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高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ 水沼のクニは巫女のクニ



高三潴は連玉ビーズが出ても当然の地だよ

水沼のクニは巫女のクニ



今朝のワクワク新聞記事。

しょっちゅう書いている水沼族の政治の地である高三潴から
連玉ビーズが出たそうですね。





c0222861_19451488.jpg

読み(水沼 みぬま 高三潴 たかみずま)

甕棺からだって。



時代がなんと弥生時代後期で、(1~2世紀)となってます。(西日本新聞)
毎日新聞では(約2000~1800年前)となっているので、
う~む。弥生時代って随分と遡ったんだね。

卑弥呼自死が248年なので、卑弥呼は古墳時代に昇格した?

(どうしてもあの奈良の某巨大前方後円墳を
卑弥呼の墓にしたい感みえみえ(´-ω-`))




ま、それは別として。



『日本書紀』説では神功皇后が1800年前なので、
連玉ビーズの時代に生きていたのは景行天皇やその子の国乳別皇子や
景行天皇を道案内した猿大海が含まれます。

昨日も、三潴は古代に栄えた所だと、飯塚でお話ししたばかりです。

水沼族の湊は大善寺玉垂宮の地で、中国からの文物がダイレクトに
どんどん流入して最先端の物が入って来ていた所です。
(下巻78大善寺玉垂宮)

ビーズどころではないものが沢山眠っているはずですよ。
発掘されていないだけ。


その水沼族の政治の地こそ、少し離れた「高三潴」なのです。
そこからビーズが出たのですね!





c0222861_1946948.jpg

そこには、国乳別皇子を祀る弓頭神社があります。
(下巻57弓頭神社)



田油津姫攻撃の前に神功皇后や武内宿禰が水沼水軍の船でやって来て、
武内宿禰と国乳別皇子が軍議をしているシーンが
大善寺玉垂宮の絵巻に描かれています。(下巻57)



水沼族の聖地は赤司八幡神社で、
道主貴(みちぬしのむち)=三女神が降臨したところと伝えています。

景行天皇はそこで天壇を構え、三女神を祀り、
自分の子供の国乳別皇子を天皇代行として残していきました。


水沼族の版図は広いですよ。
旧三潴郡だけではありません。



筑後平野での三女神信仰を基準に考えると朝倉も入ってきます。
福成神社は最初に景行天皇が祀り、神功皇后も祀り、
あとからは斉明天皇も祈願に来ています。(下巻53福成神社)



その北にある太刀八幡宮も三女神。

神功皇后が太刀「乙王丸」を奉納しました。
そこでは武器を手入れしています。
軍事訓練をするエリアです。
(下巻52太刀八幡宮)




新聞には「伊都国」と比較した記事がありますが、
その広さは比べ物になりません。

水沼のクニの方がはるかに広くて、
邪馬台国の7万戸も容易に賄える所ですよ。

伊都国の南に邪馬台国があるのですから、
当然ながら論争のターゲットになるべきクニです。

これまで話題にならなかったのが不・思・議。


ちなみに、「水沼」とは巫女を出す家系のことです。
ほら、邪馬台国の条件も揃ってますね。

赤司八幡神社の北部には弥生の環濠集落や漢鏡も出てます。


この水沼族の地には、三韓討伐の後、神功皇后を乗せた安曇磯良が入って来ます。

神功皇后が褒賞としてこの地を与えたのでしょう、
ついには安曇族の領地となります。
その祭神が「玉垂命」です。

ここはもともと女神を祀っていたのが、玉垂命に変わったのです。

玉垂とは「干珠満珠を垂れた」神という意味です。


神功皇后が亡くなってしまったのち、
磯良も年老いて死期を覚悟すると、ここに戻って来て、
神功皇后との思い出の船を焼かせます。


その時、竜骨だけは残しました。
それがご神体になったと書かれています。
(高良玉垂宮神秘書)

だから、山号が「御船山」なのです。


国乳別皇子の墓も安曇磯良の墓も高三潴にありますよ。
(下巻78大善寺玉垂宮)



だから、連玉ビーズが出ても当然の地なのです。



ガイドブックの下巻をお持ちの方は上記の番号を参考にしてください。
サイドバーからも各神社の記事が見られます。






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by lunabura | 2017-02-17 19:50 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(7)

