ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

タグ:久留米市・うきは市 ( 103 ) タグの人気記事

三次神社(1)景行天皇が猿大海に磐境を造らせた


三次神社(1)
みつぎじんじゃ
旧浮羽町大字山北日盛園
景行天皇が猿大海に磐境を造らせた

賀茂神社を後にして、歩いて三次神社を探しに行きました。
8月15日の真昼、猛暑の日でしたが、思ったより辛くはありませんでした。


何枚もの地図を組み合わせて探しに行ったのですが、尋ねても知る人がいません。
それでも、やはり向こうに見えている森だろうと歩いていくと、車は入れない所でした。




c0222861_2342554.jpg

とても、風情のある小路です。





c0222861_2351287.jpg

あった!
真昼の影のせいで、神額が真っ黒に写っていますが、「三次神社」と書いてあります。



c0222861_2353176.jpg






c0222861_2355964.jpg

真夏の日差しでハレーションを起こしていて、ピントがあっているのに、合ってないような感じになっています。
訪れる人もいないようです。






c0222861_2361822.jpg

石の社殿です。

祭神 大足彦忍代別尊(景行天皇) 日本武尊 仲哀天皇 菅原道真

御祭神は父と子と孫。三人揃って祀る宮は初めてです。



由緒
景行天皇十八年、天皇筑紫国を親征された時、生葉山の麓、三次の杜(今の楯山)に霊畤(まつりのにわ)を設けて天神地祇を祀って天下の泰平を祈りたまい、同二十八年、水沼県主猿大海に命じて磐境(いわさか)を造り神籬(ひもろぎ)を立てさせ、神祇を鎮め奉ったのが創始と伝えられている。


景行天皇が最初に来たのは景行十八年とあります。

この宮は生葉山の麓にあるのですが、どの山を指すのか、分かりません。
地図にも、目ぼしい山が見当たりません。


「三次の杜(もり)」はここでしょうから、霊畤(まつりのにわ)も、ここなのでしょう。
景行天皇は十年後の二十八年に水沼県主の猿大海に命じて磐境を造らせています。






c0222861_2373471.jpg

境内の周囲をぐるりと清らかな水が流れていました。





c0222861_2385190.jpg

裏に回ったとき、人工的な石組の跡を発見。その石垣の上に磐座があったのです。


崩壊しているのでしょうか、あるいは元々このような形だったのか。
しかし、そこではゴミが燃やされていました。
ショックのあまり、写真はこれだけしか撮っていませんでした。






神社を振り返ると、磐座は社殿の正中線上に乗っているように思われますし、正面の筑後川を経た向こうに聖なる山を見ているフシがあります。



この宮は過酷な運命を持っていて、大友宗麟に焼き払われた時を含めて6度も社殿を建て直さなければならない状況に見舞われていました。

そして、磐座もゴミ焼場に成り果て、市民から忘れ去られていました。






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-09-12 23:10 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(6)

賀茂神社(6)賀茂大神は古出雲と水沼のハイブリットか


賀茂神社(6)

賀茂大神=賀茂建角身=八咫烏=阿遅鉏高日子根

古出雲と水沼のハイブリットか



c0222861_21185028.jpg


当社社伝に書かれていた宇佐(安心院)と浮羽を行ったり来たりしています。
浮羽の縁起に符合する歴史が安心院にあって、伝承の確かさに今更ながら感じ入っています。

さて、当社の四祭神のうち、神武天皇のことが確認できましたが、今日は残りの三祭神について考えて見ようと思います。特に、「玉依姫」は神武天皇の母と、賀茂別雷尊の妻・玉依比売という同名別神がいるので、それも頭に入れながら見ていきます。

ウィキペディアに書かれている当社縁起は
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、
神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。(略)

でした。
御祭神は
神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊


「賀茂別雷尊、賀茂建角身尊」という賀茂の神は初めての神々なので、調べてみると、「山城国風土記逸文」からの引用文が基礎資料となっているので、それを書き写して見ることにしました。

文中に出て来る「加茂の社」とは京都の下鴨神社のことです。

山城の国の風土記にいう、―――加茂の社。加茂と称するわけは、日向の曾の峰に天降りなさった神賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)は、神倭石余日古(かむやまといわれひこ・神武天皇)の先導として御前にお立ちになって、大倭の葛木山の峰に宿っておいでになり、そこからしだいに移動し、(略)

賀茂の建角身命は、丹波の国の神野(かみの)の神伊可古夜(いかこや)日女(ひめ)を娶ってお生みになった子を、玉依日子と名づけ、次を玉依日売といった。玉依比売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗り矢が川上から流れ下ってきた。そこでそれを持ちかえって家の寝床の近くに挿して置くと、とうとうみごもって男の子を生んだ。

(その子が)成人式の時になると、外祖父建角身命は、八尋の家を造り、八戸を堅く固めて、八腹(やはら・沢山の酒甕)に酒を醸造して、神をつどい集めて、七日七夜宴遊なさって、そうしてその子と語らっていうには「お前の父と思われる人にこの酒を飲ませなさい」と。

するとただちに酒杯をささげて天に向かって礼拝し、屋根の瓦を突き破って天に昇ってしまった。そこで外祖父の名によって加茂の別雷命と名づけた。

いわゆる丹塗り矢は乙訓(おとくに)の郡の社におでになる火雷命(ほのいかづちのみこと)である。(略) 『釈日本紀』

吉野弘訳より

神賀茂建角身命の娘の玉依比売が丹塗り矢を持ち帰ると妊娠して子が生まれたが、父が分からず、神々を集めて子供に「父に杯を」と命じたら、天を指し示したという話です。これで父が雷神・火雷命だったを分かり、子供の名前は賀茂別雷命となったということです。

そうすると、登場した「父と娘とその子」の家族が当社に祀られていると考えてよさそうです。玉依姫とは風土記の玉依比売のことでしょう。書き分けのため、神武天皇の母を玉依姫、賀茂建角身命の子供を玉依比売とします。

