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タグ:古墳・遺跡 ( 118 ) タグの人気記事

ひめちゃご60 アイルランドのケルト テレビ備忘



ひめちゃご60

アイルランドのケルト 

テレビ備忘
 

昨夜、NHKでアイルランドのケルトを尋ねて
ロックルーの丘からタラの丘までを歩く特集があったので、
備忘録を書いておこう。



ロックルーの丘 ― クロッサキール ー ケルズ ー 
コージーファーム ー ワードの丘 ― ダンデリー ー タラの丘まで。


ハロウィンの原点の「ソーウィン」の祭を目指す旅だが、
当方は遺跡目当て。

今回はマウンドが空から写されていて興味深かった。







c0222861_20345355.jpg

ロックルーの丘。
魔女の椅子。



ケルト人は中央アジアから紀元前3世紀ごろにアイルランドに到達した。
鉄と馬を持っていたという。







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ケルト十字架の十字はキリスト教で、丸は太陽を表す。









c0222861_20352532.jpg

ケルト文化とキリスト教の習合による模様。










c0222861_20354072.jpg

途中で一瞬写ったマウンドの遺跡。
今ゆっくりと見ると、タオの勾玉から始まる文様だ。










c0222861_20355420.jpg

ハロウィーンの原点である「ソーウィン」。
大地の女神の名は「トラクタ」。
この祭は祖霊祭だ。









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最後にタラの丘。








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各地の王が年に一度集まって儀式をするという。





タラという地名は世界に分布する。






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by lunabura | 2017-02-23 20:39 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(6)

ひめちゃご53 新延大塚古墳2 装飾古墳だったのか

                 ひめちゃご53 


 新延大塚古墳2

装飾古墳だったのか



新しいカメラでの古墳内撮影はどうやらピンボケばかり。

暗い所では自動的に何枚か連写しているようだ。





c0222861_20225715.jpg

三脚を使わないといけない機種のようだが、少しキラキラの雰囲気が写っていた。





実はこの古墳は装飾古墳だという話を聞いた。

パンフレットにはそのような記述がないので、

もし装飾が目撃できたら、こんな嬉しいことはない。

気合十分。

古墳撮影のセミプロ、筑後国造にも参加依頼をしての探査だった。

しかし、それらしきものは肉眼では見当たらなかった。







c0222861_20280280.jpg

このように右手の袖石には墨でマントラが書かれている。

開口したあとに書かれたものだ。








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これは左の袖石。肉眼では見えなかった。












c0222861_20231218.jpg


玄室、左の壁。




c0222861_20233307.jpg
玄室、右の壁。
こうして改めて画像を見ると、黒くカビのように見えるものが、

         一定のリズム感を持っているのが分かる。



c0222861_20234594.jpg


玄室奥壁。左隅に赤と黒。




取りあえず、いろんな角度で撮影した。

やはり、痕跡があるようだ。

これらをじっと見ていると、あの王塚古墳(飯塚)レベルの

一面の画の存在が感じられる。

天井付近の石が赤いのは染料が残っていたのだろうか。

遠賀川でも最大の石室。

どれほどの実力者が眠っていたのか偲ばれる。

6世紀後半頃(古墳時代後期)のものだ。

そうすると、磐井の乱(527)ののち、葛子の世代になろうか。

この鞍手の(くら)()君が葛子の子だ。

百済王子と共に活躍するが、

574年に亡くなっているので、時代的にかなり近い。

その名が残る熱田神社は川の向こうだ。

こちらは別の人なのだろう。

ただ、この被葬者は鞍橋君の新羅での戦いを知っていると思われた。


被葬者を武人と考えるのは、馬具が沢山出ているからだ。

c0222861_20241417.jpg

しかも、そのデザインに見覚えがあった。左上の二つを見てほしい。

そう、近年発掘された船原古墳とそっくりなのだ。

c0222861_20243213.jpg

これは船原古墳の本物と復元されたもの。

当時貴重なガラスがはめ込まれていた。

古賀市ではこの種は国内唯一と言っているが、そうではない。

鞍手の分は見落とされている。

古賀と鞍手と並べて研究することを期待したい。

201721日>


文字の大きさが不ぞろいですが、プレビュー画面では揃っているのに、
画像には反映されません(´・ω・`)
エキサイトには既に連絡したけど、そのままです。
当方ではどうにもならないので、これからもこんな調子だと思います、、、






