ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

神興神社・三女神はここで神威を発揮・タケシ番組に出た所

《宗像三女神の元宮を辿る旅》

神興神社
じんごうじんじゃ
福岡県福津市津丸645-1
宗像三女神はここで神威を発揮したという。
タケシ番組に出たのはココ

鞍手町の六ケ岳に降臨した宗像三女神は、室木の六嶽神社に着いたあと、
この神興神社に着かれたと文献に書いてありました。
そこで、そのルートをたどって神興神社へ向かうと、大きな山が立ちはだかっています。
この山を迂回する道があって、古くからの人家が所々にあり、
かつての街道だったんだろうなという風情のある、いい感じの道です。
ナビなら福間東中学校と入れると簡単です。
その隣に神興神社はあります。廻りにはほとんど人家はありません。

ゆるやかな峠の頂きに出ると脇に小さな丘があって、こんもりと樹木が杜を作っています。

c0222861_1392228.jpg

この石段を登れば、すぐに境内です。

c0222861_1310774.jpg

いかにも氏神さまの雰囲気ですが、三女神を勧請したのではなく、元宮にあたります。
そう言う点では特別なお宮です。

c0222861_13151983.jpg

拝殿正面に石の祠が見えます。

c0222861_13155552.jpg

c0222861_13164154.jpg

誰かが祠の扉を開けたままだったので、中を写せました。二つの細長い石が御神体のようです。


ここにどんな歴史があるのでしょうか。

入口に書いてあった縁起を写します。(一部分かりやすく変えています。)
神興神社縁起
祭神宗像三女神 (天照大御神の御子神)
多紀理姫命
市杵島姫命
多岐都姫命

神興神社は往時よりこの地に御鎮座あり。
11部落、即ち上西郷、下西郷、久末、津丸、手光、
村山田、八並、本木、畦町、内殿、舎利蔵
の住民により、祭祀を斉行する。(例祭は10月5日)
宗像社縁起に曰く、
「宗像三女神、初め、室木の六ヶ嶽にお着きになって、その後この地に留まり給う。
この村において神威輝耀されたことから、神興と号す。
その後、三所に霊地(田島、大島、沖ノ島)に御遷座あり云々とある。

三女神がその三所に遷った後も、この地にも御社殿はおごそかで、祭祀も盛んだったと聞く。しかしいつ頃か、兵乱に遭い、御社も崩壊したが、村民の「土一」という者に夢のお告げあって、小さな祠を営んだ。
その後、旱魃、凶作年に祈願すれば、霊応があるといって、隣村、民力を合せて、石祠を建立する。

大正年間、古瓦が発見されて、鑑定の結果、延喜11年の銘があり、我が国で二番目に古い瓦と解り、この神社の往時の壮大なるをしのぶ。
昭和55年10月吉日建立
神興神社氏子会

宗像三女神は、六嶽神社からここに遷られました。
ここで、大変な神威を発揮されたという事で、「神興(じんごう)」という名の由来になりました。
三女神が宗像に遷られたあと、いったん衰退しますが、「土一」という者に夢のお告げがあって
、再び石祠が建てられて、この地に恵みをもたらしました。

古い瓦が境内から発見されて、すぐそばには寺院も建てられたのが明らかになりました。
その楚石の石がこれです。

c0222861_13193347.jpg

大きいですね。当時の規模のすごさが分かります。

さて、蛇足です。
タケシのTVタックル裏話

ずっとずっと前にタケシの番組でUFOをやってた時、友人のNちゃんが出ていてびっくりしました。
そして、再現ドラマがはじまりました。
それはNちゃんが神社の境内で、女性三人で輪を作っていると、空から黄金の玉が降りて来る話でした。

実はその話の現場がこの神社です。三人の内の一人は私です。
テレビでは三人の輪の中に降りて来たようになっていましたが、そうではアリマセン。

事実は、私は本殿の裏にいて、Nちゃんは境内の左。もう一人は右。
と三人はバラバラにいました。
すると、Nちゃんが、「金色の玉だ。ほらほら見て。」と空中を指していました。
すぐに行ってみたけど、私には全く見えません…でした。(;一_一)


