ひもろぎ逍遥

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タグ:宗像三女神 ( 55 ) タグの人気記事

ひめちゃご18 景行天皇の三女神信仰から見えるもの



ひめちゃご18

景行天皇の三女神信仰から見えるもの
 



そういえば、景行天皇は三女神の縁が深い。
景行天皇が三女神を祀った宮が二つあったことを思い出した。

一つは朝倉の福成神社。
もう一つは久留米市の赤司八幡神社である。

そのいずれもが水沼族の領土だったと考えてよいだろう。
そこは筑後川水系である。



景行天皇を道案内したという「猿大海」(さるおおみ)の館は
赤司八幡神社にあったという話を宮司から伺った。

猿大海は景行天皇を自分の館に連れて来たことになる。
天皇はそこで詞壇を構え、三女神を祀った。
その三女神を「道主貴」(みちぬしのむち)という。

『日本書紀』では「三女神を祀っているのは水沼の君」という伝承も書いていて、
その現場がこの赤司八幡神社となる。

「水沼(みぬま)三女神」と「宗像(むなかた)三女神」は違うのか。
否。
同じだと思う。

多分、「みぬまさま」という意味で「みぬま方」と言われたのが
「むなかた」に訛ったのだろう。

水沼族は水軍を持っていたが、筑後が洪積平野となっていくにつれて、
水軍力が発揮できなくなった。

のちにその水軍力を玄界灘で発揮したのだと思う。
そのきっかけは三韓遠征だったと考えている。

筑後川は有明海が深く進入していて、干満の差が激しかった。
そのピークは一日に50分ずつずれていく。
月の観測は欠かせない。
月の観測に長けていた水沼族は太陽暦との調整も長けていた。

だから、川から海へと拠点を移しても新しい環境にうまく順応したのだろう。


この月の観測が「水沼」という巫女の祭祀を支えた。
満月の夜に月の変若水を水に写し、貴人に捧げたのが「水沼という巫女」なのだ。

そうすると「みぬま」は月の巫女であり、水の巫女でもあったということになる。
その巫女がそのうちに神と称されたという。

「みぬま」-「二女神」-「月の女神」「水の女神」
そんな流れが心に浮かぶ。

「ひめこそ」は「星の女神」「水の女神」といったところか。

水沼については、「下巻56赤司八幡神社・78大善寺玉垂宮」を
併せて読めばそのあらましが見えると思う。


水沼の三女神がどれほど重要だったか。

それは景行天皇が自分の代わりに国乳別(くにちわけ)皇子を
天皇代行として置いたことからも良く分かる。

この国乳別皇子が猿大海の姫を娶って水沼の祖となった。

もちろん、『祖』というのは『日本書紀』独特の書き方で、
古来、水沼君はずっと三潴(みずま)にいた。


三女神信仰は、つぎに、福成神社(下巻53)にも出てくる。
ここでも三女神を祀ったのは景行天皇だ。
のちに神功皇后、そして斉明天皇・天智天皇が参拝する。

そう、ここで再び景行天皇と天智天皇の名が重なった。

矢部川水系には安曇の名が見えた。
筑後川流域に水沼がいて、棲み分けをしていたのではないかという
古代の姿がおぼろげに浮かんでくる。

しかし、神功皇后によって大善寺玉垂宮は安曇に与えられた。
だから、氏子たちは、そこはもともと女神だったというのだろう。

三女神から玉垂命へと信仰を変化させたのは神功皇后だ。



三女神あるいは二女神信仰は景行天皇の時代までは
赤司八幡神社を最上の聖地とし、
大善寺玉垂宮はその湊として栄え、
弓頭神社は政治の地として栄えた。
そして、福成神社は水軍の訓練地における聖地だった。

こうして三女神信仰すなわち水沼君は久留米市から朝倉にかけて、
広大な領域を支配していたと考えている。

水沼君が筑紫君の始まりだった。



ここまで書いていて、今、思い出した。
大己貴信仰の宮も「大己貴神社」(旧三輪町)(上巻42)
「美奈宜神社」(林田上巻43)と、筑後川水系にあった。
この大己貴の神々もまた三韓遠征の時に玄界灘を体験していたのだ。

