ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

タグ:佐賀県 ( 76 ) タグの人気記事

ひめちゃご38 朝日山宮地嶽神社



ひめちゃご38

朝日山宮地嶽神社
 




さて、昨日は天気に恵まれて、冬至に近い太陽の位置を感じながら、
東から西へと動いて行った。

今日は、その時訪れた朝日山の宮地嶽神社について書いておこう。
「ひめちゃご36」の続きだ。


12月8日。11時頃、鳥栖市の朝日山に着いた。
中腹までは車で登ることができる。
駐車場があり、公園化されているが、そこから先は徒歩だ。







c0222861_23551315.jpg

長い石段をいくつも上っていくと、山頂に出る。







すぐに社殿が目に飛び込んできた。








c0222861_23553669.jpg

その前に立つと太陽が背中にあった。

つまり、宮地嶽神社は南面していたのだ。
すなわち、参拝者は北に向かって祈ることになる。
そのはるか向こうに宮地嶽神社の総本山が控えていた。


「宮地の星」が北極星を指すなら、
日が暮れても安曇の氏人(うじびと)は北極星を見つければ
その長の居城が分かることになる。

朝日山と宮地岳には祈りのレイラインが存在した。









ここからは唐津も筑後も、宝満も、また嘉穂アルプスも見渡せる。




c0222861_235682.jpg


この日もPM2.5のガスが掛かっているが、
ぼんやりと嘉穂アルプスの稜線が見えた。

夏至の日にはそこから太陽が昇るのだ。ワクワクしてくる。

地名と山の名が分かると、自由になった思いがした。
自分が何を見ているのかが分かるのは新しい体験だった。

さて、この朝日山にこだわるのは思いがけない伝承があるからだ。


「筑後國御原郡東郷山隈原」というブログに、
「花立山と朝日山」という記事があった。
http://blog.goo.ne.jp/garyu704/e/de6448ebe0932c1f60f6997a23a4a806


「朝日山」の名称の由来について、思いがけない話が書かれていた。
磐井の君に関する話だった。

<「昔、筑紫何某、此山に城郭を構へ、軍をしけるに、敵寄せ来る度毎に、
朝日の光に湧出して、此山眩しく見えければ、敵怖れてかかる事なし。
古は丸山と伝ひしを、夫れより朝日の城山と云ひ伝る也。」と、
江戸時代に書かれた『肥前古跡縁起』にある。>

この「筑紫何某」について「筑紫氏」説があるが、別説に
この戦いは磐井の乱の時で、「筑紫何某」は筑紫火君で、
すなわち葛子あるいは近親者である、という説があることが紹介されていた。

この説に従えば、朝日山に磐井の一族は城を構えたが、
攻めてくる敵は朝日に輝く山に恐れをなしたというのだ。


つまり、敵は西から攻め込んだことになる。
敵とは、大伴金村軍あるいは物部麁鹿火軍となる。


金村に頭を押さえつけられている麁鹿火の軍勢が中心で戦うのだが、
ここは佐賀。西には大伴氏の拠点があった。

その敵を迎え撃つ山に宮地嶽神社が奉斎されているのだ。
磐井の一族は宮地嶽神社の祭神を仰いだことになる。

今の所、祭神の具体的名前が分からないのが残念だ。

ところが、このブログ記事には

<宮地嶽神社に合祀される勝村大神と勝頼大神は、
筑紫君磐井の死後、筑紫君を継承した筑紫君葛子の一族、または末裔とする説があり、
筑紫君葛子については、筑紫火君と同一人物、または近親者とする説がある。>