「規矩県主・耳熊丸」と「企救の重留遺跡」の広形銅矛はどうなんだろう。



「規矩県主・耳熊丸」と「企救の重留遺跡」

の広形銅矛はどうなんだろう。



さて、先日「いのちのたび博物館」に出向いたのは
「企救の国の青銅器文化」展があっていたからだ。

北九州から巨大な銅矛が出土した。


c0222861_20594197.jpg

これはそのチラシ。
卑弥呼の時代だ。
この時代は銅矛がここまで大きくなっている。

約85センチだったと思う。
このサイズだと、もう女性では簡単に抱えられない。
持つとき、必ず刃の部分を支えないといけないので危険だ。

だからなのか、刃の研ぎ出しはしていないようだ。

北九州で出土した銅矛は出雲のそれとサイズも似ている印象だが、
出雲の剣身に見られた矢羽のような研ぎ出しは見当たらない。

これが住居の隅に一本だけ埋納されていたという。
何度か使用しては埋め戻していた痕跡があるそうだ。

この地域は「企救(きく)郡」があった所なので、
「企救国」が想定され始めている。



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「企救」で思い出すのは、ここに県主(あがたぬし)の名が
伝えられていることだ。

その名を「耳熊丸」という。





拙著『神功皇后伝承を歩く』下巻をお持ちの方は96番を見てほしい。





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神功皇后は京都郡(みやこぐん)の生立八幡神社(おいたつ)から
何処に向かったのか、
海上の行き先を探していたとき、次の伝承を知った。


「豊前国の葛城藤丸と規矩(きく)県主の耳熊丸は
神功皇后を筑豊の境に迎えに行った。」


寒風の吹く冬に船を仕立てて皇后たちを迎えにいった人たちの名が伝わっていた。

葛城藤丸。
規矩県主の耳熊丸。

この名は記紀には出てこないが、篠崎八幡神社に伝わっていた。
(小倉北区篠崎)

もともと高尾山の麓に鎮座していたのが、現在地に遷宮している。

この耳熊丸と同時代に生きていたのが

岡県主の祖の熊鰐であり、

伊都県主の祖の五十迹手(いとて)だ。


耳熊丸は紫川流域、
熊鰐は遠賀川流域と棲み分けていたのか。


「きく」は企救、規矩、菊とも表記される。
「企救国」が想定されるなら、この耳熊丸が治めていたと考えられる。

「きく」で思い起こすのは菊物部という名称だ。
耳熊丸が物部かどうかは分からない。

ただ、一緒に出て来た葛城藤丸は葛城氏だ。
篠崎八幡の葛城小藤丸は葛城襲津彦の末裔だという。

そして、時代は違うが、中大兄皇子の諱(実名)は葛城皇子だ。

こう連想すると、当地には物部氏、葛城氏のいずれかの
リーダーの存在が考えられる。


重留遺跡のすぐ北にある「城野遺跡」には
伊都国の平原遺跡と同様の「方形周溝墓」が発見されていた。


2基の石棺には水銀朱が塗られ、子供が埋葬されていたという。

規模は城野の方が大きいそうだ。

棺が平原遺跡は割竹木棺なので、こちらが石棺なのは興味深い。

しかも、水銀朱愛は同じ。

この城野遺跡は国有地だったのが、民間企業に売却されてしまったそうだ。
実に惜しい。
が、まだ間に合うはずだ。



この重留、城野遺跡と篠崎八幡神社の距離は2キロ未満だ。
その元宮と遺跡の関わりは深い。

これを探っていくことで、
企救国の古代が立体的に描き出せる予感はするのだが。

いちブロガーではどうにもならない。






「企救の国の青銅器文化」2016年11月6日(日)まで。
いのちのたび博物館
北九州市八幡東区東田2-4-1 スペースワールド駅下車






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by lunabura | 2016-10-28 21:03 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

いのちのたび博物館 恐竜がいっぱい sanpo



いのちのたび博物館

恐竜がいっぱい




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でか(;゚Д゚)











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すごすぎ。(;’∀’)
画面に入らない。











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どれも全身骨格?

数も半端ないっす。

これが何と常設展示。



え?
ホントは「企救の国の青銅器文化」展(~11月6日)
を見に来たんですがね。

なかなか行きつかないのです。(^^;

たのしい~~~




いのちたび博物館
北九州市八幡東区東田2-4-1









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by lunabura | 2016-10-23 20:49 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(0)

行橋市歴史資料館 埴輪に会いに行く?



行橋市歴史資料館

埴輪に会いに行く?



「あのお、写真撮影していいですか」
「いいですよ」

「ブログに掲載していいですか」
「いいですよ。どんどん宣伝してください」
と、気持ちのいい答え。

そう、ブログに書けば見に来る人、きっといる♪
それはあなた?



歴史資料館はデザインの宝庫。
固定観念はずしてくれる。

今日は歴史の勉強無し♪









c0222861_2117376.jpg

全長33.6センチ。
元祖、ゆるキャラっぽい。
造った人も楽しそう。









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三環鈴も出てる!
天河神社、思い出す。








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兜だけど、私の頭は入らない。
かなり小さい。











c0222861_21184255.jpg

この人の鎧(よろい)は革。
鉄が手に入らなくても戦わねばならない。

以上、稲童古墳群。

磐井の乱の時とかどっちの味方したんだろう。
大伴氏関連の人たちかなあ。








次からは弥生のデザイン。







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ジョッキがいい?
それとも高坏で呑む?








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食器には必ず蓋をしないと、アレが飛んでくるもん。
デザイン、今と同じだね。






c0222861_21193096.jpg

切れ味のいい小刀は、麻織物でくるむ。
誰が育てて、誰が織ったのだろう。

神功皇后の時代の人たちの暮らし。

こんな楽しみ方もいいかな。








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福岡県行橋(ゆくはし)市にいます。






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by lunabura | 2016-05-19 21:21 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(0)

黄金のアフガニスタン展と前漢鏡


黄金のアフガニスタン展

遊牧民の足元に置かれた前漢鏡

「神はアフガニスタンにだけは何も与えなかった」
これは夫の友人の言葉だ。

世界を放浪して日本に戻って来た時、
彼はアフガニスタンについてこう言ったという。

現代になって中村哲医師がその不毛の地に灌漑用水路を作ったので、
緑の大地が広がり始め、何万もの人々が戻って来ている。
その灌漑用水路を作る技術は朝倉の山田井堰で生まれたものだった。

そんなアフガニスタンは視点を変えればシルクロードの交易地だ。
古代には栄えていて、その証として黄金の遺物が各地で出土していた。

戦いの混乱の中、守り抜かれた遺物が九博で開催された。

最終日の直前に、その「黄金のアフガニスタン」展を見に行った。

最初に心に残ったのは、直径20センチほどの銀板。
「アイ・ハヌム」遺跡から出土した紀元前3世紀の円盤だ。
キュベーレ女神円盤という。

そこには神々が描かれていたが、神のそれぞれの国が違っていた。
曖昧な記憶だが、例えば小アジアの神とギリシアの神が一緒に並んでいて、
それを地元の司祭が祭っているような構図だった。

異なる宗教を受け入れて融合させていた古代のアフガニスタンの民に
理想の宗教観を見た。
他の宗教に寛容な人々だったのだ。


「博物館」の展示なので、歴史的な背景には期待しないで見学するが、
心を打ったのが「ティリヤ・テペ遺跡」だった。

それは未盗掘の墓群で、六基の墓からの出土物が展示されていた。
未盗掘とはどれほど価値があるのか思い知った。

それは黄金が残されているからではない。

埋葬された人物の姿そのままに、装飾品が残り、
社会組織、死生観、死者への尊厳への思想までもが残されている点に
深く感銘したのだ。

この「ティリヤ・テペ遺跡」は
紀元前15世紀ごろにギリシア人がやってきて都市を作ったあと、
紀元1世紀頃に遊牧民がやって来て、その神殿を墓地としたものだった。

円形劇場などの都市遺構の中、一番神聖な神殿があった。
そこに埋葬されていたのは一人の男性と五人の女性だった。
男性は20~40歳代。女性たちは20歳代。

王と思われる男性には黄金の太刀や短剣が添えられ、
胸には仏教を彫り込んだ小さな円盤が置かれていた。

王妃と思われる女性は更なる数の黄金の装飾品を纏っていた。
身に着けていた位置そのままに遺骨を彩っていた。

衣服には黄金のスパンコールがライン状にデザインされている。
五ミリほどの金のリボン型のスパンコールの輪郭に並べられた金の粒は
新羅製の指輪の輪郭にあしらわれた粒よりもさらに小さい。

王妃の冠は金の薄い板を切って植物文様や鳥などを描き、
おびただしい数の揺れる瓔珞(ようらく)を下げていた。
そう、藤の木古墳や宮地嶽古墳で出土した冠と同じ技法だ。

他の女性たちは身分が違うのが明らかに分かるのだが、
装飾が少ないとしても、逸品を身に着けていた。

それぞれ個性的にデザインされた黄金の装いは、
遊牧民に豊かな文化があったことを思わせた。

商人たちが持って来たものを適当に買ったというより、
身分に合わせてデザインしたものを発注したという印象だった。

埋葬されていた人たちの身分は王、王妃と妃たち、そして巫女だろうか。

女性たちが二十代ばかりということは、殉死を思わせた。
一番美しい衣裳を着せられて、木棺に丁寧に埋葬された。

哀しい死ながらも、平和な時代だったことは良く分かった。
埋葬するための時間に余裕が感じられたからだ。
武器は王が持つ黄金の鞘に入ったものだけだった。

紀元一世紀。
委奴国王が漢から金印を授かった時代に相当する。

一番、驚いたのは死者の足元に前漢鏡が一つ置かれていたことだった。
その図柄は福岡県筑前町で出土したものとそっくりで、
比較した図が展示されていた。



c0222861_2185818.png


あとで広告用のパンフレットを確認したが、
前漢鏡のことは書かれていなかった。
これこそ、古代史を愛する人を引き付ける一番の物ではなかったか。

アフガニスタンと前漢と倭奴国を結ぶという、
一番夢のあるストーリーなのだが。

遊牧民の墓に副葬された前漢鏡の存在を広報すれば、もっと入場者が増えて、
新たな議論が生まれたのではないか、と残念に思えた。

前漢鏡はもう一枚あった。
いずれも足元に置かれていた点が、日本とは全く違っていた。


糸島のフォーラムで聞いたのだが、
古代中国では属国の王者が亡くなると、
葬儀のために葬儀用の品々を贈っていたという。
その一つが青銅鏡なのだそうだ。

これが、糸島の三雲南小路遺跡に副葬された膨大な数の漢鏡の説明となるのだが、
そういう習慣があったのなら、
アフガニスタンの遊牧民の王が亡くなった時も同様に
前漢から贈られたというストーリーが出てくる。

糸島では多すぎる鏡を遺体の両脇にずらりと半重ねで並べたが、
遊牧民たちはそれを足元に置く程度の関係だったと想像ができる。

武寧王が高野槙で造られた漆塗りの黒い木棺に眠ったのは、
日本が代々、百済の王子を質に取っていた関係があったからで、
その王子が即位して死んだとき、葬儀に当たって
日本から下賜されたものと考えられる。

そう考えると、韓国の博物館がその部分の記述を隠した理由がよくわかる。


話はそれるが、最近考えていることがある。

阿蘇山のピンク石で造った石棺が近畿で沢山発見される理由として、
故郷の石棺に埋葬されたかったのだろうと思っていたが、
そうではなくて、
熊本の王家から近畿の王たちに下賜されたのではないかと。

福岡で剣や前方後円墳が発表されるたびに、
「ヤマト政権から下賜された」と新聞に書かれる。
前方後円墳はヤマト政権が地方の豪族に対して許可をしないと造れないそうだ。

いったい何を根拠にそういう話を作り出すのか、
疑問に思っていたが、私と同様の事を考える人もいて、
何かのシンポジウムの時に、一般人からその根拠が質問されたが、
答えは、考古学の先生たちが入念に調べた結果だということだった。

その根拠はあいまいだった。


新しく出土する何もかもが「下賜された」と言う論法を当てはめると、
阿蘇ピンク石の石棺こそ阿蘇王家から下賜されたものだ、という理論も
成り立つのではないか、と思うこの頃だった。

アフガニスタンの王族の木棺に添えられた前漢鏡を見て
そんなことを考えた。





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by lunabura | 2016-02-15 21:10 | <催しもの・あそび> | Trackback | Comments(0)

七支刀(6)ヒカゲノカズラの髪飾りっていいな


七支刀(6)