そうすると、二女神と大己貴の縁組はこの筑後川流域の話だったのだろうか。







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by lunabura | 2016-09-19 23:13 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(0)

ひめちゃご11 松尾弁財天3 大穴貴と狭依毘売を祀る宮



ひめちゃご11

松尾弁財天3
大穴貴と狭依毘売を祀る宮
 


八女市の3号線に沿った辺春川からさらに支流の松尾川に入って細い道を走る。





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行き止まりのような所に松尾弁財天はあった。








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鳥居に華麗な彫刻が施されていた。
ウサギということは、大国主を象徴するのか。
ここには大己貴が祀られているという。






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苔むした石段が美しい。








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石段はいくつもいくつもあるが、上りやすい。









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渓流沿いにある道だった。

あとで思えば、石段が作られる前は沢登りをしていたのだろう。








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江戸時代、柳川藩の立花の殿様が参拝して子を授かったということで、
立派な社殿が建てられている。

ここは子宝祈願の社だそうだ。


石段もまたその時に造られたのだろうか。
その前までは、かなり厳しい参拝だったに違いない。



松尾弁財天の正式名は由緒では「厳島神社(弁才天社)」となっていた。
祭神は「大己貴命または狭依毘売」となっている。


不思議な組み合わせだった。
狭依毘売は市杵島姫の別名だと『古事記』には書かれている。


大己貴命の妃はタゴリ姫と多紀理姫(あるいはタギツ姫)なので、
この二女神との組み合わせなら理解できるのだが、
物部に嫁いだイチキシマ姫と一緒だというのだから困惑する。

宮の住所は立花町大字上辺春字松尾となっている。








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この拝殿の神々が日々見ているものは磐座だ。


本来、この磐座が祭祀の始まりだったのだろう。








「ここには白蛇さまがいるという話です」と教えられた。
参拝者は卵を持っていくという。

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木の根が蛇の姿を取っていた。






幼な子が「こっちに来て」と私を川に誘う。
この宮の神縁で授かった子だという。
それなら耳を傾けねば。







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連れられて、川を見ると底が赤かった。
この川は鉄分を含んでいるのだ。

最初にこの川を遡ったのは鉄の民か。
彼らが出雲の神を祀ったのか。
鉄を与えてくれる聖なる川として。

それから、水の神である狭依毘売を祀ったのかもしれない。


思えば狭依毘売を祀った宮を参拝したのは初めてのような気がする。
イチキシマ姫とサヨリ姫は本当に同一神なのか。
そんな思いもつきまとう。



この八女には緑の川と緋(ひ)の川があることになる。

緑の川を辿った民はセオリツ姫とミズハノメを祀り、
赤い川を遡った民はサヨリ姫を祀った。

水の女神でも名が違う。

銅の民と鉄の民と分けてよいのだろうか。
あるいは安曇と出雲。

辺春(へばる)という地名の「春」の字は浮羽(うきは)の山春の字も想起させる。
加茂と物部。




そんな古代の民に思いを馳せた。






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by lunabura | 2016-09-03 21:48 | 「ひめちゃご」 | Trackback | Comments(8)

十握剣と天叢雲剣の行方



十握剣と天叢雲剣の行方


今回は、歴史カフェ「七支刀」に来られる方への予習編です。
(^^♪

歴史カフェでは「七支刀」の環境についてお話しするのですが、
ブログでは触れたことのない内容で、
初めて話す話ばかりなので、聞いていて頭の中が混乱するかも、です。


そこで、今日は、理解するための下地として、
「十握剣と天叢雲剣の違い」と、
「その行方」について予習をしておくことにしました。

参加される方、一応頭の中に入れておいでくださいね。
覚えなくていいです。
そんな感じかあ、とでも思っていただければ。

カフェに参加できない方も、楽しんでください。




十握剣と天叢雲剣

素戔嗚命(すさのお)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治しました。
この時、素戔嗚命が持っていたのが「十握剣」(とつか)です。
そして、八岐大蛇のしっぽから取り出したのが、
「天叢雲剣」(あめのむらくも)です。





