ひもろぎ逍遥

lunabura.exblog.jp ブログトップ

タグ:嘉麻市・嘉穂郡 ( 12 ) タグの人気記事

ウチ考(5)老松神社・大己貴神と少彦名神がやって来た


ウチ考(5)
老松神社
おいまつ・福岡県嘉穂郡桂川町土師
大己貴神と少彦名神がやって来た

既に3年前に参拝した宮ですが、ようやく記事にする時が出来ました。
写真のストックを見ると、撮った枚数の少なさに唖然。
鳥居さえも撮ってない…(・.・;)
ずいぶん意識が違ってたんですね。
はじめの頃は神社の縁起や伝承の重要性に気づいていなかったのが自分でもよく分かります。

この老松神社の縁起の重要性が理解出来るのに3年の逍遥が必要だったということでしょう。
そっか~。
このブログもそろそろ3年になるんだ。

c0222861_23404085.jpg

さて、今回はいきなり境内です。
ここは飯塚市から秋月に向かって緩やかに高度を上げていく県道66号線沿いにあって、
石段も数段ある程度の高さです。

c0222861_23405786.jpg

拝殿と神殿です。(斜め…。)
主祭神は大国主神。
祭神 大物主神 事代主神 菅原神 吉祥女

境内の入口に立派な由緒書きがあります。それを読んで行きましょう。
由緒の記 (現代語訳します)
創建年代ははっきりとしない。社の記録によれば、遠く神代の昔、大己貴命・少彦名命が心を同じくして力を合わせて天下を経営された時、この西海に下って、この土師の地にしばらく滞在されたという。

のち、人皇11代・垂仁天皇の御代に、出雲の国の造・野見宿禰が埴輪を造って殉死の者の代わりとしたという功を賞して、土師臣の姓を授け、また諸国で鍛地(かち・かじち)を授ける時、当庄をもその一つに加え、宿禰に与えられた。

出雲より土師連がやって来て当庄を領有し、出雲杵築の大社に鎮座されている大国主神(大己貴命)を、神代の時にしばらく滞在されたこの地に勧請して、土師宮と称して斎き祀ったのが当社の濫觴(らんしょう・始まり)である。

その後、大物主神・事代主神を合祀したが時代ははっきりとしないという。(後略)

驚く事に、大己貴(おおなむち)命と少彦名命がこの土師の地に滞在していました。

少彦名命の名は祭神から消えていますが、前回紹介した天神社の祭神は
「スクナヒコナノミコト・オオクニヌシノミコト・菅原道真」
となっていて、距離的にも2.5キロほどしか離れていません。
どうやらこの桂川町には大己貴命の足跡が色濃く残っているようです。

福津市の渡半島の楯崎神社には「大己貴命と宗像姫の連合軍が異敵と戦った」伝承が
あった事を考え併せると、遠賀川左岸の伝承を丹念に拾って行くと
大己貴命の全体像がもう少し明らかになるかも、という予感がします。

さて次の時代になって、野見宿禰がこの地を褒賞として貰っています。
野見宿禰は殉死者の代わりに埴輪を使う事を案出した人とされています。

この宮の伝承によると、彼は「土師の姓」を与えられ、「諸国の鍛地」を与えられています。
「鍛地」についてネットで調べると「かち・かじち」という姓がありましたが、
語意は出ていませんでした。
そのまま「鍛冶地」と考えていいのでしょうか。

そうだとすると、野見宿禰は「諸国の鍛冶地」を与えられたということなので大変な褒賞です。
しかもこの土師はその一つだったというのです。
ここは鍛冶地=冶金の地だったという事になります。

野見宿禰は天穂日(あめのほひ)神の末裔で
天穂日神 → 野見宿禰 → 土師氏 → 菅原氏
という流れがあるそうです。
天穂日神は熔鉄の神だと眞鍋氏が書いています。

思い出すと、菅原道真が久留米市の袴着天満宮で、袴に着替えてまでも神を祀ったのですが、
そこの御神体石はカップ&リングという杯状穴が彫られていて、
元宮の地は隕石落下点を示す椋の木がある所でした。

出目天満宮・袴着天満宮 久留米市御井町高良山 御神体は天体石 
菅原道真は太陰・星暦を守ろうとした?
http://lunabura.exblog.jp/16161071/


太宰府に左遷された道真公ですが、
この宮の伝承によって、ようやく「熔鉄神と菅原氏」の流れが理解出来ました。

道真公が左遷されたとはいえ、県内の老松神社の多さを見て、
こちらでは歓迎されたのではないかと、おぼろげに考えていたのですが、
土師氏 ⇒ 菅原氏という流れに「熔鉄神」というキーワードが存在するのが
この宮で確認出来て、このアイデアに期待が生まれました。

祭神に道真公と吉祥女の夫妻が祀られているのもその縁なのでしょう。
この夫妻が北と南に流された悲劇を土師の人たちは知っていて、
せめてここで一緒にと祀っているのでしょう。

c0222861_23432119.jpg

さて、この宮を参拝したきっかけは
くるま座さんが「変わったものがある」と言って案内してくれた事だったのですが、
何が変わっていたのかすっかり忘れていました。
最近、機会があって尋ねると、「羊」の像があるのが珍しいとの事でした。
上がその写真です。
道真公の関連の宮は「牛像」がよく奉納されているのですが、確かに「羊像」は初めてです。

追加
c0222861_22335978.jpg


c0222861_23433957.jpg

これは境内の左の祠。御神体が丸石です。

c0222861_23435595.jpg

その遠景。
広々とした境内が清々しくて、心地よかった事を覚えています。

この宮から北に3キロほど行くとあの王塚古墳があります。
赤い壁画や副葬品の馬具のヘビーな造りを思い出します。
その被葬者を支えて土器や鉄器作りをした人たちがこの宮を祀ったのでしょうか。

c0222861_23442680.jpg
c0222861_23444440.jpg


この桂川町の丘陵という丘陵は古墳群が沢山造られています。

王塚古墳(1)福岡県嘉穂郡桂川町寿命 感動の装飾壁画を知らなかったよ
http://lunabura.exblog.jp/15066125/


王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男
http://lunabura.exblog.jp/15085334/


さて、次回はもう一つの老松神社へ。いよいよ内野です。






ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-10-10 23:49 | 老松神社(各地) | Trackback | Comments(4)

ウチ考(4)天神社・出雲神と道真公を祀る宮


ウチ考(4)
天神社
 福岡県嘉穂郡桂川町内山田
出雲神と道真公を祀る宮
 

漠然とした内野行き。
「たまきはる 内の大野に 馬並(な)めて」の場所探しだから、
広い狩場があるような地形があればいいけど、あんな山ん中にあるかなあ。
そうだ。ゴルフ場が怪しい。
もともと、ある程度は平地があったはずだ。

