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ひめちゃご17 宇津羅姫と葛築目の明暗



ひめちゃご17

宇津羅姫と葛築目の明暗
 


みやま市瀬高には宇津羅姫(うづらひめ)の墓がある。

そこは「宇津」という地名だ。
その女酋長「宇津羅姫」は大地主神の娘だったという。

この姫は景行天皇を黒崎(大牟田?)から、
ここ(?)岩津の高田行宮まで守護したという。

その姫と父が肩を寄せ合って眠る墓が伝わっている。
場所は釣殿宮の近く。





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釣殿宮から南に行くと川があり、その手前すぐ右手だ。
釣殿宮からは300mほどか。

小さな鉄板の橋があった。
この墓には周溝があるというので、橋の下がそれだったのだろうか。
左手には豊かな川が流れていた。
その川の名は飯江川(はえがわ)という。


宇津という弥生の集落が飯江川河口沿いにあったことが想定できる。

「宇津」が「太神」と同邑だったのかは不明だ。
この宇津羅姫は景行天皇を歓待した側となる。


景行天皇は各地の王国、女王国に、まつろわぬか、まつろうか、
二者選択を迫って巡行した。

まつろわぬなら滅ぼされ、まつろうなら身を差し出さねばならなかった。

景行天皇の筑紫国巡行は、それぞれの弥生の国々にとっては、
クニが滅ぶかどうかの大問題だった。


筑紫の各地に、景行天皇と対峙した女王たちの名が残っている。
『日本書紀』に書かれているのはほんの一部に過ぎない。

しかし、景行天皇との攻防が、奇しくも当時の邑の分布を教えている。

この宇津羅姫の存在は、筑後川河口域に一つの邑があったことを示す。

これまでの逍遥のなか、出会った姫たちを思い起こした

景行天皇を受け入れた女王としては神夏磯姫(かむなつそひめ)が有名だ。
しかし、田川の香春岳の開発に追いやられた。
美貌の姫だったが、不幸な生涯となった。

その後裔に夏羽と田油津姫兄妹がいる。
夏羽は朝廷を恨み、田油津姫は神功皇后を暗殺しようとした。

結果は兄妹の惨敗。
(下巻60若八幡神社参照)


田油津姫が殺されたのはここ、みやま市なのだ。

その先代に女王・葛築目(くずちめ)がいた。
葛築目は景行天皇を受け入れずに殺された。
(下巻59老松神社参照)

葛築目が景行天皇と同じ時代なら、宇津羅姫とも同時代となる。
一方は殺され、一方は栄えた。

二人の女王は、みやま市の北と南で対立していたのかもしれない。
そこは、かつては「ヤマトのクニ」といった。

葛築目の墓は雨が降ると血が流れると言われている。
この墓はあるいは田油津姫の墓ともいう。

弥生の朱が流れ出すのだろう。

景行天皇の存在を介して、同時期に生きたことが分かった
二人の弥生の女王たち。

その明暗をしのばせる墓はいずれもほんのりとした墳丘を残していた。




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※メール、コメント、電話など、返事が滞っています。
拝読していますが、返事は今しばらくお待ちください。






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by lunabura | 2016-09-18 19:47 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―を話し終えて



「磐井の乱後」
-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
を話し終えて



今日は久留米大学公開講座で
「磐井の乱後」-磐井の菩提寺と宮地嶽古墳―
の話をしてきました。

足をお運びくださった皆様、ありがとうございました。





パワーポイントの最初と最後の画像は最後に選んだのですが、
こんな風になりました。


c0222861_23303075.jpg








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並べてみると、どちらも宮地嶽古墳です。

これは宮地嶽神社の境内にあり、宮地嶽神社の祭神が祀られて続けています。
被葬者は「勝村神。勝頼神」です。

二神は筑紫君葛子の子と伝えています。
ですから、筑紫君磐井の孫に当たります。




これが、ある日突然、宗像徳善の墓だ、と学者に言われて、
その誤解はいまだに解けずにいます。

宮地嶽神社側のショックはただならぬものがあったようです。




宮地嶽神社は安曇族です。

その証が欲しかったのですが、
ついに昨年、宮司だけが舞える秘舞として、
磯良の舞が再現され、発表されました。



こうして、安曇磯良の存在は
志賀海神社、高良玉垂宮、宮地嶽神社へと受け継がれていたことが、
平成になって明らかになりました。



安曇族の境内に宗像族が出かけて行って墓を作ることはあり得ません。
宗像族は自分たちの氏族の近くで眠るはずです。
わざわざ山の向こう、見えないところに作るはずがない。

こんなシンプルな理論も無視されています。



学者の論文に宗像市として堂々と書かれているのを見たことがあります。
正しくは福津市です。


宗像徳善は娘を天武天皇に差し出していて、
飛鳥浄御原宮の時代に外戚として娘の援助をしています。

飛鳥浄御原宮は672~694年です。
徳善はそのころ全盛期だったのでしょう。
孫は大臣に昇りつめています。
ですから、墓は700年前後に作られたと想定するのが理に適っています。

それに対して宮地嶽古墳は600~630年の推定。
両者には100年ほどの違いがあるのです。

もう、宗像徳善の名前を出すのは止めましょう。

「誰かが言ったから、そうだ。」
という発想が古代史の闇を深くしているのです。



今日は、この話や、磐井の菩提寺が作られた話、
また磐井の孫が百済王子と共に戦った話などをしました。


出版は、もうしばらくお待ちくださいね。








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by lunabura | 2016-05-21 23:32 | 宮地嶽神社と古墳・福津市 | Trackback | Comments(4)

馬上の武人3 百済の武寧王


馬上の武人3
WAKIMIKO
 百済の武寧王


物部麁鹿火
(あらかひ)の娘婿は大伴金村(かなむら)に殺された。
この二人の武将がのちに力を合わせて磐井君を滅ぼすことになる。

それに至るまで、どのような経緯を辿ったのだろうか。


麁鹿火の娘婿は平群(へぐり)の息子、(しび)だった。
金村が鮪を殺したとはいえ、それを命じたのは武烈天皇だ。

影姫は武烈天皇の物になったのだろうか。
その後のことは書かれていない。

武烈天皇は金村の勧めで即位したが、
皇后には春日郎子(いらつめ)を迎えている。




さて、『日本書紀』には武烈天皇の時代の「百済からの朝貢」が書かれている。

今回、確認したいのはこの「百済との関わり」だ。
何故なら、先々、大伴金村は百済政策で大失態をしでかすからだ。

鞍橋君百済王子と共に新羅と戦うようになった背景も確認せねばならない。



『日本書紀』から抜粋する。

武烈3年11月、百済の意多郎(おたら)が卒(しゅっ)し、高田丘に埋葬された。
―「卒」からは身分が高かったことが分かる。

武烈4年、百済では末多王(まったおう)が暴虐無道のために廃位され、
嶋王が即位した。これを武寧王(むねいおう)という。
—武寧王は唐津で生まれた。あとで詳述する。


武烈6年10月
、百済国は麻那君(まなきし)を派遣して朝貢してきたが、天皇は長年朝貢しなかったことを理由に留めて帰さなかった。


武烈7年4月、百済王は斯我君(しがきし)を派遣して朝貢した。
文書で「先の使者、麻那は王族ではなかったので、
斯我を派遣して朝廷にお仕えさせます」と伝えた。


武烈8年12月、天皇は崩御した。



以上、百済との関係の部分だけを書き抜いたが、
百済は日本に朝貢する立場にあることが分かる。

他の国との交渉は全く書かれていない。
もちろん中国との交渉も書かれていない。

また我が国は「倭国」ではなく「日本」と表記されている。

百済の朝貢記事が並ぶ中、武烈4年の「武寧王の即位」の記事が目立つ。
この武寧王は先述のように唐津で生まれた嶋王だ。

この嶋王誕生については、雄略天皇の所に書かれている。

<百済が献じた池津媛が天皇に召される前に他の男と通じたために殺された。

それを聞いた百済王・加須利君(かすりのきし)は「女はもう貢がない」と言って、
自分の弟、軍君(こにきし)に日本に行って天皇に仕えるように命じる。

軍君は承諾したが、王の妻を自分に与えてくれるように願った。
加須利君は妊娠している妻を与えた。
「臨月なので、途中で出産したら、母と子と一緒に帰国させてくれ」と言いながら。

6月1日に筑紫の各羅嶋で出産したので、「嶋君」と名付けて帰国させた。
「嶋君」が武寧王である。>

これを読むと、感想に困ってしまう。男女の問題は人それぞれだ。

今回のテーマは「百済の武寧王が日本で誕生した」ということを
確認したかったのだが、状況は意外だった。
こんな説明、某博物館に書いてあったっけ?
かなり表現を変えていたね。



さて、この嶋王の誕生の記事は近年まで疑われていたらしい。

「筑紫の各羅嶋」とは「唐津の加唐島」(かからじま)のことで、
その浜の名は「オビヤ浦」と伝わっている。
http://www.saga-shima-show.jp/kakara/

そして1971年、韓国では王墓が未盗掘の状態で発見された。
墓誌から、『日本書紀』の記事が正しいことが証明され、
韓国の『三国史記』の記述も正しいことが証明されるという稀有な例となった。
(もちろん、それぞれに異説はあるが)

しかも、王と王妃の木棺は日本にしか存在しない高野槙だったという。

韓国の観光サイト(日本語)
http://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=3149
を見ると、その黒い漆塗りの美しい木棺は何故か出ていない。


邪馬台国大研究
http://inoues.net/korea/buneiou.html
が詳しい。



このサイトによると、高野槙の棺の説明の日本語版はないが、
英語版があり、そこにはその説明が書かれているという。
お国柄が伺えて面白い。


この武寧王陵の発見により、日本と韓国の史料と出土物が一致し、
武烈天皇4年は西暦502年と証明された。


磐井の乱は527年。あと25年だ。
磐井君ももちろん活躍していることだろう。





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by lunabura | 2016-01-30 22:27 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

脇巫女 14 卑弥呼の鬼道


脇巫女 14
WAKIMIKO
卑弥呼の鬼道


昨日と今日は、高島忠平氏の講演を二日続けて追っ掛けしてきました♪

11月28日は
遠賀川 古代の王国再興会議キックオフイベント
王塚古墳から見た古代/遠賀川に輝く弥生の神々
「ホナミの王と神々」

11月29日は
全国邪馬台国連絡協議会第二回全国大会
~久留米から邪馬台国が見える~
「東アジアと倭の政治」

です。どちらも、会場は熱気いっぱいで、
九州の古代を取り戻す機運で盛り上がっていましたよ。

また、29日の講演では、纏向遺跡を掘った関川尚功氏が
学者としての良心的なお話をされました。

これは機会があれば、お伝えすることにして、
高島忠平氏の話の中に『脇巫女』を理解する助けになる話があったので、
今日は二、三点、ピックアップしたいと思います。

高島忠平氏は吉野ヶ里遺跡の発掘の指揮を取られた方です。

遠賀川流域出身でもあったので、私の取り組んでいる時代の
考古学的分野を把握したいということで受講したのですが、
なんと、星読さんの託宣と同じような話が出て来たのです。

◇◇ ◇
縄文時代人の「精霊信仰」を基盤としながら、弥生時代には「祖霊信仰」が
大きな柱となり、宗廟(祭殿)を祀るようになった。

その祖霊から託宣、神託を告げる巫女(神子)がいて、
その結果を連合国に伝えた。
この「祖霊からの託宣」を受けることを
「魏志倭人伝」では「鬼道」と書いている。
◇◇ ◇

卑弥呼の時代は30国ほどの連合国があり、卑弥呼は最も権威があって、
その託宣の結果を30国に伝えたということです。

この話は、星読さんのいう「物述」の説明をしてくれています。
部族国家の連合国の中ののメッセンジャーの存在を
考古学者が言及されたのです。
これを星読さんは「物述」(もののべ)(物を述べる)と言っています。


高島氏は吉野ヶ里遺跡の解析からの見解を話されました。
◇◇ ◇
吉野ヶ里遺跡には墳丘墓があるのですが、そこに「始祖」を埋葬し、
柱を立て、手前に祠堂を立てています。
そこから南に二列の甕棺がずらりと並び、巨大な祭殿へと続きます。




その祭殿は夏至の日の出と冬至の日没を意識して設置されていますが、
そこで祖霊を祀り、託宣を受けていたということです。
さらに南に延長するともう一つ祭壇があるのですが、
これは水、雷などの神々を祀っていたということでした。

◇◇ ◇

謎だった、冬至の日の出ラインの延長線上には古処山があるということでした。
これはチェリーさんに確認して頂きたいラインですが、
本当に古処山(こしょさん)にラインが当たるとすると、
その山を拠点としていたのは羽白熊鷲ですから、
吉野ヶ里は彼らと何らかの結びつきがあるということになります。

吉野ヶ里が一時期、断絶することと羽白熊鷲の滅亡という
新たな関連も視野に入れることになります。
中国では紀元前3~4世紀に東西南北を意識するようになったそうです。

また、吉野ヶ里人と飯塚の立岩遺跡人はほぼ似た形質の渡来人だそうです。
吉野ヶ里遺跡のすぐ近くには大伴氏の拠点があることから、
磐井の乱までの大伴氏の動きも気になるところです。
もちろん、物部氏の動きもです。

さて、高島氏の話でもう一つ押さえておきたいのは、「魂魄」という中国思想です。

人間は「魂」と「魄」(はく)という二つの魂を以っていて、
人間の死後「魂」は天に帰り、「魄」は地に留まるという思想がありました。
「魄」を大事にしないと祟るという思想があったために、
死者の亡骸を丁重に扱ったということです。

今、問題になっている古墳の破壊が、不思議な現象を起こしているのも、
この「魄」の存在で説明できます。

「祖霊を祀って託宣を受ける」
「魂魄の魄を丁重に扱う」
という二つの思想が弥生時代には確立していて、
古墳時代にも受け継がれています。

今、『脇巫女』で描いている世界は弥生の精神世界でもあったことを知ったのは
大きな収穫でした。


そして、私が留守の間、訪問者の皆さん同士で盛り上がっていてくださって
うれしい限りです。
さすがに、コメントの返事は無理ですな(^^;




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by lunabura | 2015-11-29 22:30 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(7)

斉明天皇行宮の磐瀬宮あと 中間市編



斉明天皇行宮の磐瀬宮あと 

中間市編


斉明天皇の磐瀬宮は福岡の何処だろうか。

数年前から、ミキさんの情報で中間市にその伝承があると聞いていて、
ようやく『中間市史』で確認できた。

地名が分かるようにと道路地図をコピーしてみると、なんと
「斉明天皇行宮の御館山」と赤字で記してあった。\(◎o◎)/!

その場所はJR中間駅の西。たぶんプラットホームから見えているはず。
鉄道工事のために山の側面を削り取られたという。

以下、『中間市史』中間地名考より
御館
斉明天皇行幸の地と伝える御館山は、中間と岩瀬の両区に跨っており、そこに接して行幸ノ尾(みこのお)という名の字がある。

この御館の地は岩瀬と近接し、以前は岩瀬村に属し、斉明天皇行幸の史跡として伝承が残されている。

明治24年筑豊鉄道の布設工事によって、山の側面を削りとられ、その崖下に中間駅が設置され今は周辺200メートルほどの小山である。

この御館山頂には約40平方メートルの平地があり、そこに斉明天皇を祭る御館社があったが、長い間の風雪に取りこわれたままになり、今は石祠のみが岩瀬の正覚寺観音堂の境内に祭られてある。

古くはここに大歳社、猿田彦を祭る石祠もあったが、鉄道布設のときに取除かれてしまった。そのときの工事中に官服を着た埴輪。また古く山麓から石棺とともに石剣が発掘されている。

この御館山のことを通称、月見山と呼び、その麓から岩瀬に通ずる大道があった。今に行幸縄手と称している。



念のため、中間市のHPで岩瀬宮の記述がないか閲覧したが、全く記述はなかった。

歴史民俗資料館にかつて行った時にも展示は無かったと思う。

まさか、地元で忘れ去られているのだろうか。
忘れられていなかったら、鉄道をほんの数メートル移動して
削らずに済んだはずだ。



ここは遠賀川流域の氾濫原の中にある丘だ。
対岸には仲哀天皇と神功皇后が停泊した埴生神社がある。

百済応援の軍勢を出した所と想定している地域で、
装飾古墳には馬の背に立って弩を射る武人が描かれていた所だ。

古代の交通の要衝で、強大な豪族がいたと思われる。


ここには斉明天皇だけでなく、中大兄皇子の伝承も伝わっている。
資料が見つかったら続きを書くことにしよう。

中間市とはどこか。
高倉健の出身地といえばお分かりだろうか。


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             ー遺跡の破壊は許さんー



御館山か?





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by lunabura | 2015-11-04 21:50 | メモ | Trackback | Comments(6)

船原古墳の被葬者は筑紫君磐井・葛子の一族か


船原古墳の被葬者は
筑紫君磐井・葛子の一族か


古賀市谷山で発見された前方後円墳の側の埋納坑。
そこに埋められていたのは馬具だけでも六領。
一領の一部だけ、新羅のデザインが見られますが、新羅製かどうかは不明。
その他は倭国製だろうとのことです。


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馬具の一部は土の表面に姿を見せた時から黄金のきらめきを発していました。

この「船原古墳」は6世紀末~7世紀初めに造られたといいます。
埋納されていた国宝級の宝物の数々は誰のために奉納されたのでしょうか。

今回はその被葬者像に迫ってみようと思います。
その手掛かりの一つとして、同時代、同じ古賀市美(み)明(あけ)にあった屯倉(みやけ)「鹿部(ししぶ)田淵(たぶち)遺跡」の存在が挙げられます。

この遺跡の重要性は6世紀前半に起こった「磐井の乱」(527年)が関わってきます。

継体天皇に新羅攻撃を命ぜられた筑紫君磐井はなかなか出兵しませんでした。
継体天皇は朝鮮半島からの貢物を横取りしているという言いがかりも付けています。

磐井君は継体天皇の派遣軍と戦ったのですが滅ぼされ、その子・葛子君は連座を恐れて「糟屋の屯倉(みやけ)」を差し出しています。その候補地とされるのが「鹿部田淵遺跡」です。

この遺跡と船原古墳は花鶴川~谷山川という一つの水路で結ばれています。船原古墳の被葬者はこの屯倉の経営に深く関わっていたと考えられます。





被葬者の生きた時代はどんな時代でしょうか。


この時代は朝鮮半島では新羅(しらぎ)が拡大していて、任那(みまな)が滅び、百済(くだら)も危うい状況にありました。百済は何度も筑紫勢に援助を頼んでいます。



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葛子君の子・鞍(くら)橋(じ)君(鞍手郡)が百済王子・余昌と共に戦って王子を助けてもいます。福津の宮地嶽では同じく葛子君の子である勝村(かつむら)・勝頼(かつより)が活躍していました。

古賀市美明の屯倉にはおそらく武器が格納され、この戦いに貢献したと思われます。




一方、被葬者の祭祀環境も手掛かりとなります。
古代より、氏族は自分たちの氏神を祀っていたからです。

被葬者はどこで神祭りをしていたでしょうか。すぐ近くにあるはずです。

船原古墳は舌(ぜつ)状丘陵地帯の突端に築造され、その奥に鎮座する小山田斎宮を守るかのようにみえます。距離はわずか500m。

この古賀市小山田の斎宮(いつきのみや)の始まりは西暦200年。
仲哀(ちゅうあい)天皇と神(じん)功(ぐう)皇后の時代に遡ります。




c0222861_202129.jpg


仲哀天皇は香椎宮で天下を治め、同市の皇(おう)石(いし)神社の鎮座する鹿部(ししぶ)山から船の軍事訓練を眺めたといいます。

その船はすぐ近くの安曇(あづみ)族の船です。ここは古代の阿(あ)曇(づみ)郷と考えられます。

しかし、天皇は突然崩御しました。神功皇后はその死の原因を知るために小山田に行って神々に尋ねたと『日本書紀』は語ります。

誰が土地勘の無い皇后を小山田まで導いたのでしょうか。

皇后は見知らぬ土地に導かれる時、その人物に全幅の信頼を寄せていたはずです。
その人物はやはり当地の安曇族だと思われます。
その境内には志賀三神も祀られています。綿津見の神ですね。

その末裔が船原古墳に眠ると考えるのが自然です。



安曇族は初代天皇の神武(じんむ)天皇の祖でもあります。その末裔でもある神功皇后が安曇族の船に乗って新羅を討ったのが、いわゆる三韓征伐です。

しかし、戦勝後も新羅との軋轢(あつれき)は400年続き、倭(わ)国は百済と共に新羅と戦うことになりました。

ただ、聖徳太子の派遣した征新羅大将の来目皇子は糸島で亡くなっています。それが603年のことです。船原古墳の被葬者もこの前後に亡くなっていると思われます。

船原古墳の被葬者はこの戦いに貢献していたと思われます。

被葬者が亡くなったあと、各地から宝物が届けられたと思われますが、すでに古墳の入り口が封じられていたために、そばに丁寧に埋葬されたと考えています。

以上から、船原古墳の被葬者は安曇族の一員で、その副葬品のレベルの高さからは磐井・葛子君の一族の可能性が高いと思われます。 




参考 『神功皇后伝承を歩く』掲載神社
24番 香椎宮
25番 皇石神社
36番小山田斎宮

下巻
69番 宮地嶽神社
71番 志賀海神社
72番 志式神社






赤 船原古墳   青 小山田斎宮




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by lunabura | 2015-10-15 20:06 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(2)

宮野神社(3)三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」


宮野神社(3)
朝倉市宮野
三階松紋は語る「橘広庭宮は宮野にあり」


前回、朝倉市の宮地嶽神社と宮地嶽古墳を紹介しました。

この神社と古墳を抱く宮地嶽(120m)の南に開けた小平野があり「宮野」と言います。
その一角に宮野神社と別所神社があり、過去記事で紹介しました。

宮野神社(1)斉明天皇が藤原鎌足に命じて造らせた宮
http://lunabura.exblog.jp/22100319/

別所神社(1)中大兄皇子は麻氐良社から女神を分けて祀った
     http://lunabura.exblog.jp/22119354/

別所神社(2)「皇居の辺」なる清浄の地
 http://lunabura.exblog.jp/22126791/


宮野神社では鎌足に大己貴神を祀らせて、勝利祈願をしています。
これは神功皇后の先例に見倣ったものと思われます。

神功皇后は大己貴神社(上巻42)と大神神社(下巻68)でそれぞれ大己貴神を祀って神助を得ています。

ところが、別所神社の祭祀の主体者は中大兄皇子となり、祈願内容は病気平癒です。
切迫した状況が伺えます。

別所神社が「皇居の辺」にあったという言葉から、橘広庭宮はすぐ近くにあったことが分かりました。
中大兄皇子は、自分自身で祈願するために皇居から近いところを選んだということです。




そして、この別所神社を含む900m×900mの都を想定して、以下の図を描きました。

c0222861_2154446.jpg


この記事を書いた段階では、結論を持っていなかったのですが、風水上から、宮地嶽神社を北に抱くのを最良として、「宮野説」を結論づけました。

これを昨年(2014年)の久留米大学生涯講座で発表したのですが、それに関しては全く反応がありませんでした (^_^;)


ま、タイトルは「古代筑紫を貫流した ありなれ川」で、眞鍋大覺の伝承を紹介したものでしたし…。一時間半の中、最後の30分で、宮野説を話したので、サラリと成りすぎたかな?


この「橘広庭宮」の所在地に関しては福岡でもあまり興味を抱かれていないのも、肌で感じます。歴史が奈良や京都の事だと刷りこまれている洗脳がなかなか解けないのも一因だと思います。



でも、神功皇后と同じく、斉明天皇と中大兄皇子の足跡を伝える宮があるのも事実です。ただ、神功皇后は130社ほど採取したのに対し、斉明天皇親子は十数社です。



それでも、『日本書紀』を裏付け、そして補う歴史が展開したのを、神社縁起で推し量る事が出来ます。
以下は過去記事に田手神社を追加したものです。

「朝倉橘広庭宮を探せ」
http://lunabura.exblog.jp/22149931/

斉明天皇七年(661) 
5月9日 朝倉に遷幸。
5月10日 斉明帝、宮地嶽神社(朝倉市)に参拝。(神功皇后・高麿・助麿)
5月11日 斉明帝、中大兄皇子と共に福成神社(朝倉市)に戦勝祈願。(三女神)
      (源太老人の墓・宮殿橋・桂の池)(下巻53)
○月○日 斉明帝、藤原鎌足に命じて宮野神社を創建する。(大己貴
○月○日 中大兄皇子 天皇の病気平癒のために別所神社を創建する。(イザナミ
○月○日 朝闇神社で祭祀か?(高皇産霊
○月○日 田手神社で祭祀。(向津媛
7月24日 崩御。68歳。
8月1日 中大兄皇子は遺骸を橘広庭宮から木の丸殿に移して12日間服喪。
(御陵山。恵蘇八幡宮)


赤字は祟り神として位置づけ、斉明天皇の病気後に祀ったと仮定しました。


さて、広庭宮の場所の話に戻りましょう。

るなは「宮野説」です。「宮野」という地名もまた宮があったことを示唆しています。

 朝闇神社説を確認するために現地に行くと、高木神が祀られていたので、大変驚きました。この神は祟りです。新羅戦を前にして仲哀天皇にも祟った怖ろしい神です。

これを北に奉じることは有り得ないと思いました。また、発掘調査でも寺院あとしか見つからないようです。

これに対して、新羅と戦って勝利を得た女神が宮地嶽神社に祀られているのです。それが神功皇后。
その神威を受けたイヤシロチこそ風水上、ふさわしい土地です。それが宮野です。

そう気付いてから、現地を確認して、その正中線に立ってみたい。そう思ったのですが、思いを遂げる日が、宮地嶽神社の三か月後に訪れました。



「宮野神社に三階松があるんですよ」
と、驚きの情報をくるま座さんが言ったのです。

宮野神社は上記のように、一度参拝して、ブログでも紹介したのですが、「三階松」には気付きませんでした。
これこそ、福津の宮地嶽神社の神紋であり、九州王朝の紋。

宮野神社には筑紫舞の絵馬もあるらしいです。天子の森にはそのオブジェがあります。(ルソン足をしている)

それまで、朝倉と福津との繋がりが分かりませんでした。でも、「三階松」があれば、すべては繋がります。





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宮野神社から宮地嶽を撮りました。いつも、神功皇后を仰ぎ見ることになります。




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そして、正面に見える所まで移動しました。


ここに橘広庭宮が建っていると考えると、ゆったりとした平野がひろがって、神名備山を抱く、ふさわしい立地条件です。

この土地を提供したのは、前記事では鎌足の一族かと思いましたが、今では安曇族だろうと思っています。



その証しが三階松紋ですが、それだけでは弱いなと思って、地元の歴史マップを見ていたら、近くに「志賀様の大楠」という巨樹が描かれていました。

これは斉明天皇が志賀大神を祀った跡だそうです。
志賀大神とはもちろん綿津見三神のことです。
安曇族が桂川を遡って船を着ける舟着き場に祀ったのでしょう。

これで、安曇族がここまで上がって来た裏付けが取れました。

ちなみに、安座上姓は、朝倉で天皇から授かった安曇族だそうです。
上座の安曇族という意味でしょうか。(上座とは朝倉の一部)

時代も、どの天皇かも、聞いていませんが、この「宮野」を提供して建造に関わった功績を称えられたのではないかと、ひそかに思っています。



橘広庭宮推定地






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by lunabura | 2015-10-10 20:15 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(4)

宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)・斉明天皇は神功皇后に祈った・卑弥呼と神功皇后は?


宮地嶽神社と宮地嶽古墳(朝倉)

朝倉市宮野
斉明天皇は神功皇后に祈った
卑弥呼と神功皇后は?

前回は宮地嶽(120m)の中腹にある湯の隈装飾古墳を紹介しました。

宮地嶽神社はその頂上にあります。道は農道で、最後は切り返しながら急斜面を上がりました。案内人がいなかったら、分からずにグルグルと回ったかもしれません。


車は宮地嶽神社の裏側に到着しました。




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正面です。








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朝倉市は神社の説明板が何処も充実しています♪説明板を見て大変驚きました。




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御祭神が神功皇后・勝村神・勝依神なのです。
前回も書いたように、総本山の福津市の宮地嶽神社と全く同じ祭神なのです。
(勝依は福津では勝頼)






神功皇后は西暦200年頃の人。(まだ、他の時代の証拠が見つかっていない)

勝村・勝頼筑紫君・葛子の子ですから、西暦500年代の後半以降に活躍したと思われます。福津の宮地嶽古墳に埋葬されました。その古墳は7世紀前半~中頃と言われています。円墳です。



ここ、朝倉の中腹にあった湯の隈古墳の古墳は6世紀後半築造。円墳です。
被葬者が500年代前半から後半にかけて活躍したとすると、磐井の乱を子供のころに見て、葛子や勝村・勝頼の活躍を見届けたのかも知れませんね。

中腹という位置関係から、この被葬者は頂上の宮地嶽神社を守る役目があったのではないかと推測しました。宮地嶽神社は安曇族ですから、ここは安曇族の聖地とも考えた訳です。






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そして、頂上からほんの少し下がった所に宮地嶽古墳がありました。



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これは前方後円墳。




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朝倉の平野を見渡す絶景ポイントを押さえています。


未発掘ですが、埴輪などが見つかっているもよう。時代は4世紀後半とされています。
この時代は、謎の4世紀と言われ、どうなっているのかよく分かりません。



この4世紀に神功皇后を持ってくる研究者は多いですが、国乳別皇子や高良玉垂命の廟の付近から出土するのは弥生時代のもの。(下巻57弓頭神社)綱分神社(下巻86)から出土するのも弥生時代のもの。

神功皇后伝承地の出土物には気を付けているのですが、古墳時代の決定版は見つかっていません。


4世紀説の根拠とされていると思われる、石上神社の七支刀は複製品だということが分かったので、決め手にはなりません。肝心の年号の部分が削られているのも紹介しましたね。



卑弥呼と神功皇后は どう違う?

ちなみに、200年説を採って、卑弥呼=神功皇后という説をメールで送って来られた方があります。忙しい時で、直接返事が出来ませんでした。ここで解答しようと思います。

二人はキャラクターが全く違います。

卑弥呼は一生独身で、人にも会わなかったのですが、神功皇后は天皇の后として、どんどん人前に出て行動しています。

化粧している姿が目撃されたり、馬に乗っている姿も目撃されています。出産もしているし、香椎潟では海に入って禊をしていて、男のヘアースタイルに変えるというパフォーマンスも見せています。(下巻67番御島神社)

卑弥呼は中国の後ろ盾が必要で、狗奴国と戦っていました。
神功皇后は夫に代わって新羅と戦い、侵略を防いだという点も全く違います。

卑弥呼は最期は「自死」と書かれていて、これは自害するという意味だと言う方もあります。非常に孤独な人生でした。




話が逸れました。朝倉の宮地嶽古墳の話に戻りましょう。

この前方後円墳の被葬者がどんな氏族だったのかは、分かりません。

安曇族がこの時代にこの山を掌握していたのか、分からないということです。4世紀なら、水沼水軍の訓練地が近いことから、まだ水沼族の支配下だった可能性もあります。あるいは他の氏族の可能性も。


斉明天皇

そして、ここに参拝に来たのが斉明天皇です。橘広庭宮に到着した翌日に、この神社に参拝して戦勝を祈願したと言われています。

『日本書紀』からは、661年5月10日という事になるので、緑豊かな初夏でした。もちろん、天皇が祈った女神は神功皇后です。

そして、斉明天皇は三日目には福成神社(下巻53)で参拝しています。祭神は三女神ですが、神功皇后の足跡を辿って神功皇后にあやかろうとしているのがよく分かります。

斉明天皇もまた新羅と戦わなくてはならない状況に追い込まれました。この時は唐軍との連合軍となります。神功皇后の神助を心から願ったことでしょう。

そして、この時は、斉明天皇もまだまだ元気だったのでしょうが、このあとわずか二か月後、7月24日に崩御となります。







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by lunabura | 2015-10-08 23:31 | 朝倉橘広庭宮 | Trackback | Comments(12)

湯の隈装飾古墳・被葬者は宮地嶽神社を守っているのか


湯の隈装飾古墳

朝倉市宮野湯ノ隈1326-2
被葬者は宮地嶽神社を守っているのか

さて、朝倉の装飾古墳の続きです。



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前回の狐塚古墳という線刻画の装飾古墳を後にすると、視野に入って来たのは面白い山。
気になる形!
ラグビーの松島幸太朗選手のヘアースタイルとそっくり♪


この山は宮地嶽(みやじだけ)と言います。


宮地岳(嶽)は福津や阿志岐などを紹介していますが、ここは朝倉。朝倉にも宮地嶽があったんです。同じ名前の山は他に糸島にも。

「宮地の星」と言ったら北極星のことです。すると、その南に山と星を見る地点があるはずなので、神社や祠が残っているのではと予測しています。

ちなみに、阿志岐の宮地岳の場合は高良山から見て真北になります。高良山から北極星を見ると、その真下に宮地岳があるという訳です。



話を戻しましょう。
朝倉の宮地嶽には中腹に湯ノ隈装飾古墳がありました。




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6世紀後半の円墳です。築造時直径は20メートル、高さ4メートル。



6世紀後半という時代は、磐井の孫が活躍する時代になります。葛子の子の勝村・勝頼が福津の宮地嶽神社を拠点として活躍。

同じく葛子の子の鞍橋(くらじ)の君は百済に進軍して王子余昌と共闘。

それから8年後に伽耶諸国は滅亡。589年には隋が興っています。こんな時代を生きた人がここには葬られています。





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入り口は施錠されています。
筑後国造さんが、役所から鍵を借りて来てくれていました!!!!

入ります!





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狭い。低い。
匍匐前進です。
これは複式の横穴式古墳で、前室、玄室から構成されています。


中に入ると高いですが、奥壁全体の様子は取り忘れ!





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でも、装飾画はバッチリです。特殊なライトのお蔭で上手く撮れています。
赤と青?の同心円がよく見えます。右の壁にも色が見えていますね。




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画像を小さくして、シャープに加工すると、くっきりとしてきました。




説明板には
「玄室の奥壁および玄門の左右に赤色をおびた同心円がかすかに残っており、筑後川の以北に存在する数少ない装飾古墳のひとつである。」と書いてあります。




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これは、どこの画像か記憶になし。縦か横かも不明です(^_^;)
でも、四角の文様が見えます。右下には円。




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画像を小さくしました。









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そしてシャープに加工。上には縦筋が何本もあるのが浮き出て来ました。
かなりゴージャスなデザインだったようです。





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天井からは水が。ブレてますねえ。

この水を見て、この古墳はかなりの土砂が堆積しているのに気付きました。




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そう、福津市の宮地嶽古墳もまた、開口した時、90センチほどの土砂が堆積していたのですが、その話をここでリアルに体験したのでした。



今観察している画は上部の画であり、土砂を除けばまだ装飾画が残っている可能性があります。そして、副葬品もまだ残っているかも知れません。

(福津の宮地嶽古墳は、土を掻き出したら3mを超す金メッキの大刀が出て来たのです)

こう考えると、大変貴重な古墳だということが分かります。

この古墳の装飾画の復元は蕨手さんが試みているので、ご興味のある方は以下のリンク先へ。



http://blog.livedoor.jp/warabite/archives/51425257.html


一つの古墳の壁画の復元だけでも、相当の時間と労力が必要だったのが、よく分かりました。筑後国造さんと蕨手さんの研究は日本にとって、大変貴重なものです!




さて、これほど貴重な古墳も普通に開口していますが、開口したのは江戸時代のことです。この時代に、福津の宮地嶽古墳や、櫻井神社の古墳など、次々に開口しているのも面白いですね。



そして、るな的な謎解きは神社の縁起からのアプローチとなるのですが、すぐ東に湯隈神社があります。しかし、『福岡県神社誌』には掲載されておらず、祭神は不明。この神社は古墳と深い関わりがあるはずなので、情報があれば教えてください。



地名の「湯の隈」の「湯」とは温泉というより、「鉄が溶けている状態」を指し、「隈」とは天文観測用語でもあることから、この神名備山は古代の製鉄や天文観測の重要な山だったのではないか、とも思われます。


そして、山名が宮地嶽ということからは、安曇族との関連を予想するのですが、山頂には宮地嶽神社があり、祭神は「神功皇后、勝村、勝頼」ということで、福津と全く同じ祭神となっています。

「勝村・勝頼」は「阿倍姓」や「藤姓」、各地でどちらでも書かれています。

そして、この湯の隈古墳の被葬者の生きた時代は「勝村・勝頼」の時代なので、山頂の二柱は、神功皇后以外は被葬者の時代に初めて祀られたということになります。


誰もが「勝村・勝頼」を祀れるわけではないので、この山を安曇族が支配していたのは間違いないでしょう。

湯の隈古墳の被葬者は山頂を守るために中腹に眠っているのかもしれません。そうすると、被葬者は安曇族?

古賀市の船原古墳より少し前の人となります。

このあと、この地域に安曇、阿倍の痕跡を次々と見出すことになりました。これはその序章かな。
次回は頂上の「宮地嶽神社」へ!もちろん、ここは朝倉市です。



湯の隈装飾古墳





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by lunabura | 2015-10-05 21:11 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)

狐塚古墳(2)昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


狐塚古墳(2)

昭和29年の実測図に二人の人物が描かれていた


手元に『埋もれていた 朝倉文化』(福岡県立朝倉高等学校史学部)という本があります。ふと、本棚から出したのですが、そこに狐塚古墳の記事がありました。

この本は、朝倉で整地、開墾が次々と行われるなか、高校生が調査して書き遺したものを一冊にまとめたものです。

そして狐塚古墳については、当時天井石を失ってはいたものの、おびたただい出土品があり、多量の武器、馬具、須恵器、はては北宋銭や石鍋、石硯などが記録されています。

土器には弥生土器も混じり、平安土器、北宋の白磁、南宋の青磁などが含まれています。北宋銭は真書の天聖元宝(1023年)が二枚です。

天井がないことから、違う時代のものが混入したのか、あるいは400年後も扉が開けられて奉納されたのか、全く不明ですが、この地が中国と交流を持っていたことを物語っています。

筑後川を下って大川の風浪宮に着けば、その近くに榎津という国際港があるので、珍しいものが直接入って来ている可能性があります。

出土品には釘が多数出ていることから、木棺だと分かっています。その分布からはやはり複数の木棺が置かれたもようです。

そして、本には奥壁の鏡石に書かれている船の詳細な絵図が掲載されていました。
それは、前回紹介した看板の画とは全く違っていました。



衝撃の壁画です。







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これは渡来人でしょうか、二人は明らかに別の人種と思われます。
左の人物はタッチが違うので、後世に書き加えた可能性が大きいです。
人物は船から降りています。屋形がある大きな船で、左下の小船と比べるとその差がよく分かります。有明海から入ってきたのでしょう。船の右手にびっしりと彫られた格子は、現代でもまだ目視できました。が、人物の部分は船のラインがわずかに見えるだけです。



次は同じ部分の看板のイラストです。


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何故、あれがこのような壁画とされたのか、理由は不明ですが、詳細は昭和29年3月「福岡県文化財調査報告」第17輯に載っているそうです。



狐塚古墳は出土品が多いので、専門家によって、もっと時代が描きさせるのではないでしょうか。
周囲の古墳が赤や青で描かれているのに対し、これは特殊なもののようですが、専門家なら円石室の分布とともに、明らかにできるものではないでしょうか。

この古墳はもっともっと評価されるべきものと思われました。





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by lunabura | 2015-09-25 22:34 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(2)
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