天叢雲剣

素戔嗚命は天叢雲剣を天照大神に持って行きます。
天照大神はニニギの命が降臨する時、その剣を手渡しました。

そののち、天叢雲剣は天照大神を伊勢神宮に祀った倭姫(やまとひめ)から
甥のヤマトタケルに渡されます。


ヤマトタケルは敵に火を放たれた時、その剣で草を薙ぎ払ったので、
その剣は「草薙剣」と呼ばれるようになりました。

ヤマトタケルはその剣を宮簀媛(みやずひめ)に預けます。

そして、ヤマトタケルが戦死したのち、
宮簀媛は熱田神宮を建てて草薙剣を祀りました。



それから数百年後。
天智天皇7年(668年)に新羅僧の道行がその剣を盗み出しました。

その剣は鞍手の古物神社に降ってきました。
そこで古物神社に大切に祀られました。

それから、福岡県岡垣町の高倉神社に届けられました。

高倉神社では草薙剣の七口のコピーが作られ、七つの神社に配られました。
八つの神社は八剣神社と呼ばれるようになりました。





十握剣

一方、素戔嗚命が持っていた十握剣は、天照大神とのウケヒの時、
天照大神が三つに折って噛み砕きました。
その息吹から三女神が生まれました。

その三女神の降臨の地は鞍手の六ケ岳
あるいは水沼族の祀る久留米の赤司八幡神社とも言われています。

『日本書紀』には「三女神は水沼の祀る神」という話も載せています。

以上、予習でした^^


『神功皇后伝承を歩く』を持っている方は、


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11 高倉神社

17 剣神社


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18 古物神社

56 赤司八幡神社

を読んでみてください。
さらに楽しめると思います。(^^♪







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by lunabura | 2016-05-26 21:35 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(0)

「脇巫女」資料づくり



今日は、歴史カフェの資料作り。

テーマは「『脇巫女』の今」

原典を自分で読んで、直接その息吹に触れていただくというパターンが好きなので、
今回のカフェは、星読さんの出された託宣を皆さんと一緒にじっくりと
読みたいなと思って、冊子化しました。

プリンタの癖が分からず、冊子化するのに何日も何時間も費やしちゃいました。

ようやく、手に取って読みやすい小冊子ができました。
表紙でも付けるとそれなりのお顔に♪


これを改めて読むと、不思議な内容の本なのですが、
鞍手の歴史を学ぶのに格好のテキストにもなるのです。

うん、なかなか良いぞ。

鞍手の一番の宝は六ケ岳。
そして三女神の降臨神話。

これを軸にして、
セオリツ姫のこと。
ヤマトタケルのこと。
古墳のこと。
シリウスのこと。
クマソのこと。
物部のこと。
宇佐のこと。
など確認していこうと思います。

埋もれた沢山の歴史に、
ダイヤモンドのように輝く光を見る思いがします。

星読さんの託宣に加えて、解説用の資料も作っていきます。

意外な歴史観光ガイドブックになるかも、です ^^






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by lunabura | 2016-02-12 22:51 | 歴史カフェ | Trackback | Comments(2)

脇巫女26 六獄神社縁起


脇巫女26
WAKIMIKO

六獄神社
むつがたけじんじゃ


今日は肝心の六嶽神社に関して過去記事を編集しなおしてみようと思う。

西川を遡りながら町の一番大きな山に向かって行くと、
田んぼの中にぽつんと鳥居が見えて来る。

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両脇の植え込みを過ぎると石段だ。


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ひと登りすると、さらに石段と鳥居が迎えてくれる。


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だんだん古代の世界にいざなわれるようだ。


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ここちよい杜の中を抜けていく。
足元は松の落ち葉がふわふわと気持ちいい昔ながらの道だ。
ずっと奥にお宮が見えて来た。

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とても古い趣だ。
古来、賑わった華やかな残り香がそこかしこに漂っている。


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陽光が降りそそぐ、拝殿前に出た。


参拝を済ませて、案内板を読んでみた。
六獄神社由来
紀元前700年のころ、皇女三神 霊山六獄崎門峰に御降臨あり、この地を上宮と定め室木の里に下宮を建立し、安産交通安全の守護神として鎮守の杜とす。
御祭神 田心姫の神 湍津姫の神 市杵島姫の神
大祭日  春季大祭  4月8日 秋季大祭  10月17日
六獄神社社務所


今から2700年頃前に、三女神が霊山・六ケ岳(むつがたけ)の
崎門峰(さきとやま)に降臨されたので、
そこを上宮とし、麓の室木の方を下宮としたという。

三女神は現在は宗像市に祀られているが、降臨の地はこの鞍手町の六ケ岳という。

この山は特別な山として崇敬を集めていた。



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正面が六ケ岳。
最高峰から左へ、旭岳(あさひだけ)、天冠(てんがい)、羽衣
高祖(たかす)、崎戸(さきと)、出穂(いずほ)。

この山にはニニギノ命の御陵も伝わっている。
旭岳になきがらを、天冠岳に冠を、羽衣岳には衣を埋葬したという。

左手前の方にはヤマトタケルの住まいがあった八剣岳が見える。
この六獄神社は右下の方にある。

境内は巨木に囲まれて、森厳な趣に包まれているが、
裏手に木がなければ六獄を遥拝できたと思われた。


御神体は玉と鏡だった

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『福岡県神社誌』を見てみよう。
六嶽上宮としていて、
由緒は宗像三女神が影向(ようごう)された霊地である。

成務天皇7年、室木の里の里長(さとおさ)の長田彦が神勅を頂いて、
この山上に神籬(ひもろぎ)を営んだ。

これがこの神社の始まりで、昔は堂々とした社殿だったが、
享禄年間に燃えて、社殿が無くなってしまったので、
御神体を下宮に移してその後、社殿が再び作られる事は無く、
今わずかに石殿が一宇あるだけである。
 
影向(ようごうー神が一時姿を現すこと)
神籬(ひもろぎー神が降りる所)


成務天皇の御世に、長田彦に神示が降りて、
六ケ岳の山上にヒモロギを作って、お祀りをしたという。

昔は山上に社殿が建っていたのが、戦国時代に火災に遭い、
石の祠だけが残った。御神体はこの下宮に移された。

成務天皇と言えば、ヤマトタケルの弟である。
と言う事は、そばの八剣岳でヤマトタケルをもてなした記憶が
まだ新しい頃の話だという事になる。



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続きを読もう。

『宗像宮縁起』の記事に『西海道風土記』に、宗像大神が天より降って、崎門山にいます時から、
青蕤(ずい)玉」を奥宮の表に置いて、
八尺瓊(やさかに)の紫玉」を中宮の表に置いて、
八咫(やた)の鏡」を辺宮の表において、
この三表が御神体の形となって三宮に納めて、人の目に触れないようにした。
これによって身形(みのかた)郡といい、後の人が宗像(むなかた)と言い改めた。
『筑前国続風土記附録』


「奥宮、中宮、辺宮」という三つの宮のそれぞれに御神体が置かれたという。
それはどんな姿だったのだろうか。一つずつ調べて行こう。

「青蕤(ずい)玉」
「蕤(ずい)」を調べると「垂れさがる花・実」の意味とあった。
「青」は古代では「青」も「緑」も青と呼んでいた。
さらに「灰色がかった白」を指すこともある。
形は垂れさがるイメージからは勾玉だろうか。

「八尺瓊(やさかに)の紫玉」
「八尺」は長さの単位。
「八尺の長さの紐に通した」という説や「大きい」という説がある。
「瓊」は玉。
「大きな紫玉」という事か。

「八咫鏡(やたのかがみ)」
「八咫」も古代の寸法だが、「大きい」という意味で解釈されている。
真鍋は13歳の女子が両手の親指同士、小指同士を合わせた円
の大きさと伝えている。




次の写真は地元の古墳から出土した玉である。
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(鞍手町歴史民俗資料館)





地図 六ケ岳 六嶽神社 神興神社 宗像大社


福岡県鞍手郡鞍手町室木





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by lunabura | 2015-12-28 21:28 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

脇巫女23 オリオンの三つ星とミルザム?


脇巫女 23

オリオンの三つ星とミルザム?



星読から六ケ岳のシリウスの出の報告があったのはいつだったろうか。
手帳を見ると12月8日となっていた。
今日は2015年12月22日。

あの日から一夜も、星の出を観ることはできない。
今夜も薄雲が広がってオリオンの三つ星が辛うじて見える程度だ。

ステラシアターをダウンロードして星の出を観てみることにした。
今日の六ケ岳の山頂にシリウスが至る予定時刻は20:43だ。
その10分前にシリウスは鞍部に出てくるという。

星読が現地入りしていた。
20:20
星読から「三女神はオリオン座の三連星に関係あるのでは…」とメールが来た。
気になった。
六嶽神社の絵馬の三女神は二つの山の窪みの真上に
描かれていたのを考えていたからだ。

ちょうどその位置に三連星が立つなら
三女神がセオリツ姫を先導するようなイメージとなる。

20:26
「別の星が山頂から上がった」とメール。
星図を見ると「ミルザム」のようだ。
この星にも何か意味づけがあるかもしれない。


c0222861_0344177.png

20:43の星図だ。
これは福岡市からの観測図。
鞍手ではないので正確ではないが、
このシリウスの真下に六ケ岳の頂上があるイメージだ。

真鍋の本を調べると、「ミルザム」は
鐸石別星(つくしわけのほし)と言ってタタラに関連する星だった。
時代は紀元前だ。そして宇佐や和気氏にも関連があった。p218

また、じっくりと調べることにしよう。

そして、実際に見て確認しないとこれらは妄想に過ぎないのだ。




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by lunabura | 2015-12-23 00:36 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

宗像大菩薩と「なかて」シリーズの件



過去記事の<宗像大菩薩と「なかて」>シリーズに番号を打って、
順に読めるようにしました。

(1)宗像大菩薩とは男神だった
(2)紅白の「なかて」と北欧神話フライヤとユール
(3)紅旗と白旗・古代の宗像の王と旗
(4)「なかて」はメイポールと同起源
(5)古代の紅とシルク

カテゴリは「宗像大社」です。
http://lunabura.exblog.jp/i37/


「宗像族」と「水沼族」(むなかた族とみぬま族)
どちらも三女神を祀ることから、
その関係をブログの当初から考えていて、
両族は同族だという自分の仮説を検証している段階です。

宗像氏の系図を書いた本があって、祖先は「出雲族」でした。
これに関しては「宮地嶽―磐井の末裔」本でも少し触れます。

今、それらをまとめると、
「出雲族」と「水沼族」が通婚して「宗像族」となった、
という感じになるのかな…。

宗像族にとっては、父系が大国主命で、母系が三女神となります。


さて、
今日は、志賀島の歴史講座を投稿できるかなと思っていましたが、
先方との確認がまだできていないので、明日ぐらいになると思います。

「高良玉垂宮神秘書」を安曇族の観点で構成しようと思っています。


で、「神秘書」には「物部を秘す」と書いてあります。
秘密だと言われると、ついつい、突っ込んでしまうよね (^_-)-☆

でも、志賀島ではあまり突っ込んではなりません。
このあたりが工夫のしどころです。

「脇巫女」でも水沼族と宗像族と物部氏が話題になっていますが、
高良山の麓でも近い時代の物部氏のようすが見えてきます。

宗像の高磯強石将軍とか、物部氏の武内宿禰とか、
具体的な名前が出てくると、急にリアルになるので面白いです。

「脇巫女」が中断していますが、
これがどうなるのか、私も知っていません。

忙しくなるのが分かっていたから、急いで投稿していたのですが、
予定外の講座が入ったので、こちらを優先しています。

でも、どれもがリンクし合っているので、お付き合いくださいね。




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by lunabura | 2015-12-20 21:05 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(0)

脇巫女 7宇佐の姫大神 


脇巫女 7
WAKIMIKO
宇佐の姫大神


星読の託宣はまた時代を変えた。

<「もののべ」によって星読みの民はこの地を追われ宇佐へ
          ・・・・姫大神となった三女神>


「星読みの民」すなわち鞍手族(國栖)は
「もののべ」の上に君臨していたはずだが、その「もののべ」から追われたという。
そして、宇佐に至り、姫大神となった。

宇佐の謎であるヒメ神とはやはり三女神だったのか。
星読はたぶん、ヒメ神が謎の神だ、ということなど知らなかっただろう。

私も、これまで注意して各地の祭神を確認していたが、
すべてが宗像三女神としていた。
ここに星読の託宣と各地の伝承は一致した。

しかし、私の中にはまだ受け入れられない部分が残っていた。
頭ではすごく納得しているのだが。


それにしても、鞍手でいったい何が起こったというのか。
「星読みの民」は何故追われたのか。
星読のリーディングを待つしかないが、私は別の件で驚かされた。

それは、占星術の件だ。

あの真鍋大覚が、宇佐神宮の託宣は占星術で占われたと書いているのだ。

宇佐に逃げ込んだ「星読みの民」の占星術が花開いたというのか。

真鍋によると、
宇佐と出雲はもともと同族で、のちに分かれたらしい。
その証が四拍手なのだろうが、
このときの出雲とは遠賀川流域と私は考えている。

「星読みの民」は湊を造成する技術もあったため、
物部の手が及ばぬ宇佐に受け入れられたのかもしれない。

何としても、真鍋の伝える渡来人たちの全容を知りたいのだが、理解が困難だ。
今日、関わる部分だけ、抜いてみることにした。

八幡は舟人で、太白暦(金星暦)だった。のちに八幡は宇佐と結託する。

後には河童と呼ばれる國栖(鞍手族)は「つき人」と呼ばれ、太陰暦(月暦)だった。
國栖は磯城(しき)という石積みを作った。

石上(いそのかみ)は磁針作成の達人で、やがて舟人の八幡と結束する。
石上は物部のことだ。

同じように星を観測する民であっても、
「暦を作る物部」と「占いをする八幡や國栖(鞍手族)」とでは
理解し合うのは難しかったのかもしれない。



2015年11月20日

                 (つづく)






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by lunabura | 2015-11-20 23:49 | 「脇巫女」 | Trackback | Comments(13)

ニギハヤヒと市杵島姫の関係


饒速日尊と市杵島姫の関係



先日、メールで
「饒速日尊と市杵島姫の関係を教えてください」
とお尋ねがありました。
これに関しては「鞍手町誌上巻」に書かれている内容しか知らないので
それを読んでくださるように答えました。

実は、そのメールの数時間前、書類整理をしていて、
お尋ねの系図を解読してメモ書きしたものを見つけたばかりだったので
ヒヤっとしました。



町誌に書かれた文は「香月文書」を解釈してまとめて書かれたものなので、
主語が分からないという難点があります。


取りあえず、町誌を解釈して、本物と出会った時の準備をしておきましょう。
以下、該当部分を書き写します。


香月文書と小狭田彦

さて小狭田彦(長田彦)伝説については香月文書に次のようにある。
小狭田彦は本名が常磐津彦命といい、饒速日尊の御子の天ノ照日ノ尊の十五世の末裔という。しかも天照日尊が宗像の中津宮の市杵島姫命との間にできた御子神の後というから、宗像神話とも関連がある。


まず
「小狭田彦は本名が常磐津彦命といい、饒速日尊の御子の天ノ照日ノ尊の十五世の末裔という。」
から次のような系図が書けます。

c0222861_23564273.png




次に
「しかも天照日尊が宗像の中津宮の市杵島姫命との間にできた御子神の後」
からは次のような図となります。

c0222861_23572174.png


これを合体するとこうなります。




c0222861_23575336.png


ニギハヤヒと市杵島姫の関係は上図のようになります。
でも、香月文書で確認しないと何とも言えません。
また、大穴貴との関係も確認しないといけませんね。

いかがでしょうか。
答えになりましたでしょうか。









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by lunabura | 2015-11-04 00:00 | メモ | Trackback | Comments(1)

(8)姫古曾神社・祭神は何故、市杵島姫なのか1

佐賀県東部(8)

姫古曾神社 

祭神は何故、市杵島姫なのか1
 

さて基肆国を終わりにする予定でしたが、くじらさんからのコメントで、当地の大まかなイメージがつかめたので、もうひと踏ん張りしてみようと思います。

それは姫古曾神社の祭神が何故、市杵島姫なのか、というテーマです。

まず、くじらさんのコメントは次のようなものでした。

「柚比弥生遺跡群は、紀元前後に最盛期を迎えた後、倭国大乱の時代に、急速にその規模を縮小している事が、遺跡の発掘調査からわかっています。(鳥栖市史 古代編より)

あたかも集団で何処かに移動したかのように。

磐井の乱平定後に、再び、活況を迎えますが、その後は徐々に、養父方面に中心を移している事が伺えるそうです。

養父には、筑紫肥君の館が置かれていたと比定されていることからも、この地域が古代から続く重要な拠点であったと、推測されます。」

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「最盛期を迎えたこのクニが、急速にその規模を縮小するのは、物部氏祖神 饒速日命の東遷に従ったからだと考えられます。西暦200年頃には、残留勢力が残るのみとなっていたと遺跡の規模の推移図は語っています。(鳥栖市史 古代編)

紀伊国造莵道彦の娘、影媛を祀る竈門神社(玉母宮)一帯から、小郡、三根にかけて、ひとつの同族が支配するクニが存在した可能性を考えています。」

るな
「なるほど。福岡県と佐賀県の地図で見ると、玉母宮から三根まで、水沼国と川を挟んで拮抗するクニが見えてきますね。神埼もまた物部がいたということなので、範囲はさらに広がるかもしれません。」

以上がやりとりの一部です。

現在「弥生が丘」となっている「柚比弥生遺跡群」の規模の変遷から、集団的な移動があったことが推定されています。また、それを含むクニ全体は小郡市の媛社(ひめこそ)神社も含んだエリアが想定されています。

地図を見ると、姫古曾神社(鳥栖市)と媛社神社(小郡市)の距離は2.8キロ。徒歩40分ほど。ほぼ東西に位置していて、意外に近いです。

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媛社神社(小郡市)から真北4キロの所に竈門神社があり、そこは山下影媛の墓所と伝えられています。この三社は宝満川の西にあり、その三角形の中にあの御勢大霊石神社や小郡官衙遺跡が含まれます。

小郡市の媛社神社には「磐船神社・棚機神社」の鳥居もあるので、物部氏の存在が伺えます。

県がまたがっているのでイメージが掴めなかったのですが、古代史を理解するには両県を含むような新たな地図が必要ですね。

山下影媛に関しては、男の子を出産すると乳母に物部夫人を迎えます。物部氏と絶対的な信頼関係があった証しです。この男の子こそ竹内宿禰です。

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竹内宿禰が軍隊を組織し、天皇軍も指揮できたのも、この辺りを調べていくとさらに具体的な姿が描き出せそうです。

こうしてみると、この地域には地方豪族(山下影媛の実家)と武雄心の一族と物部氏、さらに青銅工人集団などが協調関係にあったことが分かります。

このようなエリアに市杵島姫が媛社神として祀られているのが姫古曾神社なのです。



(つづく)







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by lunabura | 2015-04-09 19:45 | 佐賀東部の神社と古墳 | Trackback | Comments(6)
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