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4 御笠団印出土地  御笠軍団と遠賀軍団


4 御笠団印出土地

 御笠軍団と遠賀軍団


坂本八幡宮を後にして、ゆるゆると坂を上って行きました。
山の麓に新しい住宅街が張り付くような地形になって、
別れ道を左に進むと空地がありました。

それがあの御笠軍団の銅印が出土した所でした。
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現地説明板です。
御笠団印出土地
701年の大宝令(たいほうりょう)に定められた軍団(軍隊)の印判が発掘された所である。軍団は全国に置かれ、普通一軍団は兵士千人で構成され、その兵士は成人男子から三人に一人の割で徴発された。平安時代初め筑前国には4軍団があり、この印にある御笠軍団はそのうちの一つだったと思われる。近くの水城小学校からは遠賀団印が出土している。  太宰府市



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これは銅印です。高さ5.2 印面4×4

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金印より大きい印象です。

昭和2年(1927)に桑畑の中で農作業中に偶然発見されたものだといいます。

しかし、発見者がこの印の鑑定を大学教授に頼んだら、
大学教授が所有権を主張したために争いになり、
喧嘩両成敗で国が漁夫の利を得たといいます。

この問題がずっと腑に落ちず、現地を見たかったのです。
鑑定した人が所有権を主張するのはおかしい、と今なら思います。

たとえば「何でも鑑定団」に鑑定を依頼したところ、本物だったから、
テレビ局が所有権を主張した、というようなことになります。

現代ならあり得ないことです。
昭和2年というのがそんな時代だったのでしょうが、
聞き取りをしていると、あちこちで、
鏡や剣などを大学の先生や歴史資料館が借りて行って
返してもらえないという話を聞きます。

そして売り飛ばした話も。
あるいは放置して、存在しなかったものとする。
あるいは遺跡を破壊したり、コンクリート漬けにしたり、などなど。

残念ながら調査する機関そのものが信用できない風景が見られます。

九州は掘れば何処からでも何かが出てくるような風土なので、
自宅で保存されているケースもあります。

個人収蔵されたものは代替わりしたあと、ゴミとなる可能性もあり、
各市町村の資料館がもっと機能するようにならないと
多くのものを失うのだろうなと思っています。

この対策として、市民の関心がもっと高まる必要があります。
一人ひとりが郷土の歴史を調べ、誇りを持ち、監視できるようにならないと、
九州の出土品は失われるのではないかと危惧しています。


さて、話を戻しましょう。
印鑑がもう一つあります。
この御笠団印より前、明治32年に水城小学校の敷地内で出土したのは遠賀団印でした。


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国立博物館の説明によると、
「天平尺で方1寸4分1厘に造られており、公式令で
方2寸と定められた国印よりも小型である」となっています。

天平尺で中途半端な数字なら、別の尺貫を使用した可能性はないでしょうか。
愛読者さん、この辺り、詳しそうだなあ。


印鑑を保管するのは印鑰神社だったり、祠だったりというイメージがあるので、
出土状況が分かればよかったのになあと思いました。

二つの軍団印がほぼ南北の位置から出土しているんですね。
御笠団印は勾配のある山の麓から。
遠賀軍団は古代の川沿いから。
あたかも、大宰府政庁を守るかのように。

出土地を御笠軍団と遠賀軍団の布陣地として考えることはできないのかな
と思いを馳せました。


遠賀軍団といえば、あの熊鰐さんの軍団です。
仲哀天皇と神功皇后の時代、古出雲系の熊鰐は遠賀水軍を取りまとめ、
洞海湾で船を作り、水軍を組織しました。

その拠点は仲宿八幡宮(八幡東区)です。
そして、同じ熊鰐の末裔が祭祀する豊山八幡神社の縁起には
仲哀天皇ののち、推古天皇の時代にも軍団が活躍したことが書かれています。
推古天皇の御代(飛鳥時代)、新羅国が任那に侵入したため、大和朝廷より境部雄麻呂、中臣連国を大将軍とし、神功皇后の故事に倣って洞の海より入港し軍団を整えていたが、にわかに霊鳩が夥しく軍艦に群がって御神託があった。(略)

これは「神功皇后伝承を歩く」の下巻93から引用しました。
この軍団が大宰府の守りに付いたというのですから、懐かしい気分がしました。

遠賀軍団は水軍として、御笠軍団は陸軍として
大宰府の守りを固めていたのではないかと想像が広がりました。


さて、現物は地元では見られませんが、文化ふれあい館に行くと、
二つの団印のレプリカが見られます。
ここから二百メートル北にあります。
車で文化ふれあい館に行って、そこで地図を貰って歩いて行くのが一番いいかも。


地図に切り換えてみてください。



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by lunabura | 2014-12-09 20:30 | 太宰府政庁跡・水城周辺 | Trackback | Comments(0)

久米八幡宮・石づちは白い竜


久米八幡宮(くめ)

