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ひもろぎ逍遥

上大利小水城2  積雪による洪水を防ぐ堤として形成された話に納得する


上大利小水城 2

積雪による洪水を防ぐ堤として
形成された話に納得する

 

福岡には『日本書紀』に書かれた水城(みずき)という
古代の土塁が実存しているが、
ほかに「小水城」(しょうみずき)が複数存在する。

このたび、大野城小水城の現地説明会に参加したが、
それは真鍋の記録の検証のためだった。

人間が灌漑と耕作に努力をはじめた時代は氷河期以前にあったらしい。肥前三根で2万3500年前と推定される。今も堤を水城という。昔は「みなつき」であって、「つき」は築ではなく雪であったはずになる。

氷河期の人類が最も恐れたのは怒涛のごとき積雪の崩壊であった、その勢いは一瀉千里で山麓から遠くはなれた平地も、雪解けの洪水に漂没することが多かった。

祖先は子々孫々にいたるまで幾段も堤を築きあげてこれを支えた。氷河がなくなる頃には池となり田となり、畑となって天に至る景観となったのである。   『儺の国の星拾遺』p141


氷河期が終わったのは1万年ほど前のことらしい。
真鍋は氷に閉ざされた時代の話をよく書いている。


脊振山系では、近年まで雪で道路が不通となる話をよく聞いた。

積雪が崩壊して洪水となると、
山麓離れたところまで洪水に没したと真鍋はいう。

私たちはこの現象を今夏、まざまざと見た。
雪が木に変わっただけだ。
朝倉の水害ははるか有明海まで及んだ。

はるか遠い昔、積雪が山津波を起こすのを止(とど)めるために
人々は堤(水城)を造ったという。

のちにはこれが池や田、畑となって「天に至る景観」になったということは、
段々畑の形成は積雪の山津波を食い止めるための営みだったことになる。

佐賀側ではこの堤が円形になってウロコ状に発達したものを見られるが、
福岡側の小水城や水城は直線構造だった。


水城は瀦水塘(ちょすいとう)と呼ばれた。
瀦水塘はほかに、上田(かみだ)、水雪田(みなつきた)、水盡田(みなつきだ)
といった。
「つき」とは「雪」の古語だったという。
積雪のイメージから来たらしい。

夏になると上田から下田(しもだ)に水を送る。
上田に水がなくなったために、「水無月」(みなつき)の名が起きたという。


万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空閑(こが)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。貯水の面積までが活用される仕組みであった。『儺の国の星拾遺』p140

水城の築造場所は山の麓で平坦になった所、谷間の狭くくびれた所を選んだ。
そこに堤を築造して、閘門を設置したという。

閘門(こうもん)とはコトバンクによると、
水位差のある水面間で船を就航させるための構造物。
上流端と下流端に扉 lock gateをもつ長方形の一種の部屋 (閘室) である。
とある。

水城には土塁の下に木樋が四本以上敷かれていて、水を通すようになっている。
木樋にあるL字型の構造が閘門に当たるのか。

板で開閉するようになっていたのだろう。
これをイタドリと呼んだ。

谷は水城で仕切られ、冬には上手に水が張られ、下手に麦が蒔かれた。
夏になると、上手の水が下手に貼られて水稲が植えられ、
空っぽになった上手には陸稲(おかぼ)が植えられたという。

1・2キロもある水城ではなく、小水城の形成ではないかと思われた。


この話から、上大利小水城を見てみよう。


上大利小水城2  積雪による洪水を防ぐ堤として形成された話に納得する_c0222861_2251342.jpg

この土手が小水城で、全景だ。
約90mで、やはり谷の狭い部分に築造している。

土塁は本来もう少し高く、手前にせり出していた。

土塁の右手は自然丘陵を利用して形成している。
さらに右手には現代の川が流れていた。

全体は左手(奥)の方に傾斜していて、
現在、上流から下流に水を通すパイプが設置されている。

手前が下流で、この前まで田んぼがあった。


閘門や木樋は確認されていない。
閘門を設置するとなると、奥が良いだろう。

今は9月だが、古代の様子を想像すると、
土手の向こうでは水稲が実り始め、
手前では陸稲が育っているということになる。





上大利小水城2  積雪による洪水を防ぐ堤として形成された話に納得する_c0222861_226117.jpg

これが奥の方の第一トレンチ。
水たまりがあるが、基盤まで掘り下げると、
雨が降らないのに自然と水が出てくるという。

トレンチ左手に版築が出ている。
版築とは種類の違う土を段々に重ねる工法だ。
ここから古墳時代の土器の破片が出土している。

しかし町の見解では、665年の築造のはずだから、
この土器片は土取場に古墳時代のものがあったのだろうということだった。

ほかに、飛鳥時代の土器片も出ている。

外敵を防ぐための土塁だが、外濠の存在は無かったという。

この上大利は大宰府からみたら、川の反対側に当たる。
何故、離れた所を防御するのかと尋ねたら、
大宰府に通じる道があったからということだった。


感想としては、小水城は真鍋の話をよく説明していると思われた。


前文の続きを載せておこう。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。

天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。
『儺の国の星拾遺』p140








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# by lunabura | 2017-09-07 22:12 | <遺跡・史跡> | Comments(2)

