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タグ:宇佐・安心院トレッキング ( 50 ) タグの人気記事

ひめちゃご40 宇佐神宮 菱形池



ひめちゃご40

宇佐神宮 菱形池
 








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宇佐神宮の本殿の前で三人とはぐれてしまった。


参拝を済ませて、遥拝所から御許山を撮影していたら、
互いを見失ってしまったのだ。









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御許山には神代に比売大神が降臨したという。








三人を追って下宮に向かうが、どうやら自分が先に移動しているようだった。

携帯があるから安心できる時代だ。

私は連絡して場所を確認すると、その足で菱形池に向かった。

もう一度行っておきたい。








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しかし、行けども行けども記憶の池は無かった。

他の神社の記憶と混じり合ったのか。

それとも、夢の中の記憶なのか。












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菱形池は広かった。









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石橋をいくつか渡った。









先ほど行った薦神社のご神体である三角池を考えながら。


 
三角池は三つの沢で形成されていた。
「鏡澤」「鉾澤」「玉澤」
渡来人が造成したと書かれているが、目的がよく分からない。
隣の地名は「加来」すなわち「星」の意味だ。

安心院との繋がりが思い起こされた。
鉄の匂いがする。


地形的に、この宇佐神宮も同じ匂いがするのだ。



『八幡宇佐宮御託宣集』によると、
欽明29年(569)この池の辺に鍛冶(かじ)の翁がいたという。

その翁は頭が八つあり、人々が見に来ると、その半分を殺した。

大神比義が行くと、人はおらず、金色の鷹がいた。
その鷹は金色の鳩となって袂(たもと)に止まった。

それから大神比義は三年間穀断ちをして祈ると、三歳の子供が現れた。

竹の葉の上で
「自分は辛国の城に八流の旗をともに天下りして日本の神となった。
釈迦菩薩の化身である。

十六代誉田天皇広幡八幡麻呂である。云々」
と語った。

三歳児、即ち応神天皇だ。
十六代であるのは神功皇后を十五代天皇として数えているから。

それがここの池の話だった。

文脈からは「鍛冶の翁」は応神天皇の化身となる。

ここには鍛冶の民が住んでいた。

豊かな水と湖沼の葦。鉄の材料に事は欠かない。



そして、神代から比売神がおわした。

参拝した人の多くは本殿の正面が八幡神でなく、比売神であることに驚く。

しかも、宗像三女神の称号ではない。

宗像三女神では不都合なのか。



『託宣集』では応神天皇の母は神功皇后で、父は住吉とする。
ここ宇佐では住吉族が活躍していた。

住吉族が宗像の三女神を崇敬するのでは都合悪かったのか。
あるいは、別の姫神だったのか。

薦神社では明らかに宗像三女神の名が書かれていたが。





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(水分神社)







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by lunabura | 2016-12-13 21:39 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(4)

ひめちゃご40 薦神社(こも) 中津市



ひめちゃご40

薦神社(こも) 中津市
 








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知らずにまたもや動画ボタンを押していた。










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例の如く足も写っているが、鳥の声がいっぱい。












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境内では全く気付かなかった。







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ここは鳥の音に満ち溢れた世界だった。











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ご神体の三角池。

主祭神 比咩大神。

田心姫命

湍津姫命

市杵島姫命














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この池の真薦から薦枕が作られ、宇佐神宮の神殿に運ばれた。













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作り方は一子相伝で、あいにく途絶えたという。












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コメントありがとうございます。
リンク先など見せていただいています。
返事はまたね。











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by lunabura | 2016-12-12 22:33 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

ひめちゃご39 宇佐 比咩神三社参り



ひめちゃご39

宇佐 比咩神三社参り
 


2016年12月11日。

宇佐へ。

三日前のヒメコソ神への参拝に続き、比咩神を祀る三社に参拝した。

風は突然吹く。

佐賀に祀られるヒメコソ神、すなわち市杵島姫を参拝して、
立て続けに宇佐に祀られる比咩神の参拝だ。
この比咩神は宗像三女神と言われる。




風は1129の歴史カフェの二次会の時から吹き始めた。


目の前に座った七色が隣のアリサに七面山に誘っていた。

アリサの身体は行きたいと反応していたが、心は葛藤していた。

私の隣に座った弓月は淡々とそれを見ていた。


それからわずか三日後、
星読とアリサと私、そして弓月で宇佐に行く話が決まった。



アリサは薦神社に行きたいという。
星読は宇佐神宮にアリサを連れて行かねばと思ったという。
私は御許山に行きたいと言った。

こうして、比咩神を祀る三社に行く話がまとまった。





今日は簡単なメモ。





薦神社


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ご神体 三角池






宇佐神宮

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結局、御許山は車道を間違えたために、時間切れ。
日暮れの早い冬に冒険は出来なかった。


帰途につきながら私は星読に尋ねた。
「どうしてアリサを宇佐神宮に連れて行きたいと思ったの?」

「アリサは星読みの民の姫巫女だったと」
アリサと会ったその日に、星読は過去世で会ったことを思い出したという。


― サンジカネモチ。

最後の決戦の時に、サンジカネモチはサブロウタに命じた。
「自分に万が一の事が起こったら、星読みの民の姫巫女を宇佐に逃がすように。
それが出来なかったらその命を」
と。

それから、サンジカネモチは命を落とした。
姫巫女は宇佐に逃げたと信じながら。

しかし、サブロウタはそれが出来ず、やむを得ずもう一つの指示に従った。
その魂はいまだに鞍手の熱田神社に留まるという。


だから、星読は現世で
「星読みの民の姫巫女」を宇佐に連れて行きたかったのだ。



ヤマトタケルとの戦いに敗れた一族は
一部は佐賀に逃れ、一部は宇佐に逃げた。




それは遠い昔の話。
しかし、今週、私が立て続けに行った所は佐賀と宇佐。

不思議な一致。

これで、もう「ひめちゃご」も仕上げの時が来たと思った。
が、念願の御許山には行けなかった。

私は何十年も、憧れながら、畏れていた。

行かないで済んだ。
ほっとする自分がいた。



                <2016年12月11日>









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by lunabura | 2016-12-11 22:49 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(2)