再現ドラマは事実よりかっこよく製作されていましたが、(神社も東京あたりで撮ったのでしょう。)
この神社で起こった事です。
テレビで放映されたのを、書こうかどうしようかと迷ったのですが、平成になってもいまだに、
三女神はこの地で人々に恵みを垂れているという証を示されたのかもと、書く事にしました。

地図 神興神社


では、いよいよ宗像大社へ。



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2010-08-11 13:37 | 神興神社・じんごう・福津市 | Trackback | Comments(0)

宗像三女神の元宮を辿る旅・六獄神社(1)宗像三女神の降臨した六獄の下宮


《宗像三女神の元宮を辿る旅》
六獄神社(1)
むつがたけじんじゃ
福岡県鞍手郡鞍手町室木
宗像三女神の降臨した六獄の下宮

西川を遡りながら町の一番大きな山に向かって行くと、田んぼの中にぽつんと鳥居が見えて来ます。
そこが六獄神社です。
c0222861_13344614.jpg

両脇の植え込みを過ぎるといよいよ石段です。
c0222861_13352028.jpg

ひと登りすると、さらに石段と鳥居が迎えてくれます。
c0222861_133631.jpg

だんだん古代の世界にいざなわれるようです。
c0222861_1336446.jpg

ここちよい杜の中を抜けていきます。
足元は松の落ち葉がふわふわと気持ちいい昔ながらの道。ずっと奥にお宮が見えて来ました。
c0222861_13373268.jpg

とても古い趣です。古来、賑わった華やかな残り香がそこかしこに漂っています。
c0222861_13384824.jpg

陽光が降りそそぐ、拝殿前に出ました。参拝を済ませて、案内板を読んでみましょう。
六獄神社由来
紀元前700年のころ、皇女三神 霊山六獄崎門峰に御降臨あり、この地を上宮と定め室木の里に下宮を建立し、安産交通安全の守護神として鎮守の杜とす。
御祭神 田心姫の神 湍津姫の神 市杵島姫の神
大祭日  春季大祭  4月8日 秋季大祭  10月17日
六獄神社社務所
今から2700年前に、宗像三女神が霊山・六獄(むつがたけ)の崎門峰(さきとやま)に降臨されて、
そこを上宮とし、ここ室木の方を下宮とした、という事です。

そう、三女神といえば、田心姫の神、湍津姫の神、市杵島姫の神
(たごりひめ・たぎつひめ・いちきしまひめ)
現在は宗像市に祀られていますが、降臨の地はこの鞍手町の六獄だと言われています。
鞍手町自体も、古くは宗像郡だった時代があり、この山は特別な山として崇敬を集めていました。

c0222861_13405893.jpg

正面が六獄(六ケ岳)です。
最高峰から左へ、旭岳(あさひだけ)、天冠(てんがい)、羽衣
高祖(たかす)、崎戸(さきと)、出穂(いずほ)。

この山にはニニギノ命の御陵があるとも言われています。
伝説によると、旭岳になきがらを、天冠岳に冠を、羽衣岳には衣を埋葬したそうです。
左手前の方にはヤマトタケルの住まいがあった八剣岳が見えます。

この六獄神社は右下の方にあります。降臨した宗像三女神を祀る古いお宮です。
境内は巨木に囲まれて、森厳な趣に包まれていますが、木がなければ六獄を遥拝できたと思われます。