石鎚(いしづち)は白い竜
 


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熊本県の菊池市。
阿蘇山の北西部に久米八幡宮はあります。


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御祭神は品陀和気命(ほむだわけのみこと)。(応神天皇)
健磐龍命(たけいわたつのみこと)
武内宿禰命。
住吉神(底筒男命・中筒男命)


この境内の左手に不思議な石積があります。菊地遺産の説明板がありました。
石鎚(いしづち)
説明
久米八幡宮の境内地には、石鎚(いちづち)という呼び名の総延長が、約40mの石群がある。用途や目的は、不明な点が多いため、西南戦争の陣地跡とも、屋敷の石塁とも言われ、諸説あるが、昔からイノシシやシカよけの柵と伝えられている。

(菊池遺産 第ふるさとH21-8号)



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庭の造作のように見える石積みです。


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これは反対側の奥の方。
ここでは三段になっていますが、一番上の石積みは延々と続いています。
写真の中央部の木の根元がスタート地点です。


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手前から、くねくねと曲がって、全体では半円を描いています。


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ここまで来ると、蛇の蛇行を連想させます。



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蛇の胴体から足が左右に出ています。



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灰色の石の峰に当たる部分には白い石が置かれていて、雨が降るとベージュ色に近い白い姿になるそうです。
いかにも蛇のウロコを連想させます。

そして、背中には突起上に石が立てられていて、かつてはいくつもあったのが、
今はこの石が残っているだけらしいです。
つまり、この足のある蛇はは背中にトゲがあるのです。



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そして、ここが最終地点。しっぽが二股になっているように見えます。
宮司の話によると、かつてはまだ先の方にも続いていた可能性があるとのこと。
そうすると、片方は足かもしれません。


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そして、再びスタート地点に戻ってきました。
立石の信仰があるようです。紅白の幣の向こうにあるのは甕です。


かつての戦争で、陣地にされたことがあって、かなり破壊されたようです。
また、この半円に対応するもう一つの半円が存在していた可能性を示すように
石が散乱しているそうですが形は消滅しています。

そうすると、双竜が左右から向かい合って円を描くようなデザインだったのかも知れません。

神殿の真下に何かあったのではないかという話もありました。

使われた白い石はず山の方に行かないと採れないそうです。
確固たる強い意志がないと、これほどの物を作ることができませんね。

これを見た時は、古代中国の、夏(か)か殷(いん)で発掘された地上の竜を思い出しました。
竜をトーテムとすることの出来る身分の一族が来たのだろうか、なんて想像しました。

何せ、ここは熊本。
中国大陸から、ダイレクトに船が入ってくる地域です。

石で造られ、くねりながら足を持ち、トゲのある竜。しかも、しっぽが二つ。

そのあと、同じキーワードでくくれる福岡県新宮町の相島の長井浜の石塁を見てから、
海洋民族の作ったものかも知れないなとも思ったりしたのでした。

当宮は八幡神が上書きされるまえに、古代文明の聖地だったのでしょう。
「久米」からは「安曇目」を思い出させます。

これを見た後だったので、相島の積石塚の石塁も石竜ではないかと思ったのでした。


久米八幡宮 熊本県菊池市泗水町豊水557





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by lunabura | 2014-07-11 09:17 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

トンカラリンはやっぱり不思議


トンカラリンはやっぱり不思議

前回の江田船山古墳と同じ丘陵にトンカラリン遺跡があります。
(古墳と遺跡の間に県道が通っているので、別の丘陵にみえますが)

県道から急坂を車で上り、「どこかな~」と言う頃に小さな案内板。
二股になって、「どっちかな~」と思うと左手に遠慮がちな案内板。

下って行くと説明板があったので、「ここに止めていいかな~」と言いながら
止めてみたら駐車場でした。

そこから、どこにあるのかキョロキョロすると、家の壁に手作りの「トンカラリン」の矢印。
「あった、あった。みなさん、こっちですよ~」

一緒に行った二人は二度目でしたが、それでも「どこかな~」と言いながら辿り着きました。
このブログ見て、見学に行く方、迷いそうでちょっと心配。

でも、現地はとても整備されていましたよ。  



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なにこれ?
いきなり怪しげなトンネル。とても狭くて覗き込むと石段。
な、なんでここに石段?


奥には光が見えています。
小学生向きのサイズ。
入るのは、ためらって、スルー。




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その先、こんな階段が幾つもあって、右手の方に遺跡がずっと続きます。
トンネルがあったり、露天になったり。

ガイドがいないと、どれが遺跡が分からなかったな。
  



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「あ、あれですか」
穴をめっけ。
「入りますか?」
「もちろん!」
トンネルを避けて歩くIさんに、厚かましく「護衛に一緒に入ってください」とお願い。

ネットで予習していたけど、
「汚れていい恰好で」と書かれていたのを忘れていた。
まさか、トンカラリンに行けるとは思っていなかったので、今日は珍しくヒール。


でも行く!
テンションは高め。迷いはない。汚れそうになったら戻ればいい。
立って歩けます。



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床はこんな感じ。





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天井は石の蓋!

