ひもろぎ逍遥

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名島神社(4)君が代の歌のルーツがあった


名島神社(4)
那の国王が志賀島に渡る歌が残っていた。
それが君が代のルーツだった。

「志賀海神社との関わりを教えてください。」と尋ねると、
宮司さんは志賀海神社に伝わる歩射祭の歌を歌って下さいました。
今宵 夜半に着き給う 御船こそ たが御船ありけるや
あれはや あれこそは 阿曇の君の召し給う 御船になりけるよ
(今夜、夜中に到着なさる御船は誰の御船だろうかなあ。
あれはなあ、あれこそは阿曇の君が乗っておられる御船だよ。)
そう、歌ってから
「これは志賀の島に来る那の国王をお迎えする歌ですよ。」
と言われました。
「へえ、そうなんですか。」

歌の中には、はっきり阿曇の君と歌われています。
すると、阿曇の君那の国王という事になります。
国王は別の所にお住まいです。
それはどこか。
それを宮司さんは名島だと言われるのです。
そして、それを裏付ける話を別の出会いから教えられることになりました。

(神楽歌については、宮司さんの歌を書き写すのが間に合わなかったので、
一部違うのですが、『香椎宮史』の中に載っていた江戸時代の本から紹介します。
天保年間に採取された歌です。
『古伝神楽歌』 天保初年 志賀島所聞 宮崎大門)

この江戸時代に書かれた本を読んでいると、続きにこんな歌が書かれていました!

君が代は 千代に八千代に
 細石の 巌と成りて 苔の産霊(むす)まで

皆さんご存じの日本の国歌です。この「君が代」は志賀海神社に古くから伝わる神楽歌だったのです。
ネットで調べると、この志賀海神社の神楽歌が「君が代」の元歌ではないかと言われていますが、
やはり、その通りだと言う事になります。
この神楽歌が国歌になった事情についてはある神社の宮司さんが推挙されたと聞いています。
(出典が分からなくなったので、確実になったらはっきりと書きますね。)
(追記…香椎宮の木下美重宮司だと分かりました。
詳しくはサイドバーから【「君が代」ゆかりの三社参り】を見て下さい)

歌の情景を想像してみました。
日が暮れると、人々が浜辺で明々とかがり火を焚いて暗い海を見つめた。
潮騒だけが響く。闇の海の上に船の灯りが見えて、近づいてきた。
静かな湾をすべるように走る船。人々が歌い出す。
「今夜、夜中に到着なさる御船は誰の御船だろうかなあ。
あれはなあ、あれこそは阿曇の君が乗っておられる御船だよ。」

灯りがだんだん大きくなり、船の影が見え始め、かがり火に照らされた人々の姿も見え始めた。
そして、船が着くと、国王がじきじきに姿を現された。「おおっ。」人々のどよめきが響き渡る。

ふなべりに国王が立って手を挙げられると、人々は歌い出した。
「阿曇の君の世は、千代に八千代に続きますように。
小さな石が集まって大きな岩になって、苔がつくまで。」

こんな神楽が古代から歌われているのが志賀海神社でした。

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(志賀島からは福岡市のビルがよく見えます。左奥に福岡タワーなどがあるのが分かりますか。
この海が神楽歌の舞台です。)

これは驚き!
君が代は名島神社にもあったよ。
阿曇の君は名島に住んでいた!


共時性が起こりました。名島神社のあと、聖洲さんに初めて会いました。
するとその時、名島神社に君が代のルーツがあると言われたのです。絵まで描かれていました。

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絵の女性は豊玉姫と玉依姫?

吾が君は 千代に八千代に 
細石の 巌と成りて苔の生すまで
(伝 国家発祥の地)

これは名島神社に伝わる歌だそうです。志賀海神社とは初句が少し違うだけです。
そう、「君が代」とほぼ同じ!

ここの「吾が君」とは「那の国王」を指しているそうです。名島神社の宮司さんが言われた通りでした。
名島神社と志賀海神社とは深い関わりがあるのが分かりました。
こうして互いの島にそれぞれにこの歌が伝わっているなんて、奇跡のようです。

次の絵はそんな那の国王が川を渡って人々の暮らしを見に行かれる様子です。

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これも聖洲さんの絵です。
那国王、宮殿を出て、庶民の弥栄(いやさか)を祈って、
輿(こし)に乗って、行幸(ぎょうこう)さる。

絵が細部まで描き込まれていて、古代の様子が手に取るように分かります。
もちろん想像画ですが、当時の歴史をずいぶん調べたそうです。
輿などは、ユダヤのアーク(聖櫃)と同じイメージだそうです。
韓流の歴史ドラマを見ると、輿の形はこれとよく似てますね。
江戸時代の駕籠を見慣れている眼にはとても新鮮です。



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# by lunabura | 2010-04-11 14:42 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(6)

名島神社(5)昭和の頃 竹藪に覆われていた・竜巻と鯖・ムーダン


名島神社(5)
荒れ果てていた昭和初期ごろ
韓国から巫堂(ムーダン)が祈りに来ている


もと光少年と聖洲さんから伺った珍しい昔の話を紹介します。


1.荒廃していた名島神社

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[神殿と拝殿を除いて、一面、笹竹藪で、光少年の一家が6年間(昭和4年から昭和10年頃まで)に渡って、
竹根を掘り起こし、運んで焼却処分し、現在に至る。]

古代に栄えた名島神社は秀吉公によって、少し下の方に移転され、頂上には名島城が出来ましたが、
その後、城は福岡舞鶴に移転しました。社殿は時とともに古くなりました。
江戸時代にはいったん再建されましたが、その後、無人化して、ひどく荒れて行ったそうです。

光さんが小学生の時には絵のような状態で、竹藪に占拠されていたそうです。
そこで、光少年の家族が竹を除いて行ったそうです。

当時の話を聞かせてもらいました。
「竹はこんなに太かったよ。」
と親指と人差し指で輪っかを作って見せてくれましたが、直径6センチほどだったでしょうか。
竹ですから根っ子から払うのは想像を絶する大仕事です。
いとこの聖洲さんがその話を絵に描いていました。絵がとても面白いので紹介しました。
社殿を拡大しました。やけにリアルですねえ。

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これが黒田家四代目綱政公が建立(再建)したものです。
時を経て、ここまで荒廃したのを、家族で藪を払ったんですねえ。6年かかったそうですよ。
今は、改修されて、写真のようになっています。

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それまでは、雨が降ると神殿に雨洩りがして、バケツなどが置かれたそうです。

こんな珍しい話も。

2.竜巻が来るとサバが降って来た。
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[博多港上で竜巻が発生して、名島神社上を通過すると、天から鯖(さば)が降って来た。(昭和10年夏ごろ)]

一回だけでなく、何度もあったそうです。昔は博多湾には沢山鯖がいたんだそうですよ。

もう一つ珍しいお話。

3.韓国から巫堂(ムーダン)の人たちが踊りに来ている。
かつては毎年。今は、時々。
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[神功が峯の大松に鎮まる主(始祖・家元)に参拝する巫堂(ムーダン)と踊りの一行の図。]

話によると、かつて朝鮮から王が来た時、随行した踊り手が名島で亡くなってしまって、
大松の所に埋葬されたそうです。

それからは、その命日になると、毎年、朝鮮半島からその踊りを伝える人たちがやって来て、
ここで、踊りを奉納していたそうです。

「一行は朝鮮半島から下関に船で来てねえ、
何処にも寄らずにまっすぐに名島に来て、一週間踊り続けてたねえ。
浜辺にテントを張ってキャンプしていたよ。」
「でも、その頃は神社は荒れていたんでしょ。」
「そう。朽ち果てかけた神殿の周りを鉦や太鼓を鳴らしてぐるぐる廻って踊っていたねえ。」

今でもそれは続いていますが、名取を取った時だけに減っているそうです。
大松も枯れてしまって今はないそうです。

先日、桜の頃に再び行くと、頂上は公園として整備されていましたよ。
看板も変わっていたりしていました。

もう、三笠宮の話も那国の離宮の話もうたかたのように消えてしまうのでしょうか。



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# by lunabura | 2010-04-10 21:32 | 名島神社・福岡市 | Trackback | Comments(2)

梶谷城跡 水軍松浦党の根拠地に行ったよ


梶谷城跡
かじやじょう
長崎県松浦市今福町
360度展望の山城あと
水軍松浦党の根拠地に行ったよ

長崎県と佐賀県の県境に近い松浦市の県道沿い。
梶谷城跡という小さな案内板に導かれて、細い車道を上って行きました。
普段は農道として使っているような道です。
くねくねと曲がってほどなく、立派な門構えのある駐車場に出ました。

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屋敷の一部が復元されているのでしょうか。
説明板がないので、よく分かりません。この建物の中はトイレです。

ここに車を置くと、さらに歩いて登ってかなければなりませんが、すぐ、城址に辿り着きました。
整備された階段を上ると、いきなり絶景が待っていました。

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伊万里湾です。

ここにも数台止められる駐車場がありますが、桜の頃は下から歩いてくる方が無難のようです。

案内板がある所から、さらに数メートル登ると、360度の展望が開けていました。
ここは、半島の頂上です。
東西南北に島と海、入江と、複雑な海域が手に取るように見えます。
水軍松浦党の居城とか。

ここからは、海の上を通る船はすべて把握出来ます。
山城としては、1400年代に建てられたとしても、
明らかにここは古代から利用された所だと思いました。

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(西の方を見る)

この梶谷城跡の素晴らしい点は、余計なものがほとんどない事です。
そのお蔭で、ぐるりと回るだけで360度の展望を見る事が出来ます。
足元を見れば、城壁などが崩れながらも、昔の姿を留めています。
何もない。(奇蹟に近い)
この景観こそ、後世への最高の贈り物だと思いました。

古代から、中国方面への海路はここを経由せずには行けませんでした。
水、食糧、水先案内など、絶対不可欠の地です。
多くの文化と宝物が流れ込み、人や技術が集まったと思われます。
要請があれば、戦闘員としても働いたのでしょう。
それが水軍・松浦党と、歴史に名を留めています。

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この半島の標高は200メートルたらず。頂上には天守閣跡の丘がありました。
写真の階段を上ると平坦な土地です。実用的な小さな天守閣が建ったと思われます。

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反対側に少し下ると、石垣が残っていました。

説明板があったので、書き写します。
梶谷(かじや)城は、松浦党の初祖・源久公が築城したと伝えられており、
築城年代は延久元年(1069)、嘉保2年(1095)、久安元年(1145)などの諸説がある。
いずれにしても、松浦党の初期の居城として平安時代末期に築城され、
相当長年月にわたって断続的に利用された松浦党の重要な山城である。

城は山頂部を楕円形に削平して本丸とし、南側に一段高くなった物見台跡がある。
本丸の北側には、西側の大手門からのびた長さ18m、高さ5mの城壁がめぐらされている。
大手門は石垣を枡型に配し、門の南側に櫓跡がみられる。
本丸の北側には、一段低くなった二の丸が配置されている。

城の西側50m下位には山際にそって長さ200m、幅40mにわたって館跡があり、
石壁・石塁・門などが残っている。
梶谷城は、松浦党発展の跡を探るうえにきわめて重要な城跡であります。
昭和46年 長崎県指定史跡

平安末期にはここに城が出来たという事ですが、もちろん、ずっと昔から重要拠点だったはずです。

松浦の語源は北極星と満天の星

松浦の語源について、『儺の国の星』に書いてありました。
神功皇后の頃の漢人(中国人)は、末廬(まつりょ)と呼んだ。
末とは地球の自転軸の方、即ち北極の事。廬とは満天の星座の総称である。
そうすると、松浦とは「満天の星空の中の北極星」という意味になります。
魏志倭人伝には「末廬国」と紹介されています。
「まつりょ」→「まつろ」→「まううら」となったのでしょう。

この城跡に立つと、自然に北に目が行きます。
夜になると、正面に北極星が見え、
そして、重要な航路である、壱岐・対馬の方角を睨む事が出来ます。
昼でも、夜でも、見張りのものが交代でこの海を見たのでしょう。
何かがあれば、狼煙を上げてすばやく連絡が取れそうな、そんな地形でした。
古代そのままの絶景の残る、素晴らしい山でした。

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地図


松浦市の案内プログはこちら

長崎県松浦市 福岡事務所から  -松浦市福岡事務所ブログ-
長崎県本土最北端のまち、松浦市。魚好き、歴史好き、農漁業体験・民泊好き、
福岡ソフトバンクホークスを応援している人、集まれ~!!
http://matsuurafukuoka.blog88.fc2.com/


松浦市の史跡マップはこちら

松浦市史跡めぐりマップ
http://www.city-matsuura.jp/www/contents/1243910880793/index.html


海も魚もモンゴル村のパオも素敵です!

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# by lunabura | 2010-03-31 16:13 | 梶谷城・かじや・長崎県 | Trackback | Comments(7)

馬見神社(1)うまみ・次々と開かれて行く参道は夢のようだった


馬見神社(1)
(宇麻美神社)
福岡県嘉麻市馬見
山里深き清浄の地
次々と開かれて行く参道は夢の如し


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道は馬見山の大きな山容に向かって進みます。
しかし、早春の朝霧が正面に見えるはずの馬見山を覆い隠していました。
臨場感たっぷりのアプローチです。

三月の始め。その麓にある馬見神社に行きました。
菜の花が道路の両脇に咲き誇り、高度が上がって行くと、
リンゴや梨の木々が手入れされた中を走って行きます。
穏やかなカーブを進むと、大きな石碑が迎えてくれました。
おおお。古い…。
神社の入り口からすでに年月を経たものだけが持つ寂びた美しさを見せています。

激しい勢いで山から流れて来る清らかな小川を渡って、
最初の鳥居をくぐると、藤の古木が長い年月を経た姿を見せています。
古い石橋を進むとまた鳥居。

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それを進むとさらに鳥居。

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次々に鳥居が迎えてくれては、
全く新しい情景が開かれて行きます。

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おっと、また鳥居です。両脇の桜のつぼみがふくらんでいます。

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さらに石段が続きます。正面に祠がありました。
そこからさらに直角に曲がって登って行きます。

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長いけれど、とても登りやすい石段です。
最後の急な石段を登り切ると、ようやく拝殿の前に出ました。

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境内は明るく開けていますが、山の中で、そう広くはありません。
拝殿は新しく改築されていましたが、中に入ると往時のまま。
古い姿を留めています。沢山の古い絵馬が飾られていました。

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中が結構広いです。ここは、福岡県でも、雪深い所です。
村人が力を合わせないと生きて行けないような山あいの地です。
お祭りごとに風雪を避けて、ここでお籠りがされたんだろうなと思うと、
私たちの先人達がどれほどの思いをして過酷な自然の中を生きて来たのか偲ばれて、
感慨ひとしおです。

絵馬の中には伊勢講の記念の絵馬もありました。
村中で資金を積み立てて伊勢神宮に代参してもらう風習です。
こんな山の中からでも、人々が屈強な男たちに信仰を託して、
何か月もかけて、行ってもらったのでしょう。

ここには現代に生きる私たちが失った叙情が沢山残されていました。

(つづく)
  

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# by lunabura | 2010-03-29 20:29 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)

馬見神社(2)そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…。


馬見神社 (2)
福岡県旧嘉穂郡足白村大字馬見字宮小路
上宮の白馬大明神とはニニギノ命だという。
そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…。


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霧が晴れていく中を登ったせいでしょうか、しっとりとした、この空間では
五感が開かれていく感じがしました。

ここが、古代の人々が憧れた所です。それが、清浄なまま、静かにたたずんでいました。
もう一つの大事な山・英彦山の方は今でも多くの参拝者を迎えていますが、
この馬見神社はほとんど知られていないようです。

でも、エネルギーとはそのようなものかも知れません。陽があれば、陰がある。

ここは人知れずにいたお蔭で、数百年の昔そのままの姿を残しています。
それでも、営々と築かれた石段や鳥居、神殿を見れば、
氏子さんたちがどれだけ大切にしてこられたかが、良く分かります。

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忘れられた聖地が紐解かれるのかもしれない。
ここは遠賀川の源の一つです。
ここに向かって、荒穂神社―日天宮―馬見のレイラインがうっすらと見えたのは、
日天宮荒穂神社に行った時でした。
御祭神がニニギの命と、祀られていない荒穂の神。複雑な歴史を匂わせていました。

さらに下流の多賀神社に行って知ったのは、
イザナギの命が多賀の地に玉を鎮めた理由が英彦山と馬見山を控えた丘だったからという事でした。
この馬見山に向かう古代の人々の視線。それが気になって訪れました。

ここの御祭神はこれに呼応するかのように、イザナギの命ニニギノ命の名前がありましたよ。

神社入り口に手書きの由緒書きが貼られていました。
馬見神社由緒
1祭神  伊弉諾尊(イザナギのみこと)
     天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
     木花咲哉姫命(このはなさくやひめのみこと)
      (大山津見の女(むすめ)日本一の美人神)

2 祭日   4月18日
       10月30日

3 由緒 ○上宮の創立は不詳であるが、3千年前と言われる。
       馬見山頂(987M)の頂上近く御神所(ごしんじょ)岩の
       巨岩あり、ここに鎮座。
       瓊瓊杵尊は天孫降臨の御神で、日本民族の祖。
       比類なき神徳をもって尊崇される。
       ○中古仏法隆盛の頃、約1300年前、鎮西八郎為朝現在の神社(下宮)建立。
        また神木寺も建つ。
       ○天正前後、武家政治となり、秋月藩主秋月種実公、毎年参拝せられ尊崇を集めた。
       ○黒田藩となり嘉穂郡の総社として、代々尊崇あり。
        2月、8月、5昼夜の五穀豊作の祈願祭を行う。
       ○大正12年11月24日。県社に定めらる。宮司江藤貞利氏。

       ○福岡県神社誌によれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、
        その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる。

4  境内2500坪。
   郡内最高の景勝地にあり、又馬見キャンプ村、又リンゴと梨の産地として、
   その美味は県下に知られて有名である。
                            平成8年春   縄田小観 記
        (句読点のみ追加しました)

御祭神はまず、イザナギの命でした。
それに、ニニギノ命コノハナサクヤ姫の夫婦神です。

由緒には「その祭神は分からない」と書いてありますが、すぐ続けて、ニニギノ命の
天孫降臨の話が書いてあるので、本当は、「ここはニニギノ命の降臨の地だ」と、
言いたいのではないかと考えました。

由緒については他の本にも載っていたので書いてみます。
『筑前国続風土記附録』から抜き出します。
馬見大明神社
産土神である。御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
馬見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からないという。

ここでは、御祭神に、イザナギの命の名はありません。その代りに、ホホデミの命が出て来ました。
ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名です。

また、山頂の神は白馬大明神だと言っています。どんな神なのかは分かっていません。
二つに共通するのはニニギノ命でした。そろそろ系図なしには理解が出来ませんねえ。
(と言って、パッと出てくる。親切ですねえ。)

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三つの由緒書の祭神を色分けして囲みました。
これで分かるように、共通するのはニニギノ命でした。

江戸時代のガイドブック『筑前名所図会』にも、白馬大明神について書いてあります。

馬見大明神
古宮は馬見山上にあり。
御神域という大岩の辺に石の祠あり。
今の社は山下にあり。
白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。
この神、葦毛の馬を忌むという。
この里に飼うを忌むのみならず、
他のことろから来ても、村の方で留めて置くという。

ここでははっきりとニニギノ命が白馬大明神だと書いています。

○福岡県神社誌によれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、
その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる。

このように、神社の由緒書きには神武天皇もここに来て、
その馬の脚の色が白いので、馬見の地名が起こったと書いています。

この神社の地名が旧嘉穂郡足白村大字馬見字宮小路です。

神武天皇と馬については、馬が暴れて逃げたのを見送ったというエピソードや、
また、老人が馬を提供して、天皇を見送ったという話もあります。

これらから推測すると、全体に流れるモチーフは、
山頂にニニギノ命が白馬大明神として祀られていて、後に子孫の神武天皇が参拝された

という事のようです。
その時、馬が暴れて逃げたなどという何らかのトラブルがあったのでしょう、
その毛色の馬がタブーとなったり、地名が起こったりしたようです。

3000年前について
神社の由緒書きには始まりは3000年前の事だと書いてあります。
縄文時代になります。縄文です…。でも、もう驚かなくなりましたよ。

神武天皇は2600年前と(日本書紀から計算して)言われています。
年代については、例の如く、暦の大家の真鍋大覚氏が、訂正せずに、このまま使ってあるので、
それに倣いたいと思います。

ニニギノ命は神武天皇のご先祖ですから、3000年というのも、そう見当違いではないかとも思いました。
この辺りの神社にはこんな古い年代がどんどん出て来ますよ。

古い遺跡が出ているよ

ここからずっと下った盆地の中央に位置する飯塚市の立岩遺跡が2000年前の頃のものだそうです。
2000年前と言えば、キリストが生きていた時代です。これで、覚えやすいですよね。

鏡の完品が沢山出ていて、大変価値のある遺跡だと言う事を知りました。
(飯塚市歴史資料館は撮影禁止だったので、そのお洒落ぶりをお見せできないのが残念です。)

この馬見地区からは、その立岩遺跡よりも、もっと古い遺跡が出ているそうです。
この山の近くには早くから人々が住んでいたのですね。
3000年前という数字も、それほど無理な数字ではないと思いました。
そのころには、すでに馬見山への信仰があったという事でしょう。

ここの文化圏の氏族たちが馬見山をニニギノ命の降臨の地と考えて祀っていた
というのが伺えます。
言葉に出すのをはばかる内に、忘れ去られてしまったのでしょうか。

(つづく)
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# by lunabura | 2010-03-28 21:02 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Trackback | Comments(26)

馬見神社(3)うまみ・ホを受け継ぐ一族がいた


馬見神社(3)

系図から見えて来たこと
ホを受け継ぐ一族がいた


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このエリアには父と子が配置されている

この馬見山は英彦山とセットで捉えてお話しています。
英彦山に降臨したのが天の忍穂耳の命で、馬見山に降臨したのがニニギノ命です。
二人は、父と子です。いわゆる天孫。天皇家の祖先です。

このファミリーにはもう一つ大事な人がいます。ニニギノ命のお兄さんのニギハヤヒの命です。

ニギハヤヒの降臨地としては大和の国が有名ですが、このエリアにもまた降臨した山が伝えられていました。
ここからは、ずっとずっと下流になります。

この三柱のファミリーをそれぞれの山に配置した氏族がこの遠賀川流域にいたという事です。
彼らの神々は「」という単語でつながっていました。
それが次の系図です。

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天照大御神には五人の男の子がいて、そのうちの二人にホがついています。
それから孫、ひ孫の世代はの○○という形です。漢字ではこう表記されています。
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
天の卑能命
明命
天邇岐志国邇岐志天津日高日子の邇邇藝命
照命
須勢理命
遠理命(天津日高彦穂穂手見命)

「穂・火・番・菩」はどれもと読みます。

地名もこの辺りは波、嘉と、筑がつくものがいくつもあります。
高千も穂がつきます。
豊葦原の瑞の国。(ここは豊の国)

昔は漢字がなかったので、発音がたよりでした。
このファミリーはホの血筋である事が分かるようにネーミングしています。
彼らは、いわゆる天孫ですが、これまでの固定観念を捨てるために、この一族を
ホの一族と呼んでみたいと思います。


結婚の系図


結婚の系図を見ると、ホの一族がどうやって、他部族と融合して行ったかが見えて来ました。
次の系図はアマテラスの子供、孫、ひ孫の結婚の図です。

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高木神の一族と結ぶ
ホの一族はまず高木の神の一族と婚姻関係を結びます。
この高木の一族はアンドロメダをシンボルとする人たちでした。

その事は高良大社の所に書いていますが、かれらは、歳差運動のために、
観測地点がずれてきたために、移動したのではないかと、推測しましたが、
神社誌を見ていたら、この嘉穂盆地にたくさんの高木神社が出て来ました。
すると、高木の一族はこのエリアにかつて居たのではないかと考えました。

久留米から嘉穂に来たのか、嘉穂から久留米に行ったのかは分かりませんが、
私の仮説を裏付ける可能性があります。
高木神社については英彦山とも関わるので、詳しくはそちらで検討したいと思います。
いずれにしろ、高木の神の一族の近くに、ホの一族がやってきて、
高木の王女と結婚する事で、平和裏に同族となったのではないかと考えました。

大山津見の一族と結ぶ
上の系図の第二世代を見て下さい。
ホのニニギの命は大山津見の神の王女と結婚する事で、大山津見の一族と結びつきました。

海人族の一族と結ぶ
それから、また次の世代になって、大綿津見の神の王女たち、豊玉姫や玉依姫と結婚する事で、
海人族たちと結びついて行くのが、この系図で読み取れます。

ホの一族が日本にやって来た時には、すでにいろんな国があったのでしょう。
そこで、彼らは武力を使わずに、結婚によって融合していく方法を取ったのがよく分かります。

それぞれの国には土器・武器・船・馬の飼育など、優れた文化があります。
それらは技術者たちで支えられているので、戦争ではその技術を手に入れる事が出来ません。

そこで、結んで行く事で互いの文化を交流させて行ったと考えました。
どの国とも親戚となることで、単一民族の意識が養われていったのではないでしょうか。

(つづく)

c0222861_1463825.jpg

一番保存状態のよい絵馬です。

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# by lunabura | 2010-03-27 14:23 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)
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