ひもろぎ逍遥

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ひめちゃご104 始まりの宮へ



ひめちゃご104

始まりの宮へ
 

物部神社から姫方若宮八幡宮へ向かった。

「ひめちゃご」の始まりの宮だ。







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真直ぐの古代道が綾部八幡宮まで続くという。
その途中に姫方若宮八幡宮がある。

狭い車道を北上した。

この日、ウメとタケと私は現地でミノリ一家と合流した。

ミノリこそ「ひめちゃご」という言葉を生み出した人だった。






民家の前を通って
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狭い参道を上っていくと、









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見慣れた姫方若宮八幡宮に出た。
銀杏が輝く季節だった。


ここもまた古代の岬の先端に建っていた。
ここから見える山々は古代の天文観測の名残を教えてくれた。



この宮の祭神は『中原町史』によると、
住吉大神、仁徳大神、武内大臣となっている。

八幡三神でも、次世代の三神ということか、
応神天皇の名が見られない。










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その拝殿にはめずらしい葡萄が彫られていた。
江戸時代の建造なのか、明治に入っての建造かは不明だが、
葡萄とはこれまた瀟洒な西洋的モチーフだ。











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神殿の方には龍と桐。天皇を祀るにふさわしい。










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ところが、他はどうだ。










c0222861_217861.jpg

波と花に埋め尽くされていた。

いかにも女神の装いなのだ。

ミノリが参拝する時に現れるのは女神だという。


この姫神が誰なのか、それを探す旅でもあったのだろうが、
市杵島姫命が最有力候補だった。


町史も
「原始八幡信仰の神籬から、宗像女神に、宇佐八幡系が入りこみ、
若宮八幡の占有する姿を漂わせている気がする。」
と書いている。

この「中原宿は姫方村の枝村であった」ので、
そこと同じ神を祀っていた可能性があると考えているようだ。

この点は氏子からも「同じ神を祀っている」と聞いている。

町史はさらに、次のように鳥栖の「姫古曽神社」を引き合いに出していた。

<鳥栖市旧基里邑に「姫古曽神社」があって、集落を姫方とよぶ。
祭神は「市杵島姫命、住吉大神、八幡大神」である>

総合すると、この「姫方若宮八幡宮」は鳥栖の姫方の飛び地なので、
「市杵島姫命」を祀っていたと考えられるのだ。

時代は違うが、ここには「中原宿」があり、伊能忠敬が宿泊していた。

<肥前国三根郡なる堤村、寒水村字中島姫方村内中原町駅場止宿>
と書いていることから、当地は「姫方村」と称していたことが分かる。


明治になって、鳥栖の方の祭神は元の形に復元されて
市杵島姫命が再び祀られるようになったが、
この枝村には及ばなかったのだろう。

市杵島姫命の名は公には出ないままとなった、と考える。



神殿に彫られた「波と花」。
それらは市杵島姫命が「水」を司ることを象徴していると思われた。

恵みをもたらす側面と災害をもたらす側面の
二つの顔を持つ「水の女神」
それが市杵島姫命だったのではないか。







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さて、私たちは参拝を済ませると、
中原中学校の校庭にある前方後円墳に向かった。

『中原町史』は以下のように、被葬者を女首長と考えていた。


<中学校前提の前方後円墳に収めた墳主は、
この地の部族の女の首長ではなかったかと考えられる>
さらに、
<この神社のある姫方原一帯は広い範囲に、世代を異にする弥生住居跡が、
多数出土する遺跡である>
とも記す。

これは6世紀の古墳だそうだ。
グラウンドには弥生の墓地もたくさんあったのだろう。



このあと、私たちはさらに、北浦天神社と雌塚に行った。
日が沈む時間が近づいていた。

晩秋の姫方郷をそぞろ歩きして戻ってくるとき、ミノリが
「あの綺麗な女神は市杵島姫」
と言った。
やはり、そうだったのか。

ミノリは鞍手に行って星読とも会っている。

星読が、
イチキシマ姫は佐賀に逃げた、と言ったことを思い出す。
不思議な附合があったことになる。
こうして、ヒメコソ神の三社参りは五社参りとなった。


この「ひめちゃご」は2016年8月から書き始めていて、
いつのまにか一年以上も経っていた。

この始まりの宮で筆を置こうと思う。

すでに、次の巻物が開かれている。

何が書かれているのか、先はわからないが、
これからも日々の記録を残していこうと思う。





        終




                      <2017年11月3日>




メールやコメントの返事が遅れています。
少々お待ちくださいね。




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by lunabura | 2017-11-03 21:11 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご103 検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を



