ひもろぎ逍遥

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タグ:古賀市・糟屋郡 ( 66 ) タグの人気記事

相島 鼻栗瀬2 春分の日の出はこんな感じ


相島 鼻栗瀬2 
あいのしま はなぐりのせ
春分の日の出はこんな感じ


福岡県の相島。猫の島で有名ですね。

その相島の鼻栗瀬をポイントとした春分の日の日の出の画像を
チェリーさんが早速作ってくれましたよ。
ありがたいです。







c0222861_20105814.jpg

さて、鼻栗瀬の西から撮影すると、








c0222861_20115820.jpg

こんな感じに見えるらしい。う~む。でかい。
ここに穴が開いていると想像しましょう。

2017年3月20日、6時27分頃、向こうの山から朝日が昇り、
光線が鼻栗瀬の穴をギリギリ通るかもしれないという感じですね。

チェリーさんいわく、
「鼻栗瀬の形が随分違いますねぇ〜
このどこの部分が穴になるのかわからないですけど、
直接日の出が見えるのか微妙ですね〜

鼻栗瀬から見た画像も添付します。
直接じゃなくとも、海面に反射した日の出は見えるのでは?
それはそれで神秘的かもしれませんねぇ…

ちなみにそのまま東にラインを延ばすと鞍橋神社になりました。」


ほう、鞍手の鞍橋神社ですか (@_@
(はい、来月のテーマですね(^^; やりますよ)









c0222861_20123755.jpg

これは鼻栗瀬から撮影した状態だそうです。
靡山(なびきやま)の少し南(90.4度)から太陽が出ています。

チェリーさんいわく、
「見える地点は鼻栗瀬に面した海岸の崖になるみたいです。
舟じゃないと行けないんじゃないかなぁ…撮影は標高2.3m位からです。」

舟に乗ったらこんな角度ということですね。
もし観測点があったとすると崖か海になります。

海なら海退期のころ、すなわち海岸線が下がっている時代に
観測点を設置したかもしれませんね。

真鍋は宗像市の大島が島になったのが雄略帝9年(465)と記録しているので、
それまでは相島も陸が上がっていたかもしれないです。

大島と陸の間に出来た倉良瀬戸の測量が
明治22年(1889)では15・0mの深さなので、
この変動の時には大きな影響があったことでしょう。

例の沖ノ島の海底の石柱もあることだし。
どんな時代のものか、だんだん妄想が膨らんできます。




c0222861_20132128.jpg

これは空中写真。船を出すならここらへん。




c0222861_20133719.jpg

見事な画像ですねえ。チェリーさんいわく、
「航空写真で見てみたら、少し入江っぽくなっていました。

どのくらいの傾斜かわからないですけど…
ごめんなさい、撮影地点は海の中になっていました!

ここの標高2.3m位になってるとは思いますが…
ということは、西側にラインを延ばせば地面と交わる地点があると思います。」


いくつものレベルでの画像作成、チェリーさんありがとうございました!!!


g22さん、これでかなりポイントが絞れますね。
スマホを持っていけば楽々アプローチとなりそうです。




思えば志賀島の二見岩に穴がるのも同じ理由かも。
(と、チェリーさんに謎を掛けるのであった^^)




相島





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by lunabura | 2017-03-13 20:16 | 相島 | Trackback | Comments(6)

相島の鼻栗瀬


相島の鼻栗瀬




鼻栗瀬とは新宮町の相島の横にある小島で、大きな穴が開いています。

ブログ訪問者の方が、この穴に注目して、
春分の日にどこから朝日が差し込むのかを確認したいと話されたので、
現地入りする前の下調べ用に在庫から画像を少々取り出しました。








c0222861_19531546.jpg

これは漁港から撮ったものです。水平線の中央の岬の横の小島が鼻栗瀬です。







c0222861_19533218.jpg

フェリーから撮った鼻栗瀬です。穴が少し見えています。
左の岩は蒙古塚の巨石です。











c0222861_19535290.jpg

これは蒙古塚の遊歩道。奥に先ほどの巨石が見えています。
角度的にはこの巨石上から鼻栗瀬の穴が正面に見えそうですね。










c0222861_19542732.jpg

これは積石塚古墳群から撮ったもの。矢印が宮地岳です。
穴は向こうに向いています。










c0222861_1955433.jpg

宮地浜から撮ったもの。こんなんしか、なかった。
確か穴が見えた記憶があります。



宮地嶽神社の「光の道」が正しい東西でなく、やや角度がずれているので、
天文祭祀線ではないだろうと結論づけているのですが、
この鼻栗瀬の穴に春分・秋分の光が差し込むとしたら、
ついに天文祭祀線の発見となります。

海上からの観測となるのでしょうか。
天文観測所なら、陸地にあるはずですね。

るな探偵は蒙古塚の巨石が一番の候補と考えましたよ。
当たるかはずれるかはお楽しみ。

結果報告をお待ちしています。
天気次第ですが。










c0222861_19563037.jpg

さて、相島にある剣神社はこんな感じです。
視界は効きませんね。
ご参考までに。




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by lunabura | 2017-03-10 20:00 | 相島 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご33 再会



ひめちゃご33

再会
 

白山神社への道は伊野天照皇大神宮の山沿いではなく、
もう一本、平地寄りの道沿いにある。

鳥居が道路沿いに無いので見つけにくい。
七色と星読は口々に「ここだとは」と驚いていた。

私が道案内しないと、行きつくのに苦労しただろう。

私がこの宮の存在を知ったのは、福岡の研究者の本からだった。

著者の名前は忘れたが、鉄工所を経営する人で、
この宮のご神体は「鉄滓」だと書いてあったのが強く印象に残った。

言い換えれば、鉄の民の宮だということになる。
それで、ご神体を見てみたいと思って出かけたのだが、それは遠慮された。

現在の祭神は「五十猛神」で、かつては「菊理姫神」など、と掲示板にあった。
この宮は祭神が書き換えながら、変遷していったようだ。

社殿は急な石段を上った所にある。



c0222861_22212513.jpg


参拝を済ませて、境内を回ってみると、
ここもまた小さな山のピークを平らに削ったものだと分かった。

稲荷地形だ。
前日の馬見神社と同じだった。
やや、こちらが狭いか。
左右には溜池があった。

すると、奥には裏参道があるのか、と思っていくと、やはりあった。
途中まで車のワダチがあるが、あとは山道のようだった。

七色がスマホで確認すると、これが首羅山に通じている道のようだった。
前回、まおからも「首羅山に白山神社から登った」というコメントが入ったので、
これが登山道なのだろう。

三人はそれぞれに地形を見ていった。
七色が来なければならないのは、ここだったのだろうか。
弥生の遺跡のような姿を夢で見せられたというが。



首羅山は道昭が仏教を開いたという。
法相宗なら、ヨガセンターのような感じで、多くの人が瞑想をしたのだろうか。
350ほどの坊があったという。
それを感得したのか。



ここで、斉明天皇の菩提を弔ったというのだが、
その出典が何だったのかも、忘れてしまった。

中大兄皇子に乞食の相があるのを見抜いたのは道昭かもしれないと、
淡い期待を持っているのだが。

「乞食(こつじき)とは、単なる物乞いの意味ではない」と、
タケが話してくれたのを思い出す。

改めてウィキペディアを引くと、
<僧侶は比丘(びく)というが、これはサンスクリット語の音写訳で、
「食を乞う者」という意味である。
これが後々に中国で仏典を訳した際に乞食(こつじき)、
また乞者(こっしゃ)などと翻訳されたことにはじまる。>
とある。
比丘と乞食は同意となる。