懐中電灯がないと真っ暗です。
携帯のライトを点けたけど、光は足元までは届きません。
奥の方は岩がゴロゴロしていました。


トンネルはすぐに終わりましたが、またさらに大きなトンネル。






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出た所。


さらにトンネル。
しかし細すぎて、ついに体が通らない。
ここで断念。


「るなさん、どう思う」
「掘っていった感じがする。鉱脈を掘り進めて行った趾かな。
足元にキラキラする白い砂がありましたよ。香春岳と同じ真っ白な石」

これ以上はさすがのるな探偵もお手上げ。





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帰り道、民家の石積みが独特。長い石を横に並べている。
あとで、石切り場があるという情報も入って来ました。


「もういいですか」とIさん。時間が迫っています。
「はい。この手の泥んこ探査はくるま座さんに任せましょう」






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案内板を見ると、三分の一も見ていなかった。
イラストを見る限り、下の方はいかにも作業場っぽい。
でも、祈りの気配もある遺跡だった。

上の方には神社があり、磐座のある山も見える。
組み合わせて、総合で探査するべき遺跡だろう。

神社の神さまの名前がヒントになりそうだと思って調べると、
鶯原神社は菅原神社とも言い、道真公が祀ってあるという。

ああ、それなら、やはり鉱山に関係あるかな。

ネットは便利。
かむろ山を調べると登山記録も出てくる。
頂上には石祠があって「彦嶽社」の石碑。磐座は記録なし。


20分の訪問でしたが、とても楽しかった。

我こそはと思う方、懐中電灯と軍手、ズック必携 (・_・)

以上、謎のトンカラリンでした。^^









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by lunabura | 2014-05-07 19:00 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(0)

江田船山古墳・ムリテら三人が眠る奥津城


江田船山古墳
ムリテら三人が眠る奥津城


ついに、熊本県和水町(なごみ)の江田船山古墳にやって来ました!
教科書に出てくるし、当ブログの百済の前方後円墳にも出て来て、
現地に立ってみたいとずっと思っていました。


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円墳と思いきや、

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前方後円墳でした。
手前のカーブの辺りは周溝で、とてもきれいな形をしています。

環境、スゴイ。
こんなに手入れされた環境の古墳、初めてです。



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前方部から後円部を取ったのですが、入口が斜め!しかもくびれ部から入る。
この向きに、ちょいと驚いた。


そして、この鉄の扉を自由に開けることが出来るのです!!!(^o^)/

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鉄の扉を開ければ家形石棺。
蛍光灯がいくつかあるので、竹原古墳のように怖くはなかったです。( ´艸`)
う~ん。デカイ。

横口式ですね。つまり追葬が出来ると言うこと。
調査では5世紀後半~6世紀前半の三人分の副葬品が出土した、となっています。
それにしても、石室はどうなってるんだろう。
部屋を見回すと、壁や天井は現代の加工なんです。
羨道も見当たらないし。

説明板にはその記述がないので、もしかしたら石室は無しかな?
石棺の上に直接土を重ねた?

この古墳は明治6年(1873)に夢のお告げで発掘されました。
未盗掘でした。
出土品は例の調子で地元にはありません。(´・ω・`)




ただ、現場に写真があり、レプリカが資料館にあるので、理解しやすいです。
この日は資料館に行く時間はありませんでした。
副葬品の写真はウィキぺディアなどに掲載されています。

副葬品の鉄剣に銀で象眼されていて、ムリテに与えたということが分かっています。(異説あり)

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で、副葬品には金の素敵なイヤリングもさることながら、三環鈴が出ています♪

外側には埴輪でなく、石人が置かれていました。


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これは横のの石人レプリカ公園。

で、何が知りたかったのかというと、この古墳の所在地、菊地川流域と百済の前方後円墳には縁があるので、現地を見たかったのです。

次の記事を自分でも読み直しました。
「百済の前方後円墳」
http://lunabura.exblog.jp/i189/



1 栄山江流域の前方後円墳の被葬者は副葬品から考えて「周防灘沿岸、佐賀平野東部、遠賀川流域、室見川流域、菊地川下流域などに出自をもつ複数の有力豪族と想定」される。
「韓半島南部に倭人が造った前方後円墳」―古代九州との国際交流― 朴天秀(慶北大学考古人類学科教授)より
このように、菊池川下流域からも百済に向かった武人がいたわけです。

百済で見つかった前方後円墳群は倭人が造ったもので、
築造年代は5世紀後半から6世紀前半。
江田船山古墳は「5世紀後半、6世紀初頭、それに6世紀前半の3つの時期」(熊本HPより)。
ぴったり重なっています。

百済の被葬者はゴホウラ貝など倭国のものを持って埋葬され、
百済で手に入れた金銀の威身具は故郷に送る。
そんな推測がなされています。

その黄金の威身具に包まれて江田船山古墳に埋葬されたムリテは
「典曹人」という身分で、行政事務の役人と考えられています。

任那四県を百済に譲渡した事件、また継体天皇と磐井の戦いが起きた時代です。
ムリテは朝鮮半島の情勢、また筑紫君・磐井をおびやかすヲホド王(継体天皇)の状況を
どのような思いで見ていたのでしょうか。



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右手に円墳。中央奥が江田船山古墳。
夏には祭もあるそうです。
市民に愛されてます。^^




江田船山古墳 熊本県和水町(なごみまち)









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by lunabura | 2014-05-05 22:06 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(2)

吉武高木遺跡(3)聖方位は北東か?夏至ラインか?


吉武高木遺跡(3)

聖方位は北東か?夏至ラインか?

ようやくすべてを出版社に委ねました。

中断していた記事、吉武高木遺跡(2)に戻ってみたら、
つづきにいったい何を書こうとしたのか、忘れてしまいました。

そこで、過去記事をジ~っと読み直し。
そうそう、埋葬の向きと夏至ラインが書きたかったのです。

聖方位―北東か?

Iさんから、メールが来ました。
「吉武高木遺跡(1)を拝見しました。
BC2世紀頃の甕棺墓群と大型建物跡があり、
三種の神器が副葬された最も古い時代の墓だそうですが、非常に興味をもっています。

甕棺の向きが全部北東方向ですので、地図で見ますと香椎宮の方向かなと思います。
香椎宮で正しいのであれば、奴国王の宮が香椎宮あたりかなと推測しますが、どうでしょうね。」

え?北東?

このメールのお蔭で、私は勘違いしていた事に気づきました。
説明板が北面していたので、南北を全く逆にイメージしていたのです。(・.・;)

るなには、何処にいても、自分の向いている方向が北だと考える癖があります。
これを方向音痴というのかも (´・ω・`)
で、改めて説明板を見直しました。

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ホント、軸線は北東―南西だ。あるいは、少し東に傾いている。
しかし、被葬者の頭はもしかしたら、南西かも知れないと思って
甕棺の蓋の描き方を見ると、やはり北東になっているようです。

調査報告書をきちんと見れば簡単に確認できるのでしょうが、
不精して、今回は北東で考えて行きたいと思います。
(南西だったら、すべて水の泡ですぞ。るな、それでいいのか)


これは吉武高木遺跡と香椎宮。

確かに香椎宮が延長線上に考えられます。


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これは遺跡から東の方向を撮ったものです。
地図と山を照らし合わせると、右の山裾は油山から流れたもの。
中央より左の二上山が立花山っぽい。さらに左奥にあるのが犬鳴連峰でしょうか。
(う~ん。地図と写真と上手く照合できません。分かる方、教えてください)
香椎宮は立花山の左の麓辺りにあります。

香椎宮が都となったのは仲哀天皇の時。
紀元200年頃です。
この遺跡は紀元前1~2世紀ですから、300年以上の隔たりがあります。

香椎宮は『日本書紀』では「儺県(なのあがた)」と書かれています。
「儺=奴=那」ですから、そこは奴国だったのでしょうが、
紀元前はどんなクニがあったのでしょうか。
古くは「倭奴国」と言ったかもしれませんね。
今の段階では何とも言えません。
名島に奴国の離宮があった話などを含めて、これからもっと調べる必要があります。


聖方位―夏至の日の出か?
Iさんが続きで「夏至の日の出方向」の可能性も指摘してありました。
遺跡の人たちは先程の地形から朝日が昇るのを毎日見ていたんですね!

角度的には夏至の日の出ラインの方が近いように思えますが、測った訳ではありません。

そういえば、当地はかつて「平群」という地名で、
昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。(『儺の国の星・拾遺』p245)

とあったので、夏至ラインかどうか確認する必要がありますね。

吉野ヶ里遺跡が夏至ラインを持っていることについては、
プラネタリウムに出掛けて、学芸員の方に調べて貰って確認して結論付けました。
るな的には専門家に尋ねないと、判断できないのです。

なお、この吉武高木遺跡の近くには吉武樋渡遺跡があります。
それは紀元前1世紀ごろなので、次の時代の人たちです。
その墓群は南北に近い軸線を持っているので、聖方位が異なる人たちです。

近い所で、約100年後には聖方位が違う人たちがいたという点で、
この吉武高木遺跡の聖方位は注目すべきところです。
もし、この遺跡の人たちが東征して行ったとしたら、
その聖方位を持っていった可能性があるからです。

ちなみに、「聖方位」って今回思い付いた言葉です。

それぞれの氏族に信仰する神がいて、聖方位がある。
氏族たちは移動しながらも、自分たちの神々と地名と聖方位を保ち続ける。

彼らは朝な夕なの太陽を望み、夜にはさんざめく星の輝きを見て遥かなる故郷をしのぶ。
神と聖方位は氏族のアイデンティティでもあった。
そんな古代の人々の思いが偲ばれます。