椿の実は三つ



椿の実は三つ


タツさんが六ケ岳調査中に、「椿」調査に変化したということで、
「椿の実」が三つに分かれ、それが宇佐と関係あることを思い出したので、
過去記事を再掲する。

鞍手の宇佐宮に関しては星読の調査で、
ほんのこの前まで「宇佐寺詣で」を地元ではしていたと分かった。
現在は草ボウボウだという話だった。

以下には
「椿の実」「御許山」「市杵島姫」というキーワードが散見するが、
混乱するばかりだ。

「椿」とはやはり鉱山に関係あるものだ。


八幡の謎(2)

「ささくり」三石の磐座と坩堝から出来た金

水源を中世は「みなもと」とよび、神代は「をもと」といった。水星三囲により、水源の大地に三石をあげて、その安泰を祈った。これを「みつくり」と呼び、近世は箕作(みつくり)と書いた。百姓は水を遣り繰りする神を見ていた。

天台の儀式華やかに三位一体の神仏たがいに垂迹の教えが普及する頃は、天竺(てんじく)の弁財天なる水源の女神を置き、また妙見を立てるところもあったが、八幡の本地なる宇佐だけは、あえてこれを許さなかった。
 (『儺の国の星・拾遺』p67)

<水源を中世は「みなもと」とよび、神代は「をもと」といった
これで思うのですが、源氏の「みなもと」って、
御許山信仰から付いた名なのでしょうか。
八幡信仰の聖地は御許山(おもとやま)ですよね。
のらさんにコメントいただいてから、気になっていました。

以前、こんばんわんさんが指摘されたように、
元宮の件も宇佐八幡宮は御許山を遥拝していて、
大分八幡宮との縁に出会うこともありませんでした。

地図 赤 御許山   青 宇佐八幡宮 

(写真モードに替えると地形がよく分かります)


<水星三囲により、水源の大地に三石をあげて、その安泰を祈った>
「水星三囲」とは水星が太陽を一周するのに
約三カ月かかるという意味と思われ、
水源に三つの石をあげるのは、それが由来でした。

何故、八幡はそんな天文現象が重要なのだろうか。
水星は金星と同様に、明けの明星と宵の明星に分かれるので、
その周期と関係あるのだろうかと、プラネタリウムに尋ねました。

今年2013年の例でいくと、
水星が明け方によく見えるのは 4/11前後 7/30前後  11/18前後
夕方によく見えるのは  2/17前後 6/13前後 10/9前後
だそうです。
今日10/5は夕方に見えたはずですが(雨だった…)、
しばらくはこの現象が続く事になります。

その後、明け方に見えるようになって、再び夕方に見えるのは来年。
この周期は約115日ということでした。
約四か月サイクルなので、公転の三か月とは無関係です。

るなが知りたかったのは
「水星が三か月で太陽を回る事と、水星が朝か晩に見えることは関係があるのか」
ということで、結論は「関係なし」でした。

三石に込めた水星の公転周期とはいったい何なのか、謎のままです。


次、行きましょう。

<垂迹の教えが普及する頃は、天竺の弁財天なる水源の女神を置き、また妙見を立てるところもあった>
本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。(Wikipedia)


神々の国に仏教が入ったとき、神と仏とどう折り合いをつけるのか、
当時の誰もが疑問を持ったことでしょう。
神々への信仰を捨てて仏だけに帰依する事はできなかったと思います。
そこで、神々は仏の化身として先に現れていたんだと、
上手く説明したわけですね。

「水の神」はインド(天竺)ではサラスワティー、
中国で弁財天といいます。
日本では市杵島姫と、名前が変わります。
弁財天の真言「オン サラスバティ エイ ソワカ」に
「サラスワティ」が出て来ますね。

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水の女神の持つ琵琶というアイテムは日本にも伝わりました。
でも、市杵島姫とサラスワティーでは微妙に違いますね。
そこが垂迹説の苦しいところかな。

また、水を祀るシンボルとして、他に「妙見」が挙げられていました。
「妙見」とは妙見菩薩であり、北極星や北斗七星の信仰でもあります。
これらは各地で融合されて行ったわけですが、
宇佐だけはこれを許さなかったというのです。
いったい、どういうことでしょう。

先を読んで行きましょう。
(中略)
蹈鞴で作った金石珠玉の類を「ささくり」という。
「ささ」とは月齢三日の朔の月形の形容であるが、
時には朝、すなわち朝晨あるいは黎明の空をも言った。
「あさ」とは蹈鞴の底のごとく虚にして偏を言ったのである。
「くり」とは重く凝結した金石であって、古人は星辰、
あるいは隕石そのもの又はその化身と信じていたのである。

胡人は「土よく気を放せば石を為す」のことわざを心にしていた。
石は結晶水を得て風化した果てに土になり、
土は結晶水を解離すれば金を産む道理を
数千年昔の風姓呂氏の頃から知っていたのである。

太陽の至近距離を巡って、朝に姿を見せ、昼に姿を消す水星を
蹈鞴の中の燃えさかる炎と渦巻く金のしたたりに
見立てていたのかもしれない。
山頂に立てられた三石、即ち「ささくり」は風を呼び、
雨を招く三種の神器であった。


<「あさ」とは蹈鞴の底のごとく虚にして偏を言ったのである。>
この蹈鞴(たたら)とは蝋石(ろうせき)という柔らかい石で
加工された坩堝(るつぼ)のことで、出雲のタタラとは別のものです。

この坩堝には穴が開いていたのですが、
それが中心でなく偏った所に開けられていたそうです。
ですから「虚にして偏」とは、坩堝の中が空っぽで、
穴が偏った所にあるという意味になります。