また、続きに、
<『大乗義章』15に
「専行乞食。所為有二。一者為自。省事修道。二者為他。福利済世利人」>
とあった。

乞食には二つの目的があり、一つは自分の為、そして、もう一つは
他者のためとある。

言い換えると、私たち一般人が托鉢僧に布施をするのは、
僧を助けるためではなく、
自分のカルマを浄化してもらうためということだ。

僧は布施をした人のカルマを引き受けて修行する。

だから、托鉢僧は頭を下げないのだ。

これは傀儡子(くぐつ)と同じ思想だ。
人形に穢れを移して祓う。
あるいは自らに穢れを移して祓う。
これが、のちに雛祭りに変化していく。

中大兄皇子は天皇という最高祭祀者に即位するに当たって、
仏教にも同じような思想があることを知って、心魅かれたのかもしれない。

神道の最高祭祀官が、仏教徒に母の弔いを依頼するということは、
よく考えると、驚天動地の出来事なのだ。

死後の世界観が違うのだから。

中大兄皇子は人を殺めたその手を見る時、
そして、自分の御代に倭国を滅亡させてしまうのかと、その罪深さにおののくとき、
仏教にも「自らに受けて祓う」という思想が在ることを知り、
「乞食の行」に救いを求めたのかもしれない。

それが、旧山門郡の長島(おさじま)の太神宮へと彼の足を進めさせた。

この数か月、私はそんなことを考えていた。

私が白山神社の参拝を欲したのは、天智天皇の心を覗きたかったからだった。




七色が、三人が出会ったのはちょうど一年前だった、と言った。
そうか、そうだったのか。
11月に三人が出会い、「脇巫女」が始まった。

「きっとこれから何かが始まる」
と、七色が言った。


              <2016年11月25日>




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by lunabura | 2016-11-25 22:22 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(8)

ひめちゃご32 白山神社へ



ひめちゃご32

 白山神社へ
 


馬見神社に参拝した翌日の11月14日。

思いがけず白山神社に参拝することになった。
この白山神社は糟屋郡久山町にある。

少し前に七色からメールが入っていた。
糸魚川巡礼の準備の最中だったようだ。

<2016-11-12 >
「こんばんは。
昨夜 チェリーさんとお話しまして糸魚川巡礼の打合せをしました。

その直後 能生白山神社を発見しまして
こちらへ行きたい希望をメールして、寝ました。

すると今朝夢を見ました。
「糸魚川巡礼へ行く前に『久山の白山』へ行くように」
と上空から久山の白山を見せられている夢でした。

夢の中では久山の白山は、吉野ヶ里遺跡みたいな感じのスペースでした。

このような夢を見たので、本日
るなさんブログ過去記事の白山を読ませて頂きました。

なぜに?
糸魚川巡礼と久山の白山の関係がまだわかりません…

というような事がありました。

今朝の夢に るなさんに話している場面がありましたので、
勝手ながらメールさせて頂きます。
何かあれば…宜しくお願い致しますm(_ _)m 」

はてさて。
戸惑った。
糸魚川と久山の白山神社?
白山つながりなら、白山比咩神社のことしか思い浮かばない。

るな「加賀の白山比咩神社のことでしょうか。
位置を調べると、糸魚川からは逸れているようですが、
泰澄が白山の女神を感得したんですよね。」

と返信した。

久山の白山神社の過去記事は、最近自分も読み直していた。
その上の山の首羅山で斉明天皇の菩提を弔ったというが、
登山道などが分からず、手が付けられずにいた。

もう一度確認しにいこうと思いながら延び延びになっていた。

翌日、返信が来た。
<2016-11-13 >
「こんばんは能生白山神社は、糸魚川市の隣町付近にあります。
加賀の白山比咩神社は、来年行く予定です。

今回は、2日間をかけて糸魚川とその周辺へ行きます。
フォッサマグナミュージアムへ行きお勉強してまいります。
何かの発見がアリアリかな?(笑)

すでにお知らせが半端なく出ている現状です。
本当に困ります。
なので動いてみます。

そして久山の白山神社へ参拝に行かなかったら、本日寝込んじゃいました(泣)
なので…
星読さんに連れてって欲しいメールを致しました。

星読さんも何かを感じているようで。
みんな不思議です。

穂高神社へ行く日の朝の夢に、
るなさんたちメンバー、星読さん、そして夫が別々に出てきました。

なので夢を見たメンバーは、フォッサマグナ地帯関連なのかな?
~なんて妄想しちゃってまぁす(o≧▽゜)o

又々 不思議メール失礼致しましたm(_ _)m 」

星読か。
懐かしい名前が出て来た。

久山の白山神社に再訪するのに良い機会かもしれないが、
資料の締め切りがいくつもあって、身動きが出来ない。
日程を考えたくなかった。
必要があれば、一緒に行くこともあろうし、
時間が合えば合流するまでだ。

