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第14回「歴史カフェ」は521と525 「高良玉垂宮神秘書2」



第14回「歴史カフェ」は521と525 

「高良玉垂宮神秘書2」


 
5月の歴史カフェ第14回の「日曜日」はいつもの会場が取れなかったのですが、
午前中なら使えるということなので、

「ひふみ」で5月21日(日)10時半~12時半

に設定しました。



5月21日(日)10時半~12時半
5月25日(木)2時~4時


ご都合のよい日を選んでください。

題は「高良玉垂宮神秘書2」です。

高良玉垂宮の歴史の始まりは仲哀天皇と神功皇后の時代になります。
「高良大社縁起書」も冒頭は「仲哀天皇」です。

「異類」が攻めてくるので、反撃するために新羅討伐に向かう話からです。

それから1500年間、高良山では沢山の史料が書かれ、
それが近世末頃に集められて一巻の巻物になりました。

「文盲のためにカタカナ書き」で書かれたために、
現代人にはかえって読解困難になっています。

私はちょうど『神功皇后伝承を歩く』を執筆したので、
内容が理解できました。
フィールドワークのお陰だと思います。



「神秘書」には色んな謎の答えが書かれています。

謎 仲哀天皇の崩御後、三種の神器はどうなったか。
答 アントンイソラ(安曇磯良)と武内宿禰と神功皇后が一つずつ持った。

謎 神功皇后はどの神器?
答 宝剣!

神功皇后らしいですね。剣を持つなんて^^

「鏡」は武内宿禰が預かって、なんと高良山に伝世しちゃいましたよ。

それが真実かどうかは別として、
まずは「内容を知らないと」ですね。

前回と重なる部分も多々ありますが、
身近な話を中心に「高良玉垂宮神秘書」を解説していきます。


同じ5月に久留米大学公開講座でも解説しますが、
こちらは専門的な話も多く、
土地勘があり、長らく歴史に取り組んでいる人向けに構成します。

「神秘書」を気軽に楽しみたい方は「歴史カフェ」がお勧めです^^
お茶も楽しみましょう。


なお、今回、会場を調べて教えてくださった方
大変ありがとうございました♫
とりあえず、5月は「ひふみ」でやってみます^^

日程 5月21日(日)10時半~12時半
     5月25日(木)2時~4時


会費 1500円 (別途、ドリンクを各自でご注文ください)
   (会費は当日、受け付けにて)
募集人員 若干名(要予約)

会場  オーガニック広場 ひふみ
 福岡県古賀市天神1丁目2-3 
    (JR古賀駅前) 駐車場はありません。
092-944-5755

申し込み方法 
「歴史カフェ521希望」もしくは「歴史カフェ525希望」と書いて、郵便番号 住所 氏名 をご記入の上、メールでコチラに送ってください。
(コメントでハンドルネームを使われた方、よかったらそれもご記入くださいね♪)
メールはサイドバーの「メールはコチラ」からでも大丈夫です。

「一度参加された方」は、
メールフォームを使わずに綾杉の返信から申し込みください。住所は書かなくても結構です。
申し込みがあれば必ず返信しております。返信が無い場合はブロック解除、あるいは「アドレス違い」がないか、調査をお願いします。

返信が戻って来た場合は、サイドバーでお知らせします。
確認されたらもう一度メールをください。
当方の返信代わりにサイドバーの連絡を消します。


オーガニックな食材のお買い物が出来ます。(^-^)
地図 オーガニックひろば ひふみ
 





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by lunabura | 2017-04-20 20:30 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご67  連玉ビーズは幼な子の胸に



