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ひめちゃご104 始まりの宮へ



ひめちゃご104

始まりの宮へ
 

物部神社から姫方若宮八幡宮へ向かった。

「ひめちゃご」の始まりの宮だ。







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真直ぐの古代道が綾部八幡宮まで続くという。
その途中に姫方若宮八幡宮がある。

狭い車道を北上した。

この日、ウメとタケと私は現地でミノリ一家と合流した。

ミノリこそ「ひめちゃご」という言葉を生み出した人だった。






民家の前を通って
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狭い参道を上っていくと、









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見慣れた姫方若宮八幡宮に出た。
銀杏が輝く季節だった。


ここもまた古代の岬の先端に建っていた。
ここから見える山々は古代の天文観測の名残を教えてくれた。



この宮の祭神は『中原町史』によると、
住吉大神、仁徳大神、武内大臣となっている。

八幡三神でも、次世代の三神ということか、
応神天皇の名が見られない。










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その拝殿にはめずらしい葡萄が彫られていた。
江戸時代の建造なのか、明治に入っての建造かは不明だが、
葡萄とはこれまた瀟洒な西洋的モチーフだ。











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神殿の方には龍と桐。天皇を祀るにふさわしい。










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ところが、他はどうだ。










c0222861_217861.jpg

波と花に埋め尽くされていた。

いかにも女神の装いなのだ。

ミノリが参拝する時に現れるのは女神だという。


この姫神が誰なのか、それを探す旅でもあったのだろうが、
市杵島姫命が最有力候補だった。


町史も
「原始八幡信仰の神籬から、宗像女神に、宇佐八幡系が入りこみ、
若宮八幡の占有する姿を漂わせている気がする。」
と書いている。

この「中原宿は姫方村の枝村であった」ので、
そこと同じ神を祀っていた可能性があると考えているようだ。

この点は氏子からも「同じ神を祀っている」と聞いている。

町史はさらに、次のように鳥栖の「姫古曽神社」を引き合いに出していた。

<鳥栖市旧基里邑に「姫古曽神社」があって、集落を姫方とよぶ。
祭神は「市杵島姫命、住吉大神、八幡大神」である>

総合すると、この「姫方若宮八幡宮」は鳥栖の姫方の飛び地なので、
「市杵島姫命」を祀っていたと考えられるのだ。

時代は違うが、ここには「中原宿」があり、伊能忠敬が宿泊していた。

<肥前国三根郡なる堤村、寒水村字中島姫方村内中原町駅場止宿>
と書いていることから、当地は「姫方村」と称していたことが分かる。


明治になって、鳥栖の方の祭神は元の形に復元されて
市杵島姫命が再び祀られるようになったが、
この枝村には及ばなかったのだろう。

市杵島姫命の名は公には出ないままとなった、と考える。



神殿に彫られた「波と花」。
それらは市杵島姫命が「水」を司ることを象徴していると思われた。

恵みをもたらす側面と災害をもたらす側面の
二つの顔を持つ「水の女神」
それが市杵島姫命だったのではないか。







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さて、私たちは参拝を済ませると、
中原中学校の校庭にある前方後円墳に向かった。

『中原町史』は以下のように、被葬者を女首長と考えていた。


<中学校前提の前方後円墳に収めた墳主は、
この地の部族の女の首長ではなかったかと考えられる>
さらに、
<この神社のある姫方原一帯は広い範囲に、世代を異にする弥生住居跡が、
多数出土する遺跡である>
とも記す。

これは6世紀の古墳だそうだ。
グラウンドには弥生の墓地もたくさんあったのだろう。



このあと、私たちはさらに、北浦天神社と雌塚に行った。
日が沈む時間が近づいていた。

晩秋の姫方郷をそぞろ歩きして戻ってくるとき、ミノリが
「あの綺麗な女神は市杵島姫」
と言った。
やはり、そうだったのか。

ミノリは鞍手に行って星読とも会っている。

星読が、
イチキシマ姫は佐賀に逃げた、と言ったことを思い出す。
不思議な附合があったことになる。
こうして、ヒメコソ神の三社参りは五社参りとなった。


この「ひめちゃご」は2016年8月から書き始めていて、
いつのまにか一年以上も経っていた。

この始まりの宮で筆を置こうと思う。

すでに、次の巻物が開かれている。

何が書かれているのか、先はわからないが、
これからも日々の記録を残していこうと思う。





        終




                      <2017年11月3日>




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by lunabura | 2017-11-03 21:11 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご103 検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を