今回の目的地は、のらさんが教えてくれた「内野宿」。
そこに向かいながらゴルフ場の地形を見てみよう。

そう思ってルートを調べていると、以前から気になっていた
山の中の不思議な十字路を通れば行ける事が分かりました。
それは、一度も対向車に出会ったことのない山の中に忽然と現れる立派な十字路。
名前?そんなの無い。信号?それも無い。
あの十字路の先に行ける!
ワクワクして行ってみると、災害で通行止め。
それではと嘉麻市方面に下りて行って、人気のない交差点から入ろうとすると、ここもまた通行止め。
今夏の大雨の影響かな。

そう思って見上げると、交差点の地名が「内山田」。
おっと、もう「内」が出てきた。
その角には古いお宮が。「天神社」と書いてある。
寄ってみたい。

c0222861_1034520.jpg

「はい、ここですか?」
連れ合いが気を利かせて車を止めてくれました。
激しい雨も止んで、山際の神社はしっとりと潤っています。
カメラが濡れないように服の下に隠しながら参拝。

c0222861_10344786.jpg


c0222861_10351192.jpg


c0222861_10352373.jpg

人家があまりないような所に立派な拝殿が。
石の柱に彫り込まれた紋は梅。梅なら道真公だろうか。

c0222861_1035418.jpg

拝殿に上がって参拝。

c0222861_10355459.jpg

神殿のようす。

御祭神はスクナヒコナノミコト・オオクニヌシノミコト・菅原道真。

祭神は王塚古墳館で手に入れた「歩こう ふるさと桂川」(桂川町郷土史会 発行)で判明。
やはり道真公が含まれていたけど、
少彦名命と大国主命がこんな所に祀られていて、ちょっと驚き。
その縁起は分かりません。

この天神社がある桂川(けいせん)町は嘉穂(かほ)郡です。
隣の飯塚(いいづか)市とも、嘉麻(かま)市とも合併していません。

「合併」しなかったという事は、意外に大事な情報で、
地元の人に「どうして合併しなかったのですか」と尋ねると、
「いやあ、あそこは違うから。」
というニュアンスの言葉を何度か耳にしました。

それは古代からの国境(くにざかい)を現代に受け継いだもので、
古代においては、それぞれ独立したクニだったのではないかと推論しています。
これは、るな的、福岡の古代のクニの分布の探査法。

王塚古墳館で、すぐ近くの「出雲」について尋ねた時も同じニュアンスでした。
遠方の人間から見ると、同じ地域に見えるけど、
「王塚古墳を抱える桂川町」と、「内野宿や出雲を抱える飯塚市」は
古代は別の邑だったのではないかと考えてアプローチするわけです。

そして、この天神社は桂川町の奥の方に鎮座しています。
天神社はもとも出雲の二神を祀っていた所に、のちに道真公を祀ったのでしょう。
近郊にも天神社がいくつかあるのですが、その祭神は「埴安神」です。
この違いは興味深いですね。

c0222861_10362617.jpg

拝殿から境内を眺める。巨大な絵馬が沢山奉納されています。

c0222861_10364520.jpg

拝殿と神殿。

c0222861_1037486.jpg

御神木。

さて「歩こう ふるさと桂川」を読むと、この近辺には磐座が散見します。
中でも土師(はじ)の「こうご石」(皮籠石)は4~5メートルの巨岩。
列石の記事はないのですが、発音が同じで、漢字の表記が違うだけの
高良山の「神籠石」と同様、「神が籠る石」だった可能性がありますね。
この皮籠石は地元の人でも分かりにくい所にあるそうです。

さて、この日の山越えルートは二か所とも通行止めだったので、
正攻法で「出雲」から向かう事に決定。
次回はその途中にある「老松神社」(土師)に立ち寄りましょう。


ところで、「ウチ考」シリーズのカテゴリ分けに困ってしまいました。
各神社は神社のカテゴリに入れたいので、
タグの方に<ウチ考>という項目を立てて、
そちらでシリーズで見られるようにします。

この「天神社」。
読み方が確認できていないのですが、「テン神社」と考えて、
とりあえず「タ行 神社」に入れておきます。

地図 天神社









ときどき、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2012-10-08 10:42 | (タ行)神社 | Trackback | Comments(10)

王塚古墳(1)感動の装飾壁画を知らなかったよ


王塚古墳(1)
福岡県嘉穂郡桂川町寿命
感動の装飾壁画を知らなかったよ

さて、今日は王塚古墳に行きましょう。日本で一番華やかな装飾古墳です。
飯塚市の県道200号線の裏側に回り込むと、緑濃い美しい里に出ます。

c0222861_1782056.jpg

川沿いに進むと、左の方にキラキラとUFOのような丸い建物が見えてきて、
目指す王塚装飾古墳館だとすぐに分かります。
最近は、古墳周囲の景観の観察も大切な事が分かったので、
ちょっと手前から車を降りて歩いて行きました。
古墳の手前に橋があって、そこで驚きました。
上流を見ると二本の川が合流していました。
それって、風水上のイヤシロ地じゃない?期待が高まります。
橋を渡るとすぐに古墳館があって、その奥に丸い墳丘が見えてきます。
c0222861_179369.jpg

王塚古墳は前方後円墳でした。
円墳の中は完全密封保存されていて、年に2度だけ見る事が出来ます。
方墳の方には上がれるように階段が付いています。
それを上ってまた驚き。四方にぴたりと高い山が配置されているのです。
いや配置するのは不可能ですね。
聖なる山をつないで焦点となるポイントがここだという事です。
イヤシロ地です。とても気持ちがいい所です。

この古墳は珍しく平地にあります。
これまでは台地や山の斜面ばかり見たので印象的です。
この古墳を降りると、王塚装飾古墳館が待ってます。

c0222861_17101243.jpg

装飾古墳館は撮影禁止ですが、今回は撮影許可がおりました!
書類手続きを済ませていざ中へ。

c0222861_17105498.jpg

これはまたアートな入口。気分が高まります。
そして、わっ赤い!
石室が実物大で復元されていました。中に入る事が出来ます。
c0222861_17112995.jpg

これが石室の入り口です。迫力満点。落ち付いて見ると、沢山の壁画があります。
右下の岩に二頭の馬が描かれていますが、これが前々回「蕨手文」で紹介した絵です。
左側にも馬が三頭います。全体で合わせて5頭の馬が描かれています。
その周りにも蕨手がいっぱい。
門のように渡してある頭上の岩も蕨手のアレンジがいっぱいです。
なんだか興奮します。では、中に入りましょう。

c0222861_17123551.jpg

これが玄室です。正面には三角文が全面に描かれています。
色があふれています。
棚になった所が遺体のためのベッドで、左の方には石の枕があります。
二人分の広さです。その下の基台の絵を見ると蕨手文がいっぱい。
そして、手前の左右にある直方体の岩を見てください。
蕨手(ゆぎ)が大きく描かれています。

c0222861_17134398.jpg

右の壁を見てください。大きな靫が並んでいます。
まるで人が控えているように見えます。

c0222861_17143042.jpg

左の壁には盾(たて)が三段になって並んでいます。
写真を見直して気づいたのは、右は靫(ゆぎ)だけ、左は盾だけです。
これは?もしかして。
「蕨手文」の所で、文様は氏族のシンボルではないかという説を紹介しました。
ルナ的にはこの説をかなり気に入っています。
その氏族説でこの壁画の解読が出来るんじゃないかな…。
と言う事で、今回はその説を元に解読にチャレンジしてみます。

右の壁にある大きな靫は靫負(ゆげい)氏です。
左の盾より大きく描かれているので、身分が上か、被葬者に近い関係です。
左の盾族もきちんと描かれていて、数が多いので、靫族に準じた存在です。
その重々しさと統制からは、被葬者への礼節が伝わって来ます。
被葬者の家臣たちに見えて来ました。

死床の奥を見てください。小さな靫がずらりと控えています。
それは、まるで家族が亡き人を見守っているかのように見えます。
その数は5人。それに写真には見えませんが白っぽい靫
もう一つ上の方に描かれています。母と五人の子供のように見えます。

小さな靫がそばについている事から、被葬者は靫負氏の一員ではないかと思いました。
しかも、床には蕨手がある事から蕨手族の血を引いている事を示唆しています。

蕨手族については「蕨手文」の所で考察しましたが、
伽耶の王族で、倭へ渡来したのではないかと推測しました。
これを組み合わせた全体のストーリーとしては、
蕨手の王族がここの靫負氏の娘と結婚して、五人の子供を残して亡くなりました。
右壁にはその靫負氏の親族たちが被葬者を見送っています。
そして、左壁には王とともに戦ってきた武人たちが控えています。

いかがでしょうか。我ながら、なんとまあ大胆な推理だこと。

これは6世紀の古墳です。
と言う事は、前回紹介した高句麗の集安古墳と同じ時代です。
同じ時代の壁画でも、ずいぶん感じが違いますね。

                                         (つづく)


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-09-08 17:21 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(10)

王塚古墳(2)武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男


王塚古墳(2)
武人は妻と共に星の下に眠るー激動の6世紀を生き抜いた男


c0222861_23235062.jpg

これは玄室の出口です。
ここにも両脇に(ゆぎ)が整列して控えています。
靫は右壁に比べるとやや小さく、それほど威厳がありません。
(大きさで身分の差を表すのは高句麗壁画にもあります。)

門の上の横岩には三角文が描かれています。
その反対側には蕨手文が描かれていました。
玄室と前室で、意図的に図案を変えています。
良く見ると、靫の背景には三角文が多いです。蕨手文がちらりと見えています。
前室とかなりデザインが違っています。
(前室―入口側は(1)の方を見て下さい。)
靫が靫負氏(ゆげい)という氏族を示すなら、
この三角文も氏族のシンボルの可能性が出て来ました。
しかし、今のところは何を指すのか、全く分かりません。

それじゃあ、靫負氏ってどんな氏族?
ネットで検索すると
靫負―主に西日本の中小豪族の子弟から採られ、(略)6世紀半ばに大伴氏のもとに編成された。

とあります。6世紀半ばに変化があってるんですね。
九州の6世紀と言えば磐井の乱という大きな戦いがあっています。
それは、朝鮮半島の新羅や任那なども関係する大きな戦いです。
この時代は、継体天皇に味方するのか、磐井に味方するのか、
かなり難しい時代だったと思われます。靫負氏はどちらについたのか、私にはよく分かりません。
(磐井の君は『古事記の神々』にて現代語訳)

この時代の出来事を並べてみます。

527年 継体天皇は任那復興の為に出兵。磐井の君は火・豊とともに反乱して翌年敗北する。
531年 継体天皇崩御。
535年 王塚古墳の近くに穂波屯倉・嘉麻屯倉(みやけ―倉庫の事)が設置される。
538年 百済から仏教がつたわる。
5××年 このころ王塚古墳がつくられる。

この古墳の地域も磐井の敗北後に大和朝廷の支配下に置かれました。
その前後にこの被葬者は亡くなっています。
この時代背景は副葬品からも想像出来ます。なんとこの古墳は未盗掘でしたよ!

c0222861_23275285.jpg

これがその副葬品の一部です。甕はかなり硬度の高い須恵器です。
勾玉や金のイアリング。蓋のついた器。鉄の矢じりなど。
鏡も出ています。また鎧、刀、槍などが武人であった事を教えてくれます。
c0222861_23283521.jpg


そして、馬具。これは資料館のハニワ君です。
出土した馬具のレプリカが取り付けてあります。どんな馬具が出たのかよく分かります。
腹の所にあるのは杏葉(きょうよう)と言って飾りです。
鋲がびっしりと打ち込んであって、かなりハードなデザインです。
これらには金メッキが施されていました。

埋納時のようすが分かりました。
水に浸かっていたものを聞き取り調査したそうです。

c0222861_23295245.jpg

これを見ると、夫婦ふたりの為のものだと思われます。
横穴式古墳が流行ったのは、追葬出来るからだそうです。

夫婦のどちらかが先に死んでも、後には追葬されて一緒に眠るんですね。
灯明台もあるので、モガリもここでしたのかな…。
ルナ的には、残された方がこの石の扉を開けて、ここで冥福を祈ったように思われてなりません。
念入りに装飾された壁を見ると、時間をかけて描かれたのが分かります。
ここは武人の夫婦愛と家族愛・氏族の愛、家臣たちの敬意など、愛と尊厳に満ちた空間でした。

c0222861_23305519.jpg

二人の死後の世界を見守るのは星だったようです。
天井には無数の黄色の点が描かれています。
NHK「任那日本府の謎」では、
「遠賀川流域と王塚古墳の関係者は筑紫の君・磐井の同盟者だ。
王塚古墳の天井に描かれた星座は朝鮮半島の北の星座だ。」
と言っていました。
でも、星座はちょっと無理かな。星座の事をあまり知らない人が描いたみたい。
磐井の同盟者という可能性は十分にありますが、もっと証拠が欲しいなと思いました。

この壁画にはまだ他に、いろんな文様があります。
詳しく見て行くと、いろんなメッセージが読み取れそうです。

「オレがせねば、この古墳はだめになる」
西村二馬氏の言葉です。この古墳は西村氏の運動によって守られました。
炭坑の鉱脈があったために、産業か保存かという中で、人生をかけて守り抜いて
くれたお蔭で、日本人のDNAを熱くする、この貴重な芸術を見ることができます。
この方については王塚古墳のHPに記載されています。

開館時間 午前9時~午後4時30分
休館日 毎週月曜日 (月曜日が祝日の場合はその翌日)
年末年始12月28日~1月4日
入館料 大人310円 中高生150円 

2010年の古墳公開は10月16日~17日
9:30~16:00の予定だそうです。HPで確認してください。
王塚装飾古墳館

公開見学の熱きレポートはブログ「装飾古墳今昔紀行」
憧れの王塚古墳への長く苦難な道程 -カムバック伝説2 

地図 王塚古墳

(拡大できます。)

さらに詳しく調べたい方のために。

靫負をシンボルとする説の一部を抜粋しておきます。

九州におけるを描く装飾古墳の分布と、靫負大伴部(ゆげいおおともべ)の分布はかなり密接に関連しているのではないかと思います。九州には靫負大伴あるいは靫負大伴部の分布がかなり見られます。(略)ちょうど筑紫国造磐井(いわい)の本拠地であった地域に、こうした史料がみえているわけです。

それから、御井郡には靫負大伴(部)に由来するかと思われる伴太(ともだ)郷という郷名もみえていますので、磐井の内乱が終了して後、筑紫国造磐井の本拠地に靫負大伴が選ばれて大伴部を統轄したことが想定されます。

同心円文や靫を描いた装飾古墳を考えてみますと、被葬者が的臣(いくはのおみ)と同族関係を結んだ筑後川中流域の有力な武人たち、あるいは靫負大伴(部)であった事をシンボル的に、象徴的に示すために、そうした武器・武具類を描いているのではないかと推測しています。

(「古代史からみた装飾古墳」和田萃 
『装飾古墳が語るもの』所収 国立歴史民俗博物館編 吉川弘文館)

 


気が向いたら、ポチっと応援してくださいね。
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村
c0222861_15184581.gif


[PR]
by lunabura | 2010-09-07 23:53 | <古墳>手光は宮地嶽へ | Trackback | Comments(4)

馬見神社(1)うまみ・次々と開かれて行く参道は夢のようだった


馬見神社(1)
(宇麻美神社)
福岡県嘉麻市馬見
山里深き清浄の地
次々と開かれて行く参道は夢の如し


c0222861_20181429.jpg


道は馬見山の大きな山容に向かって進みます。
しかし、早春の朝霧が正面に見えるはずの馬見山を覆い隠していました。
臨場感たっぷりのアプローチです。

三月の始め。その麓にある馬見神社に行きました。
菜の花が道路の両脇に咲き誇り、高度が上がって行くと、
リンゴや梨の木々が手入れされた中を走って行きます。
穏やかなカーブを進むと、大きな石碑が迎えてくれました。
おおお。古い…。
神社の入り口からすでに年月を経たものだけが持つ寂びた美しさを見せています。

激しい勢いで山から流れて来る清らかな小川を渡って、
最初の鳥居をくぐると、藤の古木が長い年月を経た姿を見せています。
古い石橋を進むとまた鳥居。

c0222861_20185996.jpg


それを進むとさらに鳥居。

c0222861_20193718.jpg


次々に鳥居が迎えてくれては、
全く新しい情景が開かれて行きます。

c0222861_20202158.jpg


おっと、また鳥居です。両脇の桜のつぼみがふくらんでいます。

c0222861_2021358.jpg


さらに石段が続きます。正面に祠がありました。
そこからさらに直角に曲がって登って行きます。

c0222861_20215494.jpg


長いけれど、とても登りやすい石段です。
最後の急な石段を登り切ると、ようやく拝殿の前に出ました。

c0222861_20252381.jpg


境内は明るく開けていますが、山の中で、そう広くはありません。
拝殿は新しく改築されていましたが、中に入ると往時のまま。
古い姿を留めています。沢山の古い絵馬が飾られていました。

c0222861_20261083.jpg


中が結構広いです。ここは、福岡県でも、雪深い所です。
村人が力を合わせないと生きて行けないような山あいの地です。
お祭りごとに風雪を避けて、ここでお籠りがされたんだろうなと思うと、
私たちの先人達がどれほどの思いをして過酷な自然の中を生きて来たのか偲ばれて、
感慨ひとしおです。

絵馬の中には伊勢講の記念の絵馬もありました。
村中で資金を積み立てて伊勢神宮に代参してもらう風習です。
こんな山の中からでも、人々が屈強な男たちに信仰を託して、
何か月もかけて、行ってもらったのでしょう。

ここには現代に生きる私たちが失った叙情が沢山残されていました。

(つづく)
  

[PR]
by lunabura | 2010-03-29 20:29 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)

馬見神社(2)そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…。


馬見神社 (2)
福岡県旧嘉穂郡足白村大字馬見字宮小路
上宮の白馬大明神とはニニギノ命だという。
そうすると、ここは天孫降臨の山になってしまうが…。


c0222861_20351320.jpg


霧が晴れていく中を登ったせいでしょうか、しっとりとした、この空間では
五感が開かれていく感じがしました。

ここが、古代の人々が憧れた所です。それが、清浄なまま、静かにたたずんでいました。
もう一つの大事な山・英彦山の方は今でも多くの参拝者を迎えていますが、
この馬見神社はほとんど知られていないようです。

でも、エネルギーとはそのようなものかも知れません。陽があれば、陰がある。

ここは人知れずにいたお蔭で、数百年の昔そのままの姿を残しています。
それでも、営々と築かれた石段や鳥居、神殿を見れば、
氏子さんたちがどれだけ大切にしてこられたかが、良く分かります。

c0222861_2035515.jpg


忘れられた聖地が紐解かれるのかもしれない。
ここは遠賀川の源の一つです。
ここに向かって、荒穂神社―日天宮―馬見のレイラインがうっすらと見えたのは、
日天宮荒穂神社に行った時でした。
御祭神がニニギの命と、祀られていない荒穂の神。複雑な歴史を匂わせていました。

さらに下流の多賀神社に行って知ったのは、
イザナギの命が多賀の地に玉を鎮めた理由が英彦山と馬見山を控えた丘だったからという事でした。
この馬見山に向かう古代の人々の視線。それが気になって訪れました。

ここの御祭神はこれに呼応するかのように、イザナギの命ニニギノ命の名前がありましたよ。

神社入り口に手書きの由緒書きが貼られていました。
馬見神社由緒
1祭神  伊弉諾尊(イザナギのみこと)
     天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)
     木花咲哉姫命(このはなさくやひめのみこと)
      (大山津見の女(むすめ)日本一の美人神)

2 祭日   4月18日
       10月30日

3 由緒 ○上宮の創立は不詳であるが、3千年前と言われる。
       馬見山頂(987M)の頂上近く御神所(ごしんじょ)岩の
       巨岩あり、ここに鎮座。
       瓊瓊杵尊は天孫降臨の御神で、日本民族の祖。
       比類なき神徳をもって尊崇される。
       ○中古仏法隆盛の頃、約1300年前、鎮西八郎為朝現在の神社(下宮)建立。
        また神木寺も建つ。
       ○天正前後、武家政治となり、秋月藩主秋月種実公、毎年参拝せられ尊崇を集めた。
       ○黒田藩となり嘉穂郡の総社として、代々尊崇あり。
        2月、8月、5昼夜の五穀豊作の祈願祭を行う。
       ○大正12年11月24日。県社に定めらる。宮司江藤貞利氏。

       ○福岡県神社誌によれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、
        その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる。

4  境内2500坪。
   郡内最高の景勝地にあり、又馬見キャンプ村、又リンゴと梨の産地として、
   その美味は県下に知られて有名である。
                            平成8年春   縄田小観 記
        (句読点のみ追加しました)

御祭神はまず、イザナギの命でした。
それに、ニニギノ命コノハナサクヤ姫の夫婦神です。

由緒には「その祭神は分からない」と書いてありますが、すぐ続けて、ニニギノ命の
天孫降臨の話が書いてあるので、本当は、「ここはニニギノ命の降臨の地だ」と、
言いたいのではないかと考えました。

由緒については他の本にも載っていたので書いてみます。
『筑前国続風土記附録』から抜き出します。
馬見大明神社
産土神である。御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
馬見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からないという。

ここでは、御祭神に、イザナギの命の名はありません。その代りに、ホホデミの命が出て来ました。
ニニギノ命の子供です。山幸彦の名の方が有名です。

また、山頂の神は白馬大明神だと言っています。どんな神なのかは分かっていません。
二つに共通するのはニニギノ命でした。そろそろ系図なしには理解が出来ませんねえ。
(と言って、パッと出てくる。親切ですねえ。)

c0222861_2045121.gif

三つの由緒書の祭神を色分けして囲みました。
これで分かるように、共通するのはニニギノ命でした。

江戸時代のガイドブック『筑前名所図会』にも、白馬大明神について書いてあります。

馬見大明神
古宮は馬見山上にあり。
御神域という大岩の辺に石の祠あり。
今の社は山下にあり。
白馬大明神とも申して、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なり。
この神、葦毛の馬を忌むという。
この里に飼うを忌むのみならず、
他のことろから来ても、村の方で留めて置くという。

ここでははっきりとニニギノ命が白馬大明神だと書いています。

○福岡県神社誌によれば、神武天皇ご東征の時、ここに参拝せられ、
その御神馬が足が白い馬で(足白)又、馬見の地名が起こったとも言われる。

このように、神社の由緒書きには神武天皇もここに来て、
その馬の脚の色が白いので、馬見の地名が起こったと書いています。

この神社の地名が旧嘉穂郡足白村大字馬見字宮小路です。

神武天皇と馬については、馬が暴れて逃げたのを見送ったというエピソードや、
また、老人が馬を提供して、天皇を見送ったという話もあります。

これらから推測すると、全体に流れるモチーフは、
山頂にニニギノ命が白馬大明神として祀られていて、後に子孫の神武天皇が参拝された

という事のようです。
その時、馬が暴れて逃げたなどという何らかのトラブルがあったのでしょう、
その毛色の馬がタブーとなったり、地名が起こったりしたようです。

3000年前について
神社の由緒書きには始まりは3000年前の事だと書いてあります。
縄文時代になります。縄文です…。でも、もう驚かなくなりましたよ。

神武天皇は2600年前と(日本書紀から計算して)言われています。
年代については、例の如く、暦の大家の真鍋大覚氏が、訂正せずに、このまま使ってあるので、
それに倣いたいと思います。

ニニギノ命は神武天皇のご先祖ですから、3000年というのも、そう見当違いではないかとも思いました。
この辺りの神社にはこんな古い年代がどんどん出て来ますよ。

古い遺跡が出ているよ

ここからずっと下った盆地の中央に位置する飯塚市の立岩遺跡が2000年前の頃のものだそうです。
2000年前と言えば、キリストが生きていた時代です。これで、覚えやすいですよね。

鏡の完品が沢山出ていて、大変価値のある遺跡だと言う事を知りました。
(飯塚市歴史資料館は撮影禁止だったので、そのお洒落ぶりをお見せできないのが残念です。)

この馬見地区からは、その立岩遺跡よりも、もっと古い遺跡が出ているそうです。
この山の近くには早くから人々が住んでいたのですね。
3000年前という数字も、それほど無理な数字ではないと思いました。
そのころには、すでに馬見山への信仰があったという事でしょう。

ここの文化圏の氏族たちが馬見山をニニギノ命の降臨の地と考えて祀っていた
というのが伺えます。
言葉に出すのをはばかる内に、忘れ去られてしまったのでしょうか。

(つづく)
c0222861_20493421.jpg

[PR]
by lunabura | 2010-03-28 21:02 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Trackback | Comments(26)

馬見神社(3)うまみ・ホを受け継ぐ一族がいた


馬見神社(3)

系図から見えて来たこと
ホを受け継ぐ一族がいた


c0222861_1359693.jpg

このエリアには父と子が配置されている

この馬見山は英彦山とセットで捉えてお話しています。
英彦山に降臨したのが天の忍穂耳の命で、馬見山に降臨したのがニニギノ命です。
二人は、父と子です。いわゆる天孫。天皇家の祖先です。

このファミリーにはもう一つ大事な人がいます。ニニギノ命のお兄さんのニギハヤヒの命です。

ニギハヤヒの降臨地としては大和の国が有名ですが、このエリアにもまた降臨した山が伝えられていました。
ここからは、ずっとずっと下流になります。

この三柱のファミリーをそれぞれの山に配置した氏族がこの遠賀川流域にいたという事です。
彼らの神々は「」という単語でつながっていました。
それが次の系図です。

c0222861_1421888.gif

天照大御神には五人の男の子がいて、そのうちの二人にホがついています。
それから孫、ひ孫の世代はの○○という形です。漢字ではこう表記されています。
正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
天の卑能命
明命
天邇岐志国邇岐志天津日高日子の邇邇藝命
照命
須勢理命
遠理命(天津日高彦穂穂手見命)

「穂・火・番・菩」はどれもと読みます。

地名もこの辺りは波、嘉と、筑がつくものがいくつもあります。
高千も穂がつきます。
豊葦原の瑞の国。(ここは豊の国)

昔は漢字がなかったので、発音がたよりでした。
このファミリーはホの血筋である事が分かるようにネーミングしています。
彼らは、いわゆる天孫ですが、これまでの固定観念を捨てるために、この一族を
ホの一族と呼んでみたいと思います。


結婚の系図


結婚の系図を見ると、ホの一族がどうやって、他部族と融合して行ったかが見えて来ました。
次の系図はアマテラスの子供、孫、ひ孫の結婚の図です。

c0222861_1443365.gif


高木神の一族と結ぶ
ホの一族はまず高木の神の一族と婚姻関係を結びます。
この高木の一族はアンドロメダをシンボルとする人たちでした。

その事は高良大社の所に書いていますが、かれらは、歳差運動のために、
観測地点がずれてきたために、移動したのではないかと、推測しましたが、
神社誌を見ていたら、この嘉穂盆地にたくさんの高木神社が出て来ました。
すると、高木の一族はこのエリアにかつて居たのではないかと考えました。

久留米から嘉穂に来たのか、嘉穂から久留米に行ったのかは分かりませんが、
私の仮説を裏付ける可能性があります。
高木神社については英彦山とも関わるので、詳しくはそちらで検討したいと思います。
いずれにしろ、高木の神の一族の近くに、ホの一族がやってきて、
高木の王女と結婚する事で、平和裏に同族となったのではないかと考えました。

大山津見の一族と結ぶ
上の系図の第二世代を見て下さい。
ホのニニギの命は大山津見の神の王女と結婚する事で、大山津見の一族と結びつきました。

海人族の一族と結ぶ
それから、また次の世代になって、大綿津見の神の王女たち、豊玉姫や玉依姫と結婚する事で、
海人族たちと結びついて行くのが、この系図で読み取れます。

ホの一族が日本にやって来た時には、すでにいろんな国があったのでしょう。
そこで、彼らは武力を使わずに、結婚によって融合していく方法を取ったのがよく分かります。

それぞれの国には土器・武器・船・馬の飼育など、優れた文化があります。
それらは技術者たちで支えられているので、戦争ではその技術を手に入れる事が出来ません。

そこで、結んで行く事で互いの文化を交流させて行ったと考えました。
どの国とも親戚となることで、単一民族の意識が養われていったのではないでしょうか。

(つづく)

c0222861_1463825.jpg

一番保存状態のよい絵馬です。

[PR]
by lunabura | 2010-03-27 14:23 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)

馬見神社(4)うまみ・白馬大明神とは彗星のこと?・日本に隕石が落下していた

馬見神社(4)

白馬とは彗星の事かなあ
日本に隕石が落下した記事を発見

c0222861_17231715.jpg


縄文時代に馬はいたのだろうか
このあたりは、やたらに馬が出てくるよ


地名や伝承、神社に奉納された馬、など、
この遠賀川流域には馬がよく出てくるのが気になりました。

日本の馬がいつからいるのかについては、神功皇后が新羅から連れて帰ったというのが
定説だと書いた文を読んだ事ガあります。

定説は書き換えられる事になりそうだ。

ところが、新宮町町史には、仲哀天皇と神功皇后が、騎馬訓練をした場所が掲載されています。
その地名を的野(まとの)と言います。これは当然新羅に戦闘に行く前の訓練です。
ですから、神功皇后が新羅から連れて帰ったという定説とは符合しません。

同時代を記す魏志倭人伝には「日本には牛馬がいない」と書いてあるのですが、
昨年でしたか、壱岐(いき)の島の遺跡から馬が一頭まるまる出土しました。
これで、日本には古くから馬がいた事が証明されました。

(ネットを検索すると、縄文時代に馬がいた事を証明するサイトがあります。)

縄文時代から日本には馬がいたと考えてよいようです。

念のため、地元の歴史愛好家にも聞いてみると、この辺りは古来、馬の飼育が盛んだったのだそうです。

なぜこんな事を確認したかと言うと、三千年前に白馬大明神が降臨したという伝承を考える時に、
その時代の人が馬を知っていないと、話にならないからです。

古代の人たちは馬をよく知っていました。これを前提にこの先を考えていきます。

白馬大明神とはなんだろうか。

3000年前に馬見山山頂付近に降臨した神。それを白馬と人々は名付けた。
これを考えていたら、ふと、星の事も知れないと思いました。

考えている間、何度も心に蘇るシーンがあったのです。それはヘールボップ彗星です。

飛行機に乗っていた時、「彗星が見えます」とアナウンスがあって、窓から見る事が出来ました。
大阪あたりの大きな山塊の上空に白い斜めの筋が見えました。動かない白い筋の光
とても不思議な光景でした。

馬見山の上に彗星が現れたら、これを人は白馬と呼ばないだろうか。


彗星は接近しながら同じ所に夜な夜な現れます。そして、いつか消えてしまいます。
その彗星が山頂にかかったら、白馬大明神が降臨したと言うのではないだろうか。

そこで、『儺の国の星』を開くと、流れ星を白馬に例えた記事が載っていました。
日本に隕石が落下した記事でした。

隕石の古語は「かたいし」でありました。「かた」とは「かかち」の略で、星の事であります。
昔、大隕石が落下して破片を地上に散らせたところを「かたかす」と呼びます。
博多の堅粕(かたかす)もその地であったらしく、推定2663年前の隕石が地下から発見されております。

「九州治乱記 巻7 
1465年9月13日夜
明月だといって、老若月を眺めていると、
西の空に大きな星が流れて、東の空に飛んで行き、
落ちた音はもう、雷のようで、
これを見聞きした者はみな地に倒れて気を失った。
近年は(隕石の落下が)続いていて、
こんな天災は古今聞いた事がないと、人々は話していた。」
(綾杉が現代語訳しました。)


これは九州島の近くに墜落した大流星の記述であります。
隕石口は「かさをり」と呼びます。奄美笠里(かさり)がこれであります。

流星が落下する時のすさまじい閃光と轟音と風圧を、
昔の人は千頭の白馬が疾駆するさまにたとえました。
奄美の伝説は、その時、天から白馬がおり、
一瞬にして天地が燃えたと語りますが、今も焼け焦げた根株が残り、
その場所は、5メートルも海の底に沈んでいると聞きますから、
今から500年昔の実話であったとききます。