と書かれていた。

勝村・勝頼の二神が葛子の子だという話は宮地嶽神社だけでしか採取できておらず、
まさか佐賀で傍証を得られるとは思ってもいなかった。

祭神に関しては磐井の時代なら「神功皇后と阿倍高麿・助麿」の可能性が高い。
あるいは「阿倍丞相・阿倍高麿・助麿」も有りだ。

高麿・助麿は神功皇后と仲哀天皇を守って戦死した。

合祀された勝村・勝頼は磐井の孫に当たるので、
当然ながら磐井の時代には祀られないのだ。


近くの地名に「安良」「安楽寺」という、安曇族を思わせる地名もあり。
筑紫君―安曇族―宮地嶽神社の可能性を裏付けるものとなった。

このような独立峰が戦いの時にどうして重要なのか。
考えれば烽火(のろし)という通信網の争奪戦であったかとも思われた。
それは226事件に通じるものがある。

朝日山で烽火を上げれば宝満―宮地岳へと瞬時に情報が届く。
そんな話を現地でしていたら、やはり非公開でも同様なコメントが入った。

先述のブログにも
<古代、山頂に烽台と城塞が築かれていたという記録が『肥前国風土記』にあり、
山麓にはいくつかの古墳がある。>

あいにく『肥前国風土記』から烽台の記事は見つけられなかった。
どこかに記述があるのだろう。

朝日山の西に物部神社が、
また東には福童神社(火明尊=ニギハヤヒ)があるということは、
安曇族は物部氏に東西を挟まれていたことになる。
友好的な時代には理想的な配置でも、戦いとなると不利な配置になる。

そして、
筑後国造からは、さらに真南に宮地嶽神社があるとコメントが入った。
それは十連寺という古墳の上に鎮座するという。

展望台があるということなので、そこも烽火の通信網の一つだったのか、
現地の様子を確認したいものだ。



神社を祭ることができるのはその氏族だけだ。
宮地嶽神社の子午線(南北ライン)は安曇のこだわりの祭祀が並んでいることになる。






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-12-09 23:58 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(7)

ひめちゃご37 ヒメコソ三社参り



ひめちゃご37

ヒメコソ三社参り
 



今日はヒメコソ神を祀る三社に参拝した。
ウメとタケが同行してくれた。

エリアは小郡市から鳥栖市、みやき町にかけて。

特に鳥栖市とみやき町には同じ地名「姫方」があるが、
それは物部とイチキシマ姫祭祀によるものと考えられた。

二つの姫方を結ぶ夏至日の出冬至日没ラインを柱にして東から西へと回った。

この行程の計画をしているうちに、
朝日山がそのラインに乗っていることが分かったのだ。

今日は写真整理をしているが、なんと10か所も回っていた。


本日は備忘録として、リストを書いておきたい。

1 媛社神社 小郡市
2 福童神社 小郡市
3 大中臣神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
5 朝日山宮地嶽神社 鳥栖市
6 千栗神社 三養基郡 
7 物部神社 三養基郡
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原
9 北浦天神 三養基郡
10 雌塚 三養基郡 姫方

このうち、ヒメコソ神三社とは次の三社を指す。

1 媛社神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原

9時から3時ごろまで、ゆっくりと昼食を取ったので実質5時間の行程だった。
皆さんの参拝の参考までに。







c0222861_23125032.jpg

4 姫古曽神社にて







                     <2016年12月8日>



いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-12-08 23:16 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(3)

ひめちゃご36 朝日山の宮地嶽神社の北に福津の宮地岳があった



ひめちゃご36

朝日山の宮地嶽神社の北に

福津の宮地岳があった
 


朝日山を挟む市杵島姫祭祀が夏至ラインと冬至ラインに重なるので慌てたが、
よく考えると、
夏至の日の出と冬至の日没が同じライン上に存在することは、
すぐ近くの吉野ヶ里遺跡の資料で学んだことがある。



c0222861_21112263.jpg





すぐ近くに平行してヒメコソラインが存在するということは、
別の祭祀集団が棲み分けをしていたのだろう。

そして、姫古曽神社から冬至の日没が見られるという朝日山には
宮地嶽神社が鎮座する。

チェリーに確認すると、
なんと、朝日山の宮地嶽神社は福津市の宮地岳の真南に鎮座することが分かった。




c0222861_22454199.jpg


言い換えると、朝日山から北を見ると、
遥か46キロに宮地嶽神社が仰ぎ見られるというのだ。
もちろん、目視はできない。


「宮地の星」という星がある。
これは「北極星」を指すという。

朝日山に立って北極星を探せばその下に宮地岳があることが確認できるのだ。
ここには重要な伝承があった。



朝日山に行ってみようと思う。







いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-12-07 22:48 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(9)

ひめちゃご35 祭神の書き換え


ひめちゃご35
祭神の書き換え
 


原点に戻ろう。
このシリーズは「ヒメコソ」という言葉から始まった。

直後に訪れたみやき町の若宮八幡神社には「仁徳天皇」が祀られていた。
「若宮」といえば、仁徳天皇を指す所が多く、ここもそうだった。

この天皇が佐賀に祀られている点も驚きだったが、
もとは「姫古曽神社」と同じ神が祀られていたという話が琴線に触れた。

「ヒメコソ」社といえば、鳥栖と小郡に二社鎮座していて、
わずか2キロ半の距離だった。
が、二つは県が違っていて、佐賀県と福岡県に分かれていた。


稀有な事に『肥前風土記』に
その「荒ぶる神」についての記述があるので、
過去記事を整理しようと手順を考えていたのだが、
立て続けに八女やみやまの神社を参拝することになった。


が、ついに歴史カフェのテーマとして、
「物部とヒメコソ神」が浮かんだことから
11月に徹底的に伝承を並べて比較することにした。

その結果、鳥栖の「姫古曽神社」で起きていた「祭神の書き換え」が、
みやき町の「若宮八幡神社」でも起きたと考えられることが分かった。

こういうことだ。
鳥栖(とす)の「姫古曽神社」では、本来の祭神は「市杵島姫」だったが、
八幡神が勧請されると、本来の祭神は隅においやられてしまった。

「市杵島姫」は「たなばた屋敷」に留められた。
ところが、明治の維新の時に調査が入り、本来の神を前面に出すこととなり、
「市杵島姫」が主祭神に返り咲き、社号も「姫古曽」となったという。

この「ヒメコソ」は地名の「姫方」の語源ともなった。


「ヒメコソ」とはどういう意味か。
「こそ」とは貴人に使う敬称である。
だから「ヒメコソ」とは「姫さま」という意味となる。
「姫方」も同意だ。

「ヒメコソ」とは貴(あて)なる姫神を指すことばで、「普通名詞」と考えてよい。
だから、各地に「ヒメコソ」神は鎮座していることになる。

無理に同一神に習合させる必要はない。


鳥栖の「姫古曽神社」の祭神が書き換えられた事情が明らかになったことから、
みやきの「若宮八幡神社」も同様な書き換えがあったことが推測できる。

しかし、「若宮八幡神社」には調査が入らなかったのだろう、
上書きされた祭神の名のみが伝わることになったと考えられる。

しかし、奇しくも口碑に「ヒメコソ神」の存在が残されていた。

姫神さまが祀られていた証しは
その北部に展開する「姫方遺跡」という地名にも残されている。


さて、同じ市杵島姫を祭る二つの宮だが、やや離れている。
地図に落として眺めていると、二つの間に朝日山が乗って来た。



c0222861_17572716.jpg


つまり、
若宮八幡神社―朝日山―姫古曽神社 (市杵島姫―朝日山―市杵島姫)
というラインが存在するのだ。

驚いてチェリーに確認してもらうと、ドンピシャと重なったという。
それどころか、
「姫古曽神社」から見た冬至の日没ラインと重なることが分かった。








c0222861_2059525.jpg


冬至の日に朝日山に夕陽が沈む画像をチェリーが作成してくれた。

これはどう解釈したらいいのだろうか。

両社にはライン上も深い関わりがある。
しかも、夏至ラインと冬至ラインが別々の神社から観測されていた。

かなり興味深い。


 
                   <2016年12月6日>











いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-12-06 21:00 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご1 まめちゃご



ひめちゃご 1

まめちゃご
 


「ひめこそ」

そんな言葉で目が覚めた。
時計を見ると朝の四時だった。

「ひめこそ」の祭について前日聞いたばかりだった。
しかし、その時、私はスルーした。

何故なら、私にはこの夏に仕上げなくてはならない本がいくつかあって、
これ以上、新たな問題に関わりたくなかったからだ。

しかし、夜中に目覚めたということは、
スルーしてはいけないというメッセージだった。
それについて考え始めると、もう眠れなくなった。

私は夜が明けるのを待ってメールを送った。
「よろしかったら、同行できませんか」と。



その祭については、ウメが教えてくれたのだが、
間に人がいて、まるで伝言ゲームのように名称や意味が変化して
「ひめちゃご」という名で私に伝わった。
しかし、その変化して伝わったものが、私を動かした。

結論から言うと、「ひめちゃご」という名称は存在しておらず、
その祭は「ひめこそ」の祭でもなかった。

正しくは「まめちゃご」という観音の縁日だった。

「まめちゃご」は佐賀に伝わる行事で、漢字では「豆茶講」と書く。

ネットで確認すると、
「旧7月10日(新8月10日)は、観世音菩薩の縁日で、
この日の参詣だけで四万六千日参詣したのと同じ功徳があるとされた。

「豆茶講」ともいい女の子は豆やお金を各家から集めて、
煮豆をつくり菓子を買って参拝人の接待をした。

搦西では祗園から四万六千日まで、
青年が船で砂をとってきて観音堂に盛砂をした。

青年会に入りたての青年が毎夜砂を高めていたという。

また、四万六千日とは別に観音の縁日である18日に
女の子が、豆観音講をする集落もある。

出典:東与賀町史P1035」
とある。

豆茶講は複数の地域で伝えていた。

私が行ったのは佐賀県三養基郡みやき町の中原中学校に隣接する若宮八幡宮だ。

スマホではその名が出て来たが、
今、ヤフー地図でもグーグルの地図を見ても名前が出てこない。
手元にある、みやき町の観光地図にも出てこない。

名前がうろ覚えなので、分かったらコメントしてほしい。


さて、「まめちゃご」は、その八幡宮のご神体を少女たちが磨き、
「豆と酢の物と茶」を準備して参拝者をもてなす行事だ。

この日、私たちが神社で参拝していると、
浴衣姿の中学生が現れて、公民館に案内してくれた。
その澄んだ瞳が心に残る。


2016年7月31日のことだった。

新たな物語が始まった日だった。

また集団幻想小説の始まりだ。
この小説を「ひめちゃご」と名付けることにした。
漢字で書けば「姫茶講」。

姫たちのおしゃべりカフェという意味になろうか。
「歴史カフェと同じですな」とウメが言った。

それは「脇巫女」で積み残した謎解きの続きの予感があった。
が、どうなるのか、全く見当はつかない。









いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-08-02 23:28 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

加茂神社(2)七郎大明神



加茂神社(2)


七郎大明神


それぞれ名前の違う複数の鳥居の中に、「七郎大明神」というものがあった。


c0222861_23244511.jpg



「佐賀県神社誌要」を見てみると、七山では見当たらなかったが、
小城郡西多久村大字板屋の「七郎神社」の縁起が載っていた。

その祭神は「稚武王尊、海童神」となっていた。
仲哀天皇の弟王とワタツミの神だ。

「七郎」とは稚武王を指すのだろう。

縁起の一部を引用する。

当社は神功皇后三韓征伐の際、
武将として渡海せられたる、仲哀天皇の弟・稚武王が、
凱旋後、三韓守護の為、平戸に宮居し、
ついに同所に薨せらるるにおよび、
その霊を勧請して、志々伎神社と号し奉祀せしが、
その後、西多久村の頭領二人例夢に感じて平戸に至り、
神霊を奉して帰村し、社殿を建立して勧請せり。(略)(一部変更)

稚武王(わかたけ)は仲哀天皇の実弟で、武将だったが、
三韓征伐の帰国途中、
警護の名目で平戸島に降ろされて、そこで亡くなっている。
その霊を祀るのが志々伎神社(ししき)だ。