ひめちゃご103

検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を
 


前回、検見谷遺跡の場所が分からないと書いたが、
チェリーが出土したという佐賀カントリー倶楽部の地図を作製してくれた。








c0222861_23225581.jpg


以下はそのコメント。

<いろんな地図を合成して、マウスでなぞったという荒い地図ですけど…
黒い線が佐賀カントリー倶楽部の範囲です。

赤い線が標高20mの等高線、暗い赤の線が標高30mの等高線です。

佐賀カントリーの左上の端あたりに、西から入って南に登る谷がありますが
(白石神社・白石焼窯元への道を登り詰めて、
クラブハウスへの道に合流して、南に進むのですが)、
佐賀カントリーに達する前に標高30mを超えてしまいます!
該当する場所が見つかりません!!>

赤い標高線のラインより4m高い所に遺跡があるという。
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。

この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、南へ入り込む小支谷の斜面上で、
標高約24メートルの場所である。>

これを追求するのも面白そうだが、これは是非とも地元の方にお願いしたい。


今、12本の銅矛は文化庁にあるという。
文化庁や他県の大学に行ったものは地元から忘れさられる可能性がある。

そうやって、九州の歴史は失われていく。

背振山系の南麓にはずらりと古代の最高レベルの文化が花開いている。

奇跡的に保存された吉野ケ里遺跡レベルのものが
台地ごとに存在して、古代人の営みがあったのだ。
その古代人の心の支えが神社だった。

佐賀の奇跡はもう一つ「肥前風土記」が伝わっていることだ。

景行天皇の時代を軸にして、古代道を今でも感じることができる。

誰か、チェリーの描いた地図に赤い点を打ってほしい。

画竜点睛。

方法は、検見谷遺跡の発掘報告書を手に入れるか、
佐賀カントリー倶楽部に問い合わせる。

そうして、その人には、新たな旅が始まるのだ。
古代の歴史がアイデンティティとなり、
次世代の子供たちのチカラとなっていくのだ。



<ひめちゃご>
<2017年11月1日>






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by lunabura | 2017-11-01 23:24 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご102 検見谷遺跡 12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった



ひめちゃご102

検見谷遺跡 

12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった
 


さあ、弥生時代に遡ろう。

やけに遺跡が多い北茂安町だが、出土は22号線以北に集中するという。
そこまでは海が上がってこなかったのだ。

丘という丘は甕棺や住居跡だったのではないか、と想像したくなるほど多い。

そして、あの麗しき12本の中広型銅矛がこの地域から出土していた。








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この12本の銅矛が出たのは旧北茂安町だったが、場所が特定できない。

町史にその記述を見つけたが、
住所は「大字白壁字一の幡」としか書かれていない。

HPでも場所が示されていないという異常事態だ。

この場所について、町史では
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。
この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、
南へ入り込む小支谷の斜面上で、標高約24メートルの場所である。>
と書かれている。

これではいったいどこから出土したのか、全くわからない( ;∀;)

手掛かりは
<銅矛の発見は、(略)その土地を所有するゴルフ場の職員による
樹木移植作業中のことであった。>
とあり、そのゴルフ場が佐賀カントリー倶楽部だ
ということだけが分かった。

地図をいくつも照らし合わせるが、わからない。









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チェリーの地図だと、画面右下の丘陵地帯がゴルフ場らしい。