私たち個人にもそれぞれ聖方位があるのではないでしょうか。
いつも心惹かれる方位。

毎日、南のオリオン座を見ながら「北」と思い込む るなは、「北」が聖方位なのかも。
(方向音痴も重症ですな)


このはなさくや姫の里 15
シリーズで読む方は下の「♯」からどうぞ。

さて、木花開耶姫については、ニニギノ命の出会いの地など、
まだまだ探す所は沢山あります。
ひとまず、ここまで。
このシリーズ、またいつか続きが書けますように。





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by lunabura | 2014-01-06 22:56 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(17)

吉武高木遺跡(2)ここは平群らしい・近東の月の民・ササン系・へぐり


吉武高木遺跡(2)
ここは平群らしい

近東の月の民・ササン系・へぐり

前回、ボロ地図を見直して見つけた「平群」の文字。
それは、この吉武高木遺跡の付近に鉛筆で書き込まれていました。
パズルが一つハマった。

かつて『古事記の神々』で葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を訳したのですが、
右も左も分からない頃でした。
また、真鍋大覚の本にこの遺跡付近の事が出ていたので、理解出来ぬまま書き写していました。

和名類聚抄に平群が書かれていて、現在の早良区羽根戸から金武付近、と推定されています。
そこで、作成した地図がこれです。
吉武高木遺跡がすっぽりと入ってしまいます。

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そこで改めて、葛城襲津彦を読み直してみました。
次の(8)は私になりに考察した部分です。
メモ代わりに書いておいたもので、同じものをコピぺします。

* * *

葛城襲津彦(8)
福岡県の葛城・平群・曽我

(今回は、福岡県の古代の地名の資料です。)

※簡単に朝鮮半島と往来していた
訳をしていて思ったのは、ソツビコたちに大変機動性がある事です。
軍はもちろん、弓月の君や王の妹なども日韓を簡単に往来しています。
ですから、この話の舞台は、福岡市の早良区や西区を中心とした話ではないかと
思うようになりました。
当時の朝鮮半島への航路は唐津経由か志賀島経由でした。

『和名類聚抄』によると、福岡市西部を中心に
平群や曾我、額田、田部などがあった事が書いてあります。
大和地方と似た構成です。
ですから、渡来人たちは福岡市にまず、拠点を置いて、それから大和地方に移動したと
考えるのがナチュラルです。そうすると、どちらにも平群などがある理由が分かります。


※『和名類聚抄』に早良郡に平群や曽我があった事が書いてあった。
「早良郡」ウィキペディアより (早良郡で検索すると出て来ます。)
『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。


※真鍋大覚氏による伝承

『儺の国の星・拾遺』
p244
筑紫で孝元帝(前214~158)から清寧帝(480~484)の間に玄界灘の交易を掌握していた平群は近東系の出であって、月氏のササンの子孫であったと思われる。筑前早良の由来は「ささのあまのはら」で、平群氏が百済人をここに租界させた。


p245
昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。

皇極帝(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大江皇子の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。
「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して、「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。
所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。
賀茂の氏族は日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、むしろ百姓の鋤鍬の方を主としていた。北方系の胡人であった。


『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(さわらへぐり)は、かつての平群氏の故郷であった


p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏が竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏は背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。


香椎宮から太宰府の東の峰とは犬鳴連峰の事でしょうか。
水縄=耳納
なお、「賀茂」が野芥の北にあります。

大和にこれと重なる構成の地名があるのは教科書で学びます。
葛城襲津彦は筑紫の出身で、大和に移住したものと考えると、うまくいきそうです。
それに前後して、多くの氏族の移住もあったのでしょう。
父親の「竹内(つくしうち)の宿禰」は「筑紫の内の宿禰」と考えました。

※日本書紀中の的(いくは)臣について
ソツビコの子孫が的(いくは)臣です。阿藝那臣も子孫です。
藝の字は曇の写し間違いだと思いました。安曇那臣が正しいと思います。
的臣は福岡の筑後川流域・浮羽(うきは)で、阿曇那臣は福岡市です。

* * *
以上が、『古事記の神々』に記載した内容です。

う~ん。
今、読み直すと、
弓月の民が来たのと、百済の民が租界したのと、私はゴッチャにしてる?
読解するには、まだ知識が足りないな。
誰か教えてください。

真鍋の伝える平群氏についてまとめてみると、
  「月」を意味する「フェンガル」から変化したのが「へぐり」で、
  近東の月氏のササン系の子孫。
  平群氏は筑前国早良平群郷を故郷とし、百済人を疎開させた。
  平群氏は「かひ」族で、夏至を元日として、天文暦法の家系だった。
  平群氏は背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していた。

となります。
ふと思い出したのですが、
糸島の宇美八幡宮の宮司家武内家平群のヅクの子孫だと言われました。
竹内宿禰の四男の家系だということです。
聞いたときには平群と糸島の繋がりが唐突に思われたのですが、
真鍋の話からは、平群がここを掌握していたということなので、辻妻があうことになります。

この平群氏と天孫族の関係は紀元前に深いものとなっていた?
しかも、平群のツクは竹内宿禰の子孫。
弓月の君って、秦氏じゃなかったっけ。
あ、織幡神社(宗像市)の近くの波津で宿禰は幡を作らせた。

複雑すぎ!