ヒカゲノカズラの髪飾りっていいな


(一部、記事を抹消しました)

c0222861_2004613.jpg

画像はウィキペディアより。
で、「穂より、葉の方が七支刀にそっくりです」ということで、
その葉の付き方を見ると、なるほど。

実は、前々回の比較写真を見ていて、ちょいと気になっていたことがあるのです。
それは、葉の付き方が違う、という問題。

穂は対生だけど、七支刀は互生であるということ。
この差が気になっていたのです。

c0222861_2163351.jpg

自分がデザインするなら、その特徴を大事にするから、穂なら対生に描くよね‥
と思いながら何度も見なおしていたので、葉の方が互生でふさわしいと聞いて納得。

もう一度、最初の写真を見てくださいね。互い違いに生えてますね。

実は七支刀の現物を見た時、六本の刃が意外に小さくて驚いたのです。
この植物なら、確かに繊細な刃(葉)になるかも知れませんね。

七支刀は各枝の中央に金のラインが走っています。
これは葉脈を表していると考えてもいいかも、ですね。


で、もう一つ大事な話を見逃していました。
それは、まーりんさんの説明。
「レメディのライコポディウムが効果があるとされる症状は多岐にわたりますが(有名なのは「自信のなさ、心配症、あがり症」に効くこと)、製鉄に関係しそうなものは、眼の炎症・痛み、ろうそくの灯に敏感ってところでしょうか。」
(レメディって、「植物や鉱物などを高度に希釈した液体」です。)(でいいかな)

薬効の一つ、「ろうそくの灯に敏感」!
これこそ、製鉄の民に必要なものなんです!

温度計の無い時代、温度を見るのに「炎の色」を見るしかないんですね。
色の変化でタイミングを見測るので、これこそ一番必要な薬効なのです。

これを祭の時に縁起物として飾るのはとてもふさわしいですね。
20センチ前後だから、舞妓さんのように枝垂れた髪飾りにしたらとても嬉しい。


さて、久米八幡宮では、200年ほど前、宮中から下賜されたものがあり、
その詰めものにヒカゲノカズラの乾燥したものが入っていたそうです。
つまりクッション材なんですね。
これは皇居に現在も生えているということで、縁起ものと考えられます。

かつて、海を渡って宝物が届けられた時も、
ヒカゲノカズラがクッション材になったかもしれませんね。
近年ではクローバーがその役目を果たして、日本中に広まった事を考えると、
ヒカゲノカズラも同様な形で広がったのかもしれません。

ちなみに、アメノウズメが天の岩戸の前で躍ったとき、
タスキにした「ヒカゲ」がこの植物だとされています。

宮司さんによると、ヒカゲノカズラはフラクタルな点に特徴があるとのこと。
どれだけ成長しても同じ形を再生産していくそうです。

そこに生命力と神秘性を古代人は見ていたのでしょう。

吉田宮司、まーりんさん、どうもありがとうございました <(_ _)>



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by lunabura | 2015-01-18 22:12 | Trackback | Comments(2)

相島積石塚群(1)墓地は基盤が整備されていた


相島積石塚群(1)

墓地は基盤が整備されていた


c0222861_16573835.jpg

相島(あいのしま)は福岡県の糟屋郡新宮町の沖合にある島です。
新宮(しんぐう)町の渡船場から船で約20分で着きます。


志賀島から新宮町、古賀市、福津市の浜の描き出す弓型の曲線からほぼ等距離に位置しています。
ということは、安曇族のゆりかごのような位置にあるんですね。


c0222861_1701366.jpg

島に近付くとまずは鼻栗瀬(はなぐりのせ・メガネ岩)が御挨拶。
この穴の空いた岩島は、世界中に存在していますよ。

古代の船人はこれを目印に船を着けたことでしょう。
目指す積石塚(つみいしづか)群はこの鼻栗瀬の向こう側に回ってすぐの所にあります。

湊は写真の左の方にあり、下船後は徒歩になります。
舗装道路があって案内板があるので分かりやすいです。


c0222861_1721717.jpg

岬の向こう側に出ました。
この浜は長井浜といい、約500mの長さがあります。
ここは石ばかり。砂や土が全く存在しません。
掘ってもずっと下まで石だそうです。自然の力ってすごいですね。

ここをある集団が墓地にしたわけです。
確認された積石塚は254基。(まだまだ未調査も残っています)

土器が66%から検出されて、全体の築造は4世紀後半から6世紀中頃と判断されています。
200年ほどの営みでしょうか。

それが終わった「6世紀中頃」とはどんな時代?
磐井の乱が527~8年。
磐井の孫・鞍橋君の活躍が554年。

継体天皇が磐井を襲撃したのちで、百済が筑紫へ応援を頼んだ時代。
この積石塚群はそんな時代に終焉を迎えたようです。



c0222861_1732261.jpg

その中で一番大きな積石塚がこれ。5世紀中頃。前方後方墳で、相島大塚(120号墳)と言います。
かなり崩壊していたのが復元されました。
長軸の長さが20m。高さが約2.5m。


