山から流れて来る水を集めて、海にそそいで行きます。
その途中にある小高い丘(岬?島?)を見て、
ここが良いと言って倉戸を建てて、
魂を鎮める玉を置かれた訳ですから、
気に入った理由が、この地形だというのが分かります。

英彦山と言えば、福岡県では古来から篤い信仰があります。
なにしろ、かつては県内の男性が成人すると、
必ず参拝しに行ったというのですから。

馬見山については、荒穂ネットワークらしきものがあるのが分かりました。
日天宮、荒穂神社参照)
流域の氏族がこの二つを聖なる山としていた事が
思いがけずこの歌で分かりました。

だから、この先、この流域の伝承を見て行く時に、
英彦山と馬見山は
押さえておくべき大切な場所だと思iいました。

***

次に歌の後半を見てみましょう。
祭りのようすが歌われています。

七夕さまのように年に一度の恋を

今日一日 舞え舞え騒げ 騒げ舞え
妹今に来む 背子今に来む
(彼女が来るよ。彼氏が来るよ。)

(いも)や背子(せこ)は、
恋い慕う男女が互いを呼ぶ名前です。

今日一日だけは踊って騒いで、
好きなあの子に会えるんだと、
ずいぶん盛り上がった祭りのようですね。

歴史の教科書に
古代日本には歌垣が各地にあったと書いてありました。
こんな歌がその歌垣の歌かもしれないなと思いました。

「天に輝く国の棚機(たなばた)か」と歌っているので、
年に一度の恋のお祭りだったんでしょう。

歌垣から古代の日本人について考えました。

縄文時代の日本人は平和な暮らしをしていたと言われます。
弥生時代になって、半島や大陸から渡来人がやって来ると、
稲作が飛躍的に向上したけれど、
反面、戦いも持ち込んだようです。

部分的には戦闘があったけれども、
それでも、縄文人と弥生人とは、
うまく住み分けをして、平和に暮らしていたらしいです。

それが、だんだん単一民族としてまとまって行きました。

伝承を尋ねていて、
かつては隣村とは決して結婚しなかったというケースを、
北九州市と宝珠山村で聞きました。
部族が違っているので、結婚が禁じられた例かなと思いました。

そんな例がある一方で、
縄文人と弥生人の混血がすすんでいきます。

この謎を解くカギがこの歌垣かも、と思いました。
大体が通い婚の時代です。
魏志倭人伝には、一人の男に対して、妻が何人もいると書いてあります。
そして、国が100ぐらいに分かれていたというので、
結婚となると、自分の国(氏族)の中で行われたと思われます。

しかし、
人間や動物は本能的に近親婚を避けようとします。
そして、出来るだけ遠い種と交配する事で、
種を健全に保とうとします。
そんな機会がこの歌垣だったんじゃないかなと、ふと思いました。

玉依姫のような極端な近親婚が支配者層にはあっても、
一般の人たちは、年に1,2回の自由恋愛の日があって、
隣の国のお祭りなんかにこっそりと加わって、
それで、ゆるやかに単一民族になって行ったのかもしれないと思いました。

幼子の棺が出土した例があります。
とても、大切に埋葬されていたその子は
縄文人と弥生人の混血でした。
両親はさぞかし悲しい思いをしたでしょうが、
そこに、日本人のルーツの愛の姿を垣間見る事が出来ます。

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境内には蛭子社がありました。
蛭子は二人が初めて生んだ赤ん坊。
でも、子供の数には数えないと古事記には書いてあります。
エビスともヒルコとも読みます。



さて、という事で次回は気になる馬見神社に行ってみましょう!

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# by lunabura | 2010-03-06 21:42 | 多賀神社・たが・直方市 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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