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ひめちゃご63 景行天皇の三女神祭祀



ひめちゃご63

 景行天皇の三女神祭祀
 



ヤマトタケルの父、景行天皇は九州の各地を回った。
その戦いの記録は『日本書紀』にも書かれているが、
祭祀については触れられていない。

パワーポイントをつらつらと流していると、
どうしてもここで止まってしまう。

何度も書いてしまうが、
今日も、水沼(みぬま)の話にお付き合い願おう。







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福岡県の筑後川。向こうに見えているのは耳納(みのう)山脈。
かつては水縄とも書かれていた。


こちら岸に赤司八幡神社が鎮座する。



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主祭神は道主貴(三女神)だ。
『日本書紀』には水沼君がもちいつくと書かれている。

止誉比咩命は豊姫、すなわち神功皇后の妹。(武内宿禰の妻)
與止比咩命は淀姫、すなわち津波を知らせてくれる水の女神。






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古くは筑紫中津宮といい、止誉比咩神社となった。

しかし、守り続けた水沼氏はキリシタン大名の大伴氏に
神殿を燃やすか、名を捨てるか、選択を迫られて、名を捨てた。
今は宮崎氏となっている。

この時、八幡神社となった。


かつて景行天皇がここで三女神を祀り、皇子を御手代として残した。
その皇子が国乳別皇子だ。

神功皇后でさえ、妹の豊姫を神形代に立てた。
何度も書いた話だ。



この国乳別皇子(くにちわけのみこ)の墓所が在る所が高三潴。
だから、古代の連玉ビーズが出ても何の驚きもない地だ。





そして飯塚での話で、景行天皇は日尾山(ひおさん)でも
三女神を祀ったと聞いた。
それが飯塚の厳島神社の由来だ。







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これは飯塚市の日若(ひわか)神社だが、
右の画像に日尾山が写っているので、ご紹介。
右の道を走ると行き止まり。


車で走ってもかなり大きな山塊だ。
ひおさんは「日尾山、日王山、日思山」の表記があった。








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この日尾山の重要性は何を意味するのだろうか。




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右の画像の川の右手の方から山道があるという。
古代の銅の道だ。

この日若神社そのものには景行天皇関連の伝承はないが、
日尾山が写っていたのでUPしてみた。

何故、景行天皇はこの山に三女神を祀ったのか。

三女神に祈り続けた景行天皇は何を知っていたのか。

『日本書紀』からは全く伺えない、筑紫の女神信仰。
景行天皇より古い時代からの水の女神。

それを消し去ろうとしたキリシタン大名。

そこらへんにも手掛かりがあるんだなと思う。





(神社についている番号は
拙著『『神功皇后伝承を歩く』の掲載番号。
ゆっくりと読み直してくださいませ)





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by lunabura | 2017-03-28 20:59 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(3)

エジプトの壁画と「吉井」の壁画のつながりが見えてきたかな



エジプトの壁画と
「吉井」の壁画のつながりが見えてきたかな


3月の歴史カフェは、糸島がテーマですが、
二度目の参加の方もあるので、少し変化させて
テーマを絞って、深く切り込むことにしました。


糸島におけるニニギ尊と木花咲耶姫の通婚の話と
真鍋によるエジプト人の渡来についての話の二本立てです。

一年ぶりですが、この間、私の理解がさらに進んだので、
真鍋の解釈のエリアを少し広げることができました。

すると「吉井」の地名が出てきました。

「冬至の日輪」を「ゆつまのひのあかり」と言い、
それが出入りするのを観測する所を、
万葉の頃には「吉日」と書き、平安時代には「日吉」と書いたそうです。

「吉日」はいつしか「よしひ」とも読むようになり
「吉井」という地名になったといいます。

「出入り」ですから、日の出も日の入りも観測するわけですが、
まさに吉野ヶ里遺跡がそうでしたね。





「吉井」の地名は福岡県うきは市吉井町にも残っていますが、
そこから例の珍敷塚古墳の壁画が出ているのです。



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「ゆつまのひのあかり」を観測するところが「よしい」
「ゆつま」はルクソールと同じような地形の場所。

こうしてなんとなく繋がりそうです。

ほかに「小郡」「戸畑」など、
いくつかの地名の成り立ちも関連します。

まだまだ理解の途中ですが、みなさんとシェアして、
理解を深めていこうと思っています。




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by lunabura | 2017-03-01 20:40 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ 水沼のクニは巫女のクニ



高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ

水沼のクニは巫女のクニ



今朝のワクワク新聞記事。

しょっちゅう書いている水沼族の政治の地である高三潴から
連玉ビーズが出たそうですね。





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読み(水沼 みぬま 高三潴 たかみずま)

甕棺からだって。



時代がなんと弥生時代後期で、(1~2世紀)となってます。(西日本新聞)
毎日新聞では(約2000~1800年前)となっているので、
う~む。弥生時代って随分と遡ったんだね。

卑弥呼自死が248年なので、卑弥呼は古墳時代に昇格した?

(どうしてもあの奈良の某巨大前方後円墳を
卑弥呼の墓にしたい感みえみえ(´-ω-`))




ま、それは別として。



『日本書紀』説では神功皇后が1800年前なので、
連玉ビーズの時代に生きていたのは景行天皇やその子の国乳別皇子や
景行天皇を道案内した猿大海が含まれます。

昨日も、三潴は古代に栄えた所だと、飯塚でお話ししたばかりです。

水沼族の湊は大善寺玉垂宮の地で、中国からの文物がダイレクトに
どんどん流入して最先端の物が入って来ていた所です。
(下巻78大善寺玉垂宮)

ビーズどころではないものが沢山眠っているはずですよ。
発掘されていないだけ。


その水沼族の政治の地こそ、少し離れた「高三潴」なのです。
そこからビーズが出たのですね!





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そこには、国乳別皇子を祀る弓頭神社があります。
(下巻57弓頭神社)



田油津姫攻撃の前に神功皇后や武内宿禰が水沼水軍の船でやって来て、
武内宿禰と国乳別皇子が軍議をしているシーンが
大善寺玉垂宮の絵巻に描かれています。(下巻57)



水沼族の聖地は赤司八幡神社で、
道主貴(みちぬしのむち)=三女神が降臨したところと伝えています。

景行天皇はそこで天壇を構え、三女神を祀り、
自分の子供の国乳別皇子を天皇代行として残していきました。


水沼族の版図は広いですよ。
旧三潴郡だけではありません。



筑後平野での三女神信仰を基準に考えると朝倉も入ってきます。
福成神社は最初に景行天皇が祀り、神功皇后も祀り、
あとからは斉明天皇も祈願に来ています。(下巻53福成神社)



その北にある太刀八幡宮も三女神。

神功皇后が太刀「乙王丸」を奉納しました。
そこでは武器を手入れしています。
軍事訓練をするエリアです。
(下巻52太刀八幡宮)




新聞には「伊都国」と比較した記事がありますが、
その広さは比べ物になりません。

水沼のクニの方がはるかに広くて、
邪馬台国の7万戸も容易に賄える所ですよ。

伊都国の南に邪馬台国があるのですから、
当然ながら論争のターゲットになるべきクニです。

これまで話題にならなかったのが不・思・議。


ちなみに、「水沼」とは巫女を出す家系のことです。
ほら、邪馬台国の条件も揃ってますね。

赤司八幡神社の北部には弥生の環濠集落や漢鏡も出てます。


この水沼族の地には、三韓討伐の後、神功皇后を乗せた安曇磯良が入って来ます。

神功皇后が褒賞としてこの地を与えたのでしょう、
ついには安曇族の領地となります。
その祭神が「玉垂命」です。

ここはもともと女神を祀っていたのが、玉垂命に変わったのです。

玉垂とは「干珠満珠を垂れた」神という意味です。


神功皇后が亡くなってしまったのち、
磯良も年老いて死期を覚悟すると、ここに戻って来て、
神功皇后との思い出の船を焼かせます。


その時、竜骨だけは残しました。
それがご神体になったと書かれています。
(高良玉垂宮神秘書)

だから、山号が「御船山」なのです。


国乳別皇子の墓も安曇磯良の墓も高三潴にありますよ。
(下巻78大善寺玉垂宮)



だから、連玉ビーズが出ても当然の地なのです。



ガイドブックの下巻をお持ちの方は上記の番号を参考にしてください。
サイドバーからも各神社の記事が見られます。






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by lunabura | 2017-02-17 19:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(7)

「弓削」(ゆげ)の話と「中西」の話



「弓削」(ゆげ)の話

「中西」の話

 


弓削の道鏡が建立した由義寺(弓削寺)跡が発見されたという
2017年2月13日の新聞記事をテーブルに置いたのですが、
先日歴史カフェでいただいた久留米市の文化財マップを
整理しようと手に取ってビックリ。


「弓削・北野地区」のタイトル\(◎o◎)/!

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「弓削」と「弓削の道鏡」!

これはいったいどういうシンクロ?

実は高良山に仏教が入り込んだ白鳳二年(673)。

この時、高良山の支配は安曇から物部に変わるのですが、
この物部氏が何故か、のちに武内姓を名乗るようになるのです。

武内宿禰は智将として人気があるとしても、
姓が変わるのはよほどのことと考え、

物部氏の社会的な事件が関わった可能性を想定したのですが、
この二つの資料が並んだ時、弓削氏から考えるようにと
示唆された思いがしました。

白鳳二年に出家したのが隆慶ですが、その母が弓削氏なのです。
つまり、物部氏と弓削氏はここで通婚しています。

この弓削氏だった母も白鳳7年に出家します。
正覚寺を営むとあるので、その寺は久留米で探さないといけないのですが。
(誰か教えて…)

弓削の道鏡が孝謙上皇の病を完治させたのが761年。
隆慶の母が出家した白鳳7年は678年。

弓削氏においては仏教は、道鏡より筑後の方が百年も早いことになります。

百年後の弓削道鏡事件がきっかけとなった可能性、ありますね。

少し時間を掛けて精査したいと思います。
今日はアイデアを忘れないために φ(..)メモメモです。





さて、明日は飯塚での古代史講座です。
神功皇后の話もいよいよ渡海準備の段階になります。
いわゆる三韓征伐ですが、簡単には行けないのですね。

住吉族と安曇族との交渉、
軍事訓練、
決意のパフォーマンス、男装の美豆良結い、
複数の出港地説、寄港地説などを整理します。

神功皇后が渡海の時、「この風は何か」と尋ねると、
「中西」と答えたことから、その水手(かこ)に
「中西」と名乗るようにと告げた話があります。

これがよく分からなかたのですが、
赤間の喫茶店で筥崎宮の氏子さんが突然教えてくれたのです。

「志賀島から朝鮮半島に一気に渡ることが出来る風が吹く季節があり、
その風を中西というんですよ」と。

つまり、魏志倭人伝に出てくる、楽浪郡から糸島に至る航路の
抱える問題が解決したのです。

朝鮮半島から倭国に渡るのは簡単なのですが、
逆のルートは潮流が邪魔をするので、倭国から半島に行くのは難しいのです。

しかし、一年に数日だけ吹く「中西」を捉えたら簡単に行ける!
こうして、不思議な廻り合わせで謎が一つ解けました。

それは学説では出てこない生きた歴史ですね。
伝承とは私たちに伝えてくれる知恵でもあります。

明日は、スポット参加も出来ます。
興味のある方お待ちしています。





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by lunabura | 2017-02-15 21:23 | メモ | Trackback | Comments(26)

高良玉垂宮神秘書 黒龍紋は玄孫大臣



黒龍紋は玄孫大臣




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この不思議な絵は「高良玉垂宮神秘書」に載っているもので、
黒龍紋を具体的に描いたものだ。

241条に書かれている。


描き方の指示が載っている。

五か所ぐるりと巻くように。
ウロコと足と手、顔そして尾は剣の形。なるほど尾の形は特徴的だ。


これは玄孫大臣の紋ということなので、武内宿禰の紋と解釈した。




門光紋というものがある。


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住吉神が四天皇として雲間から現れたようすを描いた紋だ。

この住吉神は何故か兜率天に居た。
(神が仏の世界にいたという不思議)





本条の説明を書こうとしたが、
論理が破綻していて、上手く説明できない。(´・ω・`)

要するに、
天武天皇即位二年に仏教が入ってきて、上宮も下宮も物部氏が頭領となったため
黒龍紋も門光紋も同じように使うようになったということ。

上宮は安曇から物部そして住吉と変わるので、ややこしい。


「玄孫」ということばも、1条ではアマテラスのひ孫だと書いているのに
本条では龍宮の孫と書き換えている。

書いた本人ももう分からなくなっているのだろう。
取りあえず、原文を平仮名書きに代えたものを掲載。



五輪が終わった夜長にチャレンジしてくれたまえ。

そういえば、この黒龍も五輪だ。

この話はややこしすぎて、歴史カフェでは触れませぬ。




「二四一条
一、表筒男尊 玄孫大臣の異国のヲンムケニハ、御紋は黒龍にて、五所巻きたる龍なり。イリコ、足、手、面(つら) 尾の剣までありありと描くべし。これリウコウの御孫たる故なり。母方なり。御兄弟の流れなれば、大菩薩の御紋、門光を今に大祝職紋にいたすなり。大祝職の紋、黒龍を大菩薩の御紋にいたすこともあり、これ即ち大菩薩、大祝職同体異名たる故たり。門光を五ところ描き、龍をかくのごとく描くなり。」





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by lunabura | 2016-08-24 22:23 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(18)

白鳳元年と白鳳二年



白鳳元年と白鳳二年




「白鳳年号」は正史には登場しない。
九州年号と言われている。

現在、『高良玉垂宮神秘書』の抜粋版を推敲している最中だが、
白鳳年号がいくつも出てくる。

白鳳二年に高良山では大事件が起こっていた。

それまで大祝として祭祀を務めていた物部氏の美濃理麿保続に
高良大明神が垂迹し、
「我は発心して高良大菩薩となる。俗体は保続に譲る」
と告げたというのだ。

そして、保続は訪れた修行僧の教訓を受けて出家してしまう。

それまで、仏教を受け入れなかった高良山に、ついに
仏教が入って来たという大事件が起こった年が白鳳二年だ。

この年は癸酉(みずのととり)とも書かれていることから、
西暦673年の事と特定できた。

この673年の事件について、「白鳳二年」と記す条のほか、
「白鳳十三年」と記す条が出てくる。
後者は「二中暦」で書かれていることが分かった。

また、同年を「天武天皇即位二年」と記述する条もあり、
あれこれと調べた結果、どれもが正解で、
673年を寺社暦では「白鳳二年」、二中暦では「白鳳十三年」と計算していた。

高良山では、混乱を避けるために、この年を
天武天皇即位二年「癸酉」とも書き、
表記に工夫をしていることが分かった。



さんざん「白鳳年間」のことを調べた結果、頭に焼き付いていたので、
今日、朝倉の恵蘇八幡宮を読みなおして、
ここにも「白鳳」の年号が出ていたことに驚いた。


その概略は、中大兄皇子がここに天降八幡社を創建したが、
天武天皇白鳳元年に社名を恵蘇八幡宮と変えたという。

ここでも「白鳳元年」という寺社暦が使われていたのだ。



恵蘇というのは恵蘇星といって、シリウスを指すが、
これはベツレヘムの星でもあり、
エソ、ヤソという連想を古代でも持っていたことが真鍋から読み取れる。


当時でもバタ臭い名前に変更したのは誰か。

それが天武天皇の勅命だという。



その翌年、高良山に仏僧が入って、大祝が出家してしまったのだが、
天武天皇の差し金ではないかと、漠然と思うようになった。


つまり、高良山への刺客だ。

神道の山に寺院が建てられるようになった。
この時、安曇と物部の高良山での棲み分けは終了し、
高良山は物部一色となる。

白村江の戦いでの敗戦が大きなきっかけに違いない。

天武天皇はあの竈門山(かまど)に宝満山と名を変えさせてもいる。

戦後処理という言葉ではニュアンスが多少違っているが、
天武天皇が筑紫の古い形態を書き換えようとした
痕跡が見られる「白鳳年間」である。




827の歴史カフェは「高良玉垂宮神秘書」ですが、
主にこの白鳳二年より以前の内容になります。

白鳳二年に関しては、少々触れる程度になります。





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by lunabura | 2016-08-20 22:56 | メモ | Trackback | Comments(0)

磯良の最期


ことのかたり

磯良の最期
 

海で鍛えた、たくましい肉体を持った磯良さまも、
最期は足が弱られたのでしょう、
再び大善寺に来られた時には御輿に乗っておられました。


すでに、ここを死地とする覚悟を決めておられたようでした。

三韓から戻って留め置かれたままの御座船の覆いを取るように命ぜられると、
棚や道具を一つ一つご覧になり、
そのあと、竜骨を除いてすべてを燃やすように命じられました。

棚は、神功皇后が志賀島で命じられて作った棚でございます。
皇后さまは朝な夕な、その棚に供え物を置いて神々に祈られたと聞きます。

磯良さまは、一時期は戦いに船団を出すことをためらうようになられたのですが、
皇后さまの祈りの姿に心打たれ、
その船の舵取りをすることを決意されたと聞きました。

奈多(なた)の浜で八乙女が七日七晩、磯良さまを前にして
豊玉姫さまたちのために神楽を舞った時の華やかさは
今でも聞き伝えております。


竜骨だけは、ご神体としてお祀りするように命じられました。

御座船の跡には、朝妻を勧請されました。
あさづまとは、味水御井神社のことでございます。

かつては朝妻七社といって、
神功皇后を始めとする七柱の神が祀られていたのです。


すべてを采配されると、磯良さまは静かに息を引き取られました。

その墓所は高三潴(たかみづま)にございます。
石の棺に剣を二振り置いて、埋葬されました。

磯良さまの名前はシリウスという意味です。
夜空で一番明るく、真っ白に輝いて、航海の民を導く星のことです。

私どもは、その御墓に参る時、牡蠣殻を持っていっては、
封土に置きました。

そう、夜空にシリウスが輝くように、
牡蠣殻で磯良さまの墓を白く輝かせたかったのです。

高良玉垂宮神秘書 534条 536条 





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『神功皇后伝承を歩く』下巻78 大善寺玉垂宮









他の物語はコチラ<ことのかたり>に置いています。
http://lunabura.exblog.jp/i235/






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by lunabura | 2016-06-23 20:03 | <ことのかたり> | Trackback | Comments(2)

磐井君の末裔たちのレジメ完成



磐井君の末裔たちのレジメ完成




次回の歴史カフェのレジメが仕上がりました。


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神社の縁起を調べていくうちに、磐井君の末裔について、
子供は四人、孫は六人、合わせて十人の存在が分かりました。

今回はこの十人について、磐井君に近い順から、
系図や伝承、また墓や神社など、分かった事をお話ししていきます。

パワーポイントではなく、史料を読んでいくので、
かなりの理解が進むのではないかと思っています。

この史料を読み込めば、
磐井君が新羅寄りではなく、百済寄りだったこと。

宮地嶽神社の境内にある宮地嶽古墳の被葬者は
宮地嶽神社の祭神であること、
など、おのずと明らかになります。

徳善説の誤解
宗像族の人物が安曇族の聖地に葬られることはあり得ません。

胸肩徳善説を唱える方は、時代が100年以上違う点について、
説明すべきでしょう。

なにせ、徳善は天武天皇の時代に活躍した人物ですから、
生まれる前に墓を作ったということを立証するのは出来ないことです。



新羅寄り説の誤解

また、磐井君新羅寄り説の方は、
磐井の孫の鞍橋君が百済王子と共に戦っていることを知らないのでしょう。

宮地嶽古墳から出土した「鉛系ガラス板」は磐井と百済の深い関係を物語っています。





逆賊という汚名を、しかも濡れ衣を着せられながらも、
自分たちの矜持を守り続けた磐井君の末裔たち。

今回は、久留米と糟屋、福津を結んで「磐井の乱の後の世界」を描いていきます。




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by lunabura | 2016-06-20 20:50 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(4)

ウエサク祭と水沼



ウエサク祭と水沼



友人との会話で、ウエサク祭の話が出た。
ウエサク祭とは鞍馬寺の五月の満月祭のことだ。

このウエサク祭がアジアの各地でも行われていることは
今では周知のことだが、
それが初めて分かったのは十数年前のことだ。

それが分かった時、鞍馬の祭に異国でウエサク祭を伝える寺の僧侶が招かれた。

その年、幸運にも私はウエサク祭に参加することとなった。



この祭は瞑想がメインだ。
しずかに満月の光を浴びながら瞑想をする。
夜中の行事だ。
しかも、戸外で行われる。

金属の容器に水を張り、満月の光を転写し、それを分かち合う。
それが、満月祭の本質だと私は理解した。


一方、水沼の手によって
月の光を宿した水を変若水(おちみず)という。
若返りの水だ。

「ウエサク祭の本質は変若水だと思う」
私は友人にそう言った。

が、気になってネットで、二、三、ざっと検索してみた。
この「水」について言及したものは見当たらなかった。

ウエサク祭はブッダの悟りと結びついて考えられているようだ。




そうすると、福岡の「水沼」(みぬま)はどうだろうか。
関連があるのだろうか。

何度も書いて恐縮だが、
私が「水沼」に深く惹かれるのは、
このウエサク祭の経験があったことも、ひと役買っている。


水沼族は福岡の南部、
筑後川を母として繁栄してきた。

「水沼」とは「巫女」。
月にある変若水が聖なる泉に降り注ぐ時、
水沼は神と人との間を取り持ったという。

この伝承を知った時、
私は満月が頭上に月暈を従えてこうこうと輝いた、
あの年のウエサク祭の奇跡の光景を思い出した。

月の光を存分に吸収した水は尼僧の手によって参拝者に手渡される。
それは変若水だったのだ。
そう、思う。



日本の古代においては、その役割を水沼が行った。



月の光と水。


鞍馬のウエサク祭が仏教の行事だとしたら、
水沼はどうだろうか。

時代を考えてみた。

水沼の君は三女神を祀る。
だから、景行天皇はわざわざ祀壇を作り、
自分の子供・国乳別皇子を代理として住まわせた。
そして、水沼の姫君を娶(めと)らせた。

紀元2世紀ごろのはなしだ。
これから考えると、すでに弥生中期には水沼が筑紫にいた。


通説では、弥生時代にはまだ仏教が入っていないことになっているので、
水沼の存在は、仏教流入以前の日本の古代の姿をそのまま残していることになる。

漆黒の闇を照らし出す満月の夜のひそやかな儀式。

水沼と泉と月。

その「水沼」が水の女神と呼ばれるようになった。

それが三女神を祀った家系だ。


私の中では、鞍馬と水沼は重なり合った世界となっている。
満月と黄金の器の水と共に。








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(『神功皇后伝承を歩く』78大善寺玉垂宮より)







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by lunabura | 2016-06-07 20:38 | 大善寺玉垂宮・だいぜんじ久留米 | Trackback | Comments(7)

ヒカゲノカズラの髪飾り



ヒカゲノカズラの髪飾り





ヒカゲノカズラをくるりと、丸くすると髪飾りに。





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これは坩堝(るつぼ)の仕上がりを願う女人の髪飾りだという。




アメノウズメもそうだったのかもしれない。

『古事記』
アマテラスが天岩戸に籠ると、真っ暗闇に。

神々は相談して鏡を作ることにした。

天岩戸の前に堅石(かたしは)を取り、
金山の鉄を取って、
鍛人(かぬち)天津麻羅を連れて来て、
イシコリドメ命に鏡を作らせた。

そんな記述がある。

神々は天岩戸の前で鉄を作ることにして、鍛人の天津麻羅を連れて来た。
この天津麻羅が物部造等の祖だということは、
技術指導のために連れて来たのかもしれない。

デザインや作り方など、鉄で鏡を作るのは、
イシコリドメにとっては新しいチャレンジだったことだろう。


アメノウズメは、鏡が造られる間、ヒカゲノカズラをタスキに掛けて
舞い続けたのではないか。
きっと鏡の仕上がりを願った巫女の舞だったのだろう。

ヒカゲノカズラには薬効として、
「炎の色に敏感になる」という効力があるのだ。

温度計の無い時代、工人にとっては、炎の色だけがタイミングを知らせるものだった。
だから、ヒカゲノカズラの精霊の援けが必要だったのだ。

それが七支刀に発展する。



ところで、
アマテラスの岩戸隠れを日食現象とする人が多いけど、
日食は短い現象。

鉄を取ってきて、鏡を作るのだから、長い日にちが掛かっている。

岩戸隠れが象徴するものとはなにか。
今、二つ思うことがある。

一つは、冬至の祀り。
スコットランドとか、冬は太陽の出ている時間がとても短い。
太陽の長い籠りの期間が終わって、再び輝き出す春を祝う祭。
それがルーツではないか。


もう一つは、人々の願いを引き受けてドロドロになった神が引き籠ったのを、
引き出して禊を勧める祭。

大善寺玉垂宮の火祭りとか、
太宰府天満宮の鬼くすべとかが、そのタイプ。


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(『神功皇后伝承を歩く』78大善寺玉垂宮より)


う~ん。
ヒカゲノカズラを見ていると、
北ヨーロッパの冬至の祀りの名残というイメージが強くなった。






ヒカゲノカズラ、「610」まで緑でいてくれると、いいな。






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by lunabura | 2016-06-01 22:15 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)
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