警護の名目ながら軍隊は付けられなかったという。
島流しだった。
島から出ることなく亡くなった稚武王は哀しみの王だったのだ。

王が平戸に降ろされたのは、王に皇位継承権があったからだろう。

王の父親は日本武尊だった。
崩御したばかりの仲哀天皇と同じ父親だ。
次の天皇に一番近い位置にいた。

天皇の崩御は隠されたが、
姿を見せない天皇に、崩御の噂は絶えなかっただろう。

神功皇后は懐妊した。
皇后に男子が生まれれば問題が生じることは目に見えていた。

天皇崩御後、その代わりに国内戦を連戦連勝した皇后の人気は絶頂に達し、
皇后を旗頭とする体制が整ってしまっていたこの時期に
稚武王の存在は取り巻きの実力者たちには目障りだったに違いない。

三韓から戻って来た皇后の軍船は有明海経由で風浪宮に姿を現す。
長崎まわりで遠回りしながらの帰国だ。

その船団に乗っていた稚武王はきっと突然降ろされたのだろう。
何が起こったのか、分からないまま、船は遠ざかって行った。

どれほど無念だったか。

それから何百年経ったのかは分からないが、
多久村の二人の頭領の夢に稚武王が出て来た。

頭領たちは平戸に行って、稚武王の神霊を勧請して村に祀った。


七郎神社には海童(わたつみ)神も一緒に祀られていることから、
西多久村には安曇族がいたと考えられる。

海の中道にある志式神社にも稚武王が祀られているが、
同じ背景だと推定している。




c0222861_23255314.jpg



さて、この話から、加茂神社に合祀された七郎大明神とは
稚武王だろうと推測した。

もうそんな話を覚えている人もいないのだろうが、
こうして思いを馳せる人間が平成にいるのも、
悪いことじゃないだろう。

そう。
このブログの読者もまた、こうしてその哀しみを知った。



c0222861_232671.jpg








いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-08-01 23:27 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(5)

加茂神社(1)七山滝川



加茂神社(1)

七山滝川



さて、唐津市七山の玉島川を挟む二つの「かも」神社。
滝川の方は「加茂」という表記になっていた。





c0222861_22193363.jpg

微高地ではあるが、対岸の賀茂神社に比べれば平地の印象だ。
人里の中にある。







鳥居がいくつもあって、それぞれに違う名前が彫られているので
ここも周囲の神社が合祀されているのだろう。






c0222861_22194929.jpg

これが加茂神社の鳥居。





c0222861_22204349.jpg

拝殿には神紋は見当たらない。
祭神は「佐賀県神社誌要」によると、
加茂別雷神、加茂次郎義賢、素戔嗚尊、天神七代、天忍穂耳尊
となっている。

加茂次郎義賢が祭祀されている事情は
「加茂次郎義賢、肥前守に任ぜられ、安元二年八月下向して
暫時此処に止まりたり。義賢逝去の後、里人其徳を欽慕し、
加茂別雷神と共にその霊を祀りて産土神と斎き奉れり。」

とあり、1176年に加茂次郎義賢が肥前守となって下向して、
しばらくここに止まったことから、里人がその霊を祀ったという。
その時、加茂別雷神を祀った。
他の神々は合祀したとある。

合祀された神々の顔ぶれが
「素戔嗚尊、天神七代、天忍穂耳尊」という点、
この地域にこのような組み合わせで祀られていたのが不思議な感じがした。









c0222861_22221383.jpg

神殿の裏に石段があるので、稲荷ではないかと上ってみると、やはり稲荷だった。






c0222861_22571791.jpg


円錐形の丘の上に平地があり、何度も見て来た稲荷の地形だ。
賀茂神社で製錬された鉱物はこちらで武器や農機具を作り、
保管したのではないか。

そうすると、加茂次郎義賢が下向する前からあった地形ではないかと思われた。


ここには早くから賀茂氏が入植して活動していたが、
のちに京都から改めて勧請されたのではないか。


七山では「がも」という発音があるそうで、
「賀茂」と「加茂」の書き分けもあるので、
「がも」と「かも」と言い別けをしたのだろうか。
二つで一組だろう。
この二つの「かも」神社がいかにも古社の形を伝えているように思われた。





c0222861_22242523.jpg

境内からの眺め。
(つづく)



加茂神社






いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-07-30 22:29 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

賀茂神社(3)八咫烏



賀茂神社(3)

八咫烏
 

神殿の裏に廻ると絶壁になっていて、
その真下では急な流れが飛沫を見せていた。




c0222861_2129321.jpg

水だ。
水こそ冶金の民に必要なものだった。



急斜面にある参道は川から吹き上げる季節風の道でもあったのだろう。
ここで賀茂の民は汗を流して金属を作り出した。
地形から確信した。



真鍋によると、賀茂の神は蹈鞴の名人だったという。
高温の火を見つめる時、片目で見ていた。
それが一目(ひとつまなこ)の神と呼ばれるゆえんだった。

彼らは八咫烏を伴としていた。
八咫烏とはカササギの一種で、
それを見ては干潟の冠水のようすを観察していたという。

のちに八咫烏が賀茂氏のトーテムとなり、
「八咫烏といえば賀茂氏だ」という共通認識が出来たということになる。

日本書紀の時代は「八咫烏」といえば賀茂氏を暗示し、
「海童」(わたつみ)といえば滅びた安曇族を指すのを
共通の認識としていたのだ。

八咫烏は鉱山を渡り歩き、奥深い山の道を知っていた。
だから、神武天皇が霧に迷って困っていたとき、山道を道案内したのだ。

そこで出くわしたのは、光る井戸から出てくる尾がある人、
岩を押し分けて出てくる尾がある人たちだった。

井戸も押し分ける岩も、坑道があったことを暗示している。

尾がある人。
鬼のパンツは虎の皮でできているが、鬼と呼ばれた鉱山従事者たちは
獣の皮を腰に巻いてどこでも座れるようにしていたのだろう。







c0222861_2130620.jpg

山伏もまた然り。








c0222861_21303124.jpg

ツタンカーメンもまた尾のついた皮を纏っていた。



・・・しっぽがあるほうが個人的には好きだ(´・ω・`)




「鬼」という言葉は、当時は「神」と同じ意味だった。
「卑弥呼が仕えていた鬼道」という例があるように。






c0222861_21311210.jpg

賀茂神社の長い参道を下っていくと「七ツ枝川」の標柱があった。

東京から来ていたMさんからの知らせでは
地元の人に、「七山の七は北斗七星だ」と教わったそうだ。


そうか。

七支刀が物部氏の神社にあり、雷神の神力を仰ぐもので、
そのデザインの元が目に薬効のあるヒカゲノカズラだと分かったが、
何故七つの枝なのか、理由が見つかっていなかった。


これが答えではないか。

七支刀は北斗七星の精霊もまた宿す物だったのだ。


北斗七星は横になると「一目」となり、
縦になると「足一騰」となる。
まさしく賀茂氏の姿そのものだ。

物部氏と賀茂氏の深いつながりをここに見た思いがした。







いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-07-26 21:33 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)

賀茂神社(2)景行天皇も来ていた



賀茂神社(2)
唐津市七山藤川
景行天皇も来ていた





c0222861_22561236.jpg





七山には二つの「かも」神社があり、
「賀茂」と「加茂」の書き分けがなされている。
下の地図を拡大するとよくわかる。






玉島川の北にある賀茂神社が、(1)に挙げた神社だと
チェリーさんの指摘で分かった。



c0222861_22103285.jpg


主祭神の「賀茂別雷神」について、掲示板の由緒書きには
「雷の御神威により、厄を祓い災難を除き給う厄除の神として
広く信仰されている」
とある。
この神は父が誰か分からなかったが、のちに雷神と判明する。

その母、玉依毘売も相殿に祀られて、
「母神、玉依毘媛命は沐浴のとき、
川上から流れ来し一本の丹塗の矢を授かられたところ、
一夜にして御祭神、賀茂別雷命を身籠られた」とある。

よく似た話があった。イスケヨリ姫だ。

母と丹塗矢に化身した大物主との間に生まれた。
だから神の子と言われた。

イスケヨリヒメの又の名、ヒメタタライスケヨリヒメに
「タタラ」が含まれるように、製鉄の暗号を秘めた姫神である。

そして、賀茂氏もまた製鉄、鍛冶の民である。

c0222861_22111995.jpg

ほぼ同じような世代にこのような神語りがあったのは、興味深い。




これは、日本神話の解釈は稲作でなく、
鉄や銅の物語で解く必要があることを教えている。

この玉依毘売の父が建角身命で、由緒書きには
「賀茂県主族の祖神で、霧に迷われた神武天皇の軍を
八咫烏となられ、道案内された」
とある。

賀茂氏が古代から、のちの天皇家と深いつながりがあったことを示している。




さて、掲示板には宮の由緒がさらに書かれている。

c0222861_22573035.jpg

「延暦15年(796)に京都の上賀茂社と下賀茂社を勧請した」
とするが、ここにはもっと古くから賀茂氏が入植していたことが
掲示板の続きを読めばすぐわかる。

景行天皇の時代にここに県主(賀茂氏と思われるが)がいて、
天皇がやって来て歓待しているのだ。
その時、雷が鳴り出して一晩中鳴り響いたために雷神を祀るようになった。

これは賀茂氏の信仰する雷神が喜んでいたからだ。
だから、景行天皇が格別に祀った。

これらから、ここには古来、原始的な雷神祭祀があっていたが、
改めて延暦15年に京都風の祭祀形態が取り込まれたという事が分かる。

これは筑紫の神社でもよく見かけるパターンだった。



さて、何度か書いているが、
真鍋は賀茂の祭・葵祭が脊振山で行われていたのを
天智天皇が見て、京都でも行うようになったという。

この脊振山の葵祭がどこで行われていたのか探さねばならなかった。

脊振山は祭神は市杵島姫(弁財天)なのだ。

賀茂神社はどこにあるのだろう。
そう思い続けていたが、
こうして予期せずにこうして七山の賀茂神社に案内された。

七山の賀茂神社は脊振山系のはずれにあるので、
これが天智天皇が見た祭りの場かどうかわからない。

しかし、周辺には景行天皇ののち、神功皇后の足跡も見られ、
天皇家に友好的な土地柄だったことは確認できた。

(つづく)












いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-07-16 23:03 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(11)

賀茂神社(1)唐津市七山藤川



賀茂神社(1)

 唐津市七山(ななやま)藤川
急斜面の山上に鎮座する宮



人に連れられて来たので、いったい何処なのかさっぱり分からない。
ただ、唐津市七山であることは間違いない。

ネットの地図で確認すると賀茂神社と加茂神社が玉島川を挟んで鎮座している。
今回紹介するのは、七山藤川なのだろう。


場所が特定できないために、神社の記事が書けずにいた。
もう三ヶ月も迷っている。

この記事を投稿したあと、違っていたら訂正してもらうことにして、
先に進むことにした。

佐賀県唐津市七山藤川1558
の賀茂神社として話を進めたい。




七山村は唐津湾にそそぐ玉島川を遡ること6キロほどの所にある。

玉島川といえば、神功皇后伝承のある玉島神社が鎮座しているが、
それを右に見て、四キロほどの所に七山村がある。

七山村は今では唐津市に編入されているようだ。
中央を玉島川が流れている。
いかにも水運で古代に栄えたような、雅な風情が残っている町だ。

まずは高所にあった賀茂神社を参拝した。


c0222861_2330126.jpg









c0222861_23302834.jpg


車でいきなり神社の前に出ることが出来るが、かつては徒歩だったのだろう、
石段の長さは半端ではない。







c0222861_23304739.jpg

主祭神は賀茂別雷命。








c0222861_22103285.jpg

賀茂氏の玉依毘売の子神だ。


c0222861_22111995.jpg






佐賀県唐津市七山藤川





(つづく)








いつもポチっと応援ありがとう。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2016-07-15 23:35 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(4)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー