ひもろぎ逍遥

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発見された遺跡は大宰府政庁の客館?


発見された遺跡は大宰府政庁の客館?
太宰府市朱雀2~3丁目


今日は地図を広げていたら、どうにも止まらない。
国土地理院の5万分の1の「太宰府」「甘木」「福岡」「背振山」を
糊で貼り付けると1m以上の大きな地図になります。

気になる地名に印をつけてお遊び。
道路地図帳なんかは周辺が山で終わるけど、つないでみると
山越えルートがとても近くでびっくりする場所がいくつもある。

そんな今日は西日本新聞に最近発見された大宰府の客館らしき遺跡についての
解説が載っていたので、いったい何処にあるんだろと
太宰府のあたりをずっと眺めていました。

これは今日の新聞記事。

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それで客館をネットで検索すると、現地説明会用のPDF版を見つけたので、
印刷してお勉強する事にします。(^o^)/

大宰府条坊内の客館(8~9世紀)
http://www.city.dazaifu.lg.jp/data/open/cnt/3/5933/1/document_about_guest-house_in_ancient_Dazaifu.pdf

(リンクが効かない時は「大宰府条坊内の客館(8~9世紀)」で検索するとトップに出て来ます。)

下の西鉄操車場跡の部分が朱雀で遺跡の発掘現場です。
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(画像出典 上記PDFより)

これからも全国の遺跡の現地説明会の資料がこうして出されると有り難いですね!

九州王朝論とかよく聞くけど、都が見つかってないってホントですか?




地図 太宰府市朱雀




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by lunabura | 2012-03-23 21:11 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

貴船神社・神功皇后の船留めの松・熊一族の聖地か?


貴船神社きふね
北九州市若松区乙丸
神功皇后の船留めの松
ここは熊鰐一族の聖地だろうか

魚鳥池から向かった貴船神社への道は本流から外れて北へ向かいました。
この11号線が海だとしたら両脇の丘は岬です。

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次々に岬が現れて来ます。

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左手にこの丘が見えたら、ガードレールの切れ目に注意します。

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何も書いていない(!)ガードレールの切れ目から橋を渡るとこんな景色です。

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最初の森の切れ目にこんな空地が出て来ます。
説明板が目印で車が一台だけ止められるスペースがあります。
そして正面の道を歩いて行くと100mほどで鳥居が見えます。

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この先は行き止まりです。桜の木がいっぱい!

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石段の脇に石碑がありました!
「史跡 神功皇后船留之松跡」と書いてあります。
う~む。こんな所に船を入れた?ここは海だった?
石碑が無かったら全く想像出来ない。

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石段を上ると狭い斜面に本殿が祀られていました。
ご祭神は闇淤加美(くらおかみ) 高淤加美(たかおかみ)です。

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上から見下ろした光景です。
砂地が見えますが、そこに船をつないだというのです。
山の中に入って来た印象だったので信じ難かったのですが、
小さな入り江のように侵食した地形から、古代はここは波の打ち寄せる入り江だったのだと思いました。

小さな船が数隻しか入れないような小さな入り江。
しかし、どれほど美しい所だったのか、心の目に浮かびます。
ここは普通の人は立ち入れない聖地だったに違いないと思いました。

そこに、水の神が祀られていました。
「闇淤加美」(くらおかみ)の「闇」はこの入江のような形をした峡谷の地形をさします。
「淤加美(おかみ)」とは龍神の事でもあり、水の神です。
かつてはこの奥まった場所に清らかな水が湧いていたのかも知れません。
海の民にとっては水は命の糧です。

ここを領地としていたのは熊鰐です。
だから、ここは熊の一族の聖地に間違いないだろうと思いました。
神功皇后はここにわざわざ立ち寄ったに違いない。
何故なら本来の航路からずっと逸(そ)れているからです。

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赤い線が通常の推定航路です。
貴船神社へ行くにはピンクの航路を取らないと行けません。かなりの遠回りです。

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しかも、360度も廻り込まないとここに着けません。
日本書紀には省略されていた、この貴船神社参拝こそ、
神功皇后が仲哀天皇と分かれて単独で洞の海に向かった真の理由だと思うようになりました。

熊鰐はこの洞の海の左端から右端までを領有していたと思われ、
左端の山鹿には屋敷跡が史跡として残っています。
熊鰐はこの洞の海で船団を整えた一番の功労者です。
しかも神武天皇由来の聖地も守り続けた一族。
神功皇后はこの男の恩に報いる為にわざわざ立ち寄って祭祀した。
いかにも彼女らしい行為だと思いました。

さて、この貴船神社にはそれから数百年たって、不思議な事が起こります。
それが説明板にある「ほら貝祭」の由来です。

毎年4月15日、若松区乙丸の貴船神社で、ご神体のほら貝からお神酒(みき)をいただき、不老長寿を祈願する「ほら貝祭」が行われます。

この地区には「筑前国庄の浦寿命界由来記」が伝えられており、それには天明2年(1782)5月、筑前芦屋の商人が奥州津軽で600余年も生き続けた女性に会った話が記されています。

一人の商人が津軽の山路で道に迷い、女に一夜の宿を頼みました。女は筑前の生まれというその男を懐かしんで家に案内し、語り始めました。

「私は筑前山鹿の近くの庄の浦に住んでいた海女(あま)の子です。ある時、私は病いに倒れ、明日をも知れぬ命となっていましたが、孝行な子供達がほら貝を採って帰り、料理をして食べさせてくれました。