ひめちゃご67

連玉ビーズは幼な子の胸に
 


ロッキーが高三潴の連玉ビーズの公開の画像を送ってくれた。

多分このようなものはネット上でも見ることは出来ないだろう。
貴重な画像を載せて記録としておきたい。

そこには新聞に書かれなかった重要な情報がある。
なんと、連玉ビーズは子供のために副葬されたものだったのだ。

糸島では王墓かもしれないが、
高三潴では幼な子の胸にかけられたものだった。

何故これが新聞には書かれなかったのだろうか。
重要な情報ではないか。












c0222861_2135359.jpg

経年変化のために白濁しているが、見事に姿を留めている。

41基の甕棺があり、何も出なかったと思われたが、
持ち帰って調べて連玉ビーズが確認されたということだ。








c0222861_213622.jpg

しかも朱の中から出て来た。
水銀朱か単なる赤色顔料かは不明だ。














c0222861_2136221.jpg

これを見て目を疑った。二重構造ではないか?
甕棺の中に甕棺が入れられている?

見間違いだろうか。間違っていたら指摘してほしい。
二重構造の甕棺は初耳だ。












c0222861_21364576.jpg

これが連玉ビーズが副葬されていた甕棺だ。
サイズが書かれていないが、
これでは乳飲み子ぐらいしか入らないのではないか。

パネルのサイズから推測するしかないが、
大人用なら驚くほど大きいのだ。


これはよほど身分の高い人の子供だ。

時代は弥生時代後期(1~2世紀)だという。
景行天皇の没年が西暦130年とされている。

何度も書いているが、
その皇子が国乳別皇子(くにちわけのみこ)で
ここから西に130mほどの所の前方後円墳に埋葬されている。

実はその長さは東西258mもあるという。
それはひっそりと掲示されていた。


岩戸山古墳が135m。
測量の基準が違うかもしれないが、それでも相当の大きさなのだ。





明治時代の弓頭神社の神官の船曳鉄門(ふなびきてつもん)にょると、

〈高三潴地域には山陵が三か所あり、皇子から三代がここに埋葬されて、
その後は大善寺の宮本山に埋葬するようになった。

そこにはおよそ47、8か所の墳墓があり、国造家の数十世代の墳墓だった。〉
(拙著『神功皇后伝承を歩く』下巻57弓頭神社より)
とあり、高三潴には国乳別皇子から三代の山陵があることが分かっている。


今回出土した甕棺墓群は水沼一族のものの可能性もある。
水沼一族で夭逝(ようせい)した子だと想像することは許されよう。

連玉ビーズがその身分の高さを証明している。














c0222861_21375787.jpg

画像はレプリカ。












c0222861_21381372.jpg

これは拙著『神功皇后伝承を歩く』に掲げた高三潴付近の地図だ。
出土地は赤い星の右下、「い」と「信」の間付近だそうだ。
持っている方は参考にしてほしい。

烏帽子塚古墳が国乳別皇子の古墳だ。

何とも縁(えにし)を感じさせる位置にあるのだ。



ロッキーに感謝。
                         <2017年4月17日>

画像の著作権はロッキー氏に所属します。
連絡の中継ぎとして、画像には当ブログのサインを入れています。


連絡
04月16日 23時10分にメールを下さった 〇中〇 さま。
返信が戻ってきます。
何らかの手段を考えますね。



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by lunabura | 2017-04-17 21:41 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

ひめちゃご66 水鳥のすだく水沼を皇都となせり



ひめちゃご66

水鳥のすだく水沼を皇都となせり
 


三島神社の掲示板に足を止めた。
そこには万葉集の一首があった。

「水鳥のすだく水沼を都となせり」

そういえば、この歌は何処の歌かと思ったことがあった。
それがここか。

宮司に尋ねると、ここではなく、高三潴の方だという。
そうだ。高三潴こそ政治の地だった。


念のために万葉集を開いてみる。(岩波)

4261番
大君は神にし坐せば水鳥の多集く水沼を都となしつ 
おおきみはかみにしませばみずとりのすだくみぬまをみやことなしつ

作者詳らかならず
右の件の二首は、天平勝宝四年(752)二月二日に聞きて即ちここに載す


原典は以下のようになっている。

大王者 神尓之座者 水鳥乃 須太久水奴麻乎 皇都常成通
 
(※尓は山へん)

