ひもろぎ逍遥

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斎宮(山田)(Ⅱ)二つの斎宮の謎が解けた

斎宮(いつきのみや)(山田)(Ⅱ)

二つの斎宮の謎が解けた


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もう一つ由緒書きがありました。
分かりやすく書きなおしながら、読んで行きましょう。
        (面倒くさい人は飛ばして結論へどうぞ)


斎宮
御祭神 
  天疎向津姫命(あまさかるむかつひめのみこと)(天照大神)
  武甕槌命(たけみかづちのみこと)
  事代主命(ことしろぬしの命)
  住吉三神(表筒男、中筒男、底筒男)
  息長足媛神(神功皇后)
合祀 六所神 (イザナギノ尊、イザナミノ尊、ニニギノ尊、速玉男命
   コトワケオの命、国常立の尊)豊受大神
境内社 祇園社

山田邑斎宮の由来記
 当宮は神功皇后が新羅征伐のとき、みづから神主となり、
神教を祈願された霊蹟の地であり、つぎのような由来を伝えている。


  第14代仲哀天皇は仲哀八年巳卯の春、
神功皇后と御一緒に熊襲征伐のために筑紫の香椎宮に行幸啓された。

そのとき皇后に
「熊襲が謀反するのは、新羅が後援しているからで、
本幹たる新羅をお攻めになると、枝葉の熊襲はみづから枯れるだろう。」
という神のお告げがあった。

しかし仲哀天皇は、神のおつげを無視して熊襲を討たれたため、
失敗されて、香椎宮に帰られ、翌年二月、病気で崩御された。

 皇后は非常にお嘆きになったが、密かに屍を納めになり、
喪を隠して、賊徒を征伐する業をお継ぎになった。

 そうして、香椎宮から群臣や百寮を率いて、小山田邑(上山田)に行啓され、
お住まいになったところが、聖母屋敷で、
聖母屋敷の西南にあたる六所の地に斎宮を造営され、
皇后みづから、神主となり、六所神を祀り、
三月一日から七日七晩戦勝の祈願をなされた。

神々のご加護により、国内も治まり、三韓を戦わずして、平定された。

 皇后が諸々の戦術と戦勝祈願をされた六所大明神は
慶長年中に大洪水で破損したので、村民は非常に恐れおののいて、
聖母屋敷に合祀した。
この社の跡を「ろくしゅう」と言って、六所田(神田)の中に
今も社の跡を残されている。

 なお、境外神社として審神者(さにわ)神社があるが
祭神は中臣烏賊津使(なかつおみ)。

「日本書紀」の神功皇后紀に皇后の祈願に際して中臣烏賊津使を召して、
審神者とす、とある。
審神者とは神の託宣請うてその意を伝える人である。(略)

 


この由来書は日本書紀から説を引用してあります。
実は、仲哀天皇の死因については、日本書紀にはいくつもの説が書いてあります。
記紀が書かれた時代にはもう、よく分からなくなっているのですね。

この山田斎宮では、熊襲征伐に行って、矢に当たったのが死亡原因だ
という説を採用してあります。

由緒書きでは、群臣や多くの長官たちを連れて移り住んだとあります。
大々的に移動して、それから、斎宮を営んでいます。

少し無理があるようです。
仲哀天皇の死を隠しているのですから。
時代が経つにつれて話が変化したようです。

何せ、1800年前の話です。
話が変わって当然です。

この斎宮のキーワードを考えました。
それは「戦勝祈願」です。
そこでこんな推理が生まれました。

二つの斎宮がある訳はこうだ?

さあ、ルナ流の謎解きです。

香椎宮で仲哀天皇が亡くなった後、
竹内の宿禰は亡骸を船で山口県の穴門宮にお移しし、
二週間後に戻って来た。

それから、古賀市の小山田で斎宮を営み、三人で神意を尋ねた。
その結果、天照大御神の御意と分かったので、香椎宮に戻って、
群臣らと協議して、新羅攻撃を決定する。

それから、群臣らを率いて、山田の斎宮の地に向かう。
そして、神宮皇后らが、久山町の神路山で、
祟られた天照大御神をお祀りする。
斎宮に戻って、六所宮の神々を呼んで、戦勝祈願の神事をした。


いかがですか。
こういうストーリーだと、二つの斎宮と聖母屋敷の地名が
今に残る謎が解けます。

まあ、また新たな発見があると、推理は変わるかもしれません。
それもよし、としましょう。    

あなたはどちらが斎宮だと思いますか?
コメント寄せてくださいね。

この「二つの斎宮」を楽しむコース
お勧め順路

1、全体のストーリーをつかむために…『姫宮さまたちの物語』 ⇒ オキナガタラシ姫
2、仲哀天皇の崩御現場に行く   … 『ひもろぎ逍遥』     ⇒ 香椎宮
3、神宮皇后が神懸かりした斎宮に行く …             ⇒ 小山田斎宮
4、戦勝祈願をした斎宮に行く(このページ)  …         ⇒ 斎宮 (山田)


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本殿の右後ろにある、鳥の姿をした木です。
そっくり!

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# by lunabura | 2009-11-05 00:00 | 斎宮・いつきのみや・粕屋郡 | Trackback | Comments(0)

二見岩 竜宮門と名付けちゃいました


二見岩   福岡県福岡市東区志賀島

竜宮門と名付けちゃいました

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「志賀海神社の神様は、今、島の横の磯の岩場にいらっしゃるのよね。」
と、知りあったばかりのMさんが何度も言います。

ルナは神社大好き人間だけど、人には内緒です。
だから、まさか、いきなりこんな話を聞かされていいのかしらと、戸惑いました。

Mさんの話がどうしても気になるので、ある朝、
その神社とその磯の岩場に行きました。

ルナは神様がいるかどうかは分からないのですが、
神社は清々しくて、とても幸せな気持ちになります。

志賀海神社にお参りした後、
志賀島を外周するドライブコースを車で走りました。
右側はずっと海です。
とてもきれいな海です。

ガードレールにはトンビが、数十羽も止まって羽根を休めていました。
こんなに沢山の大きな野鳥を見れるなんて、
何か、ラッキーな気分です。

そのまま車を走らせると、Mさんの言う磯の岩場はすぐに有りました。
そこは自然と車を止めたくなる景勝の地です。
大きな岩がごろごろしていて、磯遊びには持ってこいの場所です。

車を降りて立つと、目の前に巨大な岩が二つ、
まるで海へと続く門のようにそびえていました。

私はその正面に立って見とれていました。

すると、その正面の沖合の海が丸く光り出したのです。
その時気づいたのですが、その日は曇りでした。

そして、その沖合の海の上の雲だけが丸く切れて、
太陽の光がまっすぐ射したのです。
まさにスポットライトでした。

「あそこが、竜宮への入り口だわ。」
と、思ってしまいました。
そこで、ルナはこの磯を秘かに『竜宮門』と名付けました。

それから画家の青木茂の描いた絵「わだつみのいろこの宮」
というタイトルが思い出されました。

「きっと、あれが、わだつみの神のいらっしゃる海の底のお宮の入り口だ。」
と、自然に手を合わせました。


でも残念な事に足元はゴミだらけ。
何も掃除道具がないので、もう一度、
今度は掃除に来ようと思って家に帰りました。

帰り道、トンビたちはまだガードレールの上に止まっていました。

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右側の岩には穴が開いていました。
こんなのが世界中にあります。


 何故二人の人間が同じ日に掃除に来たの? 

 掃除をしようと思いつつ、なかなかチャンスがなかったのですが、
ある日、「明日行こう。」と思い立ちました。

その頃は何故か朝早くから目が覚めてしまう日が続いていました。
「まあ、目が覚めたらね。」
と軽く思いながら寝ました。

翌朝、5時に目が覚めました。

寝ぼけてしまい、「なんでまた早く目が覚めたんだろ。」
と思って寝直しました。

すると、なんと、カラスがベランダに止まって、
「カア、カア、カア、カア」と四回鳴いたのです。
こんな事は初めてです。
「あ、起こされた。今日はお掃除に行くつもりだったんだ。」
と飛び起きました。

 箒としょうけとビニール袋を持って車を走らせました。
そして、その竜宮門に着いて、ほうきをトランクから出した時です。

磯から、黒いビキニの若い女性が上がって来ました。
彼女は沢山の拾ったゴミをビニール袋に入れています。

 お互いに同じ事をしているのを見て、
すぐにどちらからともなく話をしました。

近くで見ると、その人は歴史の教科書に出て来る、
阿修羅王の仏像そっくりな顔立ちの人です。
その黒く日焼けしてひきしまったな身体と、整った美しい顔にルナもほれぼれです。

「千葉から車でずうっと海沿いにやって来たんです。
海がゴミだらけだったので、拾った所です。」
彼女にとっては海の掃除は当たり前の事のようでした。

「ここのウニは食べられるのですか。」
「もちろん、大丈夫です。
漁師さんたちがここのウニを採って売っているのですから。」

ここでの漁は一般人はご法度ですが、
彼女は汚れた海しか知らなくて、ここの海の中にいるウニが
安心して食べられるかどうかを聞いて来たのです。

「この島の奥には行きましたか?」
「いいえ。」
「この道をずうっと行くと、有名な勝馬海水浴場があって、シャワーもありますよ。」
と教えて上げると、濡れた水着のまま、すぐに車に乗り込んで出発しました。

 彼女を見送ると、勇気100倍。道路の掃除を始めました。
だって、これって、結構照れくさいのです。

でも、同じ日に同じように掃除をする人間に出会えたなんて、
これこそ、神様の計らいだと、思いましたよ。

 帰りに志式神社の前を通る時、またカラスが
「カア、カア、カア、カア。」
と、遠くの空で鳴くのが聞こえました。
「あ、また4回だ。今日は行けないけど、またお参りに行きますね!」
と思いながら、家路を急ぎました。

 帰ってからルナパパが
「何かお知らせがありましたか。」
と聞いてくれました。
「うん。あった。あった。
同じように竜宮門を掃除する人がいたのよ。
彼女は海を。私は道路を。
あの、タイミングで会えるなんて、神様のはからいとしか考えられないよ。」
と、報告しました。

今考えると、この件が御縁で、
『姫宮さまたちの物語』を書くようになったのかな、と思いました。

豊玉姫や玉依姫が、この「わだつみのいろこの宮」の姫神です。
このあたりの海域が舞台だと分かってきました。

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海の中道から能古の島を望む

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# by lunabura | 2009-11-02 10:58 | 志賀島の各地 | Trackback | Comments(10)

小山田斎宮 (Ⅰ)神懸かりの地を捜して


小山田斎宮 (Ⅰ) 
福岡県古賀市小山田
オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して

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香椎宮での、仲哀天皇の突然の死。
何故、天皇は亡くなったのか。神功皇后(オキナガタラシ姫)と竹内宿禰
神意を尋ねずにはいられませんでした。亡くなったのは2月6日。大変寒い夜です。

天皇の亡骸は、すぐに山口県の穴門の豊浦の宮に船で移されました。
香椎に来る前に天皇が都とされた所です。
竹内宿禰が船に乗って送り、戻って来たのが、22日。往復で16日です。

神のご託宣を伺うために斎宮が営まれたのはいつでしょうか。
日本書紀を見ると、3月吉日に斎宮へ行ったと記述がありました。
天皇の崩御後、約一か月が経っていました。

この間に場所の選定がされました。穢れを特に忌み嫌う時代です。
神託を伺う場所は、香椎宮以外の地が求められました。

斎宮の場所については古典の本には、分からないと書いてあります。
しかし、香椎宮の近くに、伝承が二か所に言い伝えられています。
福岡県古賀市「小山田の斎宮」と粕屋郡久山町「山田の斎宮」です。
どちらかが、神功皇后の斎宮の可能性があります。

日本書紀には「小山田の斎宮」とはっきりと書いてあります。
しかし、現代では「小山田」は忘れ去られて、「山田の斎宮」の方が有名です。

江戸時代にも論考があっていますが結論は出ていません。
江戸時代では実際に確認しには行けなかったでしょう。
平成の今だから車で簡単に出掛けられます。
ようし、まずは自分の目で確かめてみようっと。

まずは古賀市の小山田の斎宮について書きましょう。 
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車で行くと、道は山脈に向かって進んで行きます。川沿いに上って行きます。
かつてはこの川を船で向かったのでしょう。

オキナガタラシ姫の一行が、香椎宮から船で海に出て、
右の方に進路を取って、海上を進めば、ほどなく小山田に向かう川口が現れます。
そこから入って、それを遡上して行けばここに着きます。

青々とした山脈に車で近付いて行くと、ワクワクして来ます。
船なら尚のこと、上陸が期待されたでしょう。

小山田の斎宮は山里にありました。小さな集落の中です。
ずっと昔からこの地の人々がコミュニティーを作り、力を合わせて暮らしていたのが伺えます。

 中央の小さな神奈備山。こんもりと樹々が茂っています。
そこが目指す小山田斎宮でした。
 

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 鳥居の左脇に小山田斎宮の石碑がありました。

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鳥居をくぐって行くと、すぐに二つ目の鳥居がありました。やたら古いです。
周りはイチイガシの自生地でした。古木が立ち並ぶのですが、
左右は小さな崖になっているので、杜は明るい印象です。

巨木を見ると、気分が高揚して来ました。見ているだけでうれしくなります。
こんな反応をするのは、私だけかなあ。

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あれ?参道の雰囲気が香椎宮の古宮への参道と似ている。
そう、斜面の傾斜と距離がほどよいサイズという印象がよく似ているのです。

ほどなく本殿に着きました。開けた敷地に宮が建ち、五色の旗が風に靡きます。
お祭りが近いのでしょう。

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この神社が氏子の方たちが大切にされているのが伝わってきます。
社殿の奥の方には山が続きます。ここは、ちょうど海に突き出た半島のような地形です。
本殿の前に立って手を合わせると、どこからか花の香りが漂って来ました。
古賀市の『小野村史』を見ると、斎宮について三か所も記事があります。
地元の伝承があるなんて、超ラッキーです。順に口語訳してみましょう。

日本書紀にある小山田邑は即ちここである。村社斎宮は字大裏に在り、その昔、神功皇后が三韓征伐に行かれる時、神の教えを請うために、斎(いつ)き籠(こも)られた宮所で、古宮の地を聖母屋敷と称え、本社の西南、小川を隔てて谷山とのさかいの丘の上にある。

今も小さな祠が五個ある。この地を汚せば必ず祟りありと言い、いにしえには香椎と並ぶ宮所であったが、兵火に遭って焼失して、文禄三年に今の社地に移し奉るものである。

ご神宝に神面を始め、斎宮当代の古祭器、古器物など、十数種類あってご由緒著しい。
明治40年1月8日、神饌幣帛科料供進社格に進まれて歳月を経て、次第に繁栄して、まさに崇敬すべき神社である。
聖母とはオキナガタラシ姫の事です。セイボ、ショウボ、ショウモという読み方をします。
当代の人々に、よほど慕われていたのですねえ。


                  (Ⅱにつづく)   

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# by lunabura | 2009-10-30 13:32 | 小山田斎宮・古賀市 | Trackback | Comments(0)

小山田斎宮 (Ⅱ)神懸かりの地を捜して


小山田斎宮(Ⅱ)   
オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して


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さあ、村史の次のページも読んでみましょう。

見てみると漢字だけです。仮名交じり文にもなっていません。
「、」や「。」さえついていないのです。誤植も多いし…。う~。こりゃ無理だ。読めない。 (;一_一)
該当する岩波版の『日本書紀』で訳してみます。

訳してみてびっくり。なんと迫力ある神懸かりのシーンが書いてありましたよ。 
村社 斎宮
祭神 天照大神 健布都神 事代主神 住吉三神 息長足姫尊
由緒 日本書紀 巻九の「オキナガタラシ姫(神功皇后)の尊の巻にこう書いてあります。

仲哀九年の春二月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御されました。この時皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。

そこで、群臣と百人の司たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

三月の壬申の一日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となられました。そして、武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。そうして、織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて、申し上げました。

「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。

「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)。」と。

烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他に神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。

「他におられますか。」
天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ、そらにことしろ、たまくしいりびこ、いつのことしろのかみ)有り。」

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」

そこで、審神者が言うには、「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底に居て、海草のようにわかやかに出てくる神、表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとはおっしゃいませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。

と有ります。これが即ち、本宮の起源です。
この託宣でここにはオキナガタラシ姫の尊を一緒に御桐殿に合祀しています。
オキナガタラシ姫の尊は神恩を祈願して、稀有の神蹟を得ました。

斎宮ご祈願霊蹟
 聖母屋敷は本社の西南の小川を隔てた所にあって、今は民有地だ。
中央に聖母宮の小さな祠があり、周辺には大神宮址、武内社、-略―。
神懸かりとか、サニワとか、こうやっているのですね。なんだかすごいです。知りませんでした。

さて、この小山田斎宮に来て新たな謎が出て来ました。
Q1交通手段は本当に船なのでしょうか。
さきほど、船で行ったように書きましたが、 実際どうなのだろうかと思いました。
すると、この『小野村史』に答えが見つかりました。
「古賀村にて海に入る」 という一文があったのです。
この地に、古代の船のルートがあった事が確認できました。

Q2移動時間はどのくらいかかったのでしょうか。
  ここから香椎へは何日かかったのでしょうか。
  そう思っている時、たまたまテレビを付けると、NHKの「街道てくてく旅」で原田早穂ちゃんが、
  香椎宮から青柳まで、旧街道を歩いていました。なんというタイミングでしょう。

  彼女は朝出発して、三時には着いていたと思います。
  その青柳から小山田まではさらに1時間はかからないでしょう。
  彼女はのんびりと人と出会いながら歩いて、この時間です。
  なんだ、速足の人なら往復が簡単にできるような距離でした。

  古代の船の速度は歩行速度とあまり変わらないと確か船の本で読みました。

  香椎宮から船に乗って、一旦海上に出て、右に舵を取り、
  しばらく海上を通って、川を遡れば丸一日もかからずに着くのですね。

  疑問の一つがテレビのおかげで簡単に解けました。

  さて、こういう事から、この「小山田斎宮」については、否定する要素が全くありませんでした。

  日本書紀に書いてある「小山田」の地名もそのまま残っています。
  わざわざこれを否定して、「山田の斎宮」に軍配をあげるのは却って不自然だなと思うようになりました。

 Q3 何故この地が選ばれたのでしょうか。 
  ここは香椎宮に到着する前に、一度来た所らしいです。
  北九州からやって来ると、最後の停泊地になった可能性があります。

  神功皇后の一行は、ここで旅の汚れを落とし、
  明日はいよいよ宮へと向かうために、装いを新たにしたのではないでしょうか。

  香椎宮から程よい距離で、土地勘がある小山田を思い出して、
  そこを斎宮にしようと決めたのではないかと思うようになりました。 


でも、これではまだまだ納得できません。
さあ、もう一つの候補地、「山田の斎宮」のについても調べましょ。

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千年以上も経つイチイガシの巨木です。 


仲哀天皇が亡くなった事情は、右サイドバーのリンクからどうぞ。
『古事記の神々』のオキナガタラシ姫に書いています。
 

地図 小山田斎宮

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# by lunabura | 2009-10-30 00:00 | 小山田斎宮・古賀市 | Trackback | Comments(4)

香椎宮(Ⅰ) 古宮を訪ねて


香椎宮(Ⅰ)
 福岡県福岡市東区
古宮を訪ねて

                
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『古事記の神々』に息長帯姫(オキナガタラシ姫) (神功皇后)のお話を書きました。

この話の中で、神宮皇后が神懸かりするシーンがあります。
その場所が香椎宮には今でも伝わっている事を知って、出かけて行きました。
その場所を古宮と言います。

古宮とか、奥の院とか聞くと、見逃せません。血が騒ぎます。
厳しい暑さを避けて、台風がひと吹きした後の、涼しくなった日に出かけました。

このお宮は春には桜の花が咲き誇り、山門や本殿の両脇を、まるで姫の髪飾りのように彩ります。
朱塗りに映える桜の色の華やかさと、古代から在るものだけが持つ重みを兼ね備えた姿が
素晴らしい神社です。

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ご神木は綾杉です。その周りを古代の衣装を着た翁がほうきを持って掃き清めていました。
その人に「古宮」への道を尋ねました。「本殿の脇から行けます。」と教えてくれました。

まずは本殿へ。

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朱塗りの本殿はいかにも姫宮らしいあでやかな色です。かしわ手を打つと、よく響きます。
お参りを済ませて、教えられた通りに、右の方へ行ってみました。

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「仲哀天皇 樫日宮蹟(古宮) 100メートル」との案内板がありました。
赤い塀を出たとたんに、うっそうとした森の中に出ました。
わずか30メートルほどの森ですが、古代もこのようだったのだろうかと思うと、ゆかしい気持ちになります。
道は少し下り坂です。

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車道にいったん出ると、すぐ正面に古宮の表示が目に入ります。こんもりと木々が茂っています。
右横の赤い煉瓦の塀が昭和の懐かしい記憶を留めていました。
引き込まれるように正面の階段を上って行きます。

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なだらかな上り坂で、10段ほどの石段を上ると、正面ではご神木を手厚く祀っていました。
綾杉とは違う、二つ目の神木です。木の名はよく分かりません。(「香椎宮」の名にちなむ椎の木かも。)
と思いながら、右の方を見ると、木立の中に上り坂があって、人を誘なっています。

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 その道を辿ると、すぐ奥の方に、金色の文字が彫られた石碑が見え出しました。
「仲哀天皇大本営御旧蹟」と書いてあります。  (大本営か…。)
確かに、熊襲征伐のために設営した宮だから、そうなのですが、
どこか国威高揚に励む時代の言葉のようで神域にはなじみません。
石碑の側面を見ると、大正時代の日付がありました。
  (なるほど、日本が戦争をしていた時代に建てたんだ。)

ここが目指す古宮です。広さは庭付きの家が一軒建つくらいです。
周りは木立が囲んでいますが空が透けて見え、小さな丘の頂上です。
神功皇后が神懸かりして、仲哀天皇が琴を弾いたのは此処でしょうか。
そして、突然亡くなったのも…。
由緒書きを書き写してみます。(口語訳しました。)
仲哀天皇 訶志比宮(かしひのみや)址(あと)
「仲哀天皇は筑紫の訶志比宮に遷宮されて天の下を治められた」と古事記に書いてある宮の跡で、
天皇の8年正月21日(西暦199年)にここを都と定めた。

仲哀天皇の崩御の地
天皇は開闢以来の進取革新の内外政策をご実行されていたが、惜しくも9年2月6日(西暦200年)この宮にて崩御。御年52歳。御陵は大阪府藤井寺市惠我長野西陵にある。

仲哀天皇の大偉業
天皇の大偉業は実に広大にしてその一端が神宮皇后の三韓征伐である。
この宮が策源地であったために大本営址として記念碑が建っている。-略―

香椎廟址
祭神 仲哀天皇
由緒 仲哀天皇崩御されるや、ただちに天皇の神霊を祭神とした神社は他にはない。
    朝廷廟として特別の尊崇を捧げられる。

    奈良朝に大宰府の官人が京から下るとき、まず香椎に参詣し始めて、入府する。
    春秋の大祭には帥(そち)、国郡司を引き連れて必ず参拝し、
    宣命を奏するのが通例であった。  -略―

もう一つ説明板がありました。

沙庭斎場
仲哀天皇の進取革新の内外政策は開闢以来の大偉業であるため、常に沙庭(サニワ)をたてて、神の教えを乞請された聖地である。沙庭が国史に現れたのはこの地が最初である。

棺掛椎
仲哀天皇のご偉業を完遂しようとされて、神宮皇后は天皇の喪を秘し、天皇の御棺をこの椎の木に立て掛けられて、まるで天皇がここにいらっしゃるかのようにして御前会議を開かれた。
この時、御棺より良い香りが漂ったことから、香椎の名前が起こったとの地名伝説もある。

やはり、この丘が物語に出てくる場所でした。この丘は人に沿ったなんとも心地よいサイズです。

   ご神木のスペースで天皇と皇后は神を祀り、平安を祈った。
   ここには、許された人だけが訪れる事が出来た。
   ここで天皇は突然亡くなってしまい、重臣たちがその後の事を話し合った。

そんな地に立てるのは、隔世の感があります。
そう思いながら、出口に向かうと、両脇に立ち並んだ楠木や石灯篭が宮にかしずく人たちに見えて来ました。

再び本宮に戻りました。本殿からは、広い境内が見渡せます。
ここでは何千という兵士たちが陣営を営んだのかもしれません。ざわめきが聞こえて来るようです。

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帰りに見上げる楼門の壮大さに思わず足が止まりました。
そして、その楼門によって区切られた向こうの景色にはっとしました。
帰り道の景色さえ、計算され尽くしたアートでした。


息長帯姫(オキナガタラシ姫)の物語は右の『古事記の神々』に現代語で書いてます。
(オキナガタラシ姫)


地図 香椎宮




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# by lunabura | 2009-10-25 20:28 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(8)

香椎宮 (Ⅱ) 古宮とスピカ


香椎宮 (Ⅱ)
福岡県福岡市東区
古宮はスピカを祀る日振宮(ひふりのみや)だった
そんな社伝に魅かれて 
 

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二か月前に、古宮からオキナガタラシ姫(神功皇后)の斎宮を探しに行って、
ずいぶん遠回りして、再び香椎宮に戻って来ました。
その時には半信半疑だった事を今日は書こうと思います。

それは友達が送ってくれたコピーから始まりました。
「橿日宮(かしいぐう)の社伝によれば、“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。」
(真鍋大覚『灘の国の星 拾遺』)

この香椎宮ではスピカを祀っていたという一文が強烈に心を揺さぶりました。
出た。ついに出た。星の伝承が出て来た。

そこで、とりあえず、古宮へ行ったのが、香椎宮(Ⅰ)です。
そうしてスピカや伝承を調べて、今ここに舞い戻って来ました。

 ここが「スピカを祀る日振宮」だというのです。
何か痕跡があるでしょうか。
 

まず、この地で天体観測が出来なくてはなりません。

この古宮の広さは庭つきの家が一軒たつほどの広さです。
見回すと、周囲は大きな木々が立ち並んでいます。
これがなかったら、小さな丘なので、太陽や星を観測するのには都合のいい所だと思いました。

古代の天体観測をする地点に、これまでも何カ所か行ったのですが、どれも、意外に狭い所でした。
狭い理由は、その方があまり動かずに観測出来るからです。
なるほど、真っ暗な夜中に星を観測するとなると、確かに座ったままで観測できる方が安全で効率的です。
この地はその条件を満足しているなと思いました。

また、目当ての山などがあるはずです。
東の崖の所に立つと、山の峰が見えました。この山のどこからか朝日が昇ったことでしょう。

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古宮の東の端から、外を撮りました。足元は崖です。

 春分秋分の象徴としてスピカを祀る。 
これはいったいどういう事でしょうか。
 まず、春分と秋分について確認しましょう。 
秋分と春分の日には、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。昼と夜が同じ長さです。
辞書を調べると、この日には天皇が皇霊殿で大祭を行っているそうです。
皇霊祭と言います。
天皇は太陽神アマテラスの子孫ですから、太陽を祀るのは大切な儀式です。

それが、春分と秋分に連綿と執り行われている訳です。
仲哀天皇もこの香椎宮にいる時にも、きっと日子として、祭祀をした事でしょう。

 「日振り」とはなんでしょうか。 
「日振り」については、『灘の国の星 拾遺』に説明がありました。まとめてみます。

福岡県那珂川では仲哀天皇の頃から、御火焚(おひたき)の祭事が始まり、今も部落ごとに守られている。太陽暦と陰暦のずれを計算して、太陽暦にする。

氏族が自分たちの部落の行事に適するように編纂した暦を新しく神に供えると同時に、旧の暦を焼き捨てる。
これが御火焚(おひたき)の発祥であり、この名前はギリシア語のキタヒから来ている。それを書いた本の名前がビブリオンで、「日振り」の語源に当たる。

木の幹を小さく割って大小さまざまに一年の月日を並べて、衆議一決するまで立て替え並べ直して、納得の行くまで日取りを組む。これが「日振り」であった。

そして、これが出来上がると、氏族一同に触れて回る。これが「日振れ」である。年ごとの資料は神殿に奉納して子子孫孫に伝える。これが「国繰(くにく)り」であり、「国縫い」であった。

太陽暦と陰暦の差は現代も調整が難しい。  
太陽の運行は正確には一年に365日ではないので、四年に一度、366日の年を作って調整します。
陰暦は月の満ち欠けを基準にしますが、一か月を30日としても、30日×12か月=360日。
6年経つと、一か月の差になります。季節が全く変わります。

この5~6日の差をどうするかは、難問で、国や氏族で個性がありました。
これを専門に計算する人たちが古代にもいました。日本では安倍清明の家系が有名です。

この本の著者の真鍋大覚氏の家系も、暦を伝える家系でした。
(この本には、古代ギリシアなどが出て来て、驚きますが、高松宮宣仁親王の指示によって出来た本で、
那珂川町が出版した本です。)

古代の人々は、氏族によって習慣が違う上に、暦の基準も違いました。
これをどうつき合わせるかは、大切な政治でもありました。
もし、暦がないと、「来年1月1日にまた会おう」と言っても、
太陽暦の人と陰暦の人では、違う日に当たるのです。

暦のすり合わせは、大切なイベント で、古代史を理解する上でも研究の余地があるように思います。
日本の天皇は太陽を観測し、太陽の気を下ろし、暦の設定の任を負っていたと思われます。
あの古宮は「日振り」をするための基準を確認する、そんな神聖な天文観測所だったのです。

香椎宮は何度も炎上して、古代の文献が残っていないそうです。しかし、社伝で言い伝えていたのですね。
「橿日宮の社伝によれば“かし”とはスピカの古語で、春分秋分の象徴としてこれを祀る祠が古宮、即ち日振宮(ひふりのみや)であった。」

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古宮の端っこに立って撮りました。
では、スピカとは古代、どんな役割の星だったのでしょうか。
スピカは乙女座の星です。白く輝く星で、日本では真珠星と言っていたそうです。
この事も真鍋氏の本から見つける事が出来ました。
『灘の国の星』より

乙女座のスピカを若狭の国三方では「しんじぼし」と呼ぶ事を野尻抱影氏が書いている。
「しんじ」とは古語で、昼と夜が同じ長さで、冬と夏が接する彼岸の中日、即ち春分、あるいは秋分のことであった。別名を「しなつ星」「ひなかば星」とも言う。

スピカは春分の中日と秋分の中日のシンボルでした。
氏によると、星の観測は皇后の神事だったそうです。すると、神功皇后はこの日スピカを観測したのでしょうか。
幸い、現代では星座ソフトでその夜を再現できます。ステラ・シアター・プロを使ってみる事にしました。
調べるには、年月日の入力が必要です。
仲哀天皇が199年にここにいたと言う年代は正しいのでしょうか?
日本書紀の年代はこうです。

仲哀天皇の8年正月21日(西暦199年)にここを都と定めた。同じ9年2月6日(西暦200年)この宮にて崩御。御年52歳。
じつは、199年というのを、古宮で見た時には、
ルナは思いがけず、「え、弥生時代?」とたじろいでしまいました。
日本書紀の年代については、多くの人々が計算をして、疑問視しています。

どうしようかと、困ってしまったのですが、暦法の大家の真鍋大覚氏が年代を訂正していません。
しかも、この年は、太陽暦と旧暦が全く同じ年だったと、確認してあります。
ですから、これに従って、日本書紀の記載通りに調べて行きたいと思います。

ターゲットを設定しました。
仲哀天皇が香椎宮にいたのは199年1月21日から翌年の2月6日まで。わずか一年余りです。
ターゲットになる、春分と秋分の日は199年3月21日と9月21日、だけです。
この二日だけ、仲哀天皇が神事をした可能性があります。

場所は福岡県福岡市に設定しました。
春分の日を3月21日、秋分の日を9月21日として設定します。

まずは春分の日から。
199年3月21日  朝6:30 太陽が真東から出る。
            夜18:15 太陽が真西に沈んだ。
            夜18:24 スピカが真東から出る。
       22日  朝6:00 スピカが真西に沈んだ。

この日は、太陽が真西に沈むと、スピカが入れ替わりに上って来て、
同じコースを運行して行きました。

 こんなシーンがあったかも。 
天皇が夜明け前からここで待って、真東から昇る太陽を迎える神事をし、夕方になると、真西に沈む太陽を送る。
それから、数分後、皇后が真東からスピカが昇るのを迎えて神事をし、翌朝、真西に沈むのを送る。

古代は太陽の儀式を天皇がして、星の儀式を皇后がし、皇太子が暦の調整をすると真鍋氏は言います。
神事とは、単に日や星をシンボルとして崇めるのではなく、その眼で、実際に観測して確認したという事になります。

 ちょうど、韓国ドラマ「大王世宗」に暦の話が出ていました。 
ルナは50話ごろから見始めたのですが、暦の話が出て来て、驚きました。
自国の暦を持つ事は、隣の国、明からの独立を象徴する事であり、
これが知られたら、戦争にもなりかねないほど、大切な事だったというのです。

日本ではすでに200年には暦を持っていたので、状況が違う訳です。
暦って、国の威信をかけてつくったんですね。なんだか面白くなって来ました。
さあ、199年の春分の日は確認できました。

 では、秋分の日はどうでしょうか。  
199年9月21日 朝6:11 太陽が真東から昇る。
          夜18:01 太陽が真西に沈む。
                 スピカは太陽のすぐ傍に居て、暗くなってしばらく見えていたが、
                 太陽と一緒に沈んだ。
          夜18:36 満月が真東から出る。
      22日 朝6:32 満月が西に沈む。
  
スピカは太陽の傍に移動しているために、夕刻にちょっとだけ見えました。春とは全然違います。
しかし、その代わりに満月が昇って来ました。


これはパソコンの画面でも、感動しました。実際にはもっと感動的だったに違いありません。

 翌年の空も同じだったのでしょうか。 
翌年2月に、仲哀天皇は崩御しました。ですから、その年の春分の日は神功皇后一人でした。

それでも、この年も太陽が沈むとスピカが真東から昇って来ました。
秋分の日には、スピカは太陽と一緒に昇るために見えません。月もずれていて、特徴のない夜でした。

昔は今よりずっと寒い気候でした。スピカは春分の日には春を告げる星として、
古代の人々は格別な思いで見た事でしょう。
春分の日は、古代の福岡では、この日から雪が溶けるという喜びの日だったそうです。

「香椎」・「橿日」はともに「かしい」と読みます。
「かし」は古語で、一般的に「星」を指すそうです。すると、「橿日」とは「星と太陽」になります。
この香椎では「かし」といえば、「スピカ」を思い浮かべる氏族がいたのでしょう。
そう、香椎は古代から栄えた港町だったのです。
野尻抱影氏の本には
「昔の航海者は、スピカの近くに月が出ていると、その間隔をはかって
船のいる経度を50キロ以内まで正しく知ることができました。」
と書いてありました。すごい話です。
また、
「スピーカと、北斗の柄の第二星ゼータとを結んだ直線を延長すると、北極星にとどきます。
これは北斗七星が見えない時に、北極星を発見する方法の一つです。」

雲の多い日にその雲の切れ間から、スピカを見つけると、
海の只中に居ても、北が分かり、進路が分かるというのです。
少し暗い北極星より、明るいスピカの方に、心惹かれる感じも分かります。

夜にはスピカが、昼には太陽が、方角と時を教えてくれました。
それが「かし・ひ」だったのでしょうか。

香椎を拠点とする海人族たちは、スピカを神として祀ったのでしょう。
そして、ここの海人族とは、安曇族です。

この香椎はその時代、すでに大きな港町で、物資が集まったのはもちろん、船を造ったり
修理したりする所でもありました。
だから、仲哀天皇は北九州市の近くの拠点を捨てて、この福岡市の香椎に移動したのですね。

神功皇后と仲哀天皇が、実際に古宮でスピカを祀ったかどうかは分かりませんが、
神官たちが、春分秋分の日にはスピカを祀っていた事でしょう。

ここからは蛇足です~。
現代のスピカと太陽 
この後、気になる点が出て来ました。
歳差運動のために星の出は少しずつずれていくはずです。
1800年経った現在、スピカはどう見えるのでしょうか。

2009年を調べてみました。
春分の日 
 2009年3月21日 6:26 太陽が真東から昇る。
                  スピカは西南西の地平線近くにいて、沈もうとしていて、
                  間もなく太陽の光に消えた。
         18:19 太陽が真西に沈む
         20:29 スピカが東南東寄りから昇る。

秋分の日 
2009年9月21日 6:12 太陽が真東から昇る
             18:03 太陽が真西に沈む。
             18:57 スピカが西南西に沈む。
         翌朝 スピカは見えない。


現在では199年のような天体ショーは見られませんでした。
春分の日に太陽が沈んでから、
スピカが太陽の跡をたどって夜空を運行するというのは
神功皇后時代を中心とした数百年のものでした。
                             香椎宮(Ⅲ)につづく
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# by lunabura | 2009-10-24 00:00 | 香椎宮・かしい・福岡市 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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