c0222861_1734434.jpg

後円部に立って覗くと石室は竪穴。
ということは追葬は出来ず、王者だけが埋葬されたと考えられます。

天井石などは喪失。
船で石材を取りに来る人たちがいるという話でした。
(そんなん、知らずに庭にあったらおおごとじゃん。やめてけろ)




c0222861_1742630.jpg


墳丘の上から北を見ると、テラスが!
前方部です。
明らかに祭祀が行われたのが分かります。
石段もついていて、登り降りが楽にできるようになっていました。

そして、調査報告書に思いがけない状況が書かれていたのです。
それはこの浜全域にわたって整地がされて、その上に各塚が造営されたというのです。

墓地造営ブランが存在していたことになります。
それを読んでみましょう。

第4次調査から今年度にかけて現地並びに航空写真を詳細に観察したところ、積石塚があるところにはまず例外なくこのテラス状の部分が存在することが確認できた。

つまり積石塚をこの長井浜に築造すると選定した時点で、頂部から山側斜面にかけてほぼ全域にわたり手のひらサイズの石を敷き詰め、地山整形を行っていた状況を想定できるようになったのである。

このような石は入り口手前の百合越の浜や長井浜の一部に無尽蔵にあるため、大きな石から加工する必要はなかったであろう。このように大規模な地山整形を行った後、前述した3つのパターンによって積石塚は築造されたと判断するに至った。
これは想定外。
誰かがこの石ころだけの浜を見て、ここを集団墓地にしようと言い出し、
それを受けて大規模な整地を行ったということになるのです。

この120号墳が一番大きいのですが、それが5世紀のもので、ちょうど中盤にさしかかりますから、どう解釈すればいいのか、興味深い資料です。

この相島は水がない島で、若宮神社の井戸と漁港近くの井戸があったくらいだそうです。
朝鮮使節が滞在した島なのですが、そのために井戸を11本ほど掘ったといいます。

古墳時代に、ここを「俺たちの墓にするぞ~」と宣言した氏族の長は、
長期計画を立てて、船に水や食料を積んでピストン輸送させたと思われます。

材料は現地にあるから、人員の派遣だけで充分ですね。
かなり、合理的な思考の人と思われます。

どこの浜から出発するのかな?
それはこの島から見える範囲の浜なんでしょうね。
ですから、ここは安曇族の墓と言って間違いないでしょう。

るなが、かつてから相島は安曇族の島だと睨んでいた理由は次の二つ。

若宮神社の伝承の豊玉姫は安曇族の姫だという点。
また、神功皇后に食事を差し上げたことを伝える早魚神事がある点。

これはまたのちほど紹介することにして、
この積石塚が計画性を持って作られたことを知って、
自分の仮説をますます確信するようになりました。

そして久し振りに来て、初めて見て驚いたのは墓道の存在でした。
(つづく)


地図 新宮町 相島 長井浜






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by lunabura | 2014-07-02 18:54 | 相島 | Trackback | Comments(0)

宮地嶽古墳のガラス板・百済産か?国産か?


宮地嶽古墳

ガラス板は百済産か?国産か?

先日、古代ガラスの話を聞いて来ました。
古代ガラスは現在、6種類に分類されているそうです。

宮地嶽古墳の出土物に、板ガラスがあります。

これを九州国立博物館でようやく見たのですが、
サイズはCDケースより、少し大きめ。厚さは1.5センチほどのもので、
紺色の神秘的な色でした。
(撮影禁止なので、写真はなしです)

なかなか宮地嶽古墳の出土物を実見する事が出来ないのですが、
九州歴史資料館の田中幸夫コレクションにその破片がありました。

c0222861_2147114.jpg

左は緑色ですね。右が紺色っぽいのですが…。


分類は鉛ガラスに属します。


で、古代の鉛ガラスは一時途絶えましたが、復活して百済で生産され、
百済滅亡の時に亡命した工人が日本にやって来て、
全く同じ技法で飛鳥池遺跡で鉛ガラスを生産したそうです。

言いかえれば、鉛の同位体を調べれば、産地が簡単に分かり、
百済産か、国産か、特定できる時代になっていました。

百済(346-660)


国産だとすれば、660年以降になるので、7世紀も後半のものとなり、
宮地嶽古墳の造営時代がより明確に絞れることになるはずです。
また、飛鳥で作られた製品が当古墳に早々と奉納されたこととなり、
被葬者の影響力は近畿にまで及んでいたことになります。

現在の評価では、宮地嶽古墳は7世紀前半とされています。
そうすると、このガラス板は百済で作られた可能性が高いです。
古墳の被葬者か縁者に、直接贈られたなんて妄想もできますね。


ただし、もう少し調べてみたら、
「発掘されたガラスとアクセサリー」岡山市埋蔵文化センター 谷一 尚
http://www.city.okayama.jp/contents/000104774.pdf
に、

c0222861_21482677.jpg

とあったので、隋の製品の可能性もあるかと思いました。

隋(581-618)


c0222861_21485014.jpg

これが宮地嶽古墳のガラス板です。

ガラスの生産地を調べるのは簡単になったらしいので、九博や九歴はすでに調査済みかも知れませんね。
もし、まだだったら、早く調べてくれたらいいな。

それにしても、宮地嶽古墳の出土品がどんなものか、
パンフレットでいいから、
収蔵する九博と東京の資料館は作ってくれたらいいのに。

それを、古墳に参拝する人や地元の小中学校に配布して、
宮地嶽古墳の存在を伝えてほしいなと思いました。
(知っている人はとても少ないのです)
それが、出土品を収蔵する各館の責任だと思います。

これは福岡の各地の出土品に言えることです。

例として、竹原古墳は見学できても、出土品の写真一枚ありませんでしたし、
どこに行けば見られるかも分かりませんでした。(福岡市内にあるということまで分かりましたが)
このような例はいくつもあります。

本来地元にあるべきものを、各大学や資料館が持ち出したなら、
写真で良いから地元に還元し、
子供たちに伝えることで、地元の歴史を伝えてほしいです。

それが歴史資料館へ足を運ぶ人を育てることにもなると思います。





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by lunabura | 2013-10-27 21:51 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

安曇族と志賀島(4)封泥としての金印


安曇族と志賀島(4)

封泥としての金印
「金印は封泥でしょうが」
「あっ、そうですか」

―ああ、そうだったのか。
今まで金印にはさほど興味が無かった るなですが、
鹿さんのその言葉に、金印が突然活き活きとした姿を現してくれました。

金印と言えばその読み方が話題となっていますが、
あまり古代の事が分からないので、判断のしようがなくてスルーしていました。(+_+)

でも、金印が封泥だとしたら判断しなくても楽しめるんですね。
「封泥」ふうでい。
それは、荷物が第三者によってほどかれた場合、すぐにバレルように作った仕組み。
紐の交差点に粘土を乗せて印章を押すしくみです。

それは人間の欲望が遥か古代からあったことの証し。
いかにも泥臭い人間のサガ。
盗もうとする人と、守ろうとする人。
その知恵比べの結果が封泥なんですね。

そうすると、これに携わった人々が何人も浮かび上がる。
荷を作った人。
中味を確認して紐をかける人。
泥を載せる人。
印章を保管庫から持ち出す人。
印章を押す人。
それを監視する何人もの人たち。
そして、それが船に乗せられて、異国の王に届けられる。


c0222861_2127234.jpg

これは魏の時代のコオリ。黒い紐が残っていて四角いマッチ箱状の物が見えます。

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それをアップしたもの。
これはテレビを撮影したものだから、魏がどの魏が忘れたけど、
後の方で220-265年。多分卑弥呼の時代のものだと思います。

竹らしき植物で編まれた技術をとくとご覧あれ。紐は麻ヒモっぽい。
板の小片はのこぎりで切り取られています。(けっこう難しそう)
封泥はそのくぼみに無造作に粘土を載せて刻印。文字は浮き彫り!


志賀島で出土した金印も封泥なんですね。

それでは金印を見てみましょう。
c0222861_2128052.jpg

これが押した跡。
金印を粘土にエイヤと押すと浮彫が出て来るとは想像もしませんでした。

c0222861_21281951.jpg

それで、福岡市博物館の画像を見ると、たしかに陰刻。

これは是非とも粘土に押印したものを見たいものですね。


この金印を貰った倭奴国の王は、朝貢する時、必ずこの印章で封泥したはず。
これは後漢の王が、「これで押したものを貴国の朝貢品として認めよう」
と言ったも同然だからです。

それは最後の出港地の現場で行われる可能性があります。

その考えは長崎街道展で見た絵から思いつきました。

c0222861_21284835.jpg

これは長崎出島のオランダ商館で棹銅の計量と梱包を描いたものです。
長崎に運び込まれた輸出品の銅を一度開封して、中味と重量の確認をしているところです。
日本人とオランダ人が立ち会っています。
輸出物を船に乗せる前に必ず検査するんですね。

