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高良大社(8)印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』


高良大社(8)
印鑰神社と『高良玉垂宮神秘書』

『高良玉垂宮神秘書』のつづきを読んで行きましょう。
17代仁徳天皇の時に神功皇后は崩御。
夫の高良明神玄孫大臣、豊姫、大祝日往子尊、武内大臣皇宮を一緒に出た。
武内大臣は因幡の国で靴と衣を残して、山の奥に入って行方不明。
豊姫と玄孫大臣は皇宮からはるばると肥前の国に留まり、豊姫は河上大明神となった。

高良大明神と大祝日往子尊は9月13日に高良山に戻り、三種の神祇をはからった
(はからうの訳、不明。取り扱う。相談する。処置する。など)
神璽(皇位のしるし・天子の印)は高良大明神が預かっていた。
宝剣は神功皇后が持っていた。
内侍()は玄孫大臣が預かっていた。

16代天皇は短命だったようです。彼がホムタワケの命か、シレカシの命か、
あるいは同一人物なのか、文脈からは分かりません。
しかし17代は普通に仁徳天皇になっています。
神功皇后が生きている間に、天皇が変わったというのは、
16代が短命だった事になります。

さてその後、神功皇后が亡くなると、高良明神たちは
皇宮にいられなくなったようにも読めるのですが…。

唐突に出て来た武内宿禰は鳥取県で行方不明…。
豊姫・玄孫大臣夫妻は佐賀県へ。
高良大明神は甥っ子の日往子尊を連れて高良山に戻ります。
この部分の皇宮は何処だったのだろうか。文脈がつながりません。

高良大明神は三種の神器を持ち帰ったのでしょうか。
肝腎の「はからう」の訳が分かりません。
仁徳天皇が持つべき神璽を高良大明神は預かったままなのか。
玄孫大臣は鏡を持っているのか。
三種の神器を持つ者が天子なのです。

いったいどうなってる?????
途中が欠落していて、ストーリーが分かりません。
神秘書を読んで、謎がまた増えた…。

それでも、手掛かりを探しました。
そうだ。本殿の裏には印鑰神社がある。

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末社 印鑰神社(いんにゃく)
御祭神 武内宿禰命 (高良山祠官家の祖神)
由緒 山麓宗崎鎮座の印鑰社を昭和6年(1875)に勧請
例祭 11月13日
御神徳 延命長寿 厄除け 盗難除け

この「印鑰神社」は「いんにゃく」と読みます。
「印」は印鑑。「鑰」は鍵という意味です。

この「印」が神璽なのか、単なる役所のハンコなのか分かりません。
高良大社に伝わる印鑑は宝物殿で直接見る事が出来ます。
不思議な模様で、文字ではありません。
(掲載の許可を貰い忘れたので、出せません。ごめんなさい。)

「鍵」と言えば、くるま座さんが、
「太宰府天満宮の祭りには、二か所の神社の黄金の鍵を持っていくようになっていたのが、近年途絶えた」と言っていたのを思い出しました。

ネットで印鑰神社を調べると、久留米市や壱岐、熊本、佐賀、石川などに見られ、
国の役所が置かれていて、国の印鑑や倉庫の鍵の保管場所だったのが由来のようです。
那の国の金印が中国から与えられた事情などを考えると、
古代日本では「三種の神器」以外に「印鑑と鍵」という権威のシンボルの二本立てで見ていく必要があるんだなと思いました。

この印鑰神社の御祭神は竹内宿禰ですが、
他の印鑰神社でも竹内宿禰を祭神とする所があるのが謎解きの鍵のようです。
『神秘書』の中では竹内宿禰は高良の神ではありませんでした。
「高良の神」は物部の保連(やすつら)でした。

『神秘書』の本文はまだまだ続くのですが、
「神部物部を秘密にせよ。」という文もあり、さらに背景の研究が必要でした。
(るな的にはこれ以上は力不足です。)
ただ、気になる部分があったので、少し書き出しておきます。
40代天武天皇の時、高良大明神は高良大菩薩となった。
異国征伐の時、干珠満珠で国土を守ったことから、
皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた。

やはり、高良大明神は天子の印を持っている時期があったととれるし、
玉垂宮と書いたのは高良山での事のように思われます。

アントンイソラは筑前国では志賀、常陸の国では鹿島大明神、大和の国では春日大明神という。

アントン・イソラなんてカタカナで書かれると、異国の名前のようですね。
ずっと考えたら、「安曇磯良」だった。(例。曇天はドンテンと読む)
アズミは安曇と書いたり阿曇と書いたりするけど、この例から「安曇」と書くのが原型に近いみたいです。

神功皇后の妹は二人いる。一人は宝満大菩薩。一人は河上大明神(豊姫)

神功皇后の妹は二人というのは、初めて知りました。

さらに、大問題が!
10月1日は日本の神たちが出雲に順番に集まるから神無月というが、高良大菩薩は訳あって、出雲大社には行かない。だから、筑後国では10月を神有月という。

う~ん。これは見逃せない力学関係ですね~。
筑後国は、諸国と立場が違ってる!

出雲に日本の神々が行くのは、
「翌年の暦を貰うためではないか」という仮説を持っているのですが、
高良の神が行かないのは、独自の暦を持っているからではないかと解釈しました。

物部氏って自分たちで精確な暦が作れるから、出雲なんかに行く必要はない。
そんなプライドが感じられます。つまり独立国であったという事。
これが世に言う「九州王朝」なのだろうか。

以上、『高良玉垂宮神秘書』の一部を読んで見ました。
四王寺の部分で垂迹説を唱えて粉飾してしまったのが、実に惜しいです。
この為に、虚と実と振り分ける作業が必要になってしまいました。
しかし、ここには当事者しか書けない真実の部分も見え隠れしています。

皇宮の場所は、どこか書かれてないけど、
三種の神器が一時期高良山にあったのを示唆しているようです。
記紀の中でも矛盾している3~4世紀を補うような予感がします。

そろそろ高良山を降りましょう。また、ここに舞い戻って来れますように。




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by lunabura | 2009-12-29 20:55 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(13)

高良大社(9)高良山神籠石


高良山神籠石
こうらさんこうごいし
久留米市御井町高良山

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前回の高樹神社から少し登ると、高良山の二の鳥居があり、そこからは登山道です。
鳥居の上が苔むして良い風情です。
登って行くと、ほどなく巨岩が現れ、何やら石の柵に囲まれたものが。

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近づいてみましょう。

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有名な馬蹄石です。穴が二つ窪んでいます。
馬の足跡のように見える事からついた名前です。
この穴を踏むと足が速くなると言われているそうで、
地元育ちの元少年はこれを踏んでリレーの選手になったと話してくれました。

立札を読んでみましょう。
馬蹄石(ばていせき)
この大石の上に高良の神が神馬の蹄(ひづめ)あとを残されたという伝えから、「馬の足形」とも呼ぶ。しかし中世の縁起書『高良記』には、この石こそが「神籠石」であり、「八葉の石畳(現在の神籠石列石)」の起点、終点であると記されている。付近の字名も「神籠石」という。おそらく古代の盤座(いわくら)の一種であろう。

おお、なるほど。現在、「神籠石」(こうごいし)と言っている列石は、
かつては「八葉の石畳」と言っていたのですね。
高良山をぐるりと囲む列石を「蓮(はす)の花」に見立てたのでしょうか。
そして、この巨岩全体こそが「神籠石」と呼ばれていたそうです。

そうすると、この馬の足跡のような穴は杯状穴の可能性が出て来ました。
祈りを捧げた場所の名残です。
そこから斜め上の斜面を見上げると、三角形の盤座がありました。

c0222861_100208.jpg

これも有名な「背比べ石」です。
背比べ石
神功皇后が朝鮮半島への出兵を前に、この石と背丈を比べて吉凶を占われたとの伝説がある。古代の石占(いしうらない)の習俗を伝えるものであろう。
菱屋平七の『筑紫紀行』(享和2年1802年)には「勢比石」と見える。

おっと、こんな所にまで神功皇后の伝説がありましたよ。
現在の高さは1mもないのですが、どんな風に比べたのでしょうか。
さきほどの馬蹄石と背比べ石がセットになって、祈りの聖地を形成していたようです。

ここで振り返ると、反対側にもう一つ説明板がありました。
史跡 高良山神籠石

筑後国一の宮高良大社が鎮座する高良山の山腹を広くとりめぐらした列石で、我が国の古代遺跡として、最も規模雄大なものである。古くは「八葉の石畳」と呼び、高良大社の縁起の中で、結界の表示として語られているが、古代の山城の一種とするのが通説である。

明治以降学界で問題となった同類の遺構は、最初に紹介された高良山の例にならい、神籠石と総称されるようになった。

列石は1m内外の長方形の切石を一列に並べたもので、高良大社社殿背後の尾根(海抜251m)を最高所とし、南側の尾根にそって下り、西裾の二つの谷を渡り、1300余個、延々1600mに及ぶ。ここ南谷には、水門の基底部の石組みが残っている。

これに対して、北側の列石は確認されていないが、天武天皇7年(678)の「筑紫国大地震」によって崩壊したのではないかとの説がある。

築造の目的、年代、築造者などについても諸説があり、正史に記載を欠くことと相まって、この列石をめぐる謎は深い。
昭和28年11月14日、国の史跡に指定された。

これを読むと、本来、「神籠石」とは「馬蹄石のある巨大な盤座」を指していて、
山を巡る列石群は「八葉の石畳」と呼ばれていたという事ですね。
これが明治以降、学術用語となって、日本各地の列石群をも含めて「神籠石」と
呼ぶようになったという事です。

やはり、この高良山で原信仰を探るなら、この馬蹄石と背比べ石の盤座の存在を
抜きには考えられない事が分かりました。
登山道の脇にさりげなくありますが、ここに社が建てられていてもおかしくない祈りの場でした。
(でも、こんな風に自然のままが大好きです。)

神籠石については、現在「山城」説に落ち付いているようですが、まだまだ謎を秘めています。

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これは、本宮の境内にあった「八葉石」(はちようせき)です。
この二の鳥居の所にあったのが、明治初年の廃仏毀釈によって、割られたものだそうです。

では、列石を見て行きましょう。
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これは大学稲荷前の列石です。バス停のすぐ上にあって、車道から見る事ができます。

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これは本殿の左裏にある列石群です。この先はもう頂上で、
そこからは右にカーブしながら下って行って、大学稲荷前の列石に続きます。

久留米地名研究会の方が歩いて行ったそうです。でも、途中で迷ったとか。
傾斜は緩やかそう。と言う事は、ずいぶん長いルートなんでしょうね。

さて、この写真の場所から下ると神籠石がさらに続くはずなのですが、
この地点で消えています。これまではそれが謎だったそうです。

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角度を変えて撮りました。道路の左に見える斜面が列石の終点です。
本来なら、この道路を越えてずっと下に続くはずなのにありません。
どうなったのでしょうか。
右の斜面を見ると急激に下がっています。実は斜面が崩落したのです。
地震の為にずり落ちてしまったそうです。

それについて説明板がありました。
これより北方の列石線は確認されていない。従って列石自体が未完成ではないかとも疑われていた。

しかし最近、地震考古学の発達によって、神籠石の見い出せない北側尾根の真下に並行して、水縄(みのう)断層系追分断層が走ること、その上部の北側面には地震動による大規模な斜面崩壊の痕跡が認められることが判明した。

この大規模な斜面崩壊は山麓周辺の発掘調査から、水縄断層の最新の活動すなわち、日本書紀に見える天武天皇7年(678)の「筑紫国地震」である可能性が強く、この時の斜面崩壊で列石の断層寄りの部分が崩落したとすれば、列石が北側尾根に認められない理由も説明できる。こうして高良山神籠石の築造年代の下限が678年以前であることが、ほぼ推定されるに至ったのである。

1400年以上も昔に、この福岡県で大地震があり、断層が県の南北、そして東西に
走った事実があり、日本書紀にはこの時のようすが書かれているそうです。

この678年の筑紫の大地震の断層の差は数mの高さがあって、
今でも各地にその地形を見る事が出来ます。
この600年代は地震による津波や断層、戦争が相次ぎ、筑紫は大変な状況でした。
その時代に生きていたのが天智天皇や天武天皇です。

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これは高良山神籠石の全体図です。(歴史散歩#20久留米市教育委員会より)
赤い実線が現存する列石で、点線になったところが、地震で崩落した部分です。
吉見岳そのものがずるっと滑り落ちたそうです。信じられない激震です。
神籠石を追っていて、まさか地殻変動の歴史を見せつけられるとは思いませんでした。

それにしても神籠石って、どこの石を切り出して来たのでしょうか。
神籠石はこの近くの山にもいくつもあるので、どこかに石切り場があったはずです。
神社や祠があるかも知れません。
祭神が分かれば、どんな集団が祀ったのか見えてくる可能性があります。

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これは、日本に分布する古代山城です。(『あつまれ!!古代山城』より)
赤い丸は朝鮮式山城で、青い丸は神籠石系山城とされています。
神籠石は現在16カ所で発見されています。
これからの研究が大いに期待される遺跡群です。




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by lunabura | 2009-12-28 10:20 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(4)

高良大社(10)税として納められた鷹と鷹鳶神人


税として納められた鷹と鷹鳶神人

 高良大社

只今、当ブログの話題は英彦山や高良山、星野村など
福岡の山岳に鎮座する高樹神社や高木の神などに及んでいます。
その山々には鷹が神として飛来する話があるので、
鷹の話題で盛り上がっているのですが、

今回、愛読者さんから、奈良時代に
筑後の国から鷹と鷹匠などが税として納められていたという
面白い記録を紹介していただきました。
その話の中に出て来る、「鷹鳶神人」の持つしるしの写真があるので、
コラボで紹介します。

まずはコメントから。これは「ちょっと」というタイトルの記事にあります。



愛読者:
もうひとつ「鷹」と「高良別宮」ですが、
「筑後国天平十年(738)正税帳」に
「貢上鷹養人参拾人」(略)「貢上壹拾伍頭」、
同じく「周防国天平十年正税帳」に
「従大宰府進上御鷹部領使(ことりづかひ=先導役)
筑後国介従六位上日下部宿禰古麻呂将従三人、持鷹廿人、(中略)御犬壱拾頭」
とあります。

当時筑紫から「御鷹」が筑後の日下部氏に先導され、
併せて「30人の鷹養人・犬25頭・20人の鷹持ち(当然鷹も20羽以上)」が
税として貢がれたというものです。

このような莫大な鷹の献上は筑紫からしかありません。

そして、「筑後の日下部氏」とは、高良大社官長職の日下部氏で、
高良大社御神期大祭の御神幸には羽の付いた冠を被った「鷹鳶」の行列が見られ、
筑後久留米市草野町には「隼鷹(はいたか)天神」もあります。

「御鷹・御犬・鷹持」等の尊称から、
鷹狩は高良玉垂命=九州王朝の尊い行事だったと思われます
(もちろん神功皇后とも関係)。
(「正税」とあるから天平10年に大和朝廷に召し上げられたことになる!!)



るな:
これは、面白いですね!!
税から鷹の話が出て来るとは。
しかも、日下部氏なんですね。
私は高良大社の勅使祭の、その写真を撮っているので、
愛読者さんのコメントと、私の写真でコラボの記事を書きましょう。
とても重要な位置にありましたよ。 (^-^)



ということで、早速行列のイラストを挙げましょう。

c0222861_0485829.jpg


これは2012年10月14日に催行された高良大社神幸祭の行列の一部です。
本来50年に一度あるのが、臨時的に20年目に催行されました。

鷹鳶神人は行列の中でちょうど中央に位置するのですが、
コメントに書いたような重要な位置ということはありませんでした。<(_ _)>

鷹鳶神人の冠を見ると、確かに羽根が挿してあります!!
全然気づかなかった。
私はそれよりも、掲げる太陽らしきシンボルに夢中だったのです。



c0222861_0491921.jpg


ごれが実物。
よく見ると、今回の神幸祭では烏帽子(?)のままですね。
この人が「鷹鳶神人」というのですが、手に持っているのは
太陽という解釈でいいのでしょうかね。
巴神人の後ろに日月神人がいて、そちらにも太陽のシンボルがあるので、
また別の解釈があるのかも、と思ったりもしています。

高良山は「高牟礼山」とも言うのですが、
冗談で「鷹群山」と書いたら、
少なくとも20羽以上の鷹が税納されたというのですから、
確かに鷹が群れ飛んでいたのかもということになりました。

鷹の飼育人30人、鷹匠20人、犬(狩用だと思う)15匹が納められる環境なのですから、
大規模な鷹狩りの為の繁殖や訓練組織があったはずです。

現在の鷹匠は大変少なくなっていて、
佐賀県の女子高生が鷹匠になったという報道を見ました。
カラス対策にすごい効果があるそうです。

鷹の群れ飛ぶ高良山、鷹群山か…。
在り得るかも。



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by lunabura | 2009-12-27 00:53 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(23)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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