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ひめちゃご18 景行天皇の三女神信仰から見えるもの



ひめちゃご18

景行天皇の三女神信仰から見えるもの
 



そういえば、景行天皇は三女神の縁が深い。
景行天皇が三女神を祀った宮が二つあったことを思い出した。

一つは朝倉の福成神社。
もう一つは久留米市の赤司八幡神社である。

そのいずれもが水沼族の領土だったと考えてよいだろう。
そこは筑後川水系である。



景行天皇を道案内したという「猿大海」(さるおおみ)の館は
赤司八幡神社にあったという話を宮司から伺った。

猿大海は景行天皇を自分の館に連れて来たことになる。
天皇はそこで詞壇を構え、三女神を祀った。
その三女神を「道主貴」(みちぬしのむち)という。

『日本書紀』では「三女神を祀っているのは水沼の君」という伝承も書いていて、
その現場がこの赤司八幡神社となる。

「水沼(みぬま)三女神」と「宗像(むなかた)三女神」は違うのか。
否。
同じだと思う。

多分、「みぬまさま」という意味で「みぬま方」と言われたのが
「むなかた」に訛ったのだろう。

水沼族は水軍を持っていたが、筑後が洪積平野となっていくにつれて、
水軍力が発揮できなくなった。

のちにその水軍力を玄界灘で発揮したのだと思う。
そのきっかけは三韓遠征だったと考えている。

筑後川は有明海が深く進入していて、干満の差が激しかった。
そのピークは一日に50分ずつずれていく。
月の観測は欠かせない。
月の観測に長けていた水沼族は太陽暦との調整も長けていた。

だから、川から海へと拠点を移しても新しい環境にうまく順応したのだろう。


この月の観測が「水沼」という巫女の祭祀を支えた。
満月の夜に月の変若水を水に写し、貴人に捧げたのが「水沼という巫女」なのだ。

そうすると「みぬま」は月の巫女であり、水の巫女でもあったということになる。
その巫女がそのうちに神と称されたという。

「みぬま」-「二女神」-「月の女神」「水の女神」
そんな流れが心に浮かぶ。

「ひめこそ」は「星の女神」「水の女神」といったところか。

水沼については、「下巻56赤司八幡神社・78大善寺玉垂宮」を
併せて読めばそのあらましが見えると思う。


水沼の三女神がどれほど重要だったか。

それは景行天皇が自分の代わりに国乳別(くにちわけ)皇子を
天皇代行として置いたことからも良く分かる。

この国乳別皇子が猿大海の姫を娶って水沼の祖となった。

もちろん、『祖』というのは『日本書紀』独特の書き方で、
古来、水沼君はずっと三潴(みずま)にいた。


三女神信仰は、つぎに、福成神社(下巻53)にも出てくる。
ここでも三女神を祀ったのは景行天皇だ。
のちに神功皇后、そして斉明天皇・天智天皇が参拝する。

そう、ここで再び景行天皇と天智天皇の名が重なった。

矢部川水系には安曇の名が見えた。
筑後川流域に水沼がいて、棲み分けをしていたのではないかという
古代の姿がおぼろげに浮かんでくる。

しかし、神功皇后によって大善寺玉垂宮は安曇に与えられた。
だから、氏子たちは、そこはもともと女神だったというのだろう。

三女神から玉垂命へと信仰を変化させたのは神功皇后だ。



三女神あるいは二女神信仰は景行天皇の時代までは
赤司八幡神社を最上の聖地とし、
大善寺玉垂宮はその湊として栄え、
弓頭神社は政治の地として栄えた。
そして、福成神社は水軍の訓練地における聖地だった。

こうして三女神信仰すなわち水沼君は久留米市から朝倉にかけて、
広大な領域を支配していたと考えている。

水沼君が筑紫君の始まりだった。



ここまで書いていて、今、思い出した。
大己貴信仰の宮も「大己貴神社」(旧三輪町)(上巻42)
「美奈宜神社」(林田上巻43)と、筑後川水系にあった。
この大己貴の神々もまた三韓遠征の時に玄界灘を体験していたのだ。

そうすると、二女神と大己貴の縁組はこの筑後川流域の話だったのだろうか。







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by lunabura | 2016-09-19 23:13 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

磐井の拠点


磐井の拠点


先日から『高良山雑記』をピックアップして整理していました。
今回は磐井に関する三文を考察します。例のごとく口語訳します。

① 磐井城址 磐井川の東川端に在る。
② 磐井城址 大祝(おおほうり)屋敷の前。

①と②は数回前に書いた磐井城のことです。

磐井城 二つ城だった
http://lunabura.exblog.jp/21985183/


①の「磐井川」とは高良山の登り口にある放生池の元の姿です。
その東川端ですから、水明荘の跡を指しています。

c0222861_1864414.jpg

(高樹神社より、磐井城全景)


②の「大祝屋敷」の位置はもう一つの磐井城の麓に当たります。
磐井城はツイン城だったのが分かったので、どちらも地形と一致しました。

①と②の関係については地形から①が本城ではないかと考えています。
②の地形はフラットな部分が多いので、軍団などが控えていたのではないかと考えました。
(あくまで想像です)

地図





さて、次の③は上掲書の附録「高良内管見」という部分から抜き出したもので、
「高良内」(こうらうち)について書かれたものです。
「高良内」は高良山から流れ出す丘陵と、明星山から流れ出す丘陵の間の扇状地です。

ですから「高良内」から見ると、左に高良山、右に明星山が見えます。
そこから見る明星山は円錐形をした美しい姿をしています。


地図 高良内 明星岳 八女



(写真をクリックすると、古代の地形のイメージがつかめますね)



③ 明星岳 
明星岳、一名般若方谷山(大祝家記)は高良内の主人公とも見るべき山である、頗(すこぶ)る有名であり、天嶮であり、又歴史に富む。

山は大般若、寺尾、マイラズ谷、ツクモジ等に到る。城趾もあり、寺跡もある。(略)

頂上より望めば(略)左右に回顧すれば筑前・豊前・豊後の諸峯が見える。大概四方が望めて隈なしとも言える。当山の形勢は自然の城塁をなして嶮岨だ。云々。

矢野一貞は更に当山の史跡につき、次のように述べている。

上古、天津赤星が此の要害に拠る。
武内大臣久しく此山中にて西海を監護す。

筑紫君も代々当山に処る。

磐井に至り、ますます要害を堅くしようとして、当山の東北カマ石谷と云う所より磐石を切り取って、今の社地の所に岩構えをなして住んだことから、岩井の名称は起ったようだ。

このカマ石は構石(かまえいし)に取れることより此名を残したのだろう。今も数百の磐が山中にあって、石鑿(のみ)のあとが所々に残っている。

こうして、この肥・豊の四つの国を横領し、六国の主となり、終に叛逆を謀(はか)る討手が下るに及び、天嶮を捨て広野に進戦し一戦にして亡びた。これは磐井の失策ではなく、天誅から逃れられなかったのである。

正中年中に菊地氏西征表軍宮を奉し、小弐大伴を征した時も、文中年中の時も、高良山を本陣として当山にも拠点を構えたらしい。

菊地の族高瀬氏二代居城。
原田親種籠城。

文中年間の事を記したものに、高良山は峯平らかで麓嶮しく、後は深山なので道もなく、前には筑後川を界にして東南水縄(みのう)山、柳坂、高良が岳といって三所の塁を構え、と云っているが、「高良が岳」即「当山」であること疑いなし(略)

天正十四年に薩摩勢が高良山を攻め取ったのは高良内の方より攻め上ったと聞く。(高良内管見)



明星岳は傾斜の厳しい山で山頂からは四方の眺望が効き、
筑後平野のみならず、筑前、豊前、豊後の峰々が見えるといいます。

物部の天津赤星がこの天然の要害に拠点を持ち、
竹内宿禰もまたここから西海を観護したといいます。

そして、なんと代々の筑紫君も!!
(そうすると、筑紫君の拠点は筑後にある?)

そして、筑紫君・磐井もまたここに住んだといいます。
ただ、「今の社地の所に岩構えをなして住んだ」の「今の社地」が唐突に出てきました。

文脈からは頂上部の要害と思われますが、ネットで登山記録を調べると、
「明星山城」が存在しているようで、厳密には頂上部ではなさそうに思われます。

やはり現地調査しないと居城は決定できないのですが、
この明星山に磐井の城があったと考えてよいようです。



しかし、ここが本城だとすると、籠城には向くのでしょうが、戦いには不向きです。
敵が襲って来るのを待つより、麓で迎え撃つ方を良しとしたのでしょう。
磐井の君は山城から出て、高良山麓の磐井城に構え、さらに麓で対峙したと思われます。



地図を見て分かったのですが、
明星山は八女から見ると、北にある重要な山なんですね。

古代の人々の精神的な支えとなった山なのではないかと思われました。
その南の丘陵地帯に都を構え、多くの文物が船で運ばれて繁栄したのでしょう。

そして、有力者たちの古墳が次々に作られ、明星山には山城を築城。

古代の朝鮮半島では「山城と都邑」がセットで作られたケースが多く、
新羅や百済からの情報も入って来る八女では
同じように「都邑と山城」という単位で国造りがなされた可能性も考えられます。

その仮定を元に、明星山の麓に代々の筑紫君の居城「筑紫城」を
探してみたくなりました。

磐井の君はさらに北の守りとして、高良山麓にもツイン城を築城。

城と城をつなげば何処を守っているかが見えてくるはずです。
古代のありなれ川は陸地化しても、戦略的に重要な所とは決まってくるものです。



物部麁鹿火軍が押し寄せて来くるのを明星山で早くから目視し、
都を踏みにじらせないために、磐井軍は平地で迎え撃つ戦略をとった。
当方が有利で、敵が不利な地点を決戦の地として選び、両軍が対峙した。

そんな想像が生まれました。


八女(やめ)をこんな観点で見たことがなかったので、
現地調査すると、また感想が違うかも知れませんね。

今回は地図と文献から磐井の君の城と都を妄想してみました。


※『高良山雑記』とは
久留米藩士・稲次成令翁(1849~1932)の聞書から、浅野陽吉翁(是々、1868~1944)が
抄録編集したもの。それを古賀寿が出版。





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by lunabura | 2014-04-15 19:04 | 高良下宮社と周囲・久留米市 | Trackback | Comments(0)
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