物部神社の東に谷がいくつもあるが、そのいずれかだろう。
さすがの、るな探偵もお手上げだ。

出土状況は12本を刃先と袋部を互い違いにして埋納していたという。
このような埋納法は
春日市岡本辻遺跡や那珂川町安徳遺跡と同じだそうだ。

銅矛の長さは82・2~83・8センチ。
綾杉状の文様が研ぎだされている。

これと共通点が多いのが島根県斐川町の荒神谷遺跡だという。
銅剣が358本出土したが、そのほかに16本の銅矛が出土している。

互い違いに置かれ、刃を立てた状態は検見谷遺跡と同じで、
丘陵斜面の中腹であり、
等高線とほぼ並行した状態で埋納されたという点でも一致しているそうだ。

荒神谷遺跡の16本の銅矛のうち、中広型は14本で、
綾杉文様があるのは7本だというので、検見谷遺跡の方が多い。

鋳型は北部九州や四国の西部に限られるということだが、
たしか、出雲の銅矛の鋳型は春日だと聞いたことがある。

出雲の銅鐸と「吉野ケ里遺跡から出土した銅鐸の鋳型」が一致した話もあり、
この佐賀東部と出雲との関連は検見谷の銅矛の出土から、
さらに深いものになった。

それにしても、どうしたことか。
荒神谷遺跡の出土地は簡単に見学できた。
それなのに、検見谷遺跡は出土地の確認さえ、一般人には出来ない。

さらに、六の幡遺跡の29号甕棺は弥生後期初頭で、
完形の連弧文昭明鏡という中国製の鏡が出ている。

なんだか、すごい出土品の数々なのだ。
こんな情報が今どき、ネットでも見られないのは問題だと思う。


さて、ここは風土記にも登場している。
どうやら、佐賀カントリー倶楽部は『肥前国風土記』では
三根郡に当たるようだ。

町史によると、
「三根郡は、『肥前風土記』によれば、海部直鳥が望んで、
神崎郷の一部をさいてつくったとされる。
郷は千栗・物部・米多・財部・葛木・漢部の六郷があるが、
風土記では物部・漢部・米多の三郷しか説明されていない。>
とある、

葛木郷は物部神社の南にあった。

葛城氏について、町史は「大和の大氏族」と書いているが、
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔の宮で、
葛城氏はもともと九州の氏族だったと思う。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻96番篠崎八幡神社)

そして、巨大な銅矛が制作できたのは加茂氏ではないかと
最近は考えるようになったが、
この地域の南西にはなぜか「加茂」という信号があったのを思い出した。


佐賀カントリー倶楽部



<ひめちゃご>
<2017年10月31日>





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by lunabura | 2017-10-31 21:03 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご101 物部神社2 板部城と中津隈城



ひめちゃご101

物部神社2 

板部城と中津隈城
 


さて、物部神社の西から聞こえてきた
「私たちはここにいます」という森について、
密かに筑後国造の調査を期待していたが、やはり調べてくれた♪

以下はそのコメントだ。

<物部神社の西の森は、板部城という中世の城跡で、古墳は無いようです。
しかし物部神社の西500mの宝満神社
(祭神は玉依姫命であり、息長足姫命、市杵島姫命、大山咋命も合祀されています)
の境内には、前方後円墳である中津隈宝満宮古墳や
他の古墳の石室の石材が露出しています。
また、三階松紋もあります。>