社伝では「神賀茂建角身命は、神倭石余日古(神武天皇)の先導として御前にお立ちになって」とあるので、「父の賀茂角身命が八咫烏」ということになります。

ところで、その降臨の地、日向の「曾」とか、大倭の「葛木山」とか、見ていると、「ソ」=脊振山に天降りして、犬鳴山系の葛城に移動したと読めて仕方がありません。

脊振山こそ賀茂神社の発祥の地((儺の国の星p68)と真鍋も伝えているし、葛城山系と言った犬鳴山系には蹈鞴の歴史があるし。

ここ、浮羽を押さえると、平群(脊振山系)、葛城(犬鳴山系)、巨勢(耳納山系)と、重要な三山が掌握できるんですね。これらの地名が神武東征と共に、関西に移動したと考えるのが自然でしょう。

c0222861_21173754.jpg


賀茂氏には東征に付いて行った一派と、浮羽に留まった一派がある、と捉えるのがよさそうです。

以上から賀茂大神とは賀茂建角身のことで八咫烏だという結論になります。

一方、今日、たまたま『古事記』を読んでいたら、大国主の子供にも「迦毛大御神」が出て来たんです。

大国主の神は胸形の奥津宮にいらっしゃる多紀理毘売を娶って生まれた子は阿遅鉏高日子根神。(あぢすきたかひこね)次に妹高比売の命。別名、下光比売命。(したてるひめ)

この阿遅鉏高日子根神は今、迦毛大御神(かものおおみかみ)と言うぞ。

風土記と『古事記』を合体すると、
賀茂大神=賀茂建角身=阿遅鉏高日子根となり、両親は「大国主と多紀理比売」となります。

もちろん、多紀理比売は三女神の一人ですが、筑紫の平群・葛城・巨勢に囲まれたエリアには水沼族がいます。その降臨地は赤司八幡神社で、三女神の中でも田心姫(たごり)を中心として祀っています。

拝火教であるゾロアスター教について、
本朝では穴遅(あなむち)として神代に現れ、天平の頃は穴師(あなし)あるいは賀名生(あのう)と呼ばれ、溶鉄錬金の橐師(たくし)工人の氏族の別名となった。)『儺の国の星』143

と真鍋は書いています。大国主=大己貴なので、賀茂大神は古出雲と水沼族のハイブリットだったという結論になってしまいました。

でも、これって、古代の筑紫をよく説明しているような感じがします。
遠賀川~玄界灘の古出雲と古有明海の水沼。筑紫の君を輩出する家系。

この古出雲―水沼の連合国が別の冶金集団の高木一族と対立していたのではないかなあ。

神功皇后の夫仲哀天皇の死後、皇后は羽白熊鷲率いる冶金集団を滅ぼしまたが、残る敵である熊襲に対しては吉備臣の祖・鴨別(かのもわけ)を遣わして攻撃させています。熊襲は簡単に降伏しました。

神武の東征ルートを考えると、吉備にも繋がってきて、吉備があれほど栄えたのも、また、同じような装飾文様があるのも、賀茂氏をキーワードとして見ると、見えてきそうな予感です。

当社の祭礼に広範囲の氏子衆が参拝するのも、中央の水沼族を考慮すると理解できました。

『神功皇后伝承を歩く』をお持ちの方は、
下巻56 赤司八幡神社
下巻78 大善寺玉垂宮
上巻33 御勢大霊石神社
を御覧ください。






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-09-04 21:14 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(2)

賀茂神社(5)三毛入野命の末裔の宮


賀茂神社(5)

三毛入野命の末裔の宮


町誌を見ていると「三毛入野(みけいりの)命の裔」という文字がさりげなく二か所に出てきています。
???
どこかで聞いた名前だな。

そう思って調べると、神武天皇の兄でした。
『日本書紀』によると、
三毛入野命はイワレビコ(神武天皇)たちと共に東征する途中、海難に遭い、常世の国に行ってしまいます。

その時の恨みの言葉が「私の母や叔母は海神(わたつみ)なのに、どうして波を立てて溺れさせるのだ」です。

この時、もう一人の兄、稲飯(いなひの)命も「我が祖は天神、母は海神。どうして陸に海にと、翻弄するのだ」と嘆いて剣を抜いて入水します。

海神とは即ち、安曇族。
二人の母と叔母とは即ち、玉依姫と豊玉姫のことです。

これを踏まえて町誌を読んでみましょう。

由緒
当社については、迦毛大御神御神跡で賀茂社の総本社に座すという伝など諸伝があるが、藩内通俗諸書の述べるところでは、後村上天皇の御代正平元年(1346)に西征将軍懐良親王が領主三毛入野命の裔山北四郎永高に命じて、九州鎮護のために、山城国愛宕郡賀茂下上大神宮を勧請されたのが創始である。(略)時の大宮司は熊懐平馬太輔行景であった。(略)

「領主・三毛入野命の裔」と出てきました。時代は1346年。懐良親王が来た時の話です。

迎えた領主・山北四郎永高は三毛入野命の末裔だったのです。町誌では、この時、京都の賀茂神社を勧請したのが創始であると書き、古伝はバッサリと切り捨てて、内容が一行も書かれていません。

 しかし、ウィキペディアに誰かが書いて置いてくれたお蔭で、私たちは縁起を知る事が出来ました。その出所は当社の古文書です。

 で、今回のテーマは「三毛入野命の末裔が当地の領主だった」ということです。

これを推理すると、神武天皇が安心院から浮羽にやって来た時、実は兄も一緒だったのではないでしょうか。

賀茂氏が姫を三毛入野命に娶(めあわ)せたとすると、その子供が代々、当地を治めたということになり、辻褄が合います。

イワレビコは安心院では侍臣の天之種子を水沼の姫と結婚させていました。こうして、各地で姻戚関係を結ばせることによって、着々と支配体制を固めていきました。

その後、軍備が整うと、三毛入野命とイワレビコ命は共に安曇族の船に乗って、東征したのでしょう。

浮羽では、賀茂氏と天孫族は協力関係の絆を太くしました。


さて、町誌によると、境内には箱式古墳や有紋土器が散在していたとあるので、確認してきました。

境内は整地されていて、その様子は分からなかったのですが、気になる丘の方に行ってみると、おびただしい古墳があったのです。


c0222861_16391945.jpg




c0222861_1639343.jpg

三王神社とあります。




c0222861_16395156.jpg

石碑を撮って一歩下がった時、穴に足を踏み入れそうになりました。
見ると、石棺の蓋がずれています。向こうにはマウンドが並んでいます。
ここは古墳群だったのです。


ここは賀茂氏の領土なので、聖地のそばにある古墳群は代々の賀茂氏の長のものかもしれません。

それは、賀茂氏でも、三毛入野命という神武天皇の兄の系譜となります。もちろん、安曇の系譜でもあります。

当社の4月11日の例祭には京都の葵祭の規式によって神幸が行われているそうです。

12月11日の氏子祭には、往時は生葉、竹野、筑前上座、下座、夜須の社家が集まって奉仕したそうです。上座、下座(朝倉)夜須までもが当社の氏子だとすると、かなりの広範囲です。