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by lunabura | 2017-02-01 20:47 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご52 新延大塚古墳1星のようにきらめく光の石の下で眠る武人

ひめちゃご52 


 新延大塚古墳1

星のようにきらめく光の石の下で眠る武人



鞍手
)
町にある巨大な古墳は「新延(にのぶ)」にある。





c0222861_21201106.jpg

円墳だ。

県指定になっているので、残されている!

まずはそれが嬉しい。








c0222861_21203084.jpg

鍵を開けて入ると美しい石組が。

奥には不動明王が祀られていた。

奥壁はもちろん他の古墳のように素敵な平たい面が出ているが、

この古墳は奥室の左右にも平たい面があった。

たしか、糸島の櫻井神社の古墳の中もこのように

左右に平たい面が出ていたと思う。







c0222861_21204641.jpg

天井は高い。

送り出した石の上に蓋をしている。







c0222861_21205622.jpg

白いものはカビではない。

光を当てるとラメのようにキラキラと輝くのだ。

星読)によると、地元では普通に見かける石だそうだ。
古墳の築造者はわざわざ光が星のように輝くように

これらの石を配置していたのだ。

  

(つづく)

<2017年1月31日>







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by lunabura | 2017-01-31 21:27 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

胸形君徳善は684年には生きていた



胸形君徳善は684年には生きていた



各地の考古学の専門家の一般向けの講座には出来るだけ足を運んでいる。
先日も話題の中に「宮地嶽古墳の被葬者は胸形徳善」という話が出た。

考古学会では全くこの説は疑われていないようだ。
聞くたびに悲しくなる。

宮地嶽神社は安曇族であり、宗像族ではない。



今日は中大兄皇子が天智天皇に即位した時期を年表にしていたのだが、
意外な所に徳善の名が出て来た。

岩波文庫で『日本書紀』を読んでいたのだが、
本文では天武天皇2年に
「胸形君徳善の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」
と出てくる。

その補注に、
「胸形君は天武天皇13年11月に朝臣姓を賜った」
という内容が書かれていた。

天武13年は684年だ。
宮地嶽古墳の築造は600年前後だ。

これで、完全に徳善説を否定する資料が出て来た。
646年には薄葬令が出ている。
徳善の時代にはあれほどの巨大な墓を造ることはなかったはずだ。



今日は宮地嶽神社に参拝したからかなあ。

思いがけない資料に出会った。






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by lunabura | 2016-09-26 23:36 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご17 宇津羅姫と葛築目の明暗



ひめちゃご17

宇津羅姫と葛築目の明暗
 


みやま市瀬高には宇津羅姫(うづらひめ)の墓がある。

そこは「宇津」という地名だ。
その女酋長「宇津羅姫」は大地主神の娘だったという。

この姫は景行天皇を黒崎(大牟田?)から、
ここ(?)岩津の高田行宮まで守護したという。

その姫と父が肩を寄せ合って眠る墓が伝わっている。
場所は釣殿宮の近く。





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釣殿宮から南に行くと川があり、その手前すぐ右手だ。
釣殿宮からは300mほどか。