もう一つ説明板がありました。
六岳(むつがたけ)神社と室木(むろき)神楽
町指定無形文化財

六岳神社は三女神を祀る近郷で最も由緒古い神社である。
筑前風土記逸文の中に「宗像の大神、天より降り、崎戸山(さきとやまー六岳の古称)に居ましし時、云々」とある。

室木神楽は江戸に直方多賀神社宮司青山雅楽頭(うたのかみ)が京都より宮中に伝わる神楽を伝え帰り、鞍手地域に拡めた優雅な神楽である。
はじめは神社人が舞い奉納していたが、明治以降は別に神楽座が組織されるようになり、郡内に3,4座あったが今日は室木のみに残っている。
歴史を守る会(くらじの会)
この室木の里の室木神楽の由来は
直方市の多賀神社の宮司の青山氏が京都の宮中に伝わる神楽を学んで、各地で教えたのが始まりです。
今ではここだけに残っているそうです。
子供神楽座を作って継承しているという話ですが、どのような音楽が奏でられているのでしょうか。
聞いてみたいものです。
(つづく)
さあ、今日から、宗像三女神の元宮の移動ルートを辿ってみましょう。



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2010-08-09 13:52 | 六嶽神社・むつがたけ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)

六嶽神社(2)御神体は玉と鏡・十握剣から生まれた三女神と物部(もののふ)たち

《宗像三女神の元宮を辿る旅》

六嶽神社(2)
御神体は玉と鏡だった
十握剣から生まれた三女神と物部(もののふ)たち

c0222861_2045659.jpg


 
神社の始まり
『福岡県神社誌』を見てみましょう。
六嶽上宮としていて、由緒は宗像三女神が影向(ようごう)された霊地である。
成務天皇7年、室木の里の里長(さとおさ)の長田彦が神勅を頂いて、この山上に神籬(ひもろぎ)を営んだ。
これがこの神社の始まりで、昔は堂々とした社殿だったが、享禄年間に燃えて、社殿が無くなってしまったので、御神体を下宮に移してその後、社殿が再び作られる事は無く、今わずかに石殿が一宇あるだけである。
                              影向(ようごうー神が一時姿を現すこと)
                              神籬(ひもろぎー神が降りる所)
六ケ岳(むつがたけ)は宗像三女神が降臨された霊地で、成務天皇の御世に、長田彦に神示が降りて、
六ケ岳の山上にヒモロギを作って、お祀りをしました。これが神社の始まりです。
昔は山上に社殿が建っていたのが、戦国時代に火災に遭って、無くなってしまい、
石の祠だけが残りました。御神体はこの下宮に移されました。

成務天皇と言えば、ヤマトタケルの兄弟です。
と言う事は、そばの八剣岳でヤマトタケルをもてなした記憶が
まだ新しい頃のお話だという事になります。
(詳しくは八剣神社を見て下さいね。)
そんな時代に、この神社の祭祀が始まりました。

私もずいぶん前ですが、二度ほどこの六ケ岳に登った事があります。
植物相が豊かな山で、最後の急斜面は綱を頼りに登りました。
頂上は大変眺めが良かったのを記憶していますが、社殿らしきものを全く覚えていません。
あったのかも知れませんが…。(今どうなっているのか、登った方教えて下さい。)
c0222861_20522644.jpg


御神体は玉と鏡だった
続きを読みましょう。
『宗像宮縁起』の記事に『西海道風土記』に、宗像大神が天より降って、崎門山にいます時から、
青蕤(ずい)玉」を奥宮の表に置いて、
八尺瓊(やさかに)の紫玉」を中宮の表に置いて、
八咫(やた)の鏡」を辺宮の表において、
この三表が御神体の形となって三宮に納めて、人の目に触れないようにした。
これによって身形(みのかた)郡といい、後の人が宗像(むなかた)と言い改めた。
『筑前国続風土記附録』

「奥宮、中宮、辺宮」という三つの宮のそれぞれに御神体が置かれた事が書いてあります。
それはどんな姿だったのでしょうか。具体的に見て行きましょう。

「青蕤(ずい)玉」
「蕤(ずい)」を調べると「垂れさがる花・実」の意味でした。
「青」は古代では「青」も「緑」も青と呼びました。
さらに「灰色がかった白」を指すこともあるので、青か緑が白か決められません。
形は垂れさがるイメージから勾玉っぽいですよね。

「八尺瓊(やさかに)の紫玉」
「八尺」は長さの単位です。
「八尺の長さの紐に通した」とか「大きい」という説があります。
「瓊」は玉。
「大きな紫玉」という事でしょうか。