だれかすっきりと整理してくださいな!


c0222861_2240150.jpg

吉武高木遺跡 日向峠の方向を見る


(つづく)
このはなさくや姫の里 14 ( 下の ♯ から入るとずらりと見れます)






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by lunabura | 2013-12-30 22:42 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

吉武高木遺跡(1)魏志倭人伝から消えた王国


吉武高木遺跡(1)
魏志倭人伝から消えた王国


「ねえ、マーサ。吉武高木遺跡、行ったことある?」
「あるよ。行く?」
「簡単に行けるなら行きたいんだけど」
「帰り道よ。行きましょ」

ということで、伊都国歴史博物館を後にして日向峠を越えて福岡市に出ました。
その途中で見かけたのが、例の破壊中の金武古墳群です。

この日向峠は意外に急勾配で、道も折れ曲がっています。
峠を降りて、まもなくして左折、町中を走って右折すると
広い田園地帯のど真ん中に出ました。
「この辺なんだけど」と記憶を探るマーサ。

ナビをずっと見ていた私は
「あれ?ここ、もう遺跡のど真ん中にいるよ。確かに何もないわ」
と言いながら見まわしました。
教育委員会に尋ねた時の話通りだ。

「前ね、どうしてもここが分からなくて、思いあまって教育委員会に電話したの。
そうしたら、行っても何もないですよって言われたのよ。
でも、何もなくても地形が見たかったから、
で、出土物はどこで見られますかって聞いたら、福岡市の博物館にあるって。
でも、改装中なので今は見られませんって言われた」
その時は縁がなかったんですね。

(るなさん、平気であちこち電話しているようですが、実は何日も調べて、
どうにもならなくなったときに、電話してるんですよ)
一応、シャイなんです ( ´艸`)



で、現地で見えたのが衝撃的な山!

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ガガ~ン。今立っている所は、飯盛山の真東だったんです。
あれは、この遺跡の人たちには神の山です。
朝な夕なこの山を見て暮らしたはずです。
夕陽が毎日位置を変えながら沈み、やがては星々が輝き出すのを見た。

この山の向こうに糸島があります。
右の方に行くと海があり、周船寺に行く事ができます。
前回の神武天皇の家族たちが祀られている宮々はすぐ向こうなのです。

ここは消えた王国。
日本で最古の三種の神器がセットで出土したクニなのですが、
何故か、魏志倭人伝にはその名が出て来ないのです。

魏氏倭人伝では伊都国の隣は奴国。
その間にあって、これほど栄えていたのに名前が消失している。
遺跡もその時代のものは見つかっていない。

「伊都国から陸行1日」と書かれてもよいはずの弥生集落。
卑弥呼の時代には既に国が滅亡していた?
奴国に吸収されたという説もあります。

時代は2200年~2100年前と説明板に書かれていたので、紀元前1~2世紀。
弥生時代前期末から中期初頭だそうです。

現地説明板に写真がありました。

c0222861_22143537.jpg

出土品です。
剣も矛も銅製。これは実用品ですよね、
鏡は銅鏡でつまみが二つもある多鈕細文鏡。朝鮮半島でよく見られます。
勾玉は北陸産。

気をつけなければならない点は、これらが一つの墓から出たのではない事。

c0222861_2215115.jpg

一つだけ三種の神器のセットを持ったリーダー的な人物がいて、
他は一人に一本ずつ添えられていたという点です。
るなとしては、厳格な家父長的な、男性社会を想像してしまいました。
古代日本って母系制なんで、ちょっと雰囲気が違うように見えます。


c0222861_22152221.jpg

福岡市埋蔵文化センターで、撮っていた復元模型。
これが、この吉武高木遺跡のものだとは。ようやく繋がりましたよ。
こんな大型の建物があったんですね。(こんな高床式ではないと言う説もあるとか)
紀元前の話です。」

いったいどんな人たちが住んでいたのでしょうか。

思い出すのは、志賀島で聞いた鹿さんの言葉。
志賀島から見える糸島~福岡を指さして、

「天孫族は武器を持って来たといいます。
彼らは吉武高木遺跡で国を作り、それから東征して行ったと思います。
だから、空っぽになったんです」
そうか、そんな発想もあるのだ。

武器だらけの吉武高木遺跡。
ここに天孫族のクニがあったとすれば、山を越えて伊都国の姫たちと、
あるいは海人族の姫たちと結ばれたと考えることも可能だ。

ニニギの命は糸島の西に上陸して、こちらに拡大したのか。
あるいはここを拠点として西に拡大したのか。

なにしろ、周船寺の湊はどうしても手に入れたい湊だったろう。
戦って侵略しようとしたり、縁結びで平和に和合したり。
そんな事があったかもしれない。

そして、もう一つのアイデアがKさんからメールで。
  「伊都・伊親・伊蘇・五十・イソ・イト
  製鉄するための燃料
  この国に樹木を植えた者
  五十猛
  スサノウノの子
  日向峠
  飯盛神社
  早良の王
  いい流れですね。」
この暗号めいた文を並べて行くと、吉武高木遺跡には五十猛がからんでいる?