小さな鉄板の橋があった。
この墓には周溝があるというので、橋の下がそれだったのだろうか。
左手には豊かな川が流れていた。
その川の名は飯江川(はえがわ)という。


宇津という弥生の集落が飯江川河口沿いにあったことが想定できる。

「宇津」が「太神」と同邑だったのかは不明だ。
この宇津羅姫は景行天皇を歓待した側となる。


景行天皇は各地の王国、女王国に、まつろわぬか、まつろうか、
二者選択を迫って巡行した。

まつろわぬなら滅ぼされ、まつろうなら身を差し出さねばならなかった。

景行天皇の筑紫国巡行は、それぞれの弥生の国々にとっては、
クニが滅ぶかどうかの大問題だった。


筑紫の各地に、景行天皇と対峙した女王たちの名が残っている。
『日本書紀』に書かれているのはほんの一部に過ぎない。

しかし、景行天皇との攻防が、奇しくも当時の邑の分布を教えている。

この宇津羅姫の存在は、筑後川河口域に一つの邑があったことを示す。

これまでの逍遥のなか、出会った姫たちを思い起こした

景行天皇を受け入れた女王としては神夏磯姫(かむなつそひめ)が有名だ。
しかし、田川の香春岳の開発に追いやられた。
美貌の姫だったが、不幸な生涯となった。

その後裔に夏羽と田油津姫兄妹がいる。
夏羽は朝廷を恨み、田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした。

結果は兄妹の惨敗。
(下巻60若八幡神社参照)


田油津姫が殺されたのはここ、みやま市なのだ。

その先代に女王・葛築目(くずちめ)がいた。
葛築目は景行天皇を受け入れずに殺された。
(下巻59老松神社参照)

葛築目が景行天皇と同じ時代なら、宇津羅姫とも同時代となる。
一方は殺され、一方は栄えた。

二人の女王は、みやま市の北と南で対立していたのかもしれない。
そこは、かつては「ヤマトのクニ」といった。

葛築目の墓は雨が降ると血が流れると言われている。
この墓はあるいは田油津姫の墓ともいう。

弥生の朱が流れ出すのだろう。

景行天皇の存在を介して、同時期に生きたことが分かった
二人の弥生の女王たち。

その明暗をしのばせる墓はいずれもほんのりとした墳丘を残していた。




c0222861_19454510.jpg








※メール、コメント、電話など、返事が滞っています。
拝読していますが、返事は今しばらくお待ちください。






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by lunabura | 2016-09-18 19:47 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―を話し終えて



「磐井の乱後」
-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
を話し終えて



今日は久留米大学公開講座で
「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
の話をしてきました。

足をお運びくださった皆様、ありがとうございました。





パワーポイントの最初と最後の画像は最後に選んだのですが、
こんな風になりました。


c0222861_23303075.jpg








c0222861_23305654.png

並べてみると、どちらも宮地嶽古墳です。

これは宮地嶽神社の境内にあり、宮地嶽神社の祭神が祀られて続けています。
被葬者は「勝村神。勝頼神」です。

二神は筑紫君葛子の子と伝えています。
ですから、筑紫君磐井の孫に当たります。




これが、ある日突然、宗像徳善の墓だ、と学者に言われて、
その誤解はいまだに解けずにいます。

宮地嶽神社側のショックはただならぬものがあったようです。




宮地嶽神社は安曇族です。

その証が欲しかったのですが、
ついに昨年、宮司だけが舞える秘舞として、
磯良の舞が再現され、発表されました。



こうして、安曇磯良の存在は
志賀海神社、高良玉垂宮、宮地嶽神社へと受け継がれていたことが、
平成になって明らかになりました。



安曇族の境内に宗像族が出かけて行って墓を作ることはあり得ません。
宗像族は自分たちの氏族の近くで眠るはずです。
わざわざ山の向こう、見えないところに作るはずがない。

こんなシンプルな理論も無視されています。



学者の論文に宗像市として堂々と書かれているのを見たことがあります。
正しくは福津市です。


宗像徳善は娘を天武天皇に差し出していて、
飛鳥浄御原宮の時代に外戚として娘の援助をしています。

飛鳥浄御原宮は672~694年です。
徳善はそのころ全盛期だったのでしょう。
孫は大臣に昇りつめています。
ですから、墓は700年前後に作られたと想定するのが理に適っています。

それに対して宮地嶽古墳は600~630年の推定。
両者には100年ほどの違いがあるのです。

もう、宗像徳善の名前を出すのは止めましょう。

「誰かが言ったから、そうだ。」
という発想が古代史の闇を深くしているのです。



今日は、この話や、磐井の菩提寺が作られた話、
また磐井の孫が百済王子と共に戦った話などをしました。


出版は、もうしばらくお待ちくださいね。








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by lunabura | 2016-05-21 23:32 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(4)

馬上の武人3 百済の武寧王


馬上の武人3
WAKIMIKO
 百済の武寧王


物部麁鹿火
(あらかひ)の娘婿は大伴金村(かなむら)に殺された。
この二人の武将がのちに力を合わせて磐井君を滅ぼすことになる。

それに至るまで、どのような経緯を辿ったのだろうか。


麁鹿火の娘婿は平群(へぐり)の息子、(しび)だった。
金村が鮪を殺したとはいえ、それを命じたのは武烈天皇だ。

影姫は武烈天皇の物になったのだろうか。
その後のことは書かれていない。

武烈天皇は金村の勧めで即位したが、
皇后には春日郎子(いらつめ)を迎えている。




さて、『日本書紀』には武烈天皇の時代の「百済からの朝貢」が書かれている。

今回、確認したいのはこの「百済との関わり」だ。
何故なら、先々、大伴金村は百済政策で大失態をしでかすからだ。

鞍橋君百済王子と共に新羅と戦うようになった背景も確認せねばならない。



『日本書紀』から抜粋する。

武烈3年11月、百済の意多郎(おたら)が卒(しゅっ)し、高田丘に埋葬された。
―「卒」からは身分が高かったことが分かる。

武烈4年、百済では末多王(まったおう)が暴虐無道のために廃位され、
嶋王が即位した。これを武寧王(むねいおう)という。
—武寧王は唐津で生まれた。あとで詳述する。


武烈6年10月
、百済国は麻那君(まなきし)を派遣して朝貢してきたが、天皇は長年朝貢しなかったことを理由に留めて帰さなかった。


武烈7年4月、百済王は斯我君(しがきし)を派遣して朝貢した。
文書で「先の使者、麻那は王族ではなかったので、
斯我を派遣して朝廷にお仕えさせます」と伝えた。


武烈8年12月、天皇は崩御した。



以上、百済との関係の部分だけを書き抜いたが、
百済は日本に朝貢する立場にあることが分かる。

他の国との交渉は全く書かれていない。
もちろん中国との交渉も書かれていない。

また我が国は「倭国」ではなく「日本」と表記されている。

百済の朝貢記事が並ぶ中、武烈4年の「武寧王の即位」の記事が目立つ。
この武寧王は先述のように唐津で生まれた嶋王だ。

この嶋王誕生については、雄略天皇の所に書かれている。

<百済が献じた池津媛が天皇に召される前に他の男と通じたために殺された。

それを聞いた百済王・加須利君(かすりのきし)は「女はもう貢がない」と言って、
自分の弟、軍君(こにきし)に日本に行って天皇に仕えるように命じる。

軍君は承諾したが、王の妻を自分に与えてくれるように願った。
加須利君は妊娠している妻を与えた。
「臨月なので、途中で出産したら、母と子と一緒に帰国させてくれ」と言いながら。

6月1日に筑紫の各羅嶋で出産したので、「嶋君」と名付けて帰国させた。
「嶋君」が武寧王である。>

これを読むと、感想に困ってしまう。男女の問題は人それぞれだ。

今回のテーマは「百済の武寧王が日本で誕生した」ということを
確認したかったのだが、状況は意外だった。
こんな説明、某博物館に書いてあったっけ?
かなり表現を変えていたね。



さて、この嶋王の誕生の記事は近年まで疑われていたらしい。

「筑紫の各羅嶋」とは「唐津の加唐島」(かからじま)のことで、
その浜の名は「オビヤ浦」と伝わっている。
http://www.saga-shima-show.jp/kakara/

そして1971年、韓国では王墓が未盗掘の状態で発見された。
墓誌から、『日本書紀』の記事が正しいことが証明され、
韓国の『三国史記』の記述も正しいことが証明されるという稀有な例となった。
(もちろん、それぞれに異説はあるが)

しかも、王と王妃の木棺は日本にしか存在しない高野槙だったという。

韓国の観光サイト(日本語)
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=3149
を見ると、その黒い漆塗りの美しい木棺は何故か出ていない。


邪馬台国大研究
http://inoues.net/korea/buneiou.html
が詳しい。



このサイトによると、高野槙の棺の説明の日本語版はないが、
英語版があり、そこにはその説明が書かれているという。
お国柄が伺えて面白い。


この武寧王陵の発見により、日本と韓国の史料と出土物が一致し、
武烈天皇4年は西暦502年と証明された。


磐井の乱は527年。あと25年だ。
磐井君ももちろん活躍していることだろう。





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by lunabura | 2016-01-30 22:27 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

脇巫女 14 卑弥呼の鬼道


脇巫女 14
WAKIMIKO
卑弥呼の鬼道


昨日と今日は、高島忠平氏の講演を二日続けて追っ掛けしてきました♪

11月28日は
遠賀川 古代の王国再興会議キックオフイベント
王塚古墳から見た古代/遠賀川に輝く弥生の神々
「ホナミの王と神々」

11月29日は
全国邪馬台国連絡協議会第二回全国大会
~久留米から邪馬台国が見える~
「東アジアと倭の政治」

です。どちらも、会場は熱気いっぱいで、
九州の古代を取り戻す機運で盛り上がっていましたよ。

また、29日の講演では、纏向遺跡を掘った関川尚功氏が
学者としての良心的なお話をされました。

これは機会があれば、お伝えすることにして、
高島忠平氏の話の中に『脇巫女』を理解する助けになる話があったので、
今日は二、三点、ピックアップしたいと思います。

高島忠平氏は吉野ヶ里遺跡の発掘の指揮を取られた方です。

遠賀川流域出身でもあったので、私の取り組んでいる時代の
考古学的分野を把握したいということで受講したのですが、
なんと、星読さんの託宣と同じような話が出て来たのです。

◇◇ ◇
縄文時代人の「精霊信仰」を基盤としながら、弥生時代には「祖霊信仰」が
大きな柱となり、宗廟(祭殿)を祀るようになった。

その祖霊から託宣、神託を告げる巫女(神子)がいて、
その結果を連合国に伝えた。
この「祖霊からの託宣」を受けることを
「魏志倭人伝」では「鬼道」と書いている。
◇◇ ◇

卑弥呼の時代は30国ほどの連合国があり、卑弥呼は最も権威があって、
その託宣の結果を30国に伝えたということです。

この話は、星読さんのいう「物述」の説明をしてくれています。
部族国家の連合国の中ののメッセンジャーの存在を
考古学者が言及されたのです。
これを星読さんは「物述」(もののべ)(物を述べる)と言っています。


高島氏は吉野ヶ里遺跡の解析からの見解を話されました。
◇◇ ◇
吉野ヶ里遺跡には墳丘墓があるのですが、そこに「始祖」を埋葬し、
柱を立て、手前に祠堂を立てています。
そこから南に二列の甕棺がずらりと並び、巨大な祭殿へと続きます。




その祭殿は夏至の日の出と冬至の日没を意識して設置されていますが、
そこで祖霊を祀り、託宣を受けていたということです。
さらに南に延長するともう一つ祭壇があるのですが、
これは水、雷などの神々を祀っていたということでした。

◇◇ ◇

謎だった、冬至の日の出ラインの延長線上には古処山があるということでした。
これはチェリーさんに確認して頂きたいラインですが、
本当に古処山(こしょさん)にラインが当たるとすると、
その山を拠点としていたのは羽白熊鷲ですから、
吉野ヶ里は彼らと何らかの結びつきがあるということになります。

吉野ヶ里が一時期、断絶することと羽白熊鷲の滅亡という
新たな関連も視野に入れることになります。
中国では紀元前3~4世紀に東西南北を意識するようになったそうです。

また、吉野ヶ里人と飯塚の立岩遺跡人はほぼ似た形質の渡来人だそうです。
吉野ヶ里遺跡のすぐ近くには大伴氏の拠点があることから、
磐井の乱までの大伴氏の動きも気になるところです。
もちろん、物部氏の動きもです。

さて、高島氏の話でもう一つ押さえておきたいのは、「魂魄」という中国思想です。

人間は「魂」と「魄」(はく)という二つの魂を以っていて、
人間の死後「魂」は天に帰り、「魄」は地に留まるという思想がありました。
「魄」を大事にしないと祟るという思想があったために、
死者の亡骸を丁重に扱ったということです。

今、問題になっている古墳の破壊が、不思議な現象を起こしているのも、
この「魄」の存在で説明できます。

「祖霊を祀って託宣を受ける」
「魂魄の魄を丁重に扱う」
という二つの思想が弥生時代には確立していて、
古墳時代にも受け継がれています。

今、『脇巫女』で描いている世界は弥生の精神世界でもあったことを知ったのは
大きな収穫でした。


そして、私が留守の間、訪問者の皆さん同士で盛り上がっていてくださって
うれしい限りです。
さすがに、コメントの返事は無理ですな(^^;




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by lunabura | 2015-11-29 22:30 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(7)

斉明天皇行宮の磐瀬宮あと 中間市編



斉明天皇行宮の磐瀬宮あと 

中間市編


斉明天皇の磐瀬宮は福岡の何処だろうか。

数年前から、ミキさんの情報で中間市にその伝承があると聞いていて、
ようやく『中間市史』で確認できた。

地名が分かるようにと道路地図をコピーしてみると、なんと
「斉明天皇行宮の御館山」と赤字で記してあった。\(◎o◎)/!

その場所はJR中間駅の西。たぶんプラットホームから見えているはず。
鉄道工事のために山の側面を削り取られたという。

以下、『中間市史』中間地名考より
御館
斉明天皇行幸の地と伝える御館山は、中間と岩瀬の両区に跨っており、そこに接して行幸ノ尾(みこのお)という名の字がある。

この御館の地は岩瀬と近接し、以前は岩瀬村に属し、斉明天皇行幸の史跡として伝承が残されている。

明治24年筑豊鉄道の布設工事によって、山の側面を削りとられ、その崖下に中間駅が設置され今は周辺200メートルほどの小山である。

この御館山頂には約40平方メートルの平地があり、そこに斉明天皇を祭る御館社があったが、長い間の風雪に取りこわれたままになり、今は石祠のみが岩瀬の正覚寺観音堂の境内に祭られてある。

古くはここに大歳社、猿田彦を祭る石祠もあったが、鉄道布設のときに取除かれてしまった。そのときの工事中に官服を着た埴輪。また古く山麓から石棺とともに石剣が発掘されている。

この御館山のことを通称、月見山と呼び、その麓から岩瀬に通ずる大道があった。今に行幸縄手と称している。



念のため、中間市のHPで岩瀬宮の記述がないか閲覧したが、全く記述はなかった。

歴史民俗資料館にかつて行った時にも展示は無かったと思う。

まさか、地元で忘れ去られているのだろうか。
忘れられていなかったら、鉄道をほんの数メートル移動して
削らずに済んだはずだ。



ここは遠賀川流域の氾濫原の中にある丘だ。
対岸には仲哀天皇と神功皇后が停泊した埴生神社がある。

百済応援の軍勢を出した所と想定している地域で、
装飾古墳には馬の背に立って弩を射る武人が描かれていた所だ。

古代の交通の要衝で、強大な豪族がいたと思われる。


ここには斉明天皇だけでなく、中大兄皇子の伝承も伝わっている。
資料が見つかったら続きを書くことにしよう。

中間市とはどこか。
高倉健の出身地といえばお分かりだろうか。


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             ー遺跡の破壊は許さんー



御館山か?





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by lunabura | 2015-11-04 21:50 | メモ | Trackback | Comments(6)

船原古墳の被葬者は筑紫君磐井・葛子の一族か


船原古墳の被葬者は
筑紫君磐井・葛子の一族か


古賀市谷山で発見された前方後円墳の側の埋納坑。
そこに埋められていたのは馬具だけでも六領。
一領の一部だけ、新羅のデザインが見られますが、新羅製かどうかは不明。
その他は倭国製だろうとのことです。


c0222861_200524.jpg


馬具の一部は土の表面に姿を見せた時から黄金のきらめきを発していました。

この「船原古墳」は6世紀末~7世紀初めに造られたといいます。
埋納されていた国宝級の宝物の数々は誰のために奉納されたのでしょうか。

今回はその被葬者像に迫ってみようと思います。
その手掛かりの一つとして、同時代、同じ古賀市美(み)明(あけ)にあった屯倉(みやけ)「鹿部(ししぶ)田淵(たぶち)遺跡」の存在が挙げられます。

この遺跡の重要性は6世紀前半に起こった「磐井の乱」(527年)が関わってきます。

継体天皇に新羅攻撃を命ぜられた筑紫君磐井はなかなか出兵しませんでした。
継体天皇は朝鮮半島からの貢物を横取りしているという言いがかりも付けています。

磐井君は継体天皇の派遣軍と戦ったのですが滅ぼされ、その子・葛子君は連座を恐れて「糟屋の屯倉(みやけ)」を差し出しています。その候補地とされるのが「鹿部田淵遺跡」です。

この遺跡と船原古墳は花鶴川~谷山川という一つの水路で結ばれています。船原古墳の被葬者はこの屯倉の経営に深く関わっていたと考えられます。





被葬者の生きた時代はどんな時代でしょうか。


この時代は朝鮮半島では新羅(しらぎ)が拡大していて、任那(みまな)が滅び、百済(くだら)も危うい状況にありました。百済は何度も筑紫勢に援助を頼んでいます。



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葛子君の子・鞍(くら)橋(じ)君(鞍手郡)が百済王子・余昌と共に戦って王子を助けてもいます。福津の宮地嶽では同じく葛子君の子である勝村(かつむら)・勝頼(かつより)が活躍していました。

古賀市美明の屯倉にはおそらく武器が格納され、この戦いに貢献したと思われます。




一方、被葬者の祭祀環境も手掛かりとなります。
古代より、氏族は自分たちの氏神を祀っていたからです。

被葬者はどこで神祭りをしていたでしょうか。すぐ近くにあるはずです。

船原古墳は舌(ぜつ)状丘陵地帯の突端に築造され、その奥に鎮座する小山田斎宮を守るかのようにみえます。距離はわずか500m。

この古賀市小山田の斎宮(いつきのみや)の始まりは西暦200年。
仲哀(ちゅうあい)天皇と神(じん)功(ぐう)皇后の時代に遡ります。




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仲哀天皇は香椎宮で天下を治め、同市の皇(おう)石(いし)神社の鎮座する鹿部(ししぶ)山から船の軍事訓練を眺めたといいます。

その船はすぐ近くの安曇(あづみ)族の船です。ここは古代の阿(あ)曇(づみ)郷と考えられます。

しかし、天皇は突然崩御しました。神功皇后はその死の原因を知るために小山田に行って神々に尋ねたと『日本書紀』は語ります。

誰が土地勘の無い皇后を小山田まで導いたのでしょうか。

皇后は見知らぬ土地に導かれる時、その人物に全幅の信頼を寄せていたはずです。
その人物はやはり当地の安曇族だと思われます。
その境内には志賀三神も祀られています。綿津見の神ですね。

その末裔が船原古墳に眠ると考えるのが自然です。



安曇族は初代天皇の神武(じんむ)天皇の祖でもあります。その末裔でもある神功皇后が安曇族の船に乗って新羅を討ったのが、いわゆる三韓征伐です。

しかし、戦勝後も新羅との軋轢(あつれき)は400年続き、倭(わ)国は百済と共に新羅と戦うことになりました。

ただ、聖徳太子の派遣した征新羅大将の来目皇子は糸島で亡くなっています。それが603年のことです。船原古墳の被葬者もこの前後に亡くなっていると思われます。

船原古墳の被葬者はこの戦いに貢献していたと思われます。

被葬者が亡くなったあと、各地から宝物が届けられたと思われますが、すでに古墳の入り口が封じられていたために、そばに丁寧に埋葬されたと考えています。

以上から、船原古墳の被葬者は安曇族の一員で、その副葬品のレベルの高さからは磐井・葛子君の一族の可能性が高いと思われます。 




参考 『神功皇后伝承を歩く』掲載神社
24番 香椎宮
25番 皇石神社
36番小山田斎宮

下巻
69番 宮地嶽神社
71番 志賀海神社
72番 志式神社






赤 船原古墳   青 小山田斎宮




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by lunabura | 2015-10-15 20:06 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(2)
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