「八咫鏡(やたのかがみ)」
「八咫」も古代の寸法ですが、「大きい」という意味で解釈されています。
天の岩戸に出て来るので有名ですね。三種の神器の一つです。
普通の鏡のサイズはCDの大きさに近いです。
46,5センチの巨大な鏡が出土したので、これを八咫鏡だという人もいます。
平原遺跡に関連記事。)

次の写真は地元の古墳から出土した玉です。
c0222861_20542384.jpg

(鞍手町歴史民俗資料館)
勾玉がちょうど三色並んでいます。これらの色を古代の人は何色と呼んでたのかな…。
白い勾玉は珍しいです。

御祭神の三女神はこうして生まれた。

古事記を見てみましょう。高天原にスサノオの命がやって来たので、天照大御神が武装して、
迎えるシーンです。
アマテラス大御神は「それなら、そなたの心が清く正しいのがどうして分かる。」と言いました。そこでスサノオの命は答えて、
「それぞれウケイ(うらない)をして子を生みましょう。」と言いました。

そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、アマテラス大御神が先に、スサノオの命の佩(は)いた十拳剣(とつかのつるぎ)を貰い受けて、三段に折ってユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、息吹きの霧に生まれた神の名は、
タキリビメの命。またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタギツヒメの命。三柱です。   (古事記)

なんと、この女神たちはから生まれています。
スサノオの命の十握剣が三つに折られて、
噛みに噛んでふっと吹き出した息吹の中から生まれました。三人の女神は剣の化身でした。
沖ノ島を中心として、沖つ宮、中つ宮、辺つ宮と、三か所に祀られているのは、
この剣が三つに折られた事から来ていたのですね。

この三女神はアマテラスから天下りするように言われました。
日の神(アマテラス)はスサノオの命に本当に悪い心がないのを知って、日の神から生まれた三柱の女神を、筑紫の洲(くに)に天下りさせました。
その時、
「そなたたち、三柱の神たち。道の中に降って、天孫を助け奉って、天孫の為に祭られよ。」
と言われました。
(日本書紀)
こうして三女神は筑紫の国・鞍手の六ケ岳に降臨しました。
日の神の言葉は
「これから先、天孫・ニニギの命が降臨されるので、その前に、ここで人々に祀られよ」と解釈されています。
祀る人々とは誰か。
まだ平野が海だった頃に、この山の麓に住んでいた人たちです。


その一部に物部氏がいます。

「物部」の「物」は「武」であるとともに、「祭祀」を象徴します。
「もののふ」とは「武士」「物部」と書きますが、
「祭祀をする者」の意味も含みます。



物部氏と天皇家との関わりがわかる伝承が、いくつかの神社に残っています。
神武天皇、ヤマトタケル、仲哀天皇、神功皇后、聖徳太子一族などの名前が出て来ます。

物部氏は星を観測し、暦を作った。馬を育て、武器を作り、馬具を作らせ、戦った。
剣を神格化して祀った。

そんな、古代日本の礎となった一族だったのが見えて来ました。

そして、三女神を祀るのは水沼族。
ここには水摩姓が多く伝わっていると聞きます。



この六嶽神社と六ケ岳の伝承はあまり人々に知られていないようです。
この神社の持つ歴史的な価値を多くの人に知っていただけたらと思います。

c0222861_20572153.jpg



地図 六ケ岳 六嶽神社 神興神社 宗像大社


ブログの中で「物部氏」を時代順に逍遥するコース
馬見神社⇒日若神社⇒八剣神社⇒鞍手歴史民俗資料館⇒古物神社⇒六嶽神社

さあ、それでは宗像三女神の伝承を追って神興神社に行ってみましょう。


追記
物部氏に関して、記事を書いた時点(2010年8月)より研究が進んだので、
記事の一部を変更しています。2015年12月28日





気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2010-08-08 21:09 | 六嶽神社・むつがたけ・鞍手郡 | Trackback | Comments(0)

