ひもろぎ逍遥

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たはれ島と住吉神社・清少納言の父は肥前に赴任していた


たはれ島と住吉神社
清少納言の父は肥前に赴任していた
伊勢物語や枕草子に出て来る島

馬門から船に乗せられた阿蘇ピンク石は川をここまで下ったのでしょうか。
次に訪れたのは住吉神社でした。距離は約2キロです。

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かつては岬か島のような地形に近づいてワクワク。
その突端に立つと、面白い島がありました。

風流島と書いて「たはれしま」と読みます。
なんとも風情のある岩島です。
ここは住吉自然公園。

この島が伊勢物語や枕草子で取り上げられているそうです。
掲示板を写しましょう。

枕草子を書いた清少納言の父親・清原元輔は肥後国司として派遣されております。
島の大きさは東西65メートル、南北約40メートルで、高さは9.4メートルです。頂上には高さ1.3メートルの小さな鳥居が建っております。

平安時代につくられた伊勢物語の枕詞として「たはれ島」が使われています。
男女の色恋に関する話に用いられたもので、女の返しことばの中に「たはれ島」が出ています。

昔、男、筑紫まで行きたりけるに、
「これは色好むといふすきもの」とすだれの内なる人(女)の言ひけるを聞きて、
男、返し、
     染川を わたらむ人の いかでかは
     色になるてふ ことのなからん
女、返し、
     名にしおはば あだにぞあるべき たはれ島
     浪の濡れ衣 着るといふなり

へえ。伊勢物語のマメ男も筑紫に来たんだ。
なんてこったい。ちっとも知らなんだ。

彼は筑紫でも色好みで有名だったんですね。恋多き中将。

簾の外から口説いてきた男があの有名な方と知って、女は
「あなたは色好みで有名なあの方ね」と言ったので、男は
「染川という名前の川を渡る人は どうして色(恋)に染まらないでいられましょうか。
私も、あなたにすっかり恋してしまった」と詠んだ。

女は返した。
「まあ、(恋多い女と浮き名が立って)たはれ島のように有名だって言われても、それは嘘よ。
『たはれ島』に立つと波が寄せて濡れてしまって濡れ衣になるという「濡れ衣」よ、そんな噂。」

例のごとくハチャメチャのるな的口語訳でした。

たはれ島はあまりに小さくて、波が寄せると濡れてしまうっていう感じなんでしょうね。
でも、全国規模で有名だったらしい。
この島は平安時代からあまり浸食されていないらしく、
この面白い形はさほど変化ないのでしょう。
鳥居の高さが1.3mなんで、島が却って大きく見えるという錯覚を生み出していました。

清少納言は父親に付いてきたのかなあ。
土佐日記の紀貫之は、留守の間の家の世話を隣人に頼んだりしているので、
昔は単身赴任だったとは思われず、
清原元輔も一家を連れての赴任かも知れませんね。
そうすると、清少納言も付いて行ったということになります。
枕草紙の話題のジャンルの広さは、こういう旅から来てるのかも。



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さあ、鳥居と石段があれば行かずにはいられない。

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しばらく上るとフラットな場所に出て、海が見渡せました。
灯台があったらしいです。
るなの目はあれ?磐座のありそうな石組に釘付け…。

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お。
磐だ。左はいくつもの巨岩が。

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石段を登り切ると神門。
これは古い。

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頂上部はフラットで思ったより広い境内になっていました。
御祭神は住吉三神と神功皇后です。

延久3年(1221年)に肥後国司菊地隆公が西国鎮護、海上安全の守護神として天皇の勅許を得て、摂津大阪の住吉大社の御分霊を親奉し、海路を経て、当時海上の孤島であったこの小島に奉斎したといわれる。
ということです。

意外に歴史が新しいです。
ここにはもともと磐座があって、古代祭祀場があったんでは?
それを整地して神社を建てたのではと想像は膨らむのでした。

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これがかつては島だったんですね。

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それに向き合うように「たはれ島」がありました。
海の向こうに山がうっすらと見えます。
右の方は金峰山です。
あそこにも磐座が沢山あるんですよね。
懐かしいなあ。
また、巨石巡りをしたくなっちゃった。

たはれ島




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by lunabura | 2013-06-29 21:42 | (サ行)神社 | Trackback | Comments(0)

馬門 阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました


馬門
まかど
阿蘇ピンク石が切り出された所に行って来ました

久しぶりに天草トレッキングの報告の続きです。

行ったのが昨年の秋 \(◎o◎)/!
すっかり記憶が薄れています。
でもずっと心に残っていた所でした。

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大歳神社を後にして、山の方に向かって歩いて行きました。
斜度は緩やかで、登っているという感覚はありませんでした。

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そして、人家が途絶え始め、最後の人家が…。
とてもとても大きな屋敷です。
しかし、荒廃し始めていました。
こんな山の中にこれほどの大きな屋敷があったのですから、よほど栄えた場所だったのでしょう。
そこから右に曲がり一車線の舗装道路を進むと並行して川が流れています。

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そして、まもなく岩が散乱しているような場所が見え始めました。
ピンク?