あ~あ。大変そう。
主婦感覚としては、頑丈に荷造りしたものを、またほどくの~?
そう思うんですが、確かに、偽物をつかまされないために、
あるいは分量をごまかされないためには必要なんですね。
輸出とは江戸時代でもこんなに厳密だったんだと驚いた絵です。


さて、話を志賀島の金印に戻しましょう。
この時代は日本には30程のクニがあって、てんでに後漢にあいさつに行っていたのを
中国の方から「代表の国を決めてくれ」と言われ、
代表となったのが倭奴国で、それを認証するための金印だという説があります。

当時の国はどれもが小さい国だったでしょう。
志賀島にも一つのクニがあったとしても不思議ではありません。
確かな事は、どんなクニも志賀島を通らないと中国まで挨拶には行けないことです。

安曇族のお世話にならないと海が渡れません。
きっと安曇の王の宮は近くにあることでしょう。
その管理地に金印があることはそれほど不自然ではないように思われます。

ということで、国際港である叶の浜あたりで、
各国の朝貢品が荷揚げされ、最後の確認をして封泥として倭奴国王の印章を押す。
そんなイメージが生まれました。

(つづく)





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by lunabura | 2013-07-17 21:32 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(0)

コーンヘッド・狗邪韓国とナスカとネフェルティティ


コーンヘッド

狗邪韓国とナスカとネフェルティティ

(今日もまた頭蓋骨がいっぱいです…苦手な人、ごめん)

先日、M氏の発表を伺っていて、誤解されている件があったので、
今日はちょっと書いておこうと思います。

韓国の加耶諸国の中の狗邪韓国に不思議な頭蓋骨が発掘されています。
頭が尖っているんですね。
その遺跡は礼安里(れいあんり)遺跡と言いますが、
写真の六つの頭がい骨のうち、下段の左がその頭蓋骨です。

c0222861_21191512.jpg

画像出典 http://e-asia2.board.coocan.jp/?t_id=9
東アジアの古代文化を考える会


釜山大学の博物館所蔵で、扁頭人骨が10例確認されているそうです。
その中で7例が女性。

これは嬰児の時に板を挟んで矯正するもので、南米に多く見られます。
この矯正法について、M氏が2枚の板で矯正するという話をされました。
それはOKなのですが、
顔の前と後ろとサンドイッチのように挟んでいるイラストを紹介されました。

それではいくらなんでも窒息するし、それが卑弥呼の顔と同じだと話してあったので、
それもちょっと無理かな…と、困惑した次第で…。
僭越ながら、今回のテーマにしました。

c0222861_21442237.jpg


画像出典
http://mizu-clutch.at.webry.info/200609/article_7.html
Fishermans caravan ナスカ博物館

この頭がい骨はコーンヘッドと言って、中南米でよく見られますが、
2枚の板をV字型にしてそこに頭を挟みこんで矯正するそうです。
これは水中考古学者のフランク・ジョゼフ氏から直接聞いた話で、
そのビデオもあるので、いつか映像も探し出したいと思います。

で、その時、私はエジプトのネフェルティティの頭と似ているなぁと思って、
ジョゼフ氏に質問したんです。
「ネフェルティティの頭も同じですか?」
答えは「イエス」でした。

c0222861_21205248.jpg

これも矯正したものだそうです。
エジプトにしろ、中南米にしろ、これは首長の血統にみられるもので、人為的につくられる形なのですね。
広範囲に分布しているらしい。

で、そのコーンヘッドが韓国の南部から発掘されたというのですから、驚天したのです。
時代は何と卑弥呼の時代なんです。

狗邪韓国(くやかんこく)のその人は当地で生まれて矯正されたのでしょうか、
あるいはエジプト辺りからやって来たのでしょうか。
多分、調べれば簡単に分かると思うのですが。

そう思いつつ、『三国志』韓伝で確認すると、弁辰の風俗として、
「子供が生まれると、石でその頭を圧迫し、平らにしようとする。
それで、今、辰韓の人はみな扁平な頭をしている。」
って書いてありました。 

扁平な顔の理由はそれじゃないと思うけど…。
それにしても石を使うなんて強烈すぎ…。  (・.・;)



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by lunabura | 2013-07-06 21:24 | 韓国 | Trackback | Comments(10)
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