その状態を「あさ」と言ったということですから、
夜が明けて星々が消えて空っぽになった空に太陽だけがあって、
そのかたわらに水星がポツンと見えるようすを「虚にして偏」と
言うのでしょう。

<「くり」とは重く凝結した金石であって、古人は星辰、
あるいは隕石そのもの又はその化身と信じていた>

私たちは鉄の材料として砂鉄や鉄鉱石を思い浮かべますが、
古代人は葦や隕石からも鉄などを取り出していたそうです。

坩堝から取り出した金や鉄の粒(つぶ)を見て、
それは星の化身だと思ったということになります。
そういえば、隕石って星のかけらだから化身と言えますね。


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この写真はちょっと違う例だけど、隕石を彫って造られた仏像です。

日本の仏像とはずいぶん姿が違いますね。
2012年の記事を引用します。

1938年にナチス親衛隊(SS)の探検隊がチベットから持ち帰った仏像は、隕石(いんせき)を彫って作られていたという論文が26日、科学誌「Meteoritics and Planetary Science(隕石学と惑星科学)」に発表された。

   アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の「第三帝国(Third Reich)」と宇宙からの「財宝」の結びつきを示した独オーストリアの合同研究チームによる調査結果は、まさに映画『インディ・ジョーンズ(Indiana Jones)』を地で行くような話だ。

 鉄分を多く含む岩石で作られていることから「アイアンマン(Iron Man、鉄の男)」と呼ばれるこのチベット仏像は、動物・民俗学者エルンスト・シェーファー(Ernst Schaefer)が率いるSS探検隊がドイツに持ち帰ったもの。

(c)AFP 2012年09月27日 12:04 発信地:パリ/フランス 引用
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2904113/9587885?ctm_campaign=txt_topics


この像を見て、隕石って意外に加工しやすいんだなと思いました。
鉄を多く含んでいると書かれているのをみて、
古代人が隕石から鉄を取り出したというのも、あり得るんだと思った例でした。


<蹈鞴で作った金石珠玉の類を「ささくり」という>
これについて、他の所に椿の種に例えた話が出て来ます。

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これは庭の椿の実の今朝の状態です ^^ グッドタイミング ♪
赤い椿の実は、熟すと皮が三つに割れて、中から三つのクリが出て来ます。
これが「ササクリ」のイメージです。

「蹈鞴の産物の金石」も「山頂の三石」も同じように「ささくり」と呼ぶ理由について、
真鍋は次のように考えました。

<太陽の至近距離を巡って朝に姿を見せ、昼に姿を消す水星を、
蹈鞴の中の燃えさかる炎と渦巻く金のしたたりに見立てていたのかもしれない>


水星が朝見える時には、太陽に近いので次第に光を失います。
その様子と、燃え盛る炎の中にポツンと生じる金と
重ね合わせているのではないだろうかという意味でしょうね。



以上、過去記事を再掲してみた。

古月が六ケ岳から発する三条のラセンと椿の三つの実は関連あるのだろうか。
宇佐宮がもともと鞍手にあったという話と御許山はどうか。

手が届きそうで、届かない。






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by lunabura | 2016-01-14 21:13 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(22)

安心院 米神山の巨石群


安心院

米神山安心院の巨石群


 さて、安心院(あじむ)の佐田京石の上にある米神山には巨石群があるのですが、私は発見に失敗しました。しかし、tatsuさんが、見事な写真を撮ってあり、送ってくださいました。

百聞は一見に如かず!

まずはご覧あれ♪説明文もtatsuさんです。


***


9年前の米神山頂・コシキ石・京石の写真がありましたのでお送りします。
安心院周辺も丁寧に調べるといろいろ出てきそうですね。

画像の説明は次のとおりです。


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(1)京石-1:石柱の配置は昔とは違うらしいです。同形の石は町内の他の場所にもあって、
石の下から写経が出土した例もあるということで、
今のところ埋納経の標石という説が有力です。






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(2)京石-2:他の立石とは違い少し角ばっています。このような形状の
比較的大きな石に「猿田彦大神」と彫られたものを菊池・玉名地域の
神社境内でいくつか見かけます。Web情報では英国の遺跡にはこの形状の
石の縁にケルトのオガム文字が刻まれたものがあるようです。







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(3)月の神石:柱状節理が倒れたもの。自然の造形でしょうが崇拝の対象に
なったかもしれません。







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(4)登山道沿いの巨石:登山道沿いの一部にはこのような石、節理の露頭
が連なります。






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(5)米神山頂の様子:小さな石が散在しています。環状に見えるような
角度からの一枚。










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(6)小さな立石越しに見る由布岳:由布岳に向かって寄り添う二人の後姿…
みたいでいい感じです。









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(7)コシキ石と米神山:るなさんが言われたように、山頂より上を指しています。









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(8)コシキ石:円筒形の石は傾いた、ではなく傾けてあるようです。
筒は強風を発したでしょうか。




チェリーさん。
地図上で見つけたライン、見事に見えていますよ!





以下は、前回の「佐田京石」でいただいたコメント集です。


チェリー
lunaさん、ありがとうございます!!
びっくりして、ひっくり返りそうになりました!
私のコメントに合わせて一話UPしてくださるなんて…感激です!
今年はいい年だったなぁ〜

30基ほどに減ってしまったかもしれませんが、この写真を見るだけでも壮観ですなぁ〜日本でここだけじゃないでしょうか?

私が見ていたのは「巨石 イギリス・アイルランドの古代を歩く」という山田英春という方の写真集でした。とても似た風景です。どうしてだろう?

「こしき岩」の位置も特定できました。ここが由布岳の頂上の真北に一番近いです。0.1°くらいしかずれてないです。

京石付近も含めて、火口部の真北になります。私的に、山中の祈る場所がラインでつながれることによって、米神山は由布岳と一緒になったと考えますから、妻垣神社は由布岳につながっていると言えるかもしれません。(ちなみに、由布岳頂上の真西は、大善寺玉垂宮の近くの「御塚古墳」です)

ありがとうございました。元気たくさん出ました!!
調べることがありましたら、何でも言ってくださいね!
といって、私流の調べ方しかできませんけど…


るな
由布岳とは意外ですが、おもしろいラインですね。
素朴なストーンサークルなら、そっくりさんがインドにも、スコットランドにもありました。
地名も似たものが世界中にあるんです。

チェリー
引っ張って申し訳ないのですが、自分のコメントがわかりにくかったので、もう少しだけ…

由布岳からラインでつなげたのが、「こしき岩」と「京石」です。この「祈る場所」ができたことによって、米神山に由布岳がプラスされたと考えるようです。

次に、米神山の頂上と「妻垣神社」が別のラインでつながれるのですが、それは、由布岳がプラスされた米神山からのラインになっているということのようなのです。

もうすぐUPしますが、「筑後国一宮「高良大社」 その23 松阪の櫛田神社(4)」でも、同じような例を取り上げます。

も少しだけ…
「京石」付近は「福智山」から 119.9°になります。120°のラインなのかもしれません。「賀茂神社」が「福智山」から179.9°です。ほぼ真南になりますので、関係があるかもしれません。



tatsu
昔懐かし米神山です。頂上に点在する石の中に、ほぼ真南の由布岳を向くように小さな立石がありました。

この線上から逆に米神山を見ると頂上には天神アンの北極点があるわけでして、米は八角でアンの印でもあり、線上のどこかに北の遥拝所があるかもしれません。

また、コシキ岩は頭の石を外すと暴風が吹くという言伝えで、野ダタラに関係しているのではと思いました。風神だったら天神アンの子アネモスでしょうか。

国東半島周辺は鬼と呼ばれた製鉄部族がいたところ。近東から彼らと一緒に渡来したメソポタミアの神々の名残が残っているのかもしれないと想像します。

登山の翌日は巨石祭りの日でしたが、あいにくの雨で場所を公民館に移しての祭事となりました。参加者が多く、巫女舞の奉納もあり盛大でした。

時代が変わって人が変わっても、こうして巨石との関わりが続いているのは素晴らしいことだと思います。

るな
チェリーさん、tatsuさん、コメントありがとうございます。
お二人の話が補完しあっていて驚いています。
チェリーさんの見つけたライン上に石が置かれていたり。
米神が天神アンとすると、「米神」の意味がよく分かります。

こしき岩は誰かがセメントでくっつけていましたが、実際は儀式の時、はずした可能性もあるんですね。あの付近の謎の手掛かりがあって、目からウロコです。



tatsu
こんばんは。シンポジウムお疲れさまでした。

るなさんの一連の記事を読んで、安心院の重要性を改めて感じます。記事にありましたように、アジムはアズミなのでしょう。

観光案内では昔この地は湖だったのが次第に干潟になって芦が生え、「芦生(あしぶ)の里」から「あしふ」、「あじむ」と転訛したということですが、これはスズ鉄を採取していた部族がいた可能性を示しています。

米神山は天神アンではないかと言いましたが、メソポタミアの天神アンは数詞60で暗喩され、シュメール語で60は「アッシャム」、それがアッシム、アジムと変化したのではないかともいわれます。

そうであれば、安曇族とはアッシャム族、天神アンを信仰した人々のことで、コシキ石の暴風伝承も天神アンの子、風神アネモス(エンリル)を信奉する製鉄部族としての安曇族のものであったと思います。

さらに、このアネモス(エンリル)のもう一つの表し方に、「アヅ・アッシャム・アヅ・アン・ナ・エン・リル」=「父・60・父・天・の・神・風」があり、この音が変化して「トヨ・タマ・ヨリ」となり弥生時代の倭人はそう呼んでいた、つまり豊玉姫と玉依姫は元々一つの名で、宝満・高良玉垂も同様の変化で今の発音になったといいます(川崎真治説)。


海神の娘、豊玉・玉依姫は父60天神の子、風神姫だった!
というトンデモ系愛好家垂涎の結末へと進んで行くわけですが、製鉄や帆走に風は必要不可欠で、るなさんのブログや講演にあるような別の視点から見ても、この説まんざら間違いではないように思えます。


るな
tatsuさん、こんばんは。
これは興味深い話ですね。
古代のメソポタミアの言語、面白いです。
安曇族は中東から来たのですが、持って来た神々の元の姿かもしれませんね。
川崎真治説を検証する力量はありませんが、しっかりと耳を傾けたいと思います。


 * * *


さて、9月30日のシンポジウムは熊本や久留米など、遠くから来て下さった方々もあり、嬉しく思いました。

パネラーの皆さん、私と同様に福岡の伝承を引き継ぎ、次世代に届けたいという熱い思いでいらっしゃったので心強く思いました。

パワーポイントなしの説明だったのですが、面白く思っていただけたらありがたいです。

5日には九大のイベントで、志賀島の話をします。
早めに来られると、「甕のおとなひ」のDVDが見られます。
すごく感動した現代神楽です。
細胞に響きました。

ホームページに書かれている締め切りは、三日通しのプログラムの申し込み期限だそうで、フォーラム2はまだ大丈夫だそうです。ふるって御参加ください。



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by lunabura | 2015-09-01 21:28 | 宇佐・安心院 | Trackback | Comments(4)

安心院 佐田の京石


安心院 佐田の京石




安心院にある不思議な巨石群。
その中の京石だけ撮影していたので、UPしますね。


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このように看板にはあるけど、登山しても、巨石群を見つけることができなかった山です。

看板の左下に小さく描いてある「こしき岩」がベンベン石と言った分です。
その写真は撮ってませんでした(^_^;)
堀田氏がこれはベンベン石だと言ってましたが、ちょっと違いましたね。


以下に「こしき岩」の画像があります。

佐田京石
http://www.yado.co.jp/kankou/ooita/kunisaki/sada_kyouisi/kyouisi.htm

山と組み合わせた画像がなくて残念。
この「こしき岩」は米神山の山頂よりさらに上方を指していたような…。


数度、行ったのですが、何でか、どうも相性が悪くって (/・ω・)/

チェリーさん、在庫はこんな感じでした (´・ω・`)
すまぬ。




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by lunabura | 2015-08-27 20:45 | 宇佐・安心院 | Trackback | Comments(7)

八幡の謎(1)水星と御許山の磐座


八幡の謎(1)
水星と御許山の磐座

今回から、真鍋大覚の著作を通して八幡の謎にチャレンジです。
これまで八幡は、るなにとって漠然とした世界でしたが、
宇佐と安心院という現地に立つと、
物部氏の伝える星の伝承がいくらか理解出来るようになりました。

さあ、誰も知らない古代の日本にご招待。
                         (『儺の国の星・拾遺』一部改変)
宸位星(水星・マーキュリー)      p67
(略)
祖先は人間の生命の発祥を星に求め、日に求め、広くは空にあると信じた。天の聞こえざる声を聴くに、山頂に三個の巨石を安置し、もって神域と定めた。水星の太陽を周(めぐ)るに三月を要する所以であった。豊後宇佐の御許山(647.0米)の遺跡がこれである。

九州でも各地に巨石が置かれた所がありますが、三石は天の声を聴くための神域だと真鍋は言います。

あいにく、御許山(おもとやま)の神域は立ち入り禁止ですが、
熊本の三石を並べた遺跡に行ったことがあります。

それは山頂から少し下った所にあり、三つの巨石が並んでいました。
そこに連れて行ってくれた人が言うには、
「大中小それぞれ、世界、国、個人の祈りを捧げる所だ」と夢で教えられたそうです。

その三石は東を向いていたので、三人それぞれ磐座を背にして
昇ってくる太陽の光を受けました。
太陽と、太陽の光を受けた磐座の波動に挟まれるという特殊な空間に感激しました。

こんな使い方もありかな、とも思っているのですが、
そのアイデアを得たのは、押戸石山の磐に座った時でした。
押戸石山の山頂には磐座があって、不定形のストーンサークルを描いているのですが、
私がひそかに王者の椅子と呼ぶ石があります。

座れるようになっていて、ちょうどリクライニング椅子のように、もたれかかる事が出来ます。
しかし、大き過ぎてつらいです。
その横にちょっと小さい玉座があり、そちらの方が人間には良いサイズでした。

そして、その夜、玉座の正面には冠座が輝いたのです。
それを見て、私は、王になる人が儀式を受ける岩ではないかと妄想したものです。
星と星の光を受けた岩の波動の間の人間、てことですね。


このような椅子は他の山中にもありました。

磐座って、サイズの基準が普通の人間よりも、当然大きいのですが、
与那国島海底遺跡が出て、石段を見た時、
ああ、このサイズの人たちがやはりいたんだと思ったものです。
今では、2m以上の人骨が世界各地から出土していますね。


おっと、話がそれました。もとに戻りましょう。

御許山の磐座が三個の理由は、水星が太陽を周回するのに三か月要することに起因すると真鍋はいいます。
ウィキペディアを調べると「水星の公転周期は約88日である」とありました。
確かにほぼ三ヶ月ですね。

真鍋の本には
「太陽をめぐるに87.98784日を要し、これを約三朔望月に達するところから、三圍(みゐ)の星の名もあった。やがて水星の名の発祥と倭人は解し、御井(みゐ)の星の名を脳裏に浮かべていたらしい」とありました。

太陽の近くにあるので、黎明の時、そして日没時に見るため、晨星(しんのほし)、略して辰星(しんのほし)とも言ったそうです。
(晨とは「あした」とも読み「早朝」という意味です)

c0222861_23185113.jpg

(今日の夕方5時ごろ。水星は金星より太陽の近くに)

御許山の三石を聖地とした人たちは、水星が太陽を三か月かけて公転するということに
意義を見出す人たちということになりますね。

つづきを読みましょう。

小熊座を手長星(てながのほし)、大熊座を足長星(あしながほし)と言った。

極東に移り住んだTroya(トロヤ)民族は斗極の形を見ては直ちに水汲み水すくいの仕事を連想し、これがいつしか水星を辰星と重ね合わせる信仰に到達したものらしい。

黄河は北から南に流れる水域があって、これが秦嶺に当たるところに漢人が周(前1122~250)以来、唐(618~975)に至るまでの文明を形成した。

漢人は北が即ち水源であったことになる。ここに玄武なる沙漠の海無し沼の神格を与えて、水星を配したのである。

清少納言の随筆でしたか、「手長・足長」と出て来ますが、これは小熊座と大熊座の名だそうです。

c0222861_23193978.jpg

(上のイラスト、足長を書き間違えてます <(_ _)>)

トロヤ民族は日本に来て、初めて北斗七星が水を汲む姿を見たのでしょう。
北斗の水汲みは玄海灘から響灘の現象でしたね。
「これがいつしか水星を辰星と重ねわせる信仰に到達した」という意味はよく分かりません。

黄河の中でも北から南に流れる流域に周から唐の文明があったために、
「北といえば水源」というイメージが出来て、
玄武(北の聖獣)の坐す北の星として水星を配置したということになります。

玄武とはちなみに、亀に蛇が巻き付いた形をしています。
奈良県明日香村のキトラ古墳や、韓国の装飾古墳にも見られますね。

c0222861_2320396.jpg

亀と蛇か…。キダとも読めるな…。
佐田神社の亀蛇がこの玄武だとすると、るなの亀蛇考は水泡に帰すかも。

(つづく)




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by lunabura | 2015-05-12 22:47 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(13)

八幡の謎(2)「ささくり」三石の磐座と坩堝から出来た金


八幡の謎(2)

