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荒船神社(4)消えた神籠石の名称・阿志岐山城は何を守っているのだろうか


荒船神社(4)
消えた神籠石の名称
阿志岐山城は何を守っているのだろうか
 

さて、荒船神社が海神三神を祀る船着場だった可能性が大きくなったのですが、
もう一つ知りたい事がありました。
それは「阿志岐山城とは関わりがあるかどうか」という事です。

そこで取り出したのが『あつまれ!古代山城』(古代山城サミット実行委員会発行)
という、平成22年に発行された資料です。

その資料を見ると阿志岐山城については
神護石系山城 阿志岐城跡」という名称が付いていました。
(古代山城サミットでは、石塁があるものは(水城以外)すべて山城として、
朝鮮式と神籠石系に分けています。)

そして今年それが国指定になった時、「神籠石」の名前が消えていました。

いったい神籠石とは何だろう。
学界から神籠石の名称が消えていく理由は何だろう。
いろいろと考えさせられます。

ま、とにかく阿志岐山城を見てみましょう。
資料の写真をご一緒に。

c0222861_2215463.jpg

これは宮地岳を空から撮ったものです。
北の方から撮ったらしく、まるで蜘蛛か蟹がこちらを向いて
両足を広げているように見えます。

c0222861_22155653.jpg

次は一枚目の写真の中央から右寄りの付近の拡大写真です。
これには山城が赤線で示してありました。

これを見てあれれ!? と驚いてしまいました。
いったいこの石塁は何を守ってるんだろう。
赤線が囲んでいるのは谷なのです。

お城なら城主の住まいを守るように造るのでは?

説明文を読んでみましょう。
福岡県筑紫野市に所在する。平成11年に発見され、宮地岳(標高338.9m)の北西に面する標高約140~250mの山腹に立地する。

外郭の推定総延長は約2.3㎞で、そのうち列石を伴う土塁線約1・3㎞が確認されている。

城門や建物等の施設は未確認であるが、水門が3か所確認されている。その中で比較的良好に残存している第3水門は、谷を横断する石塁により構築されており、最大規模の施設である。また、列石を伴う土塁が複数ヵ所で調査されている。


c0222861_22172323.jpg

この地図は上が北で、前出の写真とは逆向きです。
もし城主の屋敷を建設するなら山頂部にしか平地がないのですが、
石塁はその山頂を守っている防衛線には見えません。

一番の問題は水門です。
水門が麓寄りにあるという事は、飲み水の確保にはならず、
籠城の時の役には立ちません。

これは城ではないのでは…。

そこで「谷を囲む神籠石」という視点で他を探してみました。
すると鹿毛馬(かけのうま)神籠石(飯塚市)がよく似た構造をしていました。

c0222861_22182649.jpg

川を挟んで神籠石が組まれています。
これも山城と書いてありますが、防衛施設には見えません。

狩野久・元岡山大学教授(日本古代史)は、阿志岐山城の性格を「白村江の戦いでの大敗後、中央集権的に築造された軍事防衛拠点の一つ」と解説した。

という文をネットで見つけましたが、
鹿毛馬神籠石と同様に防衛の意識が希薄な阿志岐山城を、
「中央集権的に築造された軍事防衛拠点」とするのは早計ではないかと思いました。

私はこの二つの神籠石に関しては
水を大量に使用する生産施設ではないかと考え始めています。

神籠石とは筑紫の古代史を歩むものにとっては大きな謎であり、
かつ、愛着が深いものです。
神籠石とは「神が籠る石」という意味です。

その名を消して、遠い近畿勢力に結びつけるより、
地元の倭国の施設として考えるのが基本ではないでしょうか。

いずれにしろ、今後の発掘成果に注目したいと思います。


さて、神籠石はこれくらいにして本題に戻りましょう。

c0222861_22191064.jpg

荒船神社が関連の地図に載っていないので、
いくつもの写真を見比べて推測ラインを赤色で描いてみました。
正確な地図が手に入るまで、これを載せておきます。

荒船神社は阿志岐山城から見ると麓にありました。
阿志岐山城を造ったり、維持したりする人々を乗せた船が停泊する船着場。
荒船神社はその上にある見張り場であり、祈りの場だと考えました。
この湊は「中つ海」を巡行する連絡船の船着場でもあったのでしょう。

宮地岳は周囲を取り囲むようにして神社がいくつも並び、
山中には童男丱女(どうなんかんじょ)岩という徐福伝説を持つ磐座もあります。

この宮地岳は久留米市の阿志岐などを含めた「中つ海文化圏」として
アプローチする方が、方向を見誤らないと思いました。

宮地岳については別の角度からいつかアプローチしたいと思います。

今回は沢山の情報をコメントやメールでいただいて助かりました。
ありがとうございます。 






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by lunabura | 2012-09-07 20:00 | 神社(ア) | Trackback | Comments(16)

荒船神社(3)蘆木氏は太宰府に直属していた


荒船神社(3)

蘆木氏は太宰府に直属していた


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ほんの少し石段を上っただけなのに、境内からの眺望は抜群です。
右側から宝満山の山裾が流れて、その先に丘陵地帯があります。

c0222861_23582430.jpg

太宰府はこの丘陵にあります。

c0222861_23585056.jpg

境内の正面鳥居からの眺め。背振山が見えています。
この境内から一望できる平地は川から湖沼へと変化して
一面の葦原となったのでしょう。
それが今は豊かな田園になっています。

通る船ははるか遠くでも掌握できる場所に神社はありました。
その古代の風景を眞鍋氏が伝えています。

アシキ
『儺の国の星・拾遺』p201アシカビ星
昔は舟人を「あきしき」或いは「あかし」といった。蘆木(あしき)はまさに太宰府に直属して千歳川の水行を司った氏族の名であった。

やがて「あしかひ」の名が現れた。葦の葉陰に船の帆影が遠く眺められる風景であるが、川水だけが岸の左右に高く茂った葦の茎の間にはるかに開けている光景が峡(かひ)であり、又往来の頻(しきり)なる風景が交(かひ)であったことになる。

祖先は暇(いとま)あり、憩(いこひ)あり、もって荘重にしてかつ優美な言葉で身の廻りのあれこれを自由自在に表現するだけの綽綽(しゃくしゃく)たる余裕があったものとみえる。

「あきしき」「あかし」「あしき」は舟人を指していました。
その中で蘆木(あしき)は氏族の名となり、
太宰府に直属して水行を司ったと伝えています。
千歳川とは筑後川の事です。
この蘆木川(あらふね川・宝満川)は筑後川に注ぎます。

葦の繁茂力は大変強く、小さな川では現代でもこの通りです。

c0222861_003162.jpg

山口八幡神社へ向かう橋の上から。宮若市)
完全に川を埋め尽くしています。

c0222861_004691.jpg

これは生立八幡神社へ向かう途中の川。
水量が多いと、中央にはさすがに葦は生えず、船が運行できます。


「峡」(かひ)とは海峡のように、細長い状態を指していて、
葦と葦の間の細い視覚から船が見えるのを「あしかひ」と言い、
川で、葦の生えていない中央の流れを「かひ」と呼んで海峡のように見立てました。
これは船の上から見ないと生まれない言葉ですね。

そこを行き交う船の「交ひ・かひ」とも重ね合わせました。
宝満川~筑後川ならではの光景だったのでしょう。

舟人は川を遡る時は、必ず海の上げ潮に乗せる。これを昔は「あじろき」といった。海の魚も川の魚もこの時刻に水の垂みに集まるから、ここに杭を打ち並べて網を張り掬(すく)い捕る。これを平安時代には網代木(あじろぎ)といった。

この潮ざかい舟人の待つ泊り場であった。松峡(まつかひ)の名はすでに仲哀帝9(200)年にみえる。太宰府のありし古邑の地であった。

「かひ」の字は松峡(まつかひ・まつお)にも付いています。
この名が仲哀帝9年に見えるとしたら、神功皇后伝承のある松峡神社の事ですね。
夜須であり、層増岐野だった所です。(サイドバー⇒松峡神社)

何々?そこが「太宰府のありし古邑の地」だったって?
これはまた新たなテーマが (・.・;)。でも今日はパス。

阿志岐を発って筑後川を下り、赤司(アカジ)八幡宮を通って更に下ると
高良大社の麓に辿り着きます。
そこにもアシキという地名があったそうです。
(おぼろげなので、くじらさん、愛読者さん、教えてください!下の地図付近でOKですか?)

蘆木氏が掌握する湊々に「アシキ・アカシ」の名が付いているようです。

昔、千歳川と蘆木川は今の三井郡に巨大な沼を形成していた。

太宰府の大子(たいち)、即ち天官暦官は南の巨勢、北の葛城そして西の平群の山を
「月、或いは星の地、或いは日を巡るに似たり」と語っていたときく。

太宰府には大子という官職があり、
天体観測をして暦を作る最高官吏で、天子に直接面会が出来ました。

南の巨勢、北の葛城そして西の平群の山を
「月、或いは星の地、或いは日を巡るに似たり」と語っていた
というのは難解な言葉ですが、
これは大子が川を行き交う船を見て、空の星や月の運行に重ねたようです。

まずは巨勢・葛城・平群について。
福岡にはかつて葛城氏や平群氏がいたと伝えています。
場所がかなり分かって来ました。

c0222861_035681.jpg

これは近畿に移動する前の勢力図という事になります。

この三つの勢力地を連絡する船があったのでしょう。
それを太宰府が掌握していました。

川を遡るのには上げ潮を利用するという事は、一日に二回、遡る事が出来るのですが、
月の満ち欠けに連動しているので、朝だったり、昼だったり、変化する訳です。
ですから遡る船の時間を見れば逆に月の満ち欠けが分かる事になります。

その運航時間は月や星を見て決めるのでしょうが、
逆に言えば船の運航を見れば暦が分かるという訳です。

大子は夜には星を見て、昼には船が遡る様子を観察して、暦を確認したのでしょう。

「月、或いは星の地、或いは日を巡るに似たり」は
「月或いは星の、地或いは日を巡るに似たり」と句読点を打つと理解しやすいでしょう。
本当に美しい文言です。

この荒船神社の境内からも、それは良く見えたことでしょう。
川の舟人の暮らしは月の満ち欠けに直接関係していたのですね。

さて、ここまで調べると、御褒美がありました。
もう一人、尋ねていた人からの電話でした。

「荒船神社の祭神が分かったよ。無格社で、海神三神と書いてある。
隣の神社は老宮神社で字は七刀。祭神は菅原神。」

海神三神といえば志賀の綿津見三神でしょうか。

c0222861_045096.jpg

どおりで。
これは境内にあった船石。お汐井の砂が載せてありました。

そして。
何々?老宮神社の地名が「七刀」だって?菅原神なら熔鉄の神じゃん。
(つづく)





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by lunabura | 2012-09-05 00:06 | 神社(ア) | Trackback | Comments(20)

荒船神社(2)「ふね」とは褐鉄鉱・隕石の風化地層だという


荒船神社(2)
 「ふね」とは褐鉄鉱・隕石の風化地層だという


c0222861_13381885.jpg

祭神の手掛かりはないだろうか。
思いついたのは、他の荒船神社を調べてみる事でした。
そこで、ネットで見つけたのは、
--- 荒船山と古代の信仰のはなし その2 貫前神社と荒船山 ---
(略)
下仁田町の南野牧に「荒船神社」が存在します。
「經津主神」「建御名方命(たてみなかたのみこと)」の2柱を祀っています。
(略)
http://plaza.rakuten.co.jp/uchiyamawakuwaku/diary/200706020000/ 

これは長野県佐久市の神社のようです。
もともとは美女三女神を祀っていたのが、この二柱になったそうです。

「經津主神」(ふつぬし)と「建御名方命」だ。
あれ?
ちょうど『儺の国の星・拾遺』でオリオン座について調べていた時に、
「ふね」と「ふつぬち」という言葉が出ていたぞ。
こりゃまた偶然。

長いのですが、そのままの文章を書き写します。
(イイボとは蹈鞴の産物のことです。)
『儺の国の星・拾遺』p168 イイボ星 オリオン座 IC 434

陸奥出羽で砂鉄が地下に埋蔵されている地帯を船山(ふなやま)と言い、これを採掘する長者を船木という。

古事記神武紀には神八伊耳命(かむやいみみのみこと)の子孫に、陸奥(みちのく)の石城(いわき)の国造(くにのみやつこ)、伊勢の船木直(ふなきあたえ)の名がみえる。

「ふね」とは斧土(ふなつち)の略で、褐鉄鉱リモナイト(2Fe2O3・3H2O)の風化地層である。「き」とは技術者の古称であった。造る人と掘る人では別の氏族になっていた。

昔は「ふつぬち」といった。なお燃料になる亜炭泥炭を「ふるまき」といった。

陸奥北、下野結城(ゆうき)に「古間木」の名がみえる。「まき」とは薪木即ち燃料で、昔は「もえぎ」といった。わずかな火で長い時間をかけて、酸化鉄の粉末を還元するには最良の炭となった。

「ふる」とは星の古語で流星隕石のごとく、天から降る意に流用されている。隕石には年輪のごとき層を重ねた組織が多い。これが地に落ちて古間木(ふるまき)即ち石炭(いしずみ)を作ったものと祖先は信じていた。

「ふつぬち」とは神代紀には
  次に木の神名は久久能智神(くくのち)を生みたまひき。

即ち「くくぬち」であり、中世あたりから櫟(くぬぎ)、即ち窯の薪木の名となったが、筑紫では歴木(ふみき)とも書いて年輪が識別できる石炭の意に通ってきた。「櫟」の右のつくりの「楽」は銘(らく)、即ち熔鉄のことであった。

タクロを三河で設楽(しだら)という。いかにも銘を作る施設をよく表現している。戦国(1467~1568)の世に南蛮渡りの鉄砲が武器としての勢力をのばしたところは尾張春日井小牧があった。

ここも昔は流木が野原の下に埋没していた所であった。「ふるぬち」とは隕石が風化分解した赤土であった。

福岡県の南の大牟田市に「歴木」という地名があって「くぬぎ」と読みます。
この大牟田市はかつて炭坑で賑わった街なので、
この地名が「石炭」に由来するというのは大変納得です。

今回必要な情報だけ抜き出すと、
「ふね」は葦から生まれた褐鉄鉱(スズ鉄)の風化地層のこと。
「き」は技術者の古称で、「ふなき」とはスズ鉄の採掘長者をさす。
「まき」とは流木が積み重なって風化して野となった所で、
その薪はタタラ製鉄に最良のマキとなった。

最近の水害では倒木が川をふさいで氾濫するケースを目の当たりにします。
そこに土砂が流れ込んで平地を形成すると、倒木が良い燃料に変化する訳です。

山の中で出くわす思いがけない平地には、こんな成り立ちの野もあるのでしょう。
馬を放牧する平地を「牧場」というのも語源は同じなのかもしれません。

「ふね」は古くは「ふなつち」「ふつぬち」とも言った。

「ふつぬち」が「ふつぬし」と変化するのは容易です。
「ふつの御魂」とはスズ鉄で作った刀で、「ふるの御魂」とは隕鉄で作った刀でした。

隕鉄による製鉄は実は半信半疑だったのですが、
中国で斧の刃先に隕鉄の刃が作られたものが出土しています。
以下もまた眞鍋氏の文です・
記紀にある「布留の御魂」は隕鉄を精錬した剣で、「布津の御魂」は砂鉄を精錬した剣である。
昔から隕石が落ちた所には椋(むく)の木を植えて祀った。椋の木の実は羽根つきに使われる黒い実。2000年以上前には、その形が隕鉄の象徴だった。
1500年前頃には真金、即ち砂土を溶かして得た鉄を指した。

最初に掲載した長野県の荒船神社の住所をもう一度見てみましょう。
下仁田町の南野に「荒船神社」が存在します。
「經津主神」「建御名方命(たてみなかたのみこと)」の2柱を祀っています。

住所に牧が出て来ます。
この牧の地下に良質の燃料があったとすると、
製鉄のための格好の資源を渡来人たちが発見して定住したという推測が出来ます。
ここは神々の交代劇があり、渡来人たちが技術を持って来た事が書かれています。

その近辺の地図を見ると、こちらとよく似た地名が散見します。
長野といえば安曇族が行った所でもあります。
私は長野の安曇族はスズ鉄を求めて山に分け入ったのではないかという仮説を持っています。
倭人たちには金より銅より鉄が一番なのです。

さて、話を戻しましょう。
この荒船神社も社前の宝満川がかつて「あら舟川」と呼ばれていたことから、
ここは製鉄に関わる資材や製品を運搬する舟々を監視する所ではなかったのかと
いう思いが生まれました。

c0222861_13374988.jpg

境内からは宝満川がよく見えます。
う~ん。ここはやっぱり船着場?
(つづく)


※メールやコメントへの返事が遅れています。
待っててくださいね。








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by lunabura | 2012-09-03 13:41 | 神社(ア) | Trackback | Comments(0)

荒船神社(1)阿志岐山城の麓の宮


荒船神社(1)
福岡県筑紫野市阿志岐手原1051
阿志岐山城の麓の宮

♪ 思いすごしも恋 それでもいい 今のうち~ ♫
そんなサザンの歌ではないけど、今回は勘違いからスタート。

この荒船神社の存在はくるま座さんから聞いたのですが、
私は彼の話を聞いて、これは船着場だと勝手に思い込んだのです。

そして行ってみてびっくり。
国道35号線を曲がると私があれほど撮りたかった宝満山のビューポイントがありました。
宝満山が見事な神奈備山に見える所だったのです。
車を止めて見回すと360度の展望に興奮。まずはご覧あれ。
ここは阿志岐(あしき)なのです。

c0222861_23405753.jpg

中央が宝満山(829m)。
宝満山御笠山とも呼ばれるので、「御笠の山に昇る月かな」と洒落てみたいけど、
残念ながら真北なので、月は昇りません。

c0222861_23454336.jpg

これは西~南西の方向。夕陽が沈む方向です。
左から基山?中央の奥が背振山。右手前が天拝山?
(地図を見ながら当てはめました。違ってたら教えてね。)

c0222861_2346329.jpg

そして、これが東。宮地岳です。
そう。最近ニュースになった阿志岐山城がある山です。
かつてはこの山も御笠山と呼ばれていた証拠がくるま座さんの地道な研究で3つほど見つかりました。

この山は場所によっては三角錐の神奈備型に見えるのですが、現地ではそうは見えませんでした。

そして今日、目指す荒船神社はこの宮地岳の右端です。
銀色の三角屋根がキラキラと見えているのが分かりますか。

c0222861_23463994.jpg

車に戻って道なりに進むと橋に出ました。宝満川です。
ここで散歩している人に神社を教えて貰いました。
ここからも銀色の三角屋根が見えています。
橋を渡って右折してすぐのはずですが、鳥居が道沿いに無いので、
行き過ぎてしまい、往復するうちに、ある角度から鳥居が見えて、やっと行き着きました。
民家の庭を通って行きます。これしか道はありません。

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正面に廻り込むと、いかにも古社の風情。

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扁額に荒船神社と書いてありました。明治時代の築造です。

c0222861_23473991.jpg

石段は急です。

c0222861_23475623.jpg

石畳がいい味を醸し出しています。

c0222861_23481660.jpg

拝殿に上がって参拝しました。
ところが御祭神が分かりません。

いつもの『福岡県神社誌』を見るけど、掲載されていません。
こんなの初めて…。
資料館に行って、筑紫野市史を見たのですが、不明神だと言う事が分かりました。
荒船社(阿志岐)
阿志岐の宝満川沿いの小高い丘の上にある。『続風土記付録』によれば、この社があるところはヤクジンモリ(疫神森)と呼ばれていた。側を流れる川を当時は「あら舟川」といい、そこから荒船社と名付けられたようであるが、地名から推測するに本来疫神を祀った社であったと思われる。

もともと疫神は治病、あるいは災害防除の神として祀られる例が多く、はやり病などに効く神として信仰されている。現在地元では牛馬の神として信仰されており、疫神としての性格は伝えられていないが、明治時代には雨乞いに効く神とされ祈願に訪れる参詣者が多かったそうであり、災害防除としての疫神の性格を窺い知ることが出来る。

念の為にくるま座さんにもう一度確認。
1月15日近くのどんと焼きの祭の時に氏子さんに尋ねたそうです。
今の若いもんは信じないだろうが、唐の船が行ったり来たりした。
江戸時代まで疫神社だったが明治になって本来の荒船神社に戻った。
下を流れる宝満川をエキジンフチと呼んでいた。

この時点で、船着場だというのは私の勘違いだと判明しました。

それにしても…「唐の船が通った」とは。
赤司八幡神社でも全く同じ言葉を聞いた事を思い出したのです。

もっと具体的に何か分からないだろうか。
そう思うのですが、行き止まりです。

それでも、シンクロニシティーの神は私に微笑んでくれました。
(つづく)


地図 阿志岐 荒船神社








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by lunabura | 2012-08-30 23:54 | 神社(ア) | Trackback | Comments(11)

発見された遺跡は大宰府政庁の客館?


発見された遺跡は大宰府政庁の客館?
太宰府市朱雀2~3丁目


今日は地図を広げていたら、どうにも止まらない。
国土地理院の5万分の1の「太宰府」「甘木」「福岡」「背振山」を
糊で貼り付けると1m以上の大きな地図になります。

気になる地名に印をつけてお遊び。
道路地図帳なんかは周辺が山で終わるけど、つないでみると
山越えルートがとても近くでびっくりする場所がいくつもある。

そんな今日は西日本新聞に最近発見された大宰府の客館らしき遺跡についての
解説が載っていたので、いったい何処にあるんだろと
太宰府のあたりをずっと眺めていました。

これは今日の新聞記事。

c0222861_2101513.jpg

c0222861_2161896.jpg



それで客館をネットで検索すると、現地説明会用のPDF版を見つけたので、
印刷してお勉強する事にします。(^o^)/

大宰府条坊内の客館(8~9世紀)
http://www.city.dazaifu.lg.jp/data/open/cnt/3/5933/1/document_about_guest-house_in_ancient_Dazaifu.pdf

(リンクが効かない時は「大宰府条坊内の客館(8~9世紀)」で検索するとトップに出て来ます。)

下の西鉄操車場跡の部分が朱雀で遺跡の発掘現場です。
c0222861_2121423.jpg

(画像出典 上記PDFより)

これからも全国の遺跡の現地説明会の資料がこうして出されると有り難いですね!

九州王朝論とかよく聞くけど、都が見つかってないってホントですか?




地図 太宰府市朱雀




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by lunabura | 2012-03-23 21:11 | <遺跡・史跡> | Trackback | Comments(4)

松尾宮と永岡八幡宮・神功皇后はお腹が痛くなった

松尾宮と永岡八幡宮
福岡県筑紫野市永岡587
神功皇后はお腹が痛くなった

ここは宝満川の右岸。筑紫野市の丘陵地帯に目指す松尾宮があります。
ここは二度目のチャレンジで見つかりました。
住宅街の中にあるので、わかりにくいのですが、隣に「永岡公民館」というよい目印がありました。

c0222861_22511575.jpg

分かりにくい原因はもう一つ。「松尾宮」は「永岡八幡宮」の中に合祀されていたんです。
地図で探す時は「永岡八幡宮」で探して下さい。
正面の鳥居にも「永岡八幡宮」と書いてあります。

c0222861_22514287.jpg

境内に入ると、この楠!! でっかいな~。
ここにはかつて城があったので展望も抜群です。背景の右に見えている山は宮地岳です。

c0222861_2252613.jpg

参道の正面にある拝殿は永岡八幡宮です。
まずはその由来を。
永岡八幡宮
祭神 応神天皇・神功皇后・玉依姫命
   応神天皇 第14代仲哀天皇の第四男。母は神功皇后。第15代天皇。
   神功皇后 いわゆる三韓征伐のあと、現在の粕屋郡宇美町で応神天皇をお産みになられた、と言われている。
  玉依姫命 豊玉姫命の妹で、初代天皇神武天皇の母。(以上は『日本書紀』による)
社格村社(明治5年に定められる)
由緒 不詳 当社がいつごろ建立されたかについては、分かっていませんが、古くから永岡村の産土(うぶすな)神として祭祀されていたようです。 (略)
八幡宮なので応神天皇が祀られていますが、皇后軍がここを通った記憶があって、
神功皇后も祀られ続けたのかも知れませんね。

さて、目指す「松尾宮」は、すぐ左にありました。

c0222861_22534444.jpg

これがその神殿です。

c0222861_2254064.jpg

カメラを挿し入れてみると、男神が祀られていました。
その由来が書かれていました。
松尾宮由来
祭神 大山咋命(おおやまくい)別名を山末之大主神という。大年神の子。須佐之男神の孫。
社格 無格社(永岡八幡宮の境内神社)
由緒 不詳 現在の地に祭祀されたのは大正9年で、それ以前は裏側の道路を隔てたお茶畑のある所にあったそうです。

江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記付録』には
「松尾宮 マツヲヤマ 神殿方5尺・拝殿2間三間半
           祭礼 6月29日・奉祀福生坊
産神也。大山咋命を祭る。鎮座の初詳ならず。社地に神木の松一株有り。」
と記述されています。

この本以外は、永岡村の産土神を八幡宮にしていますが、ここでは松尾宮が産土神となっています。

由緒は不詳ですが、明治初期に編纂された「福岡県地理全誌」には、
   村の北一町。木殿(きのどん)山の上にある。
   里伝に、大変古い社で、神功皇后が熊襲征伐の時、ここで腹痛したので、
   この神に祈られて癒えたと言う」(口語訳・るな)
と、その当時この地に残されていた伝説が紹介されており、松尾宮がかなり古い歴史を持つことをうかがわせています。

 この松尾宮の宮司をしていた「福生坊」は宝満山の山伏です。石段の上にある鳥居は福生坊が寄進したものです。安永3年(1774)の銘があります。 (略)
松尾宮の元宮はここから一町(約100m)北の木殿(きのどん)という山の上にあったのですね。
神功皇后が来た当時は大山咋命が祀られていた訳です。
神功皇后が腹痛を起こしてその神に祈ったというのですから珍しい伝承です。

熊襲征伐の時にここを通ったというので、どの時点で通ったのか、考えたのですが、
ここに立つと羽白熊鷲攻撃のルートは「中つ海」(ここでは古宝満川)の向こう側に見えました。
だから、ここは「津古」へ行く途中、田油津姫攻撃の時になるのが分かりました。

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これは神社のある丘陵から下りた所から撮影しました。
向こうの山々の麓を通って羽白熊鷲の拠点に行軍しています。
手前の田んぼが当時は海で、かつて層増岐野とも呼ばれていた所です。

左は宝満山。右は宮地岳
くるま座さんの調査で、どちらも三笠山だったことが分かりました。
確かに笠を伏せた姿をしています。現在は宝満山だけを三笠山と呼んでいます。

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境内を歩いていると、東側に「松尾宮」の鳥居を見つけました。
ここは入り口によって鳥居の名前が違ってますよ。

さて、神功皇后の移動ルートに戻ると、皇后軍はここから津古の湊に行き、船で老松神社に向かいます。

老松神社はすでに下記のページに書いています。
  http://lunabura.exblog.jp/16567541/

老松神社から南下すると赤司(あかじ)八幡神社に伝承が出て来ます。

次回は赤司八幡神社(久留米市)に行きましょう。

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地図 松尾宮(永岡八幡宮)







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by lunabura | 2012-01-08 23:07 | (マ行)神社 | Trackback | Comments(2)

邪馬台国 九州と近畿 トピック展 に行って来ました。


邪馬台国 九州と近畿 トピック展
に行って来ました


九州国立博物館では、現在ゴッホ展が開催されていますが、
それと並行して「邪馬台国 九州と近畿」のトピック展示があっていました。
たまたま他の資料館でパンフレットを見つけて「え?昨年の吉野ヶ里の分?」
と思ったのですが、それとは全く別のものです。
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裏面の説明書きを写します。
三世紀の日本列島の姿を映しだした『魏志倭人伝』に記録され、女王卑弥呼がいた邪馬台国は、どこにあるのでしょう。主に近畿地方と九州北部地方を主軸としたその所在地論争は、歴史・考古学のファンにとっても関心の高いテーマと言えます。

邪馬台国は、弥生時代から古墳時代に移りゆく時期にあたります。
古墳時代から見ると、その幕開けを告げる前方後円墳や三角縁神獣鏡をはじめとして、近畿地方が広い範囲で求心性を発揮するのは間違いありません。

一方で弥生時代から見ると、お墓での埋葬にあたり朱で赤く塗る重要な風習は、九州北部でははるか以前から執り行われていました。また技術力や生産力を高める源の「鉄」について、九州では近畿を質量ともに上回る先進性を示す遺物が多数出土しています。よって、邪馬台国の所在は、単純で少ない要素の優劣の比較では理解し難いと言えます。

本トピック展示は、九州では紹介されることの少ない近畿地方の至宝の数々をご紹介する限られた機会です。邪馬台国出現前後の九州北部および近畿の特徴を表し、邪馬台国所在地論争の謎と魅力を引き立たせてくれる作品をご覧ください。

展示は4階のいわゆる常設展の第3室であっていました。入ってすぐ右です。
室内に入ると、右側が近畿地方。左側が九州地方と分けてあります。
いくつもの古墳や遺跡の中の選り抜きの出土品が展示してありました。

どちらも同じ高さの視線で見ようという展示なので、
熱い論争を感じることは出来ないのですが、
それぞれの地方の至宝が出ているのが魅力です。

個々の遺跡や古墳の特質を知っている人には、さらに面白いんだろうな。
ルナ的には九州には魅力的な遺跡が他に沢山あるのを知りました。
(これらを一つひとつ調べて行ったら一年は楽しめそう…。)

お勧めはカタログ。(千円)沢山の写真とイラストと地図と論文。
これで最新の弥生時代を見渡せそうです。

「互いが地元の資料を中心に集めてそれを集結させ、それぞれの館で展示を行う」
という共催展。九州では2月20日までです。

邪馬台国 九州と近畿 トピック展
平成23年1月1日(土)~2月20日(日)
休館日:1月17日(月)、31日(月)、2月14日(月)
会場4階文化交流展示室 関連第3室 
観覧料 420円
九州国立博物館 福岡県太宰府市石坂4-7-2

時間は今日は17時まででした。

宮地嶽古墳の副葬品の数々も里帰りして、堂々と中央で展示されてました!
ようやく、現物に会えました。まさか、今日会えるとは思ってもいませんでした。❤❤




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by lunabura | 2011-01-21 23:26 | <催しもの・あそび> | Trackback | Comments(8)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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