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洞(くき)と企救(きく)の地名の由来



洞(くき)と企救(きく)
の地名の由来


北九州市に「くき」と「きく」という間違えやすい地名があります。

洞海湾を昔は「洞の海」と書いて「くきのうみ」と呼んでいました。
また、その東にある企救半島は「きく」と読みます。
菊や聞の字を当てるケースもあります。

「くき」の海と「きく」半島の地名の由来は
「北斗七星」から来ていると真鍋大覚は伝えています。


「北斗七星」を「規矩の星」(きくのほし)と呼ぶ集団がいました。
中国語で「規」とはコンパス、「矩」とはサシガネ(L字型定規)のことです。








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北斗七星の柄をサシガネに見立て、
マスの部分をコンパスで描いた円に見立てたのです。

そのサシガネと円の形を洞海湾と企救半島に重ね合わせた結果、
クキとキクという表現が生まれました。

洞海湾と企救半島に地名がまだ無い時代、
北斗七星になぞらえて表現した訳です。

サシガネとコンパスはいつの時代からあるのでしょうか。

伏羲(ふっき)と女媧(じょか)は
中国神話に出てくる「人類を創造した神」ですが、
女媧の手にはコンパス(規)、伏羲の手にはサシガネ(矩)があります。

太古からこの二つの製図道具があった証しです。

北斗七星は北にあるので、南に住む人が名付けたことになりますが、
真鍋は宇佐からの見立てだと言います。

宇佐に住む集団が北斗七星を見て、規と矩を連想し、
宇佐の北にある北九州市の地形を呼ぶとき、
洞海湾はサシガネのように細く曲がった地、
企救半島は円の中に入る地、
そんなイメージを持って、北斗七星の印象を重ねたということになります。

「キ」と「ク」だけでは分からないので、
「キクのキ」「クキのク」と強調表現をしたのでしょう。

新羅が攻めてこないように、関門として、北斗七星を並べたそうです。
北斗七星(規矩の星)の守護を願ったのでしょうか。




<2017年3月19日>

※ コメント欄が現在使えないようです。連休明けに直るかな? (´-ω-`)


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by lunabura | 2017-03-19 21:42 | <地名の由来> | Trackback | Comments(2)

北九州の豊かな自然を楽しんだ



北九州の豊かな自然を楽しんだ



12月2日の洞海湾沿いのバスハイクは天気に恵まれました。

かつて参拝した神社でも、アプローチの方角が違うと全く違う顔を見せます。

取材の時には縁ごと、バラバラに探査するので全体像はよく見えないのですが、
今回のように洞海湾に絞って回ってみると、
遠賀水軍の長である熊鰐一族がどのように洞ノ海(くきのうみ)を
掌握したのか、かなり体感することができました。


今回、心に残ったのは北九州の自然の豊かさ。
特に、山沿いの神社の杜は深く、植物相が豊かに残されています。









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最初に行った一宮神社(上巻2)の磐境神籬は神秘的な世界。

朝という時間帯は格別で、異次元への祈りの場として、
聖地のパワーを今なお留めていました。

ここに神武天皇が立ち、神功皇后も立った。

そんな場所がそのままの地形で残されています。
福岡はこんな聖地が自由に参拝できて、素晴らしいなとよく思います。

太陽の方角から、この天円地方は南に向いている印象を受けました。








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勝山勝田神社(上巻3)は深い森が、参拝者の心を癒します。










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飛幡八幡宮(上巻6)は前日、戸畑祇園大山笠が世界遺産に登録されたばかり。
晴れの日に参拝です。











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お昼ご飯は高塔山。
熊鰐一族がここから出入りする船を見張っていたのが良く分かりました。











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若松恵比須神社(上巻7)は、おえべっさんの縁日!
くじに当たった人もいましたね^^




魚鳥池神社(上巻8)や貴船神社(上巻9)では標高から
古代の海の地形を想像。







芦屋歴史民俗資料館で縄文のシャーマンを見学して、
近くの洞山(どうのやま)で磯歩きをしてきました。









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「足場が悪いから、不安な人は待っていてください」
というと、
「そう言われたら(じっとしておれん)」
とワンパク時代の心が蘇り、
全員が凸凹の荒磯を歩いて大きな穴を見学。







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ここにも神功皇后の伝承がありました。


山あり、海あり、の北九州!
その魅力を満喫するバスハイクでした。




私の新しいカメラは知らないうちに動画になって、
足ばかり写っていて、びっくらこん。(;’∀’)

動画ボタンがすぐ横にあった(´・ω・`)

少しずつ親しんで行こうと思います。








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by lunabura | 2016-12-04 20:10 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

白鳥座 規矩星 きくのほし



白鳥座

規矩星(きくのほし)






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<「さきくさ」は聖書の百合であり、天文学でいう星座の白鳥キグナスであった。

古事記允恭記には木梨軽皇子(きなしかるのみこ)と
衣通郎女(そとおしのいらつめ)の名が見える。

白鳥座の古名は十薹星(そとうのほし)、木梨星(きなしのほし)、
軽子星(かるのほし)などがあった。

機久(規矩・木魂)星(きくのほし)。物干し竿を衣透(そとほし)といった。

星は記紀の頃にはすでに古人の心に身に溶けてしまって、
表にはもはや出てこなかったのである。>

『儺の国の星』p188


白鳥座もまた見る人によって異なる物語を持っていました。

『古事記』の衣通姫、軽大郎女は同じ人で、
白鳥座の名を持った人ということになります。
でも、『古事記』の時代には星の意味は忘れ去られたようですね。




c0222861_2023073.png

(画像出典 ウィキペディア)

白鳥座を規矩(きく)の星とも言ったそうです。

確か、規矩の星と言って北斗七星を指すという話も載っていたと思います。

さて、企救(きく)国は白鳥座なのか、北斗七星なのか。
どっちかな。



以下はウィキペディアから。

衣通姫(そとおりひめ、そとおし-)は、記紀にて伝承される女性。衣通郎姫(そとおしのいらつめ)・衣通郎女・衣通王とも。大変に美しい女性であり、その美しさが衣を通して輝くことからこの名の由来となっている。本朝三美人の一人とも称される。

『古事記』には、允恭天皇皇女の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)と情を通じるタブーを犯す。それが原因で允恭天皇崩御後、軽太子は群臣に背かれて失脚、伊予へ流刑となるが、衣通姫もそれを追って伊予に赴き、再会を果たした二人は心中する(衣通姫伝説)。




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by lunabura | 2016-10-29 20:06 | <星の和名・天文> | Trackback | Comments(0)

「規矩県主・耳熊丸」と「企救の重留遺跡」の広形銅矛はどうなんだろう。



「規矩県主・耳熊丸」と「企救の重留遺跡」

の広形銅矛はどうなんだろう。



さて、先日「いのちのたび博物館」に出向いたのは
「企救の国の青銅器文化」展があっていたからだ。

北九州から巨大な銅矛が出土した。


c0222861_20594197.jpg

これはそのチラシ。
卑弥呼の時代だ。
この時代は銅矛がここまで大きくなっている。

約85センチだったと思う。
このサイズだと、もう女性では簡単に抱えられない。
持つとき、必ず刃の部分を支えないといけないので危険だ。

だからなのか、刃の研ぎ出しはしていないようだ。

北九州で出土した銅矛は出雲のそれとサイズも似ている印象だが、
出雲の剣身に見られた矢羽のような研ぎ出しは見当たらない。

これが住居の隅に一本だけ埋納されていたという。
何度か使用しては埋め戻していた痕跡があるそうだ。

この地域は「企救(きく)郡」があった所なので、
「企救国」が想定され始めている。



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「企救」で思い出すのは、ここに県主(あがたぬし)の名が
伝えられていることだ。

その名を「耳熊丸」という。





拙著『神功皇后伝承を歩く』下巻をお持ちの方は96番を見てほしい。





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神功皇后は京都郡(みやこぐん)の生立八幡神社(おいたつ)から
何処に向かったのか、
海上の行き先を探していたとき、次の伝承を知った。


「豊前国の葛城藤丸と規矩(きく)県主の耳熊丸は
神功皇后を筑豊の境に迎えに行った。」


寒風の吹く冬に船を仕立てて皇后たちを迎えにいった人たちの名が伝わっていた。

葛城藤丸。
規矩県主の耳熊丸。

この名は記紀には出てこないが、篠崎八幡神社に伝わっていた。
(小倉北区篠崎)

もともと高尾山の麓に鎮座していたのが、現在地に遷宮している。

この耳熊丸と同時代に生きていたのが

岡県主の祖の熊鰐であり、

伊都県主の祖の五十迹手(いとて)だ。


耳熊丸は紫川流域、
熊鰐は遠賀川流域と棲み分けていたのか。


「きく」は企救、規矩、菊とも表記される。
「企救国」が想定されるなら、この耳熊丸が治めていたと考えられる。

「きく」で思い起こすのは菊物部という名称だ。
耳熊丸が物部かどうかは分からない。

ただ、一緒に出て来た葛城藤丸は葛城氏だ。
篠崎八幡の葛城小藤丸は葛城襲津彦の末裔だという。

そして、時代は違うが、中大兄皇子の諱(実名)は葛城皇子だ。

こう連想すると、当地には物部氏、葛城氏のいずれかの
リーダーの存在が考えられる。


重留遺跡のすぐ北にある「城野遺跡」には
伊都国の平原遺跡と同様の「方形周溝墓」が発見されていた。


2基の石棺には水銀朱が塗られ、子供が埋葬されていたという。

規模は城野の方が大きいそうだ。

棺が平原遺跡は割竹木棺なので、こちらが石棺なのは興味深い。

しかも、水銀朱愛は同じ。

この城野遺跡は国有地だったのが、民間企業に売却されてしまったそうだ。
実に惜しい。
が、まだ間に合うはずだ。



この重留、城野遺跡と篠崎八幡神社の距離は2キロ未満だ。
その元宮と遺跡の関わりは深い。

これを探っていくことで、
企救国の古代が立体的に描き出せる予感はするのだが。

いちブロガーではどうにもならない。






「企救の国の青銅器文化」2016年11月6日(日)まで。
いのちのたび博物館
北九州市八幡東区東田2-4-1 スペースワールド駅下車






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by lunabura | 2016-10-28 21:03 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

いのちのたび博物館 恐竜がいっぱい sanpo



いのちのたび博物館

恐竜がいっぱい




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でか(;゚Д゚)











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すごすぎ。(;’∀’)
画面に入らない。











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どれも全身骨格?

数も半端ないっす。

これが何と常設展示。



え?
ホントは「企救の国の青銅器文化」展(~11月6日)
を見に来たんですがね。

なかなか行きつかないのです。(^^;

たのしい~~~




いのちたび博物館
北九州市八幡東区東田2-4-1









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by lunabura | 2016-10-23 20:49 | <歴史資料館・博物館> | Trackback | Comments(0)

バスハイクのお知らせ 12月2日 「洞ノ海 魚鳥池」 


バスハイクのお知らせ 
12月2日 (北九州市)

「洞ノ海 魚鳥池」 




「歴史と自然をまもる会」のバスハイクのご案内です。

12月のバスハイクは「神功皇后の足跡をたどる②」で、
北九州市の洞海湾の湾岸地域をまわります。

1.一宮神社(上巻2)八幡西区 熊鰐一族が守った神武天皇の岡田宮跡 磐境神籬
2.勝山勝田神社(上巻3)八幡西区 大倉彦の領地 竹竿供出
3.飛幡八幡宮(上巻6)戸畑区 仲哀天皇が祈った千曳の岩
4.若松恵比須神社(上巻7)若松区 武内宿禰が祈った光る石
5.魚鳥池神社(上巻8)若松区 神功皇后の船が立ち往生した洞ノ海あと
6.貴船神社(上巻9)若松区 船留の松 神功皇后が貴船の神を祀った
7.芦屋歴史の里 山鹿貝塚 赤ん坊を抱いた縄文人

山鹿半島は、かつては島で、
陸との間の穏やかな海を「洞ノ海」(くきのうみ)と言いました。
今は洞海湾(どうかいわん)と言いますね。

この海域で船団を組織し、造船をして修理もしていたのが
岡県主(おかのあがたぬし)の祖(おや)である熊鰐です。

遠賀水軍の長と言われています。

当ブログではよく登場しましたね^^

豊浦宮(下関)から周防にいったん疎開していた
仲哀天皇と神功皇后を熊鰐は迎えにいきます。

その途中から天皇と皇后は別の船に乗って遠賀川に向かいます。

皇后の船が魚鳥池(ぎょちょうがいけ)で立ち往生した話が
『日本書紀』に載っていますが、
その現場が田んぼになって残っています。

その周囲の神社も廻っていきます。

勝山勝田神社と貴船神社は水の神様をまつるので、
独特の神秘性があります。
私ももう一度行けるのが楽しみです。

最後に時間があれば「芦屋歴史の里」で縄文人の埋葬復元を見ます。
二人の女性が赤ん坊を挟んで眠っていますが、
その胸には大きな緑の石がかけられていました。
北九州の歴史を知りたい人必見の資料館です。

拙著『神功皇后伝承を歩く』上巻の2~9までのうち、
6社をまわります。

申し込みは「歴史と自然をまもる会」までどうぞ。
http://rekishi-shizen.com/

2016年12月2日(金)
天神8:30出発です。

(第一回は弁当を作って持っていったのですが、
唐戸市場に行ったので、海鮮丼を買って食べちゃいました。
自分の弁当はお持ち帰りです( *´艸`)

今度もおいしそうな所に連れていってもらったら、やばいから
弁当なしで参加します。

もちろん、歴史の案内は私がします!)



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by lunabura | 2016-10-20 20:41 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご20 天智ゆかりの二社 狩尾神社 厳島神社



ひめちゃご20

天智ゆかりの二社 狩尾神社 厳島神社
 




今日は調べものをしていると
何故か、天智天皇関連の神社が新たに二つ出て来た。
北九州市の狩尾神社と朝倉市の厳島神社だ。

狩尾神社は山鹿半島の西部、狩尾岬にある。
「千畳敷」という、面白い岩盤の海岸があるので、
バスハイクの時間調整の候補としてリストアップしたのだが、
道を覚えておらず、確認していてヒットした。

社号の「狩尾」は山城国岩清水の狩尾神社を勧請したとあるが、
天智天皇がここで狩をしたことが由来するともいう。
主祭神は大国主命。

狩をするほどなので、磐瀬宮での滞在時間は長かったのだろう。

現地には岬をまわる「なみかけ遊歩道」があって、
潮風の中の楽しい散歩道となっている。

潮が満ちていたからか、全く記憶にない風景だった。
しかもカメラ忘れ。

狩尾神社はすぐに分かったが、長らく人が足を踏み入れていない気配で、
参拝を遠慮した。

どうしても風景が記憶に合わず、後で調べると、
やはり場所が違っていた。

ということは千畳敷という地層はかなり広く分布していることになる。
地球のダイナミックな動きが目に見える響灘(ひびきなだ)沿岸だ。

例の如く、勘違いから天智天皇ゆかりの宮へと繋がった。



さて、天智天皇ゆかりの神社、もう一つは、
歴史カフェのために分かりやすい地図を探していた時に見つかった。

朝倉の平松バス停付近に厳島神社があり、
斉明天皇が中大兄皇子に創建させたとある。
祭神は「市杵島姫」一座。

これで、斉明天皇は「志賀様」と「市杵島姫」を祀って、
安曇水軍と宗像水軍の神助を祈願したことになる。

しかし、祀ったのが三女神でなく、「市杵島姫」のみという点が
「ひめちゃご」のテーマに引っかかる。

今日も天智天皇と関わった不思議な一日だった。

カテゴリは「にっき」でもよかったのだが、
どうも気になるので、「ひめちゃご」に投入した。







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by lunabura | 2016-09-22 19:53 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

杉守神社  香月氏



杉守神社

 香月氏


遠賀川流域の物部氏の中では、香月氏の系譜がかなり詳しく伝わっている。

物部氏は文字を持っていて、記録を残す氏族だったのだろう、とよく思う。

香月氏の祖はニギハヤヒであり、かつ田道命ということなので、
物部と皇族の末裔の両方の性格を持つ。

だからだろう、
小狭田彦の代に景行天皇や日本武尊の遠征に絶大なる支援をしている。

その結果、日本武尊は小狭田彦に「香月」姓を賜ったという。

簡略な縁起はネットでも見ることが出来るが、
文脈から、どうしても分からない事があった。

それは、香月氏の本貫地は杉守神社のある所ではないのではないか、
という疑問だった。

それを確認するために、杉守神社に出かけることにした。

場所は前回の磐瀬行宮(中間市)からわずか4キロ程度の所だ。





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田園に突き出た丘陵があり、その突端に宮は鎮座していた。







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急な石段を上りきると境内に出た。








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拝殿は左側にあった。
宇佐や熊本で見かけた横参道のようなタイプだった。







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神紋は鳥だ。
後で教えていただいたが、「白い鳥」と言う。
何か特別な鳥を指すわけではなかった。
ヤマトタケルの象徴である「白鳥」のことだろうと勝手に思った。

これまで「白鳥」を「はくちょう」と思い込んでいたが、
「しろいとり」と読むのが正しいのかもしれない。





初夏の嵐のあと、クスノキの落ち葉がおびただしい季節だ。
落ち葉掃除をしてあった宮司に話を伺う事が出来た。

それによると、やはり、香月氏はもともとここではなく、
黒川の上流、「ヨモギが原」という所に住んでいたという。
「フツ」と似ているでしょうが、とも言われた。

「ヨモギ」は一般に「ホウ」「ブ」と音読みするから、
何か特別な呼び方があったのだろう、なるほど、
物部らしいと思った。
そう、「フツの御魂」という剣神霊を信仰しているのが物部氏だ。


小狭田彦が娘の常磐津姫とヤマトタケルの縁組をしたのも、
そのヨモギが原ということになる。

戦うときには香月氏は宗像氏と共に戦ったという。
香月氏の祖に市杵島姫の名前も見えることから、
両氏は長い間共闘関係にあったのだろう。

宗像氏の動向の伝承を初めて採取した。
宗像氏は大国主を祖とするので、遠賀川流域で活躍していたのだ。
なるほど。
ミッシングリングが少しずつ繋がっていく。



さて、香月氏は何故ここに移って来たのか、伺った。

もともと黒川の上流、シラキ川が注ぐ所に住んでいたが、
水が無かったので、現在地に移ってきたという。
氏子が周辺に多いのも理由の一つだと言われた。

移ってきたのは、古代の話だ。
現在地には近年まで水質のよい井戸があったが、
炭鉱のために水が出なくなったという。

また、黒川も洪水で氾濫して、一面水浸しになるという話も伺った。

当宮はもともと「日本武尊」のみを祀っていたが、
先祖の夢で、それでは寂しいからと、新たに三祭神を合わせ、
四柱を祀っているという。
三祭神とは神功皇后、仲哀天皇、仁徳天皇だ。

まだ「スギモリ」も「杉森」から「杉守」と変わった。


家に戻って黒川の水域を調べていると、金剛山を回りこんでいることが分かった。
金剛山!
そう、そこには川上タケルの弟がいたはずだ。


「脇巫女27」でそのことを考察している。
◇◇ ◇

小狭田彦は本名は常盤津彦と言った。
幼少より賢明で、いつも山間の狭い土地を開墾していたから、
小狭田彦と言うようになった。

景行天皇が来て、しばし小狭田彦の居館に留まり、移っていく。

のちにヤマトタケルもやって来て滞在する。
小狭田彦の住まいは香月庄。現在杉守神社の所か。
あるいは寿福寺か。

小狭田彦は娘の常磐津姫を差し出した。

この近くの金剛山に熊襲が住んでいた。
そのクマソとは火国の川上梟師の弟で、江上梟師(たける)と言った。
日本武尊は黒崎より上陸して笹田の小狭田彦とともに黒川を渡り、
熊襲の軍を屠ったという。

杉守社伝に日本武尊が
「あな楽し、花の香り月清きところかな。
今よりこの地を香月のむらと名づくべし」
と名を賜ったのはこの時だろうか。
小狭田彦は香月氏となった。

◇◇ ◇

やはり、金剛山にいた江上タケルと一戦交えていた。


ヨモギが原に居た小狭田彦は娘をヤマトタケルに嫁がせた。

それから江上タケルや川上タケルとの戦いに勝ち、
褒賞として香月の姓を賜った。

その後、小狭田彦の夢に亡くなったヤマトタケルが現れて、
白鳥となって、この地に飛んで来よう、
と言ったことに因んでここに祀るようになったとする。





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杉守神社では宮司さんにお忙しいなか、お話を聞かせていただきました。

改めて、お礼を申し上げます。



杉守神社






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by lunabura | 2016-05-12 22:00 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(6)

馬上の武人1 饒速日の九代目


馬上の武人1
WAKIMIKO
饒速日の九代目 物部膽咋


2月の遠賀水軍の話の件は、まだ正式な依頼があっていないので、
詳細を告知できないでいるが、
今回の試みとして、列伝方式でやろうと思っている。

そこで、物部膽咋(いくひ)の拠点を探してみた。
「徳力」(とくりき)の地名の由来である「採り木」に関連するのが膽咋だ。
小倉(こくら)にある。

過去記事では「大元稲荷造化宮」としてUPしているが、
今は神理教の境内社となっているもよう。

そこで、神理教のHPを見ると、
膽咋は饒速日(にぎはやひ)の九代目と書いてあった。

膽咋は娘を景行天皇に嫁がせている。
また、山下影姫に武内宿禰が生まれると、
自分の妻の幸を乳母に差し出している。

この幸夫人が高良下宮社の幸神社の祭神だ。
武内宿禰を育てた人として、敬われたのだろう。

膽咋の娘が景行天皇に嫁ぐのだから、
神功皇后の時代には長老的な立場だということが分かる。

その膽咋が神功皇后を案内して徳力に連れて来ている。

目的は「採り木」すなわち造船のための木材調達ということだが、
大元稲荷造化宮の急勾配の小山はいかにも武器庫を思わせた。

膽咋は武器の準備の進捗を皇后に見せたのだろう。

この時には阿部高麿・助麿兄弟が護衛をしていた。

残念ながらこの兄弟は数年後に新羅が皇居を襲った時、
天皇と皇后を守って戦死した。
この時の皇居は、もちろん下関の豊浦宮(忌宮神社)だ。
決して奈良ではない。

戦死した兄弟は宮地嶽神社の失われた祭神だった。
だから、安曇族だ。

この時代は物部氏と安曇族は蜜月だったようだ。




このあと、物部氏の十九代または二十代の頃に磐井の乱があった。
膽咋の末裔は物部麁鹿火(あらかひ)側についた。

これは香月氏と同じだ。
香月氏も饒速日の末裔だった。
そして麁鹿火側についた。



――安曇系の磐井と饒速日系の物部の戦い。
そんな縮図が透けて見えてくる。

『日本書紀』を読むと、
継体天皇側と磐井側は、山を隔てているが、海は隔てていない。
同じ陸の戦いとしか解釈できないのだ。

これは何を意味するのか。
筑紫と豊の戦い。
それが磐井の乱だったのだろうか。

ところが、豊側の継体天皇と麁鹿火が次々に死んで
戦いはうやむやに終焉してしまった。

そして、少々変化しつつも元の棲み分けに戻った。

そんな世界が見えて、茫然とする。




神理教




追記
「馬上の武人」シリーズを新たに立てて古墳時代の歴史を探る。
カテゴリは「脇巫女」。



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by lunabura | 2016-01-28 22:30 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(2)

岡田宮・神武天皇とタカミムスビ神と熊鰐

岡田宮
北九州市八幡西区岡田町
神武天皇とタカミムスビ神と熊鰐

岡田宮はJR黒崎駅から600mほど南に下った所にあります。
近くの地名が熊手・熊西などなど。これは熊族に関わる地名なのだろうか。
日本書紀などに出て来る岡田宮はここなのだろうか。
行ったら分かるのだろうか。そんな思いで宮を訪れました。

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一の鳥居はビルの間ですが、駐車場は左の方から廻り込むとありました。

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一の鳥居から歩くと、すぐに参道が二手に分かれますが、どちらもOKです。

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緑の多い境内を歩いていくと神門前に出ました。

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拝殿です。御祭神は
中殿(岡田宮)神日本磐余彦命[神武天皇](カムヤマトイワレヒコノミコト)
右殿(熊手宮)大国主命(オオクニヌシノミコト)
          少彦名命(スクナヒコナノミコト)
          県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)
左殿(八所宮)高皇産霊神(タカミムスビノカミ)
          神皇産霊神(カミムスビノカミ)
          玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)
          生産霊神(イクムスビノカミ)
          足産霊神(タルムスビノカミ)
          大宮売神(オオミヤノメノカミ)
          事代主神(コトシロヌシノカミ)
          御膳神(ミケツカミ)

岡田宮、熊手宮、八所宮と、三つの宮が祀られていました。
まずは中殿の岡田宮、神武天皇について見てみましょう。

中殿(岡田宮)
岡田宮と言えば、記紀の神武天皇の巻に出て来るあの岡田宮でしょうか。
古事記と日本書紀の該当の部分を読んでみましょう。(るな訳)
古事記
イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。
そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。

そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年間滞在しました。さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

日本書紀
11月9日に天皇は筑紫国の岡水門に到着された
12月27日に安芸国に着いて埃宮(えのみや)で過ごされた。

古事記では「岡田の宮」、日本書紀では「岡の水門(みなと)」となっていました。
まさにこの宮は該当の宮なのか?
社務所で尋ねて見ました。すると思いがけず、
「この宮は江戸時代にここに遷宮したもので、神武天皇が祀った所は一宮神社ですよ。」と教えられました。それを示す由緒書きがこれです。
慶長10年(1605年)、黒崎城築城の際に筑前六宿の起点となりて、現在地に御遷座され、福岡藩祈祷社・黒崎宿の産土神と定めらる。

元の場所が分からず、さらに電話で尋ました。
すると現在の熊西2丁目の電停近くで、岡田宮跡の石碑もあるとの事でした。
古事記に書かれた場所が残っている!!
それは驚きでした。

そこで場所を伺って、日を改めて一宮神社にも参拝しました。その参拝記は
「一宮神社・神武天皇の磐境神籬・岡田宮あと」
http://lunabura.exblog.jp/17333319/

に書いています。神武天皇が祀った盤境神籬をそのまま見ることが出来ましたよ!
それから800年経って仲哀天皇と神功皇后がその盤境神籬に参拝した訳ですね。

左殿(八所宮)
この八所宮には神武天皇が祀った神々の名が伝えられていました。
元は八幡西区区役所の公園あたりにあったそうです。
     高皇産霊神(タカミムスビノカミ)    神皇産霊神(カミムスビノカミ)
     玉留産霊神(タマツメムスビノカミ)  生産霊神(イクムスビノカミ)
     足産霊神(タルムスビノカミ)      大宮売神(オオミヤノメノカミ)
     事代主神(コトシロヌシノカミ)     御膳神(ミケツカミ)
この八神は皇居でも祀られている神々だそうです。
大変興味深い祭神の組み合わせですが、
今回は第一の神の高皇産霊神(タカミムスビ神)に注目しましょう。

タカミムスビの神
「タカミムスビの神と神武天皇との関わり」が古事記に書かれています。
(タカミムスビ神=高木神)
イワレビコの命が熊野の村に着いた時に大きな熊がほのかに、ふっと出て来て、そのまま消えてしまいました。すると、イワレビコの命は急に疲れてしまい、また率いていた軍勢も皆疲れて倒れてしまいました。

この時、熊野の高倉下(たかくらじ)という者が、一振りの太刀を持って、天つ神の御子が倒れている所にやって来て、その太刀を献上しました。

すると、イワレビコの命はすぐに目が覚めて起き上がり、「長く寝たなあ。」と言われました。そして、その太刀を受け取ると、その熊野の山の荒ぶる神はひとりでに皆切り倒されました。すると惑わされて倒れていた軍勢も、みな目が覚めて起きました。

そこで、イワレビコの命が高倉下に、その太刀を手に入れた事情を尋ねると、高倉下は、こう答えました。
「こんな夢を見ました。天照大御神と高木の神の二柱の神が建御雷の神を召して、言われました。『葦原の中つ国はひどく騒いでいるようだ。我が御子たちが病んでいるらしい。その葦原の中つ国は、そもそもそなたが平定した国である。だから、そなた建御雷の神が天降りしなさい。』と。

そこでお答えになったのが、『私めが天降りしなくても、その国を平定した太刀が有るので、その太刀を下ろすのがよろしいでしょう。』と。(この太刀の名は佐士布都(さじふつの)神と言い、またの名は甕布都主(みかふつぬし)と言い、またの名は布都御魂(ふつみたま)と言う。この刀は石上神宮にある。)