「ささくり」三石の磐座と坩堝から出来た金

水源を中世は「みなもと」とよび、神代は「をもと」といった。水星三囲により、水源の大地に三石をあげて、その安泰を祈った。これを「みつくり」と呼び、近世は箕作(みつくり)と書いた。百姓は水を遣り繰りする神を見ていた。

天台の儀式華やかに三位一体の神仏たがいに垂迹の教えが普及する頃は、天竺(てんじく)の弁財天なる水源の女神を置き、また妙見を立てるところもあったが、八幡の本地なる宇佐だけは、あえてこれを許さなかった。
 (『儺の国の星・拾遺』p67)

<水源を中世は「みなもと」とよび、神代は「をもと」といった
これで思うのですが、源氏の「みなもと」って、御許山信仰から付いた名なのでしょうか。
八幡信仰の聖地は御許山(おもとやま)ですよね。
のらさんにコメントいただいてから、気になっていました。

以前、こんばんわんさんが指摘されたように、元宮の件も
宇佐八幡宮は御許山を遥拝していて、大分八幡宮との縁に出会うこともありませんでした。

地図 赤 御許山   青 宇佐八幡宮 

(写真モードに替えると地形がよく分かります)


<水星三囲により、水源の大地に三石をあげて、その安泰を祈った>
「水星三囲」とは水星が太陽を一周するのに約三カ月かかるという意味と思われ、
水源に三つの石をあげるのは、それが由来でした。

何故、八幡はそんな天文現象が重要なのだろうか。
水星は金星と同様に、明けの明星と宵の明星に分かれるので、
その周期と関係あるのだろうかと、プラネタリウムに尋ねました。

今年2013年の例でいくと、
水星が明け方によく見えるのは 4/11前後 7/30前後  11/18前後
夕方によく見えるのは  2/17前後 6/13前後 10/9前後
だそうです。
今日10/5は夕方に見えたはずですが(雨だった…)、しばらくはこの現象が続く事になります。

その後、明け方に見えるようになって、再び夕方に見えるのは来年。
この周期は約115日ということでした。
約四か月サイクルなので、公転の三か月とは無関係です。

るなが知りたかったのは
「水星が三か月で太陽を回る事と、水星が朝か晩に見えることは関係があるのか」
ということで、結論は「関係なし」でした。

三石に込めた水星の公転周期とはいったい何なのか、謎のままです。


次、行きましょう。

<垂迹の教えが普及する頃は、天竺の弁財天なる水源の女神を置き、また妙見を立てるところもあった>
本地垂迹(ほんじすいじゃく)とは、仏教が興隆した時代に表れた神仏習合思想の一つで、日本の八百万の神々は、実は様々な仏(菩薩や天部なども含む)が化身として日本の地に現れた権現(ごんげん)であるとする考えである。(Wikipedia)


神々の国に仏教が入ったとき、神と仏とどう折り合いをつけるのか、
当時の誰もが疑問を持ったことでしょう。
神々への信仰を捨てて仏だけに帰依する事はできなかったと思います。
そこで、神々は仏の化身として先に現れていたんだと、上手く説明したわけですね。

「水の神」はインド(天竺)ではサラスワティー、中国で弁財天といいます。
日本では市杵島姫と、名前が変わります。
弁財天の真言「オン サラスバティ エイ ソワカ」に「サラスワティ」が出て来ますね。

c0222861_23325159.jpg

水の女神の持つ琵琶というアイテムは日本にも伝わりました。
でも、市杵島姫とサラスワティーでは微妙に違いますね。
そこが垂迹説の苦しいところかな。

また、水を祀るシンボルとして、他に「妙見」が挙げられていました。
「妙見」とは妙見菩薩であり、北極星や北斗七星の信仰でもあります。
これらは各地で融合されて行ったわけですが、宇佐だけはこれを許さなかったというのです。
いったい、どういうことでしょう。

先を読んで行きましょう。
(中略)
蹈鞴で作った金石珠玉の類を「ささくり」という。
「ささ」とは月齢三日の朔の月形の形容であるが、時には朝、すなわち朝晨あるいは黎明の空をも言った。
「あさ」とは蹈鞴の底のごとく虚にして偏を言ったのである。
「くり」とは重く凝結した金石であって、古人は星辰、あるいは隕石そのもの又はその化身と信じていたのである。

胡人は「土よく気を放せば石を為す」のことわざを心にしていた。石は結晶水を得て風化した果てに土になり、土は結晶水を解離すれば金を産む道理を数千年昔の風姓呂氏の頃から知っていたのである。

太陽の至近距離を巡って、朝に姿を見せ、昼に姿を消す水星を蹈鞴の中の燃えさかる炎と渦巻く金のしたたりに見立てていたのかもしれない。山頂に立てられた三石、即ち「ささくり」は風を呼び、雨を招く三種の神器であった。


<「あさ」とは蹈鞴の底のごとく虚にして偏を言ったのである。>
この蹈鞴(たたら)とは蝋石(ろうせき)という柔らかい石で加工された坩堝(るつぼ)のことで、
出雲のタタラとは別のものです。

この坩堝には穴が開いていたのですが、それが中心でなく偏った所に開けられていたそうです。
ですから「虚にして偏」とは、坩堝の中が空っぽで、穴が偏った所にあるという意味になります。
その状態を「あさ」と言ったということですから、
夜が明けて星々が消えて空っぽになった空に太陽だけがあって、
そのかたわらに水星がポツンと見えるようすを「虚にして偏」と言うのでしょう。

<「くり」とは重く凝結した金石であって、古人は星辰、あるいは隕石そのもの又はその化身と信じていた>
私たちは鉄の材料として砂鉄や鉄鉱石を思い浮かべますが、
古代人は葦や隕石からも鉄などを取り出していたそうです。
坩堝から取り出した金や鉄の粒(つぶ)を見て、それは星の化身だと思ったということになります。
そういえば、隕石って星のかけらだから化身と言えますね。


c0222861_2333933.jpg

この写真はちょっと違う例だけど、隕石を彫って造られた仏像です。

日本の仏像とはずいぶん姿が違いますね。
2012年の記事を引用します。

1938年にナチス親衛隊(SS)の探検隊がチベットから持ち帰った仏像は、隕石(いんせき)を彫って作られていたという論文が26日、科学誌「Meteoritics and Planetary Science(隕石学と惑星科学)」に発表された。

   アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の「第三帝国(Third Reich)」と宇宙からの「財宝」の結びつきを示した独オーストリアの合同研究チームによる調査結果は、まさに映画『インディ・ジョーンズ(Indiana Jones)』を地で行くような話だ。

 鉄分を多く含む岩石で作られていることから「アイアンマン(Iron Man、鉄の男)」と呼ばれるこのチベット仏像は、動物・民俗学者エルンスト・シェーファー(Ernst Schaefer)が率いるSS探検隊がドイツに持ち帰ったもの。

(c)AFP 2012年09月27日 12:04 発信地:パリ/フランス 引用
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2904113/9587885?ctm_campaign=txt_topics


この像を見て、隕石って意外に加工しやすいんだなと思いました。
鉄を多く含んでいると書かれているのをみて、
古代人が隕石から鉄を取り出したというのも、あり得るんだと思った例でした。


<蹈鞴で作った金石珠玉の類を「ささくり」という>
これについて、他の所に椿の種に例えた話が出て来ます。

c0222861_2334273.jpg

これは庭の椿の実の今朝の状態です ^^ グッドタイミング ♪
赤い椿の実は、熟すと皮が三つに割れて、中から三つのクリが出て来ます。
これが「ササクリ」のイメージです。

「蹈鞴の産物の金石」も「山頂の三石」も同じように「ささくり」と呼ぶ理由について、
真鍋は次のように考えました。

<太陽の至近距離を巡って朝に姿を見せ、昼に姿を消す水星を、
蹈鞴の中の燃えさかる炎と渦巻く金のしたたりに見立てていたのかもしれない>


水星が朝見える時には、太陽に近いので次第に光を失います。
その様子と、燃え盛る炎の中にポツンと生じる金と重ね合わせているのではないだろうか
という意味でしょうね。

(つづく)


アイデアをくださいな。
<数千年昔の風姓呂氏の頃から知っていたのである>の「風姓呂氏」が分かりません。


コメントとメールをくださった方へ。
少し返事が遅れています。待っててくださいね。




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by lunabura | 2015-05-12 22:46 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(13)

八幡の謎(3)風姓呂氏


八幡の謎(3)

風姓呂氏

前回、分からなかった「風姓呂氏」について、コメントで教えていただきました。
助かりました (^o^)/
関連する部分だけ、掲載させていただきます。

桜もちさんより。
「風姓呂氏の頃から知っていた…」とは、呂不韋の『呂氏春秋』のことを指しているのでしょうか。
内容に関しては殆ど無知なのですが…当時最高水準の百科事典だと始皇帝関連の本で読んだような…。
記憶が曖昧なのでスルーして下さい…。

いえいえ、スルーできませんぞ。
私も、たまたま資料を見ていたら、『呂氏春秋』が出て来たので、
これかも!と思ったところでした。
秦の始皇8年(紀元前239年)に完成したそうですね。

こんばんわんさんより。
風氏呂氏は「古代中国(春秋時代以前?)」といった意味ではないでしょうか?
風氏は中国建国神話に出てくる有名な女禍などが風氏であったとあります。
呂氏は桜もちさんの言う春秋時代の呂氏(秦の宰相)などしか私も思い浮かびません。。。

 参考:『中国姓氏事典』
「上古、三皇の一人伏羲氏(太昊)がこの姓を伝えた。また女媧氏も風姓であり、
春秋時代、宿、須句、顓、臾等四国を治めた者は、すべて風姓を名乗ったという。」

 ちなみに、私もにわか勉強してみたところ、この風氏はシュメール人の風の神「エンリル」に通じるものがあり、エンリルの神の秘数(トーテム)は「50」だそうです。

このエンリルも黄泉の国に行かされたり、戻ったりしており、日本の神話との相似性も伺えます。また、シュメール人の暦(古代バビロニア)は、日本との旧暦と似ている点があるそうで一日は日没から始まるそうです。

日が暮れて政務をしていた古代日本もそうだったのかもしれませんね。

なるほどですね!
興味深い話ばかりです。女媧(じょか)に姓があったとか想像もしませんでした。

女媧とは。

中国神話の女神。半人半蛇の姿。伏羲の妹であり、夫婦であるという。三皇(伏羲、女媧または黄帝、神農)の一人。

女媧は伏羲のあと王になった。人間を土(黄土)から創ったという。はじめは丁寧に、疲れてくると縄を泥につけ、ぐるぐる回し、泥がはねて人間になったという。できの良い人間と悪い人間の差はこのせいだという。
http://www.jiten.info/dic/asia/joka.htmlより

c0222861_20463224.jpg
伏羲(ふっき、ふくぎ)
二人の持ち物を見てください。コンパスと定規を持っています。
周囲にあるのは星座ですね。時代は古いぞ。
兄の伏羲の方を調べてみました。

伏羲(ふっき・ふくぎ、- Fu Hsi または Fu Xi、紀元前3350年~紀元前3040年)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・包犠・庖犠・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。

三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は鳳(凤)姓。兄妹または夫婦と目される女媧と同様に、蛇身人首の姿で描かれる。伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる。また、現在の中国では、中華民族人文の始祖として崇拝されている。  wikipedia





