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狐塚古墳(1)・線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


狐塚古墳(1)

朝倉市入地2741?
線刻画の装飾古墳は水沼水軍の訓練地の近く


前回まで、うきは市(浮羽)の神社と古墳について書きました。

八咫烏の発祥の賀茂神社があり、的物部などのような古代豪族たちと、絢爛豪華な装飾古墳群が特徴の地域でした。

これは筑後川の左岸に展開した遺跡群ですが、今回はその対岸にある朝倉の古墳の話です。

狐塚古墳と言います。リンクしている筑後国造さんの案内で実際に石室を見学することができました。
役場との調整によって石室を見ることが出来るとはいえ、その準備や手間を思うと、感謝に堪えません。

浮羽の古墳群を書いたあとなので、朝倉と浮羽の違いがよく分かります。

印象を先に述べると、浮羽の石室は長方形のプランで、色彩は赤や青の力強くて華やかなカラーの装飾です。個人的には、佐賀の太田田代古墳や飯塚の王塚古墳と共通するものを感じます。

ところが、この狐塚古墳の石室は円構造で、装飾画は線刻です。別の文化圏ではないかと思わせるほど、差があります。

それでは写真を見ながら紹介しましょう。



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この古墳は石室がすっぽりと建屋で覆われています。









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ドアを開けるとこのような光景が目に飛び込んできます。無残にも天井石などが抜かれて(?)しまっていますが、全体構造がよく分かります。奥が玄室、手前が前室、右手が羨道となっています。

とても広いので、一目見て、テンションが上がりました。





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これが平面図です。玄室が丸いです。前室も、上から見たら丸く見えました。石の重力をどうバランスするかが石工の腕の見せどころでしょうが、かなり広い玄室の天井をどうやって組んだのか、もう知ることはできません。






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前室から玄室を撮りましたが、壁が整然としていないのが特徴です。正面の茶色の丸い形の石が奥壁の鏡石で、ここに船の線刻画がありました。







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舳先(へさき)と艫(とも)が二股になっています。底が平たいので、川船です。櫂(かい)も描かれています。朝倉舟と言っていたのがこのタイプかもしれません。

これを見ると、対岸の浮羽の豪族たちとは全く別の豪族だということが分かります。





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他に馬や不思議な線刻などがあります。






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これは羨道の方を撮ったもの。丸石で重ねた所は多分、現代の加工。上方の白い部分は建物の壁です。
床のまな板のような石にはホゾがあります。





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これは初めからあったものです。
つまり、ドアがあったということになります。穴は片方だけなので、片開きのドアです。

宮地嶽古墳にも扉があったのですが、それは枠が造られていました。

追葬したり、祭祀したり、横穴石室は、一族の祭事の中心だったと考えられます。


時代は1400年前、すなわち600年頃だそうです。出土品にはベルトのバックルや馬具などがあり、甘木歴史資料館の資料には7世紀初め頃のものと書かれています。出土品が何処で見られるのかは書いてありません。


大体600年~610年頃と仮定しましょう。筑紫では何が起こっているでしょうか。

600年に倭王阿毎多利思北孤が遣隋使を派遣しています。
607年には阿毎多利思北孤の送った国書には有名な「日出處天子」とあります。これを学校では聖徳太子だと習いましたが、どうなってるのでしょうか?

倭王阿毎多利思北孤と聖徳太子では身分が違うし、天皇は女帝・推古天皇なので、性が違います。
こんなところで、日本の正しい歴史が何なのか、つまづくとは (´・ω・`)
倭王朝と日本王朝という二元の王朝の併存をありのままに捉える事が必要のようですね。

話が逸れないように、戻りましょう。


さて、602年には来目皇子が新羅と戦うために筑紫に来て、翌年糸島で亡くなっています。
この時、佐賀の綾部では盛んに武器を造りましたね。

この狐塚古墳の被葬者は来目皇子と同じ頃に亡くなったことになります。
そして、あの埋納坑のあった古賀市の船原古墳もこの時代になります。

この狐塚古墳の遺族は古墳に船と馬の画を描かせました。死者に捧げる画です。
まさに、筑後川での営みそのものです。

この巨大な円墳に埋葬された人は、ここ、「入地」の支配者なのでしょうか?

「入地」といえば、私には思い入れがあります。
『神功皇后伝承を歩く下巻』を書く時、朝倉市に問い合わせてまで、調べたかった事があったのです。

「入地」は、神功皇后が羽白熊鷲を滅ぼして山を下って来た所にあります。

皇后は兵士たちに武器を研がせ、漆で錆止めをさせています。
その場所が徳次(とくつぎ)、塗器(ぬるげ)という地名で残っているのです。

その地名が何処にあるのか、検証しておかなければならなかったので、市に問い合わせました。そして、分かった場所を下巻の9ページに書いています。

朝倉市からの報告を見て私は驚きました。
二つの地名は太刀八幡宮(52番)と福成神社(53番)の間にあったのです。
この二つの宮はどちらも祭神が三女神なのです。

ここ筑後川流域は水沼三女神です。これに加えて軍事訓練の伝承があることから、「入地」は水沼水軍の軍事訓練所だったと推定しました。この狐塚古墳は上記の二つの宮を直径とした円内に入るのです。

神功皇后から400年経ってはいますが、水沼水軍が他に滅ぼされない限り、この狐塚古墳の被葬者は水沼族に関係のある豪族だと推定できます。

この古墳が出来て60年ほど経った661年。
斉明天皇がすぐ近くの朝倉橘広庭宮で崩御しています。

斉明天皇は朝倉に到着すると、ただちに朝倉の宮地嶽神社と福成神社に参拝しています。視点を変えれば、天皇の御幸の手配をしたのは地元の豪族のはずです。





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これは古墳の正中線の先に見える風景です。
見える範囲に朝倉橘広庭宮は存在し、殯(もがり)の宮もあります。
この古墳の「被葬者の末裔」は広庭宮の造営を見ていたかもしれませんね。


