ひもろぎ逍遥

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ひめちゃご17 宇津羅姫と葛築目の明暗



ひめちゃご17

宇津羅姫と葛築目の明暗
 


みやま市瀬高には宇津羅姫(うづらひめ)の墓がある。

そこは「宇津」という地名だ。
その女酋長「宇津羅姫」は大地主神の娘だったという。

この姫は景行天皇を黒崎(大牟田?)から、
ここ(?)岩津の高田行宮まで守護したという。

その姫と父が肩を寄せ合って眠る墓が伝わっている。
場所は釣殿宮の近く。





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釣殿宮から南に行くと川があり、その手前すぐ右手だ。
釣殿宮からは300mほどか。

小さな鉄板の橋があった。
この墓には周溝があるというので、橋の下がそれだったのだろうか。
左手には豊かな川が流れていた。
その川の名は飯江川(はえがわ)という。


宇津という弥生の集落が飯江川河口沿いにあったことが想定できる。

「宇津」が「太神」と同邑だったのかは不明だ。
この宇津羅姫は景行天皇を歓待した側となる。


景行天皇は各地の王国、女王国に、まつろわぬか、まつろうか、
二者選択を迫って巡行した。

まつろわぬなら滅ぼされ、まつろうなら身を差し出さねばならなかった。

景行天皇の筑紫国巡行は、それぞれの弥生の国々にとっては、
クニが滅ぶかどうかの大問題だった。


筑紫の各地に、景行天皇と対峙した女王たちの名が残っている。
『日本書紀』に書かれているのはほんの一部に過ぎない。

しかし、景行天皇との攻防が、奇しくも当時の邑の分布を教えている。

この宇津羅姫の存在は、筑後川河口域に一つの邑があったことを示す。

これまでの逍遥のなか、出会った姫たちを思い起こした

景行天皇を受け入れた女王としては神夏磯姫(かむなつそひめ)が有名だ。
しかし、田川の香春岳の開発に追いやられた。
美貌の姫だったが、不幸な生涯となった。

その後裔に夏羽と田油津姫兄妹がいる。
夏羽は朝廷を恨み、田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした。

結果は兄妹の惨敗。
(下巻60若八幡神社参照)


田油津姫が殺されたのはここ、みやま市なのだ。

その先代に女王・葛築目(くずちめ)がいた。
葛築目は景行天皇を受け入れずに殺された。
(下巻59老松神社参照)

葛築目が景行天皇と同じ時代なら、宇津羅姫とも同時代となる。
一方は殺され、一方は栄えた。

二人の女王は、みやま市の北と南で対立していたのかもしれない。
そこは、かつては「ヤマトのクニ」といった。

葛築目の墓は雨が降ると血が流れると言われている。
この墓はあるいは田油津姫の墓ともいう。

弥生の朱が流れ出すのだろう。

景行天皇の存在を介して、同時期に生きたことが分かった
二人の弥生の女王たち。

その明暗をしのばせる墓はいずれもほんのりとした墳丘を残していた。




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※メール、コメント、電話など、返事が滞っています。
拝読していますが、返事は今しばらくお待ちください。






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by lunabura | 2016-09-18 19:47 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご16 割り込んできた天智



ひめちゃご16

割り込んできた天智
 


八女市の松尾弁財天を書いているのに、
ず~っと西のみやま市での中大兄皇子の祭祀が
その意味を探る手掛かりとなった。



あれは、伏線だったのか。
そう、思い起こすことがある。


実は「脇巫女」を書いていた頃のことだ。
菊如と崋山の行う結願が一区切りついた時、誰かが割り込んできた。

堂々とした姿に、名を訪ねると「てんじ」と答えた。
「てんじ」とは「天智」。
もちろん中大兄皇子の即位名だ。


まさかの天智天皇の登場に居合わせた私たちは戸惑った。
何故出て来たのか。

呼んだわけでは無いので、用もなかったし、
質問も持ち合わせていなかった。


菊如が私に「質問して」というので
しどろもどろに尋ねた内容の一部を「ことのかたり」に書いた。


今、それを読み返してみた。ここに編集して再掲しよう。

天智天皇?と私の一問一答ということになる (^^;


◇ ◇ ◇ ◇

るな:磐瀬宮に来られたのは?
――我々は遠賀川の磐瀬宮には船で来た。嵐に巻き込まれたのだ。
海から入ってきた。


るな:倭国と日本国はどうなっていたのですか?
――当時の日本のようすか?
三つの大きな部族でできていた。
日本国。
倭国。
青い目をした部族。

日本国がヤマトの国だ。


るな:物部氏の目の色は何色ですか?
――物部は黒だ。


るな:天武天皇とはどんな関係ですか?
――我と天武とは母が違った。腹違いじゃ。


るな:なぜ朝倉に来られたのですか?
――朝倉は重要な所だった。
筑紫にはいろいろな国から船が入って来て、もめておった。
新羅の船も襲って来ておった。


るな:白村江の戦いではどこに布陣したのですか?
――本陣は長崎の諫早にあった。もう一か所は門司~山口あたり。
我らの船団は七艘だ。倭国の船の方が多かった。


るな:船にはマストがありましたか?
――われらの船には3本の帆柱があった。
我は航路をいつも考えておったぞ。


るな:白村江の戦いの時にはどこにいましたか?
――我が船も百済に行った。
が、この地に流れ着き、助けてもらった。


るな:白村江のあと、日本はどうなったのですか?
――新羅の後陣が二回攻撃してきた。
唐は来なかった。



◇◇ ◇ ◇

このあと、私はうっかりと「タリシヒコ」を尋ねてしまったために、
天智が混乱して、対話は終わった。

本当は「サチヤマ」のことを尋ねたかったのに。

この時、私は歴史をきちんと押さえないといけない、
興味ない分野だと切り捨ててはならないのだと反省した。


現実に戻りながら、崋山は、
「天智天皇の頭の中は船の航路のことでいっぱいだった」と言った。

九州の北回りだけでなく、南回りの航路のことも
グルグルと考えていたという。

そんな発想があるとは、思いもよらなかった。

確かに、唐・新羅連合軍が
それぞれ別ルートで襲ってくる可能性だってあったのだ。

長崎・熊本の防衛を挙げた学説をまだ聞いたことはない。


天草に行った時、海の向こうには中国大陸があることを
思わずにはいられなかった。

玄界灘に向かうと、朝鮮半島のことしか思い浮かばない。

文明も難民も王族も、戦いも海の向こうからやってきた。

固定化した発想は真実を見えなくさせてしまう。
柔軟な思考でいたい。




ここ、みやま市の北には風浪宮がある。
その近くの榎津(えのきづ)は国際港だった。
異国の地図にはアルファベットでその名が記されている。

このみやま市の物部の里にも海外の文物と人々が
ダイレクトに流れ込んできただろう。

瀬高(せたか)には古代の祭祀の位置がそのまま伝わっている。

奇跡の太神(おおが)。
なんと愛おしい土地なのだ。

こうして思い起こすと、
「脇巫女」の頃の天智天皇の登場は余りにも突飛に思えたが、
あれは「ひめちゃご」との繋がりを示すキーパーソンだったのか、
とようやくここで思いが至った。





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(太神宮)


コメントありがとうございます。
返事は後日 m(__)m




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by lunabura | 2016-09-14 22:26 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(12)

ひめちゃご15 天道、乙姫、於保美和



ひめちゃご15

天道、乙姫、於保美和
 




ついでと言っては何だが、
ミナツキが気にしている「天道社」が太神(おおが)にもある。
祭神が「天下皇神」とだけしか分からない。

面白いことに、それは溝を隔てて「乙姫神社」と背中合わせに建っているという。

「乙姫神社」は先述のように祭神が「豊玉彦・豊玉姫」だが、
慶応4年の由来縁起には
「川上明神、祭神罔象女(みずはめ)神・瀬織津姫神」と書かれているという。

水の女神たちだ。これまでに出て来た神々である。

近くの川の名を調べると、矢部(やべ)川ではないか。

あの釜屋神社の美しい緑の水はここに流れていた。

そして、松尾弁財天の横を流れる辺春川も矢部川に注いで
この太神宮・釣殿宮のそばを流れていくのだ。
その水源の山が犬岳となる。

これまでの一連の水の女神と中大兄調査は矢部川で結ばれていた。

中大兄皇子を追ってここまでやって来たことが、
無関係ではなかったことに驚かされる。





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(釣殿宮の東側面)





今、「ひめちゃご」の旅は矢部川の中流から下流域を辿ったことになる。



ここ、みやま市は中大兄皇子の時代はまだ有明海の波に洗われていた。
点在する島の中、皇子は釣殿宮から犬岳を望んだ。

その山こそ矢部川の水源の一つであり、
春分・秋分の日の出に輝く山だった。


「ひめちゃご」で何を知らされているのか。
中大兄の足跡から、おぼろげに見えてきた気がする。




さて、この「太神」(おおが)という地名は、
「倭妙類聚抄」では「於保美和」(おほみわ)と読み仮名が付けられていたという。

「大神」で「おおみわ」と読ませるのは他に、
福岡市東区の大神神社がある。

神功皇后が船舶を集めたが集まらず、大三輪の神に祈ったと

『日本書紀』に書かれた所だ。

共通するのは鉄。

このみやま市の「太神」(おおが)にはかつて鍛冶屋がずらりと並んでいたという。
東区の「大神神社」の裏手の古墳群では古代製鉄所の跡が発見されている。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻68大神神社参照)




さて、さらに。

チェリーによれば
犬岳と麻氐良(まてら)山には繋がりがあるという。

ちょっと驚いた。
麻氐良山からイザナミだけを降ろして祀ったのが中大兄皇子なのだ。

母の斉明天皇の病気平癒の祭祀と考えている。
そこに今なお謎とされている「橘広庭宮」の位置が書かれている。

これが9月の歴史カフェのテーマと重なって来た。

そして、「ひめちゃご」の矢部川の旅の始まりとも。


めまいのように思える水のきらめきの幻想と倭国の終わりの時。

そして、ヘバルとヤーベ。



その深淵を覗くことに、たびたび立ち止まりたくなる。
それでも、一歩ずつ、書いて行こうと、その都度心に言い聞かせている。






ちなみに、星読が行きたいと言っていた「田中物部神社」も
釣殿宮から西に300mといったところか。


矢部川










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by lunabura | 2016-09-13 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご14 太神(おおが)という物部・安曇・国栖の里



ひめちゃご14

太神(おおが)という物部・安曇・国栖の里
 



春分・秋分の日に朝日が昇るという430・3mの山の名が分からなかったが、
筑後国造が遺跡地図を調べて「犬岳」と呼ばれていたことを知らせてくれた。


「太神宮」から見える山の名の字には「太」「大」がふさわしいが・・・
「、」の位置が変えられたのかなあとぼんやりと思う。
単なる脳内思考だ。





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太神宮の拝殿の彫刻には珍しい日の出の彫刻が見られる。
これはまさしく春分・秋分の日の出を描いたものとなる。

そうすると、波の模様は有明海の波を示すものだろう。
ずっと奥まで広がる穂波は海波の時代があったのだ。

海辺で島が点々とあったのが、今の沢山の杜となっていると地元では伝える。

チェリーの作図した東の山並みを見ていると、
犬岳が真東から5度ほどずれているが、
これまで前方後円墳や古代遺跡に出てきた
軸のズレ「謎の五度」を指しているのかもしれない。


古代の人は春分・秋分などは実際に太陽が昇る地点を測量して
聖方位としたのだろう。だから、軸が真東から少しずれていたのだ。

それでは、春分・秋分の日、あるいは夏至冬至をどうやって決定したのか。
真鍋は星の観察で決めていたという。
私たちの知らない小さな星でさえ、名前がついて、季節の到来を教えてくれていた。


そういう意味では「釣殿宮」は天文観測所だったということになる。
チェリーが驚いたのは「東」の観測点と「日の出の場所」の観測点を
同時に持っていたということだ。

往年は小佐島といい、船が通っていたという。
特別な人だけが上陸できたのだろう。

この釣殿宮の祭神は「阿志賀野神」といい、また景行天皇、天智天皇ともいうそうだ。

「阿」「志賀」といえば、アレか。

近くの乙姫神社には「豊玉彦と豊玉姫」という安曇の親子神が祀られて、
「赤玉・白玉」があったという。
もちろん二つの珠は龍神の干珠満珠だ。


このおかげで神功皇后が新羅に達した時、地震津波が起こって
引き波の時に下船した敵は寄せ波でおぼれたという。
新羅の国中まで波が達したと『日本書紀』は語る。




さて、話を戻そう。




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この太神(おおが)の天文観測の担い手は物部氏が主体だろうが、
すぐ近くのこうやの宮(磯上物部神社)に祀られている五体の神像の中の
左下のカッパに注目したい。

地元では「かっぱさん」と呼ばれている。
水神で、300年以上も「河童まつり」がつづいているという。

子供が水に引かれないようにと畏れられているが、
古代には龍神の使いとして尊ばれ、驚くほどの技術を持っていたという。

銅鏡や鉄刀の工人が道教の天使と共に有明海から上陸したという話が聞かれる。
(「南方からの使者」という訳ではない)



真鍋の伝える、國栖(くず)のことだ。
彼らは天文祭祀にも精通していて、倭人に暦なども教えたという。
そんな話、久留米で話したことがあるのを思い出した。

(ちなみに、主祭神はその(3)の鏡を持って男装している女神像である。
近畿天皇家からの使者という訳ではない。)



そして、ただ今、地震が起きた。
震源は朝鮮半島南部。

新羅の南方か。
神功皇后の不戦勝は新羅沖の地震による津波だった・・・

現在、そこには原発村がずらりと並んでいる。





赤 釣殿宮  青 日出天神?(ひいでてんじん)






日出天神も何らかの観測所か。




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by lunabura | 2016-09-12 21:27 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

ひめちゃご13 中大兄が祈った太神宮は春・秋分ライン祭祀だった



ひめちゃご13

中大兄が祈った太神宮は
春・秋分ライン祭祀だった
 




中大兄皇子が乞食の相を果たすために西国で修行した時代、
みやま市(旧山門郡)太神(おおが)の長島(おさじま)に来て、
ひもろぎを立てて東から昇る太陽を祀ったという。


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これがその拝殿だ。太神宮という。
日足紋が白く輝いている。
この宮の祭神は天照大神だ。


この彫刻の豪華さはやはり天智天皇ゆかりということから来るものだろう。

白村江の戦いで捕虜になった筑紫三宅連得許(とくこ)が帰国して宮を建てたという。

帰国年は天武天皇13年。
21年ぶりの帰国だったが、中大兄皇子はすでに鬼籍に入っていた。

さて、生前、中大兄皇子の滞在地はここから南西400mほどの所にあった。
そこを釣殿宮という。






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これは太神宮から釣殿宮を撮ったもの。中央より左寄りの杜が釣殿宮。
目と鼻の先だ。










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これは釣殿宮の参道に掲げられていた説明板。
住民が腹赤の魚を釣って中大兄に献上したことから、腹赤宮ともいう。












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その拝殿の横から東を撮ったのがこれだ。
前回、掲載した画像だが、どうやら見えているのは松尾弁財天近くの山なのだ。

そこで、チェリーに調べてもらった。以下はメールの一部である。




<少し長くなりますが、ショッキングな結果となりました。
添付の地図を御覧ください。>


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(この地図は国土地理院発行の2万5千分の1地形図(野町)を使用しています)

< 「松尾弁財天」の上流の一つは左上の溜池になります。
その左下に「430.3mのピーク」があります。
名前はわかりませんが、松尾弁財天はこの山の中腹にあるといってよさそうです。

私のサイトでは、この430.3mのピークが松尾弁財天を代表できると考えます。
このピークが釣殿宮からほぼ真東に見えるのです(89.87°)。
それも、きれいな三角の形に見えるのです。(※ピークから釣殿宮は269.92°)
私は±0.25°までをOKとしていますので、東西関係にあるといっていいでしょう。>


ー松尾弁財天と関わりがあると判断された430.3mの山の名が不明だ。
ギンが調べた大浦山がこれだろうか。
あるいは393mの山も南にあるので、特定できていない。








<カシミールの画像を2枚添付します。

c0222861_21461866.jpg









もひとつ、これは参考までに、釣殿宮から真東に更に進むと「小国両神社」になりました(90.03°)。
小国両神社は仏頂山(元宝満)から正確に南東になります。ラインは「マテラ山」の真上を通ります。
やはりマテラ山がポイントになると思うのですが、このあたりは私のブログで書きますね!>







c0222861_21463920.jpg

この「430.3のピークの奥に松尾弁財天があり、
春分と秋分の日にはここから朝日が昇ることになる。

つまり、釣殿宮は中大兄皇子が来る以前からの祭祀点だったと考えられる。

そして、さらにチェリーが調べた結果、思いがけないことに、
太神宮からは秋分の日の出が観測できるというのだ。

<では、「太神宮」の位置は何を意味するのか?

太神宮から東を眺めると、「430.3mのピーク」は
東からかなりずれてしまいます(91.2°)。
直接「松尾弁財天」への角度をとっても 90.7°です。
私のサイトではNGになってしまいます。
カシミールの画像を御覧ください。









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でも、このずれ方に見覚えがありました。
そこで、今年の秋分の日(2016年9月22日)の日の出を写してみたのです。









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秋分の太陽はこのピークから昇りました。

太陽信仰だったのです!!>



これは驚愕だった。

中大兄皇子はその地点を聞いてここまでやって来た可能性が大きい。
「太神宮」とはまさに天照大神の祭祀そのものだった。


中大兄皇子を迎え入れたここ、長島(おさじま)は物部の里でもある。
弥生からの邑のようすが残ると思われる貴重な地域だが、
古代祭祀点が平地にそのまま残っている驚異の地だった。










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by lunabura | 2016-09-09 21:52 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(15)

筑紫三宅連得許(とくこ)という人


ことのかたり

筑紫三宅連得許(とくこ)という人
 



今日は中大兄皇子の年表を作ってました。



中大兄皇子は白村江の戦いのあと、即位する前に、
みやま市(旧山門郡)に来ているんですね。

母帝が朝倉で亡くなった時、皇子は37歳。

白村江の戦いの時は39歳。

敗戦後、タイトルの筑紫三宅連得許(とくこ)という人は
捕虜となって唐に連行されてしまいます。

三宅って、大牟田かと思ったんだけど、違うのかなあ。



得許は死刑を免れて日本に戻って来たけど、その時は既に天武天皇13年。
二十一年ぶりの帰国でした。
新羅経由だったと『日本書紀』には書かれています。

中大兄皇子(天智天皇)の崩御はわずか47歳の時でした。



帰還した得許は旧山門郡までやって来て中大兄皇子の祈りの場を訪ねます。

それが、みやま市の太神宮(だいじんぐう)。
七支刀を持った神像がある磯上物部神社のすぐ近くです。

太神宮では天智天皇が即位する前に神籬を作って、朝夕祈っていたそうです。





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得許は太神宮を奉納したといいます。
祭神は天照大神。

得許が捕虜になった時はまだ若々しかった中大兄皇子。
まさか、あの中大兄皇子が自分より先に亡くなるとは。

そんな得許の思いが伝わってきそうです。

供養の意味を込めて神籬の後を神宮にしたのでしょうね。
きっと、生前の皇子のことを良く知っていたのでしょう。











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by lunabura | 2016-08-26 22:10 | <ことのかたり> | Trackback | Comments(6)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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