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阿蘇ピンク石の石切り場です。
思ったより近い所にありました。

名前通り、石がピンク色です。

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乾燥の具合によって、色が違っています。

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丸く加工された石。これは現代アート。

ここで石棺がある程度加工されて、近畿に運ばれて行ったそうです。
何せ古墳時代です。
この石を知っていたことも驚きだし、
あんな遠くまで運んでも、この石の中に眠りたかった情熱に驚かされます。

美しいものを求める欲望と、それに応えようとする人々の
不可思議な連携のようなものに思いは巡らされ、
それが文化を創りだす原動力になったという人間力のたくましさに
感動さえ覚えます。

いったいどうやって運ばれたのか、
平成の人々の心をも動かして実験考古学がなされました。

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当時の運搬器具の修羅で運んだそうです。


私の頭の中は、この道をどうやって運んだのだろうという事でいっぱい。


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これは大歳神社へ戻る道。
唯一の緩やかな登りの場所です。左側には川が流れています。
考えたら、川の中を引いて行った方が合理的かもと思ったりしました。

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歩いて戻ってくると、再び大歳神社のピンクの鳥居が見えて来ました。
ここまでの距離を地図で見てみると500mほど。意外に近いですね。
そして、大歳神社で最後の祈りをして、


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広い川に出て、海へと漕ぎだしたのでしょう。
長崎の西海岸を通って、玄界灘、関門海峡を通り、
瀬戸内海を越えてはるばると運ばれたピンクの石棺。

どれほどの愛着がこれにあったのか。
古代の王たちの思いは測り知れません。

「ひもろぎさん、さっきの所に牧神社があったのに。」
「え?牧?」
「ここには牧があったのですよ。」
そんなあ。
まさか、あの石切り場の奥に神社があったなんて。
あの地形で?
知ってたら絶対行ったのに。(くすん)

そうか。馬に引かせれば意外に簡単だな。

聞くところによると、ピンクの石を産する所は数ヵ所あるそうです。
ここは今も変わらず地形が残っているので素晴らしいですね。

さて、当地から運ばれた石棺が出土している現地のようすは

ちょっと考古学
熊本から琵琶湖まで運ばれた石棺
http://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/14054787.html

の写真で見る事ができます。
副葬品として、金糸が出たもの、冠が出たものなどがあって、
やはりかなりの身分の人たちのようですね。

羨道の傾斜などは、九州の形式だそうですが、如何でしょうか。
そうだとすると技術者も行ったことになります。
あまり古墳の中に入っていないから、一メートルも傾斜のある古墳って
どこにあるかなあと思ったりします。
熊本の方の事情は

装飾古墳今昔紀行
http://blog.livedoor.jp/warabite/tag/阿蘇ピンク石

が詳しいです。
何?牧神社はピンク石で出来てたって?
そんなあ。
もう再訪する元気はないよ…。


地図 馬門

写真でも、ご覧ください。

天草トレッキングの過去記事は下のタグの ♯天草トレッキングからどうぞ。



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by lunabura | 2013-06-27 20:45 | ピンクの石棺と馬門 | Trackback | Comments(7)

大歳神社 豊玉姫幻想


大歳神社

豊玉姫幻想

熊本県宇土市網津町馬門(まかど)


初めての宇土半島の旅。
海が左に見えたり、右に見えたりして
どこをどう走っているのか、方角が分からなくなりました。

車が橋を渡った時、川下が何となく海に繋がる陽光を帯びていて、
海に近い所に出て来たのが分かりました。
降り立つと、人の営みのある山里の光景。
いよいよ阿蘇ピンク石の採掘現場へ向かいます。

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道は舗装されて緩やかな登りになっていました。
そして、右側の巨木に目を奪われました。

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「歳の神のクス」と言って、幹まわりが14メートルもあるそうです。

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反対側に廻り込むと、その長寿ぶりに驚かされます。
中は空洞になっていて、これまで逍遥した
神功皇后関連の宮にある古いクスノキを思い出しました。

宇美八幡宮でも、忌宮神社でも。
風浪宮でも、松峡八幡宮でも、
千年以上たったクスノキは、こうして洞になっていました。

九州の古き宮々とクスノキが切っても切り離せないのは、
それが船の建材になるからです。

真鍋大覚は、
クスノキが空洞になりやすい性質を利用して古代の人は船にしたと言います。
だから、クスノキは海人族たちにとって聖地のしるしではないかと
考えるようになりました。

まさか、ここでクスノキに会えるとは。
クスノキを見ると胸キュンなのです。

今、この写真を見ると
右の枝の穴が亀の目のように見えて来ましたよ。

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一の鳥居に廻り込みました。石の鳥居がピンクです。

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ほら、これが馬門の阿蘇ピンク石。
棺だけでなく、聖なる鳥居にも用いられていました。

9万年前の阿蘇山の火砕流で出来た石らしいです。
その火砕流は福岡県の那珂川町にまでも届き、
安徳台という台地をも作ったのを思い出します。

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扁額には大歳神社と書かれています。
額が装飾されていて、珍しいです。

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拝殿と境内です。境内の奥がぐっと下がっているのが、
古代の海岸線だと思われます。

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そして神祠です。

祭神は古川清久氏の調査によると、
「祭神は大歳神とされ農業神のようですが、併せて石作神豊玉姫が祭られています。」
ということです。

さらに、
「この馬門の大歳神社は住吉神社の宮司が兼務されておられますが、
お話によると『異形のお楠が祭神だったのではないか』との事でした。」
とありました。

有明海・諫早湾干拓リポート 「馬門」
http://ambiente.la.coocan.jp/ss0242/03/03_01/ss0242_3_01.htm


あのクスノキが御神体の時代があったのかも知れません。
そして人々の生業の変化とともに、祭神の変遷もあったのでしょう。
石作神はピンク石を切り出す人々の神。

当然ながら大歳神も祀っているのでしょうが、
大歳神を調べても、よく分かりませんでした。

るな的には
大歳神の兄弟神がウカノミタマと聞いて、
これは「隕石と暦」のシンボルだと思ったのですが。

ウカノミタマは稲荷神社に祭られますが、
お稲荷さんは「玉」と「巻物」を口にくわえています。
これが、「隕鉄」と「暦」のシンボルです。
そうすると、物部氏のシンボルともなります。

大歳神が「暦」の神だとすると、農業の神に発展して行きます。

古川氏の論文では、
大歳神をニギハヤヒとして論を進めてありました。
これでも、やはり物部氏の神となります。

もう一柱の神は豊玉姫です。

あれ?

ニギハヤヒ豊玉姫

またシンクロニシティだ。

今、志式神社の手直しをしているのですが、
その祭神の中に火明神(ニギハヤヒ)と豊玉姫が祀られているのです。

この宮の神々は「荒ぶる神」として祀られています。
それを神功皇后が神楽で御慰めしました。
七日七晩も。

そして一つの謎が生まれました。
それは、神功皇后が安曇磯良を説得するために
志賀海神社でも舞っているのです。
どっちが本当だろうか。
それとも両方で舞ったのか。

志賀海神社は現在の場所ではありません。
当時は志賀島の北端にありました。
勝馬海水浴場で知られる浜の右側です。
大戸小戸と言われ、神遊瀬と呼ばれ、イザナギ神が禊をしたと伝える浜です。

舞の話が二か所でどうして伝わっているのだろうか。
その謎にぶち当たっていました。

そこで、こうして気分を変えて馬門の大歳神社の記事を書き始めて、
「ニギハヤヒと豊玉姫」という共通の神が祀られていることを知ったのです。
この共時性に思いを巡らすうちに、自分なりの答えが出ました。

豊玉姫。
天上にあっては、北極星のない時代に、妹の玉依姫と共に
ポラリスとツバーンとして、海人族たちの守護神となっていました。

地上に在っては干珠満珠として、息長足姫(神功皇后)を援けました。

海の神の秘宝、干珠と満珠。それが豊玉姫と玉依姫。

豊玉姫は海神の娘。
哀しき姫神。
子供を生んで海神の宮に戻らねばならなかった。
祭りの日だけ亀となり、鮭となって子に会いに行く事が許された女神。

そしてその哀しみを受け継ぐ安曇磯良。

安曇磯良は白い布で顔を覆って出て来る神。
醜さを隠していると言われていたが、それは偽りで
本当はシリウスのまばゆい輝きを象徴した姿だった。

海の民は夜空の星々こそ我らを導く神々だと敬愛した。

神功皇后は安曇族の援助が無くては玄界灘を渡れない。
なかなか姿を現さない安曇磯良について、
私は皇后軍の戦いに興味が無かったのだろうと思っていたが、
そうではなかった。

荒ぶる神となったニギハヤヒと豊玉姫の事情を深く知っていたのだ。
その原因は神功皇后の祖先によるものだった。

だから志賀海神社の元宮まで出掛けて行った皇后の依頼を
おいそれと受け入れられなかったのだ。

しかし奈多の浜で七日七晩、荒ぶる神々に奉仕する皇后を見て、
ようやく磯良の心が融解した。
あの静かな渚で心を込めて奏でられた楽曲は波を越えて、
どこまでも鳴り響いただろう。
音楽の好きな安曇磯良はついに心を開いた。

そんな答えが生まれました。

新羅からの帰路に、磯良の船は十域別王(ときわけおう)たちを送って
西海を通って行ったと推論しています。

その航路をさらに南下するとこの馬門に着くのです。

ここから積み出された石棺を近畿に届ける船乗りに安曇族が加わっていた事でしょう。
瀬戸内海は住吉族たちの庭。
この二つの海人族はあの神功皇后の新羅戦の時に、
深く結ばれていたのでした。

しかし板底一枚。その下は地獄。
男たちは何としてもやり遂げて、生還しなくてはならなかった。

そんな船乗りたちは、この古代の湊で祈ったのでしょう。
われらが守護神 豊玉姫 守り給えと。

馬門



前回
王たちのピンクの石棺と古代船・海王 熊本県 宇土マリーナ
http://lunabura.exblog.jp/18822763





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by lunabura | 2013-02-11 00:27 | 神社(オ) | Trackback | Comments(0)

王たちのピンクの石棺と古代船・海王


王たちのピンクの石棺と古代船・海王

熊本県 宇土マリーナ

まだまだ時間が採れずにいますが、記事も書きたいよ!
と言う事で、天草北部の古代の旅の続きです。

この旅のメインイベントは近畿の王たちの憧れの
ピンク色の棺の採掘現場・馬門(まかど)への旅です。
今回はその搬出港に置かれていた、復元された古代船と石棺とのご対面です。

『大王のひつぎ海をゆく―謎に挑んだ古代船』という本をサイドバーで紹介していますが、
近畿地方に出土するピンク色の石棺がなんと熊本県でしか採れない石だという事で、
どうやって運んだのか実験が行われました。
1000キロの海を船で運ぶのですが、この宇土マリーナが実験船の搬出港だそうです。

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いかにも南国という印象のマリーナの一角に石棺と船が置かれていました。

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雨で汚れているようですが、ピンクが全体に残っています。

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近づいて見ました。削ったらピンク色が出て来そうです。
この後、採掘場に行きますが、本当にきれいなピンクなんですよ。

なんでこんな遠くの石が近畿まで運ばれたんだ、という謎を解き明かそうと、
実際に石棺が作られて古代船が造られました。

現場の説明板を書き写します。
実験航海
およそ1500年前、熊本県の宇土半島で造られた石棺が「大王のひつぎ」として畿内に運ばれました。どのような方法で重い石の棺が、有明海から大阪湾まで波濤を超えて運ばれたのか。

その謎に挑み、2005年夏、「大王のひつぎ実験航海」が行われました。復元した古代船は伴走の現代船の支援を受けながら34日間、22の寄港地をつないで有明海、東シナ海、玄界灘、瀬戸内海、播磨灘、大阪湾の1006kmの海路をたどりました。
大王のひつぎ実験航海実行委員会

これについて書かれた本に出会ったのは、図書館ですが、
ちょうど、香椎宮で崩御された仲哀天皇を竹内宿禰が下関市の豊浦宮まで
搬送する話が日本書紀に書かれていて、日付まで書かれていたのを見て、
疑問に思っていた時でした。

本に描かれた寄港地を辿ってみて、
香椎宮~豊浦宮の間が実際にその日数で航海できるのを知って、
日本書紀に真剣に向き合う気持ちが生まれました。

本の中で印象深かったのは、航海の旅程を組む時に停泊港を探すと、
ちょうどぴったりの所に必ず港があったという内容の一文でした。
ここからだと、22の港があって、一日漕げばちゃんと陸地に着岸出来たと言う訳です。

それぞれの海の条件を知り尽くした海人族や水軍たちのネットワークが
古代に既に成立していたんだと思うとワクワクします。

マリーナには古代船も展示してありましたよ。

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船底を見て下さい。丸木船が基本で、その上に波よけの舷側板が立っています。
これを準構造船というそうです。
「準構造船」とは良く聞く言葉ですが、現物を見てようやく理解出来ました。

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上から見られるようになっています。
オールとかその大きさに驚き。
二人乗りのボートか大きなフェリーしか知らないので、
この大きさは妙に人間臭くて、身に迫ってくるものがあります。

ロープがあります。
古代にロープがあったんだろうかと考えたりしますが、
ヨーロッパ辺りで、新石器時代(日本では縄文時代)だったでしょうか、
紀元前のロープが発見されたのを読んだことがあります。
写真で見る限り、現代と同じ編み方でした。
(場所も時代もきちんと覚えてなくて済まんです。)

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右にある臼の形をした大きな飾りは伊都国歴史博物館で現物を見たぞ。
調べると、「石見型木製品」(いわみがた)と言うもので、
糸島の釜塚古墳の周溝から出土したと書いてあります。
他には畿内と韓国月桂洞1古墳で出土。ふむふむ。

この船の材料はベイマツ。
それが書いてある説明文を読んでみましょう。

古代船「海王」
わが国では縄文から中世にいたるまで、自然の木を船形にくりぬいた丸木船が主流だったとされていますが、弥生時代以降、玄界灘をわたるような「新しい船」が登場します。

丸木船を船底として、両舷に波よけの舷側板を立てた準構造船です。
「海王」は五世紀後半の古墳出土の船型埴輪をモデルに出土船材の大きさや
当時の造船技術推定により設計・建造されました。

構造:樹齢500年のベイマツの原木を接合した木造準構造船
規模:長11.9m 最大幅2.05m 自重5トン
航行:舷側支点櫂18本による糟行、速度4~5ノット、乗組可能要員30人
基本設計:松木哲神戸商船大学名誉教授
建造:藤田造船所(福岡・志賀島)

そうか、「海王」は古墳の埴輪がモデルなんだ。

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これは当時の写真です。

どうして古墳時代には帆を使わなくなったんだろう。
神功皇后の時代は帆柱を使って帆を布で作ったという伝承が各地にある。
ところがずっと後の時代、遣唐船は帆を竹で編んだりしたもんだから、
バランスが悪くて遭難しやすかった。

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レッドクリフでは帆船が主体だ。
この映画は時代考証が間違っているのだろうか。
西暦208年という時代だ。
倭国からはいくつもの国が使者を送っていた。

彼らは帆船の技術を知らなかったのだろうか。
手漕ぎで玄界灘を渡ったのだろうか。
徐福たちも手漕ぎ船でやって来たのだろうか。

最近の私は通説の古代像に「?」ばかりになってしまった (+_+)



地図 宇土アリーナ
熊本県宇土市下網田町3084−5






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by lunabura | 2012-11-19 20:46 | ピンクの石棺と馬門 | Trackback | Comments(4)

永尾剱神社(4)ザビエルの前に筑紫に入っていた聖母マリアの信仰


永尾剱神社(4)
えいのおつるぎ
ザビエルの前に筑紫に入っていた聖母マリアの信仰

「聖母」を「しょうも」と読めば神功皇后ですが、「せいぼ」と読めば聖母マリアです。
この地方は天草四郎で有名なように、キリシタンの信仰が栄えた地。

キリスト教が簡単に受け入れられた背景として、
キリストの死後200年までには、その信仰の人たちが九州に入って来ていたために、
1000年以上経って再び耶蘇教が入ってきた時、
容易に受け入れられる文化的土壌があった事を真鍋氏は示唆しています。

それでは、続きを読みましょう。
遠く『山海経』の頃から「女を以て主となす」が倭人の家の習いとして大陸に知られていたところを見れば、神代の昔は(双子座は)二人の兄弟姉妹よりも、母が我が子を抱き、子を負う姿に託していたと思われる。妹背星(いもせほし)ともよばれていた。

聖母とは神功皇后で、応神天皇の生母であった。近世までは聖母様、あるいは聖母大明神として仏堂の観音像とならんで神祠の聖母像の女人の懐胎出産の祈りの対象であった。

聖母の字はキリスト(紀元前4~30)の母なるマリヤを直観させる。

聖書が倭人に伝えられたのはザビエル(1506~1552)に始まるが、当時の人に宣教師の説くマリヤがいかに映じていたかは不詳である。

しかし、西海でキリシタン禁令の出る慶長17(1612)年までに、あれだけの爆発的多数の信者を集めた背景には、古来の聖母信仰が潜在的基盤を形成していたのかもしれない。

基督(キリスト)教の信仰の自由は明治6年(1873)年から再開されたが、昭和16年(1941)年から同20(1945)年の大東亜戦争の間は、事実上の耶蘇教禁止にほかならなかった。

そして終戦の冬には神道仏教のいかんにかかわらず、九州はどこの僻地もありあわせの食膳でささやかながらも聖誕祭を祝ったことは、今なお記憶に新たなところである。

聖母の名は島原の乱以後の近世の神社からは聊(いささ)かも抹殺されなかった。
宗門改め(しゅうもんあらため)の認定尋問が年毎に行われていても、聖母様の祭日なる陰暦12月14日には神官氏子こぞっての団欒がお火焚祭(おひたきまつり)の形で続いていた事実は史家の気付かぬところでもある。

後半は「聖母」が神功皇后を指すのか、マリアを指すのか分からなくなりました。
これが口述筆記の難しい所です。

「聖母様の祭日なる陰暦12月14日」というのが問題の所です。
そこで調べてみると、陰暦12月14日は応神天皇の生誕日なんですね。
だから、この聖母様とは神功皇后の事でした。

筑紫の人々が双子座を見て、「仲の良い双子」を思い浮かべるのでなく、
「神功皇后が皇子を抱く姿」を思い浮かべるのは、
その潜在意識に「聖母マリアがイエスを抱く姿」があったからだと氏は示唆します。

そう言えば、キリストが生まれたクリスマスの12月25日に近い14日に
ホムダワケ皇子が生まれたという季節感も、
イメージを重ね合わせる助けになったのかもしれません。

イエスは紀元前4年生まれ。(と真鍋氏はベツレヘムの星から計算)。
応神天皇は紀元200年生まれ。
この間、200年の差しかない事に注目すると、聖書が編纂されるよりもずっと前に
「子を抱くマリアの姿」が筑紫に入っていたという計算になります。

中東からいろんな民族が日本にやって来たという事は分かっているのですが、
こうして具体的な祭や信仰の背景を教えて貰うと、
「物や人」と共に、「心」もまた伝わっていた事を肌で感じる事ができます。

これは弥生時代の話ですよね。
伊都国で発見されたビーズのネックレスがインドより西の方でしか
生産できないものだと言う事が科学的に証明されましたが、
「物と人と心」、
これらは分かち難いものだと改めて考えさせられます。

さて、その「心」はどのように根付いているのでしょうか。
氏はさらに詳しく述べています。

邪宗門は隠れキリシタンの形で西海の離島ならずとも、特に筑前肥前の山間僻地で人しれず占星術の形にごく醇朴に率直に守られてきていたところをみると、遠くはるかな悠久の昔に、中東で景教や回教の経典が完成する以前の姿が筑紫に根をはっていたものと推定される。

山里の人々はキリシタン禁令に対して宗教信仰にこりかたまった狂信的信徒によくある対抗的反抗的意識もなければ、諦観に似た寂莫の無表情もなく、ただ何事のあるかをしらず、何事のあるかをしらず、何事の坐(い)ますかを疑わず、星座に一心に合掌していた。

よく信仰の団結を誇張するあまり、いわゆる歴史家が殉教に生々しい描写を連ねるのを常識としているのは、度をはずれた波の飛沫の如き一瞬の描写にすぎないことを銘記せねばならぬ。

この「筑前肥前の山間僻地」というのは背振山系を指していると思われます。
ここには人知れず占星術が伝わっていて、
それは景教などの経典が完成する以前の姿だと氏はいいます。

背振山の北では中臣氏が北の星空を観測し、南では物部氏が南の空を観測し、
吉野ヶ里の人々は高度な青銅技術を花開かせていました。

ところで、景教についても確認しておきましょう。wikiから
ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。

異端とされたのが431年でした。景教と呼ばれた唐の時代は7世紀~。
背振山系の山里にはこれより以前の、教会組織化される前の素朴な信仰が
淡々と受け継がれていたようです。

さて、『儺の国の星』はこの後、白鳥座などの話になります。
今回はそれは省略して、その先を読んでおきます。
ウラルアルタイ民族は特に巫女の居室には鳥の首を象徴した彫刻を飾り付ける習慣があったから、その遺風にしたがって、天鳥船が往来を守る神として、あたかも鶴の頭と鵞(かも)の首に似た竿を立てたかの如き石塔を港や岬に安置した。この遺物が十字架の風波に削られた姿と見る学者が多い。

歴史は傜(かさみ)の長い柱をキリストの死に際の体を支えた十字架に置き換えたのであるが、この時代は近世のわずか200年の出来事にほかならなかったのである。

耶蘇教が神代の天原(あまのはら)、倭人伝の頃の末廬(まつりょ)今の松浦(まつら)の人々に支えられたのは、胡人の血液が西域の聖人の教えをすなおに吸収するだけの素質がまだ乾き切っていなかった証拠であったと思われる。「血は血を呼ぶ」なることわざがこれであった。

「天原」が久し振りに出て来ました。
古代の北部九州は「ありなれ川」(御笠川~筑後川)で左右の島に分かれていて、
左の方は島が多くて海人(あま)が多かったので、「アマノハラ」と呼んでいました。
(そういえば倭国の王家もアマ氏でしたね…。)

当然ながら沿岸には異国からの船が到達するので、
西域の人たちがそのまま残って倭人に混ざっていく歴史も有ったことでしょう。
日本に定着した人々の事を考えると、
西暦200年頃と言えば、キリスト死後、まだ数世代目なので言い伝えもあるだろうし、祖先の信仰を受け入れる血はまだまだ濃かったという事です。

「ゑいのを」(セントエルモの火)から、思いがけない古代の世界を垣間見ました。
「マリア信仰」と「神功皇后信仰」が「聖母の星」を通して繋がったのは驚きです。
いつかは、自分の目でこの聖地から不知火を見たいものです。

それでは、ゆるりと永尾剱神社の細長い参道「エイの尾」を歩いて帰りましょう。

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参道は両側が崖です。
「弥生の道」と私がこっそり呼んでいる地形です。





地図 永尾剱神社






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by lunabura | 2012-11-04 01:03 | 神社(エ) | Trackback | Comments(2)

永尾剱神社(3)「双子座」を筑紫では「聖母の星」と呼んでいた・背振山と神功皇后


永尾剱神社(3)

 「双子座」を筑紫では「聖母の星」と呼んでいた
背振山と神功皇后の祭祀
永尾剱神社に冬至ライン?
 
今日は前回省略した「二つのセントエルモの火」についてです。

「セント・エルモの火」の説明文をもう一度読み直しておきましょう。wikiから
悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象。

大プリニウスによれば、古典期のギリシアでは、発光が一つの場合「ヘレナ」、二つの場合「カストルとポルックス」と呼んだ。

アルゴー船の神話によると、同船に乗り組んでいたカストルとポルックスの頭上に光が灯ったところ嵐が静まったので、この双子は航海の守護神とあがめられ、船乗りの間ではセントエルモの火が二つ出現すると嵐が収まると信じられたという。

ここに双子の「カストルとポルックス」が出て来ますが、
これは明らかに双子座の二つの星の名前です。

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この双子座は日本では「聖母の星」と呼ばれていました。
「聖母(しょうも)」とは誰?
それがこのブログでお馴染みの神功皇后の事なんです。
ホムダワケ皇子を抱いた神功皇后の姿を「聖母の星」に見立てていました。

今回はその辺りを『儺の国の星』で読んで行きましょう。p186
(読みやすくするために一部変更しています)
聖母の星(しょうものほし)
筑前国続風土記 巻21早良郡背振山の条に
山上の御社は、神功皇后三韓を攻めたまいし時、祈願のために是を立て祭り給いしという。神功皇后はこの国に七社を創立したまう。背振の社もその随一なり。

背振山は山岳信仰が盛んな山として、シンポジウムが最近行われたようですが、
そのずっと昔「神功皇后が三韓攻撃の勝利を祈願した」と貝原益軒が伝えています。
この山から玄界灘の航路を見定めたという話もありましたね。

真鍋氏は益軒の話を引用したあと、双子座について説明を始めます。
地中海民族はカストルとポルックスが一対をなす双子座ジェミニが船人の大きな目標であった。双子座は8月12日の暁に西に入り、6月26日の暁に東に上がる。

神功皇后元年の5月1日は陽暦6月18日であり、その前年、仲哀帝9年は5月1日は陽暦5月31日にあたる。歳差25日を以てすれば、月の3日に天を祈る儀式が西域の伝統に則して行われたことになる。

雲間の星影は一つだけではそれが何であるか判じ難いが、二つ相並ぶと、もはや疑う余地がなく、更には二つを結ぶ軸の方位で時と所を二つながら見定め得ることになる。

双子座の二つの星は、街の明かりで星影が薄くなった現代でも、
よく光っていて、色が微妙に違って並ぶので、すぐに分かります。

そんな双子座は地中海の船人の指針となりました。
双子座の特徴は6月26日には夜明け前に東から昇るのに対し、
8月18日の夜明け前になると西に入るという、大きな特徴があり、
時と所を教えてくれる大切な星座だったという訳です。

その後、神功皇后「元年」の説明になります。
???
「月の3日に天を祈る儀式が西域の伝統に則して行われた」という部分の
「月」は「何月」というのが欠落しているのでしょうか。

(歳差が25日ということなのですがよく分からない。誰か得意な方計算して下さい。)
文脈からは、神功皇后が背振山上で行った儀式は西域のやり方を採ったと解釈できます。

真鍋氏は続けて背振山の当時の夜明けを計算します。
航空自衛隊背振山基地の各位の測定によれば、社殿は南面して東寄りに17.0度となっている。これに磁石の偏差6.0度を加算すれば23.0度となる。

既に仲哀帝9(200)年より九州島の自転は5.31度に達しているから、当時の日の出は左手東より北に17.6度であった。

伝説によれば神功皇后は2月6日(3月8日)戊申の仲哀帝崩御から50日後の3月26日(4月26日)丁酉に御輿(みこし)を上げられたのであるが、双子座を西海(ここでは九州か)では聖母星と呼んでいた。

神功皇后(201~269)と応神帝(270~312)をみたてた名であるから、いつのころか八幡信仰が世人に守られて以来のことである。

真鍋氏は古社の向きは測量して決めていたと考えていて、
現代との角度の差を利用して創立年代がいつなのか、いくつかの神社で計算しています。
この背振山頂の古社についても、上記のように計算していますが、
私にはまだこの文の意味がよく分かりません。

それでも、この部分を読みこむと
双子座と地中海船人 ― 聖母の星と神功皇后・応神天皇 ― 八幡信仰
というラインが浮かび上がってきます。
これはいったい何でしょうか。
八幡様といえば応神天皇の事ぐらいは分かるのですが。
神功皇后は地中海の信仰を行った…?
う~む。
これを解き明かすにはまだまだ力不足だな…。

それはそれとして、これまでの神功皇后伝承から考えると、
神功皇后は竹内宿禰や中臣烏賊津使主・物部の胆咋たちと背振山頂に登って夜を明かし、
夜明け前に東に双子座が昇り出すと、航海の守護を祈る儀式をし、
次第に空が白んで太陽が昇るとその太陽を祭祀する。
そんな古代の情景が真鍋氏には見えていたのだろうと想像できます。

真鍋氏は計算に「磁石の偏差と九州島の自転角度」の要素を加えています。
九州島の回転は1800年間に5.31度に達しているのですね。
九州島は宮崎沖の日向灘に沈み込むようにして右に右にと傾いているので、
3.11以来さらに角度は大きくなっているかも知れないなと思ったりしています。

そして、この5・31度を知って、ハタと気づく事がありました。
それは、日拝塚古墳とか、平原遺跡とか、東西の祭祀線軸を意識した遺跡が
微妙にずれている理由が、
この「歳差運動と九州島の自転」によるものだったという事です。

この計算ができれば、いよいよ平原遺跡の年代とかが推定できるのになあ。
(私にはその技量がない…)
平原遺跡は既に約30日ほどのズレになってますよ。


そして、この永尾剱神社の岬からの眺望には冬至ラインが…?!。

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これは拝殿に奉納されていた「冬至」です。
え?という事は、あの岬は冬至ラインを意識している?
写真を見ると鳥居が微妙に傾いています。
歳差運動で傾いてる?

この神社には太陽祭祀線が組み込まれているのだろうか?
あわてて、先ほどの岬に戻ってみました。

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観察すると、この岬に対して鳥居と参道ラインは微妙にずれていました。
あの鳥居は新しいけど、古代からあった位置に再建されたのだろうか。
もし、きちんと冬至ラインを意識した仕掛けがあるとしたら、
むむ。ますますこの聖地は面白い所となります。
(つづく)








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by lunabura | 2012-11-02 21:11 | 神社(エ) | Trackback | Comments(2)

永尾剱神社(2)「セント・エルモの火」を筑紫では「ゑいのを」と呼んでいた


永尾剱神社(2)
えいのおつるぎ
 「セント・エルモの火」を筑紫では「ゑいのを」と呼んでいた


「St.Elmo(セント・エルモ)の火のことを筑紫では昔から「ゑいのを」とよんでおります。まさに泰西の言葉の万葉仮名的描写であります。語源はまったく共通であります。
  (『儺の国の星』p189 真鍋大覚)

この一文を理解するのに、3年の筑紫の逍遥が必要でした。
この永尾(えいのお)に辿りついて、不知火が見える事を知って、
ようやくこの文の成す意味を知ることができました。

「泰西」とはヨーロッパの事で、同じ「光の現象」を
ヨーロッパでは「エルモの火」、古代筑紫では「ゑいのを」と呼んでいたという事です。

「セント・エルモの火」とは、どんな火なのでしょうか。Wikiより
悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象。

大プリニウスによれば、古典期のギリシアでは、発光が一つの場合「ヘレナ」、二つの場合「カストルとポルックス」と呼んだ。

アルゴー船の神話によると、同船に乗り組んでいたカストルとポルックスの頭上に光が灯ったところ嵐が静まったので、この双子は航海の守護神とあがめられ、船乗りの間ではセントエルモの火が二つ出現すると嵐が収まると信じられたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%A2%E3%81%AE%E7%81%AB

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画像もwikiからですが、マストの先端から何カ所も火が出ています。
悪天候時に発光すると言われるこの現象は、
火が二つ出現すると嵐が収まると信じられていたんですね。

それでは「ゑいのを」という名を持つ永尾剱神社の地形を見てみましょう。
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氷河が削ったのでしょうか、リアス式海岸のようになっています。
中央の岬の先端に永尾剱神社がありますが、その左右には大きな岬が控えています。
川によって土砂が運ばれて平地が出来ていますが、
かつては神社の両脇は海だった事でしょう。
神社の岬は本当にエイの尾のように尖っています。

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これは拝殿に掲げられたエイの絵。
この尾と同じ地形の岬と、その先に現れる不知火。
まさに「セント・エルモの火」を地上に降ろしたような奇跡的な地形が
この永尾剱神社の鎮座地でした。

この岬と不知火を発見した海人たちはどれほど驚き歓喜した事でしょうか。
航海を守る神が降臨した聖なる岬。そこにその光の現象の名を付けました。

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これは参道の中腹の横からの眺望です。
岬の突端に立つと八代海が広がり、不知火の火が見える聖地です。

この神社の主祭神は「海童神(玉依姫)」でした。
この神への信仰が当初から変化無いものだとしたら、
この地を祀ったのは安曇族の可能性も出て来ました。

「海童神(玉依姫)」という不思議な名称も、発光が一つの時はヘレナという女神の名で呼ぶとしたら、
その女神信仰の残照が残ったのかもしれませんね。
(発光が二つの時の話は次回にまわします。)

それでは『儺の国の星』の続きを読んで行きましょう。

筑前国続風土記二十三 志摩郡燈台背の条に
八月以後、晴天にわかに雨雪ふる時に、あかりが下より12條或いは3條上る。上りて後下の方より消えて、細くちらちらと光る。ゑいの魚の尾の如し。故に海人はゑいの尾という。
(一部口語訳)

一條=一丈なら約3m。12×3=36mの事でしょうか?
急に天候が荒れた時、光が40mほどの長さに立ち昇り、下の方から消えて細くちらちらと光る現象が志摩郡でも見られて、「ゑいの尾」と海人は呼んでいたというのです。
まさしくセント・エルモの火と同じ現象です。

相の島から可也山にかけて白山火山山脈に沿う火口が連なっております。

セント・エルモの火は、特に地震津波の前にはよく光りました。海底から噴き上がる地気の微細な気泡が波を静める作用がありますから、近代人はこの現象を活用して圧搾空気を港の岸壁の下から吹き上げて、波を消す方法を案出しました。

玄界の舟人は聖炎が燃えるのは、大風の中心と信じておりました。昭和32(1957)年7月25日に、諫早の豪雨の中にこれが点(とも)りました。

昔の神話も今の人がすこし胸をひろげて心を開いて考えれば温故知新、あまねく到る処に有りと思われます。
(一部変更)

福岡の北沿岸に火口があるという話も、萩沖で火口が発見された事から、
充分に納得できる話となりました。
過去記事
萩沖海底火山 http://lunabura.exblog.jp/18452452/

そして、約一週間前の事ですが、今年の10月22日に白山で謎の火柱が観測されました。

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 石川、岐阜県境の白山(二、七〇二メートル)で、二十七日夜から二十八日未明に群発地震が起きていたことが、気象庁の観測で分かった。いずれも揺れを感じない震度0の地震だったが、その数は約四時間で百回余りにも上る。識者らは「一過性の現象か、噴火に直接つながる可能性があるのか、注意深く監視する必要がある」と話す。

中日新聞 2012年10月29日 引用
http://www.chunichi.co.jp/hokuriku/article/news/CK2012102902000165.htm

白山の光の柱が観測されてから5日後に群発地震が起こりました。
真鍋氏はこのような事を伝えたかったのでしょう。

最近ようやく地震前の空模様や発光現象が地震の前兆として広く認識されてきましたが、
「地震雲」という存在を初めて世に発表した時、
真鍋氏に対する識者たちの偏狭な反応にどれほど心を痛めたか、
遠慮がちに書いては有りますが、その無念さがひしひしと伝わってきます。

気象庁は今でも地震雲を認めていないそうですが、
民間のツイッターなどでは、詳しい研究が進んでいます。
(つづく)






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by lunabura | 2012-11-01 00:31 | 神社(エ) | Trackback | Comments(0)

永尾剱神社(1)不知火が現代でも見える宮


永尾剱神社(1)
えいのおつるぎ
熊本県宇城市不知火町永尾
不知火が現代でも見える宮 

今回から、熊本県の天草北部の旅です。
久留米地名研究会主催の、
観光旅行では味わえないマニアックな古代の旅に参加しました。

最初は永尾剱神社です。「エイノオツルギ」と読みます。
「魚のエイの尾」を思い浮かべますが、
まさしく地形がエイの尻尾のように細長くなっています。

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これが神社の杜で、右の方から撮りました。
左端に一の鳥居があります。

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国道266号線沿いです。
しかし、社殿は海の方を向いているので、ここから登ると神殿の裏側に出ます。
そこで右脇の路地から杜の麓に沿って歩いて、裏というか、正面に廻って行きました。

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突端付近です。神社はこの崖の左奥に建っています。
地層を見ると波が岬を侵食しているのがよく分かります。
よほど激しい波が立ったのでしょう。上の方も侵食しています。
でも、ここは入り海です。八代海です。
津波でも入って来たのでしょうか。
津波は奥に入るにつれて巨大化するという話を思い出しました。
もう海のそばです。

海の中の鳥居が目に飛び込んできました。
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社殿が海の方を向いているので、こちらの方が一の鳥居かも知れません。
海から参拝するようになっています。
海の向こうに見えるのは九州島です。熊本県が見えています。

後ろを振り向くと
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海からまっすぐ上る急な石段がありました。

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石段を登りつめると、二つ目の鳥居がありました。

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境内に出ました。

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拝殿です。
御祭神は海童神(わだつみのかみ)(神武天皇の御母様)
    菅原道真公外三柱
です。

なんと道真公の名前がここにも。
前回まで飯塚市や嘉麻市の神社を書いたのですが、
そちらでも道真公がよく祀られていました。
「道真公信仰」は古代筑紫を見て行くのに、これまたキーポイントなんですね。

さて、何よりも主祭神の名前に驚きました。
「海童神(神武天皇の御母様)」です。
「海童神」(わだつみのかみ)といえば志賀三神・綿津見神でした。
なのに、「神武天皇の母」となっています。
母といえば玉依姫ですよね。むむ。
どうしてこうなっているのだろう。

玉依姫の父神は豊玉彦。豊玉彦といえば海神です。
その童だから海童神というのでしょうか。
これは興味深い名称に出会いました。

さてぐるりと境内を見回すと説明板がありました。

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神秘の火 不知火(しらぬい)
不知火は、今から千数百年前、景行天皇九州に御巡幸のとき、暗夜の八代海上に天皇を導き、無事火の国の海岸へお誘いした怪火がそのはじまりで、以来この主知らずの火を不知火と呼ぶようになった。(日本書紀)
不知火は毎年八朔(旧暦8月1日)の未明、干潮時に現れる。
今年の八朔は9月15・16日です。
不知火がここから見える!!しかも現代でも!
予備知識なしに来たので、驚きました。
ここはビューポイントなんだ。

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あいにくの曇天ですが、ここから不知火が見えるのでしょう。
しかも日本書紀の景行天皇紀に描かれた不知火です。
拝殿には不知火の写真がたくさん奉納されていました。

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景行天皇と不知火について、
取り敢えず、日本書紀から該当部分を読んでみましょう。
5月1日に葦北から船を出して火の国に着いたのですが、日が暮れてしまい、暗くて岸部が分かりませんでした。遥かに火の光が見えました。

天皇は舵取りに、
「まっすぐ火を目指せ」と言いました。
そこでその火を目指して行って、岸に着く事が出来ました。天皇はその火の場所を尋ね、
「何というムラか。」と言いました。国の人が
「ここは八代の県の豊村です。」と言いました。
またその火について、
「これは誰が焚いた火か。」
と聞きましたが、誰なのか分かりませんでした。
結局、人が焚いた火ではないことが分かりました。こうして、その国を火の国と言うようになりました。

6月3日に高来の県から玉杵名のムラに渡りました。その時、土蜘蛛・津頬(つつら)を殺しました。

16日に阿蘇の国に着きました。その国は野が広く遠大で、人家がありませんでした。天皇は
「この国に人はいるのか。」
と言いました。その時、二柱の神が出て来ました。
阿蘇都彦・阿蘇都姫と言いました。たちまちに人間の姿を取って現れて、
「吾ら二人がいる。どうして人がいないことがあろうか。」
と言いました。この事から、その国を阿蘇と名付けました。

「人が焚いたのではない火」
これが不知火(しらぬい)ですが、文面では5月1日になっています。
現代では8月1日です。
不知火の現象を伝承に取り込んだのでしょうか。
あるいは暦の計算の違いなのか、時代の差か、昔は毎月1日には出現したのか、
いろいろ想像すると、また謎だらけになりました。

(つづく)









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by lunabura | 2012-10-31 13:27 | 神社(エ) | Trackback | Comments(0)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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