おかげで元気を取り戻し、それからは病気一つしなくなりました。そして、いくら歳月が流れても老いの兆しもなく、あれが不老不死の薬だったのではと思っているうちに、早や600年余りが過ぎてしまいました。

夫も子も孫も皆死んでいくのに、自分一人歳をとることなく、生きるつらさに何度死のうとしたかわかりません。住みなれた村もだんだん住みにくくなったので、諸国の神社や寺院にお参りすることを思い立ち、一人で各地を渡り歩きました。

ある所では夫婦になって暮らしたこともありますが、私が歳をとらないので化生(けしょう)の者と怪しまれ、こっそりと抜け出したことがあります。諸国を転々つとするうちに津軽に来て、断りきれずに、この家の主人に嫁ぎました。

私が故郷を出る時、ほら貝を形見として小さな祠(ほこら)に納めて参りましたが、今はどうなっていることでしょう。祠のそばに船留めの松というのがありましたが、松は千年といいますから、今でもあるかもしれません。

あなたがそこに行くことがあったら、私の子孫でもいればこの話をしてやって下さい。」
商人はこの年の10月、庄の浦を訪れ、子孫の伝次郎という人に会い、この話を伝えました。  北九州市教育委員会
どこかしら切ない話ですね。不老長寿になるのも大変だ。

内容は別として、ここが山鹿であり「船留めの松」があり、「庄の浦」と言い、
海女が住んでいたという点で、やはりここには波が打ち寄せていたのが分かりました。
ここの地名は乙丸ですが、すぐ近くには蜑住(あまずみ)という所があります。
まさにアマたちが根拠地としていた所です。

現在は入江には畑が出来ていますが、古代の地形がそのまま残っている点で、
とても印象深い神社でした。

さて、神功皇后の伝承はこのあと、岡の湊に出て来ます。
その右岸には熊鰐の屋敷跡があり、左岸には岡湊神社があります。
そこでは仲哀天皇の船が進まなくなるという問題が起こりました。

その件についてはすでに記事にしています。
崗湊神社 http://lunabura.exblog.jp/15828366/
⇒ 高倉神社 http://lunabura.exblog.jp/i58
⇒ 神武天皇社 http://lunabura.exblog.jp/i72/
⇒ 埴生神社 http://lunabura.exblog.jp/i101/
が順路です。
時間がある方は、そちらにブログ内散歩してくださいませ。

また、この近くで出土した縄文の哀しい母子と女性の謎の埋葬は
「芦屋歴史の里」(歴史民俗資料館)にて。
山鹿貝塚/縄文の若き母と子ほか計18体が発掘されていた
http://lunabura.exblog.jp/15862673/







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by lunabura | 2012-02-02 19:54 | (カ行)神社 | Trackback | Comments(0)

皇后崎・神功皇后の上陸地点


皇后崎
こうがさき
北九州市八幡西区皇后崎町2丁目
神功皇后の上陸地点

一宮神社で地図を書いて頂いて、早速そのまま皇后崎に向かいました。
国道3号線に皇后崎(こうがさき)町という信号があります。
通るたびに、何と読むのだろうと思い、
「皇后」が神功皇后を指すとは想像もしていなかったのですが、
地元ではここが神功皇后の旧跡だというのは当たり前の話のようでした。

史跡へ曲がる信号は3号線の「皇后崎町」か「桜ケ丘町」で、海の方面に向かいます。
私は教えていただいた桜ケ丘信号、「びっくりドンキー」レストランから曲がりました。
緩やかに左に曲がって行きます。左は高台、右は低地に鉄道という道でした。

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すぐに着きました。これが皇后崎史跡です。
地図をしっかり見ていないと通り過ぎてしまいそうです。石碑のお蔭で分かりました。
「史跡 皇后崎 神功皇后御西征之時 …(後は不明)」
と書かれています。
まるで方墳のような形をしています。横に階段があり、よっこらしょと入り込みます。

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これが上からの眺めです。高速道路が走り、その下には鉄道が走っています。

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目の前は洞海湾のはずですが、想像する事も出来ません。
しかし、道路の橋げたの隙間から海?川?水面が見えました。
やはり昔は海が広がっていたのです。

ここに神功皇后が上陸した様子が当時の人々にはよほど印象強かったのでしょうね。
地名になったほどですから。

本当は仲哀天皇も一緒だったと思うのですが。
英国の皇太子夫妻が来日した時も、ダイアナ妃の報道ばかりがあったように、
人々は美人の后に魅かれるのは昔も今も同じようですね。

史跡の横にはアパート群が建っていて、道が急な登りになって、
一宮神社まで岬が続いていたのが想像できます。

仲哀天皇と神功皇后は戦いの準備に当たって、まずは皇祖の祭祀の為に、
神武天皇の旧跡(一宮神社)に向かったのだと思いました。

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家が立ちこんで、地形も分かりませんが、点線あたりが岬だったのでしょうか。



地図 皇后崎





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by lunabura | 2012-01-21 00:21 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(7)

一宮神社・神武天皇の磐境神籬・岡田宮あと


一宮神社 
北九州市八幡西区山寺町
神武天皇の磐境神籬が現存していた
ここは岡田の宮あと

今日から北九州市を廻ります。
仲哀天皇は下関の忌宮神社に約6年も滞在して、いったい何をしていたのか。
記紀はその事情を語りませんが、その答えは北九州の各神社の伝承に残っていました。
その期間は軍船を造っていたのです。

その数は48隻というのが志式神社や他の神社に伝わっていますが、
北九州市では材木調達と造船をし、船団を整えていました。
山口県や大分県の海岸沿いなどでも船を造っています。
船の帆や幡など布製品は宗像市や福津市です。

これで分かるのは、最初から新羅との戦いを準備していた事です。
記紀では「熊襲よりも新羅を」と神々が託宣したように書かれていますが、
造船をしたと言う事は明らかに最初から新羅戦を前提としていた証拠になります。
何故なら戦った熊鷲たちは山に住んでいたからです。

戦争の準備のために要求された武器の朝貢の数は膨大になり、
羽白熊鷲や夏羽たちにとっては過酷なものになった事でしょう。
ここに熊鷲の反乱や田油津姫による暗殺事件などが生じる原因がありました。

造船に数年かかる間、神功皇后が木材調達に出掛けた伝承もありました。
(これは全く想定外だった)
また仲哀天皇は皇后を伴って神武天皇の足跡を辿って祭祀していました。
皇祖への祈願です。
神武天皇のゆかりの宮として、これまで紹介したのは神武天皇社でしたが、
今回参拝する一宮神社は日本書紀に出てくる「岡田の宮」跡でした。

北九州市にはもう一つ「岡田」の名を持つ岡田神社があります。
そちらに参拝すると「一宮神社が元宮です」と教えていただきました。
そこで日を改めて一宮神社に参拝しました。八幡西区にあります。
岡田神社はまた別の機会に報告するとして、今回は元宮の一宮神社です。

一の鳥居の右側に車道があって、上っていくと駐車場に出ます。
山の中腹に駐車場がある印象です。

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車を降りると、すでに拝殿の下の石段の所に来ていました。

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石段を上るとすぐに本殿です。
後ろには鬱蒼とした自然林が見え、空が広がっています。
ここは岬の上だったそうです。
案内板から(一部ひらがなに)
一宮神社
一 由緒
この地方の氏神、王子神社、大歳神社、諏訪神社の三社を昭和25年6月吉日に合祀し、社号を一宮神社と称します。

王子神社は神武天皇が日向の国より東征の途上、筑前のこのところにおいでになり一年間政務をみられた宮居の地で、境内には古代祭場など考古学的にも貴重な跡があります。

大歳神社は三代実録や続風土記にも表れている古くてかつ由緒深い神社であります。
諏訪神社は花尾城主麻生氏が信州の諏訪神社を御手洗池のほとりに分祀、厚く祭られた神社であります。

一 祭神
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと) 神武天皇(じんむ)(元王子神社)
 大歳神(おおとし) 事代主命(ことしろぬし)(元大歳神社)
 建御名方神(たけみなかた) 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇 (元諏訪神社)

一 祭礼
1月1日 元旦祭 4月17日 春季大祭 6月25日 道祖神祭 
7月21日 祇園祭 10月17日 秋季大祭 11月15日 七五三祭
この宮は三つの神社が集合したのが分かりましたが、
今回注目したいのは「王子神社」です。

これは神武天皇がまだ天皇に即位する前で、皇子だったのでその名が付いたそうです。
古事記には岡田宮に1年間滞在したと書かれていますが、それがこの一宮神社です。

祭神は天忍穂耳命神武天皇でした。
神武天皇が先祖を祀ったのだから、天忍穂耳命だというのは当然ですが、
ニニギの命ではない所にすごく興味を持ちました。またアマテラスでもありません。
天忍穂耳命って天孫降臨を遠慮した神です。

「天の忍穂耳命は英彦山に祀ってある神ではないですか?」
「そうです。しかも王子宮が英彦山とこの宮の線上に幾つも並ぶのです。」
「そうなんですか!」
凄い話だ。祭祀ラインとなるとつい興奮。
(遠賀川流域の皆さん、王子宮を探して教えて下さい!)
そうそう。忘れる所だった。

「神武天皇が祀った磐境(いわさか)神籬(ひもろぎ)が残っているという事ですが。どこにあるのですか?」
その場所を伺うと、駐車場から下った所にあるとの事でした。
教えていただいた方角を見ると鳥居と参道があります。
そう、車は中腹に止めたので降りて行かねばなりません。

やった~。石段だ~。降りて、また上るぞ~。
一旦、一の鳥居まで降りて、最初からの参道を上って行きましょう。

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一の鳥居です。
周囲は町ですが、一瞬で杜の中に入りました。植物相が豊かです。
扁額には「一宮神社」と書かれていました。

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杜が深まって来ると二の鳥居です。扁額には「王子神社」と書かれていました。

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潜ってすぐ左を見ると「神蹟山 王子本宮」という石碑が目に入ります。
この「王子」というのが神武天皇の事です。イワレビコ命(みこと)です。
奥に低い玉垣があります。

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正面に立つと本物の磐境神籬がありました!
初めて見ます。
こぶしより少し大きい石を積み重ねて円を作っています。
半径は一メートルより少し大きいです。奥にもう一つ。形や高さが微妙に違います。

今思えば奥の磐境の形の観察をよくしなかったなと思うのですが、
写真で見ると四角に見えます。円と四角なら、天神と地祇だと、
確か奈良の神社に書いてあった記憶があります。(かなり昔の話です)
説明板がありました。
古代祭場跡 由緒
神籬(ひもろぎ) 神代時代、神霊の憑依する所として、清浄な土地を選び周囲に常磐木(ときわぎ)を植えて神座となしたもの。
磐境(いわさか) 神を祀るため磐石をもって築きめぐらした場所。

この磐境は古事記によれば神武天皇、御東征のみぎり、豊前の国宇佐よりこの筑前の国のこの地に御滞在された旧蹟と言われています。天皇が御滞在中、磐境を設けて天神地祇をご親祭された神座神処です。

昭和30年代の始め、伊勢神宮の造営局長で、神社建築史の大家、国学院大学教授角南博士が参詣され、この形式の遺跡は全国でも極めて数少ないもので考古学的にも貴重なものであり、当社がいかに古代からの社であるかを物語るものであります。

このたび、氏子崇敬者の人々の浄財により、一宮神社の御修築事業が執行されるに当り、磐境の復元に合わせ、玉垣などの新設がなされたものです。
   昭和62年5月吉日


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露天の祭祀は古代の祭祀場の特徴です。
二つの磐境を作って、神々が降りて来る聖なる形を作ったのですね。

磐境と言う言葉はよく聞きますが、このような姿をしていたとは!
これでまた古代祭祀のようすがまた分かりました。

時を越えて古代の姿を留めた古代祭祀場。

古代からの森も守られていて、私たちは神武天皇が立った地に立つ事が出来ます。
玉垣があるだけで、一般人が直接拝観出来るのも、とても珍しい事です。

神武天皇がここに滞在して、格別に清らかな場所を選んで祭祀しました。
それから数百年たって、仲哀天皇も神功皇后を伴って来て祭祀をしました。

こうしてその場に立つことの出来る奇蹟。
一宮神社に参拝の折は是非とも、この神籬(ひもろぎ)をその目で見て下さいね。

宮司さんは、ここまで来たなら「皇后崎」に立ち寄って下さいと、
アドバイスしてくれました。
「皇后崎」と書いて「こうがさき」と読みます。
神功皇后が上陸した岬で、地名になっています。

最初に上陸したのはいつなのか、各神社で尋ね、よく分からなかったのですが、
この宮ではじめて「豊浦宮の時代に船を作る為に来た時」だと教えていただきました。

仲哀天皇と神功皇后が豊浦宮の時代に北九州市に来たのは、
記紀では省略されていたのが分かりました。

それでは次回は皇后崎へ行ってみましょう。

(遠賀川流域のみなさ~ん、出番です。
王子宮が見つかったらコメントでもメールでも教えて下さいね。)

地図 一宮神社





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by lunabura | 2012-01-19 19:59 | 神社(イ) | Trackback | Comments(6)

東郷神社・バルチック艦隊と戦った海を見下ろす


東郷神社と東郷公園
福岡県福津市渡
祭神は東郷平八郎命
バルチック艦隊との海戦が見える公園
 


NHKの「坂の上の雲」が最終回でした。
福津市の渡半島に日本海海戦がおこなわれた海域を見下ろす公園があり、
そのそばに東郷平八郎を祭神として祀る東郷神社があります。

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快適なドライブコースを走ると、一の鳥居が見えます。

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拝殿です。

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神殿です。奥の森の向こうは海です。

東郷神社の由来当神社は昭和10年5月に東郷平八郎元帥を祭神に創建されました。祭神は明治38年5月27日の日露戦争の日本海戦で我が国の連合艦隊司令長官として艦隊を指揮。

世界最強といわれたロシア・バルチック艦隊を海戦史上例のない戦法で完勝し、我が国を守りました。

そして昭和9年5月30日東郷元帥薨去と共に全国民の間から元帥を神として祀る気運が高まり、戦場を一望する元帥ゆかりのこの地に神社が創建されました。また春の例祭では海戦で戦没した日本とロシアの英霊を合わせてお祀りしています。
例祭日 春の例祭 5月27日 (旧海軍記念日)
    誕辰祭  12月22日 (祭神誕生の日)

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テレビでは渡哲也が東郷平八郎役をしていましたね。


4月、バルチック艦隊がシンガポール沖に達する。そこからウラジオストクまでの航路は二通り。対馬海峡を通る日本海コースと、太平洋を回って津軽海峡や宗谷海峡を経る公算も大きい。

日本は迎撃する艦隊を1セットしか持たないため、太平洋と日本海の2か所で待ち伏せすることはできない。しかし、この艦隊を全滅させなければ、日本は敗北する。

真之は対馬海峡を通ると想定して哨戒計画を立案するが、バルチック艦隊の行方は杳(よう)として知れない。なかなか対馬に現れないバルチック艦隊に業を煮やした真之は、東郷に艦隊の移動を進言する。

しかし「敵は対馬に来る」という東郷のひと言で移動を延期した翌日、「敵艦見ゆ」との電信が旗艦・三笠に届く。真之は大本営への電文に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」と、日本が有利であることを象徴する一文を書き加える。 (NHKより)
この勝利が日本をロシアの植民地化から守ってくれました。
もし負けていたら、日本語を話す事も出来なくなっていたのですね。
改めて感謝したいと思います。


さて、主船の戦艦「三笠」を模した記念塔が建っています。
一の鳥居を出たら、お向かいの遊歩道を歩いて行きましょう。

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すぐに別れ道に出ます。どちらも頂上に着きますが、右は最後が急な石段です。
左は最初が少しきついけど、あとは緩やか。

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左を通ると芝生と桜の木が迎えてくれました。奥にあるのが目的の「三笠」。

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「日本海海戦記念碑」の文字は元帥伯爵東郷平八郎の書です。

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正面に廻り込むと砲台があります。
テレビでこれが戦艦「三笠」を模したと知って、この記念碑の意義が分かりました。

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さて肝心の海域ですが、
春や夏は桜が茂って海が見えるポイントが少ししかありません。

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海戦のようすがレリーフになっています。


今年になって、ロシアと日本の間にトンネルを作る話が飛び込んできました。
冗談だと思うけど…。
陸続きになるのは勘弁してね。


 
地図 東郷神社








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by lunabura | 2011-12-26 00:32 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(2)

御笠の森・神功皇后の笠が飛んだ


御笠の森
みかさのもり
福岡県大野城市山田2丁目 
神功皇后の笠が飛んだ

お待たせしました。
今回から羽白熊鷲との戦いのルートを歩いて行きます。

下関市の忌宮神社(いみのみや)に行って分かったのは
そこが仲哀天皇が宮室をたてた穴戸(あなと)の豊浦宮であって、
新羅の塵輪(じんりん)から都を襲撃されていた事でした。
すでに新羅との戦いは始まっていたのです。

実は仲哀天皇は塵輪に攻撃される前に
下関市から北九州市、豊前市、宇佐市にかけて、
木を切り出して、船を48隻も作らせているのも分かりました。
これらは日本書紀には書かれていない部分でした。

これらの事から分かった流れは、
仲哀天皇は船を48隻造らせて、新羅攻撃の準備に取り掛かっていた。
ところが新羅の塵輪と熊襲の連合軍が豊浦宮を先制攻撃。
かろうじて仲哀天皇が塵輪を射殺して勝利を収めたが、
護衛の阿部高麿、助麿の兄弟は戦死してしまう。

そのために天皇一行は防府市の佐波に避難していたが、
ついに香椎宮に遷宮して、本格的に戦闘の準備に取り掛かった。

軍事訓練をする中、会議で武人たちは先に新羅を攻撃する作戦を勧めたのに、
仲哀天皇は熊襲攻撃に執着した。
仲哀天皇の意向に従い、皇軍は御勢大霊石神社で布陣をして、
宝満川を挟んで羽白熊鷲に対峙したが、天皇が矢で討たれて崩御してしまった。

仲哀天皇の突然の崩御の理由を知るために、皇后が小山田斎宮で神託を聞くと、
神々は熊襲より新羅を討てと勧めた。
しかし神功皇后もまた神々の意見を聞かずに羽白熊鷲攻撃を決意する。
(田油津姫がこの場にいて、皇后を暗殺しようとして失敗している。)

そこで新たに立て直した作戦は陸路と水路の挟み打ちをする事だった。
神功皇后自ら本軍を率いて、陸路を進軍した。

その途中、皇后の笠が吹き飛んでしまう。
この笠が飛ぶ話は日本書紀に書かれているんですね。
仲哀9年2月6日。仲哀天皇は崩御。
3月17日に皇后は熊襲を討とうと思って、香椎宮(かしい)から松峡宮(まつお)に遷った。
その時、つむじ風が起こって御笠が吹き飛んだ。そこで人々はそこを御笠と呼ぶようになった。

それがこの森です。

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廻りは道路と住宅街ですが、見事に残されていました。
鳥居があればまるで神社のようです。

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古木がそのままに遺されていました。

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森の中に入る事が出来ます。森の中は異空間です。
この石は万葉歌碑。

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おもはぬを 思ふと言はば 大野なる 御笠の森ぞ 神し知らさむ

太宰大監 大伴宿禰百代作

読み方はこれでいいのかな…。
漢字は原典は万葉仮名だったので、適当でいいんですが、
ひらがなが上手く読めない…。意味もよう分からん…。
(hurutakaimasakiさんに読み方、教えていただきました。ありがとうございます。)

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何やら祠もありました。説明板があったので、書き写します。
笠が飛んだ話
武内の宿禰以下大勢の軍兵を率いて、香椎の宮から大野に出られ、
宝満山から流れ出て博多湾にそそぐ川(御笠川)のほとりを、
荷持田村(のとりのたふれ)をめざして南に向かわれた神功皇后が、
筒井村の辺りまで進まれた時に、
いたずらなつむじ風が皇后の笠を奪ってしまったのです。
そこで土地の人は笠がぬげたところに、「笠抜ぎ」という地名をつけました。
上筒井小字笠抜の地名は、こうして起こったということです。

空高く舞い上がった笠は風に乗ってくるくる廻りながら、
北へ北へと飛んで行って、一キロメートルはなれた山田村の森の
大きな楠の梢(こずえ)にかかってしましました。

お供の人はこの笠を取ろうとしますが、高すぎてなかなか取れません。
事情を聞いた村長(むらおさ)は森の神様にお願いするほかはないと思い、
お供の人たちと相談しました。そして、森の前で神様に奉納する舞がはじまりました。

すると枝にからまっていた笠のひもは、ひとりでにするするととけて、
笠はひらひらと舞い降りてきました。
大変喜んだ村人達はそこを「舞田」(まいでん)と呼ぶようになりました。

赤司岩雄著『大野城市の伝説とその背景』より抜粋

さすが地元には地名と共に詳しい話が残っていました。
こうして伝えられるとありがたいですね。

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しかし。るな的にはどうも納得できない。
笠が一キロも飛ぶ?
しかも笠が飛んだことが、神様に舞を奉納する騒ぎにまで発展する?
そして、日本書紀にわざわざ書くほどの事件だった?

