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七支刀の神像―こうやの宮


七支刀の神像―こうやの宮

今日は久留米地名研究会で発表された
「『こうやの宮』の里を訪ねる」という講演を聞いてきました。

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「こうやの宮」を知ったのはずいぶん前で、二度ほど参拝しました。
七支刀を掲げる異国の神像。
これを知ったのはかなり衝撃だったのですが、
民家の庭を通って参拝するようなところだったので、
紹介するのが憚られていましたが、
講演者の方に確認を取って、ブログ掲載の許可をいただきました。

何もない田んぼの中の祠にどうしてここにそんなものがあるのか
不思議で途方にくれたことを思い出します。

今回の話で、狭い地域に十数社もの宮があり、
中には中大兄皇子もここにやって来たという伝承の宮が有るのを知り、
この宮にアプローチするのに、
太神(おおが)という地域全体から出来る事が分かりました。

「太神」は「於保三和」と平安時代には読んでいたことが
『倭名類聚抄』に書かれていたのを知って、なるほど。

熊鰐さんが率いる遠賀水軍がオンガ、オオガともいい、
その上流から山越えしたら大己貴神社(朝倉市)に出る。

熊鰐さんは岡田宮(北九州市)に祀られていて、こうなっています。
(熊手宮)大国主命(オオクニヌシノミコト)
       少彦名命(スクナヒコナノミコト) 
       県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
熊鰐さんは出雲系なのです。

どうやらオオガが古代に重要な位置をしめていると、
マーサと意見が一致したのを思い出しました。

大神神社が福岡市和白にありますが、そちらは「おおみわ」と読みます。

神功皇后はこの神を畏れていました。
どうやら筑紫の古代の神なのですね。

出雲の方のブログを拝見するとルーツを筑紫に求めています。
私も出雲が筑紫の深層にあるのが気になって仕方がありません。

まだ訪れていない大根地神社は「オオネチ」と読みますが、
「オオナムチ」の変形ではないかと予想しています。

それが、この「こうやの宮」の所在地太神(おおが)とどうつながるのか。
この宮の正式名は「磯上物部神社」というそうです。

大己貴と物部がつながるとしたら、これまた沢山の研究が必要ですね。

う~ん。
今日は、備忘録として書いておきます。







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by lunabura | 2013-03-02 22:26 | 七支刀 | Trackback | Comments(2)

権現塚・円墳の頂上は360度の展望・もう一つの七支刀


権現塚
福岡県みやま市瀬高町大草
円墳の頂上は360度の展望
もう一つの七支刀

神功皇后伝承を追って、みやま市の最後の目的地、権現塚に行きました。

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田園風景の中に、見事な円墳がありました。
段付丸墓とか、茶臼塚とも言ったそうです。
市指定史跡で、(昭和56年2月23日指定)規模は径45m、高さ5.7m、周囲113.5m。

伝承によると皇后軍が田油津姫を討った時に、皇后軍に多くの戦死者が出たのを、
この地に葬った所と言われています。
他に、卑弥呼の墓とか、国造の墓という説もあるそうです。

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これは空から。この周囲には縄文時代や弥生時代の遺跡もあるとか。
どんな人が埋葬されているのでしょうか。


頂上に立つと360度の展望が開けました。

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この場所ってすごい。たった5.7mの高さでこれだけの展望が確保出来るのです。
太陽の沈む西には雲仙岳など長崎の山々。

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北の方には佐賀県の背振山~九千部山。

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南には熊本の山々。

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太陽の昇る方向には女山(ぞやま)や清水山など、おびただしい史跡や古墳が眠る山。
この山の麓では集落ごとに太陽を測量する日拝塚を持っている、
女王たちが統治した古き都。

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そして、北東には懐かしい高良山もくっきりと見えました。

もう一つの七支刀

吉田信弘氏によると、この山門の国には七支刀が存在していて、
戦時中にそれを鋳直そうとしたが、まったく歯が立たなかったという話があります。
その七支刀は行方不明だそうです。


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しかし、その話を裏付けるような、七支刀を持つ神像を祀る古宮が残っています。右手に七支刀を持つ神のその服装はまさに異国のもの。
(左の写真は、「みやま市文化財ガイドマップ」から。)

私もずっと前に拝見していて口外しなかったのですが、今ではネットでも本でも見られるようになりました。
七支刀は奈良の石上神社だけではありません。



山門という地名を留めるみやま市の史跡は大変多く、
まだまだ多くの研究を待つ古代の女王たちの都です。

地図 権現塚





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by lunabura | 2011-09-26 12:50 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(6)

老松神社と蜘蛛塚・女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か


老松神社と蜘蛛塚
おいまつじんじゃ と くもづか
福岡県みやま市瀬高町大草311
女王塚と呼ばれていた古墳ー被葬者は田油津姫か葛築目か

田油津姫(たぶらつひめ)の古墳と言われる蜘蛛塚を目指しました。
老松神社の境内にあるというので、杜を探しながらです。
田園の中の集落の曲がりくねった道の所にありました。

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いかにも古社です。

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みごとな楼門が建っています。

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内側から。

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拝殿は新しく建造されたばかりのようです。


さて、目的の蜘蛛塚の方は一の鳥居のすぐ左にあり、その上に御堂が建っていました。

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石段の高みがそのまま墳丘の高さになります。
古墳の名は「蜘蛛塚」と言いますが、もともとは「女王塚」と言われていたそうです。

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御堂の真裏に廻ると墳丘の姿がまだ残っています。
雨が降ると血が流れると言われている事から、
石棺の中の朱が流れ出していると考えられています。

町指定文化財 蜘蛛塚(大塚) 瀬高町大字大草字大塚
昭和56年2月23日指定
この塚は、瀬高町大字大草字大塚の南東、老松宮入口に位置し、ここ大塚という部落の名の起りでもある。今は石室の中心部のみ残り、塚上に地蔵尊を祀ってある。昔は雨が降るとこの古墳から血が流れると言われていたが、これは石棺内の朱が流れていたのであろう。

伝説によると景行天皇の西征の時に、この地に朝廷に従わない者がいたので、天皇は之を征伐して首長を葬った所だとされている。又、土蜘蛛の首長田油津姫の墓であるとも言う。

この墳の南約18mの田の中に小墳があった。これも大塚といい、もと一緒の前方後円墳であったが道路作りの時、二分されたものと思われる。

大正二年春、田の中の小塚を崩してその上に新道が作られた。往時は女王塚と言っていたが 後世にはばかって大塚(蜘蛛塚)に改めたと言う。
瀬高町教育委員会

説明板を見ると、被葬者には二人の候補がありました。
一人は景行天皇に殺された首長で、葛築目(くずちめ)と言う名も伝わっています。
もう一人は神功皇后に殺された田油津姫です。

葛築目は男か女か
「葛築目」の「目」は「め」で「女」の可能性があるのですが、
蘇我の稲目と言えば「男」なので、男女どちらかは表記からは分かりません。
しかし、ここが女王塚と呼ばれていた事、子安観音が祀られている事から
被葬者はこのクニの女王の可能性が高いと思われます。

いづれにしろ、この古墳には「天皇家に殺された女王の記憶」が残されています。

またこの古墳が前方後円墳だったとすると、通説の論理で行くと、
この地域を支配するようになった畿内の権力者が権力を誇示して
前方後円墳を作ったという事になって、時代は下がります。

どうも、伝承と古墳の形式が合いません。

神功皇后の時代を古墳時代に引き下げるか。
前方後円墳の始まりを引き上げるか。(大胆すぎる?)
結論は将来の発掘を待たねばなりません。

同時代の人たちの古墳を見回すと、
国乳別命(くにちわけ)の前方後円墳(久留米市)の周りからは
弥生時代のものが出土してましたが、
仲哀天皇の古墳(藤井寺市)は5世紀後半の築造。
息子の応神天皇陵(藤井寺市)は5世紀初頭の築造と、親子で逆転しています。
まだまだこの世界は研究の途上にあるようです。

熊襲や土蜘蛛って誰なんだ?
そもそも、この戦いの発端は何でしたっけ?
そうそう、熊襲が朝貢しなかった事が始まりでしたよね。

日本書紀では「熊襲」については、鴨別(かものわけ)に攻撃させたら
おのずから降服したと、チョコっとだけ書いています。
流れからは不自然で、辻妻合わせに後で挿入した印象を受けます。

そこで、これまでに登場した国々の場所を書いて見ました。

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神功皇后軍に殺された王・女王たちを青色で書いてます。

関西で生れて関西で育った日本書紀の編者が考える熊襲の実態は、
羽白熊鷲や田油津姫など、「敵対した国々」を総合した漠然としたもののようです。

「土蜘蛛」とは、かなり早くから入植した渡来人で、
山の中で鉱山を掘っていた人たちで、中東系だから手足が長いので、
イメージから蜘蛛の漢字を当てられました。
田油津姫もそんな種族の誇り高い姫だったと思われます。

この田油津姫の国の呼び方を考えました。
ここは数年前まで山門郡だったので山門(やまと)の国と呼びたいとおもいます。

この山門の国の朝貢品は何だったのでしょうか。
香春岳は銅、羽白熊鷲は鉄だったので、この山門国も金属関係と予測しました。

手掛かりは、この神社の名前が老松神社という事にあります。
老松神社といえば菅原道真(すがわらみちざね)です。
もちろん平安時代の人なので、関係ないと思ったのですが、
道真公の祖は天穂日命(あめのほひ)で、熔鉄の神です。
もともとここは鉄の神が祀られていて、
のちに悲劇の道真公もまた祀られるようになったのでしょう。

ここは有明海と筑後川に近く、豊かな葦原だったので
スズ鉄の生産をしていた可能性があります。
そばの女山(ぞやま)あたりの鉱物なども調べると全容が見えてくるでしょう。

るなの推理コーナー
景行天皇は帰順しなかった山門の国の女王・葛築目(くずちめ)を殺して、鉄製品を朝貢させるようにすると、それを支配、管理するために子供の国乳別命を近くの高三潴に封じた。国乳別命は地元の豪族と結びついて水沼(みぬま)の君の祖となる。

一方、葛築目を殺された山門の国では、次の王、もしくは二代目かに香春岳の田油津姫を迎えて女王か妃にした。

こうして再び力を取り戻した山門の国は国乳別命に朝貢するのが理不尽で、朝貢を取りやめた。

その報告を国乳別命から聞いた仲哀天皇は下関に遷都して、景行天皇が残した筑紫の支配権を確立するために乗り出した。

こんな感じかな…。
手に入ったコマを並べると、こんな仮説が生まれました。

調べて行くと、この老松神社はクニの聖なる場所というのが分かって来ました。
山門国の都造りについて興味深い記事があったので、資料が揃ったらまた報告します。

さて、続けてもう一つ有名な権現塚古墳に行きましょう。

地図 蜘蛛塚・老松神社






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by lunabura | 2011-09-25 16:35 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(0)

車塚古墳・皇后軍の陣営地に立つと、正面に女山神籠石があった


車塚古墳
くるまづか
福岡県みやま市瀬高町大字山門字藤の尾
皇后軍の陣営地に立つと、正面に女山神籠石があった
 

神功皇后軍と田油津姫軍との戦いは、いくつかの資料を読み合わせると、
みやま市(旧山門郡東山村)の「草場」という所だという事が分かりました。
そこには「車塚」があると言います。
古墳だとしたら、地図を手に入れないと辿り着かない。

地名も変わっているので、市立図書館と歴史資料館に立ち寄って
観光案内資料をもらって、場所を教えてもらいました。

文献資料のひとつ。
神功皇后は肥後の熊襲を討たんため、山門郡大和村の高尾の地(鷹尾神社近く)に上陸された。

当時、土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)は女山(ぞやま)に籠り、肥後の熊襲と提携して、南筑一帯の良民を苦しめ、勢いはなはだ盛んであった。

皇后はまず之を血祭りに挙げんと考えたまい、高尾より車駕を東方に進められ、現今の東山村の藤尾に車駕を留められた。今日、藤尾に車塚という塚があって、先ごろ、古銭がこれより出土したという。

車駕を留められた所の意味で車塚の名の別名・車坂という地名も起きたのである。
「皇后軍の高尾の地」とは、前回行った鷹尾神社のことです。
「田油津姫が籠る女山(ぞやま)」は「女山神籠石」がある所です。

幸いにも車塚古墳は史跡として保存されていて、観光マップにも載っていました。
皇后が「車駕」に乗ってきたので「くるまつか」「くるまさか」になったと伝えています。

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これが鷹尾神社から車塚古墳までの地図です。
戦場になった所は「くさば」と言い、「いくさば」が草場になったという話があります。

では古墳へ向かいましょう。
瀬高駅の裏から東へ向かい、九州新幹線のガードをくぐると人家があり、
すぐ左に入って、また右に行くと古墳があります。

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水田の中にある古墳の様子を見ると、前方後円墳の形が残っています。
これは前方部からの撮影です。

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こちらは後円の方。カーブが見えます。

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墳丘の上の鏡堂です。
漢鏡が三枚出土してここに安置してあったそうですが、行方不明になったそうです。

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石がいろいろと置いてありました。農作業中に発見されたのでしょうか。
土器の破片も洗って置いてあります。

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その中にはまん丸に近い石が。
御霊石のような気がしてならなく、半分埋もれかけていたのを上に置きました。

説明板がありました。
町指定文化財 車塚
 この塚は瀬高町山門藤の尾の東北に位置し、南北約55m、東西27m、高さ3.5mの前方後円墳で、明治22年頃までは周囲に3.6mの堀があり、往時は倍塚が左右にあったと聞くが今はない。

享保20年(1735)に漢鏡3面が掘り出され、この塚の中央に収められていたが、今は破片すら残っていない。塚の南西部から弥生中期の合わせ甕棺が多数出土している。(昭和61年調査)。

又、塚の南東部のたて穴からも弥生末から古墳中期にかかる土器が出土している。したがってこの古墳は3世紀末から4世紀初めにかけてのものと考えられる。
  瀬高町教育委員会

漢鏡が失われて、時代が分からないのは残念ですが、
南東部のたて穴から弥生末~古墳中期の土器が出土したのは、
ここで祭祀が行われたのではないかという事です。
これらの事から、ここは海ではなかった事も分かりました。
周囲にも沢山の古墳があり、縄文遺跡もあって、早くから栄えた所です。

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右は上空からの車塚古墳。
古墳の中で並んでいる丸い物は植栽の桜です。

もう一つ資料を見てみましょう。

草場古戦場 
神功皇后は田油津姫を討つ時に、有明海から北上して矢部川にはいり、高尾嶋(大和町鷹尾)に上陸された。それから多くの部下とともに藤尾部落に着き、軍議をしていた時、賊が攻め込んで来て大きな戦いになった。

朝廷軍は突然の攻撃に驚いたが、すぐに反撃に出て賊軍を打ち破った。
伝説によるとこの地は牧場であったといわれ「牧場」を略して「草場」という説と「戦場」(いくさば)を略して「草場」(くさば)という二つの説がある。
「清水小学校の創立百周年記念誌」


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古墳を後にして次の老松神社に向かおうとすると、
正面に女山神籠石の山が見えました。
まさに皇后軍が見据えた敵地そのものです。
山の手前、見えている範囲が「草場」で、戦いがあった所と伝えられています。

(つづく)
地図 車塚古墳







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by lunabura | 2011-09-21 22:09 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(5)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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