そして、その範囲こそ、神功皇后が羽白熊鷲討伐で通った古代路と重なるのです。

夜須では大本営、松峡(まつお)八幡宮を設営しています。いったい、どんな豪族が協力したのだろうかと、考えていました。

賀茂神社の縁起から、三毛入野命の末裔と協力関係があった豪族だったのが分かりました。




「神功皇后伝承を歩く」をお持ちの方
「羽白熊鷲のとの戦い」
40番砥上神社から、51番美奈宜神社まで、通してお読みください。
松峡宮(大本営趾)から秋月野鳥(のとり)の熊鷲を攻撃、滅ぼして朝倉へ降りて来る道筋を描いています。







いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-08-23 16:41 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(2)

賀茂神社(4)鉱物資源を求めた渡来人たち


賀茂神社(4)

鉱物資源を求めた渡来人たち


ふたたび、うきは市の賀茂神社に戻ってきました。



c0222861_21533916.jpg

同じような朱色です。

ウィキペディアに書かれている当社縁起は
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と述べている。(略)

となっています。
御祭神
神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊

はっきりと、「賀茂別雷尊、賀茂建角身尊」と、賀茂の神が祀られています。安心院の足一騰宮のケースから考えると、玉依姫はやはり、神武天皇が母を祀らせたのかもしれませんね。

神武天皇の移動ルートは安心院から浮羽へと縁起は伝えています。その様子を推理しました。

浮羽の賀茂氏は神武天皇がやってくる以前から、筑紫を貫流する「ありなれ川」が流れていた頃に、船で筑後川の上流に辿りついて産鉄に取り掛かり、地元の水沼族や北部の安曇族と連携を結んで交易を行い、安心院にもその勢力を延ばしていた。


一方、山幸彦の一派が安曇族に通婚し、玉依姫にイハレビコ(神武天皇)が生まれた。イハレビコは成人すると、安心院や浮羽(うきは)を回って武器生産のようすを視察した。

この時代は船にミサキカラス(八咫烏・カチガラス)を載せて干潟や湖沼のようすを調べさていていた。賀茂氏は「先導するもの」として、八咫烏というトーテムで呼ばれた。

そんな流れでしょうか。

賀茂氏の製鉄技術と、安曇族や水沼族の運搬力が早くからシステム化されて、日本の各地を開発していた姿が見えてきました。

その代表例が長野の安曇野です。
また、阿蘇の盆地でも、湖沼の水を抜いて葦原にして、鉄を産し、のちには水田化させています。阿蘇は神武天皇の次男、三男が開発に関わったので、「鉄を統べる者は倭国を統べる」ような状態だったのでしょう。(統(す)べる)

スズ鉄の生産は葦を燃やせばいいので、環境をそれほど破壊しなかったのですが、砂鉄による製鉄は山の木を切り倒して燃やすために、伐採された山はがけ崩れが起こり、水田は土砂で埋もれ、自然災害を伴うような産鉄でした。良質の砂鉄が採れる糸島や熊本の海岸部ではその方法で鉄器を作っていました。

渡来人たちが倭国を目指して来た目的に、鉄や金や銀、水銀があったのがくっきりと見えてきました。それほど、鉱物には魅力があるのでしょうか。

現代人は月や宇宙にロケットを飛ばしていますが、その目的の一つに「資源の開発」があることを考えると、人類って何千年も変わらない性(さが)を持っているようです。



そろそろ転換期に来ていると思うんですがね。


c0222861_21542550.jpg

境内の狛犬。


c0222861_21544448.jpg

境内裏の小塩川。



地図 うきは市(赤) 安心院(青)







いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-08-20 21:58 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(3)足一騰宮2・賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合


賀茂神社(3)
足一騰宮2

賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏の大連合



c0222861_2244456.jpg


「足一騰宮」(あしひとつあがりのみや)という不思議な言葉も、「足が一つ騰がっている姿」即ち、「片膝立てた姿」と考えれば、それが何を象徴しているのか見えてきます。

「片膝立て」とは冶金の民が炎の色を見る時に取る楽な姿勢のこと。言い換えれば、ここには冶金の民がいたということになります。

ここで神武天皇を迎えた宇佐都比古、宇佐都比売は兄妹で三女神の神裔だといいます。(三女神社縁起)。水沼族は三女神を祀る氏族ですが、ここ安心院でも祀っていたことが分かりました。

神武天皇以前に水沼族は安心院(あじむ)に入植していたことになります。三女神社(二女神社)は水沼の聖地だったのです。川沿いにあったので、船着き場を掌握したのでしょう。

一方、神武天皇は磐座のある共鑰山(ともがきやま)に母・玉依姫を祀りました。そして、侍臣の天之種子命(あめのたねこのみこと)と宇佐都比売を結婚させました。それからこの地を「妻垣」(ともがき)と呼ぶようになったといいます。

天之種子命は天皇からここを守るように命ぜられ、その子孫・矢候(やこう・矢野)氏が代々社家を勤めていました。天之種子命については、当宮縁起にも『日本書紀』にも、中臣氏の遠祖と書いてあります。

こうして神武天皇は母の玉依姫を祀るための仕組みを作りました。それは安心院が安曇族の統治する地だという宣言でもあります。

「安心院」(あじむ)という地名は、玉依姫が霊界で「安楽の御心」になったことから「安心」院となったと当宮縁起には書かれています。少し無理があります。

「安楽」は大宰府の「安楽寺」という安曇関係の寺の名であり、「安心」(あんじん)には「安曇」(あんどん)の音韻変化がみられます。あるいは「阿知女」(あちめ)「アジメ」「アジム」と変化したのかも知れません。いずれにしろ「安曇」の発音の変化の一つでしょう。


神武天皇が宇佐に来た時は安曇族の海船に乗り、駅館川(やっかんがわ)を遡るのは水沼族の川船だったと思われます。

その目的は何か。
それはこの盆地がかつては葦の生える沼地だったことがヒントになります。
葦から採れる鉄はスズ鉄(リモナイト)です。

鉄を作るのは賀茂の民。
「足一騰」に象徴されていたのは賀茂の民です

水沼族の本貫地である久留米の赤司八幡神社から大善寺玉垂宮にかけての筑後川には、今なお葦が茂っています。その上流域にうきは市の賀茂神社があるのです。

「足一騰」は星にもその名が付いていました。
「足一騰星」と呼ばれたのは北斗七星です。

c0222861_22451392.jpg


北斗七星が横になった時の形を「一」と「目」即ち「片目」に見立て「一目星」(はなみのほし)とも呼びました。これは炎の輝きから視力を守るために、あるいは集中するために片目を閉じる「一目」(ひとつまなこ)のことです。