このように、西の森には板部城があることが分かった。

また、さらに西にある中津隈宝満神社にも三階松紋があるという。
「宝満神社と三階松」は珍しい組み合わせになる。

実は、これと前後して、地元に詳しい方が
その宝満神社の画像と掲示板の説明文を寄せてくれた。








c0222861_2144764.jpg


幡の上部に赤い三階松紋が見える。
この石垣が古墳の形状を残しているのだろうか。
ほかの古墳の石材もあるということで、
もともと複数の古墳が築造されていたようだ。

この宝満神社自体は732年に松本というところに勧請されたのが、
812年に現地に遷されたということだ。

すでに古墳があったので、神社を建てる時に一部の古墳が壊されたのだろう。

「城」の話を手掛かりに『北茂安町史』を調べてみた。
すると、ここにも中津隈城があったという。
そして、この中津隈宝満神社が城の核とされていた。

つまり、中津隈城の丘の歴史は、もともと古墳があり、
神社が建ち、城が建てられたことになる。

これと同様の歴史を辿ったのが物部神社と板部城のようだ。



町史によると、板部城の敷地に関しては、
西の森説と、物部神社を含んだ敷地説の二つに分かれるという。











c0222861_2153167.jpg

物部神社の境内には上のように古墳の奥壁が並んでいる。
城を建造するときに、奥壁だけ残されて祀られたような趣だ。

この古墳は物部神社敷地にあったものか、
あるいは西の森から移されたのではないか。














c0222861_2161646.jpg

この場所について、チェリーが新たに作成してくれていた
現地周囲の地図があるので、見てみよう。

物部神社の西に島が見える。(「スーパー地形」の「形」の右側)
これが「中津隈西」といい、中津隈宝満神社が鎮座する所と思われる。

そして、物部神社の南に涙の形をした島(岬)が見える。
そこを「中津隈東」と呼ぶようだ。

「隈」は天文観測所の可能性がある。

「西」と「東」があるということは、中央があるということだ。
「西」と「東」に挟まれた岬には重要な施設があったのではないか。

地名と地形からそんなことを考えた。

なお、『風土記』には物部神社の北、綾部八幡宮の南の地点に
「郡役所」があったことが書かれている。
その場所が神社の形で残っていたら素晴らしいが。

そして、綾部~物部の舌状台地の東を流れる川が寒水川だ。
寒水川といえば、先日の朝倉の水害で氾濫した川と同じ名だ。

綾部~物部の東の寒水川も土砂崩れが起こって、僧が祈っている。
(九千部山の語源由来)
周囲は花崗岩質の風化土からなる丘陵地帯で、
綾部の民が故郷に戻らず居ついたのも納得できる。

さらに古くは阿蘇Ⅳの火砕流が及んだ所でもあるという。
これは9万年前の話だ。

三人の情報のおかげで、漠然としたまま素通りするところが、
地形と由緒をしっかりとみることができた。
三人に感謝。

<2017年10月30日>





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by lunabura | 2017-10-30 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(7)

ひめちゃご95 ついに出現した双龍と鷹取結界 



ひめちゃご95 

ついに出現した双龍と鷹取結界 
 




三つの「鷹取山」(たかとりやま)による三角形の結界。
それをチェリーが作図してくれた。








c0222861_22132617.jpg

二つの「ヒメコソ」神社の中央にある「福童神社」から見ると、
冬至の朝、鷹取山から日が昇る。青いラインだ。

そして、今ブログでは赤いラインを辿っている。
夏至の朝、馬見山から日が昇るラインだ。

この途中で三つの鷹取山の結界の話が出たのだが、
左上の鷹取山は綾部神社の北にあり、見事な三角錐を描く神奈備山だ。

この続きはチェリーのブログで見てほしい。
なんと二つの龍が現れたのだ。


脊振(せぶり)山系と耳納(みのう)山系だ。

龍脈の先には龍穴がある。

チェリーは耳納山系の龍は味水御井神社の水を飲むとにらんだ。

脊振山系の龍はどこの水を飲むのか。
地元の方、探してほしい。


久留米の北部からは耳納の龍がよく見える。
また脊振の龍が姿を見せるのは久留米~八女方面だ。


双龍の龍穴があるイヤシロチを発見した人は
三つの鷹取で結界を張った。


いやあ、これは集団幻想小説なのだから、妄想は大歓迎だ。

自分も妄想してみよう。

倭国の創世記、龍穴を求め、結界を張る人がいた。

鷹取結界の中には水を祀る君がいた。それが水沼君だ。
水沼君の斎き祀るは三女神。


驚いたことに、この結界の垂線は岩戸山古墳の松尾宮を通る。
その垂線は沖ノ島からスタートするとチェリーは考えた。



私は思う。

岩戸山古墳の築造者はこの結界を知っていた。
鷹取結界に倭国の秘密がある。

中大兄皇子は瀬高太神(おおが)で、その秘密を知ったのではないか。
しかし中大兄皇子が天智天皇に即位したあと、倭国は滅びる。

わずか9年で崩御した天智天皇。
その後、戦って天皇の地位を得た天武天皇もまた
筑紫に滞在していた時、その秘密を聞いていた。

天武天皇は即位すると倭国の結界を封じた。

どんな手段で?
それは、神社を寺院に変える手法だ。

天武天皇の即位元年、大善寺玉垂宮は大善寺となり、
翌年、高良玉垂宮もまた高良大明神が発心した話を創り出し、
高隆寺を造らせた。

こうして倭国の神々は封じ込められていった。

今、その封印が解けようとしている。

ついつい、そんな妄想をしながらチェリーの作図を眺めた。

前畑遺跡関連の土手は、
相島の墓域で見つけた龍の積石と同思想のものかもしれない。
それは熊本の久米八幡宮の龍と同じだ。

ところで、チェリーに。
鷹取結界の中央部分を拡大して作図してほしい。
持っている地図では鷹取結界が描けない。


以下はチェリーの作図。
「ひめちゃご」がつなぐライン群 ふたつの龍と1本のライン



皆さんにも、集団幻想に思いのまま参加してほしい。



コメントの返事は明日にしますね。







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by lunabura | 2017-09-12 22:16 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(12)

ひめちゃご93 千栗八幡宮2 祀られた武雄心 鳥栖は白鳥座から



ひめちゃご93

千栗八幡宮2 

祀られた武雄心 鳥栖は白鳥座から

 




千栗八幡宮の鎮座地の地形は丘陵だった。

本殿の右手に武雄神社がある。








c0222861_2234782.jpg

ご祭神は武雄心命(たけおごころのみこと)だ。
境内掲示板には
<孝元天皇(第八代)の皇子彦太忍信命の子。祭祀・占(卜)を司る任に当たり、景行天皇(第十二代)にお仕えした臣下で、高良大社のご祭神武内宿禰は御子である。>
とある。

武内宿禰の父が祀られていた。
祭祀と卜占で景行天皇に仕えていたという。

高良大社の祭神を武内宿禰としていることから、
白村江戦(663)以降の記事だとわかる。





由緒には
<創建は詳らかではないが、室町時代に描かれたといわれている「千栗八幡宮縁起絵」の境内図の中に「武雄社」が見られるところから、それ以前から信仰されていたと考えられる。>
とある。
勝手な考えだが、武雄社が先にあって、
のちに壬生春成が八幡宮を創建したのではないかと思われて仕方がない。




というのも、さらに右手に稲荷社があったからだ。









c0222861_2241098.jpg


鳩森稲荷神社という。ご祭神は保食(うけもちの)神。

由緒に
<当千栗八幡宮のご祭神は八幡大神で、稲荷神社御創建の由緒紀によると、養父(やぶ)の郡司壬生春成が此の地に狩猟の折、弓の上に鳩がとまった故事によるもので、鳩は八幡さまのお使いであるとその夜の夢枕に八幡宮境内に千本の栗の木が植えてあるのが表れ、一夜にして栗林が現れたと云う。故に鳩森稲荷神社と云う。>

相殿の神として
<天之忍穂耳命、菅原道真、伊弉諾尊(イザナギ)、高木神(高御産霊日神)>
が祀られている。


ここは千栗郷だ。

隣の養父郷の郡司が狩猟に来て、それをきっかけに八幡の縁を得たようにかかれている。

しかし、本殿の掲示板には、<聖武天皇の勅を奉じて>とある。
八幡縁起にありがちな夢のお告げ譚になっていると思われた。



この急勾配の丘に武器製造集団がいたのではないか。
それは武雄組と関わったのではないか。

武雄の武雄組は何氏か書かれていないが、物部氏だと思う。
武内宿禰も物部氏だ。

武雄心の祖父の孝元天皇は高良下宮社の祭神だ。
(幸神社の祭神名が孝元天皇だと分かった。
先月書いた幸夫人が祀られている宮が孝元天皇を祀っていた)

この千栗の丘は栄枯盛衰の流れのなか、祭神が変遷していったのではないか。
難波皇子の子の栗隈王の「栗」の字も気になるところだ。



千栗郷は1965年に「北茂安町」となり、
2005年、中原町、三根町と新設合併し、みやき町となっている。

ここまで考察して、ようやく借りていた『北茂安町史』を開くことになった。

町史には、この千栗社についての記述があり、
やはり創建が新しい点と、隣の養父郡司が創建した点に問題を感じ、
それを解決するために、なんと筑後の神々を調べている。

高良玉垂宮、大善寺玉垂宮、山門郡太神(おおが)などだ。
歴史カフェで話題にした所ばかりで面食らった。
特に太神は来週、再びやる所なのだから。



そして、結論はよく理解できなかった。土地勘が必要だった。
ただ、その中で大宰府との関わりが述べられ、
また古くは海部氏がいたことが書かれている点が印象的だった。





そして、るな的シンクロとしては
真鍋の描く大宰府をまとめている最中なのだが、
その中に長門石が二か所出て来た。


長門石(ながといし)
<千歳川の中州に「長門石」が存在する。
神代の昔から宇佐島と天原島を結ぶところであった。>







c0222861_2252720.jpg

ここから見えている手前の所が長門石なのだ。

前回の画像をもう一度出すが、この奥に高良山~耳納山脈が見えている。
神代にはこれが全部海だったという。

こちらが天原島(あまのはる・左佐島)で、向こうが宇佐島(右佐島)だ。
目の前は「ありなれ川」が流れていた。

もう一ヵ所引用しよう。

<千歳川(筑後川)を中にして、南の筑後に田主丸(たぬしまる)、北の肥前に鳥栖(とす)があり、その中間に北野の長門石があります。昔、有明海が水城を通って玄界灘まで潮を差していた頃、これらは船の始点と終点であり、中継ぎの寄せ場でありました。
白鳥座を鳥巣(とのず)星と呼びました。(『儺の国の星』p140)>

この千栗の丘の麓には湊があったことになる。
そうなれば、武雄と千栗をつなぐ重要な湊でもあったのかもしれない。

そして、すぐ北の鳥栖の地名の起こりは白鳥座だったという。
ありなれ川にかかる白鳥座に例えられた。
そうすると、この千栗の丘陵は星の一つか。

真鍋の話は現地に立って、ようやく理解できる。



PS
9月10日17:10:09にドコモのメールで申し込まれたKさま。
返信が戻ってきます。
申し込み受け付けております。





千栗神社
佐賀県三養基郡みやき町大字白壁2403




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by lunabura | 2017-09-10 22:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご92 千栗八幡宮1難波皇子、宇治皇子が祀られている



ひめちゃご92

千栗八幡宮1

難波皇子、宇治皇子が祀られている
 


朝日山頂上の宮地嶽神社から3キロ程南へ。




c0222861_20521021.jpg

千栗(ちりく)八幡宮に行った。







c0222861_20522777.jpg

思いがけず高い所にある。
地図では想像つかない岬?丘?の上に鎮座していた。

岬か丘といっても今は平地にある。
だが、古代は有明海の波が届いていただろう。

筑後川が東から流れてぶつかり、南へと流れを変える所で、
蛇行がひどい。
江戸時代に直線に工事をしたという。








c0222861_20525312.jpg

だから境内からは久留米の市役所などがよく見えた。

こんな岬は前回の朝日山同様に戦いの争奪の対象になったのではないか。
そんなことも思われる地形だった。









c0222861_20532275.jpg

ご祭神は
応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。
さらに難波皇子、宇治皇子、住吉明神、武内宿禰
となっている。



難波皇子は初めてだ。
<難波皇子>
ウィキペディアによると、

<難波皇子(なにわ の みこ、欽明天皇21年(560年)前後? - 用明天皇2年(587年)?)は、古墳時代の皇族。敏達天皇と妃・春日老女子の第一皇子。
587年8月、丁未の乱で朝廷軍に味方するが、これ以降史書に登場しないことから、丁未の乱で戦死したと考えられる。>

とある。
何故、敏達天皇の第一皇子がここに?

その子は栗隈王だ。

昨日、今日と私の別件の調査に出て来たので、ウィキペディアで確認した。

<栗隈王(くりくまのおおきみ、生年不明 - 天武天皇5年(676年)6月)は、日本の飛鳥時代の皇族。栗前王とも書く。旧仮名遣いでの読みは共に「くりくまのおほきみ」。敏達天皇の孫(曾孫か)、難波皇子の子(孫か)、美努王の父で橘諸兄の祖父にあたる。橘氏の祖である。筑紫率(筑紫大宰)として唐と新羅の使者を送迎し、672年の壬申の乱では外国への備えを理由に中立を保った。675年に兵政官長。贈従二位。>


白村江の後始末をした人物?
福童神社も広嗣を通して大宰府関連だった。

大宰府の問題は大宰府周辺だけで解くのではなく、
この肥前の支えを視野に入れる必要があるように思えてきた。


<宇治皇子>

次の宇治皇子は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)のことだ。
応神天皇の子。
変な経緯で異母弟の仁徳天皇の方が即位した。

宇治皇子は志賀島の山中に祀られていた。
宇佐神宮の春宮にも。

佐賀には仁徳天皇を祀る所も多い。
「ひめちゃご」の始まりの「若宮八幡」もそうだったではないか。

神功皇后の孫世代の問題が佐賀には存在するのか。
これ以上は探求したくないのだが。
ちょっと、ため息が出る。

次の祭神、住吉神は八幡、宇佐関係だから当然のこととなる。

そして、最後の武内宿禰。
宿禰は「紀」の武内宿禰と呼ばれる。
紀は和歌山より、こちらの基肄(きい)郡が該当すると思っている。
橘氏と関連あり?
(知ってる人、請う、ヘルプ)


さて、由緒は
<神亀元年(724)聖武天皇の勅を奉じて養父(やぶ)郡司 壬生春成
この地に社殿を造営し創建したと伝えている。
以来、本宮は宇佐神宮の五所別宮の一と称せられ、
朝廷からも厚く尊崇を受けた。>
とある。

夢のお告げが壬生春成にあったらしい。

ここはそれよりも遥か昔から祭られていたはずだ。

横に武雄神社があった。(つづく)




<今回のコース>
1 媛社神社 小郡市
2 福童神社 小郡市
3 大中臣神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
5 朝日山宮地嶽神社 鳥栖市
 千栗八幡宮 三養基郡 
7 物部神社 三養基郡
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原
9 北浦天神 三養基郡
10 雌塚 三養基郡 姫方




PS
本日申し込まれたA・Nさま、受け付けております。
返信が戻ってきたので、こちらに書いております。






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by lunabura | 2017-09-08 20:57 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご91 朝日山宮地嶽神社 葛子は守り抜いたのだろう



ひめちゃご91

朝日山宮地嶽神社 

葛子は守り抜いたのだろう
 




c0222861_2153316.jpg

私たちは姫古曽神社からさらに南西に向かった。
四キロほどの所に朝日山があり、頂上に宮地嶽神社が鎮座している。


鳥栖市の朝日山頂上には宮地嶽神社があるが、
すでに「ひめちゃご38」に訪問のようすを記録している。



ここはチェリーの測量で、総本社の福津市宮地嶽神社がこの真北にあり、
筑紫国造が調べた十連寺古墳上の宮地嶽神社が真南にあることが分かった。

古代筑紫と肥前の南北をつらぬく宮地嶽信仰ラインが存在したのだ。

宮地嶽神社は安曇族の一族である阿部氏だ。
これこそが磐井の姓でもあった。
阿倍磐井という。

その子が葛子。






c0222861_21611.jpg

さて、この朝日山には葛子の伝承があった。
磐井が火君と通婚して葛子が生まれたという。


地図を見ると、ここは物部の福童神社とみやき町の物部神社の中間点にある。
ここで物部たちと戦ったのか。

もともと磐井と物部麁鹿火(あらかひ)が戦う必要はなかった。
大伴金村の差し金で、両者が戦わざるを得なくなった。
結果、磐井は殺されたが、葛子はこの砦を守り抜いたのだろう。

物部麁鹿火は磐井の亡き後数年で没した。

このあと、筑紫はどうなったか。
再び磐井の一族に政権は戻った。

すなわち葛子へ。そして勝村・勝頼へ。

だから、葛子のもう一人の子の鞍橋(くらじ)は百済に派遣され、
百済王子を助けた。
そして、『日本書紀』は鞍橋の本名を抹消した。

だが、真実は蘇るのだ。




c0222861_2163012.jpg





<今回のコース>
1 媛社神社 小郡市
2 福童神社 小郡市
3 大中臣神社 小郡市
4 姫古曽神社 鳥栖市 姫方
5 朝日山宮地嶽神社 鳥栖市
6 千栗神社 三養基郡 
7 物部神社 三養基郡
8 若宮八幡神社 三養基郡 中原
9 北浦天神 三養基郡
10 雌塚 三養基郡 姫方










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by lunabura | 2017-09-06 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご90 姫古曽神社 蘇る社殿



ひめちゃご90

姫古曽神社 

蘇る社殿
 




c0222861_20423339.jpg

多くの思いがあって、かえって書けなくなっていたのかもしれない。





c0222861_20424860.jpg










c0222861_2043639.jpg

社殿が焼失したこともその一つだ。



ウメがサイバーダイブして、焼失した状況を語った。

しかし、それは書かない事に決めた。
ネットでは思いがけない方に変形していくからだ。


今ふたたび蘇ろうとしている。




歴史的な暗号が謎解きを求めてくる。



小郡の媛社神社に降りた幡はここから放たれた。

この宮は石段を上った所にある。
そう、ここは佐賀の山塊の東部の岬状の所にあった。

幡はこの岬から媛社神社のある岬へ。
そして、再び戻って来た。


この世界にアクセスしようとすると、モヤがかかる。

それは私の遠い記憶と関わるからか。
あるいは関係ないことだからか。



舞い踊りながら降りてくるクツビキとタタリ。

タタリから思い出すククリ。
白山ククリ。

天河弁財天。黄金の光の柱が立った。

再び天山。

広島 厳島神社。創造と崩壊の山。


私の思考はグルグルまわる。

それはそれでいいのだろう。







c0222861_2044432.jpg



「神のミソギ」そんな言葉が浮かんだ。


それから「変容」が始まる。




<2017年9月1日>






姫古曽神社の過去記事五つ。
   
(6)肥前国風土記的ガイド 媛社(ひめこそ)の鄕 「荒ぶる神」とは?





(7)肥前風土記的ガイド 珂是古(かぜこ)





姫古曾神社1 祭神は何故、市杵島姫なのか





姫古曽神社2 市杵島姫とニギハヤヒ





姫古曽神社3 彗星の化身・市杵島姫










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by lunabura | 2017-09-01 20:46 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご88 福童神社2 冬至の太陽は鷹取山から昇る



ひめちゃご88

福童神社2

冬至の太陽は鷹取山から昇る
 



天照国照彦火明命を祀る福童神社に
天文祭祀の気配を感じたことを書くと、
チェリーがさっそく調べてくれた。

以下、コメントから。

<福童神社は耳納連山の最高峰「鷹取山」から 300.0°になりました。
そして、まれな事だと思うのですが、
ちょうどここから冬至の太陽が昇るようです。

方位のラインと太陽のラインが一致するみたいです。
カシミールの画像が正しければの話ですが…

鷹取山というのはどうなんでしょう?
耳納連山の最高峰になりますので、
ラインの立場としては一番の重要ポイントなのですが、
信仰の対象とはなっていないみたいですねぇ…

画像送りますね!>








c0222861_216441.jpg

<今年の12月22日の日の出です。135mm望遠にセットした画像です。
20分前に同じ鷹取山から金星が昇るようです。見えないでしょうけど>

今年の冬至の日の出だ。20分前に金星の出も見られるとは、
かなり特異な日だ。


鷹取山は耳納(みのう)連山にある最高峰だ。
何度か登ろうとしたが、ルートが分からなかったことを思い出す。

そういえば、鷹取山は三つあるらしい。

一つは綾部神社の山、寒水川の上流域にある三角錐の山だったと思う。
あと一つは?
多分、筑後国造が知っている。
チェリーも簡単に見つけるかもしれない。


佐賀は何本もの太陽祭祀ラインがある地域のようだ。



さて、話は変わるが、糸島の「高祖山」の由来について、
別の人から次のような話をいただいた。

<高祖山の「高祖」は、漢の高祖の子孫の阿智王が
伊都国に来て高祖山になったとの由来もありました。>

これもまた興味深い話だ。
ここに追記しておこう。

お二人に感謝。

<2017年8月30日>












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by lunabura | 2017-08-30 21:08 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(18)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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