中国での、彗星の記事も載っていました。
紀元前2279年、紀元前1098年と、彗星の記録が紹介されています。
彗星を鳳凰に例えていたそうです。

日本でも、11世紀に、記録がありました。(漢字がよく読めないので省略します)

昔は彗星の尾がかかる山を観と定めて、ここに天神地祇を祭った。
その観のあるところが国府であり、日振(こふれ)の略だった。

やはり、彗星が現れて、山に尾がかかると、ここに天地の神々を祀っています。
(観と国府については、よく分かりません。)

『儺の国の星』には、計算法が詳しく書いてあります。
天子のみが暦を支配できるのですが、この記録は天子というより太子の仕事だったそうです。

これらを踏まえると、やはり、馬見山に降臨した白馬とは、彗星か、流れ星ではないかと思いました。

c0222861_17223066.jpg


ニニギノ命がいた時代に彗星が現れたのが伝承となったのでしょうか。

いずれにしろ、ここに天孫を祀った氏族がいたのは、間違いありません。
それが誰なのか。意外にも他の神社の記録に見つける事ができました。
現地に行ったら、紹介したいと思います。

と言う事で、それまで、別のところを逍遥しましょ。

追記
その答えが日若神社で分かりました。
右のカテゴリからどうぞ。
 
[PR]
by lunabura | 2010-03-26 17:31 | 馬見神社・うまみ・嘉麻市 | Trackback | Comments(4)

荒穂神社(1)荒穂神社なのに、荒穂の神が祀ってない不思議

荒穂神社
福岡県嘉麻市大隈町牛隈

荒穂神社なのに、荒穂の神が祀ってない不思議。

荒穂神社に行ってみました。
嘉麻市を走る211号線と443号線の交差する所が牛隈交差点。
そこから北に入る路地の中に丘があります。

c0222861_20572392.jpg

神社はその丘の上に建っていました。住宅が近くまで迫っています。
石段を上がると周りが明るい境内でした。普通の氏神さまの雰囲気です。

c0222861_20581028.jpg

本殿の左右に小さな鳥居の摂社が控えていて、それが素朴で、とてもいい雰囲気です。
下の写真は左側の摂社です。鳥居の字は上手く読めませんでした。

c0222861_2181421.jpg


御祭神はどなたでしょうか?
『福岡県神社誌』から御祭神を調べました。
祭神 ニニギノ命 由緒 不明
境内神社 須賀神社、貴船神社、恵比須神社

御祭神はニニギノ命でした。由緒は分からなくなっています。

もう一つ、『筑前国続風土記附録』という古文書に書いてありました。(現代語訳します。)
荒穂社 牛隈村
産土神である。
祭神は三座。ニニギノ尊・別雷神・手力雄命である。
いつの頃からか、馬見(うまみ)大明神を勧請するという。
だから、昔は馬見神社という名前だったか。
明和4年。村民らが石の鳥居を建立した時に、荒穂神社と改名したという。

一純(著者)が思うのですが、
「荒穂の神は五十猛命(いたける)です。ニニギノ命を荒穂明神というのは間違いです。
この事は御笠郡武蔵村の所で西峰老人の説を引用しました。荒穂と改めたのは納得できません。」

これは江戸時代の本です。
二つの説を比較すると、ニニギノ命だけが共通のようです。

由来については、後者に馬見大明神を勧請していると書いてあります。

これで、荒穂神社の元宮は馬見神社だという事が分かりました。
それなら、馬見神社と名前がついてもいいはずなのに、荒穂神社になっています。
この矛盾を江戸時代の著者である加藤一純さんが問題にしています。
「荒穂神社なら荒穂の神が祀られているはずだ。」と。

なるほどですね。そう言えばそうです。名前と御祭神がバラバラのようです。

という事で、今日は荒穂神社に何故荒穂の神が祀られていないかをリサーチしましょ。

ところで、荒穂の神って誰でしょうか?
上の本には
「荒穂の神とは五十猛神(いたけるのかみ)」だと書いてあります。

それじゃあ、荒穂の神(五十猛神)ってどんな神さま?
調べてみました。
スサノオの命の子。
父スサノオの命とともに、高天原より天降るとき、大量の樹木の種子を持ってきた。
いったんは新羅の国に降り、ソシモリというところに住んだが、やがて日本に来た。
持参した種子は新羅の国には播かず、すべてそのまま日本に持ち込み、
全国余すところなく播いた。
『日本の神様を知る事典』より

と言う事でした。
五十猛神って植林の神様なんですね。しかも出雲系です。
なるほどそうすると一純さんが言うように、荒穂神社なら、五十猛神が祀られているはずなのに、
ニニギノ命が御祭神なので、確かに変です。
それなら、もっとルーツへ遡ってみましょう。
勧請元の馬見神社はどうなってるのでしょうか。
同じ古文書から拾い出しました。
馬見大明神社
産土神である。
御祭神は天津彦ホホデミの尊・ニニギノ命であって、賀茂大明神・荒穂大明神をも相伝に祭っている。
馬見山が東にそびえ、渓水が西に流れて、人里離れて潔浄の宮所である。

馬見山の山上に社があって、白馬山大明神ともいう。どんな神を祀っているか分からないという。

元宮にはニニギノ命が祀られてました。
それと、問題の荒穂大明神の名前も出て来ました。

これらの宮では出雲系も、天孫系もゴチャマゼになっているので、
2000年もの間になんらかの歴史的なドラマがあったんでしょうね。

そこで、推理です。この荒穂神社の御祭神について。
ここには五十猛(いたける)神がもともと祀られていた。
が、元宮の馬見山の祭神が何らかの事情でニニギノ命になった。
そのために、枝社の荒穂神社も御祭神はニニギノ命だと言われるようになった。
名前も変わってしまった。
それでも、地元の人々は「ここは荒穂神社だ。」と宣言するために、
江戸時代に石の鳥居に荒穂神社と彫って、その名を復活させた。

と考えました。

日天宮との関係は?
全体としては馬見山と日天宮は巨石時代にレイラインがあって、
後の時代に、それを祀る神社がそれぞれに出来た印象を受けました。

馬見山(巨石の盤座) ―(レイライン)― 日天宮(巨石の盤座)
↓                 ↓
馬見神社     勧請⇒       荒穂神社

鳥居からは、元宮の馬見山が見えましたよ。
ただ、正面ではなく、少し左にぶれていました。

それにしてもニニギノ命か…。
ちょっと気になる事があります。

ニニギノ命って、天孫降臨で有名な神ですが、
ホントは父親の天の忍穂耳(おしほみみ)の命が降臨する予定だったんですよね。
天の忍穂耳の命の所で紹介してます。)

その天の忍穂耳の命が、すぐ近くの英彦山に降臨したと言い伝えられているんです。

ニニギノ命の降臨の地は宮崎か福岡かで論争があっていますが、
不思議にこの天の忍穂耳の命の降臨の地を争ったのは見た事がありません。

(どだい、天の忍穂耳の命が降臨したとは誰も思わなかった?
だって、古事記などに書いてないんですもん。彼は息子を先に行かせて、
後からいつのまにか降臨したのかな。)

いずれにしろ、親子で近所の山頂に祀られてるって、なんだか、この辺には
この天孫降臨の神話を持つ氏族が来ていたなって感じですよね。
そして、どこからでも見える高い山の頂上に、自分たちの信奉する神々を
それぞれに配置した感じがして来ました。

実はこの遠賀川水系の山には、他にも降臨した神々がいます。
有名な宗像三女神です。ここは神話の神々が降臨した山がいくつかあるので、
要チェックの水系です。

c0222861_2162822.jpg

神社の石段で蝶々が死んでいました。その横には木の実が…。
命終えたものと、命を蓄えたものと。象徴的な光景でした。
何か心通わせているような姿でした。  

地図 馬見山 馬見神社 荒穂神社 英彦山



[PR]
by lunabura | 2010-02-23 21:41 | 神社(ア) | Trackback | Comments(2)

日天宮(1)三つの天体を祀る宮


日天宮(1)
福岡県嘉麻市嘉穂町牛隈

太陽と月と星を祀る宮

UFO騒動まであったって?
それなら行くしかないでしょ。

星岩宮と月読宮


電話でくるま座さんが教えてくれました。
「太陽と月と星を祀る珍しいお宮がありますよ。」
「ええっ?星もですか。それは珍しいですねえ。」
天体の三つとも祀る神社はまだ聞いた事がありません。

くるま座さんは福岡県の春日市JR春日駅近くで
玄米定食など、自然食を出す店を経営しています。
そして、裏の顔は古代祭祀線地震雲の研究家です。

ルナとくるま座さんとが顔を合わせると、何をしてるかというと、
国土地理院の地図を貼り合わせた、1メートルほどの地図を広げて、
あちこちに引いた線を見ては、どうだこうだと話してます。

二人とも、天体と山と、神社の関係が知りたくて仕方がないのです。
日本に残されている巨石文化を調べています。

さて、そのくるま座さんが送って来てくれた新聞のコピー。
タイトルは日天宮
読んでいて、あれ?これと同じ切り抜きを私も持ってる…。
十年以上も前の新聞記事ですが、やっぱり気になる所は同じでした。
二人が同じ記事を大切に持ってたなんてねえ…。

その新聞記事のさわりだけでもざっと紹介しましょう。

日天宮 『太陽、月、星を祭る神社』
「なぞめく天体信仰」太陽、月、星。いわば三点セットを祀った珍しい神社が嘉穂町にある。
「日天宮」という。
その由来は「農作物の豊作、凶作を左右する天体を神としてあがめた」という見方があるが、
地元住民もその起源は分からず、伝説、伝承もほとんどない。

同町にはもう一つ、「北斗宮」という、文字通り星を祭り、星占いをする神社が存在する。

かつてこの町では「UFO騒ぎ」があったと聞けば、何やら静かな農村もどこか、宇宙的な信仰の広がりを伴ってなぞめいてくる。



そんな嘉穂町で「UFO騒動」が起きたのは1975年秋のことだった。場所は甘木市との境界にまたがる八丁峠。
「空をジグザグに動くなぞの物体が見える」
うわさを聞きつけた人たちが各地から集まり、たちまち露店がでるほどの大騒ぎとなったという。

「もともと、この土地は宇宙との交流があった場所だから、天体信仰があってもいいじゃないですか」とは、
地元の一人。なるほど、ここはUFO伝説にふさわしい町なのかもしれない。
(1999年9月西日本新聞)
さて、この新聞記事を見て、一人で日天宮を探しに行ったくるま座さんですが、簡単には見つからなかったそうです。
記事を書いた記者に尋ねても、うまく説明できないとのこと。
数回探して、見つけ出したそうです。

碓井町の道の駅で待ち合わせて行ってみました。

福岡県嘉麻市牛隈の県道211号線のコンビニから脇道に入ったのですが、
その先のルートの説明が出来ません。(なんと、道がない!)

話によると、神社への道は産業廃棄物の会社が買い取ったために、参道が無くなったとか。
一般の民家の庭を通るしか、ルートがないようになりました。
挨拶をして通らせてもらって、車で坂を登り切ると、開けた丘陵地帯にでました。

そこは、流木や倉庫などが山積みで、本当に廃棄物処理場の中です。
トラックのつけた道があるのみ。
「あれ、変わったなあ。こっちかな。」
くるま座さんの勘頼りで、草むらの中の神社への入口に辿りつきました。

小さな石柱があって、日天宮と分かりました。

イノシシの足跡がくっきりと残る山道を歩くと、星岩宮と書いた立札がありました。
緑のもみじの向こうに、磐座(いわくら)がありました。
手前には小さな祠があります。
岩には直径50センチほどの丸が浮き彫りしてありました。

c0222861_1538462.jpg

この岩の後ろにも二つほど岩があって、ためつ、すがめつしていると、
「ここは序の口ですよ。この先、もっとすごいですから。」
と、促されて、奥へと進みました。

次の磐座は少し大きめ。月読宮と立札が立っています。
ここにも、祠がありました。

c0222861_15413678.jpg

岩の側面にいくつかの穴があります。
近寄って見ると、それは人工というより、海岸で自然に出来たような形状です。
ここは山の中です。
「なんだか、海から運んだ岩みたい。」
そんな話をしながら裏の方に登って見ると、垂直に切り出したような岩もあります。

c0222861_15424736.jpg

岩の配置に法則性は全く感じられません。

ここも、ほどほどにして、さらに奥へと進みました。自然歩道を歩くような参道です。

まもなくして、奥深くに石の鳥居が見えました。見て下さい。この鳥居のたたずまい。
いかにも古いお宮の風情です。

c0222861_15441351.jpg


ひっそりと、誰にも知られずに。しかも、知る人ぞ知る。

手すりがあることから、こんな人里離れていても、地元では大切にされているのがよく分かります。
鳥居から先は急坂になっています。廻りは原生林。
腐葉土がとてもいい雰囲気です。

(つづく)




[PR]
by lunabura | 2010-02-12 16:01 | 日天宮・にちてん・嘉麻市 | Trackback | Comments(0)
line

綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


by lunabura
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31