これで時代が分かりました。
春秋時代は紀元前771年~前403年。
風姓の時代になると紀元前3350年~紀元前3040年。

この時代の技術。金星の和名の再掲です。
c0222861_2218363.jpgc0222861_22185728.jpg


これは鐘ですが、左が紀元前9世紀のもの。右が紀元前3世紀のものです。
左の物とか、女媧より古い (@_@;)
古代の技術はどうしてこうも高度なんだい。

なるほど、真鍋大覚もこれを背景にして、風姓呂氏を古代中国という意味で使っているんですね。

それにしても、のらさんのコメントに、「黄帝社が須佐にある」とあったのも、
気になります。
須佐は良く読む作家さんの本の中に広島の三次を囲むように三角形が出来る拠点の一点が須佐の高山と言う事で興味を持っていた位です。
高山は昔は『神山』と言われていたらしいですね。
黄帝社なる神社があるそうですが、ココも神様の変換があったようです。

黄帝という名前は日本的じゃないので、どうしてこんな名が?
と気になったのです。
そうしたら、上で引用した中に、
三皇とは「伏羲、女媧または黄帝、神農」とあるではないですか。
祭神は誰だろう。

気になるシンクロニシティですね。

さあ、とりあえず、これで続きを読む準備ができたぞ。^^v





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by lunabura | 2015-05-12 22:45 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(0)

八幡の謎(4)八幡とは星占なり


八幡の謎(4)

八幡とは星占なり


前回、文中の「風姓呂氏」が伏羲と女媧の時代~春秋時代を指していることを確認しました。
それを踏まえて真鍋大覚のつづきを読みましょう。p68

占星術は春秋の頃、すでに王室で主に君子の運命をはかる方策であった。晉代(265~420)続いて魏代(220~265)には毎晩の星座をみて、くる日くる日のなすべき仕事を案じていた。

倭人は(占星術を)唐代(618~975)には辰方(しょうほう)、宋代(960~1179)には正法(しょうぼう)とよんだ。貴族のいわゆる方違え(かたたがえ)なる訪問の道順、旅程にはすべて辰位(=星)によって選んだのである。

称徳帝(718~770)と弓削道鏡(712~772)の真意を糺す(ただす)べく和気清麻呂(733~799)は宇佐八幡宮に下向した。葛城一言主(ひとことぬし)は星占の祈祷を特に濫用して、事あるごとに平城京を譎詐権謀(きっさけんぼう)の渦中に入れ、多くの氏族をたがいに殺戮させていた。

その頃の宇佐は、日本における世界教の中枢的存在として日本の国運を太宰府の背景のもとに客観的に展望していた。

昭和16年(1941)大東亜戦争の可非をめぐって羅馬(ローマ)法王に特使を派遣する提案が下された事実は、まさに天平の昔によく対応するところである。


紀元前3000年以上前の「伏羲と女媧」の絵には定規とコンパスと星座が描かれていましたね。
古代中国では占星術は王室で使われ、倭人はそれを辰法、正法と呼んだそうです。
日本の貴族の方違えが星占いで決められていたとは想像もしませんでした。

宇佐八幡宮に和気清麻呂が来たのは、弓削道鏡の件のためですが、
文脈からは、その当時、平城京でも占星術が行われていたという事になります。
葛城一言主が星占いをしていたというので、「一言主大神」をネットで調べたら、
賀茂氏なのですね。八咫烏。

賀茂氏といえば、製鉄の技術を持っていましたが、製作するのは主に農具などでした。
その賀茂氏が、占星術の知識もあって、平城京で濫用していたというのですから、チョー驚きです。

奈良では渡来人たちが各地に集落を作ってバランスを保っていたのでしょうが、
互いに殺戮させていたとは。
何だか、小説のネタになりそうな…、新情報です。

その頃の宇佐もまた占星術が行われていて、国際性を失わずにいたと解釈できますね。
昭和になって、大東亜戦争の可非をめぐってローマ法王に特使を派遣する提案を下した件が、
奈良時代と対応するというのですから、
宇佐が特別な立場を保ち続けた背景を垣間見る思いです。



次は「磯城星(しきのほし)ヘラクレス座 ラス アルゲーチ星」
の所に出て来る文です。   『儺の国の星・拾遺』p69

八幡とは星占(からまに)、すなわち辰方(しょうほう)のことであった。
(略)
八幡の神術は人類の歴史と共にはじまり、八百万の星の数だけあったはずであるが、今はその全容を知る人はない。そして、八幡信仰の発祥や由来を唯物弁証法的に解明する学者はいない。


ずばり、八幡とは占星術のことだと言います。
宇佐が謎めいて見えるのも、このような背景があったのを、
私たちはどこか深い所で感知していたのでしょうか。
それは日本人の集合意識の深みで感知するような感覚です。

この話を読んで、ああ、そうだったのかと、どこか腑に落ちるのが不思議です。
皆さんも、そうではありませんか?



c0222861_23395065.jpg

(宇佐神宮)


c0222861_23401049.jpg

これは宇佐神宮の境内にある弥勒神宮寺あとです。
写真に写っている説明板を写します。

弥勒神宮寺の成立
宇佐神宮関係の史料によれば、725年に八幡神を現在の小椋山に遷した時、東方の日足の地に弥勒禅院を建てたことが記されています。
(略)

八幡神の成立
八幡神は応神天皇のことであり、西暦571年に宇佐の地に現れたと伝えられています。朝廷が編纂した「続日本紀」にはじめて登場した737年以降、八幡神は中央政府との関係を急速に深めていきました。

そして、740年に聖武天皇が進めた東大寺大仏建立に協力する託宣(おつげ)を行うなどの功績があったことから、国家神としての地位を持つようになりました。

やがて八幡神の託宣は朝廷から庶民にいたるまで広く信頼されるようになり、769年の道鏡事件でも大きな影響力を示しました。


この託宣を占星術の結果と読み替えると、なるほど、よく当たるはずだと思っちゃいました。


(つづく)




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by lunabura | 2015-05-12 22:44 | 八幡の謎 | Trackback | Comments(6)
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綾杉るなのブログ 神社伝承を求めてぶらぶら歩き 『神功皇后伝承を歩く』『ガイアの森』   Since2009.10.25


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