ひめちゃご91 朝日山宮地嶽神社 葛子は守り抜いたのだろう



ひめちゃご91

朝日山宮地嶽神社 

葛子は守り抜いたのだろう
 




ひめちゃご91 朝日山宮地嶽神社 葛子は守り抜いたのだろう_c0222861_2153316.jpg

私たちは姫古曽神社からさらに南西に向かった。
四キロほどの所に朝日山があり、頂上に宮地嶽神社が鎮座している。


鳥栖市の朝日山頂上には宮地嶽神社があるが、
すでに「ひめちゃご38」に訪問のようすを記録している。



ここはチェリーの測量で、総本社の福津市宮地嶽神社がこの真北にあり、
筑紫国造が調べた十連寺古墳上の宮地嶽神社が真南にあることが分かった。

古代筑紫と肥前の南北をつらぬく宮地嶽信仰ラインが存在したのだ。

宮地嶽神社は安曇族の一族である阿部氏だ。
これこそが磐井の姓でもあった。
阿倍磐井という。

その子が葛子。






ひめちゃご91 朝日山宮地嶽神社 葛子は守り抜いたのだろう_c0222861_21611.jpg

さて、この朝日山には葛子の伝承があった。
磐井が火君と通婚して葛子が生まれたという。


地図を見ると、ここは物部の福童神社とみやき町の物部神社の中間点にある。
ここで物部たちと戦ったのか。

もともと磐井と物部麁鹿火(あらかひ)が戦う必要はなかった。
大伴金村の差し金で、両者が戦わざるを得なくなった。
結果、磐井は殺されたが、葛子はこの砦を守り抜いたのだろう。

物部麁鹿火は磐井の亡き後数年で没した。

このあと、筑紫はどうなったか。
再び磐井の一族に政権は戻った。

すなわち葛子へ。そして勝村・勝頼へ。

だから、葛子のもう一人の子の鞍橋(くらじ)は百済に派遣され、
百済王子を助けた。
そして、『日本書紀』は鞍橋の本名を抹消した。

だが、真実は蘇るのだ。




ひめちゃご91 朝日山宮地嶽神社 葛子は守り抜いたのだろう_c0222861_2163012.jpg





<今回のコース>
1 媛社神社 小郡市
2 福童神社 小郡市
3 大中臣神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
5 朝日山宮地嶽神社 鳥栖市
6 千栗神社 三養基郡 
7 物部神社 三養基郡
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原
9 北浦天神 三養基郡
10 雌塚 三養基郡 姫方










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# by lunabura | 2017-09-06 21:08 | 「ひめちゃご」 | Comments(2)

第15回歴史カフェ917は「二つの七支刀」ー福岡と佐賀の物部氏と賀茂氏ー



第15回歴史カフェ917は

「二つの七支刀」
ー福岡と佐賀の物部氏と賀茂氏ー




目次の案内です。

第1章 こうやの宮(磯上物部神社)の七支刀 
第2章 石上神宮の七支刀
第3章 物部氏の剣神信仰 フル 石上
第4章 デザインの元 ヒカゲノカズラ
第5章 賀茂氏の雷神信仰 京都、佐賀、福岡
第6章 まとめ

今回は「二つの七支刀」で共通する物部氏について、
また佐賀唐津と京都の賀茂氏の比較からその信仰など、
古代に重要な役割をする二氏族の基礎を押さえたいと思います。






第15回歴史カフェ917は「二つの七支刀」ー福岡と佐賀の物部氏と賀茂氏ー_c0222861_20491175.jpg

左は福岡の南部の物部の里・旧山門郡の瀬高太神(おおが)にある
「こうやの宮」の神像の手にある七支刀。
右は物部氏の武器庫と伝える石上神宮の七支刀です。

「ひめちゃご」で話題になった、
天智天皇が「乞食の相」を果たすために滞在した場所が
瀬高太神です。
ここに「こうやの宮」があります。

滞在した宮を「腹赤宮」と言います。
腹赤魚とはウグイであることが皆さんの協力で分かったのですが、
この魚は次の天武天皇にも??野で献上されます。
それを献上したのは国栖です。

「こうやの宮」には七支刀の武人だけでなく、河童も祀られています。
河童とは国栖(くず)のことです。
瀬高太神と紀州??野をつなぐ国栖の存在がありました。

また、「腹赤宮」や「太神宮」では天文観測の痕跡がみられましたね。








物部の剣神であるフルの御魂とフツの御魂の素材には
「隕鉄」と「砂鉄」の違いがあることを真鍋は語っています。

「隕鉄」は人類が最初に出会った鉄だそうです。


第15回歴史カフェ917は「二つの七支刀」ー福岡と佐賀の物部氏と賀茂氏ー_c0222861_2049422.jpg


「ひめちゃご」や「脇巫女」に登場する物部氏。
バラバラのキーワードの断片をつないで整理していきます。




会場は福津市の福間中央公民館です。
駐車場は145台分あります。
ここでの団体名は「ひもろぎ歴史愛好会」です。

お持ちの方は『神功皇后伝承を歩く』下巻 を持参してくださいね。

日時 2017年9月17日(日)2時~4時
会場 福間中央公民館 研修室1「ひもろぎ歴史愛好会」
所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)
交通アクセス JR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分。
会費 1500円(当日払い)


申し込み方法
1 氏名 ヨミガナ(ハンドル名)
2 住所 市町村、字名まで (例として福岡市東区香椎、春日市春日)
   (番地は不要です)
3 歴史カフェ917希望と記入。

なお、『神功皇后伝承を歩く』(上下)をご希望の方はその旨書いてください。
当日お持ちします。

申し込みは「コチラ」あるいは、サイドバーの「メールはコチラ」から。
(ドコモの方は当方からの返事が届かない場合があります。
その時は、この記事の下に掲示します。
確認したら、非公開でコメントを入れてください。
そののち、記事からお名前を削除します)

福間中央公民館 
所在地: 福岡県福津市手光2222
電話: 0940-43-2100(ナビ用です)
交通アクセスはJR福間駅から徒歩15分
西鉄バス「手光」バス停から徒歩8分です。






<連絡>
9月8日申し込みのA・Nさま。受け付けました。

9月10日17:10:09にドコモのメールで申し込まれたKさま。
返信が戻ってきます。 申し込み受け付けております。


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# by lunabura | 2017-09-04 20:54 | 歴史カフェ | Comments(0)

逆行する水星のいたずらのせいにする


逆行する水星のいたずらのせいにする



今日は、自分の大きな荷物を某所に置き忘れてしまいました。
家に着いたとたん、友人から忘れ物の電話(;’∀’)

往復一時間かけで取りに行ってきました。
連絡してくれてアリガト(*´з`)


昨日は列車が遅れて遅刻した上に、
待ち合わせの駅を乗り過ごすしまつ。
一つ先の駅で拾ってもらいました。

でも、友人もまたデジカメにSDカードを入れ忘れてしまたりして…。

ブログにドジ録コーナー作ろうかと話し合ったものです。


そしてその日、思いがけず懐かしい人たちと会って、
古代史談義に花を咲かせるひとときもありました。

これって、全部水星逆行の時に起こりがちなトラブルやイベントばかり。

過去のことが浮かび上がるのも水星逆行。
懐かしい人たちと偶然に会えたのもそのお陰と思ったりしました。



思い起こせば、
昨年の水星逆行の時も、歴史カフェの当日、
列車が一時間も遅れたために遅刻せざるを得なかった方があったり、
一日間違えた方があったり、と特徴的なトラブルがありました。

占星術の世界は意外に日常に影響を及ぼしているなあと
思わせる水星逆行です。

こんな時、私たちの集合意識が星に左右されるんだなと思ったりします。

ま、自分がドジというだけなんですが(^^;

水星逆行も9月5日(火曜日)で終了します。

落ち着いて過ごしたいものです。


途切れたバナーリンクが突然復活。
Yさん、ありがとうございます♪

これも水星逆行のタイミングだなあ。





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# by lunabura | 2017-09-03 22:06 | にっき | Comments(0)

上大利小水城現地説明会に行ってきた


上大利小水城

現地説明会に行ってきた



今日は大野城市(おおのじょうし)の上大利(かみおおり)にある
小水城(しょうみずき)の現地説明会に行ってきました。





上大利小水城現地説明会に行ってきた_c0222861_2120620.jpg

天気が良すぎて画像が暗いですね。約90mほどの土塁です。









上大利小水城現地説明会に行ってきた_c0222861_21202686.jpg

この小水城は水城の南西の延長線上に位置するものです。
谷を堰き止めて造られました。

水城に関しては、
白村江の戦いの後の防衛網という説で満ちあふれていますが、
真鍋大覚は磐井が水利目的に造ったものと伝えています。


さらに、小水城については氷河が溶け始めた時代からの、
営々とした人々の営みとして記録を残しています。

真鍋の話がどんなものか、またじっくりと読んで、
現地の様子と比較したいと思います。

今日の感想ですが、
谷川を堰き止める五か所ほどの土塁が、作戦上、どんな利便性があるのか、
素人としては全く想像できません。


土塁で川を堰き止めたら、下流に住む者にとってはとても危険ですね。



現地の紹介はまた改めてします。



<2017年9月2日>




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# by lunabura | 2017-09-02 21:21 | <遺跡・史跡> | Comments(0)

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25

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