ひもろぎ逍遥

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奥の宮不動神社(3)筑紫の舞と韓国のムーダンの舞

宮地嶽神社(7)
奥の宮不動神社(3)
奉納された筑紫の舞と韓国のムーダンの舞

光さんがこの巨大古墳に奉納された二つの舞の話をしてくれました。

ちくしの舞
「昭和5年頃だったね。菊邑検校(きくむらけんぎょう)が筑紫(ちくし)の舞を奉納していた。棺(かん)の舞と言ってね、棺(ひつぎ)の舞のことで、大王が亡くなって、『大王蘇ってくれ。』と言って、宮地嶽のぐるりを踊って廻った。」

「すみません。筑紫の舞って知らないんですが。」
「菊邑検校は明治天皇のご落胤などとも噂される人で、福岡県の桂川(けいせん)の王塚の所に住んでいたと。ちくしの舞を伝承していた。これはもともとサンカの人たちが伝授していた舞だったとか。

口頭では伝えないために、最初の弟子は水銀を飲んで、声帯を焼き切った。二代目は入水自殺をした。
ちくしの舞は元々、棺(かん)の舞だった。

西山村さんが筑紫の舞を新しくしたと。西山村さんは「かんの舞」を「神の舞」と解釈して、宮地嶽古墳に奉納した。本来の「棺の舞」を変えてしまったので、私は証言を止めたとたい。」

光さんはちくしの舞の証言者でした。
光さんの所には、古田武彦氏や鳥取大の先生など、いろんな人が聴きにきたそうです。
河原崎長一郎氏も映画化するために、来られたけど、
たけち監督が亡くなってしまって、沙汰やみになったという事です。
盲目の菊邑検校を河原崎氏が演じたら、相当のものだったでしょう。

次の写真は手光の古墳近くから、宮地岳方面を撮ったものです。
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ここからは、宮地岳は烏帽子山に見えます。古墳にまっすぐ行く道は今はありません。

サンカを辞書で引きました。
山窩(さんか)
村里に定住せずに山中や河原などで家族単位で野営しながら漂白の生活を送っていたとされる人々。主として川漁・箕作り・竹細工・しゃもじ作りなどを生業とし、村人と交易した。山家。
なんとも不思議な話です。
古代から連綿と、この大王への奉納の舞を伝えていた人たちがいたと言うのです。
口外禁止だったなら、誰も知らないはずです。

これほどの豪族の末裔が語れないとすると、まつろわぬ者として激しい戦争で負けて、
歴史に埋没して行ったのかも知れません。
実際、古事記や日本書紀を読んで行くと、当時は国内でも、韓半島などとも戦争だらけでした。

大王が生きている間は独立を保てたのでしょうが、
亡くなったあとは、他国に支配されて行ったのでしょう。
戦いがあった事は、周りの古墳から、鉄器、木の甲冑、鉄の甲冑などが出ていることからも容易に伺えます。

そんな流れで、歴史に名を残せなかったのかもしれません。
それでも、この太刀を見て下さい。持ち手はバレーボールぐらいはあった印象です。
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これが「頭椎」と書いて、「かぶつち」と読ませる太刀です。

古田武彦氏のサイトに、西山村さんが「最後の筑紫の舞」を見た話が詳しく載って来ます。
道のない所をよじ登って行ったそうです。
その時は13人が奉納舞をしたとか。それが歴史上、最後の奉納になったようです。
13人も入れた大きさから、この古墳だと特定されました。
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写真の右下に長方形の穴が彫ってあるのが見えますか?
左右対称に彫られています。花崗岩にこれだけの加工を加えて、石組にしています。
(正面の床は現代のコンクリート加工です。)
これだけの技術者集団を抱えていたのです。すごい被葬者だったのが分かります。

光さんはもう一つ、異国からの舞の奉納の話をしてくれました。

韓国の巫堂(ムーダン)の奉納の舞
「宮地岳はカラクニ岳て言うとった。カラサキ山とも。
海から入って来る時、この宮地岳が大事な目標やったと。

新羅や百済からも舞人が来ていたね。
昭和の始めごろ、韓国の人が毎年、塚まで来ていた。
総勢6、70人で、うち男が4、5人。チョゴリを着ていた。
ムーダンの一行は宮地嶽古墳から名島神社に移動して、
そこで海岸で一週間ほどキャンプをしていた。
この踊りの奉納をして、名取になれると言ってたね。

大勢で神社の前を通って行くので、当時の宮司が塀を作って通れなくしとったね。
大正頃までは、宮地嶽神社と古墳は別物だった。昭和になって管理するようになったと。」

光さんは当時の光景を思い出しながら話してくれました。
韓国の人が何故この古墳で舞うのか、向こうの伝承が聞きたいものです。
(ムーダンの舞については、名島神社でも書いています。)
光さんは日韓シンポジウムにまで行ったそうです
「倭人は百済を通して中国へ行っていた。日韓のシンポジウムに行ったけど、
韓国では、三韓は存在しない、神功皇后も来ていないと言っていたね。
百済が滅亡した時、10万人の避難民が日本に逃げて来た。当時の日本人の人口が10万人。」

「文化は中国から朝鮮から日本へ向かって行った。日本から朝鮮に流れる事なはい。
古代から貿易をして、ここは移民地になっていた。」

双方向から、このように古代社会を研究できる時代になったんですね。
歴史の研究はどんどん進化していて、昔、教科書で習った世界観は、常に訂正をよぎなくされます。
頭を柔らかくして、おかなくっちゃ。

調べて行くと、この辺りは、古代鉄によって栄えた所だと見えて来ました。
また、詳細は後日報告したいと思います。

さあ、そろそろ、ぶらりと山を越えますか。




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by lunabura | 2010-06-08 16:11 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(2)

皇石神社・おういし(1)神功皇后と大石・御神体はドルメン石


皇石神社(1)
おういしじんじゃ
福岡県古賀市美明
神功皇后がウケヒで大石を持ち上げた?
御神体はドルメンの岩

古賀市立歴史資料館を出て左の方に向かいました。
目指すは小さな山。神功皇后の伝承のある所なら、
これまでのパターンから、川と小山と森を目指せば辿り着くはず。
道は三叉路でも、何でもとにかく小山を目指せばいい。

そうやって車を走らせると、鹿部(ししぶ)山に近づきました。
山裾を舐めながら神社を探します。
山を行き過ぎたと思って路地に入ると、すぐそこに鳥居がありました。
これかな?

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車を止めて鳥居を確認すると、皇石神社と彫ってありました。
やっぱりあったよ。
ここも弥生の聖地と神功皇后の法則に合ってるみたい!
神功皇后が祈ったという所は、数十メートルの高さの山で、遥拝所になった所。
そこに立つと聖なる山が見える。そんなパターンです。

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一の鳥居はまるで異世界との境界線のような風情です。
一歩くぐるだけで、鬱蒼とした自然の森の中に入り込みました。
とても植物相が豊かで、古来から神山として、杜が守られてきた印象です。
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すぐに神社の拝殿が見えて来ました。

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拝殿と神殿です。

この神社の伝承の始まりはこの境内の土の中から始まったようです。
入口にあった由緒書きを写します。(一部読み方など補っています。)

皇石神社
祭神は埴安(はにやすの)神。
古く享禄3(1530)年の神殿再建の棟札によれば、大石大明神と呼ばれている。神体は平たく巨大な立石である。

神功皇后は「もし新羅を征する力があればこの大石を抱え起こして立てることができる」と「うけひ」をされたという。太政三(1820)年には社名の皇石に変っている。

明治31年旧暦元旦、神殿後方の合せ口甕より、銅剣、銅戈が発見され、弥生時代の貴重な甕棺墓遺跡として、春日市岡本の遺跡とともに学界の注目するところとなった。
昭和47年には社地西北麓に多量の祭祀土器が発見されて遺跡の重要性を増した。

いま祭祀の由来を考えるに、遠く日本原始国家形成期における有力者の奥津城(おくつきー墓)の祭祀に創まるものであり、神体石は支石墓とよばれる、当時の墓制であったとみられる。

なお、社地に接した鹿部山は、もと三つの峰からなっていたが、その南麓には数多の古墳群が散在し、中の峰の嶺からは、永久元年(1113)年の銘など刻まれた鋳銅製の経筒が昭和46年に出土している。

即ち、鹿部山の頂上から麓に至る一帯は遠く弥生時代から悠久二千年に亘り、連綿として続いてきた聖域で、本社はその中心の槇の巨木群におおわれた森厳な霊地に、永遠に鎮まります神体石を崇敬のまととして斎き祀られてきた真に由緒ある宮どころである。

この神社の歴史と価値がよく分かりました。
ここは弥生時代の首長レベルの人が祀られていたのですね。
甕棺の上に支石墓の平石が載っていたというのですから、
古代の墳墓の変化を見る指標ともなる重要な墓です。しかも出て来たのは銅戈と銅剣。
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これが実物です。

ここは弥生からの古墳が沢山あった聖域でした。岡本遺跡と並ぶすごい所だったのですねえ。
もし、ここの価値が分かって全体が保存されていたら、岡本遺跡のように、教科書に載って、
弥生時代を代表する旧跡となっていた事でしょう。

さて、そんな聖地に神功皇后がやって来て、これから新羅出兵をしなくてはならない時に、
ウケヒ(占い)をして、その大石を持ち上げたというのですから、すごい話です。
そこから大石を皇石と字を変更したのですね。
大石と彼女の伝説が融合していくようすがよく分かります。

結局、銅戈と神功皇后については何の関係もありませんでしたョ。
(初めての方は綱分八幡宮を見て下さい。
そこから、銅戈を求めてやって来ました。)

でも、おかげで面白い山に来る事が出来ました。
と言うのは、この周辺には神功皇后の伝承がいくつも伝わっているからです。
神社の奥の山に登ると伝承と地形が呼応する事が分かりました。

境内の右奥には鉄のフェンスがあって、扉が開いています。光が明るく射す方向へ、いざ。
(つづく)

地図 古賀市立歴史資料館 皇石神社 鎧出土・屯倉あと 立花山 奈多 


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by lunabura | 2010-05-31 09:47 | 皇石神社・おういし・古賀市 | Trackback | Comments(0)

皇石神社(2)おういし・神功皇后が船の軍事訓練を視察したという


皇石神社(2)
鹿部山は三上山だった
神功皇后がここから船の軍事訓練を見たという


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神社の裏手の扉を進むと、ベンチやあずまやがあって、公園化されていました。
鹿部(ししぶ)山公園と言います。

神の山・立花山が見えた!
そこに立つと展望が開けました。山と市街、松林とそれに海も見えます。
写真の三つの峰が立花山です。ここから見える立花山は三上山ですね。
隣町の新宮町からは二上山に見えて、二神山と呼ばれています。

立花山は二上山に見えたり、三上山に見えたり、その見え方で、
安全な航路を教えてくれる、神の山でした。
今立っている山は遥拝所に間違いないでしょう。

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さて、後ろを振り返ると、さらに遊歩道が続きます。
緑豊かな木と枯葉の積もる道に誘われるようにして上っていくと、またもや道があります。
幾つもの分かれ道が合流しながら、森が段々深くなりました。
合流点に出ると、必ず振り返って道を確認します。
そうしないと、帰る時うっかり反対側に降りてしまう可能性があるからです。

誰にも会いません。だんだん心細くなった頃、のんびりと犬を散歩させる女性が
目の前を横切って行きました。道が舗装されている。!

あれ?どうなってるの?
女性の後をついていくと、見晴らし台に出ました。
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そこに立つと、今度はさっきと反対側の玄界灘が見えました。
ああ、ここはかつて360度の展望の山だったんだ。遥拝所であり、遠見の山なんだ。

ランニングの後で休憩している男性がいました。よし、何でもいいから聞いてみよう。

「ここの歴史について何かごぞんじですか?」
「ここは鹿部山と言います。昔は三つの山が並んでいたのですが、
団地造成の為に二つの山が取りつぶされました。
甕棺など、弥生の遺跡がたくさん出て来て、この山だけは残さないといけないと、
文化財の方が言って、ようやく残されたのです。」

そういって、そこにある看板にあった昔の山の写真の説明をしてくれました。

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写真を見ると、見事に三つの峰が並んでいます。左二つが完全に削り取られてしまいました。
今は、右側の鹿部山だけが残っています。昭和までは三つの山が残っていたんですね…。

「この、今はない、中央の山からは経筒が出ています。」
この出土品からもここは昔から聖地だったのが分かります。

皇石神社のいわれ
「ここの神社について御存じですか?」
「皇石神社ですね。おういしと読みます。」

「神社のすぐ裏に弥生時代の甕棺が出て、その中から銅戈が発見されました。
その甕棺の上に2メートルはある平たい大石が載せられていて、それが御神体です。
今は土の中に埋められています。
神功皇后がここに来て、もし三韓出兵が成功するなら、
『この石よ、動け』と言って、動かしたら本当に動いたというので、
大石に皇石の字が当てられるようになったといいます。」
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島々が見えるよ
ここからは、海がよく見えます。平たい島がありました。
「正面の島は?能古の島?」
「いいえ、相(あい)の島です。黒船や朝鮮使節団を泊めた島です。」
「ああ、そうか、そこは新宮ですね。すると、右の方が津屋崎。」
「そうです。その奥にかすかに見えるのが大島です。」

大島と言えば、宗像大社仲津宮がある所です。
「気象条件がいいと、白いビルの向こうに島が見えます。
沖ノ島ではないかと思うんですが、確認出来ていません。形がそっくりなんです。」

「へえ、ここから沖ノ島が…。すごいですね。
壱岐(いきの)島からは、朝鮮半島が見えるので、
この距離だと沖ノ島が見えている可能性は十分ありますよね。」
まだ見ぬ沖ノ島。女人禁制だから、なおの事、心ひかれる。
古代の祭祀あとがそのまま残っている、「お言わず」の島。

最澄が上陸した所ですって

海まではマンションや家がびっしりと建っています。
「このあたりはやはり昔は海だったんですか?」
「正面に見える川が花鶴(かづる)川ですが、最澄が唐から帰って来た時、
その辺りから、独鈷(とっこ)を投げたと言われています。
そこからみると、落下地点の立花山は真っ正面です。」
「へえ、ここの話だったんですか。」

最澄が唐から帰って来た時、独鈷と鏡を投げて、その落下地点に寺を建てました。
そこでは当時の火が今でも守られていて、その家は千年家と言われています。

神功皇后が軍事訓練を視察したんですか?
「この海域では神功皇后が船団の軍事訓練をしたと何かに書いてありましたが。」
「そうですね。相の島の向こうの海がそうです。」
そこはずっと前にレポートした志式神社を含む奈多や三苫の海域になります。
「むこうの海がよく見えるんですね。」

眼下の平地が全て海だったとすると、行き交う舟が全て掌握出来る場所でした。
もし、ここに神功皇后が立ったとすると、待ちわびた48艘の船が次々に集結して来るのを、
はやる気持ちで眺めた事でしょう。

「小山田斎宮は古賀市だ」というお墨付きがあった
「ところで、古賀市には小山田斎宮という、日本書紀や古事記に記述のある、
特異な神社があるのに、説明板がありませんね。
久山の山田の斎宮には教育委員会の説明板まであるのに。
貝原益軒があちらだと書いたからでしょうか。」

「小山田斎宮の入口に石彫で小山田斎宮と書いたのがありますが、
あれは香椎宮の宮司さんの書ですよ。」
「ええっ、香椎宮の?木下宮司?」
「名前は知りませんが、それが香椎宮のお墨付きだと思っています。」
「そうですか。」

木下祝夫宮司の偉業
木下祝夫氏(1894~1980)は、高松宮殿下から『古事記』の
ドイツ語訳を依頼されて、50年かけて翻訳を完成されています。
今、私もぼちぼちと「古事記の神々」を現代語訳していますが、
外国の人にどうやって古代日本の文化を説明されたのでしょうか。
並大抵の苦労ではなかったと思われます。

その方が自分のお宮で起こった天皇崩御の事件の真相を探求されなかったはずはなく、
神功皇后が神意を尋ねたという「小山田斎宮」は「古賀市の小山田斎宮だ」と
まさしくお墨付きを出されたという事になります。こりゃあ、本物だ。
(この事件については香椎宮に詳しく書いています)

「その香椎宮の宮司さんが九大の眞鍋大覺先生に、
『香椎宮の古宮はスピカを祀る振る宮』だと言った言葉から、私のブログが始まったんですよ。」
「そうですか。面白そうですね。」

「よかったら見て下さい。ところで、とても地元の歴史に詳しいようですが、お仕事かなにか…?」
「ここの史跡案内ボランティアをしています。」
「ああ、どおりで。今日は、思いがけず、プロから話を聞いたんですね。
幸運でした。ありがとうございました。」
                      
                                       (つづく)
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by lunabura | 2010-05-30 09:49 | 皇石神社・おういし・古賀市 | Trackback | Comments(6)

皇石神社(3)おういし・神功皇后の馬の訓練・黄金の海岸線

皇石神社(3)
ここからは新宮町が見える
神功皇后たちは馬の訓練もしていたよ


面白い事にこの皇石神社から見える範囲に
神功皇后が夫の仲哀天皇と馬の軍事訓練をしたという伝承が残っていました。
仲哀天皇が生きているので、まだ新羅へ行く前になります。

その話は新宮町史に載っていました。では、その伝承を一部省略しながら書き写します。
 地名に残る神功皇后の足跡
 大和朝廷が全国統一を進めていた4世紀後半、南九州の熊襲が反抗しました。このため仲哀天皇とその后の神功皇后が九州に来られ、香椎の宮を拠点に平定に乗り出されました。

また神功皇后は仲哀天皇が香椎の宮で急死された後も、ここを基地に三韓(朝鮮半島)に出兵されたといわれています。この時二人はわたしたちの町にもたびたび足を延ばされたそうで、二人にまつわる地名が数多く残っています。

まず、的野(まとの)では、兵士が弓矢の訓練をしたので的野とつけられたといわれています。

古賀市との境にある、長浦から古森にかけての高台に、馬挿場(うまさしば)と呼ばれている所があります。神功皇后の兵士がここで馬術の訓練や弓のけいこをした所と伝えられています。この一帯は戦に備えての一大訓練場だったと想像されます。

夜臼(ゆうす)の起源もこの時のことです。二人がここに陣をかまえた時、ここの人たちは軍用米を差し出すため、夜通し米をつきました。
天皇があちこちから聞こえてくる「コットン、コットン」という音をたまたま耳にされ、そばの者に「あれはなんの音だ。」とたずねられました。
そばの者は「あれは私たちのために徹夜で米をついている音です。」と答えました。
それからこの地区を「夜まで臼をつく」という意味で「ようす」「ゆうす」と呼ぶようになりました。

また鉾田(ほこた)は、二人が野外で陣営を張られた所だそうです。臨時の陣営なので、より厳重な警備が必要だったのでしょう。矛や槍を持った兵士が、二重三重に陣営を取り囲んでいたということから、鉾田とよばれるようになったといわれています。

上府(かみのふ)の神木(じんぎ)という所は熊襲平定の作戦会議、つまり神議(神様の会議)がたびたび開かれた所といわれています。

福岡市との境に近い下府(しものふ)に、飛山(とびやま)という小高い所があります。ある日、天皇が夜臼の東の山に登られ、四方の景色を眺めておられた時のことです。西の方にぼつんと立った小高い山が目にとまりました。
天皇はこの山だけがほかの山とかけ離れているので「飛山だ」と言われ、以来それがこの山の名になったそうです。

子供向けに分かりやすく書かれた本ですが、かなり具体的な伝承が残っているのが分かりました。
古代の人たちの暮らしまで見えるようです。

神宮皇后が朝鮮出兵を決定してから出兵するまで、かなりの月日を要しているのですが、
馬や船などを集めて軍事訓練していたのですね。なるほど、なるほど。

新宮町の研究ではその時代が4世紀後半になっています。
ルナはとりあえず、『古事記』の通りに200年で見て行っていますョ。

夜臼と言えば、夜臼式土器が大変有名です。年代を調べるための基準になっています。
最古の弥生土器と縄文土器が一緒に出たのも特徴だそうです。

この海域は海人族たちの根拠地であり、船を泊めるのに安全な地形で、
古代から栄えていたのが分かりました。
この土地の人々が天皇家に大変、協力的なのも印象的です。
ここはのちに屯倉(みやけ)が出来る、それは大変豊かな土地でした。

出て来た大きな列柱群は「粕屋の屯倉」かもしれない
ここは旧「粕屋郡 ミヤケ」だよ。
屯倉とは朝廷の倉庫の事です。
筑紫の君・磐井(いわい)の乱後、子供の葛子(くずこ)が朝廷に
「粕屋の屯倉」を献上して命乞いをして、許されたので、「粕屋の屯倉」は有名なのです。
どんな魅力がその倉庫にあったのでしょうか。

前回の史跡ボランティアのUさんは
「この地形から見て、諸外国と交流した文物の倉庫でしょう。」
と教えてくれました。

なるほど、直輸入の宝の山が保管されたんですね。
鉄器や青銅器やガラス器、黄金、布、宝玉などでしょうか?
なんともリッチな。ここはふつうの食糧倉庫ではなく、大和朝廷にとって、もっと魅力的なものがあったんですね。(のちには、るなは、武器庫だったと思うようになりました。)

次の写真は屯倉の想像復元模型です。
(古賀市立歴史資料館・田淵遺跡)
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このエリアには他にも、金の頭椎(かぶつち)の太刀が出ています。
ここにどうして豊かな物資が集まったのか。しかも、丘陵ごとに部族が違うらしいです。

なんとなく思いついたのはこんな光景です。
古代には海人族たちのネットワークがあって、船の運航の安全を担っていました。
水と食糧を求めて、船が入って来ると、首長は、どんな国籍の船も受け入れて、
時には船の修理にも応じました。必要なら、陸地に住居を構える事も許しました。
その見返りに、船は載せている宝物を献上して行きました。
あるいは物々交換もしました。
こうして、屯倉には豊かな物資が蓄積されて行きました。


黄金の海岸線
この玄界灘の沿岸では黄金がムラごとに出土している事に気づきました。
名島神社、宮地嶽神社、この鹿部山の麓、そして宗像大社。
黄金の文化があったんだ…。ジパングだァ。



そして、その黄金の最たるものは宮地嶽神社内の巨大古墳内で発見されました。
黄金の太刀。その長さ3メートル以上!
半端な大きさじゃない巨大な太刀!それが金銅製。
いくらなんでも、3メートルの太刀を作るなんて、発想がどうなってるの?
見たいな。見たいでしょ。
では、その被葬者の謎を追って、宮地嶽神社へ再び行きましょう!

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by lunabura | 2010-05-29 14:08 | 皇石神社・おういし・古賀市 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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