賀茂(かも)の語源は燕語の「一目」即ち「かなむり」の倭約で、「かなむり→かも」と変化したものだろうと真鍋は推測しています。その風貌は緑眼鼻高とも言っています。

「足一騰宮」とは賀茂氏の宮だたのでしょう。ここで鉄を生産し、武器を作っていたのです。その現場は隣の佐田神社の方です。

宇佐都比古と宇佐都比売は「三女神の神裔」だということですが、思えば、三女神のうち、二女神がオオナムチと結婚しています。それぞれに二人の子が生まれ、タキリ姫の方にはアジスキタカヒコネが生まれています。このアジスキタカヒコネこそ、「賀茂大神」と言われています。

思いがけず、系図からも賀茂氏の名が出てきました。

そして、中臣氏がここに結婚という形で残りました。中臣氏は祈りを司ります。水沼もまた神と人の仲立ちをする巫女の家系です。玉依姫を祀るための盤石の体制が整いました。

さて、この宮にはもう一つ、重要なものがあります。
馬蹄石の磐座です。

「龍の駒のヒズメの跡」(馬蹄石)といいます。「龍」とは明らかに海神のことで、神霊となった玉依姫がつけた趾とも言われています。

この「馬蹄石」が、久留米の高良山の磐座、神籠石にも残されています。

高良山に残る馬蹄石に関しては神秘書にこう書かれています。
高良大菩薩(この時は安曇磯良)がやって来たとき、山を支配していた高木の神が下って来た。高良大菩薩が証拠として神籠石に付けられた「馬のヒズメの跡の穴」を見せると、高木の神が納得して山を下ったとい内容です。

何故、高木の神が「穴」を見て納得したのか、理由が書かれていないので、当時の常識で、伝わっていない事情があるのだろうと思っていたのですが、どうやら「足一つ」という賀茂氏、あるいは安曇族を象徴するものの可能性が出てきました。
他に馬蹄石の伝承が見つかれば何らかの答えが出そうです。

安心院で見られた賀茂氏と安曇族と水沼族と中臣氏。
この連合が、うきは市の賀茂神社でも、高良山の麓でも見られます。

複雑ではありますが、婚姻を重ねることで、筑紫君が形成され、勢力を拡大していったと読み取る事もできますね。


※ガイドブックをお持ちの方。
「水沼が神と人を仲立ちする巫女を生みだす家系」については「下巻78大善寺玉垂宮」に。
タキリ姫とオオナムチの結婚については「下巻70楯崎神社」に書いています。







いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-08-19 22:47 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(2)足一騰宮1・神武天皇は安心院からやって来た?


賀茂神社(2)
足一騰宮1
 

神武天皇は安心院からやって来た?


賀茂神社、昨日再び行って来ました( ´艸`)

ここには神武天皇がやってきましたが、近くには景行天皇が来ています。そちらも確認したかったのです。

うきは市の賀茂神社は京都や脊振山よりも、はるかに古い伝承を持っています。

神武天皇や景行天皇の味方であり、鉄を産み出せるというで、天皇たちは武器調達のためにここまでやって来たのだろうと思われます。

ウィキペディアを見ると、ここ「山北」に来る前には宇佐にいたことが書かれています。

当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、

「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」

と述べている。(略)
(ウィキペディア)

この宇佐の方にも神武天皇の伝承が濃厚に残っているんですね。そして、実際に行ったところ、神武天皇がいたのは宇佐というより、安心院(あじむ)でした。

周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡って、水沼の君と関わる三女神社(二女神社)に上陸し、葦の生える沼を渡って足一騰宮(あしひとつあがりみや)に足跡を残しています。現在、足一騰宮は妻垣(ともかき)神社という社号に変わっています。

過去記事ですが、賀茂氏、八咫烏について考えるために、この足一騰宮(妻垣神社)のシリーズをしばらく再掲していきたいと思います。




 妻垣神社(足一騰宮)1
ともかき・あしひとつあがり
 神武天皇が母君・玉依姫を祀らせたという

三女神社の次に妻垣神社に参拝しました。
「妻垣」はいろんな読み方があるようですが、神社の由緒書に「ともかき」と書いてありました。

コメントによると、神武天皇三女神社から当社に向かったという伝承があるそうですね。
(同じルートを辿ったんだ!!)

三女神社(二女神社)は周防灘から駅館川(やっかんがわ)を遡上して
安心院(あじむ)盆地に入った時、最初に舟を泊めるような地形でしたが、
そこからさらに支流を遡上していったのでしょう。

平坦な地形から、当時は湖沼で、葦原だったのではないかと思われました。

c0222861_2265490.jpg

今はそこに青々とした稲が風にそよいでいます。
目指す妻垣神社は正面の烏帽子型をした妻垣(ともかき)山の三合目あたりにありました。

c0222861_2271724.jpg

一の鳥居です。かつては石段を登っていったのですね。
今はその横に車道が通っています。
ヘアピンカーブをぐっと登ると神門前に出ますが、駐車場はそれをやり過ごして先の方にありました。

c0222861_2273886.jpg

車から降りて神門に向かいましたが、この参道から入ると、
当社もまた横から参拝するような配置になっていました。

c0222861_2275691.jpg

一旦神門に出て、入り直ししました。

c0222861_2281132.jpg

深い紅色の拝殿です。
当社は二礼二拍手一礼です。
御祭神は
比咩大神(玉依姫命)八幡大神 神功皇后です。

当社は宇佐神宮を中心とした八ヶ社の一つですが、
このように、比売大神に関しては「玉依姫命」と明記してあり、他社と一線を画しています。

その由緒について、書き写しましょう。(一部改変)
妻垣山(ともかき山)は太古、比咩大神の御降臨された霊地にして、宇佐神宮第二殿と言われる。

八幡大神は称徳天皇、天平神護元年宇佐八幡、此の地に行幸、駐輦の地に同年十月八日、勅使石川豊成に八幡の神託有り、神殿を創建し奉祀。

神功皇后は淳和天皇、天長年間に御勧請し奉祀。 

この山は比咩大神の降臨地で、宇佐神宮の第二殿ということです。

当社が玉依姫を祀る事情について、さらに詳しく書いてありました。
足一騰宮
神武天皇、御東遷のみぎり、宇佐国造の祖、莵狭津彦、この処に宮殿を建立、奉賛餐せる旧跡で、当時、天皇、天種子命を以て、神武天皇の母后玉依媛命を祭らせ給う。

当社は比咩大神を祀って八幡社と号し、かつては普賢寺以下四坊の神宮寺を擁し、当郡、中津、島原の領民百余村の氏子を有し、宇佐郷の宗社として崇敬され今日に至る。

神武天皇が東遷の時に、莵狭津彦が宮殿を建てて、もてなした旧跡で、
天皇が母君を天種子命に祀らせたということですね。
それゆえに、比咩神とは玉依姫だということです。
思いがけないところで、玉依姫に再会しました。

さて、足一騰(あしひとつあがり)の宮。
この不思議な名前の宮は『古事記』に出て来ますが、
いつかは行って見たいとかねがね思っていた宮でした。

神武天皇と宇佐津彦の伝承と共に、こうして現地が残っているとは感激です。
『古事記』の神々から抜粋してみましょう。

イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、
高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、
臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」
と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。

そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、
その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が
足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。

そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。
またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年刊滞在しました。
さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

イハレビコが後の神武天皇ですが、母が玉依姫ですね。
イハレビコを迎えて食事をもてなしたのがウサツヒコ、ウサツヒメですが、二人は兄妹だそうです。

当宮から岡田宮に移動しています。
岡田宮は一宮神社という名で、熊鰐一族が現代に至るまで、
その磐境神籬(いわさかひもろぎ)を守っていましたね。

どちらもその神籬を守っているのですから、素晴らしいです。

神武天皇もまた、祖神を祀って神助を得る事が大移動の一つの目的でした。
ほかには、物部氏に迎えられて馬見山の祖神を祀りにも行きましたね。

そして、ここは?
縁起からは、神武天皇が玉依姫を祀らせたのですが、
もともと別の目的があって来訪したはずです。

当地は真鍋大覚の記述から、鉄を作っていた所と考えています。
神武天皇は武器の調達に来たのではないか。

それは「足一騰」という言葉そのものが教えていました。

(つづく)


妻垣神社




一宮神社や岡田宮については、ガイドブック上巻2に書いています。
サイドバーからもどうぞ。

安心院シリーズ全体を読み通すにはサイドバーの「宇佐・安心院トレッキング」からどうぞ。






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-08-16 21:25 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

賀茂神社(1)賀茂大神はここに天降りして、八咫烏となって神武天皇をたすけた


賀茂神社(1)

うきは市
賀茂大神はここに天降りして、
八咫烏となって神武天皇をたすけた


前回の「ミサキカラスと太陽の船」を描いた珍敷塚古墳(めずらしづか)。
地図を見ていると、うきは市の吉井町にあります。

そして、話題にした「賀茂氏と八咫烏」の伝承を伝える賀茂神社は何と、お隣の浮羽町。(浮羽郡(うきはぐん)の時代の地図を見ています)

東にわずか6キロ弱です。
その近くには国指定の装飾古墳がずらりと集中しているではありませんか。

新しい地図を買いに書店に行ったのですが、うきは市の地図なのに山の方は載っていなかったので、買わずに帰ってきました。

古い地図を拡大コピーしましたが、これには賀茂神社が載っていない (^_^;)

思い余って、観光協会に問い合わせて、観光マップを取り寄せました。翌日には、到着したんです!そして、「うきは市の文化財」「うきはの装飾古墳」という、装飾古墳の冊子も入っていました(^o^)/

その冊子には地図と、出土品の展示場所も書いてありました。これで「うきは市」の装飾古墳群の概要が見えてきました。

「うきは市」って「浮羽」「生葉」-そう、葛城襲津彦が秦氏を朝鮮半島に迎えに行った時に、共に行動した氏族の本貫地です。『日本書紀』に書かれた人たちの故郷が福岡にあるんです。

そして、そこには名だたる装飾古墳がずらりとあるのです。
月岡古墳
日岡古墳
珍敷塚古墳
原古墳
鳥船塚古墳
古畑古墳
重定古墳
などなど。

教科書で見て憧れた古墳も!

例の「太陽の船」は珍敷塚古墳以外でも描かれていました。


古墳の被葬者は必ず氏神を祭祀していたはずですから、古墳の周囲の神社のチェックは怠れません ^^



少し離れていますが、まずは賀茂神社を押さえましょう。

地図 珍敷塚古墳(青)  賀茂神社(赤)





くじらさんから、次のようにコメントをいただいていました。
それから5年も経っていました(+_+)

くじら
浮羽町山北 物部郷への入り口に賀茂神社があります。

「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」と旧記に記されています。
 引用元 http://ja.wikipedia.org/wiki/賀茂神社_(うきは市)

近くの高山(香山)の麓には古来より鵜飼を業となす人々、あるいは鍛冶職の人々も数多く住んでいました。加茂氏族も物部氏族も徐福と共にやってきたとも言われており、古久留米湾の干潟最深部である的邑に、ゴンドラ型の小舟で葦をかき分けやってきて住み着いたと考えられます。いずれにせよ渡来系氏族のごく初期の形態のなごりがこの地には観られます。



るな
すごい情報をありがとうございます。句読点の区切りごとに、たくさんのメッセージが入っていて、返事の書きようがありません。沢山のパズルがつながって来ました。

何層もある時代の地層の中の、それぞれの地図が明らかになる。そんな感じです。一つだけ教えていただけたら。

「物部郷」という言葉は古来から言われているのですか?また、最近クローズアップされたのですか。その流れをよかったら教えてください。

くじら
この地はおそらく『和名抄』に記録されている筑後国生葉郡物部郷のことだと思われます。『太宰管内志』ではその物部郷は「今は 廃れてなし」とされていますが、浮羽物部本家 当主の話では、少なくとも磐井の乱の時代から連綿として存続しているということでした。

そもそも浮羽の山中には製鉄地名が数多く残されており、明治までは外部の人間を一切入れなかったと聞いています。
http://ameblo.jp/pikkipikki/entry-10441301868.html

物部氏と加茂氏(秦氏)、共に製鉄氏族なのですが、物部氏は主に兵器類を、加茂氏は農具類を製造していたと聞きます。

なお、浮羽の山中には現在も物部氏の末裔が守っている高御魂神社が存在します。いつも敬虔な気持ちで参拝させていただいています。

るな
物部氏と加茂氏。兵器と農具。-漠然と想像していたのを、はっきりと書いていただいて、とてもスッキリしました。

浮羽の山中なんですね。製鉄が行われていたとは。外部の人を入れなかったなら、伝わらなかったはずです。

あのあたりは、イビザ・森の音楽館から内山緑地あたりまでなら、イメージがあります。よく行ったのに、古墳には行ってません。

高御魂神社ーさっそく地図で調べます。星野に行く途中にあった神社かなあ。いい感じの神社がありましたね。
浮羽にも巨石の盤座があると聞いていて、それも行かずじまいです。
情報感謝します。


以上が五年前のやりとりです。ようやく行くことができました。





福岡では珍しい赤い神門です。

c0222861_21543876.jpg



後由緒

当社は太古よりの霊地で、賀茂大神の御神蹟とも旧記に述べられ、神武天皇御東幸の聖蹟と伝えられ、八咫烏に化した賀茂大神の御先導より大和へ進まれたとあります。(後略)







c0222861_2155514.jpg




c0222861_21552040.jpg

清らかな川が流れていました。






c0222861_21553739.jpg

御祭神
御祭神は

神日本磐余尊(神武天皇)
賀茂別雷尊
賀茂建角身尊
玉依姫尊

です。

賀茂氏がここに入植していたところ、神武天皇が宇佐からやって来て合流して東征したということになります。
だからでしょうか、神武天皇とその母・玉依姫も祀られています。でも、最後に書かれているので、賀茂玉依姫のことかも知れません。

(つづく)





いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-08-14 21:57 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(6)

高良玉垂宮神秘書・ミサキカラス

高良玉垂宮神秘書

ミサキカラス


先日、こんばんわんさんから、古代日本の帆かけ舟の線刻画が紹介されました。

c0222861_21282969.jpg

3世紀の岐阜県大垣市荒雄南遺跡から出土した土器に描かれた三隻の船のうち二隻は帆かけ舟だということです。中央の吹き流しの様子など、生き生きと描かれています。

多くの櫂(かい)はクフ王のピラミッドの脇に埋納されていた太陽の船を思い浮かばせます。



c0222861_21285556.jpg

(画像出典 ウィキペディア)
エジブトで復元された太陽の船の画像を見ると、多くの櫂が躍動的です。テレビで見た復元船には帆がついて、優雅にナイル川を通っていました。



c0222861_21294159.jpg

これは、先日紹介した「ふくおか古代ロマンの旅」(福岡県大阪事務所)のイラストです。

上が福岡のうきは市の珍敷塚古墳の壁画。下がエジプトの紀元前14世紀ごろの壁画。下の画の舳(とも)を見ると、撞木鮫(しゅもくざめ)のような形をしています。
先程の荒雄南遺跡の舳の形はそっくりですね。

これらは、いずれ古代エジプト人の渡来を裏付けるものになることでしょう。海には国境はなく、古代人にとっても海洋は境界のない自由な世界だったようです。




日本とエジプトに共通する太陽の船の舳先(へさき)にいる鳥が今回のテーマです。


c0222861_2130314.jpg

珍敷塚古墳では赤い色で描かれていますが、その姿はカラスを思い起こさせます。足、何本かな?よく分からない。

昨日、過去記事の八咫烏を再掲したのは、この「カラス」について考察したかったからでした。


c0222861_21312024.jpg


このカラスは大善寺玉垂宮の縁起絵巻にも描かれています。しかも石人の上に止まっています。これは二本足です。

この武人像が「石人」(せきじん)であるという理由は他の人物(この画像外)が多色で描かれているのに対して、単色で描かれているという点にあります。

先日、久留米大学で吉田氏がこの武人像は磐井ではないかと発表されたのですが、カラスのことは分かりませんでした。ところが、思いがけない所にその解答が書かれていたのです。それが「高良玉垂宮神秘書」の中でした。

このカラスは「ミサキカラス」と言いました。142条

【訳】(酒見から)大菩薩は御船に乗って黒崎に上陸されて、住む所を探して御覧になると、北の方角に山があり、そこが良いと思われ、御旗を三流れ投げられた。旗はほどなく飛んで上宮の上に立ち靡いた。旗が靡くその方向を旗崎と名付けた。

また一説にはその三流れの旗が届いた?ともいう。背後を固めの兵に任せて登られた。

瀬高イチカウラへ馬で行き、山の景気をご覧になったのでイチカウラという地名がついた。

その後、遥か彼方に人が大勢見えた。「異類が攻めて来るぞ」と思われて、ミサキカラスを遣わして調べさせた。すぐに行って彼の人を噛んだ。「人形だ」と言われたので「人形」と名がついた。


大勢の人がいて、異類(異国人)に見えたので、高良大菩薩は「みさきからす」を遣わすと、カラスが人に噛みついても全く動かなかったことから「ヒトカタ」と分かった訳ですが、これが石人を指すと考えられます。

石人石馬は磐井の時代のものですから、大菩薩(安曇磯良)3世紀初頭と時代が逆転している点は、前述の仏教の話と同様、時代が分からなくなっていたからでしょう。

そうすると、この人形の話は創作となる訳です。が、大善寺玉垂宮縁起絵巻が高良山と同様の縁起を伝えていることは押さえておきたいと思います。

今回のテーマである「船の先に描かれている鳥」は筑後では「ミサキカラス」と呼ばれていたのが分かりました。「みさき」を頭注では「御前」と書いていました。

真鍋はカチガラスが八咫烏であり、賀茂氏がそれを伴って縄文弥生には渡来していたように書いています。賀茂氏は「隻眼一目の神」と崇められたともいいます。鉄を作り、金銀を作っていました。


八咫烏=ミサキカラス
国によって、地方によって言い方が違うけど、船の先で安全を確かめて導いてくれる鳥のようです。










いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-08-11 21:36 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(0)

神秘書・神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか。(2)

神秘書・

神功皇后の船は
三本マストの竜骨船だったのか。(2)

前回は、弥生末期に帆柱の船を作ったという伝承が周防灘周辺各地に伝わっている話をしましたが、その船の構造について「高良玉垂宮神秘書」に書いてあるので、今回はその条を読んでみます。

(カタカナと漢字の原文を平仮名と漢字に直しています。一部の漢字には綾杉の解釈が入っています。)

213条
【訳】異国征伐の時、御船を作られたことは、神功皇后が阿弥陀如来の変化でいらっしゃるからで、六十八チウセの悲願を起こし、人倫苦界の衆生を御救いになった法蔵比丘の誓い四十八願を忘れずに四十八艘の船を作られた。

御船の長さは天神七代、地神五代合わせて十二代を表して十二丈と定められた。ともは五色で、五仏を表す。舳先(へさき)五色は五躰尊不動を表している。中の船ハリ四つは四天王、ともの船ハリは金剛界の大日、へさきの船ハリは胎蔵界の大日を表す。

以上、船ハリ六本である。三本の帆柱は過去、現在、未来を表している。船の名は竜頭鷁首と名付けた。


上記には検討すべき問題がいくつかあります。思いついた課題は次のものです。

1)船の設計理念が仏教によるものである。仏教伝来と時代が合わない。
2)船には三本の帆柱があり、竜頭鷁首であった。
3)三本マストは神功皇后の時代のものか、神秘書の成立時代のものか。

1)船の設計理念が仏教によるものである。

「神功皇后が阿弥陀如来の変化(へんげ)」と書かれています。神功皇后は香椎菩薩とも言われていますが、ここ高良山では阿弥陀如来の化身と考えられていました。

しかし、仏教の説明は時代が合いません。手掛かりが「法蔵比丘(びく)」です。

建造した船の数の「48」という聖数は「法蔵比丘(びく)の誓いの数」が起源と書かれています。「法蔵」を調べると643年生まれで 712年没。中国唐の時代における華厳宗の僧となっています。

時代が明らかに逆転しているので、213条に書かれた船の構造に仏教の思想に基づくという説明は後付けの作り話だということになります。
 


2)船には三本の帆柱があり、竜頭鷁首であった。

「竜頭鷁首」は原文は「リウトウケキシウ」となっています。
「竜頭」とは船首に竜の彫り物をしたもの、「竜頭」とは「げき」という想像の鳥の彫り物をしたもので、二艘一対の平安時代の船です。


c0222861_21114191.jpg

画像はフォト蔵より

竜頭鷁首に関しては、平安王朝文化と神功皇后を結びつけた想像の話でしょう。



3)三本マストは神功皇后の時代のものか、神秘書の成立時代のものか。

三本マストについてウィキペディアで調べると、地中海では紀元前7世紀にはマストが付けられ、三本マストの最も古い記録が紀元前240年ごろに出て来るとあります。

当時、フェニキア人が地中海から外海にでてスペインへ行った記録も書かれています。フェニキア人というと、琉球大学の木村教授が与論島沖の海底遺跡はフェニキア人のものという説を出してあります。

真鍋の家伝にもフェニキア人が日本にやって来た話が次のように書かれています。

(双子座の一対の星、カストルとポルックスは)地中海では、北極星以上にこの方が航海目標になっていた。Troyaトロヤ人Phoensiaフェニキア人は、いずれもこの星を仰ぎ見て行方をさだめていた。

そして船の檣(ほばしら)に電光なるSt.Elmoセントエルモの炎が輝く時、嵐がいかに猛り狂っても、その船だけは神に守られると信じていた。しかしその子孫がいつの頃か極東に進出した後はこの神話を語る倭人はなくなっていた。

替って風神天女が帆柱の上を舞うと嵐はやがて静まるという奇蹟にも似た伝説は仁治元(一二四一)年のころまで筑紫に語られていた。

 西海は神代のころ志那都比古命を祀り、これを日夜拝んで船の行方の平らけく安らけきを祈る信仰があった。『儺の国の星』p188
 


トロヤ人やフェニキア人は、帆柱の先端が発光すると嵐が収まることを知っていました。彼らは極東(日本)に来ていたのですが、その話がいつしか消えました。しかし、その発光現象が風神天女の舞という形に変化して伝わっていたといいます。


また、真鍋は他に、ウラルアルタイ民族の巫女の部屋に鳥の首の彫刻を飾りつける習慣があり、これが天鳥船(あめのとりふね)の守り神として、港や岬の石塔に竿につけて建てられたとも書いています。

この双子座を筑紫では聖母星と言い、「神功皇后と皇子」に見立てていました。

鳥の首、船、二つ星(双子・神功皇后母子)。

どことなく星の伝承と神功皇后の船、竜頭鷁首が重なってきます。

神秘書を書いた保房(やすふさ)は戦国末期から江戸初期を生きた人。彼の記憶には千年以上も前の皇后の面影がこのようなキーワードで残っていて、言語化するとき、一対の竜頭鷁首やマストの話となってしまったような印象を覚えます。


真鍋はフェニキア人についてさらに次のように書いています。

うみへび座のアルファド星を飛廉(ひれん)の星と言う。

フェニキア人(比鸞人・ひらん)が日本に渡航したのは、エジプトの第26王朝ネコ二世(前611~595)が、喜望峰を東に船隊を派遣した頃から始まっていた。
プトレマイオス(前304~30)の世界地図に現在とほとんど変わらぬ極東の形が描かれているのがこの背景にある。


飛廉(ひれん)とは風の神で、三韓征伐の時の倭軍の船をたすけた神です。

真鍋家ではフェニキア人が紀元前6世紀頃には日本に渡航したと伝えていたようです。


三本マストの船を持つフェニキア人が渡来していたなら、皇后の船に三本の帆柱があった可能性も充分にあります。

さて、「三本の帆柱は過去、現在、未来を表している。」と神秘書に書かれています。「過去・現在・未来」と、近代的な発想で語られている点にとても驚いたのですが、これも仏教思想の影響で、保房が考え付いたものではないかと思われます。


ところで、保房が生きていた時代、中世末期から近世初期といえば、南蛮船が渡来していたはずです。南蛮船が三本マストだとすると、保房が南蛮船から連想して書いた可能性もあると思い、画像を探してみました。

c0222861_2115263.jpg

画像出典
http://www.bungobunka.com/pro22.html


ありました!これは三本マストですね!保房が南蛮船を見たり聞いたりした可能性も出てきました。そのため、神功皇后の船も「かく在らん」と考えた可能性もあります。だからと言って、皇后の船が3本マストではない証拠とはなりません。

以上、神功皇后の船にマストがあったことは確信しますが、3本だったかどうかは、213条だけでは決定できませんでした。



次に竜骨について。

237条
【訳】大善寺の名の起こりは、高良山の寺社が始まった月に大菩薩のお言葉に「大いに善き所」とあったので、大善寺と付いた。大菩薩が高良山へ来られる前に、九月三日、大善寺に上陸され、五日間逗留され、船を検査し、カウラを捨てられたことから、御舟山という。七日の午の刻から舟を仕立てて酒見へ上陸され、波風の神(少童神)をおさめ、天の二十八宿、地の三十六、二十五余り併せて九十九尊を祀られた。のちには風浪権現として祀り、やがて九十九社とした。(略)