何か手掛かりに近くに神社はないか。
そこで、はたと、飯盛山の飯盛神社はどうだ?
とHPから祭神を調べました。

「天孫降臨の砌に天太玉命(アマノフトタマノミコト)が伊弉冉尊(イザナミノミコト)を奉齋するを起源とします。
上宮に伊弉冉尊、中宮に五十猛尊を奉齋し飯盛三所権現宮と称し
上・中・下宮・神宮寺を設けていました」

なるほど、中宮に五十猛尊が祀られているんだ。

面白いことになってきました。

ここは地図を見ると、室見川の中上流域にあたります。
そこにこれほどの平原があった。
思うのは、あの破壊されている金武古墳群。

真砂土を採取しているという話でしたが、
真砂土というのは樹木が茂っている間は地盤がしっかりしているのですが、
伐採してしまうと、簡単に地崩れを起こしてしまうそうです。

今は青々と茂る山々も、製鉄の為に伐採された時代があるとすると、
山津波が起こってここは洪水原になったはず。
そんな災害があって、消滅した可能性もあるのかもしれない。

山でさえ簡単に消失するのは、古賀市の三上山が二山消えたり、
田川市の香春岳の一の岳が消えたりと、信じられない光景を見て来ました。
福岡市西区からは今は見えない地点ですが、興味を持って監視するべき場所だと思います。


そして、ボロボロの地図を見ていた時、思いがけない書き込みが。
「平群」
へぐり。
そう、ここは和名抄を調べていて「へぐり」と想定した地だったのです。

(つづく)

<このはなさくや姫の里 13>
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by lunabura | 2013-12-29 22:19 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(6)

破壊されているのは金武古墳群?


破壊されているのは金武古墳群?


福岡県の日向峠(ひなた)峠付近で破壊されている古墳群について、
ハコガメさんから「金武古墳群」ではないかというコメントをいただきました。

「金武古墳群」で検索すると、PDFが出ていました。
現地説明会が2013年7月27日にあったようです。今年の猛暑の中、大変だったでしょうね。

http://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/files/ExcavationNewsParagraph27fileja.pdf
で「金武古墳群現地説明会史料」が出て来ます。

簡単な内容ですが、カラーで分かりやすいです。
住所が書いてありませんが、福岡市早良区か西区と思われます。
場所から考えて、私が見たものは「金武古墳群」で間違いないようです。

以下、PDFから一部引用します。

金武古墳群は日向峠に沿って流れる日向川周辺の山の麓ふもとに位置しており、約150基の古墳からなりたっています。この古墳群には、市指定史跡となっている夫婦塚古墳や市内では珍しい装飾古墳も含まれています。また、朝鮮半島で焼かれた新羅土器が出土していることも注目されます。

装飾古墳もある!これは見たいです。

現在行なっている8次調査は、開発に伴う発掘調査で、吉武B、C、D群の内20基の古墳を対象に昨年7月から着手しています。古墳は標高100~140mと高く急な南側斜面に造られています。弥生時代からつづく重要な交通路であった日向峠を行き交う人々からのながめを意識して造られたのかもしれません。
(略)
主な出土遺物は、床の石のすきまに残っていた土器や鉄製品の破片、金張りの耳環じかん(耳飾)、メノウやヒスイ製の勾玉、水晶の切子玉、ガラス小玉などの装飾品のほか、鉄をつくる時にできる鉄滓も見つかりました。

これら20基の古墳が造られた時代は、海外の先進文化を積極的に取り入れようと遣隋使や第1次遣唐使が派遣された6世紀の末から7世紀の前半ごろです。

やはり開発の為の調査ですね。
早くから盗掘されていたそうですが、時代的に6世紀末から7世紀前半ということで、
今話題の船原古墳と同時期となります。

聖徳太子が602年に弟の来目皇子を征新羅大将として派遣し、皇子は糸島で亡くなっています。

この古墳群の被葬者たちは、この戦いにきっと関わったことでしょう。
これが失われるのは残念です。

しかも古墳の上の家に住んで幸せになるのは難しい。
開発業者は古墳の跡だと、きちんと説明してくれるでしょうか。





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by lunabura | 2013-12-08 22:57 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(8)

まさか、たくさんの古墳が破壊されている?


まさか、たくさんの古墳が破壊されている?

糸島市から日向峠を経由して福岡市に向かったのですが、途中で左の崖に巨石が見えました。

c0222861_0214771.jpg


「あれ?石がある」
「古墳よ」
「まさか、壊されている?」
「何も出なかったから壊すんだって」
「え?何も出なかった?古墳の石組があるじゃない!」

c0222861_022981.jpg


雨の中、一瞬だけ撮影が出来ました。
どうして古墳群が破壊されているの?
いったいここは何市?
日向峠を下っていたので、福岡市でしょうか。

c0222861_0223539.jpg

これほどの古墳群があと数日で消える?
ここは何と言う古墳群ですか?
いったい何族の古墳群ですか?

誰か教えて。

大阪か奈良ではゴルフ場が古墳を一基壊したと住民訴訟が行われたのに。

どうして、こんな事に。





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by lunabura | 2013-12-08 00:28 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)

細石神社(2)王と王妃墓 コノハナサクヤ姫夫婦説


細石神社(2)

王と王妃を埋葬する三雲南小路遺跡
木花開耶姫夫婦墓説

前回の『古事記』の「木花開耶姫」を読み返していると、
この神話を糸島の歴史の中で捉えられないだろうかという気持ちが湧いて来ました。

そこで、今回は神社の裏の王と王妃の遺跡との関連を見て行きたいと思います。

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拝殿です。その向こうは平野です。
平地のど真ん中にある神社は福岡では少ないと思います。

c0222861_21584126.jpg

参拝を済ませて振り返ると山が目に飛び込んできました。
高祖山です。
正面の峠は日向峠と思われます。

どうして、山の神の娘、磐長姫と木花開耶姫の二女神が平地に祀られているのか。

地形から読み取ろうとすると、この神社は山を拝してはいません。
山の方から人々はやって来て参拝するようになっています。

二女神の名がどうして唐突に出て来るのだろうか。

Wikipediaには
この「細石神社」は「三雲南小路遺跡の、日子番ノニニギ命と木之花咲耶姫の墓の拝殿」であると考えられる。

という考えが書かれていました。

この「三雲南小路遺跡」(みくもみなみしょうじ)は弥生時代中期後半
(紀元前1世紀頃)のもので、江戸時代に1号甕棺、昭和に2号甕棺が発見されています。

1号甕棺からは銅鏡35面、銅剣、銅戈、銅矛、勾玉、璧、金銅製四葉座飾金具が出土。
2号甕棺からは銅鏡22面以上、ヒスイ製勾玉、ガラス製勾玉、管玉などが出土。
(『伊都国散策マップ』より)

銅鏡の数が35面とか、22面とかは、半端ない量です。
壁はガラス製です。壁が持てるのは間違いなく王者です。
副葬品から王と王妃とされるのは問題ないですね。

紀元前一世紀の墓ですが、盛り土がされていて、一辺33メートルの正方形だったそうです。
周囲に溝が掘られ、古墳時代まで何度も修復された形跡があるそうです。
長らくクニの人々に祀り続けられていたのですね。

この遺跡ついて調べていたら、なんと自分も記事にしていた
(あは、またもや忘れとったあ)

伊都国歴史博物館(2) 三雲南小路遺跡
剣は上向き、朱を入れた壺は逆さまに置かれていた
http://lunabura.exblog.jp/15461398/

c0222861_2122512.gif

このように、銅剣が邪の侵入を防ぐ働きをしていると考えられる事から、
すでに銅剣は祭祀具となっていて、鉄剣の時代になっていたと考えられています。

伊都国の銅剣はすべて中国由来のものだそうで、
壁とともに、中国との交流を示すものとなります。

イラストの小壺の朱は水銀朱で、墓の周囲から朱を精製するための杵なども
多数出土しているそうです。

「これより以前の弥生墳墓とは隔絶した内容を伴うものであり、
まさに「クニ」の絶対的な統治者としての伊都国の始祖王であったとみている」
(『倭国創生』より)

考古学的評価は「伊都国の始祖王」とされていました。



細石神社との関係はどうなのでしょうか。

c0222861_221053.jpg

主軸がずれているのが気になりますが、あまりの近さに驚き。
古墳を祭祀する施設が神社になったと考えて全く無理はありません。

ウィキペディア説では、この「王と王妃」は「ニニギの命と木花開耶姫」となります。
しかし、神社の祭神は「磐長姫と木花開耶姫」の二女神。

ウィキペディア説を肯定するのは現状では無理だと思いました。
何か、決定打が欲しいですね。

この航空写真を見て思うのは、神社の主軸線が墳墓の北にあるので、
もう一つ、主軸の反対側に墳墓があったかもしれないということです。
方形の墳墓がきちんと東西南北を捉えている点からも、気になる所です。

(つづく)

細石神社 糸島市



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by lunabura | 2013-12-03 22:06 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)
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