きっと誰しもがこう思う事でしょう。
何らかの暗喩なのでしょうが、残念ながら謎は解けませんでした。
地元の神への挨拶が出来てなかったという事なのかな…。






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by lunabura | 2011-10-29 14:50 | <地名・地形・伝承> | Trackback | Comments(19)

忌宮神社(1)仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


忌宮神社(1)
いみのみやじんじゃ
山口県下関市長府宮の内
仲哀天皇が7年間天下を治めた豊浦宮


仲哀天皇が7年間治世した豊浦宮がこの忌宮です。
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日本書紀から。

足仲津彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)は日本武(やまとたける)尊の第二子である。
天皇の容姿は端正である。身長は170~80センチ。
稚足彦(わかたらしひこ)天皇(成務天皇)48年に皇太子となった。31歳だった。
叔父の稚足彦天皇には男の皇子がいなかったので、
足仲津彦が皇太子となったのである。

成務60年に成務天皇が崩御され、
仲哀元年1月11日に皇太子は天皇に即位した。
仲哀2年1月11日に息長足(おきながたらし)姫尊を皇后とした。
その前に、大中姫との間には麛坂皇子(かごさかのみこ)と忍熊皇子が生まれ、
また弟姫との間に誉屋別皇子(ほむやわけのみこ)が生れていた。

2月6日に角鹿(つぬが)の行宮・ケヒ宮を建てて住んだ。
3月19日から南国を巡狩して徳勒津宮にいた時、熊襲がそむいて朝貢をしなかった。
天皇は熊襲を討とうと思って船で穴門に行幸した。
その時、使いを角鹿に送って皇后に
「すぐにその港を発ちたまえ。穴門で逢いましょう。」と伝えた。

6月10日に天皇は豊浦津に着いた。
7月5日に皇后も豊浦津に着いた。この日皇后は海の中から如意の珠を手に入れた。
9月に宮室を穴門に興した。これを穴門の豊浦宮という。

宮室とは天皇の宮殿の意味で、皇居の事です。

帯中日子(たらしなかつひこ)の天皇は穴門(あなど)の豊浦宮、
また筑紫の訶志比(かしひ)宮にましまして、天下を治めた。

これは古事記の仲哀天皇記の筆頭の一文です。

さあ、仲哀天皇の皇居あとです。
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広大な境内の中心に一段高く神門があります。

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菊の御紋が目に入ります。

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拝殿前に出ました。堂々と風格がある宮です。

豊浦宮が忌宮神社となっているのは何故?


由緒書きから分かったことは
仲哀天皇が香椎宮で崩御されたのちここに神霊を祭った(豊浦宮)。
聖武天皇の御代に神功皇后を祀って「忌宮」(いみのみや)と称した。
さらに応神天皇を祀って「豊明宮」(とよあけのみや)と称した。
親子三人が並んでそれぞれ別殿に祀られていたが、中世時代に火災が起こったために、
合祀して一殿となり、総称して「忌宮」となった。
「忌」とは「斎」と同義語で、特に清浄にして神霊を奉斎する意味である。

ということでした。
もともと仲哀天皇の宮だったのが、合祀されていって、
火事に遭って再建された時には、神功皇后の忌宮が中心になってしまった訳ですね。
戦の途中で亡くなった天皇より、
戦勝の神として、また子安の神として女神様の方が人気が高かったのでしょうか。

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広い境内の片隅に神功皇后お手植えの「さかまつ」がありました。
必勝祈願して逆さまに松を植えたものが枯れて残っています。
皇后はあちこちに杉や松を逆さまに植えてましたよね。
逆さまなのはどういう事なんだろ。
つがるはずないのにと、現代人のるなはいつも不思議に思うんですよ。

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これは「宿祢の銀杏」(すくねのいちょう)。
当社の御祭神仲哀天皇、神功皇后、応神天皇に仕えた大臣竹内宿禰が植えたと伝えられる古木でその子孫が繁茂している。
銀杏は「生きた化石」ともいわれるほどに地球上で最も古くよりみられる植物で武内宿禰の長寿伝説と結びついている。

倒れんばかりの巨大な古木です。
竹内宿禰が植えた銀杏は織幡神社にもありました。
そこでは仲哀天皇をしのんで植えたと言います。
離れた所でこうして同じような伝承に出会うと、懐かしい気分になるので不思議です。

さて、日本書紀の「神功皇后」を『古事記の神々』に出していますが、
訳していてとても変だなと思う事がありました。
その謎がこの宮で解けたんです。
(つづく)
地図 忌宮





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by lunabura | 2011-10-10 21:10 | 忌宮神社・いみのみや・下関 | Trackback | Comments(18)

関見台公園・関門海峡を見晴らす串崎城あと


関見台公園
山口県下関市長府宮崎町
関門海峡を見晴らす串崎城あと

沖縄に停滞していた台風が北上を始め、山口県にも注意報が出ていたのですが、
行けるところまで行ってみようという事で、下関市に向かいました。
門司辺りに来ると、正面の空が少し明るくなって期待が出て来ました。
ま、写真が撮れなくても場所確認だけでもと関門トンネルに入りました。

毎回なんだけど、下関市はトンネルを出てからが道が難しい。
ナビに従うと高速道路にばかり導くし、帰りも一発でトンネルに戻ったためしがない。

今回はナビのお勧めに抵抗して地図を見ながら瀬戸内海側に向かいました。
最初の目的地は豊功神社なのですが、一歩早く曲がってしまい関見台公園へ。
せっかく入り込んだので、見学してみることにしました。
駐車場が整備されて、緩やかにカーブを描く遊歩道があってそのまま上って行きます。

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あれ?ここ、お城じゃない?石垣が見事です。

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道なりに進むと巨大なクジラのモニュメントがありました。
写真では左の方にしっぽが見えてます。
反対側に展望所があったので階段を上ると、下関の海が見えました。
対岸の九州もよく見えます。
ああ、これは軍事的に重要な所だな。ここを通る船がすべて把握出来る。

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礎石が残っていて、楼閣でも建てれば完全に海上を掌握だ…。
あとでネットで調べると、お城の天守台があった所でした。
敷地の角がきっちりと東西南北を取っているので、
羅針盤がなくても、方位が把握できる基礎です。