流れに委ねることにした。

「星読さんと二人で日程を決めてください。合えば合流します」
と、そっけない返信をした。

すると、バタバタと日程が決まって、11月14日の午後という知らせが来た。
それなら、動ける。

こうして、久山の天照皇大神宮の駐車場で待ち合わせをすることにした。




五十鈴川の紅葉が始まっていた。


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                      <2016・11・23>


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by lunabura | 2016-11-23 21:39 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(12)

磐井君の末裔たちのレジメ完成



磐井君の末裔たちのレジメ完成




次回の歴史カフェのレジメが仕上がりました。


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神社の縁起を調べていくうちに、磐井君の末裔について、
子供は四人、孫は六人、合わせて十人の存在が分かりました。

今回はこの十人について、磐井君に近い順から、
系図や伝承、また墓や神社など、分かった事をお話ししていきます。

パワーポイントではなく、史料を読んでいくので、
かなりの理解が進むのではないかと思っています。

この史料を読み込めば、
磐井君が新羅寄りではなく、百済寄りだったこと。

宮地嶽神社の境内にある宮地嶽古墳の被葬者は
宮地嶽神社の祭神であること、
など、おのずと明らかになります。

徳善説の誤解
宗像族の人物が安曇族の聖地に葬られることはあり得ません。

胸肩徳善説を唱える方は、時代が100年以上違う点について、
説明すべきでしょう。

なにせ、徳善は天武天皇の時代に活躍した人物ですから、
生まれる前に墓を作ったということを立証するのは出来ないことです。



新羅寄り説の誤解

また、磐井君新羅寄り説の方は、
磐井の孫の鞍橋君が百済王子と共に戦っていることを知らないのでしょう。

宮地嶽古墳から出土した「鉛系ガラス板」は磐井と百済の深い関係を物語っています。





逆賊という汚名を、しかも濡れ衣を着せられながらも、
自分たちの矜持を守り続けた磐井君の末裔たち。

今回は、久留米と糟屋、福津を結んで「磐井の乱の後の世界」を描いていきます。




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by lunabura | 2016-06-20 20:50 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(4)

志賀郷と阿曇郷



志賀郷と阿曇郷



香椎のアカデミックカフェのレジメを作りました。

香椎宮を中心にして起こった出来事を並べ、神社のリストを作ったら、
旧糟屋郡(かすやぐん)と重なってきました。


のちに、旧糟屋郡の一部が福岡市東区に編入したり、古賀市になったりしました。
香椎宮も現在は福岡市東区です。


旧糟屋郡は表糟屋と裏糟屋に分かれるそうで、西の方が表糟屋となります。
これらの地域を考えていると、不思議な感じがしたのです。

それは倭妙類聚抄に書かれた糟屋の志賀郷と阿曇郷と
重なるのではないかという感覚なのです。


阿曇郷はウィキペディアでは新宮町付近に想定してありますが、
それでは狭すぎます。

年毛宮(としもぐう)に尋ねると、私たちは安曇族です、と言われたので、
地図に乗せると、宗像市のすぐ西側まで阿曇郷となってきます。
アチメの浜という安曇の浜もあることだし。



で、南の方、夷守駅(ひなもりえき)のある粕屋町を見ると、
志賀神社があり、鹿の浜と万葉集に歌われているので、
そこまでは少なくとも志賀郷となります。

志賀郷の浜は遠浅(とおあさ)だったので、小舟で輸送していました。
現代の博多湾も昭和になって「しゅんせつ」されて、
ようやく大型船が入港できるようになったそうです。

朝鮮通信使が博多湾に入らず、相島に入港するのは、
水深が足らず、外洋船が入れないからです。

黒船が相島に来たのも、水の深さの問題があったのです。
黒船の婦人が気分が悪いから休ませてくれと言って上陸したそうですが、
なかなかの策略です。

名島は水深が深かったので、大型船が入れました。
秀吉が上陸しています。

こう考えると、
旧糟屋郡全体の海岸線寄りが安曇族の支配下にあったと想定できます。
表糟屋が志賀郷で、裏糟屋が阿曇郷と重なるのではないか。
そんなことを考えた一日でした。


c0222861_23284868.jpg

赤が旧糟屋郡。綾杉が推定する志賀郷が緑、阿曇郷が青。
(マウスで書くラインが震えるので、おおまかなイメージで捉えてください)







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by lunabura | 2016-06-04 23:30 | 安曇族と志賀島 | Trackback | Comments(2)

石田三成と伊野天照皇大神宮



石田三成と伊野天照皇大神宮



NHKの真田丸の石田三成が
寡黙でカミソリの刃のような鋭い人物として描かれ、
山本耕史が好演している。




c0222861_2139415.jpg


実はずっとこの石田三成に注目していた。




何故なら、
三成が福岡久山町の伊野天照皇大神宮にたびたび参拝していたからだ。



焼失した神社の再建に期待されたが、
すぐに福岡を離れたらしい。

彼は名島城も一時期与えられていたようだ。

脇役なので、大河ドラマでは福岡の話は省略されるだろうと思っているが、
たったこれだけの縁で俄然、興味深くなった。

現在の宮は江戸時代に移されている。
元宮はバスターミナルの近くにある。

三成がどちらの方に来たのか、まだ確認していないが、
それを調べるのも、楽しみだ。


伊野天照皇大神宮は拙著『神功皇后伝承を歩く上』の表紙に。



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by lunabura | 2016-05-22 21:41 | 伊野天照皇大神宮・粕屋 | Trackback | Comments(2)

脇巫女 28  薬王寺 清滝寺


脇巫女 28
 WAKIMIKO
薬王寺 清滝寺
福岡県古賀市


朝早くから七色のメールが何通も来た。
薬王寺、清滝寺に誘う内容だ。
あまりに回数が多いのでよほど緊急性があるのだろうと、
勘違いして午後から出かけることにした。

結果としてはそれほど急ぐ事ではなかったが、
チェリーさんのブログを見て、清滝寺の今を確認したいと思った。

速報版 七色さんへのレポート 清水寺(宮若市黒丸)
http://sakurasaku0911.blog.fc2.com/

埴生(はぶ)神社からラインが届いていた。
それは西山断層の守りの配置とも思われた。

埴生神社は仲哀天皇と神功皇后が船を泊めて祭祀をした所だ。
当時は島だった。

今は美しい湖と桜の宮だ。
古遠賀湾の水が取り残されたような景観だ。
(『神功皇后伝承を歩く』上巻13)

そこにある横穴墓群の線刻画を何とかして残してくれまいかと
願っている所でもあった。
「はぶ」とは南十字星を表すことばでもある。

今、古月さんはここを中心とした祭祀線を発見していた。
チェリーさんの祭祀線にも出てくる。

各人が同時進行形で様々な発見をしていた。
とてもブログには書きおおせない。



七色は各地の寺社を回るうちに、
鞍手に限らず、遠賀川流域の過去の災害を教えられていた。


そして、今回、絵都(えと)とも会えた。
絵都はこのブログにコメントを入れてくれていた女性だ。
ブログの縁でこうして三人が会った。

七色によると、絵都は「海の民」の脇巫女の一人だという。



三人はまずは薬王寺に向かった。
何故か昨年秋、ひょんなことで、ここの龍頭観音を私は知った。
まっすぐにそこに案内すると、七色は夢で見た所だと歩を止めて見回す。


c0222861_21414844.jpg

そのお堂の下からは清らかな水が流れ出していた。
薬王寺の水は格別に上手い。
人を癒すために発見された水が多くの人に届けばと思う。




帰りに絵都が砂防ダムを気にしたので行ってみることにした。
右手にはかなり低いところを谷川が流れていたが、
最初の砂防ダムは既に満杯だった。


c0222861_21421720.jpg

横の崖から木々が押し流されている。
久山町の天照皇大神宮を思い出した。
そこは社殿の真後ろに迫っていた。

このような分野の管轄は何処なのだろう。
通報システムなどはないのだろうか。
ご存知の方は教えてほしい。

この山は断層地帯なのだ。





次に清滝寺に向かった。

清滝寺は薬王寺から北の方にある。
かつて巨大な磐座を見た記憶があった。
久しぶりに磐座に会える。

清滝寺に向う道を走っていて驚いた。
清滝寺はそそり立つ神奈備山の中腹にあった。
地形を見るようになって、初めてその特異な立地を確認した。

急な細い一本道を上がると思いがけず開けた所に御堂があった。


c0222861_2143460.jpg

すがすがしい。


私は磐座を求めて山に入った。
あと二人が一緒だから安心だ。
普段は慎重な私がずんずんと登ってしまった。
山頂に行くには時間が足りなかった。
さっき傾く夕陽を見たあとなのに、時間を気にしなかったとは。


c0222861_21432793.jpg




足元からさっき見た鐘を突く音がする。

c0222861_2144366.jpg



途中で断念したが、下山の時、何度も道を失った。

そのたびに七色が道を見つけてくれたのだが、
このような無鉄砲な行動をしたのは初めてだった。

七色と絵都には申し訳ないことをした。
これも意味があるんですよ、と七色が言ってくれたが、
低山で遭難はいただけない”(-“”-)”




七色の目的は水源を見つけることだった。
寺に尋ねると、御堂の裏に古くは滝があったという。
今はその痕跡もない。
また七滝があったともいう。

さっきの山の中は杉だらけだった。
これでは水が無くなるのも無理はない。
降った雨は表層を流れていく。
これが重い課題として迫って来ていた。

この清滝寺は糟屋の中でも一番古く、
また、大宰府~英彦山を回峰する修験道のルートでもあったという。
天台宗だ。
瑠璃光山行基院。

行基は水の祈りのために回ったのか。

七色は「るなさん、今夜は続きの夢を見ますよ」とメールしてきた。
そういえば、今年の初夢はまだだった。




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(阿弥陀堂)





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by lunabura | 2016-01-04 21:47 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(3)

船原古墳の被葬者は筑紫君磐井・葛子の一族か


船原古墳の被葬者は
筑紫君磐井・葛子の一族か


古賀市谷山で発見された前方後円墳の側の埋納坑。
そこに埋められていたのは馬具だけでも六領。
一領の一部だけ、新羅のデザインが見られますが、新羅製かどうかは不明。
その他は倭国製だろうとのことです。


c0222861_200524.jpg


馬具の一部は土の表面に姿を見せた時から黄金のきらめきを発していました。

この「船原古墳」は6世紀末~7世紀初めに造られたといいます。
埋納されていた国宝級の宝物の数々は誰のために奉納されたのでしょうか。

今回はその被葬者像に迫ってみようと思います。
その手掛かりの一つとして、同時代、同じ古賀市美(み)明(あけ)にあった屯倉(みやけ)「鹿部(ししぶ)田淵(たぶち)遺跡」の存在が挙げられます。

この遺跡の重要性は6世紀前半に起こった「磐井の乱」(527年)が関わってきます。

継体天皇に新羅攻撃を命ぜられた筑紫君磐井はなかなか出兵しませんでした。
継体天皇は朝鮮半島からの貢物を横取りしているという言いがかりも付けています。

磐井君は継体天皇の派遣軍と戦ったのですが滅ぼされ、その子・葛子君は連座を恐れて「糟屋の屯倉(みやけ)」を差し出しています。その候補地とされるのが「鹿部田淵遺跡」です。

この遺跡と船原古墳は花鶴川~谷山川という一つの水路で結ばれています。船原古墳の被葬者はこの屯倉の経営に深く関わっていたと考えられます。





被葬者の生きた時代はどんな時代でしょうか。


この時代は朝鮮半島では新羅(しらぎ)が拡大していて、任那(みまな)が滅び、百済(くだら)も危うい状況にありました。百済は何度も筑紫勢に援助を頼んでいます。



c0222861_2005349.png

葛子君の子・鞍(くら)橋(じ)君(鞍手郡)が百済王子・余昌と共に戦って王子を助けてもいます。福津の宮地嶽では同じく葛子君の子である勝村(かつむら)・勝頼(かつより)が活躍していました。

古賀市美明の屯倉にはおそらく武器が格納され、この戦いに貢献したと思われます。




一方、被葬者の祭祀環境も手掛かりとなります。
古代より、氏族は自分たちの氏神を祀っていたからです。

被葬者はどこで神祭りをしていたでしょうか。すぐ近くにあるはずです。

船原古墳は舌(ぜつ)状丘陵地帯の突端に築造され、その奥に鎮座する小山田斎宮を守るかのようにみえます。距離はわずか500m。

この古賀市小山田の斎宮(いつきのみや)の始まりは西暦200年。
仲哀(ちゅうあい)天皇と神(じん)功(ぐう)皇后の時代に遡ります。




c0222861_202129.jpg


仲哀天皇は香椎宮で天下を治め、同市の皇(おう)石(いし)神社の鎮座する鹿部(ししぶ)山から船の軍事訓練を眺めたといいます。

その船はすぐ近くの安曇(あづみ)族の船です。ここは古代の阿(あ)曇(づみ)郷と考えられます。

しかし、天皇は突然崩御しました。神功皇后はその死の原因を知るために小山田に行って神々に尋ねたと『日本書紀』は語ります。

誰が土地勘の無い皇后を小山田まで導いたのでしょうか。

皇后は見知らぬ土地に導かれる時、その人物に全幅の信頼を寄せていたはずです。
その人物はやはり当地の安曇族だと思われます。
その境内には志賀三神も祀られています。綿津見の神ですね。

その末裔が船原古墳に眠ると考えるのが自然です。



安曇族は初代天皇の神武(じんむ)天皇の祖でもあります。その末裔でもある神功皇后が安曇族の船に乗って新羅を討ったのが、いわゆる三韓征伐です。

しかし、戦勝後も新羅との軋轢(あつれき)は400年続き、倭(わ)国は百済と共に新羅と戦うことになりました。

ただ、聖徳太子の派遣した征新羅大将の来目皇子は糸島で亡くなっています。それが603年のことです。船原古墳の被葬者もこの前後に亡くなっていると思われます。

船原古墳の被葬者はこの戦いに貢献していたと思われます。

被葬者が亡くなったあと、各地から宝物が届けられたと思われますが、すでに古墳の入り口が封じられていたために、そばに丁寧に埋葬されたと考えています。

以上から、船原古墳の被葬者は安曇族の一員で、その副葬品のレベルの高さからは磐井・葛子君の一族の可能性が高いと思われます。 




参考 『神功皇后伝承を歩く』掲載神社
24番 香椎宮
25番 皇石神社
36番小山田斎宮

下巻
69番 宮地嶽神社
71番 志賀海神社
72番 志式神社






赤 船原古墳   青 小山田斎宮




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by lunabura | 2015-10-15 20:06 | 船原古墳・古賀市 | Trackback | Comments(2)

朝鮮通信使を迎えた相島


朝鮮通信使を迎えた相島



「60」

目覚めのまどろみのなかで浮かぶ数字。
私はこれが何を示しているのかすぐに分かった。

相島の記事を終えたつもりでいたが、もう一つ書くべきことが示唆されたのだ。

正しくは「61」。
それはこの島で、江戸時代に台風の被害に遭った人たち、61人のことだ。
61人は朝鮮通信使が相島に立ち寄るための受け入れ準備をしている最中だったという。

