ひもろぎ逍遥

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磯良の最期


ことのかたり

磯良の最期
 

海で鍛えた、たくましい肉体を持った磯良さまも、
最期は足が弱られたのでしょう、
再び大善寺に来られた時には御輿に乗っておられました。


すでに、ここを死地とする覚悟を決めておられたようでした。

三韓から戻って留め置かれたままの御座船の覆いを取るように命ぜられると、
棚や道具を一つ一つご覧になり、
そのあと、竜骨を除いてすべてを燃やすように命じられました。

棚は、神功皇后が志賀島で命じられて作った棚でございます。
皇后さまは朝な夕な、その棚に供え物を置いて神々に祈られたと聞きます。

磯良さまは、一時期は戦いに船団を出すことをためらうようになられたのですが、
皇后さまの祈りの姿に心打たれ、
その船の舵取りをすることを決意されたと聞きました。

奈多(なた)の浜で八乙女が七日七晩、磯良さまを前にして
豊玉姫さまたちのために神楽を舞った時の華やかさは
今でも聞き伝えております。


竜骨だけは、ご神体としてお祀りするように命じられました。

御座船の跡には、朝妻を勧請されました。
あさづまとは、味水御井神社のことでございます。

かつては朝妻七社といって、
神功皇后を始めとする七柱の神が祀られていたのです。


すべてを采配されると、磯良さまは静かに息を引き取られました。

その墓所は高三潴(たかみづま)にございます。
石の棺に剣を二振り置いて、埋葬されました。

磯良さまの名前はシリウスという意味です。
夜空で一番明るく、真っ白に輝いて、航海の民を導く星のことです。

私どもは、その御墓に参る時、牡蠣殻を持っていっては、
封土に置きました。

そう、夜空にシリウスが輝くように、
牡蠣殻で磯良さまの墓を白く輝かせたかったのです。

高良玉垂宮神秘書 534条 536条 





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『神功皇后伝承を歩く』下巻78 大善寺玉垂宮









他の物語はコチラ<ことのかたり>に置いています。
http://lunabura.exblog.jp/i235/






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by lunabura | 2016-06-23 20:03 | <ことのかたり> | Trackback | Comments(2)

磐井君の末裔たちのレジメ完成



磐井君の末裔たちのレジメ完成




次回の歴史カフェのレジメが仕上がりました。


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神社の縁起を調べていくうちに、磐井君の末裔について、
子供は四人、孫は六人、合わせて十人の存在が分かりました。

今回はこの十人について、磐井君に近い順から、
系図や伝承、また墓や神社など、分かった事をお話ししていきます。

パワーポイントではなく、史料を読んでいくので、
かなりの理解が進むのではないかと思っています。

この史料を読み込めば、
磐井君が新羅寄りではなく、百済寄りだったこと。

宮地嶽神社の境内にある宮地嶽古墳の被葬者は
宮地嶽神社の祭神であること、
など、おのずと明らかになります。

徳善説の誤解
宗像族の人物が安曇族の聖地に葬られることはあり得ません。

胸肩徳善説を唱える方は、時代が100年以上違う点について、
説明すべきでしょう。

なにせ、徳善は天武天皇の時代に活躍した人物ですから、
生まれる前に墓を作ったということを立証するのは出来ないことです。



新羅寄り説の誤解

また、磐井君新羅寄り説の方は、
磐井の孫の鞍橋君が百済王子と共に戦っていることを知らないのでしょう。

宮地嶽古墳から出土した「鉛系ガラス板」は磐井と百済の深い関係を物語っています。





逆賊という汚名を、しかも濡れ衣を着せられながらも、
自分たちの矜持を守り続けた磐井君の末裔たち。

今回は、久留米と糟屋、福津を結んで「磐井の乱の後の世界」を描いていきます。




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by lunabura | 2016-06-20 20:50 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(4)

ウエサク祭と水沼



ウエサク祭と水沼



友人との会話で、ウエサク祭の話が出た。
ウエサク祭とは鞍馬寺の五月の満月祭のことだ。

このウエサク祭がアジアの各地でも行われていることは
今では周知のことだが、
それが初めて分かったのは十数年前のことだ。

それが分かった時、鞍馬の祭に異国でウエサク祭を伝える寺の僧侶が招かれた。

その年、幸運にも私はウエサク祭に参加することとなった。



この祭は瞑想がメインだ。
しずかに満月の光を浴びながら瞑想をする。
夜中の行事だ。
しかも、戸外で行われる。

金属の容器に水を張り、満月の光を転写し、それを分かち合う。
それが、満月祭の本質だと私は理解した。


一方、水沼の手によって
月の光を宿した水を変若水(おちみず)という。
若返りの水だ。

「ウエサク祭の本質は変若水だと思う」
私は友人にそう言った。

が、気になってネットで、二、三、ざっと検索してみた。
この「水」について言及したものは見当たらなかった。

ウエサク祭はブッダの悟りと結びついて考えられているようだ。




そうすると、福岡の「水沼」(みぬま)はどうだろうか。
関連があるのだろうか。

何度も書いて恐縮だが、
私が「水沼」に深く惹かれるのは、
このウエサク祭の経験があったことも、ひと役買っている。


水沼族は福岡の南部、
筑後川を母として繁栄してきた。

「水沼」とは「巫女」。
月にある変若水が聖なる泉に降り注ぐ時、
水沼は神と人との間を取り持ったという。

この伝承を知った時、
私は満月が頭上に月暈を従えてこうこうと輝いた、
あの年のウエサク祭の奇跡の光景を思い出した。

月の光を存分に吸収した水は尼僧の手によって参拝者に手渡される。
それは変若水だったのだ。
そう、思う。



日本の古代においては、その役割を水沼が行った。



月の光と水。


鞍馬のウエサク祭が仏教の行事だとしたら、
水沼はどうだろうか。

時代を考えてみた。

水沼の君は三女神を祀る。
だから、景行天皇はわざわざ祀壇を作り、
自分の子供・国乳別皇子を代理として住まわせた。
そして、水沼の姫君を娶(めと)らせた。

紀元2世紀ごろのはなしだ。
これから考えると、すでに弥生中期には水沼が筑紫にいた。


通説では、弥生時代にはまだ仏教が入っていないことになっているので、
水沼の存在は、仏教流入以前の日本の古代の姿をそのまま残していることになる。

漆黒の闇を照らし出す満月の夜のひそやかな儀式。

水沼と泉と月。

その「水沼」が水の女神と呼ばれるようになった。

それが三女神を祀った家系だ。


私の中では、鞍馬と水沼は重なり合った世界となっている。
満月と黄金の器の水と共に。








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(『神功皇后伝承を歩く』78大善寺玉垂宮より)







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by lunabura | 2016-06-07 20:38 | 大善寺玉垂宮・だいぜんじ久留米 | Trackback | Comments(7)

ヒカゲノカズラの髪飾り



ヒカゲノカズラの髪飾り





ヒカゲノカズラをくるりと、丸くすると髪飾りに。





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これは坩堝(るつぼ)の仕上がりを願う女人の髪飾りだという。




アメノウズメもそうだったのかもしれない。

『古事記』
アマテラスが天岩戸に籠ると、真っ暗闇に。

神々は相談して鏡を作ることにした。

天岩戸の前に堅石(かたしは)を取り、
金山の鉄を取って、
鍛人(かぬち)天津麻羅を連れて来て、
イシコリドメ命に鏡を作らせた。

そんな記述がある。

神々は天岩戸の前で鉄を作ることにして、鍛人の天津麻羅を連れて来た。
この天津麻羅が物部造等の祖だということは、
技術指導のために連れて来たのかもしれない。

デザインや作り方など、鉄で鏡を作るのは、
イシコリドメにとっては新しいチャレンジだったことだろう。


アメノウズメは、鏡が造られる間、ヒカゲノカズラをタスキに掛けて
舞い続けたのではないか。
きっと鏡の仕上がりを願った巫女の舞だったのだろう。

ヒカゲノカズラには薬効として、
「炎の色に敏感になる」という効力があるのだ。

温度計の無い時代、工人にとっては、炎の色だけがタイミングを知らせるものだった。
だから、ヒカゲノカズラの精霊の援けが必要だったのだ。

それが七支刀に発展する。



ところで、
アマテラスの岩戸隠れを日食現象とする人が多いけど、
日食は短い現象。

鉄を取ってきて、鏡を作るのだから、長い日にちが掛かっている。

岩戸隠れが象徴するものとはなにか。
今、二つ思うことがある。

一つは、冬至の祀り。
スコットランドとか、冬は太陽の出ている時間がとても短い。
太陽の長い籠りの期間が終わって、再び輝き出す春を祝う祭。
それがルーツではないか。


もう一つは、人々の願いを引き受けてドロドロになった神が引き籠ったのを、
引き出して禊を勧める祭。

大善寺玉垂宮の火祭りとか、
太宰府天満宮の鬼くすべとかが、そのタイプ。


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(『神功皇后伝承を歩く』78大善寺玉垂宮より)


う~ん。
ヒカゲノカズラを見ていると、
北ヨーロッパの冬至の祀りの名残というイメージが強くなった。






ヒカゲノカズラ、「610」まで緑でいてくれると、いいな。






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by lunabura | 2016-06-01 22:15 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

狐塚古墳(2)昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


狐塚古墳(2)

昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


手元に『埋もれていた 朝倉文化』(福岡県立朝倉高等学校史学部)という本があります。ふと、本棚から出したのですが、そこに狐塚古墳の記事がありました。

この本は、朝倉で整地、開墾が次々と行われるなか、高校生が調査して書き遺したものを一冊にまとめたものです。

そして狐塚古墳については、当時天井石を失ってはいたものの、おびたただい出土品があり、多量の武器、馬具、須恵器、はては北宋銭や石鍋、石硯などが記録されています。

土器には弥生土器も混じり、平安土器、北宋の白磁、南宋の青磁などが含まれています。北宋銭は真書の天聖元宝(1023年)が二枚です。

天井がないことから、違う時代のものが混入したのか、あるいは400年後も扉が開けられて奉納されたのか、全く不明ですが、この地が中国と交流を持っていたことを物語っています。

筑後川を下って大川の風浪宮に着けば、その近くに榎津という国際港があるので、珍しいものが直接入って来ている可能性があります。

出土品には釘が多数出ていることから、木棺だと分かっています。その分布からはやはり複数の木棺が置かれたもようです。

そして、本には奥壁の鏡石に書かれている船の詳細な絵図が掲載されていました。
それは、前回紹介した看板の画とは全く違っていました。



衝撃の壁画です。







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これは渡来人でしょうか、二人は明らかに別の人種と思われます。
左の人物はタッチが違うので、後世に書き加えた可能性が大きいです。
人物は船から降りています。屋形がある大きな船で、左下の小船と比べるとその差がよく分かります。有明海から入ってきたのでしょう。船の右手にびっしりと彫られた格子は、現代でもまだ目視できました。が、人物の部分は船のラインがわずかに見えるだけです。



次は同じ部分の看板のイラストです。


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何故、あれがこのような壁画とされたのか、理由は不明ですが、詳細は昭和29年3月「福岡県文化財調査報告」第17輯に載っているそうです。



狐塚古墳は出土品が多いので、専門家によって、もっと時代が描きさせるのではないでしょうか。
周囲の古墳が赤や青で描かれているのに対し、これは特殊なもののようですが、専門家なら円石室の分布とともに、明らかにできるものではないでしょうか。

この古墳はもっともっと評価されるべきものと思われました。





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by lunabura | 2015-09-25 22:34 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

山北と賀茂神社と田中幸夫コレクション

二年前の記事ですが、ちょうどこの浮羽の話だったので、再掲します。


山北と賀茂神社と田中幸夫コレクション


先日、くじらさんから「山北」についてコメントをいただいた翌日、
なんと、「山北」から出土した石戈皮袋型須恵器を見る事が出来ました。
このシンクロニシティを忘れないうちにメモしときます。

「山北」は福岡県浮羽市にあります。
まずは、くじらさんのコメントの概要。
これは神武天皇 伝承の宮々(1)でいただいたコメントです。
ところで、すでにご承知かもしれませんが、加茂大神がこの国に最初に光臨したといわれる神社が浮羽市にあります。
山北の加茂神社といいます。(http://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(うきは市))

境内摂社の三次神社は浮羽でも最も古い神社とのこと。
アジスキタカヒコネの伝承とあわせて考えるとおもしろいですね。
境内には非常に古い古墳があり、かつてはこの付近が筑後川の河口だった時代があったと思われます。物部郷も近くにあり、大陸からの渡来系氏族の重要な拠点のひとつと考えられます。



くじらさん、こんばんは。
「山北」ですね。それなら知ってるかも (^-^)
物部氏はかなり古いですね。想像以上。
あれほど福岡の広いエリアに分布するには、100年200年じゃないような。

何々、アジスキタカヒコネですか。
この神は、大国主命と宗像三女神のタギリ姫の間に生まれた神ですよ。
高良山の麓にも祀られていて、気になる神です。

うきは市の賀茂神社は加茂大神が最初に降臨?
興味津津。

早速ウィキペディアを引用してみましょう。
縁起
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、
「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」
と述べている。

境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土している事から鑑みこの旧記が有る真実を伝えているものと考えられる。

賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(たけうちのすくね)(孝元天皇の曾孫)19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。(熊懐氏参照)

祭神
神日本磐余彦尊(かむやまといわれびこのみこと)(神武天皇)
賀茂下上大神(賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)、
玉依姫命(たまよりひめのみこと)、
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと))
う~む。
宇佐から山北へ。
そして八咫烏となった。

これは奥深い伝承ですね。
いつかチャレンジしたい…。

さて、この翌日に出会った山北の出土品は
九州歴史資料館の田中幸夫コレクションの中にありました。

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甕棺のイラストと石戈。
今回、このコレクションの撮影OKだったので載せておきます。
紀元前1世紀です。
もう神武天皇よりずっと後の人々です。

石戈を見ると刃先が折れています。
その後も使用した形跡がありますが、専門家はどう見るのでしょうか。

甕棺は二つ合わせて147センチになっています。
イラストの寸法が正しければ、かなり大柄な人です。
イラストの右上には石棺も見えますよ。

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山北からは皮袋の形をした土器も出土していました。
時代はぐっと下がって6世紀。
これは福津市の奴山古墳群にも出てたなあ。

これらは現在展示中ですよ!4月7日まです。(2013年)

第13回企画展「筑後考古学研究の黎明 田中幸夫コレクション展」

 今回の企画展で紹介する「田中幸夫コレクション」とは、昭和初期から戦後にかけ、福岡県内の遺跡を精力的に調査研究された故田中幸夫氏の考古資料コレクションです。 氏が生涯をかけて収集され、当館に寄贈された考古資料コレクションの中から、筑後考古学研究の黎明期を飾った県指定文化財3点を含む約100点を展示します。
会期:平成25年1月16日(水)~4月7日(月) 会場:第2展示室

九州歴史資料館 〒838-0106 福岡県小郡市三沢5208-3 TEL:0942-75-9575 FAX:0942-75-7834
http://www.fsg.pref.fukuoka.jp/kyureki/index.html


田中幸夫は立屋敷遺跡(遠賀郡水巻町)を発見した人なんですね!
珍敷塚古墳もですって!

出土地の地図があったので、とても分かりやすかったです。
(どの資料館の展示もこうして地図を出してくれるといいなあ。)

地図 山北




2013年2月8日投稿






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by lunabura | 2015-09-22 22:42 | 神武天皇伝承の宮々 | Trackback | Comments(4)

珍敷塚古墳・天鳥船の壁画だけど外観のみ


珍敷塚古墳
めずらしづかこふん
 外観のみ


前回の浅田古墳群から西、久留米方面へ約6キロの所に、珍敷塚古墳があります。6キロという距離は氏族も別になるでしょうが、例の天鳥船があるので、現地を確認しに行きました。

前回、資料がないとボヤキましたが、うきは市の観光協会から戴いた資料の中に、「うきはの装飾古墳」という優れ物が入っていました♪

発行は、うきは市教育委員会です。重定古墳の壁画は、ユギがずらりと整列している様子が飯塚の王塚古墳に似てたり、行けなかった楠名(くすみょう)古墳の入り口が福津市の手光古墳と似てたりしていて、ワクワクしてます。

で、本題の珍敷塚古墳ですが、石室は見られなくても、福岡県大阪観光協会の発行したリーフレットに載っていた、あの天鳥船の現場ということで、行ってきました。
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あれ?
あれれれれ?
あれじゃない?
行きすぎました!

古民家カフェのような瀟洒な看板があって、通り過ぎながら「珍敷塚古墳」の字を確認。
車をバックさせて、現地に立ちました。

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ここは屋形古墳群と言って、四つの古墳があるということです。

壁画を観察すると、珍敷塚古墳と原古墳、鳥船塚古墳の三つが「ミサキ鳥」を舳先(へさき)と艫(とも)に一羽ずつ乗せて、帆柱などが描かれています。

エジプトのラ―の船と共通する画があるのはここです。
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(福岡県大阪事務所発行 無料で送ってくれますよ)


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この古墳は小さな家屋で墳丘もなく、古墳には見えないので調べて行くと、破壊されていて、奥壁だけが残されたもようです。

当地はフルーツ観光で有名ですが、造園業も盛んなので、古墳を壊して畑に造成し、石は庭石に使われていったのではないかと思います。


小郡市では、家の塀代わりにおびたたしい数の石室っぽい石が山積みされているのを見ました。

ここも、石を持ち去ろうとした時、この画の躍動感にただならぬものを感じた人が残してくれたのでしょうか。

この天鳥船のモチーフを描いた古墳が三つ並んでいる点では、一族の墓が次々と造られたんだろうなと、想像させてくれます。




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少し離れて写しました。裏手に三つの古墳が並んでいるはずです。少し坂になっていました。もう暑くて断念。

冊子からは、珍敷塚古墳の次の世代の人は力不足で、モチーフを描くのがやっとという印象を受けます。逆の意見を持つ人もいるかも。
四つ目の古畑古墳の絵は日岡古墳と似たタイプだと指摘されています。

時代については記述がないので、想像することが出来ません。








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これは反対側の風景です。

果樹園の先に立つと、筑後平野が見渡せます。筑後川は一夜川というほど、流れが変わる川で、いつも氾濫しました。

正面の山並みは朝倉です。3世紀の初頭まで羽白熊鷲が活躍し、神功皇后に滅ぼされました。それから400年以上経って、斉明天皇が神功皇后の足跡で祈り、朝倉橘広庭宮を造りました。

この珍敷塚古墳の被葬者はその間の人です。
周辺の神社は鷹取宮、天満宮、熊野神社、宮地嶽神社。

何か手掛かりはないか。
やっぱり歩かないと駄目ですね。



珍敷塚古墳







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by lunabura | 2015-09-19 23:03 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(10)

重定古墳と塚花塚古墳・同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


重定古墳と塚花塚古墳

うきは市浮羽町朝田
同時期の装飾古墳なのに石室の設計が全く違う(驚)


前回の高御魂神社から新川を下り、賀茂神社前を通って西に1キロ進むと、有名な装飾古墳群に出ます。

今回はその内、重定古墳塚花塚古墳を見つけることが出来ました。
どちらも道路沿いにあったのですが、初めてだと、見つけ出すのが大変なのが古墳巡りです(^_^;)

でも、古墳の被葬者は神社にお参りしていたはずなので、歩ける範囲に古墳があるなら要マークです。しかも、装飾古墳♪

まず、重定古墳を見つけました。

重定古墳
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で、右手にあった石段を上ると何故か現代のお墓。



これ以上は進めず、訳分からず降りました。
ネットで見ると、もっと広い石段があり、頂上に出ることができそう(/・ω・)/
――先達は あらまほしきなり。

これは前方後円墳だったのが削られて、後円部が残っているそうです。
時代は6世紀後半。
磐井の乱の傷も癒え、宮地嶽の勝村・勝頼が活躍している時代。
阿毎多利思北孤や聖徳太子がそろそろ活躍しようとしている頃かな?


装飾古墳の絵柄も分からないですが、石室の写真を「うきは市の文化財」から。




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迫力がありますね。
天井石は一枚石だそうです。








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看板を見ると、双六のように、塚花塚古墳への道が。三歩進め、てか?



塚花塚古墳
つかはなづか

すぐ近くにありました。



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古墳の全景です。円墳だそうです。

ここには看板がありました。





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馴染みの絵図がありますが、全体のデザインが分かりません。


佐賀の田代太田古墳などのように、壁画や石室などの画像つきの看板に進化してほしいですね。

こちらも手元の資料によると6世紀後半ということなので、さっきの重定古墳と同時期になります。
でも、石室の設計は全く違います。



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こちらは小さい石を積んでいます。


同時期で近所なのに、前方後円墳と円墳という形の違いもさることながら、石室の設計が全く違うということは、興味深いです。
二種の石工がいたということになります。

壁画のアイテムの共通項はあるようですが、現地では何も分かりませんでした。
比較したら面白そうですね。

あらためて、装飾古墳の本を探さないと分からないのでしょうか。
浮羽の装飾古墳が一挙に掲載されている本とか、あるのかなあ。




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これは古墳の西側の山を撮りました。鷹取山でしょうか?









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こちらは新川方面。一番左の木立が賀茂神社かな?
右手の山裾に三次神社があるのではないかなと思いますが、あくまで推測です。


とても良い環境ですね!




地図







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by lunabura | 2015-09-17 23:09 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(6)

高御魂神社・ 的物部の宮という


高御魂神社
たかみたまじんじゃ
 的(いくは)物部の宮という
旧浮羽町新川春園


前回までの賀茂神社のそば、西を流れる新川水系を遡りました。
浮羽大橋を通り、合所ダムの東の山間部を走ると、新川駐在所の前に
心魅かれる古社の鳥居が見えます。
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急な石段の上に高御魂神社は鎮座していました。


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祭神 高皇産霊神 たかみむすびのかみ
   天御中主神 あめのみなかぬしのかみ
   神皇産霊神 かんみむすびのかみ

この三柱は『古事記』でも初源に出て来る神々です。
町誌を見ると八代から勧請された宮だと書いてあります。

由緒
宇多天皇寛平7年(895)、肥後国八代郡大田郷の妙見宮を、熊抱平馬太夫行定が御伴してこの地に勧請した。

895年とは、当ブログにおいては比較的新しい宮です。
熊抱という姓は賀茂神社の大宮司としても出て来ることから、
当地全体の統治に関わっていたと思われますし、
高御魂神社と賀茂神社が深い関わりだということも分かります。

この高御魂神社はもともと妙見宮と称していたのが、
明治6年(1873)に」高御魂神社と改称しました。

これ以上のことが分からないので、はたして八代に妙見宮が存在するのだろうか
とネットで検索すると容易に出て来ました。

八代市妙見町405に鎮座しています。

祭神は天之御中主神、国常立尊、また、北斗七星です。
両宮を比較すると「天御中主神」が共通しています。

面白いことに、八代の方は795年に創祀されていました。
浮羽は895年。ちょうど百年を節目として勧請していることが分かります。

八代の方では次のような縁起を伝えていました。
妙見神の来朝
天武天皇、白鳳九年(六八〇)、妙見神は、神変をもって、目深・手長・足早の三神に変し、遣唐使の寄港地、明州(寧波)の津より「亀蛇」(玄武)に駕して、当国八代郷八千把村竹原の津に来朝せり。

妙見神は寧波(ニンポー)からの渡来神でした。
白鳳九年(680)と明記しているので、渡来人が亡命して来た可能性があります。
その渡来人の風貌が三神「目深、手長、足早」で表現されているのでしょう。

680年に渡来して、795年に上宮で祭祀されるようになり、
さらにその百年後に浮羽に勧請されたことになります。

895年以前に寧波からの渡来人の一部が浮羽の山奥に入植していて、
改めてその信仰神を勧請したと考えることが出来ます。

さらに八代の方をウィキペディアで調べていると、
次のような境外末社が出て来ました。
霊符神社
祭神 - 北辰星・霊符尊星
由緒 - 霊符神社(れいふじんじゃ)は八代神社の末社、鎮宅霊符神の総本社。

推古天皇のころ、百済国聖明王の第3王子琳聖太子が八代に日本最初の霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した。