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方向を変えると火の山ロープウエイあたりが見えています。

串崎城というお城で、天慶3年(940)頃に
藤原純友の配下の稲村平六景家が築いたものという伝承があるほか、
大内氏の重臣内藤左衛門太夫隆春が築城したものとも言われています。

時代は違っても、このような地形は、
築城される前からず~っと重要拠点だった事でしょうね。

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天守台を降りて戻る道です。
桜がたくさんあって、春にはさぞかし華やかな姿が見られる事でしょう。

地形上、もしかしたら豊功神社まで歩いていけるかもと期待したのですが、
いったん9号線に戻らないと道がありませんでした。
でも、ネットで調べると、ここから豊功神社までが串崎城の敷地だったそうです。
今は途中に民家が建っています。

お城跡と知っていれば、写真の撮り方も違ったんですが、
ま、予定外だったし。
私の頭の中は五社分ぐらいしかメモリーの許容量もないし。

と言う事で、豊功神社へ行きましょう。

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地図 関見台公園





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by lunabura | 2011-10-04 14:45 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

裂田神社(1)日本書紀に書かれた裂田溝は現存していた


裂田神社(1)
さくたじんじゃ
福岡県筑紫郡那珂川町安徳
日本書紀に書かれた裂田溝は現存していた

日本書紀を現代語していく内に出て来た「裂田溝」(さくたのうなで)。
遠い過去の話かと思っていたら、今でもそれが残っているという。
しかもこの神社は古代祭祀線の南北線に乗っかってくる…。

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車で移動すると、いかにも神社らしい杜が見えて来ました。
右側の手前の杜が「裂田神社」。その左奥の森は「安徳台」です。

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車を駐車場に止めて、正面に廻りました。
田園風景の中に流れるせせらぎの横に立つ神社でした。
なんと心地よい。

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川が下の方を流れていて、そこにせり出すような場所に神社はあります。

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拝殿の彫刻は雅(みやび)な装いで、姫宮らしい雰囲気です。
そう、ここもまた神功皇后のゆかりの宮でした。
参拝を済ませて、案内板を読みました。
裂田神社安徳、宇竜頭にある。裂田の溝を記念して神功皇后を祀ってある。朱塗りの拝殿は間三間、入二間、絵馬がところせましと奉納され、その奥に神殿がある。

神殿の扉には菊花の紋章がある。境内には明治39年の鳥居をはじめ、こまいぬ、注連掛石などが、杉の老木や古株と並び、裂田の溝が周りをめぐっている。
例祭は11月28日で、針口の人たちが集まって火たき ごもりをする。
(社)つくし青年会議所

安徳と言えば安徳天皇を思い出しますが、その名の通り、
この地には安徳天皇を迎えた伝承も残っていました。
御祭神には神功皇后だけが書かれています。
どうして、ここに彼女の名が残るのか、日本書紀を抜き出しましょう。
(神功皇后は佐賀県の松浦郡に行って、ウケイをした。
西の方を討たねばならなかったのだ。
ウケイは裳の糸に針をつけ飯粒で釣りをするという方法だった。
「もしそれが成就するなら、魚よ、かかれ。」
みごと川魚がかかって、吉と出た。)

皇后はこうして神の教えの霊験がある事を確信して、さらに天つ神、国つ神を祭って祈り、西の方を討とうと思いました。そこで神田を定めました。その時、儺の川の水を引かせて、神田を潤そうと思って、溝(うなで)を掘りました。とどろきの岡に至ると、大岩がふさがって、溝を通す事が出来ません。

皇后は武内宿禰を召して、剣、鏡を捧げて天地の神に祈らせて、溝を通そうとしました。すると雷が急に鳴り出して、その岩を踏み裂いて水を通しました。そこで人々はその溝を裂田溝(さくたのうなで)と言いました。

神功皇后は夫の天皇が亡くなっても、戦争への流れを止めることが出来ず、
行き先々でウケイをしています。不安で仕方がなかったはずです。
天皇の死を隠しているために、作戦通りに着々と軍備は整えられて行きました。

佐賀県の松浦郡は朝鮮に向かう港がある所です。
この那珂川町は距離的にも近く、古くから栄えていて、重要拠点だったようです。
後の時代にも、斉明天皇中大兄皇子たちが新羅との戦争のために、
この那珂川町の行宮を目指してやって来ています。

日本書紀によると、神功皇后たちは本格的な祭祀をするために
この地で神田を作ることにしたようです。
すぐ近くまで海が迫っていて、だんだん干潟になっていく時代です。
しかし地形を見ると、田を潤す川がありません。
そこで那珂川から導水する工事を行った訳です。
それが裂田溝(さくたのうなで)です。

これらは、いくつかの伝承を組み合わせたものではないかとも思いますが
まさしく1800年前の工事の現場が残されていました。


水路をまっすぐ掘っていく途中で、神社の下の岩盤にぶつかってしまいました。
「武内宿禰に剣と鏡で祈らせると、雷が落ちて岩盤が砕かれた。」
となっていますが、横の安徳台からは紀元前の製鉄跡が見つかっていることから、
現実には、その鉄器の援助を竹内宿禰らが融通してくれたのではないかと思いました。

地元の真鍋大覚氏は隕石が落ちた可能性を述べてあります。
隕石が落ちたら植えるという椋の木の古木が近くにあるようです。

隕石がそんなに都合よく落ちるのかなと疑問を持ったのですが、昨夜、韓国ドラマの「トンイ」を見てびっくり。
李王朝時代には宮殿の中に隕石が落ちているのですね。
その当時はよく隕石が落ちたというセリフもありました。
(もちろん史実かどうかは分からず、そんな記事をモチーフにして、ドラマが出来たのかなと想像。)
この岩盤が砕かれたのは隕石の跡なのか、鉄器で穿(うが)った跡なのか、
自分の目で確かめてみたい。

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神社の裏に行くと本当に岩盤が露出していました。
まっすぐ掘られてきた水路は、これにぶつかったため、迂回させています。
この下流に開削した岩盤があるはず。

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現場に写真があるので読んでみると、文面からはこのコンクリートの下らしい。
見ることが出来なくなって残念です。


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                              (つづく)

地図 裂田神社 





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by lunabura | 2011-05-11 21:25 | 裂田神社とさくたのうなで | Trackback | Comments(4)

裂田溝と安徳台・溝の幅を測った・阿蘇山の火砕流


裂田溝と安徳台

さくたのうなで・あんとくだい
福岡県筑紫郡那珂川町山田
溝の幅を測った
え?ここまで阿蘇山の火砕流が…。

裂田溝は現在よく整備されて、町歩きのメインルートにもなっています。
今日は、現場でどうしてもしてみたかったこと、
「溝の幅を測る」にチャレンジです。

真鍋氏の本によると、「裂田溝は近東の古尺である俔尺で測られている」という
一文があって、これを確かめたかったのです。
しかし、「あっ。巻尺忘れた!」というドジから始まりました。

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裂田神社付近の水路は以前より広くなっているというので、昔に近いものと言う事で、
連れて行ってもらったのが山田地域でした。
片側は舗装道路で、反対側は石組。完全に作り変わっています。
これではちょっとターゲットにならない。
でも、くるま座さんが車から1メートルの定規を持って来てくれたので、
ちょっと測ってみるか…。

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1メートル、2メートルと測り始めたら、
「その定規は1mではないよ。」と奈東南雄さん。(ハンドルネーム)
「あれ?ホント。101センチだ。」
(何でそんな変な定規が存在するのだ…。と思いながら測り直す。)
「斜めになってるよ。」と再び奈東南雄さん。
「あは、ホント。」定規をだんだん斜めに置いていた。
「橋の端に合わせて計らないと。」
「そうですね (・.・;)」我ながらいい加減だ。と思いつつ測り直す。
「出発点はきちんとしてるの?」
「え?いいえ。そう言えば、川ってどこを測るんですか?川幅って、川底?それとも、土手の所?」
そんな基本を考えてみたこともない。

「川幅は土手の端から端を言うけど、この工法だと、川底を測ったらいい。土手が90センチくらいだから、石垣ののり面を測って、足し算をしたらいい。」
なるほどですね。といって再び測り直し。
「最後は50センチ!」
「全体でどれだけ?」
「あっ。定規を何回置き直したっけ。」
テンションが上がると足し算もままならず、5回も測り直したのでした。
それで、350センチが川底の幅で、斜めの石垣や土手を合わせたら約5mになりました。

これだけ整備されているのですから、これで古代尺と比べようと言う愚かさに
我ながらアホらしいのですが、現地に行って見ないと状況は分からなかったので、
取り敢えず、やってみたかった事をやって、満足しました。

あとでネットで調べると、昔の素掘りの跡もあったそうですが、
古代史跡としての保存はされず、消滅しています。
幅も3~5mでいろいろとあるそうです。当然ながら何回も改修されています。

で、眞鍋氏が書いている古代尺は何センチ?
裂田溝も早鞆の門も近東の古尺である俔尺(けんしゃく)1.05006メートルで設計してある。

ふうっ。細かいな…。私から見ればほとんど1メートルなのに。
眞鍋氏はそれじゃ済まないんだ。
しかも失明されてからの口述筆記ですから、暗記力も半端ではない…。

結論から言えば、現代の水路では古代の水路の幅を想像する事も出来ず、
古代尺測量実験は失敗に終わりました。

それにしても、この裂田溝を巡るコースはよく整備されていて、
田園風景の中を「さるく」(方言で「歩きまわる」という意味)のはとても心地よく、
トイレや説明板が完備されていて、一度は全体を歩きたいなと思いました。

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そして、説明板を見ていて驚きました。

9万年前の阿蘇山噴火の時に火砕流がここまで流れ込んだというのです。
阿蘇4期という有名な噴火…。
正面に見える安徳台はその火砕流で出来た丘だったとは!
阿蘇からここまでどんだけ~?さすがにぞっとする。

c0222861_1637868.jpg

(裂田溝から安徳台を見る)
約30万年前から9万年前までに大規模な噴火が4回 (Aso1-4) あった。地下から大量の火砕流や火山灰を放出したため、巨大な窪地(カルデラ)が形成された。

その中でも4回目の噴火 (Aso4) が最も大きく、火砕流は九州中央部を覆い一部は海を越え山口県にまで達し、火山灰は北海道に至る日本全土の他朝鮮半島でも確認されている。

Aso4の火山灰でできた地層を見つければ、9万年前の地層であることがはっきり分かるため、植物学、考古学など様々な研究で時代を示す指標として使われている。
(ウィキペディア)

この阿蘇の噴火は「ホピの予言」と繋がっています。
信じられないかもしれませんが、彼らは阿蘇山の噴火を伝えていたのです。
次回はちょっと寄り道して、幣立神宮(へいたてじんぐう)に託された
「ホピ族からのメッセージ」について書きたいと思います。

那珂川町 阿蘇山 





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by lunabura | 2011-05-09 16:43 | 裂田神社とさくたのうなで | Trackback | Comments(8)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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