桜井神社(1)嵐の中で岩戸が開いた


桜井神社(1)
さくらいじんじゃ
福岡県糸島市志摩桜井4227
嵐の中で岩戸が開いた
かつては與止姫大明神と号す

福岡市の北西部にある糸島半島はかつては島でした。
その奥の方に桜井神社はあります。
創建は江戸時代で、当時の姿がそのまま残っているお宮です。
さあ、では、江戸時代にタイムスリップしましょう。
c0222861_21461640.jpg

静かで広々とした境内の小さな石橋を渡っていくと楼門の古さと重厚さに目を奪われます。
c0222861_21465182.jpg

楼門の近くから見上げました。
これは江戸時代のもので、扁額には「正一位與止姫大明神」とあります。
ところが裏側にも扁額があって、それには「桜井神社」とありました。
ここは桜井神社と普通呼ぶのですが、與土姫(よどひめ)の名前が!
楼門の表と裏の二つの扁額の名前が違います。大変珍しいです。
どのような事情なのでしょうか。
c0222861_2148146.jpg

楼門を通るとすぐに拝殿があります。彫刻が素晴らしいです。
拝殿の中には奉納された絵馬が沢山かかっていました。
二見が浦の絵馬が多いです。二見が浦はこの神社の北側の海にあります。
昔はそこでミソギをしてから、この神社に参拝したそうです。伊勢神宮の風習とよく似ています。
c0222861_21493267.jpg

扁額を見ると、手前が「桜井神社」。奥には「與止妃宮」と書いてあります。
やっぱり、二つ。どうなってるのでしょうか。

神社の説明書きがあります。読んでみましょう。

桜井神社略記と祭典案内
慶長15年(1610)旧暦6月1日から2日暁にかけ、桜井の里を中心に雷鳴轟く大豪雨の中、岩戸神窟の口が開き、霊験あらたかな神さまが出現されました。
それから、奇瑞多く、ついに筑前二大国主・黒田忠之公も聞き及ばれ、自ら参拝し、おおいに稜威を感じ、御社伝造営を発願されました。

寛永6年着工、寛永9年(1632)に桧皮葺三権社流れ造りの絢爛豪華で極彩色豊かな御本殿と御社伝及び境内整備が壮麗を極めて完成しました。
この神社の始まりは江戸時代の初期で、
大豪雨の中、岩戸が開いて、霊験あらたかな神が出現されたと言う事です。
しかも、不思議な事が沢山あったので、黒田藩主・忠之公までも訪れて、その神威に感じ入り、
ついには社殿を建てられました。この神社は黒田のお殿様が建立されたお宮でした。

この件については貝原益軒が大変詳しく書いていました。
今日はそちらを訳しながら紹介したいと思います。
この里は山谷の間にあって、志摩郡の中央にある。その境内は広くて、東西4キロあまり。
桜井と名付けたのは、圓光寺という枝村の民家の後ろに、桜井という井戸があって、その名を付けた。
井戸は深くはなかったが清らかだった。昔この井戸のそばに大きな桜の木があって、その木の傍から水が出たので、桜井と言うようになった。昔の桜は枯れたが、先の藩主忠之公が、井戸の側に桜を植えさせられた。
今もその木がある。
桜井というのは桜の木のそばに清らかな水が出たのが起こりでした。
それが地名となりました。

さあ、続きは桜井神社についてです。
この里の藍園という所に與土姫明神の社がある。與土姫は社号で、神直日、大直日、八十枉津日の三神を祭っている所だ。社殿の後ろの小高い所に岩窟がある。
これを岩戸という。瓦屋根を作ってその上を覆っている。
岩戸の入口の間の長さ一間二尺(250センチ)、横5尺(165センチ)、高さ二間半(460センチ)ばかりだ。
(奥行きと高さと入れ違っている?…ルナ)

この社の創立を尋ねると、慶長15年の6月1日の暁からこの岩窟の当たり十町(1キロ)ばかりの間、風雨が激しく、雷電もしきりに鳴って、終日やまなかった。翌2日の暁までそうだった。この時、岩戸の口が初めて開いた。これを聞き及んで、遠近の人が大勢見に来た。

この村に浦新左衛門と言う者がいた。浦という邑に住んでいた。その妻に神が懸かって、参詣の人が吉凶を尋ねてみると、間違いがない。その他、様々の神の霊異が数え切れないほどあった。

今の世の人はそれを聞き伝えたり、目の当たりにした人もいるので、それを詳しく書いても、嘘だとは思わないだろう。しかし、あまりに不思議な事が多いので、後世になって、嘘ばかり書いていると言われると残念だし、
怪しい事は書かないのが古聖の訓なので、これほど稀有な神異だが、ここには書かない。

同年、11月21日、かの新左衛門の妻にお告げがあって、5年間、五穀を絶って、ただ茶酒だけとって、穢れた食べ物を忌むようにとの教えだったので、それから5年間、五穀を食べずに、ひたすら茶酒のみ飲んでいた。

こうして、参談所といって、一間ほどの所を構えて、日々お参りして来る人たちの吉凶を尋ねるのを答えた所、いささかも違える事が無かった。

こうして霊験がある事が長く続き、遠近にまで評判が届いて、黒田藩主・忠之公がこれを聞き伝え、近臣に試させると、奇特な事が多くて、ついに忠之公みずからここに参詣されて、質問を試みられると、その答えが、みな霊験があったので、大いに感じ入り、信心を起こして、岩戸の前の山が岩戸と同じ高さだったのを、社を立てる為に土を取って、低くならして、神殿を作らせた。

この辺りにしては、壮麗を極めた造りだったので、数年かかって、寛永9年完成して、京都から吉田兵部少輔中臣治忠を招請して、社号を與土姫大明神として、あがめ奉った。
大変具体的に書いてありました。
この始まりは、豪雨のために古墳の口が開いたのではないかと思いました。
新左衛門の妻に神懸かりがあって、霊験がいろいろあるようになりました。
ついには黒田のお殿様の耳に届き、自ら訪ねて来られて、神徳があったので、神殿を作らせたという事です。

御祭神について考えました。


岩窟の方は奥宮・岩戸神社といいますが、
御祭神は大綿津見の神と『福岡県神社誌』に書いてありました。
三柱の海の神さまたちです。

また、手前の與土姫大明神の方には神直日、大直日、八十枉津日が祀られています。
(かむなおひ、おおなおひ、やそまがつひ)
この三柱は禊(みそぎ)の神さまたちです。

これらの六柱は志賀海神社で書いたように、
イザナギの命が禊をしたときに生まれて来た神々です。

社号の與土姫はヨド姫ともトヨ姫とも言います。(志式神社では豊姫となっていました。)
ヨド姫は厳しい禊をして神意を尋ねる巫女で、海神の妻とも言われています。
一生を海神に捧げた姫神さまです。

楼門の扁額が表は「與土姫大明神」で、裏が「桜井神社」となっている件については、もともと、與土姫大明神だったのが明治二年に桜井神社に改称されているのが分かりました。

與土姫大明神について考えました。

この神社の名前がかつては與土姫大明神という事から、新左衛門の妻に懸かられた神が與土姫大明神ではないかと思いました。

現代でも、このように神が懸かられる話や神示が降りる話がありますが、
神霊の言葉はエネルギーの状態なので、取り次ぎの神がいて、人間に分かる言葉に翻訳します。

新左衛門の妻にも、取り次ぎの神として與土姫が懸かられて、神々の言葉を伝えたのではないでしょうか。

岩戸神社の御祭神が大綿津見の神です。
志式神社の神楽では、海神は豊姫の言う事なら聞き届けられていました。

ですから、この宮でも、参拝する時は、まずは禊の神様に清らかにしていただいて、
與土姫さまに取り次いで頂いて、岩戸の神さまにお願い事をすると、
よく聞き遂げられるのかな、と思いました。(あくまでも、ルナの想像です…。)