信仰すれば、除災興栄、富貴反映を得るという。明治維新後廃仏毀釈で荒廃したが、大正年代に再興。
所在地 - 八代神社東方約200メートル

百済・聖明王の第三王子、琳聖太子が八代に来ています。

聖明王の長子が余昌(威徳王)で、鞍手の鞍橋君の率いる軍がこの余昌軍と共に新羅に侵入して、一緒に籠城しています。鞍橋君は葛子の子です。

ウィキペディアの聖明王の系図では二人の王子の名前しか書かれておらず、この第3王子の名はありません。八代にのみ残されているのかもしれません。

余昌は526年生まれなので、第3王子はその数年後の生まれです。

527年が磐井の乱です。
乱後は葛子が筑紫君になっているので、百済の第3王子は筑紫君葛子の質として来日したのかもしれません。

三韓がそれぞれ王子を質として差し出すのは、神功皇后の戦勝以来の話にみられ、高良山の方でも、三韓の三人の王子のうち、百済王子のみが生きて上陸し、他は船の中で死んだと伝えています。

話を八代に戻しますが、第3王子の琳聖太子は「霊符神を伝え、白木山神宮寺(妙見宮の神宮寺)に鎮座した」とあります。

蛇足ですが、百済王子関連でありながら白木山となっているということは、他の白木も総てを新羅とする考えは見直さなくてはならないようですね。


以上から分かる事は、
八代には磐井の時代から百済王子を受け入れる政治的な組織があり、天武天皇の時代に中国からの渡来人を受け入れたということです。その風貌から中東の辺りの人かもしれません。それから百年後、浮羽にその神を勧請しました。

八代から浮羽へ。
何があったのか。
手元の資料からはこれ以上は分からなかったのですが、くじらさんから、次のようなコメントをいただきました。

藤波ダム下流の公園の隅に「物部本家ここにあり」という意味の石碑がポツンと立っています。

明治までは浮羽から星野にかけての山岳地帯を姫治といい、鉱物資源独占の為か、外部の人間は決して入れなかったと聞いています。

この広いエリアの物部郷はある意味、隠れ里として人の眼に触れる事無く、存続してきたのでしょう。物部の一党が代々守ってきた高御魂神社は八代 妙見宮から勧請されたと言われています。

星野で思い出すのは金山があった話です。金に限らずこの山塊には鉱物資源があって、物部氏がひそかに掌握していたことになります。

これらから総合すると、八代において妙見神が「白鳳九年(六八〇)」に渡来したという年がキーポイントになります。

これは白村江の戦い663年のすぐ後なんですね。
倭国と日本国の連合軍は唐と新羅の連合軍に負けています。

考えられるのは軍備の差。
八代にいた支配層は、唐軍の軍備との大きな開きを痛感して、寧波から武器製作集団を招いたのではないでしょうか。


倭王朝が滅び、日本国が台頭して、律令制度の支配下になることを嫌い、鉱物資源があった姫治を絶対的に隠したかった。そして、倭王朝の再興を期して力を貯えようとした。それが的物部氏がこの山岳を隠した理由ではないでしょうか。


麓には天満宮がかなりの数、点在しています。また装飾古墳群がずらりと並んでいます。ここは的物部の巨大な軍事産業基地だったと想定できます。


麓の三次神社や賀茂神社が大友宗麟の崇敬を受けたり、逆に焼き打ちに遭ったことを考えると、この浮羽は中世まで、各大名が喉から手が出るほど欲しかった武器供給地だったのでしょう。

しかし姫治は徹底的に隠されて、大友宗麟の手は及ばなかった。
そんな想像をしました。


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高御魂神社






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by lunabura | 2015-09-15 20:42 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(11)

三次神社(2)景行天皇の筑紫行 まとめ


三次神社(2)

景行天皇の筑紫行 まとめ




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(雨乞いの三次石があるというが、狛犬の間の石だろうか?)


由緒に、景行天皇が来た具体的な年と、猿大海にヒモロギを造らせた話が出てきました。
同様な話が久留米の赤司八幡神社でも採集できています。

猿大海と景行天皇のことは『日本書紀』にも出ています。
景行18年と28年を中心に筑紫や肥前の縁起も含めて整理してみました。

18年3月 天皇、京に向かおうとして筑紫国を巡狩する。
7月4日  筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みけ=三池)に至って高田行宮に居す。
       倒れた巨木、歴木(くぬぎ)について話す。
7月7日  八女県(やめのあがた)に至る。藤山を越えて南粟岬を望んで
       神の山ついて水沼県主猿大海に尋ねる。八女津媛について答える。
8月     的邑(いくはのむら)で食事をするとき、ウキ(杯)を忘れたことで浮羽という地名になった。
9月20日 日向より至る。

27年7月 武内宿禰に北陸視察を命じる。
8月     熊襲が背く。
10月13日 日本武尊(16歳)に熊襲を討たせる。
12月    川上タケルを討伐。
28年2月  日本武尊戦勝報告。

以上が『日本書紀』の記述(一部)です。
景行天皇は18年に三池から八女、藤山を経由して北上し、8月に浮羽に着いています。
ウキを忘れた事件はこの時の話となりますね。

この時、猿大海が同行しているようです。ここは賀茂氏が武器を造っていたのでしょう。その為に三次神社を聖地と定めて祀ったと考えられます。

『古事記』的には、宗像三女神(当時は水沼三女神)と出雲の合体が賀茂大神なので、浮羽は水沼の統治下にあったのかもしれません。

水沼県主・猿大海の屋敷は久留米の赤司八幡神社にあり、景行天皇はそこで天壇を造って三女神を祀り、国乳別皇子を天皇代行として残しています。

経路から考えて、藤山から赤司八幡神社を経由して浮羽に向かったのではないかと考えられます。

また、佐賀市大和町川上 真手山(まて)にヤマトタケルから襲撃された熊襲タケルが逃げ込んだ伝承があります。

熊襲タケルは筑紫で一度ヤマトタケルと会っていて、筑紫の拠点でヤマトタケルに襲撃されて佐賀市大和町まで逃げたといいます。

これが景行27年12月に該当します。
このあと28年に景行天皇は猿大海に命じて、三次神社の聖地に磐境、神籬を祀らせたことになります。

猿大海は水沼県主として、広範囲を治めた、かなりの実力者だったことが分かります。

国乳別皇子の后は水沼から出たので、さらに結束は強くなりました。

日本武尊、仲哀天皇と、次々に当地を訪れ、その記憶を留めるために親子三世代が祭神として祀られたのでしょう。

また、肥前国風土記では景行天皇は高羅の行宮から基肆国の永世神社に行ったと書いています。このルートを仮定すると、浮羽から高良山~佐賀と移動したのかも知れません。



以上の仮説を追加して、『日本書紀』に追加します。

18年3月 天皇、京に向かおうとして筑紫国を巡狩する。
7月4日  筑紫後国(みちのしりのくに)の御木(みけ=三池)に至って高田行宮に居す。
       倒れた巨木、歴木(くぬぎ)について話す。
7月7日  八女県(やめのあがた)に至る。藤山を越えて南粟岬を望んで
       神の山ついて水沼県主猿大海に尋ねる。八女津媛について答える。
このころ 久留米赤司の猿大海の拠点で三女神を祀るために天壇を造り、
       国乳別皇子を残して祭祀をさせる。


8月 的邑(いくはのむら)で食事をするとき、ウキ(杯)を忘れたことで浮羽という地名になった。
このときの滞在地はのちに三次神社となる。

このあと、高良山の行宮を経て基肆国永世神社に行く。
9月20日 日向より至る。

27年7月  武内宿禰に北陸視察を命じる。
8月      熊襲が背く。
10月13日 日本武尊(16歳)に熊襲を討たせる。武内宿禰同行。
12月     日本武尊は川上タケルを討伐。場所は佐賀市大和町真手山

28年2月 日本武尊戦勝報告。
同年  猿大海に命じて磐境と神籬を三次神社の地に造らせる。

こんな風になりました。

地図がないと分かりにくいですね。
私も、いつも福岡県の地図とにらめっこしています^^


猿大海、水沼、国乳別皇子については、『神功皇后伝承を歩く 下巻』
56 赤司八幡神社
57 弓頭神社
78 大善寺玉垂宮
で復習してくださいな。



地図 三次神社







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by lunabura | 2015-09-13 23:37 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(0)
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