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タグ:古代祭祀線 ( 8 ) タグの人気記事

「とひ」と「かひ」(2)纒向遺跡の場合


「とひ」と「かひ」(2)

纒向遺跡の場合


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(復元想像図 『邪馬台国 九州と近畿』より)

纒向遺跡に大型建物があった痕跡を示す柱穴があり、その中心線が東西を向いているという話があるので、
今回はその中心軸を確認してみたいと思います。

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図を見ると、東西線が右肩上がりでした。
春分秋分ラインは完全に東西でなくてはならないので、
この纒向の建物群の中心線は春分秋分の太陽祭祀線ではないことになります。
意外でした。
やはり自分の目で確かめないといけませんね。
この斜めのラインは夏至冬至の角度でもありません。

う~ん。
この傾きは「日拝塚古墳」と似ているな~。

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と思って日拝塚古墳を見ると、こちらの傾斜は意外に小さいですね。
纒向遺跡の方が傾斜が大きいのが分かりました。

次は西日本新聞の記事です。(2011.4.28)

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左下の図をみてください。
日拝塚古墳の東西線が右肩上がりなのは地殻変動によるズレかもしれないと思ったので、
纒向遺跡もその可能性があるかなと思って新聞の図を見ると、
四棟の建物のさらに東側に柱列があって、それが南北をきちんと意識しています。
ということは、このラインは地殻変動によるズレでもなく、太陽祭祀線でもないと思われます。

太陽祭祀線でなければ何でしょうか。
ラインの延長上に山の頂でもあれば山から気脈を引いたと解釈できるけど、
これは現地の人に観察をお願いするしかありません。

星かもしれない
もし山でもなく、やはり天体を意識したのではないかとこだわると、
あとは星の信仰の可能性が残っています。
一年の特定の日に東から姿を見せる守護星があったのでしょうか。

例えば、エジプトではシリウスの星の出がナイルの洪水を知らせるというように、
何かの星のイベントがあって、それを祀ったのかも知れません。

真鍋大覚は、「天皇は太陽を祭祀して、皇后は星を祭祀した」と伝えています。
香椎宮の場合、その星はスピカでした。

ベガという星があります。織姫星のことです。
古名で榧星(かやのほし)と呼んでいたそうです。
「カヤ」。

「カヤ」について「韓人倭人は織女を祈る天壇を伽耶と唱えた」と真鍋は伝えています。
                             (『儺の国の星』p158)

「伽耶」というのは朝鮮半島の南部の古代の国の名と思っていましたが、
「ベガを祀る天壇」もまた「伽耶」と呼んでいたというのです。
ベガはかつては北極星だった時代があるんですよね。
ざっと1万2000年前のことです。
今の北極星より強烈な光を発していました。
ベガが北極星の座を譲っても、その信仰は残ったかもしれません。

一方、神功皇后は背振山頂で双子座のカストルとポルックスを祀りました。
http://lunabura.exblog.jp/18632955/

このようなケースがあることから、何らかの星信仰を考えてもよいのかも知れません。
年に一回~数回、特定の日に、ま東より北にずれた方角から昇ってくる星。
1700年ほど前の星。
丹念にステラナビゲータなどを見て行けば分かるかもしれませんね。

「とひ」か「かひ」か、という点では現在の出土だけで判断すると、
槇向の人たちは「どちらでもない」ということになります。
でも南北の柱列があるのですから、その先に東西線が見つかるかも知れません。
もし別の建物が出てきたら、また推理を楽しみましょう。


ところで、槇向に景行天皇の伝承があり、都があったとしたら、
東征した神功皇后は最初にこの宮殿を目指したかもしれないな~。

亡き夫君・仲哀天皇の祖父の宮なのですから、縁故を頼るとしたらここしかないでしょう。
まずは祖先たちを祀るのが彼女のやり方ですから。
そう考えると、纒向遺跡の楽しみが新たに加わりました。
神功皇后はそののち、吉方を選んで稚桜宮に遷宮したのかもしれませんね。


※「かひ」とは夏至を元旦とする氏族であり、「とひ」とは冬至を元旦とする氏族です。


「とひ」と「かひ」(1) 吉野ヶ里は「かひ」族
http://lunabura.exblog.jp/20267331/

で説明しています。






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by lunabura | 2013-05-27 21:18 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(14)