拝殿でお参りを済ませたら、その真後ろに行きましょう。奥宮・岩戸神社があります。
c0222861_2159910.jpg

石垣が見えます。渡り廊下の下に神殿があります。
c0222861_2202481.jpg

振り返ると、神殿の裏側が見えます。平成になって、当時の極彩色が再現されました。
これを見ると、かつての楼門や拝殿の華やかさがしのばれます。

この奥宮・岩戸宮で玉串参拝が出来るのは、元旦から三日間と7月2日と書かれています。

(つづく)



気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2010-07-30 22:09 | 桜井神社・糸島市 | Trackback | Comments(4)

桜井大神宮・伊勢の内宮外宮が一緒に祀られている


桜井神社(2)

桜井大神宮
伊勢の内宮外宮が一緒に祀られているよ


c0222861_2113319.jpg

境内の反対側に、山があって、石段があります。
なんとも心惹かれる風情です。上っていきましょう。
c0222861_21161177.jpg

杜の中の参道は木漏れ日の中。そして、石段の上の鳥居を見て、あ!
お伊勢さまだ!
この飾り気のない簡素な鳥居はお伊勢さまだけの鳥居。足もとに立札がありました。

「伊勢神宮領賜 佐美長神社 一之御鳥居 第六十一回式年遷宮 平成5年」

やっぱりそうです。前回の式年遷宮の分がこちらに下賜されたのですね。
伊勢神宮では20年に一度、すべての宮が新調されます。
取り払われた宮や鳥居などはこうして、縁ある宮で見る事が出来ます。
この神さびた風情。ここにいるだけで心が洗われます。

これまた簡素な宮です。かやぶきの屋根。昔のままの建物。
c0222861_2124866.jpg

近づいて行きましょう。
c0222861_13315924.jpg


c0222861_1345465.jpg

苔むした扁額には「内宮源 外宮宗」と書いてあります。

この宮について、與土姫大明神の拝殿に説明がありました。
御本殿正面の石階段上約200メートルの所には、寛永2年の創建で、伊勢の内宮外宮の御分神を一宇に奉斎する桜井大神宮が幽遠森厳の中に鎮座しています。

與土姫大明神より数年前の建立です。ここは、お伊勢さまが、内宮と外宮一緒なんだ!
伊勢市のお伊勢さまに参拝する時には、外宮に参拝してから内宮に向かうのが順です。
少し離れているので、バスかタクシーで移動します。でも、ここは一度にお参り出来る!
しかも、こんなに近くに行ける。

どんな歴史を刻んだのでしょうか。これも貝原益軒が筑前国続風土記に書いていました。

本社の西南の光寿山のふもとの高い所に天照大神宮がある。これは本社創立の後、神託によって忠之公がここにお立ちになった所である。その後大神宮にも参詣する人が多い。が、今は絶えた。
こうして忠之公は與土姫大神に神領を寄付されて、祝人を多くおいて、祭礼を行わせた。その年、忠之公はひどく悩む事があって、この神に祈られた所、神のお告げとして、不思議な夢を見られた。それからは、さきほどの悩みの雲霧もはれて、なんのおそれもなくなったので、この神のちからだと言って、その夢想の句を自筆で書いて社に奉納された。これより、ますます信仰深くなられた。

黒田忠之公について調べると、当時、黒田のお家騒動があって、
藩が取りつぶされるかどうかという大変な悩みがあったのが分かりました。
その事件がこれに相当するのか分からないのですが、
忠之公にとって、ここの神々が心の支えになったのがよく伝わってきます。

なお、忠之公が亡くなった後は、島岡大明神としてお祀りされています。
c0222861_1336395.jpg




気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2010-07-30 13:36 | 桜井神社・糸島市 | Trackback | Comments(0)

桜井神社(3)21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威


桜井神社(3)

21歳の藩主・黒田忠之公の悩みと神威


c0222861_21211941.jpg

この神社を創建した人が筑前福岡藩の二代目城主・黒田忠之公という事で、
今回は忠之公の人生を簡単に辿ってみようと思います。
(年齢は西暦から単純に計算したものなので、誤差があります。)