追記
この記事を書いた翌日、昭和29年の実測図が見つかったので、次に紹介しています。
このため、少しこの記事を書き換えています。



狐塚古墳 


地元の方、位置がずれていたら、教えてくださいませ。





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by lunabura | 2015-09-23 23:59 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(0)

珍敷塚古墳・天鳥船の壁画だけど外観のみ


珍敷塚古墳
めずらしづかこふん
 外観のみ


前回の浅田古墳群から西、久留米方面へ約6キロの所に、珍敷塚古墳があります。6キロという距離は氏族も別になるでしょうが、例の天鳥船があるので、現地を確認しに行きました。

前回、資料がないとボヤキましたが、うきは市の観光協会から戴いた資料の中に、「うきはの装飾古墳」という優れ物が入っていました♪

発行は、うきは市教育委員会です。重定古墳の壁画は、ユギがずらりと整列している様子が飯塚の王塚古墳に似てたり、行けなかった楠名(くすみょう)古墳の入り口が福津市の手光古墳と似てたりしていて、ワクワクしてます。

で、本題の珍敷塚古墳ですが、石室は見られなくても、福岡県大阪観光協会の発行したリーフレットに載っていた、あの天鳥船の現場ということで、行ってきました。
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あれ?
あれれれれ?
あれじゃない?
行きすぎました!

古民家カフェのような瀟洒な看板があって、通り過ぎながら「珍敷塚古墳」の字を確認。
車をバックさせて、現地に立ちました。

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ここは屋形古墳群と言って、四つの古墳があるということです。

壁画を観察すると、珍敷塚古墳と原古墳、鳥船塚古墳の三つが「ミサキ鳥」を舳先(へさき)と艫(とも)に一羽ずつ乗せて、帆柱などが描かれています。

エジプトのラ―の船と共通する画があるのはここです。
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(福岡県大阪事務所発行 無料で送ってくれますよ)


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この古墳は小さな家屋で墳丘もなく、古墳には見えないので調べて行くと、破壊されていて、奥壁だけが残されたもようです。

当地はフルーツ観光で有名ですが、造園業も盛んなので、古墳を壊して畑に造成し、石は庭石に使われていったのではないかと思います。


小郡市では、家の塀代わりにおびたたしい数の石室っぽい石が山積みされているのを見ました。

ここも、石を持ち去ろうとした時、この画の躍動感にただならぬものを感じた人が残してくれたのでしょうか。

この天鳥船のモチーフを描いた古墳が三つ並んでいる点では、一族の墓が次々と造られたんだろうなと、想像させてくれます。




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少し離れて写しました。裏手に三つの古墳が並んでいるはずです。少し坂になっていました。もう暑くて断念。

冊子からは、珍敷塚古墳の次の世代の人は力不足で、モチーフを描くのがやっとという印象を受けます。逆の意見を持つ人もいるかも。
四つ目の古畑古墳の絵は日岡古墳と似たタイプだと指摘されています。

時代については記述がないので、想像することが出来ません。








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これは反対側の風景です。

果樹園の先に立つと、筑後平野が見渡せます。筑後川は一夜川というほど、流れが変わる川で、いつも氾濫しました。

正面の山並みは朝倉です。3世紀の初頭まで羽白熊鷲が活躍し、神功皇后に滅ぼされました。それから400年以上経って、斉明天皇が神功皇后の足跡で祈り、朝倉橘広庭宮を造りました。

この珍敷塚古墳の被葬者はその間の人です。
周辺の神社は鷹取宮、天満宮、熊野神社、宮地嶽神社。

何か手掛かりはないか。
やっぱり歩かないと駄目ですね。



珍敷塚古墳







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by lunabura | 2015-09-19 23:03 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(10)

高句麗壁画(1)八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


高句麗壁画(1)
八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏そしてサッカーへ


今日は高句麗の装飾古墳壁画です。
その中に八咫烏がいくつか出ていたのでそれを紹介します。
ヤタガラスーそう、日本サッカーのシンボルマークです。三本足が特徴です。
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この絵は「日神・乗鳳凰図」です。
「太陽神が鳳凰に乗っている図」という意味なので、左右の人物の乗り物を見てみましょう。
左は龍ですね。右側は鳥です。ですから右の方が日神です。
この日神は笛を吹いています。ヘアースタイルを見ると男の神です。
高句麗の太陽神は男の神です!
中央の円を見るとカラスがいます。
羽根を広げて、笛の音に合わせて舞っているかのようです。
そして、足を見ると、三本だ…。ホントにこれは八咫烏です。

この古墳は「輯安(しゅうあん)5塊墳4号墓」と言い、
中華人民共和国―集安地方にあります。6世紀の古墳です。
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「日神・月神図」これは同じ輯安5塊墳の5号墓。
男女の神が舞っています。八咫烏を頭上に差し上げているのは男神です。
左が月神で女神です。神さまらしく衣の袖が羽根です。
とても軽やかな描写で、自由な筆遣いに驚きます。

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「舞踏神」これも同じ5号墳です。
朱雀か鳳凰に乗って天女が踊っています。
その向こうに八咫烏の足が三本だけ見えます。なんだか大胆な構図ですね。
八咫烏の顔は見る人の想像にお任せ。なんだか嬉しそうな顔が浮かぶんですけど…。
鳥や天女の躍動感がすごいです。

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真坡里(しんはり)7号墳
これは少し時代が後で、6世紀後半の金メッキの銅の透かし彫りです。
中央の円の中を見てください。鳥がいて三本足です。
また上の方にも鳥が彫られています。
下に帯があるので、冠ではないかと言われています。

これら4点の八咫烏は6世紀のものです。日本とはどう関わりがあるのでしょうか。
6世紀だという事は日本も古墳時代に入っています。
日本での八咫烏の話は、神武天皇の時に出て来ていて、道案内をしています。
日本の神話はずっと古いです。
ですから、この高句麗古墳からの日本への直接の影響は考えられません。

それでは二カ国に八咫烏が伝わっているのは何故か?と考えると
もっと、前の時代に八咫烏の伝承があったと想定できます。
検索すると「三本足の烏」の思想は中国で生まれていました。
すると、こういうストーリーが出来ます。

中国辺りに八咫烏神話を信奉する氏族がいて、北部朝鮮に辿り着いた。
その一部は南下して日本まで辿りついた。
北部朝鮮に残った人たちはそこで高句麗の建国に関わって栄えた。

では、その人たちはどんな氏族だったのでしょうか。
そのヒントが同じ古墳(5号墳)に描かれていました。

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「燧(ひうち)神と鍛冶(かじ)の神」
左の神は火打ちの神です。右は鍛冶の神。
これから、この八咫烏を信奉しているのは鉄の民族である事が分かります。
この高句麗の装飾古墳に埋葬された人は、八咫烏をトーテムとした鉄の民です。

一方日本では「八咫烏は賀茂氏の祖」だと言われています。

賀茂氏については真鍋大覚氏の本にいくつか記述があるので、
言葉を補いながらまとめて見ました。
南冠座(コロナ アウストラリス θ)
賀茂の氏族は、日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、
むしろ百姓の鋤鍬(すき・くわ)の方を主としていた。
その祖が来た時代を考えると、海幸山幸の時代に釣り針が出てくるので、
そのころには渡来していたはずである。
「冠座」を「かまのほし」とも言うが、この起源は鎌の形の半円形から由来する。
鎌の形は当時の舟の形にも似ていて、それで水を渡る時には、
葦草を切り払いながら漕がなければならない。
そんな沼沢池を渡って来た氏族・北方系の胡人が賀茂氏である。
彼らが鉄を作る時、片目で坩堝(るつぼ)火の色を見ていたので、
冠座には要目星という名もついていた。
坩堝の底の反面に析出した金銀の粒を星の配列にみたてていたともいう。

鳩座 (コルンバ β ウズン)
烏鵲は干潟の冠水の有無遠近を見定める鳥として、
昔は旧約聖書のノアの洪水の神話の時代から知られていた。
縄文弥生の祖先は烏鵲と共に干潟の開拓に努めて来た。
神代には賀茂の氏族は八咫烏を伴として日々をすごしていた。
今、肥前にすむカチガラス即ちカササギは
まさにその生きた化石というべきものである。
有明の干潟にいるムツゴロウをカチガラスは餌としていたが、
干潟が稲田と変わった今日では全くムツゴロウとは無縁になった。
干潟が陸地化するまでに3500年の以上の歳月がかかった。

タタラで鉄をつくる賀茂の氏族は火勢を見つめる仕事をするようすから、
「隻眼一目の神」と崇められて来た。

賀茂の星
『淮南子』などには大陸の西北方、或いは北方、さらには東北方に
一目国があったと語り伝えている。
「一目」を高麗の古語でカナムリと言う。一目は「タタラの神」となった。
常に高温の金属蒸気を見るために視力保護の目的で片目をつぶって
物を眺める習慣が身についている工人の氏族の事である。
福岡県那珂川ではこれを称して「八丁様」と言い、
京都山城では「加茂の神」と崇め奉った。

天智天皇は662年、筑紫の長洲宮に遷都された。
そこからは背振山が見えた。背振では葵祭があっていた。
天智天皇は大和に帰還してから、667年に山城の国の氏神の加茂の社で、
筑紫と同じ「葵祭」を催行された。
こうして筑紫の神々は畿内に遷座して、故郷の発祥の地をしのぐほどに繁栄した。
「背振神社」は京都「賀茂神社」に、「現人神社」は大阪の「住吉大社」に
生まれ変わって、本家本元は寂れてしまった。

「加茂の神」は元来はタタラの神であった。火と熱の神であった。
そして、鍛冶場仕事の災いとなる風雨に対して、細心の配慮のある神であった。

背振の祭りには必ず「おこしごめ」が店に出ます。
これは昔の砂鉄精錬の生産品であります。
玉刃金を菓子に造形化したお土産にほかなりません。
ちょうど、京都の「八つ橋」が賀茂の神々が作った「金の延べ板」を
模した品にほかならないのと同じです。
これはあちこちにあった文章を集めました。

これをまとめてみます。
有明海が陸地化する3500年以上前に賀茂氏は八咫烏を連れてやって来た。
当時は葦原だったので、船を進めるには鎌で葦を払いながらであった。
その時の鎌の形が「冠座」の形と同じなので、「かまのほし」と名付けていた。
また、当時の船の形は三日月のように両端が上がっていた。
八咫烏には干潟が陸地になるかどうかを見極める力があったので、
賀茂氏はそれを連れていた。
賀茂氏の出身地は「一目国」で、中国大陸の北西から東北にあった。
「一目」の由来は、坩堝で鉄などを作る時、
閃光から目を守るために片目をつぶる習慣があったからである。
それを、筑紫では「八丁様」といい、山城の国では「加茂の神」と言った。
「賀茂神社の葵祭」の由来は、もともと筑紫の背振神社で行われていたのを、
天智天皇がご覧になって、京都でも真似をして始めたことにある。
葵祭は京で神社と共に栄えているが、
ルーツの方では寂れてしまって、忘れ去られてしまった。

この話は高句麗と日本と両方に八咫烏が伝わっているのを
よく説明してくれていると思いました。

古事記では神武天皇を助けるために天から八咫烏が使わされています。
その続きを読むと、地下で働く不思議な人々と出会って行きます。
これは、鉄の民の描写だと思っています。
神武天皇も鉄の民の協力を得て、力を付けていった事が婉曲に描かれています。
(⇒神武天皇
そしてこれが日本のサッカーのシンボルマークになりました。古くて新しいヤタガラスです。

参考文献
『高句麗文化展』 高句麗文化展実行委員会 (写真転載)
『儺の国の星』『儺の国の星・拾遺』 真鍋大覚 那珂川町発行



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by lunabura | 2015-08-10 08:10 | 高句麗壁画・八咫烏 | Trackback | Comments(10)

水城の地下の木樋・ イタドリ


水城の地下の木樋

 イタドリ

1200mもの長さのある水城。今は樹木が生い茂って緑の森の土手となっています。

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東門から撮りました。右手が博多湾側です。
見えている範囲に外濠があり、水が溜められるようになっています。水城の向こう側にも内濠が確認されています。



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これが水城の断面図。上の写真は右側から撮っています。博多湾側です。一般には敵が攻めて来たら土手の上から矢を射て防御するという説が主流です。

真鍋が伝えているのは左側即ち太宰府側に水を溜めていたというものです。それをどう捉えるか。土塁の地下に注目してください。水色の線があり、木樋と書かれています。これが水城の地下の導水管です。





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水城を断ち切って国道三号線が通っています。そのすぐ左手から導水管が発見されて、今はコンクリートで復元されています。実際は巨木で出来ていていました。

この木樋が現在、三ヶ所で発見されています。

土塁を築く前に木樋を数本(多分、均等な間隔で)敷設して、排水をコントロールしようとしています。





これに関して、真鍋はどう伝えているでしょうか。

イタドリが緑の葉に変る頃、瀦水塘(ちょすいとう)の閘門の板(いた)扉(び)を揚げて水を落とす。冬の間に蓄えた水が下手に移る。これを百姓はいたどりと言った。この時に南の空に明るく光る星が板取(いたどり)星(ぼし)(ブーテスα16アクチュルス)であった。『儺の国の星拾遺』p105


イタドリとは植物のことで、初めは赤い葉が出ます。それが緑に変わるのを合図に水を落としたといいます。
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(画像出典 ウィキペディア)


閘門(こうもん)が木樋と思われ、それには板の扉が付いていて、それを上げると水が外濠に流れ込む仕組みだったようです。

これがいったん外濠に溜められて、博多湾沿岸の水田に水が張られていきました。
その時に南に見える星を板取星と呼んで、これも合図にしていた訳ですね。




瀦水塘は上田(かみだ)ともいった。水(みな)雪(つき)田(た)、或は水盡(みなつき)(空)田(だ)ともいった。雪(ゆき)の古語は「つき」であって、冬分は雪積で水も氷も凍結しているからである。

夏分は下田(しもだ)に水を遣り果すから、水がなくなる六月の大雨なる水(み)無月(なつき)の由来がここにあった。

そして水(みな)漬(つき)星(ぼし)の名がここに生まれた。百姓がみな、箕を着けて水につききりの四ケ月であった。



「水城」以外に「小水城」がいくつかありますが、その話だと思われます。上の田と下の田をつなぐ導水管が発見されています。かつては福岡も冬は雪が厳しかったと聞きますが、雪を溜めて初夏になるとそれを下田に送っていたことになります。
蓑を着けて、つきっきりの四カ月。水田の世話をする人々の姿が目に浮かびます。



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これは大土居小水城の木樋です。


この使用法が具体的に分かるのが次の文です。

万葉の頃までは、山の麓の平坦な谷間を上手(かみて)と下手(しもて)の二つに別けて、その堺の狭く縊(くび)れたところを仕切って、ここに堤と閘門(こうもん)を置き、冬場は上手に水を蓄え、下手に麦を播き、夏場はここに水を通して早生の水稲を植え、やがて上手の水が空(こ)閑(が)になると、そこに晩生(おくて)の陸稲を植えた。

貯水の観縁戚までが活用される仕組みであった。

この農法は今も大陸では保存されており、瀦水塘と今も呼ばれている。天平の昔までは、倭人はこれを「ゐみづ」或は「いほと」といった。さきほどに出た射水も那珂川の岩戸(いわと)も、かつての瀦水塘の和訓を教える地名である。

唐門(からと)がひらかれ、浅い水位からしずかに流れ出る水は、二月かかって土を潤す。これを祖先は入水(いりみ)田(だ)といった。

その頃南の空に見えるのがこの浥(いみ)理(りの)星(ほし)(鷲座γタラゼット)であった。『儺の国の星拾遺』p140

この瀦水塘の巨大な構造物が大野城市の水城だということになります。





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大野城市HPより。
木樋から水が流れているようすが描かれています。この外濠は水量調節のためのプールではないでしょうか。






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by lunabura | 2015-07-16 19:11 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(2)

志登支石墓群・倭は朝鮮半島まであったみたいだけど


志登支石墓群

倭は朝鮮半島まであったみたいだけど



志登神社の近くに志登支石墓があります。志登神社から歩いていったはずの豊玉姫の岩の近くに支石墓があったことを記憶していたので「志登支石墓」のことばに引かれていったのですが、結果的には違っていました。

せっかくですから、ご紹介。
近くで農作業している方から志登神社からは一キロほどと聞きました。その時点で探している所ではないと分かったんですが ^^

川の向こう岸にありました。




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全景です。田畑の間、少し盛り上がった地点が耕されずに残っていました。






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何を撮ったのかよく分からない画像(^_^;)
多分、探しているものではなかったので、ほどほどに撮ったみたい。







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で、志登神社の真裏から見える山をここでも発見。皆さんから今山だと教えていただきました。今山は遺跡もあるから、いつか行ってみたいですね。





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反対側は糸島富士、可也山が見えています。この日はpm2.5がひどくて、かすんでいます。最近の画像は晴れていても、こんなのしか撮れません(/・ω・)/




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説明板に出土品の写真がありました。分かりやすくていいですね!
で、気になるのが右下の石鏃です。

「柳葉形磨製石鏃」というそうです。かなり高度な磨き込みですが、説明板にはこうありました。


「柳葉形磨製石鏃」は朝鮮半島で出土するものと良く形が似ており、支石墓と一緒にこの地に伝来してきたことがわかります。志登支石墓群は、大陸・朝鮮半島からもたらされた弥生文化のはじまりを知るうえで重要な遺跡といえます。


で、何が気になるのかというと、「支石墓と一緒にこの地に伝来してきた」という部分です。

朝鮮半島には[倭]があったことが『三国志』に書いてあるんですね。

『三国志』といえば「魏志倭人伝」が載っている本ですが、邪馬台国ばかりが話題になりますが、「韓」を何気に読んでいると、こんなことが書いてあるんです。



韓は帯方郡の南にあって、東西は海まで続いている。南は倭と境を接している。

弁辰の国々は鉄を産出し、韓、濊(わい)、倭の人々はみなこの鉄を取っている。

弁辰の瀆盧(とくろ)国は倭と隣り合っている。

どこにどの国があるのかよく分からないのですが、韓と倭は隣あって接していると書いています。

これって、もともと倭国が日本列島と朝鮮半島の南の範囲にあったということを意味していませんか?

任那(みまな)をあれほど取り戻そうとしたのは、倭国の一部があったからではないかな?



また、出土品の何もかもが朝鮮半島から南下したのでしょうか。
文化は双方向で交流したのではないか、という発想はないのでしょうか。

ある考古学者は数が多い方が中心地だと言われましたが、そうでしょうか。

福岡では出土しながら葬られてしまった遺跡を山ほど見てきました。福岡にはカウントされない遺跡や古墳がどれほどあるのか。出土品はどれほど失われてきたことか。

先日も岡本遺跡の所から多紐鏡の鋳型が発見されて、文化南下説の見直しが迫られました。

支石墓も別の所では倭人が埋葬されていたものがあるといいます。

素人だから言います。
これまでの学会内の因習を乗り越えて、科学的な分析を国民に提供してください。

と、思いながら帰路に付いたのでした。



あ~あ、言っちゃった (´・ω・`)





糸島市志登





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by lunabura | 2015-07-07 22:36 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

宗像・沖ノ島海底遺跡・謎の海底神殿・巨大な四本の石柱―ラセン階段が付いていた


宗像・沖ノ島海底遺跡
福岡県宗像市沖ノ島
『海底神殿の遺跡の謎に迫る』から
海底の巨大な四本の石柱―ラセン階段が付いていた


1999年にFBS福岡放送局開局記念番組で、
福岡県の宗像大社の沖ノ島付近にある海底遺跡が放送されました。
しかし、この番組を見た人は少なく、あまり関心が持たれずに
埋没しそうなので、今日はその映像のシーンを紹介します。
タイトルは『海底神殿の遺跡の謎に迫る

レポーターは東京芸術大学助教授(当時)日比野克彦
第一発見者 ダイバー森山俊一郎
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沖ノ島のすぐ近くにその遺跡はあります。
日比野克彦氏の船の下がその現場です。
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地図で見ると、沖ノ島の北東部にあたります。
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今ダイバーが遺跡の柱にあるラセン階段を泳いで登っています。
石の階段は人間が歩いて行けるサイズです。
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切り立った崖と直角にある石段は人工のものだと分かります。
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さらに昇っていった所です。
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第一発見者森山俊一郎氏が説明をしています。
石柱らしき崖の横に階段が彫られていて、頂上にも何かあります。
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この遺跡は地元の漁民の人たちにはよく知られていて、それを聞き取り調査した結果、
このような四本の石柱の存在が分かりました。
ラセン階段が付いているのは一本だけです。
さっきの写真はこのラセン階段を昇って行った事が分かります。
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この写真は現場付近の一般的な海底のようす。
波によって、岩が丸く浸食されています。
比較するとこの石柱が特殊だという事が分かります。

この付近は流れが大変厳しく、一般のダイバーは潜れません。
さらなる調査報告があるのを待っていたのですが、
与那国島の海底遺跡のように専従で研究する人が出て来ないと、無理かな。

「あんな深い海が陸上の時代があったんだろうか、地質学的な資料が欲しいな」
とずっと思っていたら、NHKで旧石器時代の番組があっていて、
この辺りが陸上だったのが分かりました。
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この遺跡がいつの時代の物かはこれからの研究に委ねられるのですが、
誰もこの番組見ていないから、忘れ去られてしまいそう。
ルナは10年以上この遺跡の事を忘れないでいました。
今日の記事を見て、誰か研究してくれたらいいのにな。
みなさん、そう思いませんか?

地図 沖ノ島海底遺跡





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by lunabura | 2015-07-05 06:26 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(23)

佐賀東部(16)東山古墳(吉野ヶ里町)

佐賀東部神社と古墳(16)

東山古墳(吉野ヶ里町)
磐井の時代を生きた被葬者


久し振りに佐賀に戻って来ました。このシリーズは鳥栖から始まって、西へ西へと移動する旅ですが、今回は吉野ヶ里町です。

前回の高柳古墳から西へわずか1500m。長崎自動車道の東脊振インターより東へ1000m。
工業団地の奥の山に東山古墳はありました。吉野ヶ里町下石動(しもいしなり)地区です。



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外観はこんな風。茶畑の奥の森です。



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円墳が開口しています。




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正面です。天井石が大きいです! 袖石が奥に見えていますね。手前に土砂が入りこんでいます。

古墳探訪は帽子が必要です。何故なら、土砂が隙間からボトリと落ちて来るからです。

福津市の宮地嶽古墳の石室が一メートル近く土砂で埋もれていたのも、こんな風にポタリポタリと1000年近くも蓄積したんだな、と妙な所で納得。



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こだわりの奥壁!どんな古墳も奥壁が立派ですが、ここも選(え)りに選(え)ってますね。古墳造営者のこだわりがビンビンと伝わってきます。




さて、立派な説明板がありました。

東山古墳(町史跡 昭和51年3月8日指定)
この古墳は、下石動地区にある石動(いしなり)二本松古墳群の中の一基です。花崗岩の自然石を用いた横穴式石室を内部主体とした円墳で五世紀後半から六世紀初頭にかけて、この地帯を支配した豪族の墳墓です。

墳丘の規模は直径15.3m、高さ4.5mです。石室は主軸の長さが、7.8mの複式構造の横穴式石室です。石室の奥壁などには巨石が使われています。石室の壁は持送(もちおくり)構造となっています。昭和50年3月に一部調査がおこなわれ、石室の内部から鉄鏃や須恵器の副葬品が発見されました。
平成25年2月 吉野ヶ里町教育委員会




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これが持送(もちおくり)?丁寧な造りです。


説明板には、この古墳は「5世紀後半から6世紀初頭にかけて、この地帯を支配した豪族の墳墓」とあります。築造はそのあと、少しずれる?(文脈の解釈はこれでいい?)

被葬者がこの時代に生きていたとすると、筑紫君磐井の人生と重なることになります。磐井の君は「火の国」も治めたので、ここ肥前国の豪族はその支配下にあったということになります。

この古墳から東南に3キロ歩くと吉野ヶ里遺跡に着いてしまいます。この東山古墳は視界が利きませんが、木が無ければ遺跡が見えるはずです。

吉野ヶ里は3世紀末に終焉を迎えます。(3)油比本村遺跡も同じ頃に終わります。

佐賀平野ではその頃いったい何が起こったのでしょうか。

そして、空っぽになった吉野ヶ里に新たな古墳を造営した集団は?
弥生から古墳時代へと興味深い歴史が明らかにされる日を待っているようです。




吉野ヶ里町 東山古墳

(地図表記でも見られます)




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by lunabura | 2015-06-09 20:22 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(0)

針摺の瀬戸と水城・古代、玄界灘と有明海はつながっていた

針摺の瀬戸と水城
古代、玄界灘と有明海はつながっていた


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(大野城市で発行されているパンフレットです。
1.2キロの大堤が築かれていて、日本書紀にも書かれています。
その目的が分からないと言われていますが、眞鍋家ではその歴史が伝えられていました。)

昨日、初めて講演をしました。

このブログを始めて一年と四か月になりましすが、、ブログを通しての御縁で、講演を依頼されました。
・『儺の国の星』の存在と真鍋 大覚氏について。
・かつて古代において、有明海と博多湾は海峡で結ばれていたこと。
・ふたつの海の潮汐の差を調節するために初期の水城が築かれたこと。その他。

こんなお題なのですが、本を調べると、
古代の福岡の地形を抑える事が正しい歴史の把握に繋がると思い、
お引受けする事にしました。
あちこちに散らばっている話探し出して、構成しなおしました。
その結果、構成は
1 真鍋大覚 略歴 暦法家としての眞鍋家 星の観測法 
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
3 ありなれ川とハリチ 針摺(はりずり)
4 瀦水塘と水城(大水城 小水城 上津土塁)
5 ありなれ川と水城の歴史
6 ありなれ川の風景と地名 舟 遠の朝廷 国栖(くにす) 太陽暦 鎮西 やす 三並 古賀・通古賀 中大江 板付 三笠・三原・御井・三潴・三池 三井郡 三原の潟 あさつま 夜渡七十 有明

としました。

ありなれ川とは、銀河、天の川の事です。
これを地上に映して、滔々と流れる大河もありなれ川と呼んでいました。
古代の筑紫にもそんな大河が真ん中を流れていました。
洪水や土砂の堆積などとの戦いの連続でした。
この話を世に残して下さった真鍋大覚氏と、
治水工事に取り組んだ先人たちへの敬意をこめて、

2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
5 ありなれ川と水城の歴史

を紹介します。
2 著書『儺の国の星』と『儺の国の星・拾遺』成立の経緯
昭和57年・60年出版 那珂川町 原本は『石位(せきい)資正』(星暦)
「高松宮宣仁親王殿下が昭和のはじめに、日本人の祖先が空に輝く星々に向かって懐(いだ)いていた心と、その呼び名について調べることを、香椎宮宮司木下祝夫博士に指示されたが」、当時、木下氏は古事記のドイツ語訳で忙しかったので、真鍋大覚氏に依頼された。

本の内容は、300程の星の和名とその由来や歳差運動の計算、地名の由来、各渡来人の風俗や聖数や暦などの背景、古代鉄(隕鉄、スズ鉄、砂鉄)、暦(金星暦、土星暦ほか多種。)神の名の由来などなど、星暦を以って天皇家を支え、星辰を祀った物部氏に伝わる伝承が書いてある。

天皇の遷宮の理由、太陽の観測、銅鏡の使用法など門外不出とされた内容も含まれる。また日本書紀を補う文化背景が豊富に書かれている。

失明されたので、口述筆記。昔の記憶を辿りながらなので、難解な文脈になっている。

地図 針摺 と ありなれ川(灰色の市街地がそれに近い姿です。)

☆地図は拡大して行くと見えるようになっています。

5 ありなれ川と水城の歴史
氷河期 2万3500年前。肥前三根で水と雪を堰き止める堤の工事跡から炭が出土。瀦水塘の痕跡。この時代から灌漑と耕作を始めていた。

前255年 高来山(2987m)が爆発して現在の雲仙岳(1360m)に山容を変えた。
147~167 倭国はその領有権をめぐって大乱となる。

200年頃 太宰府の北西にあたる四王寺山(535m)は昔は潮路(しおじ)見山(みやま)、或いは四(し)明山(みょうざん)と呼ばれた。麓の別院が安楽寺で、今は天満宮になっている。ここで南と北の潮目の満ち引きをみる安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。(高良大社の絵巻物がこれを語る)

248年 卑弥呼死去。
________________________________________
473年 ありなれ川で大洪水大氾濫が起こる。このころ、筑紫の東島(あかりのしま)と西島(いりのしま)が針摺で繋がれた。筑紫国造磐井は曽我の稲目と共に洪水を修め、473年から523年の間に、水城の築堤工事を開始したと伝えられる。

現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して百姓を潤す目的であった。曽我の稲目は怡土郡と那珂郡の間に新開の土地・早良郡を開いていた。

この頃は神功皇后が作った裂(さく)田(たの)溝(うなで)の水の勢いが新開の那珂・板付あたりでは減少していた。これを補給して、大洪水で干潟が進展した事に対処するためである。

527年 磐井の乱

573年 夏5月の台風で水城は徹底的に壊滅した。筥崎の砂浜の下に堆積している博多の家屋や調度の破片から推定すると、2万戸~10万戸が被害に遭って、玄界灘に漂没した。箸、下駄、椀が出土。瀦水塘が却って被害を大きくしたことから、この時から遺跡が急に陰をひそめる。
________________________________________
628頃 網代跡が出土。早春に海の魚が上って来るのを捕える木組で、汀線にはどこでも出土。

594~661皇極帝の御代に、磁鉄鉱で作った巨大な皇極が献上された。天智帝はこれを見て、指南車なる真方位補正済みの磁石を創案したと伝えられる。その磁石を水城に設置して、舟人にもその航法を授けられたと聞く。

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恵蘇八幡の拝殿にある羅針盤

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恵蘇八幡 時の公園にある、水時計
恵蘇八幡宮は 斉明天皇のモガリの宮です。

659年と663年 新羅にて大地震が起こる。新羅の都慶州を震撼させ た大地震の余波は玄界灘を渡って那の津を揺らせた。早良郡田隈野芥では津波高潮で倒壊漂没した家屋が出土している。斉明天皇(659)或いは天智天皇(663)年の頃に建てられた校倉である。天智天皇(626~671)は斉明天皇(594~661)と共に筑紫の長洲宮にあった。行宮の場所は那珂郡安徳村梶原。

天智天皇は磐井がひらいた水城(瀦水塘)を、玄界灘から有明海に疎水式に船を通す湖に切りかえる大工事を完成した。都府楼に自ら開発した時計を据え、玄界灘と有明海の潮時をみはからって、水城の上を往来する舟人に太陽暦の時鐘を響かせた。

後にこれは御母斉明帝の菩提寺・観世音寺に移されたとも聞く。(参考 698年京都妙心寺に同型の梵鐘 粕屋の評・舂米(つくしね)連広国が鋳造。 鴻盧館に8世紀の鐘の鋳造あとが出土。)

(講演後、福岡の南部にある「広川」を「ありなれ川」と今でも言う事を教えていただきました!感激です。)

講演デビューという事で、
久留米地名研究会の皆さまたちには暖かく迎えていただいて、
なごやかな雰囲気の中で話させていただきました。
ありがとうございました。

本は完売してしまっていますが、アーカイブに取り組む提案もあったりして
どなたでも手に出来る可能性も出て来ました。
実現したら、またお知らせします。


この話に関連するお散歩コース
『ひもろぎ逍遥』
高天原(1)志賀島に高天原があった なぜ海の中に高天原がある?
              2000年前の博多の姿

恵蘇八幡宮と木の丸殿 (1)筑紫で亡くなった斉明天皇のモガリの宮
                  中大兄皇子はここで喪に服した
          (2)なんと縁起に斉明天皇陵の所在地が書かれていた。
          「高市郡越知岡村」は牽牛子塚か?車木ケンノウか?
          (4)こんな所に大きな漏刻(水時計)があった

牽牛子塚古墳 八角形の古墳はまるでピラミッド 斉明天皇陵に確定か?

『古事記の神々』
筑紫の君・磐井
斉明天皇




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by lunabura | 2015-05-17 22:16 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(13)

(15)高柳大塚古墳・ こりゃあ、美麗なり。

佐賀東部神社と古墳

高柳大塚古墳

 こりゃあ、美麗なり。


綾部八幡神社(みやき町)をおいとまして更に西に向かいました。ほどなく車は右折。



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田園風景の中を走り出すやいなや、右手にポコポコとしたマウンドが!車はそれを目指していました♪ (^o^)/






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絵に書いたような前方後円墳です!しかも、可愛いサイズ。
環境も素晴らしい。後円部の直径が20.4mです。







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開口してますよ!しっかりしてます。







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奥まで見通せました。入り口から奥壁までが10.20m。羨道部の先に前室があり、玄室へと続いています。







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奥壁が美しいです!
床は現代の加工。古墳の雰囲気を損なわないセンスの良い敷石です。
この古墳は立ったまま入れます。県史跡で、佐賀県内でも最大規模だそうです。宮地嶽古墳の石室が23 mほどあったので、ほぼ半分のサイズになります。








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天井を見るとしっかりと蓋がされていて、全体的に直線的なデザインです。手慣れた匠による築造という印象さえすます。







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仕切りの石も明瞭です。



時代は6世紀後半だそうです。田代太田装飾古墳と同時代ではないですか!

6世紀後半って肥前には誰がいましたっけ?

来目皇子が来たのは628年なので、それよりずっと前の人になります。

筑紫君磐井が亡くなったのが528年。磐井の君は筑紫と火の国を治めていました。磐井の君の次の筑紫君は葛子。彼は火の国を治めることは出来たのかな。誰か他の人が治めたのかな。

場所は前回の綾部八幡神社からはわずか1キロ。歩いても15分!綾部の岬を聖地とした文化圏が想定できますね。

周囲を見回すと田んぼだけですが、古代には集落があったのでしょうか。いや、集落の真ん中に古墳を造ることはないだろうから、もう少し南に営みの痕跡があるかも知れませんね。










で、石室は真北に向かっているように案内板の図には書いてあるんですが、地図を出して見ると、封土の軸の方が南北になっていませんか?

古墳の入り口は後円部と前方の接する所、右手に見えています。玄室は後円部の中央に位置します。熊本の和水の古墳とは左右対照的な位置だなあ。(名前忘れた)

この南北の軸とか、石室はどこを見ているんだろう。方角の調査、地図の得意な方にお任せしましょう。

ここは周囲の遺跡を調べると面白そうなエリアでした。


さて、次も古墳に案内してもらいましたよ。東山古墳と言います。吉野ヶ里です!








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by lunabura | 2015-04-30 22:56 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(6)

(11)山田古墳群・神名備山の麓で

佐賀東部神社と古墳(11)

山田古墳群

神名備山の麓で
 三養基郡みやき町

さて、鳥栖市をあとにして、車は西へと向かいました。次の目的地は三養基郡みやき町の山田古墳群です。山に向かう谷に古墳群があります。

県道31号線、綾部東の交差点を北上すると、すぐ左手に古社が見えました。ちょっと高台です。いいお宮!

案内板の文字に見える「風」の字に、「風の宮」だ!と思わず声を上げました。風を祀るなら製鉄かも!といつもの思考パターン。

すると、フウさんが、「あそこの門前町は饅頭が出来ると旗を揚げるので有名でね」と意外な話を。周りの人たちも御存知。その古社とは綾部八幡神社と言います。ここの幡は結構有名なんですね。

「あとで寄りましょうか」と筑後国造さん。
――やったね、神社だよ。古墳と神社はセットで見なくちゃね!

さて、車はどんどん北上します。川が流れる谷あいに出来た細い道です。川の名前は「寒水川」。「しょうずがわ」と読むそうです。
怪しい。製鉄関連地には「寒水」はつきものです。




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そこに、この山!
ああ、古代人がマークする神奈備山だ。
「何て言うんですか」
「鷹取山です」
先達がいると、山の名前がすぐに分かるので有りがたいですね!



いかにも古代人が集落を営みそうな雰囲気の所に、山田古墳群がありました。



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ぽっかり開口したもの。




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中に入って外を撮りました。





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これは封土がすっかり無くなってしまって石室が露出したもの。右から入る事ができます。





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これが正面。しっかりとしています。



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これは最奥。手前に石仏があります。
壁を見ると、天井との間に近所の石が詰め込まれている(?)感じです。



壁の作り方は個性があるので観察するポイントなんでしょうが、撮るのは難しいですね。

集落には古墳の高まりや穴は沢山あるんですが、竹やぶになっているので、何を撮っているのか、別の分からない画像ばかりになります。

それでも、大きな古墳は羨道を立って歩けるものもあり、谷あいの集落にこれほどのものを造れたということは、かなり富み栄えた部族と考えられます。農村ではありません。

「どうやって、こんな山の古墳群の存在を知るんですか?」
「郡誌や地元の本からです」
「ああ、私の神社調べと同じですね」

郷土史家の手作りの本や郡誌には考古や神社の資料が真摯に書かれていて、その本と出会うかどうかは、るなの古代史ワークの最大ポイントです。

これらの本は貴重なもので、多くは図書館の郷土史コーナーに保管されていますが、地元の図書館を一つ一つ回る事は不可能なので、こればかりは御縁次第ということになります。

ですから、九州全体の古代史を再現するには、地元の方が史料と現地の突き合わせをすることが肝要です。そして、古代史マップを作ろうとすることで、地元の歴史が明らかになってきます。

そんな土台となるマップが出来たら、関連ある地域へと探査を広げていくことで、2000年の歴史を描き出せるんだと思っています。

マップ交換会が夢なんです^^
そんなイベント、県や市が企画してくれるといいな。

九州は遺跡だらけなので、どこを掘っても遺跡が出てきますが、あいにく消滅するものが沢山あります。総てを残すことは出来ないのでしょうが、地元に関心を持ち、学ぼうとすることで、後世に伝えなければならない遺跡を見抜く力を養います。

意図的に消滅させられないためにも、フィールドワークは欠かせませんよね。
皆さん!連休はガイドブック持ってフィールドワークしましょう!(宣伝!)(笑)

さて、この山の中でこれほどの古墳を営むには、古代でも産業がなくてはなりません。
やっぱり、鉄しか思い浮かばないんだけどなあ。

戻りしな、フウさんが、ここは土砂崩れが起きそうな地形だなとつぶやきます。そう、山津波が起こったら、麓まで土砂が流れ出しそうな地形です。

そして、私たちの思い思いの感想は次に向かう神社で思いがけず証明されたのです。



地図 佐賀県三養基郡みやき町山田






一番下の「佐賀東部の神社と古墳」をクリックすると、シリーズで読めます♪


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by lunabura | 2015-04-16 20:26 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(4)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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