作業のために徴用されたのは福岡藩士11人。
浦(港々)から出た者8人。
市(博多・福岡)から出た者24人、
縣(郡)から出た者18人。
溺死。

時は享保4(1719)年7月24日のことだった。

亡くなった61名を慰霊する地蔵尊と石碑が積石塚の端にある。
「合葬舟人墓」と書かれている。

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百合越浜 慰霊仏の横から見える景色


今年、二度訪ねた相島では、歴史の会の三人の人にそれぞれ出会って話を聞いた。

思い出すままに聞いた話を書いていこう。

朝鮮通信使とは、江戸時代に徳川将軍が代替わりするたびに
朝鮮李朝王からの親書を携えて来日し、将軍からの返書を持ち帰った使者の一行だ。

全部で12回行われ、そのうち11回は相島に停泊した。
一行は約400~500人だったという。
それを迎える人たちも含めると1000人ほどの人口増となった。


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黒田藩は相島に客館を建ててもてなした。

最初、黒田藩から船で屋根の葺き替えの資材が届くと言う。
それで島民の屋根が綺麗になると、次に客館のための資材が届く。

その資材は役目が終わると、解体されて博多の○○寺に保管されたという。
リユースだ。
寺の名前は失念。

この61名が遭難した年は、台風が来て大変なことになってしまった。
ところが、事情を知らない壱岐からは
「波が収まったら出航する」という狼煙が届いたという。

61名の菩提を弔うため、黒田藩は神宮寺に費用を送って、永年供養を依頼し、
今でも、神宮寺では丁寧に供養がなされているという。

ある年には海が荒れ続け、通信使が22日間滞在したために食料が不足してしまった。
食料調達に難儀し、最後には対岸の新宮からは鶏の声も全くしなくなったという。

通信使接待の食事のメニューを再現したものが新宮歴史資料館に展示されている。
(写真を撮っていたが、行方不明で掲載できない。
興味がある方は実際に見学に行かれたし。シーオーレ新宮内)

島では井戸が一本しかなかったので、11本掘られた話は以前書いた。
(12本ともいう)

そして肝心の客館がどこに作られたのか、最近まで分からなくなっていたそうだ。
それが山口県岩国市で絵に記されているのが分かり、絵の通りに発掘すると
柱跡が発見されたという。

場所は神宮寺と若宮神社の間、人家が建っている地域だ。
(島に珍しい平地なので、その辺りは海神豊玉彦の
綿津見のいろこの宮があったのではないかと想像していた)

これを聞いて、私のぼんやりとした記憶の奥から思い出すものがあった。
それは伊勢神宮で出会った女性の話だ。

その女性は島根県の日貫(ひぬい)という場所に住んでいた。
その「日貫」という地名の語源の探求をされていた。

で、その日貫に出掛けることになったとき、
夢で、そこはどんな土地なのか尋ねたら、
赤や黄色などの原色の色と、音楽が演奏される夢を見た。

その話をすると、それは朝鮮通信使だという。通信使がそこを通ったという。
昨日、書類の整理などをしているとその女性からの手紙が出て来た。
相島と日貫が意外なところで繋がった。

江戸時代のルートとして、相島から日本海を北上し、島根辺りから山越えして、
広島に出て、東海道を通って行ったのだろうか。

夢と江戸時代がリンクした不思議な一日だった。



観光の課題を小耳にした。
福岡市は相島は市内でないという理由で切り離しているそうだ。

が、相島には「太閤潮井の石」と言って、秀吉が肥前名護屋に向かう途中、
相島の穴観音に祈願させた史跡がある。
一人一個ずつ石を運ばせたのだが、その数17万5千人という。
当時、秀吉は名島(福岡市)に淀姫とともに滞在している。

その後、黒田藩が客館設置場所として相島を選んだ。
その資材は福岡市から運んだというのだ。

玄海灘を何千何万もの船が行き交う歴史があったのだ。
市政の境界など乗り越えてダイナミックな歴史観を
市民に提供していただきたいと思った。

海から見た博多の歴史は実に面白いのだ。



地図 相島 日貫




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by lunabura | 2014-08-07 15:46 | 相島 | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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