父君は黒田長政公。初代のお殿様です。
祖父の黒田如水と共にキリシタンでした。
長政公は関ヶ原の戦い(1600年)の後、筑前博多に来て、
すぐに福岡城の建設に取り掛かっています。
その城の瓦に十字架が刻印されていたのが最近発見されて、話題になりました。
長政公は1587年の秀吉バテレン追放令のあと、
キリスト教を捨てたと言われています。
城はその後に建設されたので、この隠された十字架は信仰を捨てていない事を
見えない所で示した証しだと言えます。

黒田忠之は1602年に長政公の長男として生まれました。
忠之が12歳の時には大阪の冬の陣、夏の陣がありました。
ところがその後、父長政公は忠之を見限って、
廃嫡(はいちゃくー跡継ぎをやめさせる)しようとします。
家臣の制止によって、それは実行されませんでしたが、
13歳の少年には大きな心の傷を残しました。

その年に徳川幕府がキリシタン禁教令を出して、長政公はそれに従い、
キリシタン弾圧を始めます。
そんな父の姿を忠之は見たはずです。

そして、忠之が21歳の時に父が死去。
若き忠之公が二代目藩主となりました。
21歳の若殿様です。危なかしくって当たり前の年でした。

父の家臣たちと、自分の新しい側近たちの葛藤が始まります。
27歳の時、長子が誕生しますが、夫人が23歳の若さで亡くなってしまいます。
31歳の時、家臣の栗山利章と対立。
栗山に「黒田氏謀反の疑いあり」と幕府に訴えられてしまいます。
これが黒田騒動です。
この騒動は結果としては、無事におさまりました。忠之公は53歳で亡くなりました。

その忠之公と桜井神社はどう関わったのでしょうか。

1610年に浦新左衛門の妻に神懸かりがあります。
この方は、それからは浦姫様と呼ばれています。
浦姫様の噂はお城まで届き、忠之公は家臣を使いにやって、よく当たるのを知って、
みずから尋ねるようになりました。

24歳の時に神託で天照大神宮を建立。
30歳の時に本殿を建立となっています。
この年に黒田騒動です。
やはり浦姫様のご神託を仰いだらしく、浦姫様はそばの榎木に登って、
江戸を霊視してアドバイスをしたそうです。

忠之公が夢で告げられた句も伝わっていました。
「しるへにや 雀の千声 鶴の一声」
(家臣たちの千のアドバイスより、神の一声が自分の道しるべだ)

忠之公は藩主となってから、ずっと浦姫様に相談しながら、政をしていったのが伺われます。
家臣のアドバイスより重視したので、
古くからの家臣たちとの軋轢(あつれき)を生んでいった可能性もあります。

彼の宗教観を考えると、父の長政公がキリシタンだったのに転向していった苦悩を
幼い時に目の当たりにして、神とは何かという事を誰よりも深く考えたと思われます。

自分で霊夢を見て、神の御加護を体験して、この岩戸宮の神を深く信仰しました。

浦姫様は黒田騒動が落ち付いた後、1636年に亡くなりました。
それからは自分の判断で前に進むしかありません。
晩年には真言宗に帰依して東長寺を建立しています。

戦乱の世が終わって、江戸時代に入ったとはいえ、まだまだ、戦国時代の延長にあった時代に、
この岩戸が開かれて、福岡藩の国造りの支えとなりました。
このタイミングの不可思議さを思わずにはいられません。
その神気は、今なお、人々を守っているように思いました。

c0222861_21283764.jpg

境内の賽の神神社 石は猿田彦の神

途中ですれ違った青年に話を聞きました。
「神社が初めてと言う人が何故かここに来るようですが。」
「そうですね。私も神社参りを始めたばかりです。」
「どうして若い人に人気があるのですか。」
「縁結びと聞いてます。」
なるほど。そうだったんですね。

いやあ、ここは八百万の神々が祀ってあります。どんな願いも聞き届けて下さるように思いました。
c0222861_21292470.jpg






気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
# by lunabura | 2010-07-28 21:41 | 桜井神社・糸島市 | Trackback(1) | Comments(0)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー