ひもろぎ逍遥

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ひめちゃご104 始まりの宮へ



ひめちゃご104

始まりの宮へ
 

物部神社から姫方若宮八幡宮へ向かった。

「ひめちゃご」の始まりの宮だ。







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真直ぐの古代道が綾部八幡宮まで続くという。
その途中に姫方若宮八幡宮がある。

狭い車道を北上した。

この日、ウメとタケと私は現地でミノリ一家と合流した。

ミノリこそ「ひめちゃご」という言葉を生み出した人だった。






民家の前を通って
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狭い参道を上っていくと、









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見慣れた姫方若宮八幡宮に出た。
銀杏が輝く季節だった。


ここもまた古代の岬の先端に建っていた。
ここから見える山々は古代の天文観測の名残を教えてくれた。



この宮の祭神は『中原町史』によると、
住吉大神、仁徳大神、武内大臣となっている。

八幡三神でも、次世代の三神ということか、
応神天皇の名が見られない。










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その拝殿にはめずらしい葡萄が彫られていた。
江戸時代の建造なのか、明治に入っての建造かは不明だが、
葡萄とはこれまた瀟洒な西洋的モチーフだ。











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神殿の方には龍と桐。天皇を祀るにふさわしい。










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ところが、他はどうだ。










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波と花に埋め尽くされていた。

いかにも女神の装いなのだ。

ミノリが参拝する時に現れるのは女神だという。


この姫神が誰なのか、それを探す旅でもあったのだろうが、
市杵島姫命が最有力候補だった。


町史も
「原始八幡信仰の神籬から、宗像女神に、宇佐八幡系が入りこみ、
若宮八幡の占有する姿を漂わせている気がする。」
と書いている。

この「中原宿は姫方村の枝村であった」ので、
そこと同じ神を祀っていた可能性があると考えているようだ。

この点は氏子からも「同じ神を祀っている」と聞いている。

町史はさらに、次のように鳥栖の「姫古曽神社」を引き合いに出していた。

<鳥栖市旧基里邑に「姫古曽神社」があって、集落を姫方とよぶ。
祭神は「市杵島姫命、住吉大神、八幡大神」である>

総合すると、この「姫方若宮八幡宮」は鳥栖の姫方の飛び地なので、
「市杵島姫命」を祀っていたと考えられるのだ。

時代は違うが、ここには「中原宿」があり、伊能忠敬が宿泊していた。

<肥前国三根郡なる堤村、寒水村字中島姫方村内中原町駅場止宿>
と書いていることから、当地は「姫方村」と称していたことが分かる。


明治になって、鳥栖の方の祭神は元の形に復元されて
市杵島姫命が再び祀られるようになったが、
この枝村には及ばなかったのだろう。

市杵島姫命の名は公には出ないままとなった、と考える。



神殿に彫られた「波と花」。
それらは市杵島姫命が「水」を司ることを象徴していると思われた。

恵みをもたらす側面と災害をもたらす側面の
二つの顔を持つ「水の女神」
それが市杵島姫命だったのではないか。







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さて、私たちは参拝を済ませると、
中原中学校の校庭にある前方後円墳に向かった。

『中原町史』は以下のように、被葬者を女首長と考えていた。


<中学校前提の前方後円墳に収めた墳主は、
この地の部族の女の首長ではなかったかと考えられる>
さらに、
<この神社のある姫方原一帯は広い範囲に、世代を異にする弥生住居跡が、
多数出土する遺跡である>
とも記す。

これは6世紀の古墳だそうだ。
グラウンドには弥生の墓地もたくさんあったのだろう。



このあと、私たちはさらに、北浦天神社と雌塚に行った。
日が沈む時間が近づいていた。

晩秋の姫方郷をそぞろ歩きして戻ってくるとき、ミノリが
「あの綺麗な女神は市杵島姫」
と言った。
やはり、そうだったのか。

ミノリは鞍手に行って星読とも会っている。

星読が、
イチキシマ姫は佐賀に逃げた、と言ったことを思い出す。
不思議な附合があったことになる。
こうして、ヒメコソ神の三社参りは五社参りとなった。


この「ひめちゃご」は2016年8月から書き始めていて、
いつのまにか一年以上も経っていた。

この始まりの宮で筆を置こうと思う。

すでに、次の巻物が開かれている。

何が書かれているのか、先はわからないが、
これからも日々の記録を残していこうと思う。





        終




                      <2017年11月3日>




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# by lunabura | 2017-11-03 21:11 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご103 検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を



ひめちゃご103

検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を
 


前回、検見谷遺跡の場所が分からないと書いたが、
チェリーが出土したという佐賀カントリー倶楽部の地図を作製してくれた。








c0222861_23225581.jpg


以下はそのコメント。

<いろんな地図を合成して、マウスでなぞったという荒い地図ですけど…
黒い線が佐賀カントリー倶楽部の範囲です。

赤い線が標高20mの等高線、暗い赤の線が標高30mの等高線です。

佐賀カントリーの左上の端あたりに、西から入って南に登る谷がありますが
(白石神社・白石焼窯元への道を登り詰めて、
クラブハウスへの道に合流して、南に進むのですが)、
佐賀カントリーに達する前に標高30mを超えてしまいます!
該当する場所が見つかりません!!>

赤い標高線のラインより4m高い所に遺跡があるという。
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。

この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、南へ入り込む小支谷の斜面上で、
標高約24メートルの場所である。>

これを追求するのも面白そうだが、これは是非とも地元の方にお願いしたい。


今、12本の銅矛は文化庁にあるという。
文化庁や他県の大学に行ったものは地元から忘れさられる可能性がある。

そうやって、九州の歴史は失われていく。

背振山系の南麓にはずらりと古代の最高レベルの文化が花開いている。

奇跡的に保存された吉野ケ里遺跡レベルのものが
台地ごとに存在して、古代人の営みがあったのだ。
その古代人の心の支えが神社だった。

佐賀の奇跡はもう一つ「肥前風土記」が伝わっていることだ。

景行天皇の時代を軸にして、古代道を今でも感じることができる。

誰か、チェリーの描いた地図に赤い点を打ってほしい。

画竜点睛。

方法は、検見谷遺跡の発掘報告書を手に入れるか、
佐賀カントリー倶楽部に問い合わせる。

そうして、その人には、新たな旅が始まるのだ。
古代の歴史がアイデンティティとなり、
次世代の子供たちのチカラとなっていくのだ。



<ひめちゃご>
<2017年11月1日>






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# by lunabura | 2017-11-01 23:24 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご102 検見谷遺跡 12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった



ひめちゃご102

検見谷遺跡 

12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった
 


さあ、弥生時代に遡ろう。

やけに遺跡が多い北茂安町だが、出土は22号線以北に集中するという。
そこまでは海が上がってこなかったのだ。

丘という丘は甕棺や住居跡だったのではないか、と想像したくなるほど多い。

そして、あの麗しき12本の中広型銅矛がこの地域から出土していた。








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この12本の銅矛が出たのは旧北茂安町だったが、場所が特定できない。

町史にその記述を見つけたが、
住所は「大字白壁字一の幡」としか書かれていない。

HPでも場所が示されていないという異常事態だ。

この場所について、町史では
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。
この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、
南へ入り込む小支谷の斜面上で、標高約24メートルの場所である。>
と書かれている。

これではいったいどこから出土したのか、全くわからない( ;∀;)

手掛かりは
<銅矛の発見は、(略)その土地を所有するゴルフ場の職員による
樹木移植作業中のことであった。>
とあり、そのゴルフ場が佐賀カントリー倶楽部だ
ということだけが分かった。

地図をいくつも照らし合わせるが、わからない。









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チェリーの地図だと、画面右下の丘陵地帯がゴルフ場らしい。

物部神社の東に谷がいくつもあるが、そのいずれかだろう。
さすがの、るな探偵もお手上げだ。

出土状況は12本を刃先と袋部を互い違いにして埋納していたという。
このような埋納法は
春日市岡本辻遺跡や那珂川町安徳遺跡と同じだそうだ。

銅矛の長さは82・2~83・8センチ。
綾杉状の文様が研ぎだされている。

これと共通点が多いのが島根県斐川町の荒神谷遺跡だという。
銅剣が358本出土したが、そのほかに16本の銅矛が出土している。

互い違いに置かれ、刃を立てた状態は検見谷遺跡と同じで、
丘陵斜面の中腹であり、
等高線とほぼ並行した状態で埋納されたという点でも一致しているそうだ。

荒神谷遺跡の16本の銅矛のうち、中広型は14本で、
綾杉文様があるのは7本だというので、検見谷遺跡の方が多い。

鋳型は北部九州や四国の西部に限られるということだが、
たしか、出雲の銅矛の鋳型は春日だと聞いたことがある。

出雲の銅鐸と「吉野ケ里遺跡から出土した銅鐸の鋳型」が一致した話もあり、
この佐賀東部と出雲との関連は検見谷の銅矛の出土から、
さらに深いものになった。

それにしても、どうしたことか。
荒神谷遺跡の出土地は簡単に見学できた。
それなのに、検見谷遺跡は出土地の確認さえ、一般人には出来ない。

さらに、六の幡遺跡の29号甕棺は弥生後期初頭で、
完形の連弧文昭明鏡という中国製の鏡が出ている。

なんだか、すごい出土品の数々なのだ。
こんな情報が今どき、ネットでも見られないのは問題だと思う。


さて、ここは風土記にも登場している。
どうやら、佐賀カントリー倶楽部は『肥前国風土記』では
三根郡に当たるようだ。

町史によると、
「三根郡は、『肥前風土記』によれば、海部直鳥が望んで、
神崎郷の一部をさいてつくったとされる。
郷は千栗・物部・米多・財部・葛木・漢部の六郷があるが、
風土記では物部・漢部・米多の三郷しか説明されていない。>
とある、

葛木郷は物部神社の南にあった。

葛城氏について、町史は「大和の大氏族」と書いているが、
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔の宮で、
葛城氏はもともと九州の氏族だったと思う。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻96番篠崎八幡神社)

そして、巨大な銅矛が制作できたのは加茂氏ではないかと
最近は考えるようになったが、
この地域の南西にはなぜか「加茂」という信号があったのを思い出した。


佐賀カントリー倶楽部



<ひめちゃご>
<2017年10月31日>





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# by lunabura | 2017-10-31 21:03 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご101 物部神社2 板部城と中津隈城



ひめちゃご101

物部神社2 

板部城と中津隈城
 


さて、物部神社の西から聞こえてきた
「私たちはここにいます」という森について、
密かに筑後国造の調査を期待していたが、やはり調べてくれた♪

以下はそのコメントだ。

<物部神社の西の森は、板部城という中世の城跡で、古墳は無いようです。
しかし物部神社の西500mの宝満神社
(祭神は玉依姫命であり、息長足姫命、市杵島姫命、大山咋命も合祀されています)
の境内には、前方後円墳である中津隈宝満宮古墳や
他の古墳の石室の石材が露出しています。
また、三階松紋もあります。>

このように、西の森には板部城があることが分かった。

また、さらに西にある中津隈宝満神社にも三階松紋があるという。
「宝満神社と三階松」は珍しい組み合わせになる。

実は、これと前後して、地元に詳しい方が
その宝満神社の画像と掲示板の説明文を寄せてくれた。








c0222861_2144764.jpg


幡の上部に赤い三階松紋が見える。
この石垣が古墳の形状を残しているのだろうか。
ほかの古墳の石材もあるということで、
もともと複数の古墳が築造されていたようだ。

この宝満神社自体は732年に松本というところに勧請されたのが、
812年に現地に遷されたということだ。

すでに古墳があったので、神社を建てる時に一部の古墳が壊されたのだろう。

「城」の話を手掛かりに『北茂安町史』を調べてみた。
すると、ここにも中津隈城があったという。
そして、この中津隈宝満神社が城の核とされていた。

つまり、中津隈城の丘の歴史は、もともと古墳があり、
神社が建ち、城が建てられたことになる。

これと同様の歴史を辿ったのが物部神社と板部城のようだ。



町史によると、板部城の敷地に関しては、
西の森説と、物部神社を含んだ敷地説の二つに分かれるという。











c0222861_2153167.jpg

物部神社の境内には上のように古墳の奥壁が並んでいる。
城を建造するときに、奥壁だけ残されて祀られたような趣だ。

この古墳は物部神社敷地にあったものか、
あるいは西の森から移されたのではないか。














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この場所について、チェリーが新たに作成してくれていた
現地周囲の地図があるので、見てみよう。

物部神社の西に島が見える。(「スーパー地形」の「形」の右側)
これが「中津隈西」といい、中津隈宝満神社が鎮座する所と思われる。

そして、物部神社の南に涙の形をした島(岬)が見える。
そこを「中津隈東」と呼ぶようだ。

「隈」は天文観測所の可能性がある。

「西」と「東」があるということは、中央があるということだ。
「西」と「東」に挟まれた岬には重要な施設があったのではないか。

地名と地形からそんなことを考えた。

なお、『風土記』には物部神社の北、綾部八幡宮の南の地点に
「郡役所」があったことが書かれている。
その場所が神社の形で残っていたら素晴らしいが。

そして、綾部~物部の舌状台地の東を流れる川が寒水川だ。
寒水川といえば、先日の朝倉の水害で氾濫した川と同じ名だ。

綾部~物部の東の寒水川も土砂崩れが起こって、僧が祈っている。
(九千部山の語源由来)
周囲は花崗岩質の風化土からなる丘陵地帯で、
綾部の民が故郷に戻らず居ついたのも納得できる。

さらに古くは阿蘇Ⅳの火砕流が及んだ所でもあるという。
これは9万年前の話だ。

三人の情報のおかげで、漠然としたまま素通りするところが、
地形と由緒をしっかりとみることができた。
三人に感謝。

<2017年10月30日>





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# by lunabura | 2017-10-30 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(7)

ひめちゃご100 物部神社 三階松紋は白村江戦後を象徴するか ここにも市杵島姫が



ひめちゃご100

物部神社

三階松紋は白村江戦後を象徴するか
ここにも市杵島姫が
 



「ひめちゃご」もついに100回となった。

壊れたパソコンは復元されて戻ってきたが、
画面が点灯しないという肝心の故障が治っていなかった。

再び修理に出した。
壊れてからもう一月近くになる。

新パソコンにバックアップデータを取り込みながら
「ひめちゃご」を完成させることにした。

幸い、昨年の秋の撮影だったので画像は残っていた。
ファイルを恐る恐る覗くと、イチョウの落ち葉を撮っていた。
丸一年が過ぎようとしていた。



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ここは佐賀県三養基郡。









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物部神社。

忘れもしない。
境内に入ってゲートボール場を過ぎるあたりで声が聞こえた。
「よく来られましたね」
女性の声だった。

思わず辺りを見回したが、当然ながら人はいない。
見えない世界からの歓迎の声に胸が熱くなった。



祭が行われたばかりのようだった。









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この物部神社、神紋がなんと三階松なのだ。






c0222861_1941853.jpg

宮地嶽神社と同じ神紋だ。
九州王朝すなわち倭王朝紋とされる三階松紋を物部神社が挙げている。
その意味が不明だった。
しかし、この難問は「高良玉垂宮神秘書」の解読によって解決した。

倭王朝は安曇族の阿部氏が主体だったが、
白村江の敗戦後、流浪の王家となった安曇族に代わって
高良山に仏教を受け入れて生き延びたのが物部氏だったのだ。

だから高良下宮社には物部氏の社殿に三階松紋がある。
阿倍磐井も皇別とあるので、古いところでは系図が交錯している。

この三養基郡の物部神社も、その背景の上にあるのだろう。
これを知るために、一年の学びをしてきたようだ。



ここはかつて「北茂安町」だった。
「北茂安町史」にこの物部神社が載っていた。

鎮座地は 大字中津隈(板部)とある。

「創建・沿革」に次のようにあった。
<推古天皇は602年2月に来目皇子を撃新羅将軍に任ずる。
皇子は国造・伴造らの軍勢。2万5000人を率いて筑紫に到着する。

その時、物部若宮部をして今の板部の地に「神の社」を建てさせた。
戦勝祈願のためと考えられる。

「肥前国風土記」に
「此の郷の中に社あり、名を物部の経津主之神という」
とあるのが今の板部の「物部神社」であろう。
なお、来目皇子は602年6月病気にかかり、翌603年2月に亡くなっている。
新羅攻撃は中止になったという。
とすれば、物部神社の創建は602年で、北茂安町にある神社の中では
最も古いということになりそうである。>

こここそ、風土記にも書かれた物部神社だった。
しかし当時、社殿が建てられたわけではないだろう。

社殿を造営したのは、正平年中(1346~1370)、当時この地を治めていた地頭・
板部越前守成尚であり、
再建したのは延享5年(1748)、国主・鍋島宗教によっている。

これからすると、後世になって三階松紋になったと思われた。

当社は今は物部神社だが、明治34年までは「板部神社」と称したという。

さて、祭神は物部経津主神とあるが、
町史によると市杵島姫命も祀られていた。

ここにも、まさかの市杵島姫だった。
饒速日の妃として、市杵島姫信仰は
この佐賀東部にずらりと見られたことになる。

さて、この日、参拝を済ませて戻る時、

「私たちはここにいます」

という声が聞こえた。








c0222861_1942843.jpg

声の方を見ると、森があった。


この社を守った一族が奥津城としているのだろうか。
いかにも古代の営みがありそうな丘だ。

この物部神社の創始が風土記にあるように推古天皇の時代だとすると、
あの磐井の乱の時代、朝日山宮地嶽神社に対して、
物部神社は物部氏の拠点となったのではないかと考えたことは
誤りとなる。

しかし、この森から6世紀より前の墳墓が見つかれば、
もともとここには市杵島姫を祀る物部氏がいて、
新たに武神を迎えて祀ったとという仮説もあり得よう。
が、それは発掘を待たねばならない。









c0222861_19424699.png
                   (カシミール3D)

チェリーがすごい画像を作ってくれた。
千栗八幡宮や物部神社が岬上に建っていることが良く分かる。
クジラが岬の話をよくしていたね。

一年前に、この画像を東から西へと夕陽に向かって参拝していった。

さあ、次回はいよいよ始まりの宮、若宮八幡神社だ。

<ひめちゃご>
<2017年10月29日>

本日天皇皇后両陛下、宗像大社へ。











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# by lunabura | 2017-10-29 19:45 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(8)

RKBラジオ「古代の福岡を歩く」1回目の放送がありました



RKBラジオ「古代の福岡を歩く」

1回目の放送がありました


以前お知らせしていたRKBラジオ「古代の福岡を歩く」は
日本シリーズ(祝ホークス♪)放映のため、
時間を早めて2時15分から放送されました。

あの坂田周大アナウンサーの番組だったんです(;’’∀’’)
低音と雰囲気がかっこいい♪




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この番組では『神功皇后伝承を歩く』を最初から
取り上げてくださるということです。

ですから、今回は1番の忌宮神社でした。

テーマは新羅の上陸襲撃事件や祭祀、軍備、干珠満珠など。

脱線した話も面白いということで、
あちこちと飛んだ話を放送してくださいました。
(私は脱線していないつもりだったのですが(;^_^A)

ラジオは「ラジコ」というサイトでパソコンから生視聴できます。
RKBラジオのHPの左上に大きなアイコンがあります。

もし聞き逃しても、アーカイブがあるので、
時間があるときにいつでも視聴できます。

RKBラジオ→番組表→土曜日→「古代の福岡を歩く」→アーカイブ

以下から入れます。




私の分は「シーズン3」の4回目からです。

今日(10月18日)の話は数日後にUPされると思います。





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# by lunabura | 2017-10-28 19:59 | お知らせ | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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