「とひ」と「かひ」(1)・吉野ヶ里は「かひ」族


「とひ」と「かひ」(1)

吉野ヶ里は「かひ」族

久し振りに古代祭祀線のお話です。
各地から流入した渡来人たちが日本で融合していくなかで、
それぞれのルーツを辿るのに、神社の祭神は大きな指標になりますが、
祭祀線もまた指標になると思っています。

元旦をいつにする?
現在の日本は冬至から一週間ほどして、ですかね。
太陽や月のイベントはあまり関係ないみたい。
旧暦だったら、朔月つまり新月が目安だから、月の観測がメインですね。

インドネシア辺りでは今でも各民族ごとに暦が違うので、
何十というカレンダーがあるとラジオで聞いたけど、
古代日本もそんな感じだろうなと思っています。

で、いつもお世話になっている真鍋大覚の本に、
「かひ」と「とひ」の二つの氏族がいたということが書かれていたので、
今回はそれで吉野ヶ里遺跡を調べたいと思います。
(『儺の国の星・拾遺』p245)

昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元旦とする氏族であり、「とひ」とは冬至を元旦とする氏族であった。

春秋の世は朔旦冬至をもって暦を正し、この儀式は日本においても明治3(1870)年まで宮中で受け継がれてきた。しかし望旦夏至は、舒明帝(631)あたりまでは何とか維持されていたものとみえるが、敏達帝12(583)年に百済の暦書を太宰府が編輯する頃から、万邦世界に普遍な暦法も必要になってくるところから、次第に両方併用の時代に移り変わってきた。
「かひ」と「とひ」。
「かひ」族は夏至が元旦となるので、東の空を観察して、
一番北から朝日が昇る日からカレンダーが始まります。蒸し暑い季節ですね。

「とひ」族は冬至が元旦になるので、一番南から朝日が昇る日がカレンダーの始まりとなります。
真冬の観測になります。

日本では「朔旦冬至」が元旦だったということなので、
冬至の寒い季節、新月が昇る日を観測していたことになります。
新月の月の出と日の出は同じ時間ごろなので、
夜明け前、雪が降るような季節に三日月より細い月が昇るのですから、
凍りつくような光景が目に浮かびます。

しかし、舒明天皇のころまでは「望旦夏至」が維持されていたということです。
「望」は満月、「旦」は朝だから、夏至の頃の満月の朝が一年の始まりになります。
一晩中夜空を旅する満月が西に沈むとき、
振り返ると東から朝日が昇るのを観測したということになりますね。
梅雨どきだから、なかなか観測しづらかったと思います。

満月と朝日の間に立つ、何とも美しき宇宙の計らいの時。
私も二度ほどその時を経験したのですが、心が壮大になった記憶があります。

ひんがしの 野にかぎろいの 立つ見えて かえり見すれば 月傾きぬ
(東の野に曙の光が薄紫の光をすっと立てた。
振り返ると、一晩中煌々と照らしていた満月が沈もうとしている。)

この歌はそんな満月の入りと日の出の時をうたったものなんですね。

あれ、そういえば今夜は満月?
日の出は5:12
月の入りは5:02
だね。

で、今日調べたいのは吉野ヶ里遺跡。

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このロケットを斜めにしたような超現代的なデザインの外周を見ていると、前方後円墳を思い出してしまう。

ロケットの先端が祭祀方向かと思いきや、こちらは「冬至日没」
ロケットの足元の方が「夏至の日の出」

(この赤いラインが正しいかどうかは、あるプラネタリウムに行って確認済み。)

吉野ヶ里族は夏至の日の出を観測しているので、「かひ」族としていいのかな。

さて、真鍋大覚の続き。
かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曽我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。皇極帝4(645)年はまさに暦法の賛否を巡って中大兄皇子(619~672)の激烈な論争と対決が背景にあったことを心がけなければならない。

「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが今はない。所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。

月に女人を事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。


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これは以前に作った地図。

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これも、真鍋伝承を描いたもの。
『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(へぐり)は、かつての平群氏の故郷であった。
p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。

平群氏は「かひ」族。曽我氏は「とひ族」
吉野ヶ里は「かひ」族。そして吉野ヶ里遺跡は平群の南にある。

そういえば、糸島の宇美八幡宮は平群のツクの末裔だったな…。
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔だった。
どっちも竹内宿禰の子。

何かつながらないかな~。

満月の夜は妄想もぼんやり。




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by lunabura | 2013-05-25 21:11 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(0)

アイルランドのニューグレンジ・5000年前の冬至の祭祀線


ニューグレンジ
アイルランド
5000年前の冬至の朝日が射し込む遺跡


忘年会のシーズンになると、仕事を終えて外に出るとすでに真っ暗。
冬至の12月22日まで、日暮れはだんだん早くなる。
日本でもこんなに日暮れが早い。
アイルランドになると、日暮はもっと早いし、朝日はいったい何時に出るのだろうか。

私がスコットランドを訪れたのは二回とも6月だったので、逆に一晩中明るかった。
300年ぐらい前のホテルの軒先では、
若い女の子たちが一晩中ハイテンションでたむろしていた。

窓から見える羊たちも、夜中でも普通に起きていた。いつ寝るのだろうか。
これが真冬の暗いシーズンに、羊たちはどうしているのだろうか、
日本からは想像できない北の暮らし。

北の国、アイルランドのニューグレンジは冬至の朝日が差し込むように出来ているという。
いつの時代って?
それが5000年前らしい。
今日もNHKのテレビの画面を見ながら。

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ニューグレンジの塚は直径90m、高さ10m。
白い壁は復元された時に垂直に、コンクリートで固められたものだそうで、
足元に散乱していた石を積み上げて、こんな近代的な形になっているとか。

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1699年にこの石が最初に発見された。渦巻がいくつも描かれている。

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その石の上にぽっかりと空いたルーフボックス。ここから太陽光が射し込む。

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中は17mの通路。ルーフボックスがやや上部にあるのも、計算されている証し。

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光が射し込んだ時の実際の映像?

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光が奥まで届いたとき、右の部屋が光る、という話だったと記憶するけど…。

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これがその右の部屋。テーブル石が鏡のように光っている。

私の記憶が正しいとしたら、これはすごい仕掛け。
目で冬至の朝の瞬間が確認できるんだ。

現在は日の出から4分後に日光が射し込むそうで、歳差に基づいて計算すると、
5000年前は日の出と同時に差し込んでいたという。
たった4分しか違わないとすると、かえって驚き。

日本の平原遺跡では日の出が1800年間で一か月近くの差になっている。
やはり九州島の回転など、多くの要因を調べないと、正しい歳差は出ないのかな。

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これは外壁の一部。全体がカレンダーを表しているという説が紹介されていた。
渦の下の斜め格子を見たら、日本の装飾古墳の壁画を思い出しちゃった。

日本で発見されるペトログリフについては、
シュメールの神官とケルトの船乗りたちが一緒にやって来たという説が主流だけど、
ダーナ神族の存在を知ってから、
ダーナ神族とケルト族が日本にやって来た可能性はないかなと考えるようになった。






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by lunabura | 2012-12-07 22:21 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(2)

アイルランドのロッホクルー ・奥壁に描かれた太陽光の足跡


ロッホクルー

アイルランド
奥壁に描かれた太陽光の足跡 

前回の砥上観音塚古墳の中の*や◎のマークを見て、思い出したのが、
テレビで放送されたアイルランドのマウンドの中の装飾壁画。

2010年の9月のNHKの放送を見ながら撮影したもので、
タイトルも説明も記憶にないのですが、百聞は一見にしかず。
見てみましょう。

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イギリス北部にはレイラインがあって、その線上にあるのがこのロッホクルーの遺跡。

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まるで天井石が無くなった古墳そっくりのもの。

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その向こうにマウンドが。積石塚と見まがう。
マウンドの右端に二人が立っていますが、そこに入口らしき突起。

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羨道に当たる部分はすでに線刻画。

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ライトアップされた奥壁。右にある丸に花のようなマークが太陽のしるし。
それが複数ある。

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上部の太陽のペトログリフに光が当たっていくようす。
周囲のばらばらの線刻画は、山口県の彦島のペトログリフと似てない!?

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「すべて太陽のしるしをなぞっていくんですか?」
「そうです。」

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右下の太陽のしるしにも当たった。
(しかし、どうして光がスポットのように当たるのかは不明。
懐中電灯を当てただけかもしれない…。)

c0222861_2175933.jpg

これは奥の部屋から外を見た様子かな…。
小口の積石が見えます。
これって、日本の古墳と比べてどうなんだろう。

筑後国造さん、蕨手さんは沢山の古墳を見ているから、どんな印象かな。

砥上観音塚古墳の壁画を見て、こんな番組があったのを思い出しました。
さて、砥上観音塚古墳のマークに太陽光は当たるのかな?

砥上観音塚古墳の壁画はコチラ 
「山歩き古墳巡り」
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-423.html#more

追記
ロッホクルーは紀元前4000年、ダーナ神族の遺跡。
春分と秋分の朝日が最奥の奥壁まで届くという。






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by lunabura | 2012-11-28 21:12 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(2)

太陽祭祀線 覚え書き


ずっとブログ更新が御無沙汰ですが、訪問して下さっている皆様ありがとうございます。

ガイドブックの読者層のターゲットを変えたので、全面的に書き換えています。
大変ですが、あらたに気づく事が多くて、勉強になっています。

今回は私のブログの弱点(・.・;)である「山の上の神社や古墳」をレポートされている
筑後国造さんの、「砥上観音塚古墳」でのアイデアに触発されて
思い出話をつらつらと。

「山歩き古墳巡り」
砥上観音塚古墳
http://riki82.blog78.fc2.com/blog-entry-423.html#more

これは神功皇后が羽白熊鷲攻撃の前に登った山と言われていている砥上山にある
装飾古墳です。
ちょうど西日が古墳の奥に入り込んで来た時、
中の太陽か星を表している*や◎のマークの上に
夏至や春分の日に、太陽光線が当たるような仕組みになっているのではないかと
ひらめいたという事です。

このように*や◎のマークが、正面でなく、ずれた位置に描いてあるという点で
アイルランドの遺跡がまさしくそっくりなんです。
太陽光線が移動しながらそのマークをなぞって行く。
そんなテレビ番組があったので、見た方も多いと思います。
(例の如く、名前も忘れてすんまっせん)

私はスコットランドの方に行ったのですが、
円墳そっくりのマウンド中に入ったことがあります。
中は竹原古墳のようにドーム型になっていました。
そして、やはり夏至か冬至の光が差し込むように設計されていました。

スコットランドは緯度が高いので、夏は夜中の10時過ぎでも明るいのですが、
逆に冬は早くから日が暮れるので、冬至の日の到来を心待ちにしたようです。

遺跡に太陽観測の仕掛けをしたものがざらにありました。
ストーンヘンジもまた夏至に関わるものでした。
(石のサークルと木のサークルのツインサークルだと放送されていました。)

実は日本でもそのような仕掛けのある神社があります。
一つは大分県の八所神社(?これもまた名前を覚えていない…)でしたか、
洞窟の神社を探し廻って三つ目の神社。
そこに辿りついて中に入った時、入り日がすうっと差し込んで、奥壁を照らしました。
その日は春分の日でした。

また、福岡県の宝珠山の神社。
岸壁に彫り込まれた穴。それは「大日社」と書かれていたと思います。
そこに立つと東に三角形の山が見えました。
春分の日はきっとその左から太陽が昇るだろうと思われる地形でした。
古代の太陽祭祀の遺跡に仏教が入っ来て大日如来を祀る事になったのだろうと
話し合ったものです。

吉野ヶ里遺跡があれほど綿密な夏至冬至ラインを祭祀する仕組みを作っていたのは
私にとってはかなりの衝撃でした。
そして、その夏至ラインを観測しようとすると、日本では梅雨に引っ掛かって、
なかなか出来ないのです。
これは日本にやって来た夏至族(と勝手に呼んでますが)の不幸でした。

纒向遺跡を祭祀した人たちは春分ラインを祭祀しているので、全く別民族です。

砥上観音塚古墳の記事を見て、そんな事を思い出しました。

今回は備忘の為に書きましたが、いずれはこれらを紹介したいと思います。

さて、御心配のマカフィーは上手くいってます。
最初は一ページ開くのに7秒から2分ほどかかってましたが、今は数秒で開きます。
(これが重いという現象なんですね。)








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by lunabura | 2012-11-27 23:11 | 太陽祭祀線 覚え書き | Trackback | Comments(4)

吉野ヶ里歴史公園(3)王墓と祭祀線と徐福伝説


吉野ヶ里歴史公園(3)
王墓と祭祀線と徐福伝


墳丘墓には行かなかったので、王墓についてはまたの機会にと思ったのですが、
今朝の夢で「王墓」と出たので書く事にしました。
次回訪問する時のための予習かな。
資料は「弥生時代の吉野ヶ里」(佐賀県教育委員会)です。

太陽祭祀線
前回、北内郭の主祭殿に登りましたが、地図をよく見ると
この主祭殿を守る二重の環濠は左右対称の不思議な形をしています。(赤丸)

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明らかに中心軸を持っているのが分かりますね。
軸は夏至の日の出冬至の日没ラインに乗っているそうです。
これは彼らの作るカレンダーが夏至の日の出を基準にしている事を示しています。
その軸上に建物が二つあります。ここで祭祀するのでしょうか。
これは次回訪問のお楽しみ。

王墓祭祀線
環濠の主軸に対して主祭殿の向きは、ずれています。
この16本の柱の軸は北にある王墓の中心軸に繋がっていました。
その中心軸を南に延長すると祭壇があります。
大きな地図で見るとさらに長い祭祀線が見えて来ます。

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物見櫓でガイドの人が他の人に説明をしていたのですが、
「南北の祭祀線がある事から、中国の影響を受けています。
東背振山から引いています。」
という言葉が聞こえて来ました。

その前の話を聞いていないので間違えていたら申し訳ないのですが、
今思えばこの王墓祭祀線だと思われます。
正確には南北線は写真のように少しずれています。
南北は厳密に測量されるはずですから、
このずれは研究するべき大事なポイントですが、今の私には分かりません。

「中国の影響」と聞いて私は徐福の渡来を思い浮かべました。
徐福は目の前の有明海から上陸しました。
徐福伝説は和歌山の方が有名で、佐賀県の伝承はあまり知られていません。

何隻も一緒にやって来たので、日本の各地にバラバラになって到着しています。
その一つが佐賀県で、金立(きんりゅう)という所です。
私も断片的に聞くだけで、もっとすっきりと
アウトラインが分からないかなと思っていたのですが、
これまた森浩一氏が見事にまとめた記事が掲載されました。
「忘れえぬ人―森浩一の交友録 13 内藤大典さん」
(西日本新聞2011,11,15)です。その一部を抜粋します。

内藤さんは(略)日本でも有明海沿岸、とくに佐賀平野にある徐福伝説と弥生遺跡を対応させ、解明の手掛かりがえられないかと着目された。(略)

徐福は秦の始皇帝と同時代の方士(宗教家)である。徐福は東方に理想的な国土のあることを知って、始皇帝に航海の費用を出させ、前210年ごろに山東半島から船出をした。

この旅は三千人の童男や童女や百工をつれ、五穀の種子をも携えたもので(目的地に着いてから)、平原広沢(の地)をえてそこに止まり、王となって戻らなかったという(『史記』秦始皇本紀、准南・衝山列伝)。

これは大規模な集団をつれての計画的な移住記事とみてよい。これに類する記録は沢山ある。その後秦は衰退し、滅亡する。そのことを予想しての行動であろう。

 三千人の童男・童女とは、移住先で結婚して子供を増やせる若い男女の意味であろう。歳をとった老男老女では、新しい土地で人口が増えることは期待できない。

 日本列島には約十ヶ所の地が徐福伝説をのこしている。有明海沿岸地域と鹿児島県や宮崎県、日本海沿岸では丹後、太平洋沿岸では和歌山県と三重県にまたがっての熊野などである。

 これらの徐福伝説のある土地のうち、地域の信仰と結びついているのが、これから述べる佐賀平野である。なお福岡県八女市にも根強い伝説がある。

 僕は前に自分なりに徐福伝説を整理するために、以上の関係する土地を踏査し、図説日本の古代一巻の『海を渡った人びと』の中の「有明海を通じての交流」の章に「生きつづける徐福伝説」を書いた。平成元(1989)年だった。

 その中で述べたことだが、佐賀平野を見下ろす背振山の一つの峰として金立山(きんりゅうさん)がそびえ、そこに金立神社の上宮がある。中腹に中宮、麓の佐賀平野に下宮がある。

佐賀平野の徐福伝説は金立山の眼下に展開する佐賀平野、さらに海岸の佐賀市諸富町にかけての地域に残っているのである。

 この地域では、農民の信仰行事として正月に「金立さんみやーい(詣り)」が続いているし、五十年に一度の例大祭では、徐福が金立山に入ったと伝える逆の道筋を通って神輿(みこし)が通る。

 金立神社には、徐福一行の有明海上陸を描いた「金立社画図縁起」一幅が伝わる。これを実見した時、よく描かれていることと中世まで製作年が遡(さかのぼ)りそうだと感じた。

 このような徐福伝説がる佐賀平野に、弥生時代の集落跡としての吉野ヶ里遺跡がある。内藤さんは佐賀平野の徐福伝説と吉野ヶ里遺跡の関係を解明するため、晩年に著作を始めた。

原稿がある程度できるとコピーが送られてきて意見を求められた。僕も忙しい時期だったが、できるだけ協力した。原稿が予定の半ばまでに達し出版社も決まったころ、内藤さんの生涯は終わった。

 一言つけ加えると、一昔前には弥生時代には農村(ムラ)ばかりという見方が支配的だった、だが吉野ヶ里の出現によって、そのような固定観念が激変した。
 
 『魏志』倭人伝に国邑(こくゆう)という言葉がでている。この国は倭国とか日本国などのように広大な範囲ではなく、伊都国とか奴国など、今日の一郡か一市ぐらいの範囲である。小都市とみてよかろう。吉野ヶ里遺跡も国邑の一つとみられる。

 吉野ヶ里遺跡では各種の青銅器を製作していた。しかも玄界灘沿岸地域より早く開始されていたとみられる。この政策にたずさわったような人が百工(のうちの一つ)であろう。
(後略)
 

地名が県外の方には分かりにくいと思いますが、
金立と吉野ヶ里の距離はわずか約8キロです。
吉野ヶ里の集落が形成され始めてしばらくして、
すぐ近くに秦の文化を持った集団がやって来て住みついたのです。
影響が多大だったと思われます。
内藤さんの研究が出版されなくて残念ですね。

私の夢はこの徐福の記事を読み直せという事だったようです。






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by lunabura | 2011-12-09 21:53 | 吉野が里歴史公園 | Trackback | Comments(2)

御中主神社・古代祭祀線を追って

御中主神社
福岡県筑紫郡那珂川町片縄
古代祭祀線を追って

珍しく、くるま座さんから連絡がありました。
「天の御中主神社って、そんな名前の神社は聞いたことがないと思っていたら、那珂川町にあるって聞いて、今度行こうと地図に印をつけていたら、とてもびっくりしたんですよ。」
「なんですか?」
「それが、他の神社と一直線上に並ぶんです。」
「へえ、そうなんですか。」
「南北ラインでは、北は名島神社箱崎宮
南は現人神社、裂田神社、日吉神社、不動岩、そして何故かグリーンピア那珂川がライン上に乗ってくるんです。」
「え~?那珂川の真北が箱崎宮と名島神社なんですか?」
「そうなんです。」
「南も有名な神社ばかりですね。
グリーンピアも、もともとイヤシロ地だったのを知らずに作ったのかも。」

「それがですね、さらに驚いたのが、東西にもラインが出たんです。」
「東西?」
「そうなんです。西は日向峠で東は日拝塚古墳、太宰府天満宮、大根地山なんです」
「ひ、ひなた峠!!!太宰府天満宮?」
「ただし、東西線は微妙にずれています。」

「東西線は、歳差運動でずれている可能性がありますよね。」
「そうなんですか。」
「測量線は厳密で、日の出が誰が見ても、ずれるようになったら遷都をしなくてはならなかったのです。70年で一日ずれます。東西ラインがずれていたら、逆算すると測量した年が却って分かるかも知れません。」
「70年。」
「真鍋大覚さんがそう書いているのです。」
「そうですか。その天之御中主神社に連休に行こうと思ってるんですが。」
「え?れ、連休?行きます。行きます。連れて行って下さい。」

という訳でようやく那珂川町へ行く機会が出来ました。
1週間前に九州歴史博物館で安徳台の展示を見たばかりだったので、
いつになったら行けるのだろうかと思っていた矢先でした。

安徳台では紀元前2世紀の製鉄跡が見つかっていて、早くから栄えていたようす。
その安徳台が那珂川町にあるのです。
それに加えて、この町こそ真鍋大覚氏のホームグラウンドなのです。

こうして、数人で那珂川町の逍遥へ。

込み入った住宅街の中をぐるぐると探して小さな神社に着きました。
扁額を見ると「御中主神社」と書いてあります。
これが神社の正式名かどうかは、まだ未確認です。

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カーブした道路からすぐに一の鳥居がありました。

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昔のままの小さな祠に屋根覆いがしてあります。
地元の氏神さまとして大切に守られているようすでした。

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参拝を済ませて祠の中を見ると、キューピーさんがたくさん置かれていました。
その後ろに丸い御神体石があります。

境内は家が数件分の広さぐらいでしょうか。
祠の裏が小山になっていて、山に向かっての信仰があったような形跡があります。

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この写真の左手が小山です。
かつては大きめの円墳があったような雰囲気で数メートルの高さがあり、
そちらに祭祀点があるような印象を受けました。
宅地が山肌を削りながら迫っています。
イヤシロ地を中心に住宅が迫ってくる場所は、
かつてエネルギースポットだった可能性があります。

古代に祭祀点を決めた時、目印に置くものは石ぐらいしかありません。
しかしあっという間に樹木に覆われてしまいます。
埋もれてしまった祭祀点に祠を置いたりして、
神社の形式を取り始めたのが崇神天皇です。

ここが「天の御中主の神」を祀る神社で、東西線と南北線の中心地だとすると、
何らかの盤座があるのかもしれません。

この神社の由来などに関しては、文献に当たっていないので、
また、おいおい調べて行きましょう。

古代祭祀線を調べるには国土地理院発行の広い地図を使います。
直線上にあると言う時は、少々の誤差も認められません。
古代の人の測量技術は、現代と同じだそうです。
そうでないと、宮殿や寺院は建たないし、船も作れません。

「電波の中継点を作る為に測量して山に入ると、
基準点に盤座が既にあるんだよねえ。昔の人はどうやって測量したんだろ。」
と、関係者が話していたのを思い出しました。

前回、摩利支神社で「天の御中主」を調べて、
「北極星の神」と「曙の神」が合祀されているケースが多いことが分かりました。
これって、「北」と「東」の事ですよね。

もしかしたら、この「御中主」という名前には、
まさしく縦横に走る古代祭祀線の中心点を示している可能性があるのかも。

現地では廻りの山がどう見えるのかは全く確認出来ませんでした。
とりあえず、ライン上の神社を見てまわる事にしました。

このあと、まずは裂田神社に向かいました。

御中主神社 名島神社、箱崎宮、現人神社、日向峠、太宰府天満宮、大根地山

なるほど、それらしきラインが出て来ましたゾ。



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by lunabura | 2011-05-07 14:56 | 御中主神社・みなかぬし・那珂川 | Trackback | Comments(6)

平原遺跡(4)置かれていた鉄の工作道具・南朝鮮に住んだ弥生人


平原遺跡(4)
置かれていた鉄の工作道具
弥生人と南朝鮮の交流は鉄がポイント?


太陽祭祀線
さて、空から古代祭祀線を見たいというリクエストにお応えして、
航空写真に、柱と鳥居を置いて見ました。
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一の鳥居と、墓の上の二本の杭第一の柱が一直線です。
(四本の杭は分かりませんでした。)赤いラインの延長上に日向峠があります。
空からでは、日向峠がずれて見えますが、地上では、まっすぐ指すのが
確認されています。(その写真は、伊都国歴史博物館にあります。)
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(日向峠からの日の出 報告書より)
現在ではその日向峠に朝日が出るのは、10月20日です。
1800年前は、秋分の9月20日頃に出たのでしょうか。
(歳差運動が分かる人がいないかな…。)
いずれにしろ、この平原の一族は暦を重視していたのが立証されました。

鉄の工作道具
この平原遺跡は、割られていた巨大な鏡が一番の特徴ですが、
測量図を見ていると、墓の周りに鉄製品や砥石があるのが気になりました。
そこで、その位置を写真に乗せて見ました。
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鉄のオノ、刀子、ノミ、キリ、ヤジリがぐるりと置かれています。
(刀子は別の墓の副葬品の可能性あり。)
それに砥石も二つあります。
特に、1号鳥居の下には砥石。3号鳥居の下には矢じり があります。
この出土状況から、これらは供えられたものではないかと考えました。
当時、鉄器は特に貴重品だったはずです。
それを供えたのは被葬者への余程の敬愛があるからではないかと思いました。

「太陽祭祀線」と「鉄器の埋納」を組み合わせると、
この墓を造って祀った人たちの可能性は、

1.太陽祭祀線を重視した部族である。
2.鉄の道具を使って、鉄製品か青銅器か、あるいはガラス製品を作る部族である。

と考えました。この墓の副葬品を思い出すと、
勾玉はガラス製、鏡は青銅製、素環頭の刀は鉄製でした。
近くの遺跡に工房は出てないのかなと探したら、ありましたよ!

弥生時代の伊都国の特産品
伊都国では工房の遺跡が出ています。

伊都国による独占的な交易のあり方は、弥生時代終末~古墳時代初頭に変化が生じ、博多湾沿岸部を含めて活発な交易が展開されるようになる。

潤地頭給(うるうじとうきゅう)遺跡で水晶・碧玉を主体とする大規模な玉類製作が、(略)大塚遺跡や博多遺跡群では鍛冶の技術がいち早く導入されている。

伊都国東部から奴国北部において、朝鮮半島の鉄素材との交換材としての様々な製品の生産体制が整備され、今津湾・博多湾を重視した交易の多様化が見てとれる。
『玄海灘を制したものー伊都国王と宗像の君』(伊都国歴史博物館刊)

なるほど、やはり鍛冶集団がいたんですね。それに、玉も作ってた。

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(『玄海灘を制したもの』より、一部改変)

この地図によると、平原遺跡から歩いて行ける所に、玉作り工房と鍛冶工房が
ありました。時代は平原遺跡より少し後でしょうか。
三雲・井原遺跡は歴代の王の都です。
平原遺跡は、少し系統が違っていると言われています。

南朝鮮に弥生人の生活の跡があった。
そして、昨日、新聞の「考古学トピックス」で、
「韓国・金海亀山洞(キメクサンドン)遺跡に弥生人の集住を示す土器」
という記事が出ていました。内容をまとめて紹介します。
亀山洞遺跡では、大量の弥生系土器が出た。時期は弥生時代前期の終わりから中期の前半である。その調査から、弥生人やその子孫が村の中の一部に集住しながらも、地元の人たちと共に住んでいた事が分かった。弥生人は幾度となくここに来ている。

では、彼らは何をしに来たのか。ここで出た、鋳造鉄斧(てっぷ)の破片からみて、鉄器やその原料、あるいは製作技術の獲得が大きな目的であった。
一方、弥生人をうけいれた無文土器人側の理由には、コメや塩、木材、海産物、労働力などの獲得が想定されるが、明確な証拠がなく、今後の検討課題である。
中心の金海会峴里(フェヒョンリ)貝塚では弥生後期の近江系土器や弥生前期土器も出ている。  武末純一 (西日本新聞 2010年11月22日)
これを見ると、鍛冶の技術を獲得するために、弥生人が住み着いていて、
しかも、倭国と行き来していた事が分かります。
輸出品には玉製品もあったのが、工房跡から考えられます。
「弥生時代前期の終わりから中期」って、紀元前200年から紀元100年の頃?
すると、平原遺跡より古くから交流があってたんだ。

鉄の民と言えば、これまで出て来たのは、加茂氏や物部氏でした。
大まかにいえば、加茂氏は主に農機具などを作って、八咫烏がシンボル。
物部氏は中東から来て、主に武器や馬具を作って、暦を持っていました。
高句麗壁画にも八咫烏と鍛冶の神が描かれていましたね。
この平原遺跡とどう繋がるのか、謎が多いけど、
少しずつアプローチ出来ればと思っています。

さて、遺跡巡りはこれくらいにして、伊都国をドライブしましょう。
やっぱ、海やね~。




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by lunabura | 2010-11-12 10:21 | 平原遺跡と伊都国歴史博物館 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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