ひめちゃご103

検見谷遺跡付近地図に画竜点睛を
 


前回、検見谷遺跡の場所が分からないと書いたが、
チェリーが出土したという佐賀カントリー倶楽部の地図を作製してくれた。








c0222861_23225581.jpg


以下はそのコメント。

<いろんな地図を合成して、マウスでなぞったという荒い地図ですけど…
黒い線が佐賀カントリー倶楽部の範囲です。

赤い線が標高20mの等高線、暗い赤の線が標高30mの等高線です。

佐賀カントリーの左上の端あたりに、西から入って南に登る谷がありますが
(白石神社・白石焼窯元への道を登り詰めて、
クラブハウスへの道に合流して、南に進むのですが)、
佐賀カントリーに達する前に標高30mを超えてしまいます!
該当する場所が見つかりません!!>

赤い標高線のラインより4m高い所に遺跡があるという。
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。

この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、南へ入り込む小支谷の斜面上で、
標高約24メートルの場所である。>

これを追求するのも面白そうだが、これは是非とも地元の方にお願いしたい。


今、12本の銅矛は文化庁にあるという。
文化庁や他県の大学に行ったものは地元から忘れさられる可能性がある。

そうやって、九州の歴史は失われていく。

背振山系の南麓にはずらりと古代の最高レベルの文化が花開いている。

奇跡的に保存された吉野ケ里遺跡レベルのものが
台地ごとに存在して、古代人の営みがあったのだ。
その古代人の心の支えが神社だった。

佐賀の奇跡はもう一つ「肥前風土記」が伝わっていることだ。

景行天皇の時代を軸にして、古代道を今でも感じることができる。

誰か、チェリーの描いた地図に赤い点を打ってほしい。

画竜点睛。

方法は、検見谷遺跡の発掘報告書を手に入れるか、
佐賀カントリー倶楽部に問い合わせる。

そうして、その人には、新たな旅が始まるのだ。
古代の歴史がアイデンティティとなり、
次世代の子供たちのチカラとなっていくのだ。



<ひめちゃご>
<2017年11月1日>






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by lunabura | 2017-11-01 23:24 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご102 検見谷遺跡 12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった



ひめちゃご102

検見谷遺跡 

12本の綾杉文様の銅矛は出雲より多かった
 


さあ、弥生時代に遡ろう。

やけに遺跡が多い北茂安町だが、出土は22号線以北に集中するという。
そこまでは海が上がってこなかったのだ。

丘という丘は甕棺や住居跡だったのではないか、と想像したくなるほど多い。

そして、あの麗しき12本の中広型銅矛がこの地域から出土していた。








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この12本の銅矛が出たのは旧北茂安町だったが、場所が特定できない。

町史にその記述を見つけたが、
住所は「大字白壁字一の幡」としか書かれていない。

HPでも場所が示されていないという異常事態だ。

この場所について、町史では
<背振山地南麓から白壁地区に向かって延びる丘陵の西側に位置している。
この一帯の斜面にはたくさんの谷が複雑に入り込んでいるが、
銅矛出土地点は、その谷の一つの最奥部、
南へ入り込む小支谷の斜面上で、標高約24メートルの場所である。>
と書かれている。

これではいったいどこから出土したのか、全くわからない( ;∀;)

手掛かりは
<銅矛の発見は、(略)その土地を所有するゴルフ場の職員による
樹木移植作業中のことであった。>
とあり、そのゴルフ場が佐賀カントリー倶楽部だ
ということだけが分かった。

地図をいくつも照らし合わせるが、わからない。









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チェリーの地図だと、画面右下の丘陵地帯がゴルフ場らしい。

物部神社の東に谷がいくつもあるが、そのいずれかだろう。
さすがの、るな探偵もお手上げだ。

出土状況は12本を刃先と袋部を互い違いにして埋納していたという。
このような埋納法は
春日市岡本辻遺跡や那珂川町安徳遺跡と同じだそうだ。

銅矛の長さは82・2~83・8センチ。
綾杉状の文様が研ぎだされている。

これと共通点が多いのが島根県斐川町の荒神谷遺跡だという。
銅剣が358本出土したが、そのほかに16本の銅矛が出土している。

互い違いに置かれ、刃を立てた状態は検見谷遺跡と同じで、
丘陵斜面の中腹であり、
等高線とほぼ並行した状態で埋納されたという点でも一致しているそうだ。

荒神谷遺跡の16本の銅矛のうち、中広型は14本で、
綾杉文様があるのは7本だというので、検見谷遺跡の方が多い。

鋳型は北部九州や四国の西部に限られるということだが、
たしか、出雲の銅矛の鋳型は春日だと聞いたことがある。

出雲の銅鐸と「吉野ケ里遺跡から出土した銅鐸の鋳型」が一致した話もあり、
この佐賀東部と出雲との関連は検見谷の銅矛の出土から、
さらに深いものになった。

それにしても、どうしたことか。
荒神谷遺跡の出土地は簡単に見学できた。
それなのに、検見谷遺跡は出土地の確認さえ、一般人には出来ない。

さらに、六の幡遺跡の29号甕棺は弥生後期初頭で、
完形の連弧文昭明鏡という中国製の鏡が出ている。

なんだか、すごい出土品の数々なのだ。
こんな情報が今どき、ネットでも見られないのは問題だと思う。


さて、ここは風土記にも登場している。
どうやら、佐賀カントリー倶楽部は『肥前国風土記』では
三根郡に当たるようだ。

町史によると、
「三根郡は、『肥前風土記』によれば、海部直鳥が望んで、
神崎郷の一部をさいてつくったとされる。
郷は千栗・物部・米多・財部・葛木・漢部の六郷があるが、
風土記では物部・漢部・米多の三郷しか説明されていない。>
とある、

葛木郷は物部神社の南にあった。

葛城氏について、町史は「大和の大氏族」と書いているが、
小倉北区の篠崎八幡神社は葛城襲津彦の末裔の宮で、
葛城氏はもともと九州の氏族だったと思う。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻96番篠崎八幡神社)

そして、巨大な銅矛が制作できたのは加茂氏ではないかと
最近は考えるようになったが、
この地域の南西にはなぜか「加茂」という信号があったのを思い出した。


佐賀カントリー倶楽部



<ひめちゃご>
<2017年10月31日>





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by lunabura | 2017-10-31 21:03 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

上大利小水城2  積雪による洪水を防ぐ堤として形成された話に納得する


上大利小水城 2

積雪による洪水を防ぐ堤として
形成された話に納得する

 

福岡には『日本書紀』に書かれた水城(みずき)という
古代の土塁が実存しているが、
ほかに「小水城」(しょうみずき)が複数存在する。

このたび、大野城小水城の現地説明会に参加したが、
それは真鍋の記録の検証のためだった。

人間が灌漑と耕作に努力をはじめた時代は氷河期以前にあったらしい。肥前三根で2万3500年前と推定される。今も堤を水城という。昔は「みなつき」であって、「つき」は築ではなく雪であったはずになる。

氷河期の人類が最も恐れたのは怒涛のごとき積雪の崩壊であった、その勢いは一瀉千里で山麓から遠くはなれた平地も、雪解けの洪水に漂没することが多かった。

祖先は子々孫々にいたるまで幾段も堤を築きあげてこれを支えた。氷河がなくなる頃には池となり田となり、畑となって天に至る景観となったのである。   『儺の国の星拾遺』p141


氷河期が終わったのは1万年ほど前のことらしい。
真鍋は氷に閉ざされた時代の話をよく書いている。


脊振山系では、近年まで雪で道路が不通となる話をよく聞いた。

積雪が崩壊して洪水となると、
山麓離れたところまで洪水に没したと真鍋はいう。

私たちはこの現象を今夏、まざまざと見た。
雪が木に変わっただけだ。
朝倉の水害ははるか有明海まで及んだ。

はるか遠い昔、積雪が山津波を起こすのを止(とど)めるために
人々は堤(水城)を造ったという。

のちにはこれが池や田、畑となって「天に至る景観」になったということは、
段々畑の形成は積雪の山津波を食い止めるための営みだったことになる。

佐賀側ではこの堤が円形になってウロコ状に発達したものを見られるが、
福岡側の小水城や水城は直線構造だった。


水城は瀦水塘(ちょすいとう)と呼ばれた。
瀦水塘はほかに、上田(かみだ)、水雪田(みなつきた)、水盡田(みなつきだ)
といった。
「つき」とは「雪」の古語だったという。
積雪のイメージから来たらしい。

夏になると上田から下田(しもだ)に水を送る。
上田に水がなくなったために、「水無月」(みなつき)の名が起きたという。


万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空閑(こが)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。貯水の面積までが活用される仕組みであった。『儺の国の星拾遺』p140

水城の築造場所は山の麓で平坦になった所、谷間の狭くくびれた所を選んだ。
そこに堤を築造して、閘門を設置したという。

閘門(こうもん)とはコトバンクによると、
水位差のある水面間で船を就航させるための構造物。
上流端と下流端に扉 lock gateをもつ長方形の一種の部屋 (閘室) である。
とある。

水城には土塁の下に木樋が四本以上敷かれていて、水を通すようになっている。
木樋にあるL字型の構造が閘門に当たるのか。

板で開閉するようになっていたのだろう。
これをイタドリと呼んだ。

谷は水城で仕切られ、冬には上手に水が張られ、下手に麦が蒔かれた。
夏になると、上手の水が下手に貼られて水稲が植えられ、
空っぽになった上手には陸稲(おかぼ)が植えられたという。

1・2キロもある水城ではなく、小水城の形成ではないかと思われた。


この話から、上大利小水城を見てみよう。


c0222861_2251342.jpg

この土手が小水城で、全景だ。
約90mで、やはり谷の狭い部分に築造している。

土塁は本来もう少し高く、手前にせり出していた。

土塁の右手は自然丘陵を利用して形成している。
さらに右手には現代の川が流れていた。

全体は左手(奥)の方に傾斜していて、
現在、上流から下流に水を通すパイプが設置されている。

手前が下流で、この前まで田んぼがあった。


閘門や木樋は確認されていない。
閘門を設置するとなると、奥が良いだろう。

今は9月だが、古代の様子を想像すると、
土手の向こうでは水稲が実り始め、
手前では陸稲が育っているということになる。





c0222861_226117.jpg

これが奥の方の第一トレンチ。
水たまりがあるが、基盤まで掘り下げると、
雨が降らないのに自然と水が出てくるという。

トレンチ左手に版築が出ている。
版築とは種類の違う土を段々に重ねる工法だ。
ここから古墳時代の土器の破片が出土している。

しかし町の見解では、665年の築造のはずだから、
この土器片は土取場に古墳時代のものがあったのだろうということだった。

ほかに、飛鳥時代の土器片も出ている。

外敵を防ぐための土塁だが、外濠の存在は無かったという。

この上大利は大宰府からみたら、川の反対側に当たる。
何故、離れた所を防御するのかと尋ねたら、
大宰府に通じる道があったからということだった。


感想としては、小水城は真鍋の話をよく説明していると思われた。


前文の続きを載せておこう。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。

天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。
『儺の国の星拾遺』p140








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by lunabura | 2017-09-07 22:12 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

卑弥呼より400年前の奴国は青銅器製造が花盛り 春日市須玖 岡本遺跡とタカウタ遺跡



卑弥呼より400年前の奴国は青銅器製造が花盛り

春日市須玖 岡本遺跡とタカウタ遺跡

テクノポリスだった奴国が具体的に見えてくる



2017年7月26日付け西日本新聞より




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【把頭飾の鋳型の出土】

春日市の須玖タカウタ遺跡で「把頭飾」(はとうしょく)を造るための
土製鋳型が発見されました。

把頭飾とは銅剣の柄の先端に付ける飾り。





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この「把頭飾の土製鋳型」の発見は国内で初めてとか。
把頭飾は従来、半島や大陸由来説が主だったので、
歴史観の見直しが必要になるのでしょうね。

紀元前2世紀頃のものなので、卑弥呼より約400年ほど前の工房。







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【把頭飾の出土】
同じ春日市須玖の「須玖岡本遺跡」で
紀元前150年ごろの銅剣と青銅製の「把頭飾」が出土しています。

国内産の可能性も視野に入ってきました。
卑弥呼から約400年前の人物です。シルクや水銀朱も出てますね。












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【多紐協の鋳型】

須玖タカウタ遺跡からは、多紐鏡の鋳型も出てますよ。
これも輸入品とされていたのが、国産品の可能性を示しています。


これまで歴史講演で、把頭飾や多紐鏡が出てくると、
朝鮮半島や中国大陸製と決めつけている印象があって、
その論拠が分からなかったのですが、
やはり、輸入品と決めつけることが出来ないのを知って納得です。

春日市、大注目ですね。



ちなみに奴国(なこく・ぬこく)の「奴」には「大きい」という意味があります。
博多湾を囲んだ「大きい国」という意味かも。
もちろん、志賀島も入っていますし、
香椎宮は儺(な)の県(あがた)ですし、
那珂川町も儺の国の一部です。
古代は海や山を中心に考えると分かりやすいです。





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by lunabura | 2017-07-31 21:29 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

中原遺跡のスズリは卑弥呼より200年程前のもの



中原遺跡のスズリは卑弥呼より200年程前のもの

 朝倉郡筑前町は国際都市だった



2017年7月3日付けの西日本新聞。




c0222861_21113199.jpg

福岡県朝倉郡筑前町の中原遺跡から出土していた石片が
スズリと鑑定されました。


1世紀のものというので、
卑弥呼より200年ほど前のことになります。

筑前町は神功皇后が羽白熊鷲攻めする時に通った邑です。

砥上神社(上巻40)では武器を研がせています。

松峡八幡宮(上巻41)は大本営で夜須という地名でした。
羽白熊鷲討伐のあと、この大本営に戻って来て、
「こころ安し」と言った所です。

そこから二キロ程の所に大己貴神社(上42)があります。
ここでは軍士たちが熊鷲を恐れて逃げたした所です。

この古代の道沿いに、粟田遺跡や仙道古墳があります。

粟田遺跡の祭祀土器は美しい赤色。
磨き込まれた赤色の足の着いた土器は優美な巫女たちの姿を彷彿とさせます。
とても洗練された祭祀文化を持っている人たちがいるのです。

朝倉へと流れ込む文化は中国大陸からの可能性が高いです。
有明海の満ち潮がここまで容易に届いていました。

特に、松峡八幡宮の近くについて、真鍋は
大宰府の前身があった所と伝えています。

各国から来た人たちが自分たちの国の歌を
順番に歌っていたと伝えています。

筑前町で銅鏡が出ていますが、同じものがシルクロードでも出てましたね。
今は内陸部にあるように見えますが、
古代には船が沢山入って来ていた国際都市です。

砥上山の古墳の壁画は船ばかり描かれていますね。



弥生時代のすずりは
松江市の田和山遺跡で1個、
福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で2個出土。
これが4例目だそうですよ。

古くから文字文化があった証しですね。


拙著『神功皇后伝承を歩く』をお持ちの方は
上巻40砥上神社 神功皇后が軍衆に武器を砥ぎ磨かせた
上巻41 松峡八幡宮 神功皇后が羽白熊鷲と戦うために宮を建てた
に古墳と遺跡などを少し紹介しています。

上記三社と粟田遺跡や仙道古墳は
当ブログ内で「検索」に入力すると過去記事があります。
(リンク貼る時間がなくてゴメン)



中原遺跡の具体的な住所がどうしても分かりませんでした。
ご存知の方、コメントくださいませ。

追記
住所を知らせていただきました!

朝倉郡筑前町東小田2062にある
JA筑前あさくら平成カントリーエレベーター南側

だそうです。
教えてくださった方、ありがとうございます♪


コメントの返事も少しお待ちくださいね。





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by lunabura | 2017-07-04 21:15 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(5)

ひめちゃご82 マエズ・ハウ  スコットランド オークニー島


ひめちゃご82

マエズ・ハウ(メイズハウ)
MAES HOWE

 スコットランド オークニー島
 


棚の隅に積み重ねた書類を片づけ始めると、アレ?
ここにスコットランドの旅のノートが(*’▽’)

思わず見入ってしまう・・・と
マエズ・ハウのメモ書きが。

ヨーロッパで最古の墓。5000年前。
12世紀、バイキングが来て天井を壊して入った。
オークニー島では82か所、同じ墓がある。

サンドストーンは数トンの大きさで、切りやすい石。

入口は冬至の夕陽が45分ほど差し込む。
冬至の前後20日間光が入る。
冬の昼は6時間だけ。

チェンバー(石室)は三つ。
遺体は外で骨になってからチェンバーに入れた。

1860年に発掘した。
落書きはルーン文字。

「三日前、宝物を奪いに来た。」
「インガゲールは美人だ。未亡人。」

フーサーク文字(アルファベット)とルーン文字(アイスランド)。
これらの文字は高い所に書かれている。

石切り場は8マイル離れた所にある。







c0222861_20502274.jpg

アルバムから。マエズ・ハウの全景。
中では撮り忘れてるけど、パンフレットを買ってた(*’▽’)







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これはパンフレットから。
石室内部から羨道、外光を撮ったものだね。
すごくきっちりと造られてる。
5000年前かよ( ゚Д゚)

エジプトのことを考えたら、有り得るかなあ (*_*;


計測図とか、準備するけど、ほかにとんでもないものがあった。
次回は先にそれを出すかも。





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by lunabura | 2017-06-09 20:54 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

第6回バスハイク 香椎・古賀は『日本書紀』の世界だった



第6回バスハイク

 香椎・古賀は『日本書紀』の世界だった


今日からバスハイクの資料作りを始めました。

「歴史と自然をまもる会」の神功皇后の足跡を辿るバスハイクで、
6回目を迎えます。

仲哀天皇の皇居となった香椎宮周辺と、
天皇崩御後に神功皇后が神の教えを乞う古賀市の小山田の斎宮
中心として構成しています。

驚いたことに、資料がかなり『日本書紀』なのです。

神社に向かいながらその歴史をバスの中で読むのですが、
これまで遠賀川流域は各神社の縁起を読みました。

ところが、今度は『日本書紀』をどんどん引用することになります。
『日本書紀』の現地に立つというのは、なかなか面白いですね!

リアルなんです。

古墳や史跡も大神(おおみわ)神社境内や、
国指定になった船原古墳!

また、葛子が献上した糟屋屯倉(かすやのみやけ)候補地
を見学します。

すでに満席ですが、自分で回る時の参考にしてくださいね。

福岡県内の方は半日ずつまわるも良し。
県外の方は効率よくまわる参考にしてください。



福岡市東区コース
① 香椎宮・古宮(上巻24)福岡市東区香椎4丁目16-1
② 御島神社(下巻67)福岡市東区香椎浜 

③ 大神神社・古墳公園(下巻68)福岡市東区高美台2丁目24-1
④ 綿津見神社・三苫浜(下巻75)福岡市東区三苫6丁目21-19


古賀市コース
⑤ 鹿部田淵遺跡(上巻25)古賀市美明1丁目4-11
⑥ 皇石神社(上巻25) 古賀市美明1丁目25-1

⑦ 五所八幡宮(上巻35) 古賀市青柳1656
⑧ 小山田斎宮(上巻36) 古賀市小山田346

⑨ 船原古墳(国指定史跡)古賀市小山田
⑩ 古賀市歴史資料館 



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by lunabura | 2017-06-06 22:37 | バスハイク | Trackback | Comments(0)

ウェールズの古墳は似過ぎ(^^;



ウェールズの古墳は似過ぎ(^^;



コメントをいただいて、NHKのウェールズ歩きを見ました。
今日の収穫はこれ。

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やっぱり日本の古墳に似過ぎ。(*’▽’)
5000年前だって。
どうなってる?


島の名前や遺跡の名前、チェックした方、教えてくださいね。





時代と場所は変わるけど、
国乳別皇子と玉垂命の墓は同時代、すぐそばにあるけど、
前者は前方後円墳で、後者は円墳。
(『神功皇后伝承を歩く』下巻57弓頭神社)

宮地嶽神社も円墳。

武内宿禰の母の山下影姫の墓は前方後円墳。

なんか気になるなあ。





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by lunabura | 2017-05-30 23:51 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご64 ここが高三潴 国乳別皇子の政治の地と前方後円墳



ひめちゃご64

ここが高三潴 

国乳別皇子の政治の地と前方後円墳
 


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景行天皇に命ぜられて水沼に残った国乳別皇子(くにちわけのみこ)は
天壇のある赤司八幡神社から南へ下って高三潴に住んだ。

弓頭神社がその宮跡である。




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神功皇后と武内宿禰がやってくると、
出迎えた国乳別皇子は弓大将として新羅役に参戦したことから、
「弓頭」(ゆみがしら)の社号がついている。
「ゆがしらさん」と呼ばれている。

政治的中心地がここになる。

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すると、仲哀天皇が紀伊にいたときに、
「熊襲が朝貢しない」という知らせの発信者はこの国乳別皇子ではないか。

何故ならここは羽白熊鷲と田油津姫を監視できる位置にあるからだ。







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羽白熊鷲は既に討伐し、ただちに田油津姫討伐のために
武内宿禰と軍議をしたという。








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田油津姫の拠点、ヤマト(山門)は目の前だ。
鷹尾神社もヤマト(大和)のエリアに入るが、朝廷方になる。
赤い点線が神功皇后軍の進軍ルートだ。

鷹尾神社から上陸した。
村人がブリ料理でもてなしたというので、海が深く入っていたことが分かる。

このヤマト地方での朝廷と土蜘蛛の対立は景行天皇の時から既にあり、
ヤマトの女王・葛築目(くずちめ)が滅ぼされている。

ヤマトはこちらでは山門、大和という地名で残っている。
最近はカタカナで「ヤマト」と書くのが流行っているので、ここもそうしておこう。

このヤマト地方では物部氏とヤマトの女王邑が複数世代に渡って対立していた。






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国乳別皇子はこの地で亡くなり、烏帽子塚古墳に埋葬された。
廟堂が建ち、大変厳粛だったと書かれている。
この古墳が前方後円墳で、かなり大きい。

実は、弥生時代の前方後円墳が福岡の各地にある。
被葬者の名も伝わっている。

前方後円墳は古墳時代と思っていたが、
最近では箸墓という巨大前方後円墳が弥生時代とみなされるらしいので、
福岡各地にある弥生時代の前方後円墳も問題ないようになった。(と思う)


例の連玉ビーズが出た高三潴にはこんな歴史がある。




拙著『『神功皇后伝承を歩く』下巻
57弓頭神社
58鷹尾神社
59老松神社




追記、本日の歴史カフェご参加ありがとうございます。



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by lunabura | 2017-04-06 23:19 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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