なんと原典では「都」ではなく「皇都」と書いてあるではないか。
これは大変なことだ。

「皇都」と単なる「都」では意味が違う。
これまではどうして「都」とされてきたのか。

「大君」は「大王」と書いてある。
これもそのまま「大王」で良かったはずである。

万葉集とは、かくも自由に文字変換されていたのか。

一般的な訳は、
大君は神でいらっしゃるので水鳥が集まってくる水沼の地を都とされた
で、
奈良の沼地に大君が木建設工事を采配して都を建設したような歌
となっている。


「右の件の二首」とあるので、
もう一首、その前に書かれた歌について確認してみた。

万葉集の編者は752年に聞いた歌を二首並べて載せていたのだ。

皇者 神尓之座者 赤駒之 腹婆布田為乎 京師跡奈之都
おおきみは かみにしませば あかこまの はらばうたいを みやことなしつ

例の歌ではないか。

あの天智天皇がみやまヤマトの太神宮で祈りの日々を送って
腹赤魚をもらって吉兆とした謎解きの歌なのだ。

「田」とは「たんぼ」ではなく、「指標となる星」のことで、
「赤駒」とは低緯度オーロラ。

すなわち、オーロラがでる北の天帝の座をも統べるようになったという歌で、
中大兄皇子が長い皇太子時代を終えて天皇の座に就いたという意味が
込められていた。

奈良で泥田を干拓した土木工事の素晴らしさを詠んだという
通説の歌ではないことを確認していた。

まさか、ここに戻ってくるとは。

万葉集の編者は、これが水奴麻(水沼)の皇家と都を示す歌と知ったために、
黙って置いたのか。

「水鳥乃 須太久水奴麻」は「皇都」
水沼の地に「皇都」があった。

こんな重要な歌を知ったため、説明を加えずに置いた。
そんな配慮があったのか。

これが時々浮上してくる三潴の皇都説の由来か。


「水沼」は倭妙類聚抄には「筑後国三潴郡美無万」とあるらしい。


水沼とは天と人をつなぐ巫女を出す家。
そこに入り婿した国乳別皇子。

政治の地、高三潴。(弓頭神社)(下巻57)
国際港、大善寺。(大善寺玉垂宮)(下巻78)

国乳別皇子の霊島、三潴郡大木町。
三女神が降臨した聖地、赤司(赤司八幡神社)(下巻56)

筑後川の真水と有明海の海水がせめぎ合い、
水と干潟が日に何度も姿を変えるところ。

それが水沼の統べる皇都だったというのか。




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水沼ノ総社 三島神社







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by lunabura | 2017-04-11 20:19 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(19)

ひめちゃご64 ここが高三潴 国乳別皇子の政治の地と前方後円墳



ひめちゃご64

ここが高三潴 

国乳別皇子の政治の地と前方後円墳
 


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景行天皇に命ぜられて水沼に残った国乳別皇子(くにちわけのみこ)は
天壇のある赤司八幡神社から南へ下って高三潴に住んだ。

弓頭神社がその宮跡である。




c0222861_2362652.jpg

神功皇后と武内宿禰がやってくると、
出迎えた国乳別皇子は弓大将として新羅役に参戦したことから、
「弓頭」(ゆみがしら)の社号がついている。
「ゆがしらさん」と呼ばれている。

政治的中心地がここになる。

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すると、仲哀天皇が紀伊にいたときに、
「熊襲が朝貢しない」という知らせの発信者はこの国乳別皇子ではないか。

何故ならここは羽白熊鷲と田油津姫を監視できる位置にあるからだ。







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羽白熊鷲は既に討伐し、ただちに田油津姫討伐のために
武内宿禰と軍議をしたという。








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田油津姫の拠点、ヤマト(山門)は目の前だ。
鷹尾神社もヤマト(大和)のエリアに入るが、朝廷方になる。
赤い点線が神功皇后軍の進軍ルートだ。

鷹尾神社から上陸した。
村人がブリ料理でもてなしたというので、海が深く入っていたことが分かる。

このヤマト地方での朝廷と土蜘蛛の対立は景行天皇の時から既にあり、
ヤマトの女王・葛築目(くずちめ)が滅ぼされている。

ヤマトはこちらでは山門、大和という地名で残っている。
最近はカタカナで「ヤマト」と書くのが流行っているので、ここもそうしておこう。

このヤマト地方では物部氏とヤマトの女王邑が複数世代に渡って対立していた。






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国乳別皇子はこの地で亡くなり、烏帽子塚古墳に埋葬された。
廟堂が建ち、大変厳粛だったと書かれている。
この古墳が前方後円墳で、かなり大きい。

実は、弥生時代の前方後円墳が福岡の各地にある。
被葬者の名も伝わっている。

前方後円墳は古墳時代と思っていたが、
最近では箸墓という巨大前方後円墳が弥生時代とみなされるらしいので、
福岡各地にある弥生時代の前方後円墳も問題ないようになった。(と思う)


例の連玉ビーズが出た高三潴にはこんな歴史がある。




拙著『『神功皇后伝承を歩く』下巻
57弓頭神社
58鷹尾神社
59老松神社




追記、本日の歴史カフェご参加ありがとうございます。



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by lunabura | 2017-04-06 23:19 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご63 景行天皇の三女神祭祀



ひめちゃご63

 景行天皇の三女神祭祀
 



ヤマトタケルの父、景行天皇は九州の各地を回った。
その戦いの記録は『日本書紀』にも書かれているが、
祭祀については触れられていない。

パワーポイントをつらつらと流していると、
どうしてもここで止まってしまう。

何度も書いてしまうが、
今日も、水沼(みぬま)の話にお付き合い願おう。







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福岡県の筑後川。向こうに見えているのは耳納(みのう)山脈。
かつては水縄とも書かれていた。


こちら岸に赤司八幡神社が鎮座する。



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主祭神は道主貴(三女神)だ。
『日本書紀』には水沼君がもちいつくと書かれている。

止誉比咩命は豊姫、すなわち神功皇后の妹。(武内宿禰の妻)
與止比咩命は淀姫、すなわち津波を知らせてくれる水の女神。






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古くは筑紫中津宮といい、止誉比咩神社となった。

しかし、守り続けた水沼氏はキリシタン大名の大伴氏に
神殿を燃やすか、名を捨てるか、選択を迫られて、名を捨てた。
今は宮崎氏となっている。

この時、八幡神社となった。


かつて景行天皇がここで三女神を祀り、皇子を御手代として残した。
その皇子が国乳別皇子だ。

神功皇后でさえ、妹の豊姫を神形代に立てた。
何度も書いた話だ。



この国乳別皇子(くにちわけのみこ)の墓所が在る所が高三潴。
だから、古代の連玉ビーズが出ても何の驚きもない地だ。





そして飯塚での話で、景行天皇は日尾山(ひおさん)でも
三女神を祀ったと聞いた。
それが飯塚の厳島神社の由来だ。







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これは飯塚市の日若(ひわか)神社だが、
右の画像に日尾山が写っているので、ご紹介。
右の道を走ると行き止まり。


車で走ってもかなり大きな山塊だ。
ひおさんは「日尾山、日王山、日思山」の表記があった。








c0222861_2055251.jpg

この日尾山の重要性は何を意味するのだろうか。




c0222861_20534556.jpg

右の画像の川の右手の方から山道があるという。
古代の銅の道だ。

この日若神社そのものには景行天皇関連の伝承はないが、
日尾山が写っていたのでUPしてみた。

何故、景行天皇はこの山に三女神を祀ったのか。

三女神に祈り続けた景行天皇は何を知っていたのか。

『日本書紀』からは全く伺えない、筑紫の女神信仰。
景行天皇より古い時代からの水の女神。

それを消し去ろうとしたキリシタン大名。

そこらへんにも手掛かりがあるんだなと思う。





(神社についている番号は
拙著『『神功皇后伝承を歩く』の掲載番号。
ゆっくりと読み直してくださいませ)





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by lunabura | 2017-03-28 20:59 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(10)

高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ 水沼のクニは巫女のクニ



ひめちゃご 番外



高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ

水沼のクニは巫女のクニ
 
 


今朝のワクワク新聞記事。

しょっちゅう書いている水沼族の政治の地である高三潴から
連玉ビーズが出たそうですね。





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読み(水沼 みぬま 高三潴 たかみずま)

甕棺からだって。



時代がなんと弥生時代後期で、(1~2世紀)となってます。(西日本新聞)
毎日新聞では(約2000~1800年前)となっているので、
う~む。弥生時代って随分と遡ったんだね。

卑弥呼自死が248年なので、卑弥呼は古墳時代に昇格した?

(どうしてもあの奈良の某巨大前方後円墳を
卑弥呼の墓にしたい感みえみえ(´-ω-`))




ま、それは別として。



『日本書紀』説では神功皇后が1800年前なので、
連玉ビーズの時代に生きていたのは景行天皇やその子の国乳別皇子や
景行天皇を道案内した猿大海が含まれます。

昨日も、三潴は古代に栄えた所だと、飯塚でお話ししたばかりです。

水沼族の湊は大善寺玉垂宮の地で、中国からの文物がダイレクトに
どんどん流入して最先端の物が入って来ていた所です。
(下巻78大善寺玉垂宮)

ビーズどころではないものが沢山眠っているはずですよ。
発掘されていないだけ。


その水沼族の政治の地こそ、少し離れた「高三潴」なのです。
そこからビーズが出たのですね!





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そこには、国乳別皇子を祀る弓頭神社があります。
(下巻57弓頭神社)



田油津姫攻撃の前に神功皇后や武内宿禰が水沼水軍の船でやって来て、
武内宿禰と国乳別皇子が軍議をしているシーンが
大善寺玉垂宮の絵巻に描かれています。(下巻57)



水沼族の聖地は赤司八幡神社で、
道主貴(みちぬしのむち)=三女神が降臨したところと伝えています。

景行天皇はそこで天壇を構え、三女神を祀り、
自分の子供の国乳別皇子を天皇代行として残していきました。


水沼族の版図は広いですよ。
旧三潴郡だけではありません。



筑後平野での三女神信仰を基準に考えると朝倉も入ってきます。
福成神社は最初に景行天皇が祀り、神功皇后も祀り、
あとからは斉明天皇も祈願に来ています。(下巻53福成神社)



その北にある太刀八幡宮も三女神。

神功皇后が太刀「乙王丸」を奉納しました。
そこでは武器を手入れしています。
軍事訓練をするエリアです。
(下巻52太刀八幡宮)




新聞には「伊都国」と比較した記事がありますが、
その広さは比べ物になりません。

水沼のクニの方がはるかに広くて、
邪馬台国の7万戸も容易に賄える所ですよ。

伊都国の南に邪馬台国があるのですから、
当然ながら論争のターゲットになるべきクニです。

これまで話題にならなかったのが不・思・議。


ちなみに、「水沼」とは巫女を出す家系のことです。
ほら、邪馬台国の条件も揃ってますね。

赤司八幡神社の北部には弥生の環濠集落や漢鏡も出てます。


この水沼族の地には、三韓討伐の後、神功皇后を乗せた安曇磯良が入って来ます。

神功皇后が褒賞としてこの地を与えたのでしょう、
ついには安曇族の領地となります。
その祭神が「玉垂命」です。

ここはもともと女神を祀っていたのが、玉垂命に変わったのです。

玉垂とは「干珠満珠を垂れた」神という意味です。


神功皇后が亡くなってしまったのち、
磯良も年老いて死期を覚悟すると、ここに戻って来て、
神功皇后との思い出の船を焼かせます。


その時、竜骨だけは残しました。
それがご神体になったと書かれています。
(高良玉垂宮神秘書)

だから、山号が「御船山」なのです。


国乳別皇子の墓も安曇磯良の墓も高三潴にありますよ。
(下巻78大善寺玉垂宮)



だから、連玉ビーズが出ても当然の地なのです。



ガイドブックの下巻をお持ちの方は上記の番号を参考にしてください。
サイドバーからも各神社の記事が見られます。






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by lunabura | 2017-03-25 22:39 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

エジプトの壁画と「吉井」の壁画のつながりが見えてきたかな



エジプトの壁画と
「吉井」の壁画のつながりが見えてきたかな


3月の歴史カフェは、糸島がテーマですが、
二度目の参加の方もあるので、少し変化させて
テーマを絞って、深く切り込むことにしました。


糸島におけるニニギ尊と木花咲耶姫の通婚の話と
真鍋によるエジプト人の渡来についての話の二本立てです。

一年ぶりですが、この間、私の理解がさらに進んだので、
真鍋の解釈のエリアを少し広げることができました。

すると「吉井」の地名が出てきました。

「冬至の日輪」を「ゆつまのひのあかり」と言い、
それが出入りするのを観測する所を、
万葉の頃には「吉日」と書き、平安時代には「日吉」と書いたそうです。

「吉日」はいつしか「よしひ」とも読むようになり
「吉井」という地名になったといいます。

「出入り」ですから、日の出も日の入りも観測するわけですが、
まさに吉野ヶ里遺跡がそうでしたね。





「吉井」の地名は福岡県うきは市吉井町にも残っていますが、
そこから例の珍敷塚古墳の壁画が出ているのです。



c0222861_14171916.jpg




「ゆつまのひのあかり」を観測するところが「よしい」
「ゆつま」はルクソールと同じような地形の場所。

こうしてなんとなく繋がりそうです。

ほかに「小郡」「戸畑」など、
いくつかの地名の成り立ちも関連します。

まだまだ理解の途中ですが、みなさんとシェアして、
理解を深めていこうと思っています。




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by lunabura | 2017-03-01 20:40 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ 水沼のクニは巫女のクニ



高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ

水沼のクニは巫女のクニ



今朝のワクワク新聞記事。

しょっちゅう書いている水沼族の政治の地である高三潴から
連玉ビーズが出たそうですね。





c0222861_19451488.jpg

読み(水沼 みぬま 高三潴 たかみずま)

甕棺からだって。



時代がなんと弥生時代後期で、(1~2世紀)となってます。(西日本新聞)
毎日新聞では(約2000~1800年前)となっているので、
う~む。弥生時代って随分と遡ったんだね。

卑弥呼自死が248年なので、卑弥呼は古墳時代に昇格した?

(どうしてもあの奈良の某巨大前方後円墳を
卑弥呼の墓にしたい感みえみえ(´-ω-`))




ま、それは別として。



『日本書紀』説では神功皇后が1800年前なので、
連玉ビーズの時代に生きていたのは景行天皇やその子の国乳別皇子や
景行天皇を道案内した猿大海が含まれます。

昨日も、三潴は古代に栄えた所だと、飯塚でお話ししたばかりです。

水沼族の湊は大善寺玉垂宮の地で、中国からの文物がダイレクトに
どんどん流入して最先端の物が入って来ていた所です。
(下巻78大善寺玉垂宮)

ビーズどころではないものが沢山眠っているはずですよ。
発掘されていないだけ。


その水沼族の政治の地こそ、少し離れた「高三潴」なのです。
そこからビーズが出たのですね!





c0222861_1946948.jpg

そこには、国乳別皇子を祀る弓頭神社があります。
(下巻57弓頭神社)



田油津姫攻撃の前に神功皇后や武内宿禰が水沼水軍の船でやって来て、
武内宿禰と国乳別皇子が軍議をしているシーンが
大善寺玉垂宮の絵巻に描かれています。(下巻57)



水沼族の聖地は赤司八幡神社で、
道主貴(みちぬしのむち)=三女神が降臨したところと伝えています。

景行天皇はそこで天壇を構え、三女神を祀り、
自分の子供の国乳別皇子を天皇代行として残していきました。


水沼族の版図は広いですよ。
旧三潴郡だけではありません。



筑後平野での三女神信仰を基準に考えると朝倉も入ってきます。
福成神社は最初に景行天皇が祀り、神功皇后も祀り、
あとからは斉明天皇も祈願に来ています。(下巻53福成神社)



その北にある太刀八幡宮も三女神。

神功皇后が太刀「乙王丸」を奉納しました。
そこでは武器を手入れしています。
軍事訓練をするエリアです。
(下巻52太刀八幡宮)




新聞には「伊都国」と比較した記事がありますが、
その広さは比べ物になりません。

水沼のクニの方がはるかに広くて、
邪馬台国の7万戸も容易に賄える所ですよ。

伊都国の南に邪馬台国があるのですから、
当然ながら論争のターゲットになるべきクニです。

これまで話題にならなかったのが不・思・議。


ちなみに、「水沼」とは巫女を出す家系のことです。
ほら、邪馬台国の条件も揃ってますね。

赤司八幡神社の北部には弥生の環濠集落や漢鏡も出てます。


この水沼族の地には、三韓討伐の後、神功皇后を乗せた安曇磯良が入って来ます。

神功皇后が褒賞としてこの地を与えたのでしょう、
ついには安曇族の領地となります。
その祭神が「玉垂命」です。

ここはもともと女神を祀っていたのが、玉垂命に変わったのです。

玉垂とは「干珠満珠を垂れた」神という意味です。


神功皇后が亡くなってしまったのち、
磯良も年老いて死期を覚悟すると、ここに戻って来て、
神功皇后との思い出の船を焼かせます。


その時、竜骨だけは残しました。
それがご神体になったと書かれています。
(高良玉垂宮神秘書)

だから、山号が「御船山」なのです。


国乳別皇子の墓も安曇磯良の墓も高三潴にありますよ。
(下巻78大善寺玉垂宮)



だから、連玉ビーズが出ても当然の地なのです。



ガイドブックの下巻をお持ちの方は上記の番号を参考にしてください。
サイドバーからも各神社の記事が見られます。






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by lunabura | 2017-02-17 19:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(7)

「弓削」(ゆげ)の話と「中西」の話



「弓削」(ゆげ)の話

「中西」の話

 


弓削の道鏡が建立した由義寺(弓削寺)跡が発見されたという
2017年2月13日の新聞記事をテーブルに置いたのですが、
先日歴史カフェでいただいた久留米市の文化財マップを
整理しようと手に取ってビックリ。


「弓削・北野地区」のタイトル\(◎o◎)/!

c0222861_21221311.jpg

「弓削」と「弓削の道鏡」!

これはいったいどういうシンクロ?

実は高良山に仏教が入り込んだ白鳳二年(673)。

この時、高良山の支配は安曇から物部に変わるのですが、
この物部氏が何故か、のちに武内姓を名乗るようになるのです。

武内宿禰は智将として人気があるとしても、
姓が変わるのはよほどのことと考え、

物部氏の社会的な事件が関わった可能性を想定したのですが、
この二つの資料が並んだ時、弓削氏から考えるようにと
示唆された思いがしました。

白鳳二年に出家したのが隆慶ですが、その母が弓削氏なのです。
つまり、物部氏と弓削氏はここで通婚しています。

この弓削氏だった母も白鳳7年に出家します。
正覚寺を営むとあるので、その寺は久留米で探さないといけないのですが。
(誰か教えて…)

弓削の道鏡が孝謙上皇の病を完治させたのが761年。
隆慶の母が出家した白鳳7年は678年。

弓削氏においては仏教は、道鏡より筑後の方が百年も早いことになります。

百年後の弓削道鏡事件がきっかけとなった可能性、ありますね。

少し時間を掛けて精査したいと思います。
今日はアイデアを忘れないために φ(..)メモメモです。





さて、明日は飯塚での古代史講座です。
神功皇后の話もいよいよ渡海準備の段階になります。
いわゆる三韓征伐ですが、簡単には行けないのですね。

住吉族と安曇族との交渉、
軍事訓練、
決意のパフォーマンス、男装の美豆良結い、
複数の出港地説、寄港地説などを整理します。

神功皇后が渡海の時、「この風は何か」と尋ねると、
「中西」と答えたことから、その水手(かこ)に
「中西」と名乗るようにと告げた話があります。

これがよく分からなかたのですが、
赤間の喫茶店で筥崎宮の氏子さんが突然教えてくれたのです。

「志賀島から朝鮮半島に一気に渡ることが出来る風が吹く季節があり、
その風を中西というんですよ」と。

つまり、魏志倭人伝に出てくる、楽浪郡から糸島に至る航路の
抱える問題が解決したのです。

朝鮮半島から倭国に渡るのは簡単なのですが、
逆のルートは潮流が邪魔をするので、倭国から半島に行くのは難しいのです。

しかし、一年に数日だけ吹く「中西」を捉えたら簡単に行ける!
こうして、不思議な廻り合わせで謎が一つ解けました。

それは学説では出てこない生きた歴史ですね。
伝承とは私たちに伝えてくれる知恵でもあります。

明日は、スポット参加も出来ます。
興味のある方お待ちしています。





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by lunabura | 2017-02-15 21:23 | メモ | Trackback | Comments(26)

高良玉垂宮神秘書 黒龍紋は玄孫大臣



黒龍紋は玄孫大臣




c0222861_22184747.jpg

この不思議な絵は「高良玉垂宮神秘書」に載っているもので、
黒龍紋を具体的に描いたものだ。

241条に書かれている。


描き方の指示が載っている。

五か所ぐるりと巻くように。
ウロコと足と手、顔そして尾は剣の形。なるほど尾の形は特徴的だ。


これは玄孫大臣の紋ということなので、武内宿禰の紋と解釈した。




門光紋というものがある。


c0222861_22193412.jpg

住吉神が四天皇として雲間から現れたようすを描いた紋だ。

この住吉神は何故か兜率天に居た。
(神が仏の世界にいたという不思議)





本条の説明を書こうとしたが、
論理が破綻していて、上手く説明できない。(´・ω・`)

要するに、
天武天皇即位二年に仏教が入ってきて、上宮も下宮も物部氏が頭領となったため
黒龍紋も門光紋も同じように使うようになったということ。

上宮は安曇から物部そして住吉と変わるので、ややこしい。


「玄孫」ということばも、1条ではアマテラスのひ孫だと書いているのに
本条では龍宮の孫と書き換えている。

書いた本人ももう分からなくなっているのだろう。
取りあえず、原文を平仮名書きに代えたものを掲載。



五輪が終わった夜長にチャレンジしてくれたまえ。

そういえば、この黒龍も五輪だ。

この話はややこしすぎて、歴史カフェでは触れませぬ。




「二四一条
一、表筒男尊 玄孫大臣の異国のヲンムケニハ、御紋は黒龍にて、五所巻きたる龍なり。イリコ、足、手、面(つら) 尾の剣までありありと描くべし。これリウコウの御孫たる故なり。母方なり。御兄弟の流れなれば、大菩薩の御紋、門光を今に大祝職紋にいたすなり。大祝職の紋、黒龍を大菩薩の御紋にいたすこともあり、これ即ち大菩薩、大祝職同体異名たる故たり。門光を五ところ描き、龍をかくのごとく描くなり。」





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by lunabura | 2016-08-24 22:23 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(18)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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