そして、私にお告げになったのです。
『この刀を降ろす方法だが、高倉下よ、お前の家の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れる。だから、縁起をかついで、朝、目を覚ました時に、一番最初に目に入るようにして、天つ神の御子に奉りなさい。』と。

朝、目が覚めて、夢で教えられた通りに倉を見ると、本当に太刀がありました。だから、その太刀を持って献上しに参りました。」と高倉下は申し上げました。さらに付け加えて言いました。

「その時、また、高木の神が教え諭された事には、『天つ神の御子を、これより奥の方には、入らせないようにしなさい。荒ぶる神がとても多い。今、天から八咫烏(ヤタガラス)を遣わす。その八咫烏が道案内をするであろう。それが飛び立った後から、行軍されるように。』との事です。」

タカミムスビの神が高倉下(たかくらじ)を通して太刀(フツの御魂―石上神社蔵)と八咫烏を神武天皇に授ける内容です。

高天原の経営はアマテラス一人でなく、このタカミムスビの神がリードしています。
そしてこの八所宮の八神を見ると、アマテラスが入っていず、
第一神がタカミムスビの神となっています。これは大変興味深いですね。
(高良玉垂宮では山頂には、もともと高木の神が祀られていたのが麓に下りていますョ。⇒高樹神社)

夢のお告げを受けた高倉下については、
奥野正男氏が高倉神社と関わりがあるのではないかと論じています。
高倉下が物部氏だとすると、フツの御魂という神剣が石上神社に祀られる事にも上手く繋がって行きます。

高倉神社もまた岡の水門にあり、熊鰐とは川を挟んで協力し合っている様子が
これまでの逍遥で見えていました。

記紀に書かれている岡田宮は今も変わらず祀られていました。
熊野の村は紀伊半島でなく、この洞海湾での話の可能性はないか。そんな思いも最近はしています。

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(境内)

右殿(熊手宮)
熊手宮にはあの熊鰐が祀られていました。
神功皇后に援助を惜しまなかったその人柄の魅かれて、
私は熊族をもっと知りたいと思うようになったのですが、
この宮の由緒書きを見ていて、その冒頭に大きな情報があった事に気づきました。

岡田宮略記(HPより)
当宮は古代、崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を熊手と号す。

神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り、天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にあり。

仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り、八所神を親祭する由「日本書紀」にあり、これを岡田の三宮と称し「天」「地」「人」の三才を表す。

熊手宮は熊族が祖先神を奉斎した宮で、やはり一宮神社の所にあったそうです。
そこで地主神(じしゅしん)を祀っていました。
右殿(熊手宮)
大国主命(オオクニヌシノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
県主熊鰐命(アガタヌシクマワニノミコト)

これは…。
熊族は大国主命と少彦名命を祀っていた事になります。
あの熊鰐さんは出雲の神々を祀っていた?祖神は出雲神?

そんな疑問が起こったので、神社にお尋ねすると、
「はっきりとした社伝は伝わっていません。
二神が熊族の直接の守護神と結びつくかどうかは定かではなく、
当時、出雲から勧請されたのが祀られているのではないでしょうか。」
という内容のお答えでした。

それでも熊族と出雲の神々とは深い関わりがあるのがこれで分かりました。
宗像の姫神たちとも結ばれた大国主です。この洞海湾を必ず通ったはず。
これからも逍遥を重ねて行くと、
古代出雲のさらに原型となる姿が浮き彫りになるかも知れませんね。

さらにブログ名が「八咫烏の声」という事でその由来もお尋ねしました。
神武天皇を援けた二羽の鳥が「八咫烏と金の鳶(とび)」。
神の使いとして社殿の幡にも、この二羽が描かれていて、それから採ったという事でした。

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さて、拝殿の神額は貝原益軒が奉納したものだそうです。
筑前国続風土記でいつもお世話になってま~す。
益軒さんもこの宮をとても大切に思ったのですね。

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境内のイチョウ。
随分前に参拝した神社ですが直接話が聞けてよかったです。
いろいろとありがとうございました。

地図 岡田宮 一宮神社







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by lunabura | 2012-04-27 13:23 | 神社(オ) | Trackback | Comments(15)
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