文中、カタカナのまま書いた「カウラ」を注では「竜骨」としています。

久留米の大善寺玉垂宮はその船が御神体とされています。船をどうやって御神体とするのかイメージが湧かなかったのですが、竜骨が御神体とすると、うなずけるものがあります。

酒見には風浪宮があり、近くに国際港だった榎津があります。そこから筑後川沿いに大善寺まで大型船が乗りつけられたんですね。

安曇族は大陸との交易を考えた時、風浪宮と大善寺玉垂宮は絶対に譲れなかったとみえます。

磯良(高良大菩薩)は乗り捨てた船を検査すると傷んでいたので、新たに小さな船を作った話が神秘書の中にも数カ所に出てきます。

ガイドブックでは風浪宮から大善寺玉垂宮へと筑後川(古有明海)を遡ったという仮説を出しています。神秘書でもそれが裏付けられました。ただし、いったん黒崎に出たと書いてある点が、ガイドブックとは違っています。

77番 風浪宮
78番 大善寺玉垂宮
合わせて読んでください。ブログの方ではまだ仮説を立てるに至っていません。

以上、神秘書の「神功皇后の船は三本マストの竜骨船だったのか。」という課題に対して、その可能性はあると考えました。




いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-08-08 21:16 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(27)

高良玉垂宮神秘書 神紋と鎧 ・玉垂命と覆面


高良玉垂宮神秘書 
神紋と鎧 
玉垂命と覆面


実は御縁をいただいて2012年の臨時の勅使祭の行列に加えてもらい、鎧と甲を載せた車を引かせていただきました。

高良玉垂宮の祭神、三柱にそれぞれ鎧と甲がありますが、御神紋を知らなかったので、どの神の御神宝を引いたのか分かりませんでした。

「高良玉垂宮神秘書」にそのことが書かれていたので、今日はそれを確認したいと思います。まずは御祭神のこと。

一五三条 一、左宮 宇佐八幡大菩薩   (末梢文字)
一五四条 一、中宮 玉垂大菩薩     (末梢文字)
一五五条 一、右宮 住吉大明神     (末梢文字)
一五六条 一、善神王 左本地 或は両部大日 右本地 或は不動毘沙門

中宮が玉垂大菩薩です。左宮に八幡大菩薩、右宮に住吉大明神。それぞれの神に関して説明があったのですが、消されてしまっています。

玉垂大菩薩が誰であるのか。私は「安曇磯良とその奉斎する綿津見の神」という立場を取っています。

一言でいうなら「安曇磯良」となりますが、現在、高良大社では「武内宿禰」とされています。それは江戸時代からの流れです。この神秘書が書かれたのはその少し前、中世末期です。

ここで注目したのは156条の「善神王」です。これこそ武内宿禰ですね。これで、玉垂大菩薩は武内宿禰ではないことが明らかになりました。

多くの宮で祭神が変遷していますが、ここでも、もともと安曇磯良だったのが、武内宿禰に変わったと考えています。

安曇磯良とする証拠も見つかりました。
22条(祭礼の次第の事)一、大菩薩抱き奉る次第の事、覆面の絹一疋、(略)

高良大菩薩に奉納するのが「覆面」の絹です。これこそ安曇磯良の顔を覆う白い布だと思います。

鎧の色が書かれていました。
40条(幸行有る時の次第の事)
一、住吉の御鎧白糸、八幡の御鎧黒糸、大菩薩御鎧緋縅。(略)


祭神の鎧は糸の色で区別が付けられています。住吉は白糸、八幡は黒糸、高良大菩薩は緋縅(ひおどし)。赤色ですね。


c0222861_22202138.jpg

最前には赤い糸!高良大菩薩です。そして、神紋は木瓜(もっこう)。
次に見えるのが黒糸!八幡大菩薩ですね。神紋は巴(ともえ)です。
最後は住吉ですが、よく見えません。



c0222861_22204554.jpg

この写真も駄目だな。住吉神の鎧は何故か上手く撮れていない。これは真横から撮ったものです。背の方に白い糸が編んであります。神紋は「五七の桐」。横向きです。これを「桐の臺(とう)」ともいいます。



それぞれの神紋の由来も書かれていました。
309条【訳】住吉の御紋に桐の薹を使われることは、鵜戸の岩屋でウガヤフキアワセズの命をお生みする時、御産屋に桐の葉を敷かれたことによる。

産屋の傍の板も桐の木である。その桐の木、桐の葉を採った所を桐嶋と名付けた。これにより、異国を攻められた時も桐の薹を御紋として御攻めになった。

住吉と申すはヒコナギサタケの御ことである。

ちょっと説明がいるけど、住吉神はウガヤフキアエズの事だと書かれています。産屋(うぶや)に桐の葉を敷いたことから桐の紋になったと書かれています。

住吉=ウガヤフキアエズ
これは意外な展開になりました。住吉に関してはもっと調べようと思っています。


さて、話を戻しましょう。次。

310条【訳】八幡の御紋は神功皇后が異国追伐の時、八幡を懐妊されていて、御舟の前の水の渦を御覧になって御紋とされたので巴である。


八幡が巴紋だという理由は、神功皇后が八幡をお腹に宿しながら見た水の渦目を見たので渦巻の巴紋になったということです。

そして、高良玉垂命は?
311条【訳】高良の御紋の木瓜(もっこう)のこと。

神功皇后が筑前国四王寺の嶺で大鈴を榊の枝に掛けて七日間、異国の退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開けて四方に光を放ち、四王寺の嶺に降られた。

四方に開けた白雲は四天王である。御紋の中に四本の鉾を抱えているのは四天王の鉾である。これをそのまま門光(もんこう)と名付けた。

異国追伐の時の高良の御紋はこれである。四方に光を放っているので門の光と書く。高良、四天王に従して天下られる所を四王寺が嶺と名付けた。



c0222861_22221658.jpg

これが高良山の御神紋の木瓜紋で、門光とも書きます。
神功皇后が四王寺山で祈った時、白雲が現れ、四つに分かれて光を放ち、その中央には四天王の鉾が現れたということです。

この文は第一条よりもオリジナルに近いかなと思っています。これが一条では住吉神に変わってしまい、神秘書の中で矛盾が起こります。

このからくりがようやく分かりました。今回は話が逸れるのでまずは紋の話までにしましょう。


で、3年も前の祭だったので、どの神さまのものを引かせていただいたのか、もう記憶がありません (^_^;)

御紋のこと知っていたら、覚えているでしょうけどね。
締まりの無い結果になりました(/・ω・)/ .





いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2015-07-29 22:26 | 高良大社・玉垂宮・久留米市 | Trackback | Comments(12)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー